* 佐々木稔 説教全集 * |
ローマ書講解説教 - 佐々木稔 | Shalom Mission |
01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ 02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ 05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利 07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放 08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み | 08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利 09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画 09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教 10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い 12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活 12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係 13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に... 15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道 16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた.. |
「秘められた計画の啓示」
ローマ書16章17節―27節
はじめに
わたしたちは、クリスマスを目指して歩んでいますが、今日も、わたしたちは、聖書が教える、今、生きて豊かな祝福の御わざをしてくださる真の神を心から礼拝したいと思います。
さて、それで、わたしたちは、主の日の礼拝においては、紀元56年頃キリスト教の伝道者、使徒パウロが書いたローマの信徒への手紙を学んできましたが、今日はその最期の学びになります。
では、ローマの信徒への手紙の最後は、どのようなものなのでしょう。すると、ここには3点のことが語られています。第1点は、律法主義の異端を排除すること、第2点は、この手紙を書いているパウロと一緒にいた人々からの挨拶、そして、第3点は、旧約歴史を担うことのなかった異邦人に福音が宣べ伝えられたことの大きな驚くべき恵みに対する神への賛美と感謝が語られています。
そこで、わたしたちは、これら3つにことを学んで、ローマの信徒への手紙の学びのしめくくりをしたいと思います。そして、ローマの信徒の手紙が首尾一貫して教えていた、十字架のイエス・キリストを信仰するだけで、恵みによってすべての罪とがを赦されて救われ、義とされ、喜びの満ちあふれる真の人生に歩める素晴らしいよき知らせである福音を、何ものにもまさる大事な宝として、わたしたち一人一人がこれからも自分のものとして歩んでいきたいと思います。
1.パウロは、律法主義の異端が侵入しないようにきびしく命じました
早速、第1点に入ります。第1点は、パウロは律法主義の異端が侵入しないようにきびしく命じたという点です。すなわち、わたしたちは、前回、パウロがローマの教会を支えていた人々の名前を、次々と26人も挙げて、主にある愛をもって丁寧に挨拶したことを見ましたが、今日の個所は、雰囲気がガラッと変わり、律法主義の異端を持ち込む偽教師たちを警戒するようにとのパウロの激しくきびしい言い方を見るのです。
すなわち、パウロは、ローマの信徒への手紙をしめくくるところまで来たとき、ガラテヤ教会やコリント教会に、異端の律法主義を持ち込んで、教会を混乱させた偽教師たちのことが、頭をよぎったと思われます。そこで、パウロは、偽教師たちが、今度は、ローマの教会にもやって来て、異端の律法主義を持ち込み、ローマの教会の一致と平和を乱すことも十分あり得るとして、警戒することを呼びかけたのです。そこで、パウロの言葉はとても強く、激しく、きびしい言い方となりました。17節と18節がそうです。
それで、わたしたちがここを一読して、すぐに気づくことは、使徒パウロの言い方がとても激しく、きびしい言い方になっているのですが、それは、異端の律法主義を持ち込む1世紀の偽教師たちのことを言っているからです。
たとえば、17節の「あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまづきをもたらす人々を警戒しなさい」というのは、十字架につけられたキリストを自分の救い主と信仰して救われるというよき知らせである福音を拒否し、人は、神の律法をすべて完全に自力で守り行って救われるという律法主義を教えることにより、教会を分裂させて不和にし、信徒たちの信仰を破壊し、つまづかせ、二度と立ち上がれないようにしてしまう1世紀の偽教師たちのことを表しています。
「あなたがたの学んだ教えに反して」とありますが、「あなたがたの学んだ教え」とは、ローマの信徒たちが最初から学んできた教えで、十字架につけられたキリストを自分の救い主と信仰することによってのみ、神から義と認められ、恵みによって救われるという信仰義認の根本的に重要な教えのことです。
ローマの教会の信徒たちは、この信仰義認の教えを最初から学んで救われてきたのであり、また、パウロのこの手紙を通して、人は信仰義認によってのみ救われるということを順序立てて、しっかり力強く学んできたのです。
そして、キリスト教信仰の中心的教えである信仰義認の教えに反するのが、律法主義の教えになります。律法主義は、人は、神の律法をすべて自力で完全に行って、救われるという教えです。この教えで救われるのであれば、キリストの十字架による救いは不必要となり、キリストが十字架につけられたことが、まったくの無意味となりますので、パウロは、この手紙おいて、律法主義によっては、人は決して救われないことを、繰り返し力を込めて語ってきました。それは、わたしたちが見てきた通りです。
また、「不和」というのは、もともと、分裂という意味でとても強い言葉です。本来一つであるべきものが、争いによって引き裂かれてしまうことを表します。そして、「つまづき」とは、これも強い言葉で、もともとは、獲物を捕える罠を意味します。すなわち、鳥や獣を捕える網や、鳥や獣が陥る穴のことです。網にかかった鳥や獣は網から逃げられずに命を落とします。また、穴に落ちた鳥や獣も穴から逃げられずに命を落とします。
ですから、これが、信仰について用いられるときは、非常に深刻な意味で、「つまづき」というのは、つまづいて倒れて、立ちあがれないことを意味します。ですから、信仰がつまづくことは、信仰が破壊され、救いを失うことを表します。それゆえに、かつて、イエスさまも、マタイ福音書17章6節で、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまづかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」と深刻に警告していました。
また、「こういう人々は・・・自分の腹に仕えている」とありますが、これも、1世紀の律法主義を教える異端の偽教師たちを表しています。彼らは、無限のへりくだりにより、十字架でわたしたち人間の罪を身代りに背負って死に、罪から買い戻し、贖いをしてくださった主イエス・キリストを、何よりも大事にして仕えるのではなく、律法を自力で完全に守れると考えて、キリストではなく、律法を守れる自分自身を何よりも大事にするという根本的な誤りに陥っていました。
「自分の腹に仕えている」とありますが、この言い方も、また、悪い意味で、とても強い言い方で、他に尊ぶべき素晴らしいものがあるのもかかわらず、それを一切無視して、自分自身だけを尊ぶという誤りをしているときに使う言い方です。
すなわち、飲み食いを満たす腹は、本来、人間が仕えるべき対象には、まったくならないものです。しかし、しばしば、人間は、食欲を満たす腹が、他の何ものにもまさって大事なものと誤解してしまうのです。そこから、他に尊ぶべき素晴らしいものがあるにもかかわらず、それを一切無視し、自分自身だけを尊ぶ重大な誤りをしているときに、この言い方は使われるようになりました。
そして、それは、1世紀に律法主義による救いを主張した異端の偽教師たちが、まさに、そうだったのです。1世紀において、長かった旧約時代が終わり、約束の救い主メシアのイエスさまが、ついに歴史に本当に出現し、己をむなしくし、十字架につき罪からの救いの道を開いてくださったのに、その素晴らしい救い主のイエスさまをまったく無視し、自力で神の律法を完全に守れると考えた自分自身を、何よりも尊ぶという根本的な誤りに、異端の偽教師たちは陥っていました。したがって、「自分の腹に仕えている」という言い方は、仕える対象をまったく間違えていることを意味するところのとても激しくきびしい言い方なのです。
そして、さらに、「うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです」という言い方も、1世紀の律法主義を教える異端の偽教師たちを表しています。「うまい言葉」とは、流暢な言葉、あるいは、巧みな言葉という意味です。偽教師たちが、流暢な言葉で、巧みな言葉で、上手な話し方で、まだ信仰の教理をよく知らない素朴な信徒たちに律法主義を吹き込む様子を表します。
また、「へつらいの言葉」というのは、雄弁な言葉、耳によく響く選ばれた言葉という意味で、1世紀の律法主義を教える異端の偽教師たちが、律法主義が真理であるかのように、堂々と、しかも、聞いている人々の耳に、快く響いてくるように、言葉を選んで話す様子を表しています。
こうして、「うまい言葉」も「へつらいの言葉」も、律法主義を教える偽教師たちの外見上の流暢さと雄弁さを警戒させるために、パウロは激しく厳しい言い方をしているのです。
では、どうして、パウロは、手紙のしめくくりのところで、突如と思えるほど、激しくきびしい言い方で、律法主義を教える異端の偽教師たちへの強い警戒を訴えたのでしょう。すると、それは、ローマの教会が、小アジア、今日のトルコ半島にあったガラテヤ教会の二の舞にならないことを、心から願ったからと考えられます。
実は、ガラテヤの信徒への手紙を読みますと、律法主義による救いを主張した偽教師たちが入り込んだため、ガラテヤ教会に大混乱が生じたことが記されています。すなわち、ガラテヤ教会は、もともとは、十字架のキリストを信仰しただけで、恵みにより、恩寵により罪赦されるという救いのよき知らせである福音の上に立っていましたが、偽教師の律法主義の侵入によって、教会がほとんどひっくり返るほどの大混乱が生じました。
そこで、パウロは、ローマの教会が、ラテヤ教会の二の舞にならないように、前もって、律法主義の偽教師たちの侵入には、くれぐれも注意を怠らないように、はげしくきびしい言い方で語ったのです。
考えてみますと、ローマの教会がガラテヤ教会のように、律法主義の偽教師たちを受け入れ、大混乱すれば、パウロが計画していた地中海世界の西の果てのスペインまでの伝道は、全部、御破算になってしまいます。
確かに、ローマの教会も、もちろん、完全な教会ではなく、新約時代の飲食の自由がわからず、肉を食べず、野菜だけを食べることを主張していた信仰の弱い人々がいて、自由に肉を食べる信仰の強い人々と裁き合をしているという問題もありました。しかし、全体としては、ローマの教会は、とてもよい教会で、神に対するローマの教会の信徒たちの従順は、広く知られていました。
そこで、パウロは、神に従順に歩む教会として、ローマの教会を喜んでいましたが、そのローマの教会が信仰的善にはさとく、すなわち、信仰的善を行うことには賢くあり、信仰的悪には疎く、すなわち、信仰的悪から遠ざかるように望んでいました。
また、同時に、仮に律法主義の偽教師たちが、ローマの教会に侵入し、混乱に陥れようとしても、教会の大事な平和を守ってくださる神御自身が、「間もなく」、すなわち、すぐに、サタンの僕たちである偽教師たちを、打ち砕いて審判し、ローマの教会をよい教会として、さらに導いてくださることを、パウロは語って、ローマの教会を励ましたのです。19節と20節がそうです。
それで、わたしたちは、ここを見て、ひとつの疑問を持つのです。何故、ここで、急に、「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下でうち砕かれるでしょう」と、サタンのことが出て来るのかと思うのです。すると、それは、実は、律法主義を教える偽教師たちが、ローマの教会に侵入してくることが、サタンのしわざであるからです。
すなわち、十字架のイエスさまを自分の救い主と信仰するだけで、一人ひとりが、恵みにより、信仰義認され、すべての罪とがが赦され、それまで壊れていた神との関係が正しく確立し、心には深い平安と真の喜びが宿り、心と人生が安定し、日々、聖霊によって、命の水が豊かに注がれ、これまでに味わったことのない真の心の満足を覚え、そして、さらに、身に余る永遠の命までも与えられて救われるというあふれるばかりの祝福をすべて拒否し、神の律法を自力で守って自力で救われると教える律法主義の侵入は、サタンの仕業以外の何ものでもないのです。
そこで、神は、サタンの仕業である律法主義の侵入によって、ローマの教会が大混乱し、ローマの教会の大事な平和が乱れ、つまづく人々が出てきて、救いを失うことを、神は決してお許しにはならず、逆に、神は、ローマの教会を守るため、サタンの手先である律法主義の偽教師たちを粉々に打ち砕き、すなわち、審判し、ローマの教会に必ず勝利を与えるのです。
20節に、「神は・・・サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう」とありますが、この言い方は、ローマの教会の人々が、サタンを足で踏みつけ、勝利のポーズを取っているイメージで描かれています。もちろん、これは、神が与えてくださる勝利です。
「打ち砕く」という言葉は、「粉々に打ち砕く」という意味です。ですから、ローマの教会の人々が、足でサタンを踏みつぶしてしまうという意味で、大勝利、完全勝利をイメージさせる言葉です。
また、「神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう」とありまして、「間もなく」と言われていますが、この「間もなく」というのは、「すぐ」にとか「すみやかに」という意味です。サタンが、ローマの教会に侵入しようとしたとき、神は、すぐに、すみやかに、サタンを打ち砕く、すなわち、審判するので、ローマの教会にサタンは侵入できないことを表します。
神は、いつの時代でも、教会の平和が保たれ、福音が広がり、すべての人が救われて真理を悟ることを、1世紀の時代から望んでおられるのです。今日も同じです。
この手紙を読んだローマの教会のクリスチャンたちは、律法主義はサタンの仕業でであるとパウロによって語られることにより、律法主義がいかに危険な教えかがよくわかったのではないかと思います。
2.パウロと一緒にいた人々が、ローマの教会へ主にある挨拶をしました
第2点に入ります。第2点は、パウロは、自分と一緒にいた人々からの挨拶をローマの教会に取り次ぎました。すなわち、パウロは、まず、ローマの教会に、律法主義を教える異端の偽教師たちの侵入に十分警戒するように激しく、きびしい言い方をしましたが、では、そのパウロは、この重要な手紙をどこで書いたのか、また、そのとき、パウロのそばには、どのような信仰の仲間が共にいたのかと思うのです。
すると、パウロは、このときは、ギリシアの異邦人諸教会の献金をエルサレム教会へ届けるようとして、ギリシア南部のコリントに滞在し、数名の仲間およびコリント教会の信徒たちと共にいたのです。そして、パウロと共にいたそれらの人々も、ローマの教会に主にある挨拶をしたのです。21節から23節がそうです。
ここに、8人の名前が出ていますが、これらの人々は、パウロがこの重要な手紙を書いたときに、コリント教会でパウロと共にいたのです。そこで、わたしたちは、これら8名の人々を一言、二言で見ていきましょう。
まず第1にテモテです。テモテは、「わたしの協力者テモテ」と言われ、パウロのそばにいて、パウロを親身に助け、手伝ったパウロの愛弟子です。後に、パウロは、テモテに2つの手紙を書きました。それが、テモテへの手紙一と二です。そして、テモテは若いこともあって、性格的には弱いところもあったのですが、しかし、パウロとのまじわりを通し、訓練され、後には、錬達し、円熟し、今日のトルコ半島にあたる当時のアジア州の大教会のエフェソ教会の牧師として、牧会し、最後には、迫害の下で殉教の死を遂げたと言われています。
次いで、「同胞のルキオ」という人が出てきますが、このルキオという人は、使徒言行録13章1節に出てくるキレネ人ルキオと言われている伝道者あるいは預言者であったと考えられます。すなわち、北アフリカのキレネとう町の出身のユダヤ人でしたが、あるときに、キリスト教信仰に回心し、さらに、伝道者あるいは預言者に召された人で、パウロとは10年以上のまじわりにある仲間でした。
そして、「ヤソン」という人物は、使徒言行録17章5節以下に出てくるヤソンと同じ人物である考えられます。そして、ヤソンは、今日のトルコ半島にあたるアジア州のテサロニケの町に住んでいたユダヤ人でしたが、パウロの説教を聞いて回心し、喜んで、パウロを自分の家に迎え入れ、宿泊の世話をしました。そのため、キリストを信仰しないユダヤ人たちから襲われ、捕えられるという試練に遭いました。しかし、彼はその試練を乗り越え、パウロに伴われ、あるいは、自分からパウロを訪ね、パウロのコリント伝道を助けるよい働きをしました。
さて、それで、次に出てくる「ソシパトロ」とはどのような人でしょう。すると、使徒言行録20章4節に出てくる「ソシパトロ」と言われている人と同一人物と考えられます。そして、ソシパトロは、パウロが、ギリシアの異邦人諸教会からの愛の献金を、エルサレム教会に届ける大事な旅のお供として参加しました。ですから、ソシパトロは、異邦人諸教会の愛の献金が、間違いなくユダヤ人教会のエルサレム教会へ届けられ、受け入れられるのを見届ける大事な働きをしたのです。
では、第5番目に出てくるのは誰でしょう。すると、パウロの語ることを筆記したテルティオです。それで、ここから、この重要なローマの信徒への手紙は、口述筆記によって成立したことがわかります。すなわち、使徒パウロが語ることを、このテルティオがそばにいて、筆記し、記して、この重要な手紙が成立したことがわかります。当時は、手紙を書くときは、しばしば、このようにしたのです。口述筆記は、当時、ごく普通に行われていたことでした。
それで、テルティオという人が、どのような人かは詳しくはわかりませんが、このテルティオという名前は、ラテン語で、「第3の男」という意味です。したがって、ある家の3男として生まれたので、そのように名前がつけられたのかもしれません。あるいは、ある家で、3番目に買われた奴隷であったので、「第3の男」と呼ばれたのかもしれません。
いずれにしろ、このテルティオも、恵みによって罪から救われ、ローマの信徒への手紙という全教会にとって、非常に重要な手紙を書き記す、筆記する大事な働きをしました。テルティオは、文章を筆記するよい賜物を与えられていました。そして、その賜物が生かされ、用いられたのでした。神は、御自分の教会を建てるため、適材適所で、人の賜物を用いるお方で今日も同じです。
では、第6に出てくる人物はだれでしょう。すると、その人はガイオという人です。彼は、ギリシア南部の大商業都市のコリントの町の相当、裕福な人であって、広くて大きな家を持っていて、自分の家をパウロをはじめとする伝道者たちのための宿泊の場として提供していました。
また、さらに、ガイオは自分の家を解放し、コリント教会の礼拝の場として提供して、とてもよい働きをしていました。23節に、「わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオ」とありまして、「家の主人」というのは、パウロをはじめとする伝道者たちに宿泊のために、自分の家を提供しているという意味です。また、同時に、自分の家をコリント教会として提供している家の主人であることを表しています。
前にも、お話しましたが、1世紀の時代においては、信者全員が集まって礼拝をする教会堂という建物そのものがまだありません。礼拝のための会堂は、パウロの時代よりも約200年も後の3世紀に入ってから現われるのです。それまでは、信徒が、自分の家を提供し、解放し、そこに人々が集まって礼拝をしていました。そこで、しばしば、家の教会と言われたのです。
そして、このことは、ギリシア南部のコリント教会においても同じで、ガイオという人が、広かったであろう自分の家を提供し、解放し、そこに人々が集まり、パウロも、そこで説教するというかたちで成り立っていました。こうして、ガイオは、コリント教会を支えるとてもよい働きをしていました。
では、第7番目に出てくる人は誰でしょう。すると、コリントの町の収入役とも言うべき、身分の高い人で、エラストという人でした。この人も、また、コリント教会を支えるよい働きをしていた人です。
23節後半に、「市の経理係エラスト」とありますが、「市の経理係」というのは、今日で言えば、市の収入役、あるいは、市の財務部長というような感じと思われます。考えてみれば、ギリシア南部のコリント市は、1世紀の地中海世界の有数の大商業都市として繁栄していましたので、市の収入も莫大なものであったと思われますが、その市のお金、財政を扱う極めて重要な職務にありました。そのコリント市の収入役、あるいは、財務部長とも言うべきエラストは、社会的立場もあり、人々に知られ、コリント市の名士であったと思われますが、このエラストも、また、救われ、コリント教会を支えるとてもよい働をしていました。いろいろなクリスチャンが適材適所で用いられたことがわかります。
そして、最後に出てくるのが、「兄弟クアルト」という人ですが、このクアルトも、コリント教会を支えるよい働きをしていた人と思われますが、クアルトについては、これ以上のことは不明です。しかし、パウロによって、親しく「兄弟」と呼ばれているので、彼も主にある者として、喜んでよい働きをしていたのでしょう。
こうして、パウロと共にいた8人の人々からの挨拶が、ローマの教会に対してなされていますが、これらの人々は、コリントにいて、コリント教会のために、各々の信仰と賜物でコリント教会を支えていました。キリストの教会があるところ、そこには、キリストによって罪から救われたことを心から感謝し、キリストの教会を信仰と賜物で喜んで支える人々が起こされ、積極的な奉仕をしていたことがわかります。
そして、このことは、今日も同じです。わたしたちも、キリストによって罪から救われていることを心から感謝し、喜んで信仰と賜物で自分たちの大事な教会を支えていきたいと思います。
3.パウロは、異邦人に福音が宣べ伝えられることで、神を心から賛美しました
第3点に入ります。第3点は、パウロは、旧約歴史のない異邦人に、福音が宣べ伝えられるようになったことを大きな驚くべき神の恵みとして、神を心から賛美し、また、感謝したという点です。
実は、25節から27節は、1つの文章で大切な言葉が一杯詰まっているのです。たとえて言えば、いろいろな宝石がぎっしり詰まっていて、それぞれの宝石が光り輝いている宝石箱のような感じがするところで、まさに、ローマの信徒への手紙という重要な手紙をしめくくるにふさわしい気品と力強さがあふれる文章になっています。
そこで、宗教改革者のカルヴァンは、次のように言いました。「さて、この手紙は、神への賛美と感謝によって結尾をつけられている。すなわち、パウロは、神が福音によって異邦人を照らすことをよしとしたもうた、この卓越した恩恵に触れているのである」と述べています。
すなわち、神が、旧約歴史を担うことのなかった異邦人にキリストを信仰することだけで救われるという福音が、宣べ伝えられるようになったことが、どんなに大きな恵みであるかを、パウロは、ここで心から賛美し、感謝していると、カルヴァンは言うのです。
では、神への賛美と感謝はどのようになされているのでしょう。すると、2つの言い方でなされています。一つは、パウロが宣べ伝えた福音、すなわち、キリストを信仰するだけで救われる福音を、ローマの教会の異邦人たちに順序立てて、系統的に深く、力強く宣べ伝えることによって、ローマの教会の異邦人は、霊的に、十分強くされ、1世紀のどんな反対に出会っても、負けずに乗り越えていくことができるように、神によってされているので、パウロは、神の御子にして、約束の救い主のイエス・キリストを通し、父なる神に栄光があるようにと賛美し、感謝したのです。
25節がそうです。「わたしの福音」というのは、「パウロが宣べ伝える福音」のことであり、その福音の内容は、「イエス・キリストについての宣教」、すなわち、イエス・キリストを信じるだけで救われることを宣べ伝えることですが、ローマの教会の異邦人に、パウロが、福音を宣べ伝え、イエス・キリストを信じるだけで救われることを順序立てて、系統的に、深く、豊かに、力強く宣べ伝えることにより、1世紀のローマの教会の異邦人は、霊的に十分強くされ、どのような反対があっても、乗り越えていくことができるように、神がしてくださっているので、神に、栄光がいつまでもあるようにと、パウロは心から賛美し、感謝したのです。
では、神への賛美と感謝を表すもう一つの文章は、どれでしょう。すると、26節と27節がそうです。そして、この文章は、福音、すなわち、キリストを信仰するだけで救われる福音は、「世々」すなわち、創造のはじめからキリスと出現以前の時代においては、新約聖書ほど明白に教えられていなかったので、新約聖書に比べれば、隠され、覆いをかけられて見えないようにされ、秘密にされてきたと言えるという意味です。
25節に、「世々にわたって隠されてきた」というのは、旧約歴史を担うことがなかった異邦人がキリストによって救われるということは、創造のはじめからキリスと出現以前の時代においては、新約聖書ほど明白に教えられていなかったので、新約聖書に比べれば、隠され、覆いをかけられて見えないようにされ、秘密にされてきたと言えるという意味です。
しかし、約束の救い主メシアのイエス・キリストが、今や新約時代となり、実際に出現し、十字架の死と復活によって救いを開き、そのキリストによる救いのよき知らせである福音を信仰した異邦人が、キリスト信仰ゆえに、義とされ、恵みにより、恩寵により救われるという神の御計画が決定的に示され、啓示され、明らかにされたのです。「秘められた計画」とは、旧約歴史を担うことがなかった異邦人が、福音を聞き、キリスト信じて義とされ、恵みによって救われるという神の御計画を表します。また、「啓示するものです」とありますが、「啓示する」とは、神が人間に向かって救いの真理を明らかに示すことを意味します。
そして、キリストを信仰するだけで異邦人が救われるという神の御計画は、キリストが実際に出現し、十字架の死と復活によって救いを開くことによって、実現成就されましたが、その救いの御計画は、最初はなかったけれでも、あるときに、途中で神が思いついて、歴史の途中で建てた御計画ではなかったのです。
その御計画は、永遠から永遠に生きておられる偉大さ測り知れない神御自身の命令により、すでに、旧約時代の預言者たちの書き物である旧約聖書を通して、予告されていたことであり、そして、その御計画には、れっきとした目的があり、その目的は、「すべての異邦人」、すなわち、世界の異邦人を、信仰によって、神に従順に従わせることを目的として立てられた壮大な御計画であったのであり、今や、新約時代においては、その御計画と目的は、クリスチャンとなったすべての異邦人に知られるところとなっているのです。
26節に、「預言者たちの書き物を通し」とありますが、わたしたちは、ここを見て、では、キリストによる救いのよき知らせある福音を信仰しただけで救われることは、旧約聖書のどこに書いてあるかと思うのですが、パウロは、すでにこのローマの信徒への手紙の最初の第1章において言及していました。
ローマの信徒への手紙の1章17節において、「正しい者は、信仰によって救われる」と旧約聖書のハバクク書の2章4節を引用しました。「信仰によって救われる」というところは、キリストを信じただけで救われるという意味が含まれていましたとパウロは語っているのです。
あるいは、ローマの信徒への手紙には引用されていませんが、わたしたちが、よく知っている民数記21章の青銅の蛇の出来事などは、典型的に、人はキリストを見上げて、すなわち、信じて救われることを明らかに教え、予告していました。イエスさま御自身も新約聖書のヨハネ福音書3章で、青銅の蛇を見上げて救われることは、十字架につけられる御自身を信じて救われることとであると明言しました。
それで、考えてみますと、人間は、何とかして、自力で救われることを考え出すものです。実際、1世紀のユダヤ人の大部分は、神から与えられた律法を全部完全に守り行って自力で救われること頑なに主張して譲りませんでした。そのために、尊い救いを失ってしまいました。
では、人の救いはどこにあるのでしょう。すると、1世紀に、エルサレム郊外のゴルゴタという死刑場において、右と左には強盗をして、十字架につけられた極悪人と共に十字架につけられ、苦しみ、死んでくださったそのイエス・キリストを自分の救い主と信じるころにのみあるのです。
1世紀当時、十字架につけられて死ぬとうことは、最も屈辱的な死刑の方法で、極悪人だけに課されるもので、余りにも不名言なことでしたので、ローマの市民権を有する者には免除されたほど恥ずかしく、苦しい死刑の方法で、人類が考え出した最も残酷な死刑の方法と言われてきました。また、ユダヤ人にとっては、十字架につけられて死ぬとうことは、神に呪われた死を表しました。しかし、その十字架につけられて死んだお方こそ人類のただ一人の真の救い主だったのです。
一体、だれが、このような方法で、わたしたちを罪から救うことを思いついたでしょう。誰もいません。これこそ、無限の知恵に満ちたただ一人の父なる神のみが、お立てになった救いの御計画であったのです。そこで、パウロは、無限の知恵に満ちたただ一人の父なる神に、神の御子にして、救い主メシアのイエス・キストを通して、栄光が、「世々」、すなわち、永遠にあるように、心から賛美し、感謝してこの手紙を終わるのです。
27節に、「知恵ある唯一の神」と言われておりますが、旧約歴史を担うことがなかったゆえに霊的暗黒に長い間虚しく座していた異邦人の救いのため、人間の思いをはるかに超える測り知れない知恵をにより、救いの御計画を建てていてくださったただひとりの神の栄光を力の限りを尽くし、使徒パウロは賛美しほめたたえ、この手紙を終わるのです。
結び
以上のようにして、わたしたちは、ローマの信徒への手紙を1章1節から、今日の終わりまで41回で学んできました。キリスト教信仰が、わからなくなったり、ぼやけたりしたときには、ローマの信徒への手紙を学びなさいと教会は言ってきましたが、わたしたちも、難しく思ったところも多々ありますが、でも、ローマの信徒への手紙を学ぶことによって、わたしたち一人ひとりの信仰に、教理的骨格が入りましたので、これからさき、どんなことがあっても、わたしちは、ますます、確実な希望をもって、それらを乗り越えて歩んでいくことができます。
人類の宝とも言うべき十字架のキリストによる罪からの救いを無償で与えてくださった恵み深い神に、知恵あるただ一人の真の神に、栄光が世々限りなくあるように、わたしたちも力の限り、賛美し、感謝したいと思います。
お祈り
憐れみ深い天の父なる神さま、
来週のクリスマスを前にして、今日も、わたしたちは主の日の公同礼拝を守れる幸いを感謝いたします。
今、わたしたちは、ローマの信徒への手紙の最後の部分から異邦人に対するあなたの大きな驚くべき愛を教えられました。わたしたちは、旧約歴史のない異邦人ゆえに、真の神であるあなたを知らずして、罪の中を長い間虚しく歩んでいました。しかし、福音の光によって、わたしたちを明るく照らし、キリスト信仰による尊い救いへと導いてくださり心から感謝いたします。
どうか、わたしたちは、救われた喜びをもってこれからもあなたに、生涯変りなく忠実に仕えていくことができますように、聖霊によって力づけてください。ローマの信徒への手紙の41回の学びを感謝いたします。
本日、種々の都合や事情で、出席できなかった兄弟姉妹にそれぞれのところで顧みがありますようにお祈りいたします。
今日から始まるわたしたちの新しい1週間をどこにあっても祝福してください。
これらの祈りを、主イエス・キリストの御名により前にお献げいたします。アーメン。
http://minoru.la.coocan.jp/ro-mahimeraretakeizinokeikaku.html