* 佐々木稔 説教全集 * |
ローマ書講解説教 - 佐々木稔 | Shalom Mission |
01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ 02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ 05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利 07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放 08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み | 08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利 09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画 09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教 10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い 11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い 12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活 12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係 13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に... 15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道 16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた.. |
「ローマの教会を支えた人々」
ローマ書16章1節―16節
はじめに
わたしたちは、クリスマスを目指して歩んでいますが、今日も、わたしたちは、聖書が教える、今、生きて豊かな祝福の御わざをしてくださる、真の神を心から礼拝したいと思います。
さて、それで、わたしたちは、主の日の礼拝においては、紀元56年頃、キリスト教の伝道者、使徒パウロが書いたローマの信徒への手紙を学んできましたが、今日の学びと次回の学びで終わるところまで来ました。
では、今日のところはどんなところでしょう。すると、この手紙が終わるにあたって、パウロがローマの教会に挨拶をしているところです。この挨拶には、26人の個人が出てきます。パウロは、確かに、ローマの教会には、まだ一度も行ったことがなかったのです。しかし、パウロの知り合いが、すでにローマの教会にいました。そこで、パウロは、それらのまじわりにある人々に挨拶をしているのですが、この挨拶から、どのような人々によって、1世紀のローマの教会が支えられていたのかが、実によくわかるのです。
それで、わたしたちも、このところを学んで、今日のわたしたちも主にあるまじわりをしながら、今の時代の大事な教会を、みんなで、っかり支えて、豊かな祝福を神から受けたいと思います。
1.この手紙をローマの教会に届けたのは、フィベという女性でした
さて、それで、まず、わたしたちは、この手紙をローマの教会に届けるフェベという女性を、ローマの教会が暖かく丁重に受け入れるようにとのパウロの依頼から見ていきましょう。
すなわち、この手紙は、パウロがギリシアの南部のコリントの町で書いたものです。しかし、パウロが自分自身で、ローマに届けることはできませんでした。何故なら、前回、お話しましたように、パウロは、ギリシアの異邦人諸教会からの愛の献金を貧しいエルサレム教会に届けなければならなかったからです。
では、この手紙は、一体、誰が届けたのでしょう。すると、フェベという女性でした。フェベは、コリントの町から南に15キロほど離れた海沿いの港町にあったケンクレアイ教会で、よい奉仕をしていた女性でした。
このフェベが、何歳くらいであったのか、夫がいたのか、あるいは、未亡人であったのかなどは不明ですが、社会的にも立場があり、かつ、裕福であり、時間的にも余裕があり、そのため、フェベは教会の中の病いの人々を訪ねたり、試練にある人々を慰めたり、貧しい人々には必要なものを与えるなどして、とてもよい奉仕をしていたようです。
そこで、パウロは、自分の手紙を携えてローマに行ったときには、ローマの教会が、フェベを「聖なる者にふさわしく」、すなわち、神に聖別された聖徒としてふさわしい礼儀を弁えた丁寧な仕方で、フェベを受け入れるよう依頼しました。1節と2節がそうです。
1節に、「ケンクレアイの教会」とありますが、「ケンクレアイ」は、ギリシア南部のコリントの町から南に15キロほど下ったところにある港町です。使徒言行録をはじめ、聖書のどこにもケンクレアイの町でのパウロの伝道については、特に記されていません。でも、パウロは、あるときにこのケンクレアイで伝道したようです。そして、教会が成立し、フェベは、このケンクレアイ教会でとてもよい奉仕をしていました。
1節に、「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します」とありますが、「奉仕者」という言葉は、「執事」とも訳せる言葉が使われています。以前の口語訳聖書は、「執事」と訳しており、また、新改訳聖書も「執事」と訳しています。ですから、「奉仕者」とも訳せますし、また「執事」とも訳せます。
どちらに訳しても、フェベがキリストの教会においてよい奉仕をしていたことは変わりありませんで、フェベは、今日の執事職にあたるよい奉仕をしていたと考えられます。そして、このフェベが何歳ぐらいであったのか、夫はいたのか、あるいは、未亡人であったのかなどは不明ですが、ひょっとしたら、このフェベは、ケンクレアイが港町であったことから、港に関する仕事をしていたかもしれません。いずれにしても、フェベは社会的立場があり、かつ、裕福であり、時間的にも余裕があり、そのため病める人々を訪ねたり、貧しい人々には経済的に援助して助け、さらに、パウロの伝道をよく理解して、パウロを経済的に援助した人でした。2節に、「彼女は多くの人の援助者、特にわたしの援助者です」とパウロは語って、感謝の思いを公に表明し、フェベを信頼していることがとてもよく伝わってきます。使徒パウロから感謝され、信頼されている女性信徒でした。女性信徒が初代教会の時代からよい奉仕をしていたことがわかります。
そこで、このフェベが用事で、ローマに行くということを知ったとき、パウロは、この手紙をフェベに安心して託すとともに、ローマの教会、フェベに失礼な扱いをしないように、神に聖別された聖徒としてふさわしい礼儀を弁えた丁寧な仕方で、フェベを受け入れ、歓迎し、もし、フェベ、何かの助けを必要とするときには、何でも聞いてあげてくださいと、パウロはローマの教会にお願いしたのです。
考えてみますと、当時の1世紀のローマ帝国が支配する社会は、家父長制の男性中心の社会でした。しかし、キリストの教会においては、女性の信仰と奉仕が、生かされ、用いられ、尊ばれていたことが、とてもよくわかります。女性の信仰と賜物が、生かされ、用いられ、尊ばれることは、キリスト教会の最初からの素晴らしい特色だったのです。そして、このことは、今日も同じです。今日も、女性の信仰と賜物が教会を大きく支えているでしょう。
2.命をかけて、パウロを守ったプリスカとアキラという夫婦がいました
さて、以上のようにして、このローマの信徒への手紙は、フェベによって届けられたことがわかりました。それで、わたしたちは、今度は、そのローマの教会にいたところのパウロとのまじわりにあった友人・知人へのパウロの挨拶を見てみましょう。
すると、パウロは、まず第1に、以前に、パウロの命を守るために、自分たちの命をも危険にさらしたことがあるプリスカとアキラという一組の夫婦に、感謝を込めて挨拶を送っています。3節から5節前半がそうです。
3節に、「プリスカとアキラによろしく」とあり、「よろしく」という言葉が、今日の個所に、15回出てきます。もともとの意味は、挨拶をしますとか、挨拶を送りますという意味ですが、日本語の言い方としては、こういう場合は、よろしくと言いますので、「よろしく」になりました。
そして、「プリスカとアキラ」というのは、一組の夫婦です。「プリスカ」は、妻の名前で、「アキラ」は夫の名前です。また、夫アキラはユダヤ人であることがわかっていますが、妻のプリスカがユダヤ人であったかどうかは不明ですが、「プリスカとアキラ」という言い方は、妻の名前が先に出てくる言い方です。当時は、家父長制の社会で、通常は夫の名前が先に出てくるのですが、妻の名前が先に出てくることは、妻のプリスカの信仰と賜物が、より豊かで、より目立っていたからかもしれません。
それで、この夫婦は、もともと、天幕作り、今日のテントを作って売る仕事をしていました。ヤギの毛から織られた布地を使いました。そして、もともとは、ローマに住んでいましたが、政治的な状況や種々の都合・事情により、各地に引っ越しをしました。ローマから、ギリシアのコリントへ、コリントから今日のトルコ半島にあたる小アジアのエフェソへ、エフェソから、再びローマに戻ってきまして、パウロが、この手紙を書いたときには、ローマの教会にいました。
そして、この「プリスカとアキラ」は、あるときに、キリスト教信仰に回心しますが、その後、引っ越をした先々で、夫婦で熱心に伝道したことで、1世紀においてよく知られていて、コリントの町にいたときには、パウロを自分の家に住まわせて、一緒に天幕作りをしながら、パウロの伝道に熱心に協力しました。
そして、いつ、どこでであったかは、不明ですが、この夫婦は自分たちの命をかけて、パウロを守りました。4節を見ますと、何と、「命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たち」と、パウロは言っています。この出来事が、いつ、どこであったのかは、聖書に記されていないので不明ですが、この出来事は、1世紀の異邦人諸教会には広く知れ渡っていて、異邦人諸教会は、よくぞ、パウロ先生の命を守ってくださったと皆が感謝していたと思われます。
4節の「命がけでわたしの命を守ってくれた」のギリシア語の言い方は、生々しい言い方で、「自分自身の首を危険にさらして、わたしの命を守ってくれた」という言い方です。ですから、場合によっては、パウロを守るために、プリスカとアキラの首が飛ぶかもしれなかったことを意味しています。
そして、さらに、プリスカとアキラは、ローマに戻ったときには、自分の家を教会として用いて、熱心に伝道していたのです。5節を見ますと、「彼らの家に集まる教会の人々によろしく」とあり、プリスカとアキラは自分の家を教会として用いて、熱心に伝道していたことがわかります。
考えてみますと、今日、教会と言えば、会堂という一つの建物に、皆が集まって礼拝をすることをイメージしますが、パウロの時代はそうではありません。礼拝のための会堂というのはまだありません。そこで、信者の家に集まって礼拝をしたのです。そのため、しばしば、家の教会と呼ばれたのです。会堂という一つの建物に集まって、礼拝するようになったのは、パウロの時代よりも、約200年後で、3世紀になってからです。
そこで、このことは、ローマの教会も同じでした。ローマの教会と言っても、ひとつの大きな会堂があって、そこに、全員が集まって礼拝をしたのではありません。ローマの町には、家の教会が幾つもあり、そのひとつの家の教会が、プリスカとアキラの家の教会であったのです。そのように、ローマの都には、家の教会が幾つもあり、それらが全体として、一つのローマの教会と言われたのです。
こうして、見てきますと、神は、パウロは孤立させて、ひとりぽっちで伝道させたのではなく、パウロの伝道をそばで支え、熱心に協力する人々を起こしてくださっていたのです。伝道は、皆で力を合わせて行うものであることがよくわかります。今日も同じです。わたしたちも皆で力を合わせ、一つとなって伝道していきたいと思います。
3.パウロのアジア州伝道の最初の回心者がいました
さて、では、次に、パウロがあいさつをしている人はどんな人でしょう。すると、パウロにとって忘れられない人でした。その人は、パウロが、以前、今日のトルコ半島にあたるアジア州の伝道をしたときの記念すべき最初の回心者で、エパイネトという人でした。
彼は、パウロがこの手紙を書いたときには、アジア州、すなわち、トルコ半島を離れて、ローマの教会の一員となっていましたが、しかし、彼は、パウロのアジア州の伝道により、最初に救われた初穂として、自覚をもって、ローマの教会で、信仰生活に励み、よい証しをしていたのです。そこで、パウロも喜んで、挨拶をしました。
5節後半がそうです。「わたしの愛するエパイネトによろしく伝えてください。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です」とあります。「アジア州」とは、小アジアとも言われましたが、今日のトルコ半島にあたる地域です。また、「キリストに献げられた初穂です」とは、もちろん、パウロの伝道の実としてキリストに最初に献げられた回心者という意味です。
エパイネトも、自分はパウロ先生のアジア州の最初の初穂、最初の回心者ですとローマの教会の人々に、常々証しをして、よい信仰生活をして、他の信者たちのよいお手本になっていたと思われます。これは、伝道者にとって、大きな喜びであったでしょう。自分が最初に信仰に導いた人が、20年後も、信仰生活にしっかり励み、よい信仰の証しをして、他の信者たちのお手本になっていることを聞くことほど、伝道者冥利に尽きることはないでしょう。
4.ローマの教会の最初のメンバーとして大変な努力をした女性信徒がいました
では、パウロが、第3にあいさつをしている人は誰でしょう。すると、ユダヤ人のマリアという女性信者でした。彼女はユダヤ人女性でしたが、しかし、ローマの教会の最初からのメンバーとして、多くの苦労をして、ローマの教会を設立するにあって、大変な努力をしてきた人と考えられます。6節がそうです。
6節に、「あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく」とありますが、「あなたがたのために」とは、言い換えれば、ローマの教会のためにという意味です。また、「マリア」という名前は、ユダヤ人女性によくつけられた名前で、福音書にも数人出てきますが、福音書に出てくるマリアではありません。
そして、「非常に苦労した」とありますが、「苦労する」とは、「苦労する」の他にも、「激しく働く」とか「骨を折る」とか「努力する」とか、さらには、「奮闘する」という意味さえもあります。そして、「非常に苦労した」と、「非常に」と言われていますので、ちょっとやそっとの苦労ではなかったはずです。文字通し大変な苦労をしたことを意味する言葉です。
そこで、ある注解者は次のように言っています。「あなたがたのために非常に苦労した」は、マリアが、ローマの教会の最も最初のメンバーの一人であって、この教会の設立は大いに彼女の力によるものであったことを暗示している」と解説しています。ここでも、また、1世紀の教会における女性の信仰と賜物が、大きく生かされ用いられたことが、わたしたちの心によく伝わってきます。
5.パウロよりも先輩のユダヤ人伝道者たちがいました
さて、では、パウロが、第4に挨拶をしている人は誰でしょう。すると、パウロよりも先輩のユダヤ人伝道者たちで、あるときには、パウロと共に迫害されて、捕えられ、同じ牢屋に入れられて、苦しみを共にしたことのあるアンドロニコスとユニアスです。7節がそうです。
7節に、「この二人は使徒たちの中で目立っており」とあり、「使徒」と言われていますが、この場合の「使徒」は、広い意味で、キリストから遣わされた伝道者という意味です。狭い意味では、ペトロやヨハネなどの12使徒、および、パウロが、異邦人の使徒であることに限定して使われますが、広い意味では、キリストから遣わされた伝道者を広く一般的に表します。
それで、アンドロニコスとユニアスは、「わたしよりも前にキリストを信じる者となりました」と言われております。すなわち、パウロが紀元30年頃、ダマスコ途上で、復活のキリストと出会って回心する前から、もうすでに、キリストを信じていたということで、パウロよりも信仰年限が長いのです。それゆえ、パウロよりも先輩の伝道者となりますが、あるときには、彼らは、パウロと共に捕らわれ、同じ牢屋に入れられるという苦しみを共にしたことがあり、そのときは、お互いに励まし合ったのです。
そして、彼らはパウロよりも先輩の伝道者で、パウロがこの手紙を書いたときも、健在で老年になっていたと思われますが、なおも、ローマの教会において、広い意味の使徒、すなわち、伝道者として、とてもよい働きをしていて、伝道者の中でも、よい意味で目立っていたことを、パウロは喜び挨拶をしました。今日の言葉で言えば、引退教師と言えるのかもしれません。
それで、このアンドロニコスとユニアスは、7節で、「わたしの同胞」と言われていますので、パウロと同じユダヤ人でした。ですから、ローマの教会はローマ帝国の首都にありましたが、しかし、ローマ人だけの教会ではなく、ユダヤ人もいたことがわかります。教会は、最初からキリストにあって、民族が違っても、キリストの一つの教会として歩んでいたことが伝わってきます。教会はその存在の最初から民族による差別をしなかったのです。
6.ローマ皇帝カイザルの宮殿で働いていたかもしれない人もいました
さて、では、パウロが次に挨拶をしている人は誰でしょう。すると、アンブリアトという人です。8節がそうです。アンブリアトという名前は、一説によれば、ローマ人の名前としてよくあり、特にローマ皇帝カイザルの宮殿で働く人々の間で、よく見られた名前であり、また、クリスチャンの初期のお墓にも刻まれている名前と言われています。おそらく、アンブリアトは、ローマの教会の早くからの信者で、信仰のよい証しをしていた人の一人であったのでしょう。
7.パウロをはじめとする伝道者たちを助ける協力者たちがいました
では、次に出てくるのは誰でしょう。すると、9節のウルバノとスタキスです。ウルバノという名前もローマ人によくつけられた名前ですので、ローマ人であったと考えられます。他方、スキタスは、ギリシア人の名前ですので、ギリシア人であったのでしょう。特にウルバノには、「わたしたちの協力者」と言われていますので、パウロたちの伝道者を助ける働きをしていたと考えられます。
8.その信仰が本物として、称賛されたクリスチャンもいました
そして、10節を見ますと、パウロは、「アベレ」という人に挨拶をしていますが、パウロは、このアベレを「真のキリスト者」と呼んでいます。では、「真のキリスト者」とは、どのような意味でしょう。すると、「真の」という言葉は、とても意味深い言葉で、もともと、「試験をして品質が保証されている」という意味の言葉がわざわざ使われています。したがって、それをあてはめますと、「試験を経て信仰が保証されたクリスチャン」となり、人生のいろいろな試練という試験をすべて耐え切って、その信仰が本物として保証されたクリスチャンという意味になり、これは大変なほめ言葉です。使徒パウロから「真のキリスト者」と、よい意味で、その信仰が賞讃されることは、とても素晴らしいことです。
今日でも、わたしたちは、あの人は人生においていろいろな試練、困難、つらいことがたくさんあったが、でも、それらをすべてを信仰によって乗り越えてきた人で、あの人の信仰は本物ねと言われたら、よい意味で、本当にうれしいでしょう。今日のわたしたち一人一人も、そうありたいと思います。
9.ヘロデ王家の人もいました
さて、では、パウロが、次に挨拶をしている人はだれでしょう。すると、2つの家族や一族の中で、クリスチャンになった人々に挨拶をしています。10節後半では、「アリストブロ家」と11節には、「ナルキソ家」という2つの家が出てきますが、これらは、2つの家族、あるいは、2つの一族を意味します。そして、「アリストブロ家」と「ナルキソ家」というのは、ローマにおいては社会的立場もあり、また、裕福で名の知れた家柄、家族、一族であったと考えられます。その家族、一族の中にも、福音が浸透して、主イエス・キリストを信じて救われ、信仰に歩んでいた人々がいたのです。キリスト教信仰は、ローマ社会の上層階級の人々をも、救いの喜びの中に生かしていたことが伝わってきます。こういうことを聞くと、わたしたちは、喜びが心に満ちあふれますね。
それで、ここで、わたしたちが注目したいのは、11節前半の「わたしの同胞のヘロディオンによろしく」の「ヘロディオン」という人物です。このヘロディオンは、「わたしの同族」と言われていますので、パウロと同じくユダヤ人であったことがわかります。そして、さらに、ヘロディオンという名前は、ユダヤの領主のヘロデ王家とのつながりを表していますので、ヘロデ王家の血筋を引く人か、あるいは、ヘロデ王家で働いていた人であったと考えられます。ヘロデ王家のヘロデ大王は、かつて、ユダヤの領主をしており、幼児のイエスさまを殺そうとして、軍隊を繰り出し、ベルレヘムとその近郊の2歳以下の幼児を全員虐殺したことを、マタイ福音書で読みますが、そのヘロデ大王の血筋を引く人か、あるいは、そのヘロデ家で働いていた人と考えられます。
そして、そのヘロデ大王の血を引く人か、あるいは、ヘロデ王家のために働いていた人が、今度は、十字架につけられたイエスさまを自分の救い主と心から信仰し、イエスさまによる救いを喜びながら、真の人生を歩んでいたことになります。神は、わたしたち人間の思いをはるかに超えて、憐み深いことをして、御自分の御名が崇められることしてくださるお方で、わたしたちは心から感謝できるのです。
10.実の姉妹か双子の姉妹のトリファィナとトリフォサ
さらに、パウロが、挨拶を送っている人々を見ていきましょう。すると、ローマの教会を支えるために、労苦を惜しまなかった1組の実の姉妹、あるいは、双子の姉妹がいました。12節に出てくる「トリファィナ」と「トリフォサ」がそうです。
「トリファィナ」とは、ギリシア語で、「可憐な」という意味で、可愛らしさを表します。「トリフォサ」とは、ギリシア語で、「優雅な」という意味で、おしとやかさを表します。この2人は、両方の名前に「トリ」とついているところから、実の姉妹、あるいは、双子の姉妹と考えられてきました。どのくらいの年齢かは不明ですが、多分、裕福な家庭に生まれたので、「可憐な」、また、「優雅な」という名前がつけられたと思われます。しかし、彼女たちも、福音を聞いて、キリストを信仰し、罪赦され、救われて、ローマの教会を支えるため、苦労を惜しみませんでした。
さて、それで、さらに、注目したいのが、12節後半に出てくる「ぺルシス」です。「ペルシス」とは、ギリシア語で、ペルシャの女という意味です。しかし、人の名前として、ペンルシャの女とは変った名前と思いますが、実は、この女性は、ペルシャから連れて来られた奴隷の女性であったと考えられます。それゆえ、もともとは、もちろん、本来の名前があったはずです。しかし、「ペルシャから来た女」と皆から言われていたので、いつしか、その名で呼ばれるようになり、自分でも、その名で呼ばれることを受け入れていたと思われます。
そのように、彼女はペルシャから、奴隷として、ローマに連れて来られて、名前も本来の名前で呼ばれないほど、人間的には辛い思いをたくさんしてきたはずです。しかし、恵みによって救われて、1世紀のローマの教会の早いときから、教会員として、多くの苦労をしながら、ローマの教会を支えてきたと考えられます。そこで、パウロは、単純に「主のために苦労した愛するペルシス」と言わないで、「主のために非常に苦労した愛するペルシス」と「非常に苦労した」という言葉を、しっかり入れて、彼女のよい働きを、十分評価しました。こうして、人間的には、つらい境遇にあったこの人もを、神はキリストにあって救い、神に造られた真の人間としての人生に歩ませてくださったのです。憐み深い神は感謝すべきかな!
11.イエスさまの十字架を担がせられたキレネ人シモンとその家族の救い
13節を見ますと、「主に結ばれている選ばれたルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです」とあり、「ルフォスとその母」が出てきますが、実は、このルフィスは、かつて、イエスさまの十字架を無理やりかつがされた北アフリカのクレネという町の出身のシモンの息子であり、「その母」は、そのキレネ人シモンの妻を表しています。
わたしたちは、イエスさまが十字架につけられるとき、余りにも疲れていて、自分で十字架をかつぐことができませんでしたので、代わりに北アフリカのキレネという町の出身のシモンという人に、無理やりにイエスさまの十字架を担がせたことを、福音書において知っています。
そして、そのことがきっかけとなって、クレネ人シモンは救われ、さらに、シモンの2人の息子のルフォスとアレクサンドロスも救われました。そこで、マルコ福音書は、15章21節で、「アレキサンデルとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理にかつがせた」と、「アレキサンデルとルフォス」とその名前をわざわざ記したのですが、さらに、ローマ16章13節を見ると、「主に結ばれている選ばれたルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです」と記されていて、シモンの息子のルフォスと共に、ルフォスの母親も出てくるのです。
このことから、ルフォスの母、すなわちキレネ人シモンの妻も救われて、ローマの教会の会員となっていたことがわかります。しかも、「彼女はわたしにとっても母なのです」とあることから、ルフォスの母、すなわち、キレネ人シモンの妻は、あるとき、親身に使徒パウロのお世話をしたので、パウロから、「彼女はわたしにとっても母なのです」と言われて感謝されるほど、パウロとの深くて親しいまじわりがあったことが伝わってきます。
こうして、20数年前に、北アフリカのキレネという町の出身のシモンが、無理やりイエスさまの十字架を担がせられたことは、シモン自身の救い、そして、シモンの2人の息子のアレクサンドロとルフォスの救い、さらに、シモンの妻の救いという大きな恵みの花を次々と連鎖的に咲かせたのです。神のなさることは、人間の思いをはるかに超えて、何と素晴らしいことでしょう。
12.2つの家の教会の人々
いろいろな人が出てきましたが、最後に、14節と15節に出てくる家の教会について見ておきましょう。14節に、「アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく」とありますが、14節は、これでひとまとまりで、ローマのある地区にあったひとつの家の教会の人々を表しています。
また、15節には、「フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖なる者たち一同によろしく」とありますが、これも、また、ローマのある地区にあったひとつの家の教会の人々を表しています。ローマには、家の教会があちらこちらにあって、それら全体をまとめてローマにある教会と言われたのです。ですから、パウロのこの手紙も、家の教会から家の教会に順々に回送されて、礼拝で朗読され、その意味が説教で解き明かされたのです。
そして、パウロは、いろいろな立場で、ローマの教会を支えている信徒同士が、きよい思いをもって、愛のしるしである口づけをし合って、お互いに挨拶し、まじわりを深めていくように命じました。また、地中海世界の各地にあるキリストのすべての教会が、ローマの教会とのまじわりにあることを教えるために、「キリストのすべての教会からよろしくと言っています」と語りました。ローマの教会は、一つだけで存在しているのではなく、キリストのすべての教会とのまじわりにあるのです。本来、一つだけで存在している教会というのは本来ないのです。教会はすべてキリストの教会として結びついているのです。
結び
こうして、わたしたちは、26人の個人名が出てくるこの手紙の最後の部分の挨拶を見るのですが、各人各様です。ユダヤ人もいれば、ローマ人もいます。ペルシャ人もいます。また、男性もいれば、女性もたくさんいるのです。自由人もいれば、奴隷、あるは、元奴隷の人もいます。普通の仕方で、救いに導かれた人もいれば、劇的なドラマチックな仕方で、救いに導かれた人もいます。裕福な人もいれば、そうでない人もいます。
しかし、彼らは皆、主イエス・キリストにあって、一つのまじわりをしながら、ローマの教会を、しっかり支えていたのです。彼らは、世界で最初のクリスチャンとして、信仰ゆえにいろいろな苦労、困難、つらいこと、圧迫、迫害があったはずです。しかし、彼らは、神の恩寵によって、罪のこの世から召し出された者として、罪のこの世に負けず、逆に、罪のこの世に勝利して、キリストの教会を歴史に中で力強く建てていったのです。
それゆえ、今日のわたしたちも各人各様です。でも、わたしたちも、主イエス・キリストにあって、一つのまじわりをしながら、今の時代の日本によい教会を建て、神から豊かな祝福を受けたいと思います。わたしたち一人一人に与えられている信仰と賜物が、主イエス・キリストの教会を建てることに、聖霊によってきよめられて用いられていきますように、お祈りしたいと思います。
お祈り