* 佐々木稔 説教全集 *   

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   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6;5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


「罪の奴隷と義の奴隷」

ローマの信徒への手紙6:5-23

 

はじめに

 

 本日も、ローマの信徒への手紙のお話です。では、これから、ローマの信徒への手紙のどこの個所をお話しするかと言いますと、6章後半です。ローマの信徒への手紙は、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが、紀元56年頃、ギリシアのコリントから、ローマの信徒たちに書いた手紙です。そして、これまでに、ローマの信徒への手紙を、11回、お話をさせていただきましたが、今日は、12回目のお話です。

 

 では、今日の個所は、何を教えているのでしょう。すると、イエス・キリストを信仰して救われた人は、罪の奴隷から義の奴隷に、すでに変えられているので、最早、以前の罪の生活にとどまらず、神の御心に適うよい行いをたくさんして、永遠の命を目指す歩みをするように、パウロが、力強く勧めているところです。

 

 そこで、わたしたちも、ここを学んで、罪の奴隷から義の奴隷に変えられていることを、心から感謝し、日々、神の御心に適う義をたくさん行うよい歩みをしていきたいと思います。

 

1.パウロは、重大で、深刻な誤解を解こうとして、語っています

 

 さて、それで、まず、わたしたちは、今日の個所で、パウロが、どんなことを問題にしているかを見てみましょう。すると、パウロは、当時のある人々の重大な誤解を解こうとして、語っています。

 

 実は、わたしたちが、以前に学びましたように、パウロは、5章20節で、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」と言ったのですが、この言い方は、ある意味で、誤解され易い言い方でした。そして、実際に、誤解されたのです。

 

 では、どのように誤解されたかと言いますと、罪の増し加わるところには、恵みもますます満ちあふれるのであれば、キリストを信仰してからも、以前と同じ罪の生活に留まる方が、恵みが増し加わるので、よいのではないかと誤解したのです。

 

 そして、実際、ある人々は、パウロは、人が信者になっても、以前の罪の生活に留まっていた方がよいと教えていると中傷していたのです。ローマの信徒への手紙の3章8節を見ますと、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいます」と言われている通りです。

 

 そこで、パウロは、この重大な誤解を解くため、前回、学びましたように、6章1節と2節で、「では、どうゆうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」と語り、キリスト教の洗礼を受けた信者は、すでに、罪に対して死に、神に対して生きる者に変えられているので、以前の罪の生活にとどまり続けることは、不可能であることを教えて、誤解を解こうとしたのです。

 

 しかし、それでも、まだ、誤解を解くには、十分でないとして、今日の個所では、奴隷のたとえを用いて、さらに、その誤解を解こうとしたのです。それが、今日の6章15節から23節になります。

 

 これらの流れを考えると、この誤解は、1世紀の時代において、そのままにしてはおけない相当、重大で深刻な誤解であったことが、わたしたちにも伝わってきます。これらの流れを覚えながら、今日の個所を見ていきましょう。

 

2.信者が、以前の罪の生活にとどまることは、まったく成り立ちません

 

 6章15節を見ますと、「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下でなく、恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいというのでしょうか。決してそうではない」とありますが、ここは、1世紀において、ある人々が、パウロを誤解していたことを表しています。すなわち、信者は、律法をすべて完全に守って救われるという律法主義から解放され、キリストを信仰し、恵みによって救われている。そして、信者は、自分が罪人であることを知れば知るほど、救われたことの恵みの豊かさが一層わかる。それなら、以前と同じように、罪の生活にとどまって、罪を犯し続けた方がよいという誤解に対して、パウロは、絶対そんなことはないと、とても強く否定しているのです。

 

 16節に「決してそうではない」とありますが、この言い方は、原文では、通常の否定の仕方よりも、さらに、一層、強い否定の仕方になっています。そこで、新改訳聖書では、「絶対にそんなことはありません」と訳されていて、「絶対に」という言葉が使わるほど、強い否定の仕方です。

 

 ですから、神の救いの恵みを一層深く理解するためには、以前と同じように、罪の生活を行うということは、まったくの誤解であり、どこから見ても成り立たないことを表しています。

 

 そして、このことは、今日も当てはまります。わたしたち信者は、神の恵みを知るために、以前と同じ、罪の生活にとどまり続ける必要はないのです。神は、わたしたちの今の恵みの上に、さらに、新しい恵みを、ドンドン、惜しみなく、増し加えてくださるお方ですので、以前の罪の生活にとどまらなくとも、恵みの豊かさを、いくらでも、日々、知ることができるのです。

 

3.罪の奴隷と義の奴隷の比較対照

 

 こうして、パウロは、信者が、以前の罪の生活にとどまり続けることが、まったく成り立たないことを、強く断言しましたが、このことを、今度は、1世紀当時の奴隷のたとえを使って、語ります。

 

 では、奴隷とは、どのようなものでしょう。すると、この手紙が宛てられたローマの信者たちは、奴隷ほど悲惨なものはないことを、よく知っていました。

 

 今日の個所に、「奴隷」という言葉が、8回も出てきて、目立っていますが、1世紀において、奴隷は、惨めなものでした。お金で売ったり、買ったりされるもので、自由人とは違って、人格が認められていませんでした。奴隷は、自分をお金で買った主人の財産の一部でした。それゆえ、主人の声に従順に従って仕えねばなりませんでした。主人の命じることには、絶対服従でした。

 

 そして、もし、奴隷が、主人に反抗すれば、厳罰に処せられました。主人は、自分の奴隷を殺しても罪にはなりませんでした。主人は、自分の奴隷を意のままに扱うことができました。

 

 Ⅰ世紀の奴隷ということを聞きますと、わたしは、昔、観た「ベンハー」という映画をいつも思い出します。皆さんの中にも、観た方がおられるかもしれません。ローマ軍が、海で、当時の軍艦に乗って、敵と戦うのですが、その軍艦を漕ぐのが、奴隷たちです。軍艦の一番下の部屋で、多くの奴隷たちが、一人ひとり足を鎖に繋がれて、逃げられないようにされていて、オールを漕ぐのです。そして、戦いにおいて、軍艦が火に包まれて炎上し、沈没すると、鎖に繋がれていた奴隷たちも、軍艦と共に、海に沈んで死ぬのです。奴隷たちは、逃げたくても、足が鎖で繋がれているので、逃げられないのです。

 

 こうして、奴隷は、主人に仕え、従うのです。これが、奴隷の鉄則でした。そして、奴隷が、自分の主人に仕え、従うことは、1世紀においては、誰でも知っていました。そこで、パウロは、奴隷が、自分の主人に仕え、従うことを、霊的なことにあてはめ、人は、罪を主人として、罪に仕え、罪に従い、悲惨な霊的死に至るか、それとも、神に従順に仕え、神に従い、神の前での正しさである義に至るか、どちらかの生き方しかないことを教えたのです。

 

感謝なことに、この手紙があてられているローマの信徒たちは、以前は、罪の奴隷でしたが、今は、キリストの弟子たちによって伝えられてきた福音の要約か、あるいは、洗礼のときの信仰告白に、自分の身を委ねて、心から、それに従うことにより、罪から解放され、神の前での正しさである義に仕える者に、すでに変えられているのです。それゆえに、以前の罪の生活にとどまり続けることは、できないのですし、また、その必要はまったくなかったのです。

 

 16節と17節がそうです。16節のはじめに、「知らないのですか」とありますが、これは、この手紙が宛てられたローマの信徒たちが、十分知っていることを確認する言い方です。すなわち、「知らないのですか」と言われると、「いや、そんなことは、もちろん、十分、知っていますよ」という返事が返ってくる言い方です。すなわち、奴隷が、主人に仕え、主人に従うことは、ローマの信徒たちは、誰でも知っていたことを表しています。

 

 考えてみますと、わたしたち人間の生き方は、いろいろあるように見ますが、神の目から見れば、二つしかないのです。一つは、罪の奴隷としての生き方です。すなわち、罪を主人として、生涯、罪に仕え、罪に従う生き方です。そして、生涯、罪に仕え、罪に従う生き方が、最後に行きつくところは、悲惨な死、すなわち、霊的な死で、命の源である神とのまじわりの永久的分離です。

 

 そして、もう一つの生き方は、神に生涯、従順に仕え、生涯、神に従う生き方です。すなわち、天地を造り、また、罪人のため、救い主キリストを遣わしてくさった慈愛深い神を主人として、生涯、神に仕え、生涯、神に従う生き方です。そして、生涯、神に仕え、神に従う生き方が、最後に行きつくところは、義、すなわち、神の前での正しさです。

 

 人の生き方は、神の目から見て、この二つしかありません、人は、このどちらかの生き方を選ぶのです。人は、罪を主人として、生涯、罪に仕え、罪に従うか、それとも、神を主人とし、生涯、神に仕え、神に従うかのどちらかです。罪と神と両方に仕え、両方に従うことはできません。だれも、二人の主人に仕えることはできないのです。人は、自分が、生涯、罪に仕え、罪に従って、悲惨な霊的死に至るか、それとも、生涯、神に仕え、神に従って、神の前での正さである義にいたるかの、二つに一つなのです。

 

 そこで、パウロは、16節で「罪に仕える奴隷」となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか」と語って、「罪に仕える奴隷」と「神に従順に仕える奴隷」という言い方をしたのです。

 

 でも、本当に、幸いなことに、感謝なことに、この手紙が宛てられた1世紀のローマの信徒たちは、イエスさまの弟子たちによって伝えられていた救いのよき知らせである福音の要約、あるいは、洗礼を受けるときの当時の信仰告白を、心から受け入れたので、以前は、罪を主人とする罪の奴隷でしたが、今や、神を主人として、神に、生涯仕え、神に、生涯従うところの神の奴隷に変えられていたのです。それゆえ、以前の罪の生活にとどまり続けることは、できないのですし、また、その必要はまったくなかったのです。

 

 17節の「しかし、神に感謝します」という一文は、いいですね。読者の心に響いてきますね。原文では、「しかし、神に恵み」という言い方です。「恵み」という言葉は、同時に、「感謝」という意味も持つのです。神からの恵みは、わたしたち人間には、感謝となるのです。神の恵みよって、それまでの罪を主人として仕え、罪に従う生き方が、神を主人として、生涯、神に喜んで仕え、神に従う生き方に、変えられのですから、わたしたち人間にとっては、とても大きな感謝となります。

 

 そして、1世紀のローマの信徒たちが、罪の奴隷から、神の奴隷に変えられて、どのような生き方をしていたのかと言うと、イエスさまの弟子たちによって伝えられていた救いのよき知らせである福音の教えの要約、あるいは、洗礼のときのキリスト教の信仰告白の教えに、心から従って、歩んでいたので、最早、以前の罪の生活にとどまることはできないですし、また、その必要はまったくなかったのです。

 

 17節に、とても珍しい言い方が出ています。「伝えられた教えの規範」とありますが、もともとの言い方は、「伝えられた教えの型」、「伝えられた教えのタイプ」、「伝えられた教えのパターン」という言い方です。「規範」とは、原語で、テュポスと言いますが、今日のタイプという言葉の語源です。意味は、型とかパターンという意味です。

 

 今日でも、キリスト教には、他の宗教と違う教えの型、タイプ、パターンがります。たとえば、キリスト教の神は、三位一体の神であるとか、キリスト教は、イエスさまを神の子と信じるとか、キリスト教は、十戒を信徒の善き生活の基準とするなどの教えの型、教えのタイプ、教えのパターンがあります。

 

 パウロが、この手紙を書いた紀元56頃にも、もうすでに、キリスト教の生き方、生活の仕方は、こういう型、タイプ、パターンですよというものが、あったのです。すなわち、イエスさまの弟子たちによって伝えられていた教えの規範、型、タイプ、パターンがあったのです。それは、救いのよき知らせである福音の教えの要約、あるいは、洗礼のときのキリスト教の信仰告白の教えであったかもしれないのですが、その「伝えられた教えの規範」を、ローマの信徒たちは、心から受け入れ、それに従って、すでに、日々、信仰生活をしていたのです。

 

 それゆえ、すでに、罪から解放され、義、すなわち、神のまでの正しさに仕え、神の前での正しさに従う歩みを、1世紀に、実際に、していたのです。それゆえ、最早、以前の罪の生活にとどまることはできないのですし、また、その必要はまったくなかったのです。

 

 今日も同じです。わたしたちも、以前は、自分が、生涯、罪に仕え、罪に従って、最後は、悲惨な霊的死に至る生き方をしていました。でも、今や、神を主人として、神に、生涯仕え、神に生涯従うところの神の奴隷に変えられ、イエスさまの弟子たちによって伝えられた教えの規範、型、タイプ、パターンに従って、すなわち、今日で言えば、聖書の教えに従って、神の前での信仰生活を日々喜んで行う者とされています。それゆえに、わたしたちもパウロと共に、「しかし、神に感謝します」と、心から言うことができるでしょう。

 

4.奴隷のたとえは、神に献身的に仕えることを教えるためでした

 

 さて、わたしたちは、ここまで見てきますと、どうも変だなあと思うひとつのことがあります。それは、何かと言いますと、「罪に仕える奴隷」という言い方は、罪という主人に仕える悲惨な奴隷状態を表すので、適切ですが、「神に従順に仕える奴隷」という言い方は、適切さを欠くのではないかという疑問が出てきます。

 

 何故かと言うと、奴隷という言葉それ自身が悲惨な状態に置かれることを連想させてしまう可能性が出てきます。信者の人生は、真の自由があり、真の喜びがあり、真の平安があり、真の希望がありますが、それにもかかわらず、信者は、「神に従順に仕える奴隷」という風に、奴隷という言葉を使うと、それらのよい面が出て来ないで、逆に、別の悲惨な状態が出て来るように感じられます。それゆえに、奴隷という言葉を使って、信者を表すことは、適切さに欠けるのではないかという疑問が出てきます。

 

 実際、この手紙を宛てられたローマの信徒たちも、「罪に仕える奴隷」という言い方は、適切であるが、「神に従順に仕える奴隷」という言い方は、適切さを欠くのではないかと感じたことでしょう。

 

 そして、何よりも、この手紙を書いているパウロ本人も、これを感じていたのです。そこで、パウロは、クリスチャンを奴隷にたとえることは、クリスチャンが奴隷のように悲惨であるという意味でたとえているのではなくて、奴隷が、自分の主人に献身的に仕えるように、クリスチャンも、神の義に献身的に仕えるという意味を、人間的な言い方で分かり易くすることにおいてだけ、奴隷という言葉を、使ったにすぎないことを語るのです。

 

 19節前半に、「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです」とありますが、実は、もともとは、「あなたがたの肉の弱さを考慮して、わたしは人間的な言い方で語っています」という書き方になっています。

 

 すなわち、人間は、物事を分かり易く説明するときに、しばしば、二つのものを並べて、比較対照的に、分かり易く説明しますが、わたしパウロもそうしましたと言う意味です。すなわち、パウロは、神の目から見た人間の生き方という霊的な真理を、人間が、しばしば、二つのものを並べて、比較対照的に、分かり易く説明するように、「罪に仕える奴隷」と「神に従順に仕える奴隷」という風に、人間が、一般的に、二つのものを並べて、比較対照的に、分かり易く説明しました。それは、ローマの信徒たちが、まだ十分、霊的に円熟しておらず、彼らの「肉の弱さ」のため、すなわち、彼らの霊的理解力の弱さのためでした。

 

 ですから、パウロが、クリスチャンを、「神に従順に仕える奴隷」とたとえたのは、奴隷にあてはまること全部が、クリスチャンにも当てはまるという意味で、たちえたのではなくて、奴隷が主人に従い、主人に献身的に仕えるように、クリスチャンも、神の義、すなわち、神の目から見た正しさに献身的に仕えていくことを、一番分かり易く教えたのです。

 

 そして、このことは、今日も同じです。今日でも、奴隷という言葉は、悪い響きを持ちます。奴隷には、自由がありません。希望がありません。未来がありません。しかし、わたしたち、クリスチャンは、罪から解放された真の自由があり、救いの完成の希望があり、神の国が栄光の内に出現する輝かしい未来があります。しかし、それにもかかわらず、わたしたちクリスチャンは、万物の造り主にして、わたしたち罪人のために、イエス・キリストを十字架につけてくださった慈愛深い天の神を、自分が生涯仕える主人として、奴隷にたとえられるほどに、深い喜びと大きな感謝をもって献身していくのです。

 

5.罪の報酬としての死と、神の賜物としての永遠の命の比較対照

 

 さて、以上のようにして、パウロは、クリスチャンを奴隷にたとえるのは、神に献身的に仕えるという点を分かり易くするためであると断り書きをしました上で、この手紙の宛てられたローマの信徒たちが、かつて、罪の奴隷であったときの霊的悲惨さと、今、クリスチャンになって、神に従順に仕える奴隷、すなわち、神の義に仕える身に変えられて、どれほど豊かな恵みを受けているかを悟らせるために、今度は、以前の罪のひどさと今の恵みの豊かさを比較対照して、この個所の締めくくりをするのです。

 

 19節後半から23節がそうです。この19節後半から23節を読んで、すぐに気がつくことは、ローマのクリスチャンが、かつて、キリストを知らずに、異教の中にあって、罪に仕える人生を歩んでいたときと、クリスチャンになって、神の義に仕える身となって人生を歩んでいる今が、比較対照されて、神の義に仕える身となって歩んでいる今が、如何に、恵みと祝福ととよきもので満ちあふれているかが、強調されていることに、気がつきます。

 

 19節後半から23節を見ますと、「かつて」と「今」が、比較対照されています。すなわち、19節後半で、「かつて」と「今」が比較対照されています。21節でも、「そのころ」と「今では」が比較対照されています。22節では、「今は」だけが出ています。

 

 そして、「かつて」と「今」が比較対照されているのは、以前は、キリストを知らずに、異教の罪の中にあって、罪に仕える人生を歩んでいたときに比べて、クリスチャンになって、神の義に仕える人生に変えられている今が、どれほど恵みで満ちあふれて、霊的に豊かにされているかを目立たせるための工夫です。

 

 すなわち、以前は、キリストを知らずに、異教の罪の中にあって、罪に仕える人生を歩んでいたとき、ローマのクリスチャンたちは、「五体」、すなわち、自分の体を、「汚れ」、すなわち、不道徳と、「不法」、すなわち、神の律法に背くことに用いて、罪を犯し続けて、神の義とはまったく関わりがなく、後から思えば、恥ずべきことを行い続けて、そのままでは、最後には、霊的な死に行き着くはずでした。

 

 19節に、「自分の五体」とありますが、もともとの意味は、手足を持った具体的な体を表します。それゆえ、新改訳聖書では、「自分の手足」と訳しました。また、20節で、「罪の奴隷であったときは、義に対して自由の身でした」とありますが、「義に対して自由の身でした」というのは、神の前での正しさである義に対して、まったく自由奔放に振る舞って、神の前での正しさである義に対して、まったく縁がない者でしたという意味です。

 

 また、21節では、「それらの行き着くところは、死にほかならない」とありますが、「それらの行き着くところ」とは、終わり、ゴールという意味ですし、「死」とは、霊的な死のことで、神との永久的分離を意味します。神との愛のまじわりに生きるべき人間が、神から永久に分離されることが、死であり、霊的な死です。

 

 ですから、ローマのクリスチャンたちは、以前は、キリストを知らず、異教の罪の中にあって、罪に仕える人生を生涯歩んで、最後に行き着くところ、終わり、ゴールは、霊的な死で、神との永久的分離だったのです。

 

 しかし、感謝すべきかな。彼らは、あるとき、教会が宣べ伝える救いのよき知らせである福音を聞いて、十字架にかかったイエスさまを救い主と信じて、「神に従順に仕える奴隷」、「義の奴隷」、「神の奴隷」に変えられた「今」は、神を主人として、神に、生涯、献身的に仕え、聖霊によって、霊的・道徳的・倫理的に、神の御心に適う聖なる生活を送り、そして、最後に行き着くところ、終わりは、神からキリストを通して、恵みの賜物として与えられる「永遠の命」、すなわち、神との永遠の愛のまじわりです。

 

 23節を見てみましょう。ここでは、「報酬」と「神の賜物」が、分かり易く並べられて、比較対照されています。「罪が支払う報酬は死です」とありますが、「報酬」という言葉は、もともと、兵士に支払われる給料を意味します。当時の兵士が命をかけて戦って働くことに対して、正当に支払われる兵士の給料を意味します。

 

 たとえば、ローマ兵は、ローマ皇帝のために、命をかけて働きます。そこで、ローマの兵士は、正当で、当然のふさわしい支払としての給料を受け取ります。ローマの兵士にとって、その報酬、その給料は、当然、受け取る資格と権利があります。また、ローマ皇帝は、ローマの兵士に、報酬、給料を支払う義務と責任があります。ですから、ここで、使われている「報酬」という言葉は、資格と権利に基づく当然の支払いとしての「報酬」を表しています。

 

 では、これが、霊的なことにあてはめられると、どうなるでしょう。すると、罪という主人に仕える人生は、罪から報酬、すなわち、当然の支払として、霊的死を受け取ることを表します。皮肉なことですが、罪人は、当然のふさわしい支払いとして、霊的な死を受け取る資格と権利があるので、霊的な死を受け取らねばなりません。罪は、人間に、霊的な死を支払う義務と責任があるとも言えます。そして、実際、罪は、人間に霊的死を与えるのです。このように、罪に仕える人生を歩むと、人は、最後に、罪から当然のふさわしい報酬、支払として、霊的死を受けねばなりません。

 

 では、それと比較して、神に従順に仕えるクリスチャン、神の義に仕えるクリスチャンは、どうなるのでしょう。すると、クリスチャンは、受ける資格や権利がないのにもかかわらず、神から与えられる恵みの賜物として、神との愛のまじわりに永遠に生きることができる永遠の命を与えられるのです。

 

 23節後半に、「しかし、神の賜物は」とありますが、「賜物」というのは、受ける資格や権利がないにもかかわらず、一方的に与えられるよきものという意味です。考えてみれば、神は、わたしたち人間に、永遠の命を与える義務や責任はないのです。永遠の命を与えるどころではなく、わたしたち人間は、罪人で、裁きとしての霊的死が与えられるのが当然なのです。霊的死が与えられるのがふさわしいのです。

 

 しかし、わたしたちが、よき知らせである福音を聞いて、十字架にかかったイエスさまを自分の救い主と信じ、イエスさまを遣わしてくださった慈愛深い神を主人として、従順に仕える人生を歩むゆえに、本来、受ける資格と権利がないにもかかわらずわたしたちの罪をすべて赦し、そして、わたしたちの救い主のイエスさまを通して、永遠の命まで、恵みの賜物として与えてくださり、神と愛のまじわりに、永遠に、喜び生かしてくださるのです。

 

 そして、永遠の命は、イエスさまが再臨するときに、完成しますが、しかし、永遠の命は、わたしたちが、イエスさまを信じたときから、わたしたちの内にすでに、はじまり、わたしたちを神との愛のまじわりに日々喜び生かしています。わたしたちクリスチャンには、もう、永遠の命が、日々、豊かに働いているのです。

 

 こうして、23節は、「罪が支払う報酬」としての霊的死と、わたしたちの救い主のイエスさまを通して与えられる「神の賜物」が、比較対照されて、わたしたちの救い主のイエスさまを通して与えられる「神の賜物」が、どんなに素晴らしいものであるかを、力強く、読者にアピールしています。

 

結び

 

 以上のようにして、今日のところを見ます。わたしたちは、これからも、恵みの賜物としての永遠の命によって、日々、神との愛のまじわりに、喜んで生きていきたいと思います。


お祈り

 

 憐れみ深い天の父なる神さま、

1月の歩みも終わりまして、今日は、2月の最初の主日ですが、また、御前に、礼拝に導かれ、感謝いたします。
 今、わたしたちは、ローマの信徒への手紙の6章後半を通して、わたしたちは、最早、以前の罪の生活にはおらず、恵みの生活に入れられていることを学びましたが、どうか、わたしたちを恵みの生活に入れてくださったあなたを、わたしたちの主人とし、あなたの御声である聖書に聞き従って、日々、よき実を結びつつ、永遠の命を目指すことができますように、お導きください。

 また、阪神大震災の被害を受けたすべての方々、また、信仰の仲間を覚えてくださいまして、必要なものが与えられ、復興していくことができますように、助けてください。

 これらの祈りを主イエス・キリストの御名により、御前にお献げいたします。アーメン。


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