* 佐々木稔 説教全集 *   

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   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6;5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


「栄光を受ける約束」

ローマの信徒への手紙8:18-25

 

はじめに

 

 本日も、1世紀のキリスト教の伝道者、使徒パウロが、紀元56年頃書いた、ローマの信徒への手紙のお話です。ローマの信徒への手紙は、キリストにある素晴らしい救いが、順序よく教えられています。それで、今日は、どこの個所をお話しするかと言いますと、8章の中ほどのお話です。

 

 では、今日の個所は、何が教えられているのでしょう。すると、「待ち望む」とか「希望」という言葉が、何回も出てくることからもわかるように、信者は世の終わり、終末に、栄光を受けるという確実な希望があることを教えて、信者が、今、いろいろなことがあっても、終末の栄光を目指して、忍耐をして歩むことを力強く勧めているのです。

 

 それで、わたしたちは、ここから、3点を学びたいと思います。第1点は、世の終わりに、わたしたち信者が受ける栄光は、とてつもなく大きなものであるという点です。第2点は、被造物も、世の終わりの栄光の実現を待ち望んでいるという点です。第3点は、わたしたち信者も、世の終わりの栄光の実現を待ち望んでいるという点です。

 

1.世の終わりに、わたしたち信者が受ける栄光は、とてつもなく大きい

 

 早速、第1点に入りましょう。第1点は、世の終わりに、わたしたち信者が受ける栄光は、とてつもなく大きなものであるという点です。それで、世の終わりに、わたしたち信者が受ける栄光とは、具体的に、何なのかということがありますが、それは、この後、詳しくお話しすることとしまして、まず、世の終わりに、わたしたち信者が受ける栄光は、どれほど大きいかを、お話したいと思います。

 

 すると、この世に生きている信者が、信仰ゆえに受けている苦しみと比べてみる価値もないほど、とてつもなく、圧倒的に、測り知れなく大きいものなのです。13節がそうです。13節に、「現在の苦しみは、将来、わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」とありますが、実は、もともとの言い方は、「現在の苦しみは、将来、わたしたちに現されるはずの栄光に比べる価値がないとわたしは思います」というストレートな驚くべき言い方です。

 

 すなわち、現在の苦しみは、将来、世の終わりに、信者が受ける栄光と、比べること自体が、そもそも価値がないという言い方です。換言すれば、世の終わりに、信者が受ける栄光は、とてつもなく大きいので、比べること自体が、そもそも価値がないし、比べること自体が、そもそも無理であるという意味なのです。

 

 ですから、世の終わりに、終末に、キリスト再臨のときに、信者が受ける栄光は、とてつもなく大きいので、圧倒的に大きい、計り知れなく大きいことが、読者の心に伝わってきます。それゆえ、比べること自体に価値がない、比べること自体が無理であるというこの言い方自身が、度肝を抜く驚くべき言い方なのです。

 

 そして、「現在の苦しみ」というのは、パウロが、この手紙を書いている1世紀の時代において、信者が、信仰ゆえに受けていたいろいろな苦しみのことです。「苦しみ」というのは、複数形になっていますので、信仰ゆえに受けていたいろいろな苦しみをすべて含んでいます。

 

 1世紀の信者は、世界で、最初のクリスチャンでしたが、キリストが十字架の死と復活を経て、天にお帰りになってから、まだ30年も経っていなときです。キリストが、十字架の死と復活を経て、天にお帰りになったのが、紀元30年頃で、この手紙が書かれたのが、58年頃ですから、差し引きすると、28年ほど、約30年ぐらいしか経っていません。

 

 そのために、キリスト教信仰は、ローマ帝国が支配する1世紀の地中海世界において、人々にまだ認知されておらず、誤解され、曲解されて、いろいろな困難、不利益、妨害、圧迫、迫害を受けた時代でした。そして、この手紙を書いているパウロ自身も、もちろん、信仰ゆえに、また、さらに、パウロの場合には、キリスト教信仰の伝道者、キリスト教会の指導者ゆえに、一層、いろいろな苦しみを受けていました。

 

 でも、そのパウロは、「現在の苦しみは、将来、わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と断言することができたのですし、もっと厳密に言えば、今、お話しましたように、「現在の苦しみは、将来、わたしたちに現されるはずの栄光に比べる価値がないとわたしは思います」と言って、現在の苦しみは、将来、世の終わりに、信者が受ける栄光と、比べること自体が、そもそも価値がない、比べること自体が、そもそも無理であると言ったのですから、わたしたち信者が、世の終わり、終末に受ける栄光は、とてつもなく大きい、圧倒的に大きい、測り知れなく大きいことを、パウロは、確信して、力強く語ったことがわかります。

 

 それで、13節を、もう一度見て見ますと、「現在の苦しみは、将来、わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」という書き方で、パウロが「思う」という仕方で書いています。

 

 ここを見て、わたしたちは、「何だ、パウロが、個人的に、自分で、勝手に、そう思っていることなのか」と、信頼できないパウロの個人的見解が表明されているかのように読んではなりません。

 「・・・とわたしは思います」の「わたし」は、確かに、パウロですが、単なる一個人として語っているのではありません。このローマの信徒への手紙の書き出しの1章1節を思い起こしましょう。すると、「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」と述べていることからも、パウロは、単なる一個人として、書いているのでなく、キリストに仕える僕として、救いのよい知らせである神の福音のために、神の御心によって選び出され、神御自身から召された使徒としてのパウロが、神の権威をもって、語っていることが、十分わかります。

 

 それゆえに、神に立てられた使徒としての権威をもって、パウロが、確信して思っていることなので、十分、信頼できるのです。したがって、「・・・とわたしは思う」という言い方は、信頼できない根拠でなく、逆に、神に立てられた使徒として、公けの人、公人としてのパウロが、確信を持って思っているゆえに、絶対的に信頼できるのです。

 

 そこで、今日のわたしたち信者も、現在の苦しみは、将来、世の終わりに、わたしたち信者が受ける栄光と、比べること自体が、そもそも価値がない、比べること自体が、そもそも無理であると言えるほど、わたしたち信者が、世の終わり、終末に受ける栄光は、とてつもなく大きい、圧倒的に大きい、測り知れなく大きいことを、まずしっかり心に留めておきましょう。

 

2.被造物も、世の終わりの栄光の実現を待ち望んでいる

 

 第2点に入ります。第2点は、被造物も、世の終わりの栄光の実現を待ち望んでいるという点です。では、現在の苦しみは、将来、世の終わりに、信者が受ける栄光と、比べること自体が、そもそも価値がない、比べること自体が、そもそも無理であると言うほどのとてつもなく大きい、圧倒的に大きい、計り知れなく大きい世の終わりに、わたしたち信者が受ける栄光とは、具体的に、どのようなものなのでしょう。

 

 すると、それは、わたしたち信者が、世の終わりに、罪の支配から完全に買い戻され、罪と死から解放され、自由にされて、二度と死ぬことがない体に復活し、罪を犯すことがあり得ない完全な神の子たちとして出現することです。19節で、「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」とありますが、「神の子たちの現れる」ことが、世の終わりの栄光です。

 

 さらに、23節では、世の終わりの栄光を、もう少し詳しく教えています。「霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中で待ち望んでいます」とありますように、わたしたち信者の体が罪の影響から贖われて、神の子とされることが、世の終わりの栄光となります。

 

 考えてみますと、わたしたち信者は、この世にあって、すでに、キリストによって、罪の支配から、買い戻されて、罪から自由にされた者です。23節に、「体の贖われること」とありますが、「贖う」というのは、代価を払って買い戻すという意味で、旧約時代から使われてきた言葉です。すなわち、誰かが落ちぶれて、奴隷になったときに、その人に一番近い身内が、同情し、可哀そうに思って、代価を払って、買い戻し、自由にしてあげることを意味します。

 

 その言葉が、キリストにあてはめられています。すなわち、罪の悲惨な奴隷に落ちぶれているるわたしたちを、キリストが、わたしたちに一番近い身内であるかのように、わたしたちに真に同情し、憐れんでくださって、御自分の尊い命を代価として、十字架で、父なる神に支払って、わたしたちを罪の奴隷から解放して、自由にしてくださいました。

 

 そして、確かに、わたしたちは、キリストのその贖いによって、罪の奴隷から解放され自由にされましたが、しかし、聖化の未完成、きよめの未完成のゆえに、まだ、罪から完全に、解放されていまません。その証拠に、わたしたちは、罪の結果としての死を経験しなければなりません。

 

 また、さらに、わたしたちは、死後、霊魂は、聖霊によって、完全にきよめられて、天国に入りますが、罪の影響を受けた体は、世の終わりまで、お墓の中で休みます。

 

 では、罪の影響を受けたわたしたちの体が、完全に、罪から解放されて、罪から自由にされるのは、いつでしょう。すると、それは、世の終わり、終末のとき、キリストが栄光の内に再臨されるときです。そのときに、わたしたちの体は、罪の力から完全に買い戻され、二度と死ぬことのない不死の体に復活し、二度と罪を犯すことがあり得ない体とされて、言葉の最も厳密な意味で、完全に、神の子として出現し、そのとき完成する栄光の神の国において、父・子イエス・キリスト・聖霊の三位一体の真の神との愛のまじわりの中で、言葉で言い表すことができない喜びをもって、永遠の生命に生きていくのです。これが、世の終わりにおける栄光です。

 

そして、世の終わりに、わたしたちの体が、罪の力から完全に買い戻され、二度と死ぬことのない不死の体に復活し、二度と罪を犯すことがあり得ない体とされて、言葉の最も厳密な意味で、完全に、神の子として出現することを、天地万物、すなわち、全被造物も切に待ち望んでいるのです。

 

19節に、「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」とありますが、「被造物」とは、創造主なる神に創造されたすべてのものを包含していますが、ここでは、人間以外の全被造物を表します。

 

具体的には、太陽、月、星、陸、海、山、川、動物、魚、植物などの天体、自然界、動物界、植物界などのすべての被造物を意味します。旧約聖書の創世記第1章が記している、神に創造されたところの全被造物を、人格を持っているかのように擬人的に記しています。

 

では、何故、被造物は、わたしたち信者が、世の終わりに、罪とは無縁の二度と死ぬことのない不死の体に贖われて、完全な神の子として出現することを、切望しているのでしょう。

 

すると、被造物は、エデンの園で、アダムとエバが、罪を犯したことによって、被造物も神に呪われて、豊かさを失い、人間に敵対するもの、人間に十分奉仕しないもの、朽ち果てるもの、壊れるもの、虚しいもの、すなわち、滅びに隷属するものになってしまいましたが、その滅びから解放されて、豊かさを回復し、再び、人間に、十分奉仕するものとなることを、切に望んでいるからです。

 

わたしたちは、エデンの園におけるアダムとエバが創造主なる神に対して、罪を犯した出来事を、旧約聖書の創世記第3章で、知っています。アダムとエバが、エデンの園で禁止されていた善悪を知る木から取って食べて、罪を犯したとき、被造物も呪われ、土は茨とあざみを生じるものとなったことを記していますが、その意味は、太陽、月、星、陸、海、山、川、動物、魚、植物などの天体、自然界、動物界、植物界などのすべての被造物が、人間の罪ゆえに、神に呪われて、豊かさを失い、人間に敵対するもの、人間に十分奉仕しないもの、朽ち果てるもの、虚しいもの、壊れるもの、滅びいくもの、すなわち、虚無に服するもの、また、滅びに隷属するものとなったことを意味します。

 

しかし、太陽、月、星、陸、海、山、川、動物、魚、植物などの天体、自然界、動物界、植物界などのすべての被造物が、人間の罪ゆえに、神に呪われて、豊かさを失い、人間に敵対するもの、人間に十分奉仕しないもの、朽ち果てるもの、虚しいもの、壊れるもの、滅びいくもの、すなわち、虚無に服するもの、また、滅びに隷属するものとなりましたが、そうなったのは、被造物が自分の意志で、そうなったのではなく、創造主なる神の主権的御意志でした。しかし、被造物が、人間の罪により、虚無に服するもの、また、滅びに隷属するものとなるのは、世の終わりまでのことで、世の終わりに、わたしたち信者が、罪の影響から完全に買い戻され、贖われて、二度と死ぬことない不死の体に復活する完全な神の子として出現するまでのことです。

 

これが、被造物を虚無に服するもの、また、滅びに隷属するものとした創造主なる神の御意志でした。人間の罪によって呪われたことによって始まった被造物の虚無と隷属は、世の終わりに、人間の罪が完全に贖われることによって終わりを告げ、被造物も、再び、豊かさを回復し、実り豊かなものとなり、人間に、十分、役に立つものに変わるのです。

 

それゆえ、かつて、エデンの園で、アダムとエバが罪を犯したとき、土は呪われ、自然界は、茨とあざみという無益なものを生じるものとなりましたが、しかし、世の終わりが来るときには、罪の呪いから解放されて、黙示録22章が、描いているように、川は永遠の命の水が流れる川となり、川の両岸には、永遠の命の木があって、年に、12回も実を結び、その木の葉は、諸国の民のどのような病いも治し、永遠の命に満ちあふれた世界に変り、最早、呪われるものは何一つなくなるほど、永遠の命に満ちあふれているのです。

 

それゆえ、被造物も、世の終わりに、罪の影響から完全に買い戻され、贖われて、二度と死ぬことない不死の体に復活するわたしたち信者が、完全な神の子として出現し、罪から完全に自由にされるという栄光にあずかれること、そして、その祝福を受けることを、一日千秋の思いで、今の苦しみの中で、うめくようにして、まるで、産みの苦しみを味わうかのようにして、待ち望んでいるのです。

 

21節に、「神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」とありますが、「神の子供たちの栄光に輝く自由」というのは、世の終わりに、罪の影響から完全に買い戻され、贖われて、二度と死ぬことない不死の体に復活するわたしたち信者が、完全な神の子として出現し、罪から完全に自由にされるという栄光のことで、この栄光に、被造物もあずかれるし、この栄光に、被造物も入ることができることを表しています。

 

また、22節には、「被造物がすべて今日まで、共にうめき」とありますが、「共にうめき」というのは、これも、擬人法で、被造物に人格があるかのようにして語っています。「共にうめき」というのは、被造物全体が、人間の罪ゆえに、神に呪われて、豊かさを失い、人間に敵対するもの、人間に十分奉仕しないもの、朽ち果てるもの、虚しいもの、壊れるもの、滅びいくもの、すなわち、虚無に服するもの、また、滅びに隷属するものとされている苦しみ中で、うめくようにして、また、産みの苦しみを味わうかのようにして、待ち望んでいることを表します。

 

そして、世の終わりに、被造物が、虚無に服するもの、また、滅びに隷属するものとされている苦しみ中で、うめくようにして、また、産みの苦しみを味わうかのようにして、世の終わりに栄光に入れられることを待ち望んでいることは、使徒パウロだけが知っていることでなく、「わたしたちは知っています」ということによって、1世紀の信者であれば、誰もが知っている確実な真理であること、あるいは、使徒パウロだけが知っていればよい真理でなく、1世紀の信者なら、誰もが知るべき確実な真理として、パウロは、「わたしたちは知っています」と、わざわざ複数形で語りました。

 

こうして、パウロは、実に、壮大な真理を、堂々と、権威をもって、何らためらうことなく、書いています。全聖書の最初の旧約聖書の創世記が記している天地万物の創造に対応する世の終わりに関する真理を、教えているのです。そして、わたしたちは、わたしたち人間の罪が、天体、自然界、動物界、植物界など被造物全体に、実に、深刻で、甚大な影響を与えたかを知って、罪の恐ろしさにおののくと共に、わたしたち人間を、まさにその罪から贖い、買い戻すと共に、被造物をも、罪の呪いから解放してくださる御計画を立ててくださっている、どこまでも全能で、慈愛深い天の神を、喜んで賛美したいと思います。

 

3.わたしたち信者も、世の終わりの栄光の実現を待ち望んでいる

 

 第3点に入ります。わたしたち信者も、世の終わりの栄光の実現を待ち望んでいるという点です。すなわち、被造物も、世の終わりの栄光の実現を待ち望んでいますが、キリストを信じて、聖霊が、今、心に親しく住んでいてくださる信者であるわたしたち自身も、世の終わりに、体が罪から完全に買い戻され、贖われて、二度と死ぬことのない不死の体に復活し、二度と罪を犯すことがあり得ない、言葉の最も厳密な意味で、完全な神の子として出現することを、確実な希望として、今のいろいろな苦しみに耐えて、心の中で、うめきながら、待ち望んでいるのです。

 

 23節から25節がそうです。23節に、「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」とありますが、「霊の初穂」というのは、「聖霊という初穂」という意味で、世の終わりに体が、完全に罪から買い戻され、贖われる最初のしるし、あるいは、保証として、聖霊が、心に親しく住んでいてくださる事実、内住の聖霊を表しています。

 

 「初穂」とは、もともと、パンの原料になる麦の初穂を意味します。1世紀の地中海世界の人々の主食は、麦から作ったパンですが、パンの原料は麦です。そして、麦の初穂は、現在の5月から6月にかけて出てきました。そして、麦の初穂が出てくるということは、その年の麦の豊かな収穫のしるし、あるいは、保証となっていたのです。麦の初穂が出てきたから、今年も、麦の豊かな収穫は、間違いなしだと人々は喜んだのです。

 

それゆえ、「初穂」が出ることは、豊かな収穫の確実なしるし、保証でした。そこで、パウロも、このことを背景にして、聖霊が、信者の心に親しく住んでいてくださることは、初穂のようなものであり、世の終わりに、体が、罪から完全に買い戻され、贖われることの確実な最初のしるし、保証であることにたとえたのです。すなわち、聖霊が、わたしたち信者の心に、今、親しく、内住していてくださることは、世の終わりには、聖霊の働きによって、わたしたちの体が、罪から完全に買い戻され、贖われて、二度と死ぬことのない不死の体に復活し、二度と罪を犯すことがあり得ない、言葉の最も厳密な意味で、完全な神の子とされることの確実なしるしであり、確実な保証なのです。

 

こうして、わたしたち信者は、この世にあっては、いろいろな苦しみ、悩み、悲しみ、困難、罪の古い性質との葛藤などがあります。でも、それらから、すべて、解放されて、自由にされ、完全な神の子とされる無限の栄光、とてつもない栄光の希望によって、今、大きく支えられているのです。そこで、パウロは、この栄光の希望によって、救われているとまで言いました。もちろん、救われるのは、キリストを信じて救われるのですが、この確実な栄光の希望によって、おおきく支えられていることを言うために、「このような希望によって救われている」とまで、パウロは言ったのです。

 

もちろん、このような希望は、世の終わりに実現するものなので、今、目で見て確認することはできません。世の終わりの希望、将来の希望というものは、その性質上、決して、目には見えないものです。しかし、キリスト教信者は、目に見えない栄光を、忍耐して、待ち望みながら、救いの素晴らしい完成を目指して、この世の旅路を、日々しっかり歩んでいくのです。

 

パウロは、世の終わりの栄光の希望は、目に見えないことを強調していますが、1世紀の信者は、使徒パウロの教えに従って、目に見えない世の終わりの栄光を、本当に、信仰し、確信して、世界で最初のクリちゃんとして、いろいろな苦難に忍耐をもって歩んだのです。彼らは、後に続くわたしたちに対して、雲のような証人たちとなったのです。

 

結び

 

 以上のようにして、今日の個所を見ます。21世紀の日本のクリスチャンのわたしたちも、聖霊の初穂を心にいただいている者として、世の終わりに、罪から完全に買い戻され、贖われて、二度と死ぬことのない不死の体に復活し、神の子として出現するという測り知れない栄光を受けることを、揺るぎなく信仰し、希望と喜びをもって、今週も、信仰の旅路を歩んで行きたいと思います。

 

お祈り


 主イエス・キリストの父なる神さま、 
今日も、週の最初の主の日に、皆で集まり、あなたを礼拝できます恵みを、心から感謝いたします。 

 今、わたしちは、聖書を通して、世の終わりの終末には、わたしたちが、罪のない神の子とされる測り知れない祝福を約束されていることを教えられ、余りの恵み豊かさに、ひれ伏して、感謝する思いを持ちます。罪の奴隷にすぎかったわたしたちを、そのように愛してくださることを、本当に、ありがとうごじざいます。 
 それゆえ、この世の歩みをするときに、いろいろなことがあっても、終末の驚くべき、身に余る祝福を確信し、希望として、忍耐して、歩むことができるようにしてください。 
 本日、種々の都合や事情で、出席できなかった兄弟姉妹に、それぞれのところで顧みがありますように、お祈りいたします。
 
今日から始まるわたしたちの新しい1週間を、どこにあっても、祝福してください。
これらの祈りを、主イエス・キリストの御名によって、御前に、お献げいたします。アーメン。

 

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