* 佐々木稔 説教全集 * |
ローマ書講解説教 - 佐々木稔 | Shalom Mission |
01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ 02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ 05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利 07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放 08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み | 08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利 09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画 09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教 10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い 11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い 12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活 12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係 13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に... 15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道 16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた.. |
「兄弟を裁いてはならない」
ローマ書14章1節―12節
はじめに
わたしたちは、主の日の朝の礼拝においては、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが、紀元56年頃ローマの信徒たちに書いたローマの信徒への手紙を学んでいますが、今日も、わたしたちは、キリスト信仰による救いと、その救いの上に立つ健全な信仰生活を教えているローマの信徒への手紙に耳を傾けたいと思います。
では、今日の個所はどんなところでしょう。すると、今日の個所は、14章1節から15章13節まで続くお話で、ローマの教会の信仰の強い人と信仰の弱い人が、食べ物と日のことで裁き合いをしていたので、使徒パウロが双方に裁き合いを即刻めるように命じた個所です。
すなわち、信者は信仰生活において考え方に違いがあっても、教会の頭である主イエス・キリストのため、すなわち、教会の頭である主イエス・キリストの誉れになるように生きていくという根本姿勢においてまったく一致しているので、この点を大事にし、根本的でないことにおいては違いがあっても裁き合わず、お互いに受け入れ合い、一つのよいまじわりをし、合い和して歩んでいくように勧めたのです。
そこで、今日のわたしたちも、ここを学んで、教会の頭である主イエス・キリストのため、主イエス・キリストの誉れになるように生きていくという信仰の根本姿勢において、皆が一致し、一つの教会の平和なよいまじわりをし、合い和して歩みをしていきたいと思います。
1.信仰の強い人が、弱い人を裁かないように命じました
それで、わたしたちは、早速、今日のところを見ていきたいと思います。すると、いきなり、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」と始まりまして、これは、一体何事かと思うのですが、実は、この手紙が宛てられた1世紀のローマの教会においては、ひとつの大きな問題があったことを示しています。
では、どんな問題でしょう。すると、ローマの教会の中には、信仰の強い人と信仰の弱い人がいました。そして、信仰の強い人は肉を自由に食べ、また、日はすべて同じと考えていました。他方、信仰の弱い人は、肉を食べずに野菜だけを食べ、また、ある日を他の日よりも尊いと考えていました。
そこで、信仰の強い人は、信仰の弱い人の考えは誤りと批判し、信仰の弱い人をまじわりから遠ざけていました。他方、信仰の弱い人は、肉を自由に食べ、また、日をすべて同じと考える信仰の強い人の考えは、誤りと判断し、信仰の強い人に、神の裁きが下ると激しく語っていました。こうして、1世紀のローマ教会には、信仰の強い人と弱い人が、お互いに裁き合っていました。そこで、そのままにしておけば、ローマ教会の主にある一つの大事な平和なまじわりが破壊されてしまうので、使徒パウロは、お互いに裁き合いを即刻止めるように勧告し命じたのです。1節から4節がそうです。
1節と2節に、「信仰の弱い人」という言い方が出てきます。そこで、わたしたちは、1世紀のローマ教会の「信仰の弱い人」というのは、どのような人なのか。また、他方、「信仰の弱い人」を、あれこれ批判していた「信仰の強い人」とは、どのような人なのかと思うのです。
すると、2節で言われていますように、「信仰の強い人」とは、「何を食べてもよいと信じている人」でしたし、「信仰の弱い人」とは、「野菜だけを食べる人」でした。
では、さらに突っ込んで、「何を食べてもよいと信じている」信仰の強い人とは、具体的に、どのような人だったのでしょう。また、「野菜だけを食べる人」と言われている信仰の弱い人とは、具体的にどのような人だったのでしょう。
すると、信仰の強い人と信仰の弱い人の違いは、旧約聖書に記されている食べ物に関する律法をどのように考えるかについて考えが分かれていたのです。すなわち、旧約聖書のレビ記11章などを見ますと、宗教的に汚れている動物と宗教的に清い動物のリストが出ていて、宗教的に清い動物の肉は食べてよいが、宗教的に汚れている動物の肉を食べると、自分も宗教的に汚れるので、食べてはいけないと命じられていました。
しかしながら、宗教的に汚れている動物と宗教的に清い動物の区別は、イスラエルの民が、宗教的な汚れから離れて、宗教的な清さの中で歩むための分かり易い実物教育として語られていたのでした。しかし、約束の救い主メシアのイエスさまが出現し、旧約時代が終わり、新約時代が始まったときには、旧約聖書のレビ記などの食べ物に関する律法はその目的を十分果たして、廃止され、効力を失いました。その結果、新約時代においては、最早、宗教的に汚れている動物と宗教的に清い動物の区別はなくなったのです。
すなわち、すべての動物が清いとされて、どの動物の肉でも自由に食べてよい時代になりました。そこで、パウロも、テモテへの手紙一4章3節と4節で次のように言いました。「この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りなったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです」と言いまして、新約時代における食べ物の自由を極めてはっきり教えました。
こうして、信仰の強い人は、旧約時代が終わり、新約時代が始まったことをよく理解していましたので、肉を自由に食べました。しかし、信仰の弱い人は、このことをまだよく理解しておらず、以前として旧約時代と同じく、宗教的に汚れた動物の肉を食べてはいけないと考えていました。
そして、また、信仰の弱い人が肉を食べない理由が他にもありました。すなわち、イスラエルの民は、旧約時代には、異教の神殿で偶像の神々に献げた動物の肉を食べることは、偶像礼拝をすることであるとして、食べることをしませんでした。ところが、1世紀のローマの市場では、動物の肉が普通に売られていましたが、その肉に中には、異教の神殿で偶像の神々に献げた動物の肉がお下がりとして、混ざって売られていました。そこで、市場で肉を買って食べると、お下がりとして混ざって売られていた偶像の神々に献げた動物の肉を食べることになり、偶像礼拝をすることになるという理由で、肉を食べずに、野菜だけを食べていたのです。
こうして、信仰の弱い人は、旧約時代が終わって、新約時代になって、どの動物の肉でも自由に食べてよいことをまだ理解していなかったので、信仰の強い人が、どの動物の肉でも自由に食べることは、旧約時代の食べ物に関する律法を守っていないと主張し、彼らは神に裁かれると主張していました。
教会には、その時代、その時代の問題がありますが、1世紀のローマの教会には、野菜だけを食べるべきなのか、また、ある日は、他の日よりも尊いのかということをめぐって、信仰の強い人と信仰の弱い人が互いに裁き合い、教会の一つの平和なまじわりが壊れる危険があったのです。
2.裁き合いをしてはならない第1の理由
そこで、パウロは4つの理由を挙げ、双方に裁き合いをすぐに止めるように命じたのです。それで、わたしたちは、4つの理由を順次見ていきましょう。まず第1の理由は何でしょう。すると、主人であるキリストに仕える信者を、他の信者が裁くことは越権行為であって、決してしてはならないという理由です。
そこで、パウロは、信仰の強い人には、1節で、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」と勧告しました。すなわち、信仰の強い人が、信仰の弱い人の考えは理解が足りないとか、認識が足りないとか、洞察力がないなどとあれこれ批判し、まじわりから遠ざけないように、逆に、まじわりに積極的に、暖かく受け入れるように命じました。「批判してはなりません」というのは、その考えが、不十分であると批評し、批判することを意味します。
こうして、1節で、すでに信仰の強い人への勧告をしたので、今度は、3節後半から4節で、パウロは信仰の弱い人への勧告をします。すなわち、肉を自由に食べる信仰の強い人を、神御自身が受け入れているのに、信仰の強い人は、旧約聖書の食べ物に関する律法を守っていないと主張して、神の裁きが下ると激しく語ることは越権行為であるとし、召し使いとその主人のたとえを使って、信仰の弱い人に分かり易く語りました。
すなわち、1世紀において、主人がお金を払って奴隷を買い取り、自分の家の中で働く召し使い、すなわち、僕、使用人とした者に対して、他の人がとやかく言うことは越権行為で、誰もそのようなことをしませんでした。家の中で働く召し使い、すなわち、僕、使用人とされた者を、生かすも殺すも、立つも倒れるも、それはお金で買い取ったその主人だけができる権限でした。
4節に、「召し使い」が出てきますが、「召し使い」とは、もともと、奴隷ですが、主人がお金を払って買い取り、自分の家の中で働く召し使い、僕、使用人にされた者を意味します。それゆえ、その召し使い、僕、使用人にされた者を、生かすも殺すも、立つも倒れるも、それは、お金で買い取った主人だけの権限でした。他人の召し使い、僕、使用人を裁くことは越権行為でした。
それゆえ、野菜だけしか食べない信仰の弱い人が、肉を自由に食べる信仰の強い人を激しく裁くことは、越権行為で成り立たないことを、パウロは、主人と奴隷のたとえで分かり易く教えたのです。まして、信者は、キリストが御自分の尊い命を十字架で払って買い取り、御自分に仕える召し使い、僕、使用人にした者ですので、信者が立つも倒れるも、それができるのは主人のキリストだけですし、さらに、キリストは、信者を必ず立たせることがおできになるのです。すなわち、キリストは、どの信者も御自分に仕えるよき召し使い、よき僕、よき使用人にすることがおできになるのです。それゆえ、野菜だけしか食べない信仰の弱い人が、肉を自由に食べる信仰の強い人の考えを罪であると、自分勝手に判断して、彼らに神の裁きがあると激しく語るなどということは、厳に慎まなければなりません。
3節後半に、「食べない人は、食べる人を裁いてはならないし」とあり、「裁く」という言葉が出ていますが、この「裁く」は、1節に出てくる「批判」よりもさらに強い言葉で、相手の考えが、神の御心に背く罪であるとして、相手に神の裁きを下ることを激しく語ることを意味します。ですから、信仰の弱い人は、肉を自由に食べる信仰の強い人に対して、それは、罪になるとして、神の裁きが下ることを語るほどの激しさで、裁いていたのです。
でも、それは、してはならない越権行為になります。それは、キリストが十字架で御自分の命を代価として買い取ったキリストに仕える召し使い、キリストに仕える僕、キリストに仕える使用人を、他人が、勝手に裁く越権行為をしていることになるので、避けなければなりません。
そして、このことは、今日も同じです。わたしたちは、教会のまじわりの中で裁き合いをしてはならないのです。信仰の強い人も、信仰の弱い人も、共に教会にあって、一つの平和なよきまじわりをして、今の時代に真の生き方を証しながら共に歩んでいくべきです。
3.裁き合いをしてはならない第2の理由
では、裁き合いをしてはならない第2の理由は何でしょう。すると、信仰生活にはお互いに考えにおいて違いがあってもよいものが、いろいろあるという理由です。すなわち、信仰の本質に関わらないことは、お互いに自分が自分自身の心の中で確信していれば、他の人と違って多様性があっても、それでよいこともいろいろあるのです。
実は、1世紀のローマの教会には、日の問題もありました。すなわち、信仰の弱い人は、まだ、理解が十分でなかったので、旧約時代のイスラエルにおいてのようにある日を他の日よりも尊い日として守ることを強く主張していました。5節前半がそうです。それで、わたしたちは、ある日を他の日よりも尊い日として守るということは、具体的にどのようなことなのかと思うのですが、パウロはそれ以上のことを何も記していません。
考えみますと、旧約時代のイスラエルにおいては、ある日を他の日よりも宗教的に尊い日として守っていました。たとえば、出エジプトを記念する過ぎ越しの祭りの日、出エジプト後の荒れ野の旅を記念する仮庵の祭りの日、秋の収穫を感謝する七周の祭りの日、イスラエルの民の罪の赦しを求めて大祭司が一年に一度至聖所に入って、雄山羊と雄牛の血を、契約の箱に注ぐ贖いの日などは、また月の第1の新月の祭りの日は、他の日よりも宗教的に尊い日として、ユダヤ人たちにより長い間守られてきました。
しかし、これも、また、先ほどの野菜しか食べないことと同じでした。すなわち、それらの祭りの日は、救い主キリストが出現し、旧約時代が終わり、新約時代の開始とともに、その目的を十分果たして終了し、廃止されたのです。それゆえ、キリスト教信仰は、旧約時代の祭りの日を、他の日よりも宗教的に尊いとすることはなくなりました。こうして、ある日が、他の日よりも、宗教的に尊いということはなくなり、すべての日は、日として同じなのです。ところが、信仰の弱い人は、このことも、まだよく理解していませんで、相変わらず、ある日は、他の日よりも宗教的に尊いと主張していました。
そのため、ローマの教会には、ある日を他の日以上に尊いと主張する人と、すべての日は同じで、特に違いはないと主張する人がいて、互いに相手が誤っているとして裁き合い、相手に神の裁きを語るような深刻な状況であったと思われます。
そこで、使徒パウロは、勧め、命じるのです。では、使徒パウロは、どのように勧め、命じたのでしょう。すると、パウロは、日についての考え方が違っても、互いに裁き合うことをしないように即刻命じているのです。何故でしょう。その理由は、日については、各自が自分自身の心において、確信していれば、もうそれでよいことで、それを声高に主張し合って、相手の考えが間違っていると裁き合う必要のない事柄なのです。
5節後半をよく見てみますと、「それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです」とありますが、ここで大切なことは、各自が自分の心の中で確信をもって判断し、決めていれば、もう、それでよいと言われていて、他の人にまで強制することではないことを教えているのです。「それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです」という文章は、厳密に訳せば、「それは、各自が、自分自身の心において、十分確信すべきことです」となり、大切な点は、自分自身の心の中で十分確信していれば、もう、それで済む事柄、もう、それでよい事柄ですよという意味で、他の人にまで強制して、互いに裁き合ったりする必要がない事柄ですよという意味です。
ですから、それは、信仰義認の事柄のように、みんなが同じ考えをもたなければならないキリスト教信仰の根本的事柄とは違いますよと、パウロは言っているのです。信仰義認においては、全員が皆同じでなければいけません。たとえば、律法をすべて自力で完全に守り行って救われるなどという律法主義による救いの考えは、教会では絶対に許されません。これを認めれば、信仰により恵みによってのみ救われるキリス教信仰は、ガラテヤ教会においてのようにガラガラ崩壊してしまいます。
しかし、日の問題は、すべの信者がこのように考えるべきだという信仰の根幹に関わる重大問題ではないので、一人ひとりの信者が、それぞれ自分自身の心で判断し、日についての自分自身の考えは、こうであると自分自身の心の内部で確信していれば、それでよい問題で、教会の中で互いに声高に主張し合って、裁き合う問題ではなかったのです。
それゆえ、個人個人の判断に委ねておけばよい事柄なのです。そして、個人個人の判断に委ねておけば、いずれ、食べ物のことと同様に、信仰の弱い人の信仰が成長し、キリスト教信仰は、旧約時代のそれらの祭りの日を、より尊い特定の日として守る必要は、最早ないのだということに、信仰の弱い人が気づくときが必ず来るからです。
そして、それでいいのです。教会において、何でもかんでもすべてあらゆることが微に入り、細に入り、完璧に一致し、同じでなければならないということは、ないのです。それなら、教会は成り立たないのです。信者はそのようなことをしないのです。根本的なこと以外においては考えにおいて違いがあってよいのです。
そして、このことは、今日のわたしたちもそうです。信仰生活においては、各自が自分自身の心の内部で確信していれば、それでよいこともたくさんあることを、互いに十分認め合い、裁き合いをせず、平和で喜びに満ちたよいまじわりをし、豊かな祝福を共に神から受け、皆で明るく歩んでいくのです。
4.裁き合いをしてはならない第3の理由
では、裁き合いをしてはならない第3の理由は何でしょう。すると、小さな違いに目を向けるのではなく、信者は皆、教会の頭である主イエス・キリストのものにされていて、教会の頭である主イエス・キリストのために、すなわち、主イエス・キリストが誉れを受けるために信者は皆生き、あるいは、主イエス・キリストが誉れを受けるために信者は皆死ぬ者に、すでに変えられているという素晴らしい一致に立って歩むので、相互に裁き合いをする必要がまったくないという理由です。
6節から8節を見ますと、「主のために」という言い方が、数え方にもよりますが、何と5回も出てきて、意識的に目立つようにされています。すなわち、6節に、「主のために」が、3回、8節に、「主のために」が、2回、計5回も出てきます。多いですね。これはとても強い強調です。
そして、「主のために」とは、どのような意味かと思うのですが、6節の「主のために重んじる」の「重んじる」が、その意味を教えてくれます。この「重んじる」という言葉は、「誉れとなる」という意味です。すなわち、信者は、教会の頭である主イエス・キリストの所有にされているので、教会の頭である主イエス・キリストが誉れを受けるように考え、行動することにおいて、素晴らしい一致があるという意味です。
すなわち、教会の頭である主イエス・キリストは、十字架で御自分の命を支払い、わたしたちを罪から買い取り、キリストのもの、キリストの所有としてくださいました。それゆえ、信者は、そのときから、最早、自分のため、すなわち、自分の誉れのために生きるものでなくなったのです。自分の誉れのために生きる信者というのは、だれ一人いないのです。信者は、教会の頭である主イエス・キリストの所有とされ、教会の頭である主イエス・キリストが誉れを受けるように人生を生き、また、人生の最後には、天国を確信し、平安のうちに生涯を終わることにより、教会の頭である主イエス・キリストが誉れを受けて死ぬ者に、すでに変えられているのです。
この人生の根本目的において、信仰の強い人も、信仰の弱い人も完全に一致しているのです。それゆえ、信仰の強い人も、信仰の弱い人も、食べ物や日のことで考え方に多用性があっても、裁き合うことを即刻止め、一致している人生の根本目的をもう一度共に確認し、平和なよいまじわりをしながら歩むことが教会にとって重要なのです。
そこで、パウロは、信仰の強い人も、信仰の弱い人も完全に一致している信者の人生の根本目的である、信者は教会の主であるイエス・キリストの所有にされていて、生きるも死ぬも、すべて、キリストのため、すなわち、キリストが誉れを受けるためであることを、類似した言い方を4回もわざわざ繰り返して語っています。
7節と8節を見ますと、信者は、すべてキリストの所有とされているので、信者の人生の根本目的は、キリストのため、すなわち、生きるも死ぬも、キリストが誉れを受けることであることを、何と、意識的に4回も繰り返して、強調しています。すなわち、1回言えばわかることを、パウロはわざわざ、似た言い方で4回も繰り返しているのです。
7節では、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません」とありますが、この7節では、信仰の強い人も、弱い人も、自己のために生き、死ぬ信者は、誰一人いないことが強調されています。すなわち、キリストをさしおいて、自己のため、自己が誉れを受けるために生き、死ぬ信者は、だれ一人もいないことが強調されています。
次いで、8節前半では、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」とありますが、この言い方で、「主のために生きる」ことと「主のために死ぬ」ことが強調されています。すなわち、信仰の強い人も、弱い人も、信者はキリストの十字架の贖いにより、キリストに買い取られ、キリストの所有となり、罪から解放され、喜んで生涯を生き、そして、最後には、キリストの十字架の贖いの素晴らしい効力により、天国を確信し、平安の内に生涯を終わって死ぬことにより、教会の主イエス・キリストが誉れを受けることが強調されています。
さらに、8節後半では、「従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」とあり、この8節後半では、わたしたちが、キリストのために生き、キリストのために死んで、キリストが誉れを受けるのは、それは、信仰の強い人も、弱い人も、すべての信者が、十字架の贖いにより、すでに、教会の主であるイエス・キリストの所有、すなわち、教会の主であるイエス・キリストの誉れに仕える者に、もうすでに変えられているという素晴らしい事実が強調されています。
また、9節では、「キリストが死に、そして、生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」とあり、この9節では、キリストが、信仰の強い人も、弱い人も含めて、すべての信者に仕えられ、誉れを受けるふさわしい主であることを明らかにしたのは、キリストが、信仰の強い人も、弱い人も含めて、すべての信者の救いために、十字架で贖いをして死んだ後、復活し、死の力を打ち砕き、死に勝利することによってであったことを意味しています。
死の強い力を木端微塵に打ち砕いて勝利し、生きることがおできなるお方は、世界広し、歴史長しと言えども、キリストただおひとりです。それゆえ、キリストだけが、すでに亡くなって死んだ信者を、やがて死から復活させることできる主であり、また、今、生ている信者が、喜んで仕えて、誉れを受けるにふさわしい唯一の主なのです。キリストは、すでに死んだ信者に対しても、今生きている信者に対しても主なのです。
9節に、「キリストが死に、そして、生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」とありますが、「生きたのは」というのは、死から復活して生きたのはという意味で、死からの復活を意味しています。また、「死んだ人にも・・・主となられるためです」というのは、キリストは、すでに亡くなって、死んだ信者を、やがて死から復活させることできるので、死んだ信者に対しても主ですという意味です。
こうして、パウロは、信仰の強い人も、信仰の弱い人も完全に一致している人生の根本目的である、信者は教会の主であるイエス・キリストのものにされていて、生きるも死ぬも、すべて、キリストのため、すなわち、キリストが誉れを受けることにおいて、完全に一致しているので、各自が自分自身の心の中で確信していればそれでよい食べ物のことや日のことで、裁き合わないように勧告し、命じたのです。
本当にそうです。主イエス・キリストのものとされているわたしたち信者は、罪から解放され、生涯を喜び生きることによって、キリストの誉れを現わし、また、生涯が終わるときには、天国を確信し、平安の内に死ぬことによって、キリストの誉れを現わす者に、すでに変えられていることを、お互いに胸にしっかり刻んで、よいまじわりをしながら歩みができるのです。
4.裁き合いをしてはならない第4の理由
では、裁き合いをしてはならない第4の理由は何でしょう。すると、それは、信者は皆、信仰の強い人も、信仰の弱い人も、教会の主イエス・キリストのものであり、教会の主イエス・キリストのため、すなわち、教会の主イエス・キリストの誉れを現わすために生き、そして、死ぬのです。信者は皆、信仰の強い人も、信仰の弱い人も、同じ目的の下にあるのです。
それゆえに、だれも、教会の主イエス・キリストの誉れを現わすために生き、そして、死ぬ信者を、自分勝手に先走りして裁いたり、あるいは、軽蔑し、軽んじて、まじわりから遠ざけたりなど、だれにもできないのです。
信者がすべきことは、常に生きていてすべてを御存じの偉大な神に対する服従と讃美の心をもって、神による最後の審判の座の前に立って、地上における自分が行った自己の言動について、自分が申し開きする、すなわち、弁明するときが来ることを厳かに待つことなのです。裁きは、神が最後の審判でなさることなのです。
そこで、パウロは、旧約聖書のイザヤ書45章23節とイザヤ書49章18節を組み合わせて引用し、信者は、常に生きていてすべてを御存じの偉大な神に対する服従と讃美の心をもって、神による最後の審判の座の前に立って、地上における自己の言動について、自分が申し開きする、すなわち、弁明するときが来ることを厳かに待つべきことを教えて、1世紀のローマの教会の信者たちが、裁き合うことを即刻止めるように勧告し命じたのです。裁きは、すべてのことをご存じの神が最後の審判で公平に誤りなくなさることなのに、人が神に代われるかのように相手に神の裁きを自分勝手に宣告することなどは、不可能なことなのです。それよりは、自分自身が、最後の審判で神に裁かれないように自分の言動に注意することが大切なのです。
11節の鍵括弧に入っている御言葉は、旧約聖書のイザヤ書45章23節とイザヤ書49章18節を組み合わせて引用した言葉です。「わたしは生きている」というのは、常に生きていて何でも御存じである偉大な神を表します。「すべてのひざはわたしの前にかがみ」とは、偉大な神に対して、服従と従順の姿勢を表わします。「すべての舌が神をほめたたえる」というのは、偉大な神の栄光を讃美する姿勢を表わします。
したがって、人は、信仰の強い人も、弱い人も、常に生きていて、すべてを御存じの偉大な神に対して、服従と讃美の姿勢をもって、神の裁きの座の前に、自分が立つことを厳かに覚え、自分の言動について申し開きできるように、各自が真剣に備えるべきであって、主にある兄弟姉妹を、自分勝手な判断で侮り、軽んじ、軽蔑し、あれこれ批判し、自分勝手に神の裁きを相手に語ることをしてはらないのです。
それゆえ、わたしたち信者がなすべきことは、信仰の本質でないことについての考え方に違いがあるからと言って、互いに裁き合いをするのではなく、信仰の強い人も、弱い人も、教会の主イエス・キリストの誉れを表すために生き、死ぬ者に変えられているという素晴らしい根本的一致に目を向け、教会における平和で明るいよいまじわりをし、神から豊かな祝福を受けることなのです。
結び
以上のようにして、今日の個所を見ますが、21世紀の日本の信者であるわたしたちも、教会の主イエス・キリストの誉れを現わすために生きていることにおいて、根本的に一致していることを、お互いに認め、教会においては平和なよいまじわりをし、今の時代に、信仰のよき証しをしながら歩んでいきたいと思います。
お祈り
憐れみ深い天の父なる神さま、
あなたの変わらぬいつくしみにより、1週間の歩みを各々のところで守られ、今日、また新しい週のはじめに御前に礼拝に導かれ心から感謝いたします。
今、わたしたちは、ローマの信徒への手紙を通して、クリスチャンのまじわりについて教えられました。根本的でないことにおいては、考え方の違いが互いにあることを認め合い、キリストによって贖われて、キリストの所有にされていることにおいて一致していることを根本的に大切にし、教会の平和で明るいまじわりをし、共に永遠の生命の道を喜んで歩んでいくことができますように、聖霊の力と導きをお与えください。
外部から講師の先生をお招きしての伝道集会も近づいてきましたが、どうかよい備えをしていくことができますように、そして、一人でも多くの人が集まって、キリストによる救いのお話を耳にすることができますようにお導きください。
また、今日集まることができなかった方々にも、それぞれのところで祝福がありますようにお願いいたします。
これらの祈りを主イエス・キリストの御名により御前にお献げいたします。アーメン。
http://minoru.la.coocan.jp/ro-makyoudaiwosabakuna.html