* 佐々木稔 説教全集 *   

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   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6:5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ 11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


「福音を聞いて、従順に信ずる」

10章14節―21節

 
 10:14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。10:15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。10:17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。10:18 それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。
「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。10:19 それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、/
「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、/愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。10:20 イザヤも大胆に、/
「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。10:21 しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。

じめに

 

 わたしたちは、主の日の朝の礼拝においては、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが、紀元56年頃、ローマの信徒たちに書いたローマの信徒への手紙を学んでいますが、今日も、わたしたちは、キリストにある素晴らしい救いを順序立てて教えているローマの信徒への手紙から聞きたいと思います。

 

 それで、今日のところは、何が語られているのでしょう。すると、1世紀の多くのユダヤ人は、キリストによる救いの良い知らせである福音を聞いたのに、不従順のゆえに、福音を拒んだので、救われることがなかったことが、4つの言い方で語られています。

 

 そこで、今日の個所から、4点のお話をしたいと思います。第1点は、1世紀のユダヤ人は、神から遣わされたキリスト教伝道者たちを通して、福音を聞いたにもかかわらず、不従順に拒んだという点です。第2点は、1世紀のユダヤ人は、福音を十分聞いたのに、結果から見ると、従順に信じた者はわずかで、多くの者が、不従順に拒んだという点です。第3点は、1世紀のユダヤ人は、本国のユダヤにおいても、地中海各地においても、福音を十分聞いたのに、不従順に拒んでしまったという点です。第4点は、1世紀のユダヤ人の多くは、福音を十分聞いたのに、理解しようとしなかったという点です。

 

 そこで、これらの点を学んで、わたしたちは、ユダヤ人の失敗に倣わず、キリストによる救いの良い知らせある福音を聞いて、従順に信じ、罪の赦しと永遠の生命から成る素晴らしい救いを、恵みとして受け、神との愛のまじわりで、心が豊かに満たされ、喜んで、日々、歩んでいきたいと思います。

 

1.ユダヤ人は、福音を十分聞いたにもかかわらず、拒みました

 

 早速、第1点に入ります。第1点は、1世紀のユダヤ人は、神から遣わされたキリスト教伝道者たちを通して、福音を十分聞いたにもかかわらず、不従順に拒んだという点です。

 

 前回、わたしたちは、今日の直前の個所で、10章13節で、パウロは、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と、教えていました。その意味は、教会の礼拝において、会衆の一員として、「主・イエス・キリストよ」と呼びかけて、キリストを主、すなわち、万物の支配者なる偉大な神御自身として、信仰をもって礼拝する人は、ユダヤ人でも、異邦人でも、誰でも、恵みにより、確実に救われることを意味していました。

 

 すると、ここで、大きな疑問が出てきます。すなわち、パウロは、教会の礼拝において、会衆の一員として、「主・イエス・キリストよ」と呼びかけて、キリストを主、すなわち、万物の支配者なる偉大な神御自身として、信仰をもって礼拝する人は、ユダヤ人でも、異邦人でも、誰でも、確実に救われることを教えましたが、では、1世紀のユダヤ人は、そもそも、キリストによって救いの道が開かれたことそのものを、本当に、聞いて、知っていたのだろうかという大きな疑問が生じます。

 

 すなわち、会衆の一員として、「主・イエス・キリストよ」と呼びかけて、キリストを主とする信仰をもって礼拝する人は、ユダヤ人でも、異邦人でも、誰でも、確実に救われると言っても、イエス・キリストによって救いの道が開かれたことをユダヤ人が、聞いて、知っていなければ、「主イエス・キリストよ」と呼びかけて、キリストを主として、礼拝することができないわけです。

 

 そこで、1世紀のユダヤ人が、キリストによって救いの道が開かれたことを、聞いて、知っていたかどうかという大きな疑問が出てきて、この疑問に答えることなくしては、前進できないのです。

 

 そして、その大きな疑問に答えることの重要性については、パウロも、十分、分かっていましたので、その疑問に答えるのです。では、パウロは、どのように答えたでしょう。すると、1世紀のユダヤ人が、「主・イエス・キリストよ」と呼びかけて、キリストを主、すなわち、神として、信仰をもって礼拝するためには、キリストによる救いの良い知らせである福音を聞くことが必要であり、キリストによる救いの良い知らせである福音を聞くためには、福音を宣べ伝える伝道者が必要であり、伝道者が福音を宣べ伝えるためには、神御自身によって伝道者が遣わされることが必要ですが、1世紀においては、これらはすべてが、十分、成されていたことを、パウロは、力強く語るのです。

 

 14節と15節が、そうです。14節に、「信じたことのない方を、どうして、呼び求められよう。聞いたことのないお方を、どうして、信じられよう」とありますが、これは、直前の13節と関係しています。13節で、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と語って、イエス・キリストを信仰し、礼拝において、「主イエス・キリストよ」と呼び求める者は、だれでも救われると、すでに言われていました。

 

 そこで、今度は、主イエス・キリストを信仰し、礼拝において、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と言いますが、1世紀のユダヤ人は、主イエス・キリストを信仰し、呼び求めて救われるために、主イエス・キリストによる救いの良い知らせである福音そのものを聞いていたのかどうかという疑問を取り上げ、その答えとして、もちろん、ユダヤ人は、主イエス・キリストによる救いの良い知らせである福音を十分聞いていたことを、イザヤ書の御言葉を引用して、パウロは、力強く語るのです。

 

 それで、今日の個所を見ますと、1世紀のユダヤ人が、救われるために、必要なことが、鎖のようにつながって語られています。すなわち、主イエス・キリストを信仰し、礼拝で、「主イエス・キリストよ」と呼び求めて、救われるためには、主イエス・キリストによる救いの良い知らせそのものを聞く必要があります。そして、その救いの良い知らせを聞くためには、良い知らせを宣べ伝える伝道者が必要です。そして、その伝道者が、救いの良い知らせを宣べ伝えるためには、神御自身によって、伝道者が遣わされることが必要です。

 

 14節に、「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」とありますが、「宣べ伝える人」というのは、神から遣わされて、主イエス・キリストによる救いの良い知らせである福音を宣べ伝える、1世紀のキリスト教の伝道者たちを表しています。

 

 そして、実際に、この手紙を書いているパウロをはじめとする、神から遣わされたキリスト教の伝道者たちが、1世紀のユダヤ人たちに、イエス・キリストによる救いの良い知らせである福音を、聖霊の力により、熱心に宣べ伝えたのです。

 

 そこで、パウロは、神から遣わされた自分たち、キリスト教伝道者たちが、ユダヤ人に、主イエス・キリストによる救いの良い知らせである福音を宣べ伝えたことを、旧約聖書、イザヤ書52章7節の御言葉、「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」という御言葉を用いて、力強く語りました。

 

15節に、鍵括弧に入った御言葉があります。そして、「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と言われていますが、この御言葉は、もともとは、旧約聖書のイザヤ書52章7節の御言葉です。

 

 そして、もともとの意味は、ユダヤ人がバビロン捕囚から解放されるという良い知らせを伝える人の足の美しさ、うるわしさ、素晴らしさ、尊さを語っていました。実は、イエスさまよりも、7百数十年前の預言者イザヤの時代のイスラエルは、真の神を忘れ、異教の神々に心を向けていました。そこで、真の神は、審判として、イスラエルが、バビロン帝国との戦いに負けて、多くの人々が、バビロンへ捕虜として連れて行かれること、すなわち、バビロン捕囚を、イザヤは予告しました。

 

 しかし、バビロン捕囚は、永遠に続くものではなく、神の憐れみにより、70年間だけに限られました。そこで、70年間が過ぎたとき、バビロン捕囚がついに終わった!バビロン捕囚から解放されるときが、ついに来た!という喜びの良い知らせを伝える人が、イスラエルの国中をめぐり歩くようになると、神は約束してくださったのです。ですから、「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」という一文は、喜びが、爆発しています。うれしい、超うれいしいという気持ち、感情が、爆発し、溢れ出ています。

 

 そこで、「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」という御言葉は、もともとは、悲惨なバビロン捕囚からの解放を告げる喜びの良い知らせを伝える人の足の美しさ、うるわしさ、素晴らしさ、尊さを意味していました。

 

 ところが、パウロは、その御言葉を、自分たち、1世紀のキリスト教の伝道者に、堂々と当てはめて、バビロン捕囚からの解放ならぬキリストによる罪からの解放を告げる、喜びの良い知らせである福音を、ユダヤ人に伝える自分たち、キリスト教の伝道者の足の美しさ、素晴らしさに適用したのです。

 

バビロン捕囚からの解放を告げる良い知らせが、大きな喜びをもたらすのであれば、キリストによる罪から解放は、その何倍、何十倍、何百倍、否、比較にならない大きな喜びをもたらすものとなったはずです。

 

しかし、1世紀のユダヤ人は、キリストによる罪からの解放の喜びの良い知らせである福音を、不従順にゆえに、拒んでしまったことは、パウロにとって、本当に、悲しみであり、心の痛みであったのです。

 

 それで、このことは、今日も同じです。今日のわたしたちは、ユダヤ人ではないので、バビロン捕囚はありません。しかし、今日のわたしたちも、一人ひとりが、罪の強い力によって捕囚され、霊的な捕らわれ人なのです。それゆえ、神によって立てられた教会において宣べ伝えられている、罪からの解放を告げる福音を聞いて、従順に信じて、罪から解放され、自由にされて、喜びに満ちあふれ、日々、神をほめたたえ歩みたいと思います。

 

2.結果から見ると、多くの者が、不従順に拒みました

 

 第2点に入ります。第2点は、1世紀のユダヤ人は、福音を聞いたのに、結果から見ると、従順に信じた者はわずかで、多くの者が、不従順に拒んだという点です。

 

すなわち、1世紀のユダヤ人の多くの者が、キリストによる救いの良い知らせである福音を聞いても、従順に従わなかったのは、神の側に手落ちがあり、神の側の責任ではないかと、考える可能性がありました。すなわち、福音を聞いて、従順に従ったユダヤ人が多くて、従順に従わなかったユダヤ人が少しというのであれば、これは、従順に従わなかったユダヤ人に責任があると言えますが、従わなかったユダヤ人の方が圧倒的に多くて、従ったユダヤ人がごく少しというのは、それは、神の側に手落ちがあり、神の側に責任があるに違いないと人間的に思う可能性もあったのです。

 

 そこで、パウロは、神の名誉を守るため、多くのユダヤ人が従わなかったのは、神の側に責任があるという考えは、まったく成立しないことを語るのです。何故かと言えば、実は、旧約時代にも、神が備えたメシアによる救いの良い知らせを聞いたのに、不従順に拒んで、多くのユダヤが救われなかったという同じことが、すでに、あったからです。

 

 すなわち、イエスさま出現の7百数十年前の預言者イザヤの時代にも、すでに同じことがあったのです。預言者イザヤは、当時、神が備えたメシアによる救いの良い知らせを、熱心に、ユダヤ人に伝えました。しかし、神が備えたメシアによる救いの良い知らせを聞いたにもかかわらず、従順に信じて救われた者は、わずかであり、従わなかった者が圧倒的に多かったのですが、それは、明らかに、ユダヤ人の不従順のせいで、ユダヤ人の責任でしたが、それと同じことが、1世紀にも起こっていたのです。

 

 16節がそうです。ここに、「「イザヤは、『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っています」とありますが、この鍵括弧に入った御言葉は、旧約聖書のイザヤ書53章1節の引用です。

 

 そして、もともとの意味は、何でしょう。すると、次のようです。預言者イザヤは、将来、神が備えたメシア、救い主が、罪人の身代わりとなって、罪の贖いをして、苦しみ、死ぬことによって、救いが与えられるという良い知らせに従順に従う者が救われると、熱心に、宣べ伝えました。そして、当時のユダヤ人は、皆、聞きました。しかし、受難のメシアによる救いの良い知らせを聞いて、従順に信じて救われた者は、ごく少しでした。多くのユダヤ人は、その救いの良い知らせを不従順に拒みました。それゆえに、多くのユダヤ人は、救いを受けることができませんでした。では、責任は、だれにあるのでしょう。すると、もちろん、メシアによる救いの良い知らせを聞いたのに、不従順に拒んだ多くのユダヤ人にあることは、火を見るよりも、明らかでした。

 

 そこで、パウロは、1世紀においても、まさに、同じことが起こっていることを語るために、イザヤの御言葉を引用しました。すなわち、1世紀において、十字架にかかって苦しみ、死んだ受難のメシアのイエス・キリストによる救いの良い知らせである福音が語られ、ユダヤ人は、聞いているのに、不従順に拒んで、救いを受けられなくなっていました。それゆえ、責任は、だれにあるかと言えば、もちろん、聞いたのに、不従順に拒んでいる多くのユダヤ人にあることは、明らかです。神の側に、責任は、まったくありません。

 

 こうして、7百数十年前の預言者イザヤの時代の多くのユダヤ人の失敗が、1世紀の多くのユダヤ人において、再び、繰り返されていたのです。そして、このことは、今日も、霊的意義を持ちます。わたしたちも、ユダヤ人の失敗を繰り返してはならないのです。わたしたちは、教会が、熱心に語っている受難のメシアのイエス・キリストによる救いの良い知らせである福音を聞いて、従順に信じ、救われて、罪とがをすべて赦され、義とされ、御霊のあらゆる霊的祝福を、心と人生にたっぷり受けて、救いの喜びの中を、日々、歩んで行きたいと思います。

 

3.ユダヤ人は、福音を十分聞いたのに、不従順に拒みました

 

 第3点に入ります。第3点は、1世紀のユダヤ人は、本国のユダヤにおいても、地中海各地においても、福音を十分聞いたのに、不従順に拒んでしまったという点です。

 

すなわち、キリストによる救いの良い知らせは、ユダヤ人の住んでいる一部の地域にのみ宣べ伝えられたのでなく、本国のユダヤ人にも、宣べ伝えられましたし、かつ、地中海世界の各地にいたユダヤ人にも、宣べ伝えられました。それゆえに、キリストによる救いの良き知らせである福音を聞いたのは、一部の地域のユダヤ人だけであったのでなく、ユダヤ人全体に宣べ伝えられたのです。ユダヤ人が、キリストを信じて、救われるためには、まず聞くこと、すなわち、キリストによる救いの良い知らせを聞くことから始まるわけですが、確かに、ユダヤ人は、当時の全地である地中海世界の全地、かつ、当時の世界の果てである地中海世界の果てにおいてまで、キリストによる救いの良い知らせを聞いていたのです。

 

 ですから、キリストによる救いの良い知らせである福音は、1世紀において、ユダヤ人が住んでいた全地において、また、地中海世界の果てにまで、りんりんと響き渡っていたのでした。そこで、使徒パウロは、旧約聖書の詩篇19編5節の美しい御言葉、「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」を引用しまして、キリストによる救いの良い知らせを伝える声と言葉が、1世紀のユダヤ人の住んでいる全地と地中海世界の果てにまで、響き渡っていたことを語ったのです。しかし、それでも、多くのユダヤ人は、不従順に拒んだのでした。

 

 17節と18節がそうです。17節に、「実に、信仰は、聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とありますが、「キリストの言葉」というのは、キリスト御自身が語った言葉とも理解できますし、また、キリストについて語られた言葉とも理解できます。そして、両者は、対立するものではありませんが、ここでは、キリストについて語られた言葉、すなわち、キリストによる救いの良き知らせの言葉である福音と理解するのが文脈的によいと思われます。

 

 そして、また、18節を見ますと、鍵括弧に入っている御言葉、「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」とありますが、この御言葉は、もともとは、旧約聖書の詩篇19編5節の御言葉の引用です。

 

 それで、詩篇の作者は、天や大空などの自然界を人格化して語っています。すなわち、天や大空などの自然界は、自分たちの創造者である偉大な神が存在しますよと声や言葉を出していて、その声や言葉は、全地に、また、世界の果てまで、行き渡っているので、人間は、神が存在しますよという声や言葉を聞いていると語りました。

 

 確かに、天や大空は、自然啓示と言われまして、万物の創造者である神の存在、力、知恵などを、客観的に、実際に、人間に啓示しています。天や大空は、それらの創造者である偉大な神が存在すること、また、それらを創造した神の全能の力、また、それらの創造において表わされている神の知恵が、客観的に啓示されているので、人間は、神を知らないと、言い逃れができないのです。人間は、神が存在しますよという全地に響き渡り、世界の果てにまで行き渡っている天や大空の声や言葉を聞いて生きているのです。

 

 それで、パウロが引用した詩篇の御言葉の力点は、どこにあるかと言えば、「全地に」と「世界の果てに」にあります。直訳すれば、「全地に、響き渡る その声は、世界の果てにまで、及ぶ その言葉は」となっていて、「全地に」と「世界の果てにまで」が、文章の最初に来て、目立つようになっています。

 

 そこで、使徒パウロは、この詩編を、何のためらいなしに、1世紀の福音宣教に当てはめたのです。その意味は、キリストによる救いを表す福音の言葉は、地中海世界全地に響き渡り、地中海世界の果てまでに行き渡っているので、1世紀のユダヤ人も、もちろん、聞きましたという意味です。

 

 実際、そうでした。パウロによって、3回も行われた地中海伝道旅行によって、また、ペトロその他のイエスさまの弟子たちの熱心な伝道によって、1世紀の地中海全地に、また、地中海世界の果てまでと言えるほど、福音の言葉は、聖霊の力により、宣べ伝えられていて、ユダヤ本国にいるユダヤ人も、地中海各地に散らばって暮らしていたディアスポアラのユダヤ人、すなわち、離散のユダヤ人と言われるユダヤ人も、福音を聞いていたのです。

 

 そこで、パウロは、18節後半で、「それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか、もちろん聞いたのです」と語って、1世紀のユダヤ人は、地中海世界の全地に、また、地中海世界の果てまでと言えるほど、福音の言葉が宣べ伝えられたのに、ユダヤ人が信じなかったので、救われなかったことを明らかいにするのです。

 

 そして、このことは、今日も同じです。キリストによる救いの良い知らせである福音を聞いたら、どうするのかと言えば、拒むのではなく、従順に信じて、罪の赦しと永遠の生命より成る素晴らしい救いを恵みの賜物として受け、真の人生を、1日1日、しっかり、歩んでいくことです。

 

 

4.ユダヤ人は、福音を分かろうとしませんでした

 

 第4点、最後の点に入ります。第4点は、1世紀のユダヤ人の多くは、福音を十分聞いたのに、理解しようとしなかった、分かろうとしなかったという点です。すなわち、1世紀のイスラエルの民は、福音を聞いたのに、極悪人にしか課せられない十字架にかかって死んだナザレのイエスが救い主であるはずがないとして、最初から心を閉ざして、理解しようとしなかった、分かかろうとしなかったのです。それゆえ、救われなかったのです。

 

 ところが、異邦人は違ったのです。異邦人は、旧約歴史を担うことがなかったので、霊的に無知で、霊的に愚かな民でした。また、本来、神の民ではありませんでした。ところが、その霊的に無知で、れて気に愚かな民で、本来、神の民ではなかった異邦人は、福音の言葉を聞いたとき、理解しようとした、分かろうとしたのです。そして、実際に、理解し、分かって、イエスさまを信じて、次々と、恵みにより、救われたのです。

 

 そこで、パウロは、19節前半で、「イスラエルは分らなかったのだろうか」と言いましたが、その意味は、「イスラエルは分らなかったのであろうか。そんなことはない。イスラエルは、分からなかったのでなく、分かろうとしなかったのであるという意味です。

 

 ところが、旧約歴史を担うことがないゆえに、霊的に無知で、霊的に愚かな民であり、本来、神の民ではなかった異邦人の民、また、真の神を探し求めたり、尋ね求めたりしなかった異邦人の民が、福音の言葉を聞いたとき、異邦人は、理解しようとし、分かろうとし、そして、実際に、理解し、分かって、真の神を見い出し、信じて、次々と救われ、豊かな祝福を受けたのです。

 

 そこで、パウロは、語るのです。神は、本来、神の民でない霊的に愚かな異邦人の民、また、真の神を探し求めたり、尋ね求めたりしなかった異邦人の民に尊い救いを与えて、本来、神の民であるイスラエルには、救いを与えないで、イスラエルの民が、救いを与えられた異邦人の民をねたみ、嫉妬し、さらに、怒りまで覚えるようにされたことを、パウロは語るのです。

 

 19節後半と20節前半がそうです。19節後半の鍵括弧に入った御言葉は、旧約聖書の申命記32章21節の引用です。そして、そのもともとの意味は、旧約時代において、もし、イスラエルが、神に心を向けなくなったときには、救いを、本来、神の民でなく、霊的に愚かな異邦人の民に与えますよ、そして、イスラエルは、救いを与えられた異邦人をねたみ、さらには、異邦人に怒りまで覚えるようにしますよという意味でしたが、そのことが、今や、1世紀において、実現したことを、パウロを語っているのです。

 

「わたしの民でない者」、また、「愚かな民」とは、異邦人の民のことです。本来、神の民でなく、霊的に愚かな異邦人の民に救いが、与えられたので、イスラエルは、異邦人の民をねたみ、さらに、異邦人の民に怒りすら覚えるようになるという意味ですが、1世紀に、その通りになりました。

 

 そして、20節前半の鍵括弧に入っている御言葉は、イザヤ書65章1節の引用です。そして、そのもともとの意味は、旧約時代において、イスラエルの民は、神から心が離れ、神を探し求めることをせず、また、神を尋ね求めることもしなかったので、神は、自分を探し求めたり、尋ね求めたりしなかった異邦人の民に見い出され、異邦人の民に、御自分を積極的に現わして、異邦人の民に救いと祝福を与えると語っていたのですが、そのことが、今や、1世紀において、実現したことを、パウロを意味しています。

 

 「わたしを探さなかった者たち」、また、「わたしを尋ねなかった者たち」とは、異邦人の民のことです。イスラエルは、神から心が離れ、神を探し求めることをせず、また、神を尋ね求めることもしなかったので、神は、自分を探し求めたり、尋ね求めたりしない異邦人の民に見い出され、異邦人の民に、御自分を現わして、異邦人の民に救いと祝福を与えると語っていたことが、1世紀において実現したことを、パウロは意味しています。

 

 もちろん、神は、イスラエルの民が、福音の言葉を聞いても、不従順で、信じず、逆に、福音の言葉を語るパウロをはじめとする伝道者たちを激しく迫害して、反抗し、反逆しても、なお、イスラエルの民が、反省し、悔い改めて、従順に信じて、罪から救わるように、忍耐と寛容をもって、「一日中」、すなわち、絶えず、救いの手を差し伸べてきたのですが、でも、イスラエルの民の大多数は、不従順で、信じようとしなかったのです。それゆえ、救われなかったのです。

 

 考えてみますと、紀元30年頃のペンテコステでの教会の誕生のときから、このローマの信徒への手紙が書かれるまでの紀元56年ごろまでの間においても、すでに、もう約26年間も、イスラエルの民の福音伝道への妨害やパウロをはじめとする伝道者たちへの激しい迫害がありながらも、神は、忍耐と寛容をもって、イスラエルの民の福音伝道への妨害や迫害を見逃し、なおも慈愛深く、救いの手を差し伸べてくださいました。そして、この後も、救いの手を差し伸べてくださるのです。まさに、「一日中」、すなわち、絶えず、救いの手を差し伸べたのです。ところが、イスラエルの民は、福音を聞いても、従順に応答しなかったのです。「一日中」というのは、朝から晩まで、すなわち、絶えずという意味です。

 

こうして、1世紀のイスラエルの民の大多数が救われなかったのは、神の側に手落ちがあったからではなく、イスラエルの民の側の不従順のせいであることを、パウロは明らかしたのです。今日も同じです。キリストによる救いの良い知らせである福音を聞いたときに、人がすべきことは、ただひとつで、それは、従順に信仰をもって受け入れることです。これで、人は、永遠の価値を持つ尊い救いを受け、喜びと希望をもって、後悔のない真の人生を、日々歩めるのです。

 

結び

 

 以上のようにして、今日の個所を見ます。今日のわたしたちは、ユダヤ人ではないので、バビロン捕囚はありません。しかし、今日のわたしたちも、一人ひとりが、罪の強い力によって捕囚され、霊的な捕らわれ人なのです。それゆえ、神によって立てられた教会において、宣べ伝えられている、キリストによる罪からの解放を告げる良い知らせである福音を聞いて、従順に信じて、罪から解放され、救いの喜びで、心が満ちあふれて、今週も歩んでいきたいと思います。

 

お祈り

 憐れみ深い天の父なる神さま、
1週間の歩みを守られ、また、新しい週の最初の日、今日は7月第2主日ですが、礼拝に導いてくださり、心から感謝いたします。

 今、わたしたちは、礼拝を通し、1世紀のユダヤ人の失敗を見ましたが、今日のわたしたちは、ユダヤ人に倣わず、キリストによる救いの良い知らせである福音を聞いて、心を開いてい、従順に受け入れ、罪からの救いといろいろな祝福と永遠の生命を確実に、自分のものとして与えられ、救いの喜びの中に日を過ごすことができますように、聖霊によりお導きください。
 今年は、梅雨が長く続いていますが、一人一人の心と体をも守って、各々の歩みをさせてください。
また、今日集まることができなかった方々にも、それぞれのところで顧みがありますようにお願いいたします。

 これらのの祈りを主イエス・キリストの御名により、御前にお献げいたします。アーメン

 

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