* 佐々木稔 説教全集 * |
ローマ書講解説教 - 佐々木稔 | Shalom Mission |
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「救いは、神の主権的憐れみによる」
ローマの信徒への手紙9章19節―29節
はじめに
わたしたちは、主の日の朝の礼拝においては、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが、紀元56年頃、ローマの信徒たちに書いたローマの信徒への手紙を学んでいますが、今日も、わたしたちは、キリストにある素晴らしい救いを順序立てて教えているローマの信徒への手紙を共に、学びたいと思います。
それで、今日のところは、何が教えられているのでしょう。すると、今日のところは、前回からの続きで、旧約の歴史を担ったユダヤ人の救いの問題が、使徒パウロによって語られています。すなわち、神は、ユダヤ人の中のある者を憐れみにより救い、また、ある者には、その心をかたくなにして、救いを与えませんでしたが、それは、人間にまったくとらわれない神の自由な選びという主権的行為であって、小さな被造物に過ぎない、しかも、罪に染まっている人間が、その神に対して、反対や異議を唱えるべきことではなく、人間は、救いが、自由で主権的な神の憐れみによることをしっかり覚えて、自分が救われていることを心から、感謝すればよいことが、パウロにより、教えられているところです。
神の主権的憐れみによる救いは、わたしたち人間の思いや常識をはるかに超えるものですので、わたしたち人間は、この教えを完全に理解し尽すことはできません。でも、聖書が、明白に教えていることとして受け入れ、自分の救いは、神の憐れみによることを覚えて、心から感謝したいと思います。
それで、今日の個所から、3点のことを、お話したいと思います。ローマの信徒への手紙は、難しいと言われますが、できるだけ、簡潔に、お話ができればと願っています。まず第1点は、1世紀のユダヤ人の多くが救われなかったのは、神の主権的な御心によるというのであれば、神は、1世紀のユダ人の不信仰の罪を責めることができないのではないかという疑問が生じるという点です。
第2点は、1世紀のユダヤ人は、国民的な規模で、約束の救い主のイエスさまを十字架につけて殺してしまったにもかかわらず、それでもなお、ユダヤ人の中に、救われる人々が残されていて、実際、救われたことは、神の憐れみであり、また、同時に、旧約歴史を持たないゆえに、霊的暗黒に坐していた異邦人から、多くの救われる人々が起こされたことは、神の憐れみで、彼らは、憐みの器と呼ばれるという点です。
第3点は、1世紀のユダヤ人は、国民的な規模で、約束の救い主のイエスさまを十字架につけて殺してしまったにもかかわらず、そのユダヤ人の中に、なお救われる人々が残されていて、実際、救われたことは、偶然の出来事ではなく、旧約時代からの神の御計画であったという点です。
第4点は、以上のように、1世紀のユダ人の多くの人々が救われなかったのは、神の側からみれば、神の主権的御計画によることですが、人間の側から見れば、それは、1世紀のユダ人が、イエスさまを信じて救われるという信仰による義を求めず、律法をすべて完全に行って救われるという律法主義による義を求めたからであるという点です。ですから、1世紀のユダ人の多くの人々が救われなかったのは、イエスさまを信じなかったからです。信じれば、救われたのです。
1.神は、ユダ人の不信仰の罪責めることができないのではないかとの疑問
では、早速、第1点に入りましょう。第1点は、1世紀のユダヤ人の多くが救われなかったのは、神の主権によるというのであれば、神は、1世紀のユダ人の不信仰の罪を責めることができなくなるはずであるという反論が生じるという点です。
わたしたちは、前回、直前の個所から、救いは、神の自由な選びの御計画によるということを、使徒パウロから学びました。すなわち、神は、パウロが伝道していた1世紀において、少数のユダヤ人の心を、憐れみにゆえに、柔らかにして救い、多くのユダヤ人の心を頑なにしましたので、多くのユダヤ人は、救われませんでした。
すると、ここで、疑問が生じます。すなわち、もし、神が、1世紀において、ユダヤ人の多くの人の心を頑なにしたので、かれらが救われなかったというのであれば、彼らが救われなかったのは、神の主権的御心によることになり、彼らの不信仰を罪として、神が責めることができなくなるはずである。神の主権的御心に逆らえる人はいないので、彼らも、神の御心を行ったにすぎなくなる。したがって、彼ら自身の責任を、神は問えなくなるはずだという反論が、パウロに対して、生じます。実際、1世紀に、そのような反論を、パウロに対して、持つ人々がいたと思われます。
そこで、パウロは、この反論に答えるのです。では、どのように答えたのでしょう。すると、被造物に過ぎない人間が、万物の創造者である主権的な神の御心に「逆らうこと」、すなわち、反対したり、反抗したり、抵抗したりすること自体が、そもそも、神と人間の本来の関係からの逸脱で、まったくの無意味であることを、焼き物師と、焼き物師によって造られる器にたとえて、明らかにするのです。
19節から21節がそうです。19節に、「ところで、あなたは言うであろう」とありますが、原文では、「ところで、あなたは、わたしに言うであろう」となっていて、「わたしに」という言葉が入っていて、ユダヤ人が、パウロに対して、次のような疑問をぶっつけてくることを意味しています。
では、1世紀のユダヤ人は、パウロに対して、どのような疑問をぶっつけてくるのでしょうか。すると、鍵括弧に入った疑問をぶっつけてくるのです。では、鍵括弧に入った疑問は、どのような疑問でしょう。
すると、前回お話しましたように、パウロは、直前の個所で、神は、自由な選びの主権的な御計画によって、ある者を憐れみ、その心を柔らかにして、救われるようにしましたが、しかし、他の者の心を頑なにしたので、彼らは救われなかったことを語りました。そこで、ユダヤ人から疑問が出るのです。
もし、救われる者と救われない者が、神の御心によって、定められていると言うのであれば、救われるか救われないかは、神の御心次第であるから、救われない者の不信仰を、神が責めるは、おかしい。何故なら、すでに神の御心によって定まっていることに、逆らったり、反対したり、反抗したりすることは、誰もできないからである」という疑問を、パウロに対して、ぶっつけたのです。
「ではなぜ、神はなおも人を責めることができるのだろう」とありますが、「人を責める」とうのは、人の不信仰を責めるという意味です。すなわち、救われるか救われないかは、すでに神の御心によって定まっていると、パウロが言うならば、その場合には、神は、人の不信仰を責めることができなくなるであろうという意味です。
何故なら、すでに神の御心によって定まっていることに、逆らったり、反対したり、反抗したりすることは、誰もできないからです。すでに神の御心によって定まっていることが、生じて、救われるように定められた人は救われ、救われないように定められた人は救われあにことが、生じることだけのことで、救われない人の不信仰を、神が責めることはできないはずだという意味です。
「だれが神の御心に逆らうことができようか」とありますが、「逆らう」という言葉は、「逆らう」の他にも、「反対する」、「反抗する」、「抵抗する」とも訳せる言葉です。そして、その意味は、すでに神の御心によって定まっていることに、逆らったり、反対したり、反抗したりすることは、誰もできないという意味です。
こうして、同じユダヤ人の中に、救われる者と救われない者に分かれるのは、神の自由な選びの御計画、すなわち、神の主権的な御心によると、パウロが言ったことに対するユダヤ人の反論となります。そして、これは、よく言われてきましたように神の主権と人間の責任に関わる問題ですが、パウロは、この問題を論理的に取り上げて、論じるというようなことをしないのです。
では、この疑問にどのように対応したのでしょうか。すると、パウロは、それが、神の主権的御心であっても、彼らの不信仰の罪の責任は、幾らでも、十分に問えることを語るのですし、また、パウロは、「人よ、神に口答えするとは、あなたは何ものか」と語り、ユダヤ人が、自分が小さな被造物に過ぎないという立場を弁えることなく、万物の創造者で、主権者である神に対して、まるで、口をとがらせて、平気で、神と対等、同等であるかのように、言い返すような反論をしてくること自体が、万物の創造者で、主権者である神と、その神に造られた小さな被造物に過ぎない人間の本来の関係からの完全な逸脱で、神に言い返すことは、無意味であることを、焼き物師と、焼き物師によって造られる器にたとえて、パウロは、明らかにするのです。
すなわち、焼き物師は、同じ粘土から、いろいろな用途の、焼き物を自由に造ります。ある焼き物は、尊く、価値があり、誉をうける物に造り、また、ある焼き物は、尊くなく、価値が低く、誉を受けない物に造る権威があります。どの用途にするかを、いちいち、焼き物に、相談したりなど、当然のことながらしないのです。
また、各々の焼き物も、もちろん、自分を、このように造ったのかなどと口答えしたり、言い返したりなどは、まったくしないのです。何故かと言いますと、焼き物師と、焼き物の間には、まったく超えることができない無限の違いがあるからです。焼き物師と焼き物は、決して、対等、同等の立場にあるのではありません。造る者と造られる物の超えることのできない根本的な違いがあるのです。それと同じことが、神の人間の関係についても言えるのです。
20節と21節に、焼き物師と粘土のたとえが出ていますが、焼き物師というのは、陶器師のことです。粘土をこねて、ロクロを回して、いろいろな、多種多様な陶器を、用途にしたがって、自由に造る人のことで、イスラエルの旧約時代からいました。そして、旧約聖書において、神と人間との関係が、陶器師と粘土の関係で、すでに語られていました。
そこで、そのことをよく知っていた使徒パウロも、旧約聖書のエレミヤ書18章1節から10節、また、旧約聖書のイザヤ書29章16節、45章9節と10節などに記されている陶器師と粘土のたとえを、ここで、自由なかたちで使いました。
それで、使徒パウロが、陶器師と粘土のたとえで、言おうとしている根本意図は、陶器師と粘土で造られた陶器の間には、まったく超えることができない無限の違いがあるので、陶器が、陶器師に向かって、対等・同等であるかのように、口答えしたり、言い返したりすることは、誰が見てもおかしなことで、それは、完全な逸脱で意味がなく、本来、成り立たないのですが、その同じことが、創造者である主権的な神と、その神によって造られた被造物に過ぎない人間に、ぴったり当てはまるということなのです。これが、パウロの意図です。
20節に、「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か」とありますが、原文では、「おお、人よ、神に言い返すあなたは何者か」となっていて、「おおお、人よ」と「おお」という驚きの感情を表す感嘆詞が入っていて、「被造物の人間が、神に言い返すなど、何と、驚くべき、おぞましきことか」ぐらいの意味になるでしょう。「そんなことが、できるはずがないでしょう。あなたは、一体、何を言っているのですか」というとても強いパウロの感情が伝わってきます。また、「神に言い返す」とありますが、「言い返す」というのは、口答えするとか、言い返すという意味です。
創造者である主権的な神が、御自分の選びの主権的な御計画に基づいて、1世紀の多くのユダヤ人の心を頑なにしたことに、誰かが口答えしたり、言い返したりするということ自体が、神と人間の関係の逸脱で、意味がなく、本来的に、成り立たない、おかしなことなのです。
そして、このことは、今日も同じです。神とわたしたち人間の関係は、創造者である主権的な偉大な神と、その神によって造られた小さな被造物の関係であって、決して、対等、同等の関係で、口答えしたり、言い返せる立場にはないのです。そして、この創造者である主権的な偉大な神と、その神によって造られた小さな被造物としての人間の関係こそが、すべての土台であり、すべての基礎なのです。この関係を、信仰によって、謙孫に受け入れ、弁えることから、すべてが始まるのです。この関係を超えることができる人は、誰一人いないのです。わたしたちも、決して、超えることはできません。
2.創造者である神に口答えすることは、神と人間の関係の逸脱です
さて、以上のようにして、人は、主権者である神のなさることに、口答えしたり、言い返したりすることは、神と人間の関係の逸脱で、本来、成り立たない、おかしなことであるので、避けるべきことであることが、わかりましたが、では、1世紀の時代のユダヤ人と異邦人は、神に対して、何をすべきだったのでしょう。すると、神を心から、賛美すべきだったのです。
何故なら、約束のメシアのイエスさまを十字架につけて殺し、さらに、教会を激しく迫害して、大きな罪を犯したゆえに、神の怒りによって滅びるのが当然であえる1世紀のユダヤ人に対して、神は、なおも忍耐して、彼らに、悔い改めの期間として、十分な時間を与えてくださっていたからです。
また、1世紀のユダヤ人の中から少数であっても、神は、憐れみによって、キリストによる救いにあずかる人々を起こしてくださったからです。また、旧約の歴史を持たないゆえに、霊的暗黒の中に長い間、虚しく坐していた異邦人の中からも、神は、憐れみによって、キリストを信仰して救われる人々を多く起こしてくださっていたからです。これらの理由のゆえに、1世紀において、神は、ユダヤ人と異邦人から、ほめたたえられるべきでした。22節と23節がそうです。
それで、わたしたちは、ここを見ますと、すぐに、「怒りの器」と「憐みの器」が、比較対照的に、コントラスト的になっていて、ぱーっと目に入ってくるようにされていることに気がつきます。そして、「怒りの器」とは何か。また、「憐みの器」とは何かと思うのです。
すると、「怒りの器」というのは、言葉そのものは、神の怒りが一杯入っている器、神の怒りで一杯になっている入れ物という意味であり、「憐みの器」というのは、言葉そのものは、神の憐れみが一杯入っている器、神の憐れみが一杯入っている器、神の憐れみで一杯になっている入れ物という意味です。そして、具体的には、「怒りの器」とは、1世紀において、キリストを拒んで、救われることがなかった多くのユダヤ人のことを表し、「憐みの器」とは、1世紀において、キリストを受けいれて救われた少数のユダヤ人と多くの異邦人を表しています。
では、どうして、1世紀のユダヤ人が、「怒りの器」と言われたのでしょう。すると、彼らは、旧約時代から救い主メシアを約束されていながらも、実際に、約束のメシアのイエス・キリストが出現したときに、イエス・キリストを受け入れず、十字架にかけて殺し、さらに、聖霊降臨によって成立した教会を激しく迫害して、大きな罪を犯していたゆえに、神の力と怒りによって、滅ぶのがふさわしかったから、「怒りの器」と言われたのです。
22節に、「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが」とあります。また、「怒りの器として滅びることになっていた」とありますが、これらの言い方は皆、約束のメシア、イエス・キリストを十字架につけて殺し、さらに、教会をも激しく迫害した1世紀の多くのユダヤ人の大きな罪に対する神の怒りを表しています。
彼らは、約束のメシア、イエス・キリストから、直々に、説教を自分たちの耳で聞き、奇跡を自分たちの目で見たのに、イエス・キリストを受け入れずに、イエス・キリストを捕えて、十字架につけて殺しました。これは、メシア殺しの大罪でした。
また、さらに、彼らは、聖霊降臨、ペンテコステにおいて、成立した教会をも激しく迫害し、指導者の一人のステパノを殉教の死に追いやりました。また、この手紙を書いている使徒パウロの伝道を、激しく妨害、弾圧し、何度も、パウロを捕えて殺そうとしました。これらは、すべて大きな罪であり、それゆえに、神は、1世紀の多くのユダヤ人を怒りと力によって、滅ぼそうとしておられました。
そして、このことは、ローマの信徒への手紙よりも、約5年ほど前に、同じパウロによって書かれたテサロニケの信徒への手紙一2章15節と16節においても、明白に語られていました。テサロニケの信徒への手紙一2章15節と16節において、次のように語られています。「・・・・」。こうして、1世紀の多くのユダヤ人は、「怒りの器」と言われたのです。
そのように、神は、1世紀の多くのユダヤ人を「怒りに器」として、滅ぼそうとしていましたが、しかし、神は、直ちに、彼らを滅ぼすことをせず、なお、彼らに対して、寛容と忍耐を示して、彼らに、悔い改めの十分な時間を与えてくださったのです。
ローマの信徒への手紙の9章22節に、「・・・神は、・・・寛大な心で耐え忍ばれたとすれば」とありますが、これは、1世紀の多くのユダヤ人が、イエス・キリストを捕えて、十字架にかけたのが、紀元30年頃であり、このローマの信徒への手紙が書かれたのが、紀元56年頃ですから、もう26年間も経っていましたが、神は、なおも、1世紀の多くのユダヤ人の罪を寛大な心で、耐え忍ばれて、裁きをしないで、悔い改めの十分な時間を与えてくださっていたのでした。それゆえに、1世紀の多くのユダヤ人に対する神の寛大さと忍耐は、ほめたたえられるべきでありました。
それで、わたしたちは、イエス・キリストを捕えて殺し、さらに、教会をも激しく迫害した1世紀のユダヤ人の罪は、一体、いつ裁かれるのか、いつ審判されるのかと思うのですが。それは、紀元70年のローマ軍によるエルサレム陥落と見ることができます。したがって、神は、彼らがキリストを捕えて十字架で殺してから、エルサレム陥落までの約40年間を、寛大な心で忍耐して、悔い改めの十分な期間を与えてくださったことがわかるのです。1世紀のユダヤ人のメシア殺しと教会迫害の大罪に対して、忍耐と寛容を十分示してくださった神は、本当に、ほめたたえられるべきお方なのです。
そして、実は、神の忍耐は、今日も同じなのです。わたしたちは、1世紀のユダヤ人ではりませんので、メシア殺しの罪と教会迫害の罪はありませんが、しかし、他のかたちで、毎日、罪を犯して生きています。それゆえに、もし、神が、罪を犯して生きているわたしたち人類を、今、すぐに、最後の審判を来たらせて、裁くのであれば、わたしたち人類は、滅ぼされてしまいます。しかし、神は、忍耐の神、耐え忍んでくださる神なので、わたしたち人類が、悔い改めて救われるようにと、なおも、悔い改めの時間を十分与えてくださっているのです。
ペトロの手紙二の3章9節で、「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」と言われている通りです。聖書が教える真の神は、忍耐の神です。
3.ユダヤ人の残りの者と異邦人が救われて「憐れみの器」とされることは、偶然のことでなく、神の御心でした
さて、以上のようにして、1世紀のユダヤ人の罪に対する神の寛容と忍耐のゆえに、神は、ほめたたえられ、賛美されるべきお方であることが、十分わかりましたが、神が、ほめたたえられ、賛美されるべきお方であることは、さらに、その1世紀のユダヤ人の中から、また、異邦人の中からも、共に、憐れみよって、救われ、喜び満ちた真の人生を歩む人々を、旧約時代から、着々と備えてくださっていたことにおいても、わかるのです。
すなわち、神は、国民的な規模で、民族的な規模で、メシア殺しと教会迫害の大罪を犯した多くのユダヤ人に対して、忍耐しておられただけでなく、実は、もっと積極的に、そのユダヤ人の中から、憐れみによって、「残りの者」を救ってくださり、また、旧約歴史のない異邦人の中からも、憐れみよって救われる者を起こしてくださったのです。
しかも、ユダヤ人の中から、「残りの者」が、憐れみよって救われたこと、また、旧約歴史のない異邦人の中からも、憐れみよって救われる者が起こされたことは、1世紀の成り行きで、たまたま、偶然生じたことではなくて、実は、神が、すでに旧約時代から着々と準備してきた御計画の確実な実現であったというのですから、とても素晴らしいのです。
こうして、ユダヤ人の「残りの者」が、また、旧約歴史のない異邦人の中からも、共に、憐れみによって救われる者を、1世紀に起こしてくださった神は、本当に、ほめたたえられるべきお方なのです。23節か29節までがそうです。
それで、わたしたちは、23節から29節までの部分において、「憐みの器」という言い方を、2回見るのです。そして、「憐みの器」というのは、先ほどもお話しましたように、言葉そのものは、神の憐れみが一杯入っている器、神の憐れみで一杯になっている入れ物という意味です。そして、具体的には、1世紀において、キリストを受けいれて救われた少数のユダヤ人と多くの異邦人を表しています。
すなわち、「憐みの器」というのは、1世紀のユダヤ人と異邦人が共に混じっているのです。これは、驚くべきことでした。1世紀の時代において、ユダヤ人と異邦人が混じり合って、一つになって共にいるということは、考えられないことでした。すなわち、「憐みの器」というのは、ユダヤ人の中で、救われた者だけのことではなく、旧約歴史を担うことがないゆえに、長きに渡って霊的暗黒に虚しく坐していた異邦人も、共に、一緒に、キリストによる救いに召されて一つになるということは、驚嘆すべきことでした。
先ほどお話した「怒りの器」というのは、ユダヤ人だけでした。しかし、「憐れみ器」は、ユダヤ人だけでなく、異邦人も召されて、共におり、一つになり、混じり合っているところが、ほんとに素晴らしいのです。24節で、「ユダヤ人からだけでなく、異邦人からも召し出してくださいました」と言われているところが、こうこうと明るく光輝いているのです。
こうして、1世紀の時代は、世界の歴史の大転換が生じた時代で、ユダヤ人と異邦人が、共に、神の憐れみによって、キリストによる救いに召される新しい、そして、素晴らしい画期的な霊的祝福の時代が始まったのです。そして、今も続いています。
そして、また、ここには、素晴らしいことが、もう一つあります。それは、ユダヤ人の中で「残りの者」が救われことと異邦人の中から救われる者が起こされて、共に「憐みの器」として、混じり合って、一つになることは、1世紀の成り行きで、たまたま、偶然、そうなったのではなくて、何と、驚くべきことに、神が、旧約時代から、着々と備えておられたことの確実な実現であったとのです。
そこで、使徒パウロは、ユダヤ人の残りの者と異邦人から救われる者が、共に「憐みの器」となることは、旧約時代ら備えられていたことの実現であることを明らかにするために、旧約聖書のホセア書とイザヤ書から引用しました。
それで、わたしたちは、ここに鍵括弧に入っている旧約聖書からの引用を見るのですが、25節と26節は、旧約聖書ホセア書1章8節と2章25節を自由に組み合わせて引用したものであり、27節と28節は、イザヤ書1章9節と10章22節、23節を自由に組み合わせて引用したものです。
では、25節と26節のホセア書からの引用は、どのような意味でしょう。すると、預言者ホセアの時代は、キリスト出現の7百数十年前でした。そして、その時代のイスラエルの民は、背教していましたので、神は、審判の意味で、最早、イスラエルを御自分の民とは呼ばないし、愛することもしないと語りました。しかし、憐れみの富む神は、ある期間が過ぎれば、イスラエルを赦して、再び、御自分の民と呼び、そして、再び、イスラエルの民を愛して、彼らを生ける神の子らと呼んで、救いを与えてくださることを約束したいたのです。
したがって、25節と26節のホセアの言葉は、もともとは、イスラエルの民について言っていたのですが、しかし、同時に、神の民でなかった異邦人が、神に愛されて、救われるという素晴らしい意味も含んでいたのです。聖書は、実に、驚くべき豊かさがあります。
では、他方、27節と28節のイザヤの言葉は、そのような意味でしょう。すると、預言者イザヤは、ホセアよりも数十年後の預言者でしたが、やはり、イスラエルが脊教している時代の預言者でした。
そこで、イザヤは、背教しているイスラエルは、審判として、敵のアッシリア帝国に攻められ、さらに捕囚されて、大打撃を受ける。そして、そのままにしておけば、かつてのゴモラトソドムの町のように完全に滅ぼし尽されて、海辺の砂のように多くいたユダヤ人の子孫は、一人もいなくなってしまうことになります。しかし、憐れみに富む神は、そのようなことを赦さず、「残りの者」を残して、彼らを救ってくださることを予告していたのです。そして、実際に、アッシリア帝国の攻撃と捕囚から「残される者」がいて、彼らは救われたのです。
したがって、イザヤの預言は、すでに「地上において完全に、しかも速やかに」実現したのですが、実は、その預言には、1世紀において、多くのユダヤ人が、民族的な規模で、メシアを拒否したにもかかわらず、憐れみに富む神は、彼らの中に、「残された者」を備えて、なお救うことによって、霊的な意味で、「地上において完全に、しかも速やかに」実現してくださったのです。
こうして、神は、メシア殺し教会迫害の大罪を犯していた1世紀の多くのユダヤ人の中からも、憐れみによって、「残りの者」を救い、また、旧約歴史がないゆえに長きに渡って、霊的暗黒の中に虚しく生きていた異邦人の中からも救って、共に「憐みの器」としてくださったのです。こうして、神は、御自分の豊かな栄光を表してくださったのであり、救われた者たちは、心から、神の豊かな栄光をほめたたえ、賛美するのです。本当に、素晴らしい限りです。
そして、「憐みの器」というのは、今日も同じです。誰でも、救いのよき知らせである福音を聞いて、十字架につけられたキリストを、救い主と信仰する者は救われ、「憐みの器」とされるのです。十字架につけられてキリストを自分の救い主と信仰して、日々、喜んで歩んでいるあなたとわたしも、今の時代の「憐みの器」なのです。心から感謝し、今週も、憐れみ深い天の神を賛美しながら、信仰の道を喜んで歩んで生きたいと思います。
お祈り
憐れみ深い天の父なる神さま、
わしたちは、月の第3主日ですが、御前に、礼拝に導かれ、心から感謝いたします。
今、わたしたちは、ローマの信徒への手紙9章後半を通して、救いが、あなたの憐れみの主権によることを教えられました。わたしたちを、ただ、憐れみゆえに救ってくださったあなたの豊かな御栄光を心からほめたたえ、賛美いたします。 これからも、わたしたちが、今の時代の「憐みの器」として、あなたに従順に従っていくことができうますように、聖霊の導きを、いつも豊かにお与えください。
また、十字架のキリストを信仰して救われ、「憐みの器」となって、喜んで、真の人生を歩む人々を、一人でも多く起こしてくださるように、教会の伝道を、いつも聖霊の力によって、推進させてください。
また、来週は、教会設立30周年の記念礼拝と愛餐会を持ちますが、豊かな祝福をお与えください。わたしたち皆の大きな感謝と喜びとなりますように、お願いいたします。
今日、種々の都合や事情で、出席できなかった兄弟姉妹に、それぞれのところで顧みがありますように、お祈りいたします。
これらの祈りを、主イエス・キリストの御名によって、御前に、お献げいたします。アーメン。
http://minoru.la.coocan.jp/ro-masukuihakaminosyuken.html