* 佐々木稔 説教全集 *   

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   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6;5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ 11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


「信者と国家の関係」

ローマ書13章1節―7節

 

はじめに

 

 わたしたちは、主の日の朝の礼拝においては、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが、紀元56年頃ローマの信徒たちに書いたローマの信徒への手紙を学んでいますが、今日も、わたしたちはキリストにある素晴らしい救いを順序立てて、力強く教えているローマの信徒への手紙に耳を傾けたいと思います。

 

 では、今日の個所は、どんなところでしょう。すると、信者は神の国の一員であるとともに、地上の国の一員として歩むことが、神の御心であることを教えているところです。すなわち、信者は神の国の一員であるとともに、地上の国の一員として歩むことが神の御心なのです。信者は、二つの国の国民として歩んで、神から祝福を受けるのです。

 

 そこで、今日のわたしたちも神の国の一員であるとともに、地上の国の一員としての義務を果たすことにより、神御自身から豊かな祝福を受けながら、大事な人生の歩みをしていきたいと思います。

 

1.国家は、神御自身が立ててくださった制度

 

 され、それで、まず、わたしたちは、国家というものは、歴史を導く主である神御自身が摂理の中で立ててくださった制度であるゆえに、信者であっても、信者でなくても、すべての人が皆、国家に従う義務をもっており、もし、誰かが国家に従わないのであれば、国家という制度を立てた神御自身から裁きを受けるということから見ていきたいと思います。

 

 すると、使徒パウロの教えは、極めて明白で国家は神御自身が立ててくださった制度であるゆえに、すべての人が国家に従うべきことが、何のためらいや躊躇なしに、使徒パウロの口から堂々と教えられています。

 

 1節と2節がそうです。すると、1節、2節には、「権威」という言葉が4回も出てきます。そして、「権威」というのは、人々が従うことを要求できる力を持っていることを表しますが、具体的には、国家、国のことをパウロは意味しています。ですから、「権威」という言葉のところに「国家」を入れて読むと意味がとても分かり易くなります。

 

 すなわち、「人は皆、国家に従うべきです。神に由来しない国家はなく、今ある国家はすべて神によって立てられたものだからです。従って、国家に逆らう者は、神の定めに皆背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」となりまして、人々を治める地上の国家、国というものが万物の主権者である神御自身が立ててくださった制度であるゆえ、すべての人が従うべきことが疑いもなく明白に、しかも、何のためらいや躊躇なしに、堂々と使徒パウロによって教えられています。

 

 1節に「人は皆」と言われておりますが、「皆」とは、「信者は皆」という制限された狭い意味の「皆」ではなく、信者であっても信者でなくても、人であれば皆という制限なしの広い意味で、人であれば誰でもという意味です。

 

 ですから、人であれば誰でも、信者であっても信者でなくとも、万物の主権者である偉大な神御自身が、歴史に中で摂理をもって作ってくださった国家という制度に従うべきであるということが、明白に何のためらいや躊躇なしに堂々と教えられています。

 

 そして、1節後半に、「今ある権威、すなわち、国家は、すべて神によって立てられたものだからです」とありますが、考えてみますと、1世紀時代のすべての諸国家は、キリスト教をまだ知らない異教国家でした。しかし、パウロは、すべての異教国家が神御自身によって立てられた制度、仕組みであることをはっきり表明しているのです。

 

 キリスト教が広まった時代になると、キリスト教を土台とする国家が歴史の中に成立してきますが、国家というものは、真の神を知らない国家であろうとも、あるいは、キリスト教国家と言われる国家であろうとも、国家であるかぎりは神に立てられた制度、仕組みなのです。

 

 ですから、もし、誰かが国家に逆らうのであれば、それは、国家という制度をお定めになった神御自身に背くことになって、最後の審判のとき、神の裁きを受けるとまで、使徒パウロは語ることによって、国家は、偉大な主権者である神御自身がお定めになった制度、仕組みであるゆえに、万人が従う義務を持つことをさらに一層強調しています。

 

 2節がそうです。「・・・権威、すなわち、国家に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分自身に裁きを招くでしょう」とあり、「裁きを招くでしょう」と言われておりますが、「裁き」とは、神による裁きを招くこと、また、「招くでしょう」と、将来のこととして語っていますので、最後の審判のとき神から裁きを受けることを意味しています。

 

 ですから、こうして、地上の国家が、神によって作られた制度であって、万人が従う義務を持つということは、極めて明白であることがわかります。そこで、昔から、信者は神がお立てになった制度は、三つあり、それらは、家庭と教会と国家であると言われてきたのでした。

 

 それで、今日のわたしたちは、ここまで見てくると、いろいろな疑問を持つものです。国家に従うことは、万人の、また、信者の義務であると言っても、地上の国家は、いつも正しいことを要求するとは限らないのではないかとか、地上の国家のすることを、信者は批判していけないのか、いつも黙ってすべてを受け入れなければならないのかとか、その他いろいろな疑問が出てくると思いますが、わたしたちが、ここで心得なければならないことは、使徒パウロが地上の国家のことを述べている意図をしっかり把握することです。

 

 すると、使徒パウロは国家のあらゆる問題を、ここで扱おうとしているわけではないのです。また、使徒パウロは、何か、ここで、国家についての詳しい論文を書こうとしているわけでもないのです。パウロは、ローマ帝国の中心地のローマの都にあって、信者たちが神から祝福を受ける信仰生活の根本的なことに限って、教えているのです。

 

 すなわち、使徒パウロが、地上の国家のことを、ここで書いたのは、ローマの信者たちが、日々の信仰生活をしていくときに、地上の国家のことで迷ったりしにないために、不安になったりしないために、根本的なことに限って書いたのです。パウロは、1世紀の信者たちが地上の国家との関係について、信仰の確信をもって歩めるように根本的なことだけをここで書いたのです。

 

 すなわち、1世紀の人が信者になりますと、万物の支配者である偉大な神に従うようになりますが、では、地上の国家は真の神を知らず、救い主キリストも知らない異教の国家に対しては、信者はどうするのかという根本的な問いにのみ、パウロは答えているのです。

 

 考えてみれば、地上の国家、真の神も、真の救い主キリストも知らない異教国家に信者が従うことは、信者がいけないことをするのではないかと思われてしまう可能性もあります。信者が地上の国家、しかも、異教の国家に従ってよいかどうかは、1世紀の信者が直面した大問題でした。

 

 そこで、使徒パウロは信者になって、神に従うようになっても、信者が地上の国家、キリストを知らない異教国家に従うことは、いけないことではなく、逆に、神の御心であるという根本的なことをはっきり教えて、1世紀の信者の心に、確信と平安を与えることが使徒パウロの意図なのです。

 

 そして、これで、1世紀のローマの信者は、自分たちが属している異教国家のローマ帝国に従い、ローマ皇帝を敬い、ローマ帝国に税を納め、ローマ帝国の法律を守って、国民としての義務を果たしながら歩むことにおいて、自分たちはいけないことをしているのではなく、逆に、神の御心を行っているという確信を持って、自分たちの心、良心が平安と安らぎの中に置かれることができたのです。これで、喜びに満ちた信仰生活ができたのです。

 

そして、このことは今日も同じです。わたしたちは信者になって、神の国の一員となり、万物の支配者である偉大な神に従うようになりました。しかし、だからと言って、真の神を知らない異教国であっても、地上の国家を無視したり、軽んじたり、否定したりしませんで、神御自身が立ててくださった制度である地上の国家の一員として、義務を果たしながら歩んでいくことによって、わたしたちも心の平安と良心の安らぎをもつことができるのです。わたしたち信者は、神の国と地上の国の二つの国の国民として歩むことが、神の御心であることをまずしっかり心に刻みたいと思います。

 

2.国家の目的・役割・働きは、勧善懲悪と秩序維持

 

 さて、以上のようにして、地上の国家というものは、神が立ててくださった制度でありますので、万人が従う義務があることがわかりました。では、地上の国家というものは、何の目的・役割・働きのため、神によって立てられたのでしょう。

 

 すると、これもまた非常に明白で、神が地上の国家を立てておられるのは、国家、国、政府、為政者、政治を行う人々を通して、罪人である人間の悪が抑制され、善が勧められ、すべての人の生命や人生や生活や財産が秩序正しく守られるためなのです。

 

 すなわち、国家は善を勧め、悪、すなわち、犯罪には刑罰を与えることによって、人間社会が無法社会にならないように、法や法律を作って、社会の秩序を維持していくため、神によって造られたのです。

 

 3節から5節がそうです。それで、わたしたちが、ここを見てすぐに気づくことは、「善を行う者」と「悪を行う者」、また、「善を行うこと」と「悪を行うこと」という言い方が比較対照的に、コントラスト的に何回も出て来くることです。

 

 そして、これこそが、神によって立てられた地上の国家の目的・役割・働きを表しているのです。すなわち、神によって立てられた地上の国家の目的・役割・働きは、善を勧め、悪、すなわち、犯罪には刑罰を与えて、人間社会の秩序を守ることです。すなわち、もう少し詳しく言えば、国家は、神の僕として、神に代わって、善を勧めるとともに、悪、すなわち、犯罪に対しては、地上の国家が、神の裁きを、神に代わって、神の僕として行うのです。そのために、地上の国家には、神御自身から、「剣」、すなわち、刑罰を与える権限が与えられているのです。

 

 それで、3節から5節を見ますと、「支配者」という言い方と「権威者」という言い方が、何回も出てきます。「支配者」という言い方は、1回、「権威者」という言い方は、5回も出てきますが、「支配者」という言い方も、「権威者」という言い方も、国家の権威を行使する立場の人々のことを表します。

 

 この手紙が書かれた1世紀のローマ帝国の状況においては、具体的には、ローマ皇帝や地方総督や各地の地方長官などの立場にある人々のことで、彼らは国家の権威を行使する立場にあり、善を行う人々を誉め、称賛しますが、悪、すなわち、犯罪を行う人々に対しては、厳しく立ち向かい、国家の権威を行使して、彼らを捕え、裁判の後、刑罰を科すのです。そして、これで、1世紀の秩序が保たれていたのです。

 

 考えてみますと、自己中心の罪人である人間の集まりに、もし、秩序維持のための地上の国家という制度がなければ、人間社会はバラバラになり、成り立たないのです。地上の国家があって、善を行うように勧めるとともに、悪、すなわち、犯罪が罰せられることによって、はじめて人間社会は、秩序が保たれ成り立つのです。そうでなければ、無法社会になり、各自がどんな悪事をしてもよいことになり、人間社会はバラバラで成り立たないのです。

 

 そこで、自己中心の罪人である人間を十分に知っておられる神は、罪人である人間社会が成り立つため、一般恩恵として、国家という秩序維持の制度、仕組みを摂理の中で立ててくださったのですが、これは、罪人に対する神の憐れみです。自己中心の罪人である人間が、共に、一緒に、生きられる仕掛けとして、神がわざわざ作ってくださったものが、国家の制度なのです。ですから、地上の国家は、神に仕える僕であって、神に代わって、人々に善を行うように勧め、悪、すなわち、犯罪を行う人々には罰を与えるのです。こうして、地上の国家は、神の僕という意味を持つのです。

 

 4節前半には、「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです」とあり、また4節後半には、「権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです」とあり、6節には、「あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです」とあって、「神に仕える者」という言い方が、3回も出てきますが、原語では、「神の僕」、すなわち、神のサーヴァントという言葉です。そして、特に、6節の「神に仕える者」、なわち、「神の僕」という言葉は、「神に公に仕える者」、すなわち、「神の公的な僕」という、神の公の僕であることを、一層強調する言葉が、使徒パウロにより意識的に使われています。

 

 ですから、地上の国家は、「神に仕える者、「神の僕」、さらに、「神に公に仕える者」、「神の公的僕」だと言われているのですが、では、どうして、地上の国家が「神の僕」と言えるのかと言えば、地上の国家は、神に代わって、人々に善を行うように勧め、実際に、善を行った人々を称賛して、善が社会に行き渡るようにするからであり、また、地上の国家は、神に代わって、悪、すなわち、犯罪を行った人々に刑罰を与えるからです。

 

 4節後半に、「権威者はいたずらに剣を帯びているにではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです」とありまして、「剣を帯びている」と言われていますが、「剣を帯びている」というのは、罰を与えることができる権限を、神から授けられていることを表しています。

 また、「悪を行う者には怒りをもって報いるのです」とありまして、「怒り」と言われていますが、この「怒り」は、神の怒りを表しています。すなわち、義にして聖なる神は、悪を行う者を正当な怒りをもって裁きますが、神の怒りによる裁きを、どのように行われるのでしょう。すると、神の怒りによる裁きは、「神に仕える者」、すなわち、神の僕である地上の国家が悪を行う者に刑罰を与えることによって行われるのです。

 

 したがって、地上の国家は、神の僕として、神に代わって、人々に善を行うことを勧め、奨励し、また、悪を行う者に対しては、神に代わって罰を与えて、秩序ある人間社会を成り立たせるため、神が人間のために造ってくださった必要不可欠の重要な制度であることを知るのです。それゆえに、信者は、悪を行って、国家の刑罰を通して、神の怒りを受けないためにも、また、自分の心、すなわち、善悪を判断する良心の平安のためにも、神の僕としての地上の国家に従い、平安を得て、信仰生活をすべきことを、使徒パウロは教えたのです。

 

 第5節を見ますと、「・・・良心のためにも、これに従うべきです」とありまして、「良心のためにも」と言われていますが、「良心のためにも」というのは、善悪を判断する信者の良心、信者の心が、不安と恐れを持たず、確信と平安を持って歩むことを意味します。

 

 すなわち、信者は地上の国家は、真の神も、真の救い主キリストも知らない異教国家に従ってよいのか、それとも、従ってはいけないのかという1世紀の大問題に関して、信者一人ひとりが明白な確信を持って、不安、迷い、恐れが、心、良心から取り除かれ、自分は、国家に従うことによって、神の御心に適う正しいことをしているのだと、自分の心、良心が、晴々して、すっきりして、明るく、平安と喜びをもって、信仰生活ができるために、神の僕として仕える地上国家に従うことが、使徒パウロによって、はっきり教えられたのです。

 

 それで、わたしたちは、ここまできますと、どうしても、一つの疑問を持ちます。すなわち、パウロは、神の僕としての意味を持つ地上国家に従うべきことを教えていますが、地上国家は、神の御心に反することを要求してくる場合があるではないか。たとえば、地上国家が、偶像を拝むことを要求してくる場合だってあるではないか。また、地上国家が、教会とキリスト教信仰そのものを根絶やしにしようとして、圧迫、迫害してくる場合だってあるではないかと思うのです。

 

 そして、その通りです。この手紙を書いているパウロ自身が、そのことは身をもって最もよく知っていました。パウロは、すべての人が、いの一番に必要とする、罪の赦しと永遠の生命から成るキリストによる救いを宣べ伝える最も善いことをしているにもかかわらず、地上の国家に捕えられ、鞭打ちの刑を受けたり、牢屋に入れられたりされましたので、地上の国家のすることが、いつもすべて正しいなどとは思っていたのでは、決してありません。

 

 そのような場合の国家への対応は、また、別にあるのです。そのような場合には、使徒言行録にありますように、黙って従うようなことを、使徒パウロは決してしませんでした。パウロは、必ず、抗議をして、無罪釈放を要求しました。また、同じ、使徒職にあったペトロとヨハネは、ユダヤの最高法院から、圧迫、迫害されたときには、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と言って、ユダヤの最高法院に従うことを断固、拒否しました。

 

 また、旧約聖書を見れば、イスラエルの王が、偶像礼拝を要求したときには、見張り役の預言者が、勇敢に立ち上がり、偶像礼拝を即刻止めるように申し入れ、抗議をし、信仰によって抵抗し、最後まで戦いました。預言者エリヤがそうでした。預言者エリヤは、王アハブとその妃イゼベルが、偶像バアルを礼拝することをイスラエルの民に要求したとき、即刻止めるように、たった一人で王宮に乗り込んで、抗議をし、抵抗し、信仰の戦いをしました。国家が、神の御心に反することを要求する場合には、信者は従う必要と義務はまったくありません。逆に抗議し、抵抗し、戦うことが義務となります。

 

 そのように、地上の国家との関係と対応については、いろいろな面から考えられますので、聖書の全体の教えを見ることが必要です。そして、聖書の全体の教えが、どのようになっているかについては、わたしたちの教派が、以前に30周年記念宣言として内外に表明した「教会と国家にかんする信仰の宣言」を読んでいただければと思います。この宣言は、明治以来の日本の百数十年間のキリスト教の歴史において、教会と国家の関係を、聖書全体の教えに基づいて内外に表明した画期的にすぐれたものです。

 

 そのように、地上の国家との関係や対応の全体については、聖書全体を見ることが必要ですが、使徒パウロが、このローマの信徒への手紙で教えていることは、根本的な一つのことで、それは1世紀の大問題で、信者は、地上の国家、すなわち、真の神と真の救い主キリストを知らない異教の国家に従って、よいかどうかという根本問題に限って教えたのです。

 

 そして、その答えは地上の国家に従ってよいのです。確かに、信者は霊的祝福が充満する神の国の一員となって歩むのです。それで、うっかりすると、もう、これで十分である。地上の国家などと一切関わりをもつ必要がない。地上の国家など、ない方がよい。地上の国家為政者のために祈ったり、また、地上の国家為政者を敬ったりする必要もないなどと極端に走ってしまう可能性もあったのです。地上の国家と信者の関係は、キリスト教が出現した1世紀においては、放っておくことのできない大きな問題であったのです。

 

 そこで、使徒パウロは、真理の御霊に導かれて教えたのです。1世紀の信者が、どのようにすべきか迷ったり、不安になったり、極端に走ったりしないで、一人ひとりの信者が自分の心、自分の良心に、確信と平安をもって、1世紀において、喜んで信仰生活ができるように、地上の国家は、神御自身が摂理の中で立ててくださった重要で不可欠な制度であり、神に仕える者、すなわち、神の僕としての意味を持つことをはっきり教えて、一人ひとりの信者が確信と平安をもって、地上の国家に従うべきことを使徒パウロは教えたのです。

 

 そして、このことは、今日も同じです。今日も、国家があるゆえに、善が勧められ、悪が罰せられて、社会の秩序が保たれることにおいて、わたしたちの生命や財産が守られ、さらに、憲法においても信教の自由が保障され、信仰生活や伝道や教会形成が落ち着いてできるのです。わたしたちも、神が立ててくださった地上の国家から大きな益を、事実として受けているのです。

 

 そこで、パウロは、テモテへの手紙一の2章1節から3節で、次のように言っていますが、これは、事実です。「・・・まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝をすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち平穏で落ち着いた生活を送るためです。これはわたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです」とパウロは語って、国家為政者によって、社会の秩序が保たれて、わたしたち信者も落ち着いた生活ができるように、彼らのためにも祈ることを勧めたのでした。そして、実際、改革派教会は礼拝式文に従って為政者のために礼拝において祈るのです。

 

3.国家に税を納めることは、信者の義務である

 

 さて、以上のようにして、地上の国家の目的・役割・働きは、神の僕として、神に代わって、善を行うことを勧め、悪を行う者を罰して、人間社会の秩序を保つという重要で不可欠なものであり、信者は確信と平安をもって、地上国家に従うべきことであることがよくわかりました。

 

 したがって、信者も、当然、地上の国家に税を納めるのです。そこで、パウロは、ローマの信者たちに対して、彼らに一人当たり幾らで直接かかってくる人頭税という直接税、あるいは、ある品物を買ったときにかかる商品税、ある道路を通るときにかかる通行税、ある品物を外国から仕入れるときにかかる関税などの間接税を、ローマ帝国に納めるように勧めました。

 

 また、パウロは国家の権威を行使する立場にある人々に対して、畏敬の念と尊敬の念を持つべきことを勧めました。6節と7節がそうです。6節と7節は、何を教えているかと言いますと、信者が、地上の国家、すなわち、真の神も、救い主キリストも知らない異教国家にでも、税を納めることは、義務であることが明白に教えられています。また、国家の権威を行使する立場にある人々に対して、畏敬の念と尊敬の念を持つべきことが教えられているのです。

 

 それで、わたしたちは、7節に、「貢」と「税」という二つの言葉を見るのですが、若干の違いがあります。「貢」というのは、一人当たり幾らでかかってくる人頭税、人の頭の税と書きますが、これは人頭税などの直接税を表す言葉です。

 

そして、もう一つの「税」というのは間接税を表す言い方で、これは、あることをすることでかかってくる税を表します。たとえば、具体的には、ある品物を買ったときにかかってくる商品税、ある道路を通ったときにかかってくる通行税、ある物品を外国から仕入れたときにかかる関税などを表していますが、信者は直接税も、間接税も納めるように、パウロは命じたのです。

 

 ですから、パウロは、とても念入りに税を納める義務を教えたということになります。もし、直接税を表す「貢」を納めなさいとだけ言うと、では、間接税は納めなくともよいのかという疑問が出るかもしれません。逆に、間接税を表す「税」を納めなさいとだけ言うと、では、直接税は納めなくてもよいのかという疑問が出るかもしれません。

 

 そこで、パウロは疑念を残さないように、直接税を表す「貢」を納めることも、間接税を表す「税」を納めることも、どちらも語ったと思われます。これなら、疑念が残らず、直接税も間接税もどちらも納めるべきことが明白にわかります。

 

 そして、国家に税を納めることについては、かつて、イエスさま御自身も、ファリサイ派およびサドカイ派との税金論争において、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と語って、カイザル、すなわち、ローマ皇帝に税金を納める義務を教えたことを思い出させます。そして、このことは今日も同じです。真の神と救い主キリストを信仰して生きるわたしたち信者も、地上の国家に税を納めるのです。

 

結び

 

こうして、今日の個所を見ます。わたしたちは、神の国の一員であるとともに、地上の国の一員として歩むことが、神の御心であることを知るのです。それゆえ、わたしたちは、神の僕である地上の国家の一員としての義務を果たすことにおいても神から豊かな祝福を受けたいと思います。

 

また、わたしたちは、日本の為政者たちのために祈りたいと思います。日本の為政者たちが、よい政治をし、信教の自由を守り、わたしたち信者の信仰が守られ、教会の伝道が進み、さらに、救われる人々が起こされていきますように、今週も祈りながら歩みたいと思います。

 

お祈り

 

 憐れみ深い天の父なる神さま、

あなたの変わらぬいつくしみの御心に支えられて、9月の歩みをしていますが、今日、9月の第2主日として、御前に公の礼拝に導かれ心から感謝いたします。

 今日は、地上の国家についての教えを学びました。善を勧め、悪を罰して秩序を守って、わたしたちが相互に生きられるように、あなたがわたしたちの益のために、摂理において作ってくださった制度であることを知りました。

 どうか、あなたの僕として仕える地上の国家が、少しでもあなたの御心に適うよい政治を行うことができますように為政者たちをお導きください。

 わたしたちの教会の記念集会も近づいてきましたが、一つ一つよい準備をしていくことができますようにお願いいたします。

 また、今日、種々の都合や事情により出席できなかった方々や、健康の弱さを覚えている方々、困難の出会っている方々を顧みてください。

 これらの祈りを主イエス・キリストの御名により、御前にお献げいたします。アーメン。