* 佐々木稔 説教全集 * |
ローマ書講解説教 - 佐々木稔 | Shalom Mission |
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「古い罪の性質との戦い」
ローマの信徒への手紙7:13-25
はじめに
本日も、ローマの信徒への手紙のお話です。では、これから、ローマの信徒への手紙のどこの個所をお話しするかと言いますと、7章の後半です。では、今日の個所は、どのようなことが語られていうのでしょう。すると、3点のことが語られています。
第1点は、直前の個所からの続きで、神の律法、戒め、掟そのものは、悪いものではなく、人の正しい生き方の規準として、とても善いものであるという点です。第2点は、救われた信者と言えども、聖化の未完成ゆえに、罪との戦いがあり、あるときには、罪との戦いに負けて、悩むという点です。第3点は、罪との戦いに負けて、悩むとき、信者は、キリストを見上げて、罪の赦しを恵みによって得て、再び、救いの喜びの中を歩むことができるという点です。
1.神の律法、戒め、掟そのものは、悪いものではなく、善いものである
早速、第1点に入ります。第1点は、直前の個所からの続きで、神の律法、戒め、掟そのものは、悪いものではなく、神から与えられた人の正しい生き方の規準であり、それを守れば、永遠の命に導いてくれるものなので、とても善いものであるという点です。
何故、パウロは、このようなことを記しているのかと言いますと、ローマの信徒の手紙を前からずーっと読んでいきますと、パウロは、律法、戒め、掟について、いろいろなことを語ってきたのですが、律法、戒め、掟についてのパウロのこれまでの語り方は、聞き方によっては、律法、戒め、掟は、罪であり、悪いものであるかのような誤解と印象を与える可能性がありました。
そこで、パウロは、神の律法、戒め、掟そのものは、罪ではなく、悪いのは罪で、罪が、機会を捕えて、人が神の律法、戒め、掟に違反するように巧みに、巧妙に誘い、誘惑し、そして、実際に、人に罪を犯させ、人が罪を犯すと、今度は、律法を守れない罪人であることを、人に意識させ、知らせ、自覚させて、人を律法違反への罰として、霊的な死に導くものとして、パウロは語るのです。
それゆえ、悪いのは、あくまでも罪であり、神の律法、戒め、掟そのものは、神から与えられた人の正しい生き方の権威ある規準であり、それを守れば、永遠の命に導いてくれるとても善いもので、無くてはならないものなのです。律法、戒め、掟がなければ、人の正しい生き方がわからなくなってしまいます。それゆえ、必要不可欠の価値を持っています。
では、それにも、かかわらず、律法、戒め、掟は、どうして、人を、霊的な死に導くものになってしまったのでしょう。律法、戒め、掟の性質が途中で、変質してしまったのでしょうか。最初は、永遠の命に導く性質をもっていましたが、途中で、人を霊的な死に導く性質に変質してしまったのでしょうか。
すると、途中で、変質したのではないのです。そこで、パウロは、13節で、「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない」と、変質を、断固、否定しました。「善いもの」とは、人の生き方の規準で、それを守れば、人を永遠の命に導く神の律法、戒め、掟のことです。「死をもたらす」というのは、人を霊的な死に導くという意味ですが、「決してそうではない」ということによって、人を永遠の命に導く善いものである神の律法、戒め、掟が、途中で、人を霊的な死に導くものに変質したのでは、決してないという意味です。
では、どうして、人を永遠の命に導く善いものである神の律法、戒め、掟が、途中で、人を霊的な死に導くようになったのかと言えば、それは、罪のせいなのです。罪が悪いのです。罪が巧妙なのです。罪は、人が、律法違反の罪を犯すように巧みに誘い、誘惑し、そして、実際に、罪を犯させ、さらに、今度は、人が罪を犯すと、律法違反への罰として、霊的な死に導くものとして、律法を、巧妙に用いることによって、罪が、まさに罪であることを現わすからなのです。罪とは、そういうものなのです。罪とは、そのように、本性(ほんせい)そのものが罪深いものなのです。それゆえ、悪くて、罪深いのは、律法ではなく、罪そのものなのです。しかも、罪は、少しだけ悪いというのではなく、「限りなく邪悪なもの」、すなわち、測り知れなく罪深いもの、測り知れなく、性質(たち)が悪いもの、測り知れなく性悪(しょうわる)なものなのです。
13節後半を見ますと、「実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしたちに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されました」とあります。
「罪がその正体を現すために」というのは、もともとの言い方は、「罪が罪であることが現れるために」という言い方で、罪が、どんなに悪いかが現われるためにという意味です。「死」とは、律法違反の罪に対する罰としての霊的な死のことです。「限りなく邪悪なもの」とは、もともとの言い方は、「測り知れなく罪深いもの」という言い方で、これ以上に罪深いものはないことを意味します。「掟を通して示されました」というのは、掟を、巧妙に用いて示すという意味です。
ですから、パウロの言っていることを、日常的にわかり易く言えば、罪というものは、本当に、性質(たち)の悪いもので、人が、律法、戒め、掟に違反するように誘い、誘惑し、そして、実際に、人に罪を犯させ、罪を犯させると、今度は、律法違反の罪を犯したことへの罰として、人を霊的な死に至らせるので、罪は、測り知れなく罪深いものという意味になります。
本当にそうです。このことは、エデンの園で、善悪の木から取って食べてはならないと、神に戒められていたのに、罪の元凶であるサタンが、エバを、巧妙に罪に誘い、誘惑し、そして、実際に、エバに、善悪の木から取って食べるという罪を犯させ、さらに、夫アダムにも与え、そして、全人類を死ぬ者に導いたことに、パターンがよく似ています。
これに似て、罪の正体、すなわち、本性(ほんせい)は、計り知れなく罪深いものであり、性悪(しょうわる)であり、性質(たち)が、際限なく悪いのです。ですから、律法、戒め、掟そのものは、少しも悪くないのです。悪いどころが、律法、戒め、掟そのものは、「霊的なもの」、すなわち、神に起源する善きもので、人の正しい生き方の権威ある規準で、これがなければ、人は正しい生き方がわからず困ってしまうのです。14節前半に、「わたしたちは、律法が霊的なものであることを知っています」とありますが、「霊的なもの」とは、神から出たもの、神に起源するもの、神的起源を意味します。
したがって、神の律法そのものは、神から出たもの、神に起源するもの、神的起源の善いものであるというのが、パウロの律法、戒め、掟についての結論です。今日でも、そうです。わたしたちが、神の律法、戒め、掟を、守れず、それゆえ、律法違反の罪人として、霊的な死に導かれても、神の律法、戒め、掟そのものは、少しも悪くなく、わたしたち人間の正しい生き方の規準として、神に起源するもので、無くては困る、必要不可欠なものなのです。ですから、わたしたちは、神の律法、戒め、掟ということを聞いたときに、それらは悪いものであるかのようにイメージをしないようにしたいと思います。悪いのは、神の律法、戒め、掟を狡猾に用いる罪であることを、しっかり覚えたいと思います。
2.新しい霊的性質となおも残存している古い罪の性質との激しい戦いの経験
第2点には入ります。第2点は、信者になったパウロは、聖霊によって起こされた新しい霊的性質と、パウロの内に、なおも残存している古い罪の性質との激しい戦いを経験し、さらに、あるときには、古い罪の性質に負けて苦悩するという経験をしていたという点です。
このときのパロは、もうすでに救われた者として自分自身を描いていますが、パウロは、救われているにもかかわらず、心の中で、罪との激しい戦い、葛藤を経験し、苦しみ、悩んでいます。すなわち、自分は、救われて、聖霊の働きにより、自分の内に新しい霊的性質が起こされているにもかかわらず、まだなお、自分には古い罪の性質があり、どうしても自分は罪を犯してしまうのです。
パウロは、聖霊によって起こされた新しい霊的性質によって、自分は、神の律法、戒めを守って生きていきたという望み、意志、思いがあるのです。しかし、現実には、まだなお、古い罪の性質も残り、罪を犯してしまい、自分は、今なお、「罪に売り渡された奴隷」であり、「肉の人」、すなわち、生まれつきの霊的無力の人間であり、自分は、神の律法、戒め、掟を実行して生きていきたいと望んでいるのに、実行できず、逆に、神の律法、戒め、掟に背く憎むべき罪を犯してしまうという相反することが生じるこことに、パウロは苦しみ、悩んでいることを告白するのです。まるで、自分の中に、2人の人、新しい自分と古い自分がいて相争っていると言えるのです。
14節後半から、23節までがそうです。ここで、パウロは、いろいろな言い方、いろいろな表現をしていますが、言おうとしていることは、同じことで、それは、心の中に罪との深刻な戦いがあることを言おうとしているのです。
14節後半に、「しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」とありますが、「罪に渡されています」というのは、当時、人が奴隷として、主人に売り渡されて、主人に支配される言い方を借りて、パウロが、罪の奴隷であり、罪の支配下にあることを表しています。また、15節で、「わたしは、自分のしていることが分かりません」というのは、苦しみ悩みを表す言い方です。わたしたちも、何かで苦しみ、悩んでいるとき、「もう何がなんだか分らない」などと言うのとほとんど同じでしょう。
それで、ここまで来ると、わたしたちは、疑問を持ちます。パウロは、もうすでに救われているのだから、罪の奴隷ではないし、罪の支配下にもいないと思うのです。確かに、その通りです。ですから、これは、救われてからでも、罪の奴隷状態になるときがある。また、罪の支配下に置かれるときがあることを意味しているのです。すなわち、救われても、聖化の未完成のゆえに、聖めの未完成のゆえに、古い罪の性質に攻め込まれるときがあることを意味しています。
そのため、自分が、望んでいない、逆に、憎んでいる律法違反の罪を犯してしまいます。そこで、わたしたちは、自分が、悲しんだり、苦しんだり、悩んだり、さらには、自分は救われていないのではないかと疑ったりもするでしょう。
パウロもそうでした。パウロが、自分が望まない律法違反の罪を行ってしまって、苦しんだり、悩んだりすることは、もちろん、律法が、神から与えられた人の生き方の正しい規準で、とても善いものであることを認めていたからです。でも神から与えられた人の生き方の正しい規準として、律法を、とても善いものであることを認めているにもかかわらず、律法違反の罪を犯してしまうというのは、パウロ自身に、まだなお残存している古い罪の性質によるのです。
そこで、パウロは、律法を、神から与えられた人の生き方の正しい規準で、とても善いものであることを認めているにもかかわらず、律法違反の罪を犯してしまうのは、聖霊によって起こされた新しい霊的性質によるのではなく、パウロ自身に、まだなお残存している古い罪の性質によることを、「そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」と表現しました。
「もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」という言い方は、非常に強い表現で、パウロ自身に、まだなお残存している古い罪の性質が、パウロという人に住んでいる、すなわち、住み着いていて、古い罪の性質こそが、パウロ自身である言えるほど、パウロという人の全体を支配しているかのようなとても強い表現です。それゆえ、パウロは、神の律法に適う霊的善を行うという意志はあります。しかし、生まれながらの自分の内には、神の律法に適う霊的善を行う霊的な力が、住んでいないと言えるほど、霊的に無力であることを告白しているのです。
「わたしの肉には、善が住んでいない」とありますが、これは、パウロは、神の律法に適う霊的な善を行いたいという意志はあるのですが、でも、生まれながらの霊的無力な自分の内には、神の律法に適う霊的な善を行う力が、住んでいないと言えるほど、霊的に無力であることを、パウロが経験していることを表しています。「わたしの肉」とは、生まれながらの霊的無力な自分という意味です。
これらは、すべて、パウロが救われてからのことを語っています。そこで、わたしたちは、また、ここで、疑問が出ます。救われているのに、「そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、罪なのです」と、パウロは、自分が、完全に罪の支配下にあるかのように語っていますが、パウロは、もうすでに救われて、恵みの支配下にあるのに、何故、完全に罪の支配下にあるかのように語るのかと、わたしたちは、疑問を持ちますが、これは、救われたとは言え、自分の内に、まだなお働く罪の力を甘く見ないための言い方なのです。
日常的な分かり易い言い方をすれば、自分は救われて、信者になり、恵みの支配下にあるから、罪など犯さないし、また、罪などに負けることなどないと、罪の恐ろしい力を、甘く見ないように、教えているのです。
実際、救われて、信仰の強い人が、とんでもない罪を犯すことがあります。典型的な例は、あの信仰深いイスラエルの王ダビデです。ダビデは、若いときから、とても強くて、大きくて、逞しい信仰をもっていました。若いとき、敵のガトのゴリアトという2メートル以上の大男と、1対1で戦って、神への強い信仰のゆえに勝利しました。その信仰が神から祝福されて、ダビデは、王宮に入りますが、その強い信仰のゆえに、次々と、敵に勝利します。すると、王のサウルにねたまれて、命を狙われ、イスラエル中を逃げ回り、あるときには、あわや、ダビデの命もこれまでかと思われる場面もありましたが、神の恵みによって守られました。
その後も、さまざまな試練を乗り越えて、後には、イスラエルの王になります。王になっても、通常は、喜んで、神の律法、戒め、掟が命じる霊的善を守って歩んでいました。ところが、あるときに、そのダビデも、まだ残存する古い罪の性質に負けてしまいます。ウリヤという自分の部下の妻バト・シェバが、体を洗っているのを見て、心に欲情を起こし、バト・シェバを王宮に召し入れ、関係を持ち、姦淫の罪を犯します。さらに、邪魔になったバト・シェバの夫のウリヤを敵との戦いの最前線に出し、敵の手で戦死させて、今度は、殺人の罪を犯します。
幾多の試練と困難と逆境を、その都度、神への強い信仰で乗り越えてきたダビデであっても、こうして、あるときには、罪との戦いに負けて、通常は、決して望んでいない悪を犯してしまいました。
このように、信者と言えども、聖化の未完成ゆえに、自分にまだ残っている古い罪の力を甘く見ることはできないのです。あるときには、古い罪の力に、自分の全体が支配されてしまうことがあるのです。
そこで、パウロは、自分の内に残存する古い罪の力ゆえに、自分が望んでいる律法に適う善を行わず、望んでいない悪を行ってしまう苦悩を、もう一度、語りました。19節がそうです。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしに中に住んでいる罪なのです」と、罪との戦いに敗北した自分自身の苦悩を告白しています。
特に、「それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしに中に住んでいる罪なのです」という表現は、自分に、なお残存している古い罪の性質の力の強い支配力を鮮明に語っています。自分の全体が、古い罪の力に完全に支配されているので、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしに中に住んでいる罪であると言えるほど、罪に、完全に支配されている状態を表しています。自分の全体が罪のかたまりであるかのように、生々しく語っています。
聖霊によって起こされた新しい霊的性質、そして、喜んで、神の律法、戒め、掟に従う霊的な力は、一体、どこにいってしまったのかと思える状態です。これは、決して、未信者の状態でなく、パウロという救われた信者の状態です。しかも、とても信仰の強い使徒パウロの状態です。
そして、これが、生身の信者の状態なのです。通常は、聖霊によって起こされた新しい霊的性質のゆえに、神の律法、戒め、掟に従って、救いの喜びと平安の中を喜んで歩みますが、あるときには、自分の内に残存する古い罪の性質の力に完全に敗北して、罪を犯してしまう、しかも、あのダビデのように、とんでもない罪、悪を犯してしまうことだって、ないとは言えないのです。
わたしたち信者が、罪との戦いがなくなるのは、天国に行ってからです。天国においては、罪との戦いはありません。あるのは、キリストと共にいる、口では言い表せない無限の喜びと安らかさです。
それまでのこの地上においては、どんなに信仰の強い人でも、罪との戦いがあり、あるときには、罪の力に敗北し、「それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしに中に住んでいる罪なのです」と言えるほど、罪に支配されてしまうことがあるのです。
パウロ自身も、この状態を経験しました。そこで、パウロは、自分自身の経験を通して、発見したのです。何を発見したのでしょう。すると、この地上における信者の歩みにおいては、聖霊によって起こされた新しい霊的性質の自分自身としては、神の律法、戒め、掟に従って、霊的善をなそうという意志はあるのですが、でも、その自分には、同時に、罪による悪も存在して、自分に付きまとっていて、離れないという変えることができない法則、決り、定めがあることを発見したのです。
21節がそうです。「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます」とありますが、「法則」というのは、救われて信者になっても、まだなお、自分の内には、古い罪の性質が残存しているので、その罪の力によって悪を行ってしまうという法則、すなわち、変えることができない決り、定めがあることを表します。そして、「気づきます」という言葉は、ここでは、発見しましたという意味です。
「法則」というのは、変えることができない決りや定めのことです。いくら、救われて、クリスチャンになったからと言っても、救われたときから、天国に入れていただくまで、罪をひとつも犯さないで、信仰の生涯を歩むということはないのです。それは、不可能なのです。救われて、クリススチャンとなって、通常は、喜んで歩んでいても、罪のきよめの未完成ゆえに、罪との戦いは避けられないのですし、あるときには、罪の力に敗北し、罪による悪を犯すのです。こうして、罪との戦いは、信者にとって、変えることができない決りであり、定めであって、法則と言えるものなのです。このことに、パウロは、罪との戦いの自分自身の経験において、気づいたのであり、発見したのです。
パウロは、もちろん、救われた信者であり、クリスチャンでしたので、「内なる人」、すなわち、聖霊によって新しい霊的性質を起こされた人としては、神の律法、戒め、掟は、人間の創造主なる神から与えられた人の正しい生き方の素晴らしい規準であることを、十分認めて、喜んでいます。
そのように、「五体」、すなわち、体を持った実際の人間としてのパウロの心には、救われた信者として、もちろん、神の律法、戒め、掟を喜んで守るという決り、定めが、心に、「法則」があるのですが、でも、もうひとつ、古い罪の性質によって罪を犯すという「罪の法則」があって、この二つの法則が戦いをし、あるときには、罪の法則が、体を持った実際の人間としてのパウロの全体をとりこにして、パウロの全体を支配することがあるということを、パウロは、自分の経験を通して、発見し、分かったのです。
21節から23節には、二つの「法則」が、「五体」、すなわち、体を持った実際の人間としてのパウロの内面において、戦うことが語られています。ひとつは、「心の法則」、もうひとつは、「罪の法則」です。
「心の法則」とは、神の律法、戒め、掟を喜んで守るという救われたパウロが心に持つ、「法則」のことであり、もうひとつの「罪の法則」とは、救われても、まだなお、古い罪の性質ゆえに罪や悪を犯すという「法則」のことですが、この二つの法則が、パウロの内で、相争い、戦うのです。
そして、ある場合には、神の律法、戒め、掟を喜んで守るというパウロが心に持つ、「心の法則」が、「罪の法則」との戦いに負けて、パウロ全体がとりこにされ、支配されてしまうことがあるのです。
23節に、「わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」とあります。「五体」というものは、頭、手、足をもった体のことですが、簡単に言えば、体を持った実際の生身の人間を表します。また、「心の法則」とは、救われて信者の心にある神の律法、戒め、掟を喜んで守る新しい性質のことです。「罪の法則」とは、救われたとは言え、聖化の未完成ゆえに、まだなお残存する古い罪の性質のことです。
この二つの性質が、パウロの内で、相争い、戦うのです。そして、ある場合には、心の法則、すなわち、パウロの心にある神の律法、戒め、掟を喜んで守る新しい性質が、まだなお残存する古い罪の性質との戦いにおいて、負けて、とりこにされ、パウロの全体が、罪の古い性質に支配されてしまうことがあることを意味しています。
そして、このパウロの経験は、信者が誰でも経験することなのです。信者には、罪との戦いがあるのです。そして、あるときには、罪との戦いに負けて、罪のとりこにされ、自分全体が罪に支配されて、罪を犯し、悪を犯すのです。そして、大きな罪や悪を犯してしまうこともあるのです。信者には、罪との戦いが必ずあり、また、罪との戦いに負けるときが、あることを、心構えとして、しっかり覚えたいと思います。
3.キリストにある罪の赦しの恵み
第3点に入ります。第3点は、パウロは、なおも残存している古い罪の性質との戦いに敗北したときでも、キリストを見上げて、罪の赦しを確信して、感謝したという点です。
以上のように、パウロは、救われても、なお罪との戦いが必ずあり、ある場合には、罪との戦いに負けるときがあるということを自分の経験を通して発見したとき、非常に、苦悩しました。善をなそうという意志はあるのですが、それを実行できず、罪との戦いに負け、敗北し、罪を犯したとき、パウロは、自分の弱さ、惨めさ、また、罪ゆえに、自分の体も死すべきものであることを実感して、助けを求める悲痛な叫びを挙げたのです。
24節がそうです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」とありますが、「惨めな人間」の「惨めな」というのは、「惨めな」の他にも、「打ちのめされた」とか「苦悩する」とも訳せる言葉です。そこで、昔の文語訳聖書を見ますと、ここは、「ああ、我悩める人なるかな。この死の体より、我を救わん者は誰ぞ」となっておりまして、パウロの苦悩が、より感じられるかもしれません。また、「死に定められたこの体」というのは、救われていても、罪ゆえに、自分の体も、死すべきものであることを実感していることを表しています。
でも、パウロは、自分の惨めさを実感し、苦悩して、終わるのではないのです。そして、ここが、素晴らしいところであり、わたしたち信者にとって、慰めと希望をなるところなのです。
すなわち、たとえ、罪との戦いに負け、敗北し、罪を犯し、自分の弱さ、惨めさ、また、罪ゆえに、自分の体も死すべきものであることを実感するときでも、パウロは、十字架のキリストを見上げて、恵みによる罪の赦しを確信して、神に感謝し、再び、信仰の勝利の中を歩むことができたのです。
キリストの十字架による罪の赦しの恵みは、人が、キリストを信じたとき、それまでの罪をすべて赦すだけではないのです。救われて、信者になってから犯す罪も、すべて恵みによって、なお赦してくださるのです。それゆえ、キリストにある信者は、一時は、罪との戦いに負けて、悲しみ、苦しみ、悩んで、救いの喜びや平安が、心に、感じられないときがあっても、キリストの十字架による罪の赦しの恵みゆえに、再び、救いの喜びと平安が、必ず、心に戻ってきて、信仰が勝利し、信仰をもって歩める人生を、神に、本当に感謝できるのです。
それで、25節を見ると、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」とありますが、もともとの語順は、「感謝、神に、主イエス・キリストを通して」という語順で、「感謝」という言葉が、一番先に出て、読者の目にパッと入るように書かれています。
ですから、この手紙が宛てられた1世紀のローマの信徒たちも、一時は、罪との戦いに負けて、悲しみ、苦しみ、悩んで、救いの喜びや平安が、心に、感じられないときがあっても、なお、キリストの十字架による罪の赦しの恵みゆえに、再び、救いの喜びと平安が、必ず、自分の心に戻ってきて、信仰が勝利し、信仰をもって歩める人生を、神に、本当に感謝できるということを確信して、喜びとで希望で、顔が輝いたことでしょう。
こうして、パウロは、自分の心では、神の律法、戒め、掟を喜んで守ることに従っているのですが、でも、聖化の未完成ゆえに、「肉」、すなわち、生まれながらの霊的無力な自分においては、残存する古い罪の法則に従っていることを語るのです。25節の後半がそうです。
結び
以上のようにして、わたしたちは、今日のところを見ます。そして、今日のところは、信者と人生の基準である神の律法、掟、戒めとの関係を教えているのです。すなわち、信者は、人生の基準である素晴らしい神の律法、掟、戒めを守り始めますが、しかし、完全に守れるわけではなく、逆に、罪の古い性質に負けて、律法に背く罪を犯して、苦しみ、苦悩することがあるのです。
でも、愛に富んでおられる神は、信者を、その都度、キリストの完璧な罪の贖い聖霊の豊かな力によって、励まして、救いの完成を目指して、勝利の道を歩ませてくださるのです。それゆえ、わたしたちは、信仰から信仰へ歩めるのです。
したがって、わたしたちは、これからも、神の愛と完璧キリストの罪の赦しと聖霊の今働く豊かな力を信頼して、さらに、救いの完成を目指して、勝利の道を歩んでいきたいと思います。
お祈り
憐れみ深い天の父なる神さま、
なたの変わらぬ慈しみの御心により、2月の歩みも守られ、今日は、3月の最初の礼拝に導かれ、感謝いたします。
今、わたしたちは、ローマの信徒への手紙の7章を通して、霊的な弱さを持ったわたしたちを愛して、キリストの救いと聖霊の力によって、励まして、救いに完成を目指して、勝利の歩みをさせてくださることを、心から感謝いたします。
どうか、わたしたちは、弱さのゆえに、あなたが与えてくださった人生の規準である律法、掟、戒めを十分に守ることができませんが、聖霊によって、罪をきよめて、守ることができるよう、霊的な力をお与えください。
今月のわたしたちの歩みの上に、顧みをお与えください。わたしたち一人一人の信仰と健康と生活をお導きください。 また、本日、種々の都合や事情により、出席できなかった方々に、それぞれのところで、顧みをお与えください。
また、今日から始まるわたしたちの1週間を、どこにあっても、豊に祝福してください。
この祈りを、主イエス・キリストの御名により、御前にお献げいたします。アーメン。