* 佐々木稔 説教全集 *   

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   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6;5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


アダムとキリストの比較

ローマの信徒への手紙5:12-21

 

はじめに

 

 本日も、ローマの信徒への手紙のお話です。では、これから、ローマの信徒への手紙のどこの個所をお話しするかと言いますと、5章前半です。ローマの信徒への手紙は、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが、紀元56年頃、ギリシアのコリントから、ローマの信徒たちに書いた手紙と言われます。そして、これまでに、ローマの信徒への手紙を、9回、お話をさせていただきましたが、今日は、10回目のお話です。

 

 では、今日の個所は何を教えているのでしょう。すると、アダムとキリストが並べられ、キリストがもたらしたものは、アダムがもたらしたものとは、比較にならないほど豊かなものであることが、力を尽くして語られているところです。

 

 すなわち、アダムは、罪によって、人類に、悲惨な罪と死をもたらしましたが、キリストは、十字架の贖いによって、信じる人々に、罪の赦しの恵みと死に勝利する永遠の命をもたらしたのです。

 

 そこで、今日のわたしたちも、イエス・キリストを信じて、罪の赦しの恵みと永遠の命を、自分のものとして、アダムがもたらした罪と死に勝利して、喜びに満ちあふれ、真の人生を、日々、神との交わりに喜んで歩んでいきたいと思います。

 

1.全人類が代表アダムの子孫として、罪を犯し、死ぬ者となりました

 

 さて、それで、まず、わたしたちは、全人類の代表として、神の前に立っていたアダムが、食べてはいけないと命じられていたのに、食べて、罪を犯すことにより、全人類に入ってきたものが、悲惨な罪と死であったことから見ていきましょう。

 

 すなわち、全人類の代表であったアダムは、エデンの園で、神に禁じられていた善悪を知る木から取って食べて、罪を犯したため、アダムの子孫である全人類も、神の前に罪を犯したと見なされ、全人類も、罪人に転落し、死ぬ者になってしましまいた。そして、それ以後、例外なく、どの人も、罪ゆえに死ぬ者となり、全人類は、死の支配に縛りつけられてしまいました。

 

 12節から14節がそうです。それで、ここに、「一人の人」というのを見ますが、この「一人の人」とは、具体的には、わたしたち全人類の代表であったアダムのことです。では、その「一人の人」アダムは、どうしたのでしょう。すると、旧約聖書、創世記2章、3章にありますように、神から食べてはいけないと命じられていた善悪を知る木から取って食べて、罪を犯したため、罪に対する刑罰として、塵に帰る者、すなわち、死ぬ者になってしまいました。

 

 ところが、死ぬ者になったのは、アダムだけではなく、アダムの子孫として出てくる全人類も、アダムとの連帯性、一体性のゆえに、罪を犯したと見なされて、罪人となり、罪に対する刑罰として、死ぬ者になりました。こうして、わたしたち全人類の代表であった「一人の人」アダムの罪により、全人類に悲惨な死が入ってきて、それ以後、死は、全人類の王として支配し、人は、いつの時代の人でも、死の王国の国民となったのです。

 

 それで、わたしたちが、12節で注目したいのは、「一人の人」のしたことが、連帯性、一体性のゆえに、全人類に測り知れない影響を与えたという事実です。すなわち、アダムは、確かに、「一人の人」ですが、しかし、単なる個人の一人でなく、全人類の代表として「一人の人」でしたので、アダムが罪を犯したことは、連帯性にゆえに、アダムの子孫であるわたしたち全人類が罪を犯したことと見なされて、わたしたち全人類も、憐れな罪人となり、罪に対する刑罰として、わたしたち全人類も、死ぬ者になったという事実です。

 

 そこで、12節後半でも、アダムのしたことは、アダムだけに留まらずに、「すべての人が罪を犯したからです」と、はっきり語り、連帯性、一体性のゆえに、わたしたちすべての人に、罪と死が及んでいる事実を、明白に教えています。

 

 また、14節後半に、「アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました」とありますが、この「支配する」という言葉は、もともとは、「王国を築いて支配する」という意味の言葉が使われています。すなわち、王が、着々と強い王国を築いて、自分がその王国の王として君臨し、国民を強い力で支配することを意味します。

 

 ですから、この意味を「死は支配しました」に当てはめると、死は、代表者のアダムの神の命令への違反によって、人類に入り込み、着々と人類世界に死の王国を築き上げて、すべての人を死の王国の国民にし、自らは、王として君臨し、人類を強い力で支配していることを表しています。こうして、アダム以来、全人類は、死の王国の国民とされていて、死という王により、強い力で支配されていて、誰一人として、死という強い王の支配から免れることができかったのです。

 

 考えてみますと、確かに、アダム以後の人類の歴史を、イスラエルの流れにおいて見るならば、アダム以後のある期間は、まだ、十戒をはじめとするモーセの律法は、与えられていませんでしたので、モーセの律法に照らして、人間が罪人であることを知るという仕方は、ありませんでした。しかし、モーセの律法がなくとも、人間は罪人であり、罪に対する神の刑罰として、人々は、死の支配から免れることができませんでした。

 また、考えてみますと、アダム以後において、人々は、アダムのように、神から、善悪を知る木から取って食べるなと、直接、語られたにもかかわらず、神の命令に背いて、罪を犯すという仕方では、罪を犯しませんでした。でも、だからと言って、アダム以後の人々が、罪人でなかったわけではありません。その証拠に、神に直接、語りかけられなかった人々も、皆罪人であり、罪に対する刑罰として、死の支配から免れることは、誰一人としてできませんでした。皆、死んだのです。

 

 そして、このことは、今日も同じです。わたしたち日本の人々も、アダムの子孫として生まれ、日々、思いと言葉と行いにおいて、罪を犯しながら生きていますので、神の前に有罪であり、死の王国の国民とされ、死という王に強い力で支配されています。それゆえに、人生のどこかの地点で、教会が語るよき知らせである福音を聞いて、キリストを信じ、恵みにより、罪赦されて救われ、死の王国から解放されねばなりません。

 

2.アダムとキリストには、形の上での類似性がある

 

 以上のようにして、「一人の人」アダムがしたことが、全人類に大きな影響を与えたことがわかりましたが、実は、後に出てくるイエス・キリストも、形の上では、アダムに似ているのです。

 

 すなわち、「一人の人」アダムがしたことが、全人類に大きな影響を与えたように、イエス・キリストという「一人の人」がしたことも、多くの人々に大きな影響を与えるのです。したがって、形の上では、似ていて、類似性があるのです。それゆえ、アダムは、後に出現するキリストの型、ひな型、タイプ、パターンと言えるのです。

 

 14節後半に「実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです」がそうです。「来るべき方」というのは、後に出現するイエス・キリストのことですが、「前もって表す者」というのは、もともとの意味は、「同じかたちのもの」という意味です。では、一体、どのような意味で、アダムは、後に出てくるイエス・キリストと「同じかたちのもの」なのでしょう。

 

 すると、それは、「一人の人」のしたことが、他の人々に大きな影響を与えるというかたちが、アダムの場合も、イエス・キリストの場合も同じなのです。すなわち、アダムという「一人の人」のしたことが、全人類に大きな影響を当てましたが、イエス・キリストも同じで、イエス・キリストのしたことが、多くの人々に大きな影響を与えるのです。ですから、形の上では、アダムという「一人の人」の人のしたこととイエス・キリストがしたことは、似ている、類似性があるのです。

 

 3.キリストがもたらしたものの圧倒的豊かさ

 

 以上のように、アダムという「一人の人」の人のしたこととイエス・キリストがしたことは、形の上では、似ている、類似性があることがわかりましたが、では、与えた影響の内容も似ていたのでしょうか、あるいは、同じと言えるのでしょうか。

 

 すると、与えた影響の内容は、まったく違うのです。真っ向から対立する内容なのです。すなわち、アダムという「一人の人」の人の与えた影響は、全人類に、罪と死と裁きと有罪という、人間の大事な人生を破壊するものをもたらしました。しかし、キリストという「一人の人」の人の与えた影響は、多くの人々に、罪の赦しの恵みと義認と永遠の命という、人間の大事な人生を、真に生かす、豊さが満ち溢れるものを、どっさりもたらしたのです。したがって、キリストという「一人の人」がもたらしたものの豊かさ、素晴らしさ、尊さは、満ち満ちていて測り知れない驚くべきものなのです。

 

 そこで、パウロも、少しづつ、言い方を変えまして、キリストという「一人の人」の人がもたらしたものと、アダムという「一人の人」の人がもたらしたものを並べて、キリストのもたらしたものが、比較にならぬ豊かさに満ちあふれていることを、4つの言い方で語るのです。

 

 そこで、わたしたちも、ひとつづづ見ていきましょう。まず、第一の言い方は、「一人の人」の人アダムは、その罪が原因となって、全人類が死ぬという結果をもたらしましたが、「一人の人」の人のイエス・キリストは、神の御計画により、十字架上で人間の罪の贖いをしたので、確実な罪の赦しの恵みが、イエス・キリストを信仰する多くの人々に豊かに満ち溢させることをもたらしました。

 

 15節がそうです。そこに、「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば」とありますが、これは、「一人の人」の人アダムの罪、すなわち、禁断の実を食べたという罪が原因となって、全人類が罪人になり、その結果、死ぬ者になったことを表しています。

 

 では、他方、もう「一人の人」の人のイエス・キリストは、何をもたらしたでしょうか。すると、神の御計画により、十字架上で、人間の罪の贖いをしたので、イエス・キリストを救い主と信仰する多くの人々に、確実な罪の赦しの恵みが満ち溢れることをもたらしたのです。

 

 それで、両者を並べると、キリストがもたらしたものの豊かさ、素晴らしさ、強さ、尊さは、測り知れず、アダムがもたらしたものに無限に勝るのです。15節に、「恵みの賜物」、また、「神の恵み」、また、「一人の人イエス・キリストの恵みの賜物」という言い方が出ていますが、これらは、すべて、神の御計画により、イエス・キリストが十字架上で、贖いをした結果、信仰する者に与えられる、確実な罪の赦しの恵みを表しています。

 

それで、では、「恵みの賜物」、また、「神の恵み」、また、「一人の人イエス・キリストの恵みの賜物」と言われる罪の赦しの恵みは、どのようなものかと言えば、アダムによってもたらされた人間の罪を完璧に赦すもので、罪よりも、力が圧倒的に強くて、豊かで、罪に勝利して、信仰する者に満ちあふれるのです。

 

 15節に、「比較になりません」、「なおさら」、「豊かに注がれる」という言葉が出てきますが、これらの言葉で、神の御計画により、キリストの贖いによる罪の赦しの恵みが、信じる者の心と人生において、罪に勝りて、圧倒的に、強く、豊かに、満ちあふれて働くことを鮮やかに印象づけています。

 

 特に、「豊かに注がれる」という言葉は、とても意味の豊かな言葉で、いろいろな意味があります。たとえば、「十分以上に沢山ある」とか、「多量にある」とか、「おびただしく沢山ある」とか、「一杯あって溢れ出る」とか、「著しく豊かである」というような意味です。

 

 したがって、神の御計画に基づくキリストの贖いによる罪の赦しの豊かな賜物は、キリストを信仰するわたしたちの心と人生において、罪に勝利して、圧倒的に、強く、豊かに、沢山、著しく、おびただしく、一杯に、満ち溢れて働くのです。それゆえに、わたしたち一人ひとりが、イエス・キリストに、信仰によって、しっかりつながりたいと思います。

 

4.キリストは、信じる者に、信仰義認ゆえに、無罪宣告をもたらしました

 

 さて、では、「一人の人」アダムのもたらしたものと、「一人の人」イエス・キリストのもたらしたものの違いを表す第2のものは、何でしょう。すると、それは、「一人の人」アダムは、その罪が原因となって、全人類が神から裁きを受け、全人類が罪人と見なされ、全人類への有罪宣告をもたらしたのですが、「一

人の人」イエス・キリストは、信仰する多くの人々の罪を、恵みによって赦し、義人と見なして、無罪宣告をもたらしてくださったのです。

 

 16節がそうです。「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが」とありますが、これは、「一人の人」アダムの罪によって、全人類が、神に裁かれ、全人類が罪人と見なされ、そして、全人類が罪に定められたこと、すなわち、有罪宣告を表しています。

 

 「裁きの場合」とは、「一人の人」アダムが、善悪の木から取って食べた最初の一つの罪が、神により、裁かれ、アダムダだけでなく、アアムの子孫の全人類が罪人になったことを意味しています。

 

 そして、「有罪の判決がくだされますが」というのは、これは、「一人の人」アダムだけが、神から罪に定められ、有罪宣告を受けただけでなく、アダムの子孫の全人類も、代表アダムとの連帯性あるいは一体性のゆえに、神から罪に定められ、有罪宣告を受けたことを意味します。こうして、「一人の人」アダムは、その罪が、原因となって、連帯性のゆえに、全人類が、神から有罪宣告される結果をもたらしたのです。それゆえ、わたしたちも、神の裁きにより、有罪宣告されている罪人なのです。

 

 では、他方、もう「一人の人」イエス・キリストは、何をもたらしたのでしょう。すると、罪の赦しの恵みによって、信じる多くの人々に、信仰義認により、無罪宣告をもたらしたのです。

 

 16節後半で、「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです」とありますが、「恵みの場合」とは、恵みによる罪の赦しの場合という意味です。そして、「無罪の判決が下されるからです」というのは、多くの人々がイエス・キリストを信仰することによって、信仰義認により、神の前での正しさである義をもたらして、無罪宣告されることを表しています。

 

 「無罪の判決が下されるからです」とありますが、もともとの言い方は、「義をもたらします」という言い方です。すなわち、イエス・キリストを信仰することによって、すなわち、信仰義認により、神の前での正しさである義をもたらすのですという言い方です。そして、信仰義認によって、神の前での正しさである義がもたらされれば、罪がどんなに多くあってもすべて赦されて、神から無罪を宣告されますので、新共同訳聖書は、信仰義認によって、神の前での正しさである義がもたらされることを、わかり易く、「無罪の判決が下されるからです」と訳しました。

 

 こうして、「一人の人」アダムによって、全人類にもたらされたものは、有罪判決でしたが、「一人の人」イエス・キリストによって、信じる多くの人々にもたらされたものは、信仰義認による無罪判決でした。全人類への有罪判決は、イエス・キリストへの信仰によって、無罪判決へと、根本から覆されるのです。如何に、イエス・キリストの十字架の贖いの力が、圧倒的に強く、豊かで、罪に勝利するかを、パウロは、実に強力に印象深く表明しています。本当に、素晴らしいことです。イエス・キリストへの信仰は、いろいろな恵みを沢山、わたしたちにもたらすのです。それゆえ、わたしたちは、一層、イエス・キリストへの信仰を深めていきたいと思います。

 

5.キリストを信じる者は、キリストと共に、王として支配します

 

 さて、では、「一人の人」アダムのもたらしたものと、「一人の人」イエス・キリストのもたらしたものの違いを表す第3のものは、何でしょう。すると、それは、「一人の人」アダムは、その罪が原因となって、死が、全人類を支配する結果をもたらしたのですが、「一人の人」イエス・キリストは、信仰によって、罪の赦しの恵みと神の前での正しさである義の賜物を受けているすべて信者が、世の終わりに、永遠の命の豊かさの中で、そのとき出現する栄光の神の国において、キリストと共に、王さまとして支配することをもたらしたのです。

 

17節がそうです。「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば」とありますが、これは、「一人の人」アダムの罪が原因となって、アダムの子孫である全人類が、死という王さまに支配されることをもたらしたことが意味されています。「支配する」とう言葉は、王として、王さまとして支配することを意味します。

 

 では、他方、「一人の人」イエス・キリストによって、何がもたらされたのでしょう。すると、それは、信仰によって、罪の赦しの恵みと神の前での正しさである義の賜物を受けているすべて信者が、世の終わりに、永遠の命の豊かさの中で、そのとき出現する栄光の神の国において、キリストと共に、王として支配することをもたらしたのです。

 

 17節後半に、「なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです」とありますが、「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は」というのは、信仰によって、罪の赦しの恵みと神の前での正しさである義の賜物を受けている信者のことですが、信者の将来の祝福を表しています。

 

 「支配するようになるのです」という言葉は、未来形になっていますので、世の終わりのこと、キリストが栄光のうちに再臨するときの将来のことを表しています。そして、また、「支配する」というのは、王として支配するという意味です。今日の個所には、「支配する」という言葉が、5回出てきますが、もともとの意味は、王として、王さまとして支配するという意味です。

 

 すなわち、「一人の人」アダムによって、死が王さまとして全人類を支配するようになりましが、もう「一人の人」イエス・キリストによって、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている信者は、世の終わりに、永遠の命の豊かさの中で、そのとき出現する栄光の神の国において、キリストと共に、王さまとして支配することをもたらしたという素晴らしい意味になります。

 

 さらに、「イエス・キリストを通して生き」というのは、もともとは、「イエス・キリストの命において」という言い方で、「イエス・キリストから与えられ永遠の命において」という意味です。

 

 ですから、これらをまとめると、「一人の人」イエス・キリストは、信仰によって、罪の赦しの恵みと神の前での正しさである義の賜物を受けているすべて信者は、世の終わりに、永遠の命の豊かさの中で、そのとき出現する栄光の神の国において、キリストと共に、王さまとして支配することをもたらしたのです。

 

もちろん、まだ、世の終わり、終末は来ていませんので、わたしたち信者が、そのとき出現する栄光の神の国において、キリストと共に、王さまとして支配することはまだ完成していません。しかし、わたしたちが、イエス・キリストを信仰して、すでに、永遠の命に置かれていることにおいて、それを目指して日々歩んでいるのです。ある意味では、もう、それは、始まっていると言ってもよいでしょう。わたしたちは、アダムによって、死という王に支配されているところから、イエス・キリストと共に、栄光の神の国を支配する王に変えられたのです。そして、永遠の命の豊かさの中に置かれて、それを目指して、喜んで、日々、歩んでいるのです。こんな素晴らしい生き方が他にあるでしょうか。心から感謝できます。

 

6.キリストを信じる者には、永遠の命が与えられます

 

 さて、では、「一人の人」アダムのもたらしたものと、「一人の人」イエス・キリストのもたらしたものの違いを表す第4のものは、何でしょう。すると、それは、「一人の人」アダムは、その罪が原因となって、すべての人に有罪の

判決が下されましたが、「一人の人」イエス・キリストの十字架における罪の贖いという死に至るまで従順で、神に受け入れられる正しい行為によって、キリストを信じるすべての人が、信仰によって義とされて、救われ、永遠の命を与えられることになったのです。

 

 すなわち、エデンの園における「一人の人」アダムの不従順は、「多くの人々」、すなわち、全人類を罪人に陥落させたのですが、「一人の人」キリストの十字架の死に至るまで従順で、神に受け入れられる正しい行為は、キリストを信じる「多くの人々」、すなわち、信仰者全体が、神の前で「正しい者」、すなわち、義人とされ、「命」、すなわち、永遠の命を与えられるのです。

 

 18節と19節がそうです。18節に、「一人の正しい行為」とは、キリストの十字架の死に至るまで従順な、神に受け入れられる正しい行為としての罪の贖いを意味しています。また、19節の「一人の人」の不従順というのは、食べてはいけないという神の言葉に違反したエデンの園における「一人の人」アダムの不従順の行為を意味します。

 

 それで、その結果、エデンの園における「一人の人」アダムの不従順は、「多くの人々」、すなわち、全人類を罪人に陥落させたのですが、「一人の人」キリストの十字架の死に至るまで従順は、キリストを信じる「多くの人々」、すなわち、信仰者全体が、神の前で「正しい者」、すなわち、義人とされ、「命」、すなわち、永遠の命を与えられるのです。18節後半の「命を得ることになったのです」というところが、光っていますね。「命」と、永遠の命、永遠の生命のことです。

 

 そして、実際、「一人の人」キリストの十字架の死に至るまで従順は、キリストを信じる「多くの人々」、すなわち、わたしたち信仰者全体が、神の前で「正しい者」、すなわち、義人とされ、「命」、すなわち、永遠の命を与えられるのです。それで、現実に、キリスを信じる「多くの人々」に属するわたしたちクリスチャンは、キリストを信じているゆえに、今、もう、すでに、義人とされ、救われて、永遠の命に日々生かされています。わたしたちクリスチャンには、すでに、永遠の命が始まり、働いていて、わたしたちを霊的に豊かに満たし、潤し、永遠の命の完成を目指して歩ませているのです。わたしたちは、永遠の命の所有者であり、これは、無限の喜びです。

 

7.パウロは、罪に対するキリストの恵みの完全勝利を語ります

 

 こうして、パウロは、「一人の人」アダムのもたらしたものと、「一人の人」イエス・キリストのもたらしたものを並べ、比較して、キリストがもたらしたものの圧倒的恵み深さ、豊かさ、素晴らしさを力を込めて語りましたが、これらの締めくくりとして、罪に対するキリストの恵みの完全勝利を語ります。

 

 すなわち、考えてみますと、モーセの十戒をはじめとする人間の生き方の基準の律法は、旧約聖書を見ればわかりますように、人間の歴史の途中から入り込んできました。エデンの園、また、アブラハム、イサク、ヤコブなどのモーセ以前の時代には、十戒をはじめとする人間の生き方の基準の律法は、まだありませんでした。

 

 十戒をはじめとする律法が与えられたのは、イスラエルの民が、出エジプトしてから、シナイ山のふもとで与えられたのです。では、律法が与えられた目的は何でしょう。すると、それは、1世紀のユダヤ人が主張していたように、人間が律法をすべて完全に守って救われるために与えられたのでなかったのです。

 

 その真逆でした。すなわち、人間は、律法をすべて完全に守って救われることができないことを教え、認識されるためでした。すなわち、人間は、ああ、自分がすることは、どれもこれも律法に適わない、自分のすることは、これもあれも律法に反することばかりであり、人間は律法を完全に守って救われるなどいうことは不可能であるということを、ますます深刻に認識するためであったのです。

 

 このことを、パウロは、20節で、「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました」と言ったのです。「罪が増し加わるためでありました」という言い方は、「罪の認識が増し加わるためでありました」と「認識」という言葉を入れて読んだらわかりやすいでしょう。

 

 しかし、律法によって、罪の認識がますます深くなったとき、神は、キリストを出現させ、十字架で罪の贖いをさせて、信じる人の罪を恵みによって赦してくださったので、罪の赦しが、どんなに大きいかも認識できるようになりました。このことを、パウロは、「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」と表現しました。

 

 本当にそうです。人間は、律法を守ることができず、罪を次から次へと犯しているという罪の認識が深くなればなるほど、逆に、キリストの十字架の罪の赦しは、無限の計り知れない恵み、巨大な恵み、無尽蔵の汲めども尽きない満ちあふれる恵みであるということも認識するのです。

 

 それで、結局、どうなるのでしょう。すると、結局、アダムによって入って来た罪が、罪に対する刑罰としての死によって、全人類を支配したように、今度は、罪の赦しの恵みが、神の前での正しさである義によって、クリスチャンたちを支配し、イエス・キリストへの信仰を通して、わたしたちクリスチャンを永遠の命に導き、永遠の命によって生かされるようにできるのです。

 

 こうして、一言で言えば、アダムによってもたらさらものは、死なのです。では、キリストによってもたらされたものは、何でしょう。すると、それは、死の力を木端微塵に打ち砕いて、死に完全に勝利する永遠の命なのです。そして、キリストを信ずるわたしたち、クリスチャンのうちには、死に完全に勝利する永遠の命は、もうすでに、始まり、わたしたちを、日々、霊的に、神とのまじわりにおいて豊かに生かしており、やがて、天国に導き、再臨のときに、栄光の御国において、完成するのです。

 

結び

 

 以上のようにして、今日のアダムとキリストの比較の個所を見ますが、パうロは、五分五分で比較しているのでなく、キリストによってわたしたちにもたらされる恵みは、アダムとはまったく比較にならないでしょうという意味において比較しているのです。キリストによって、与えられる恵みの無限の豊かさを読者に教えるために、アダムと比較したのです。主役は、わたしたちの愛する主イエス・キリストです。本当に、素晴らしいことで、幾ら感謝ししてもしたりません。本当にありがたく、心が喜びで満ちあふれてきます。

 

お祈り

 

 恵み深い天の父なるかみさま、
、わたしたちは、アダムとキリストの比較の個所を学び、キリストによって、わたしたち一人ひとりにもたされる罪の赦しと永遠の命の恵みが、どんなに豊かであるかを、改めて教えられ、心から感謝いたします。

 わたしたちは、これからのキリストを信仰することによって与えられる永遠の命によって、日々、あなたとの霊的に豊かなまじわりに中を、喜び、感謝して、歩めるように、今週も、お導きください。

 今日、いろいろな都合や事情で集まることのできなかった方々にも、それぞれのところで顧みをお与えください。

これらの祈りを、主イエス・キリストの御名により、御前にお献げいたします。アーメン。

 

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