* 佐々木稔 説教全集 *   

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   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6;5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ 11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


「信徒の生活」

ローマ書12章1節―8節

 

 12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。12:3 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。12:4 というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、12:5 わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。12:6 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、12:7 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、12:8 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

 

はじめに

 

 わたしたちは主の日の朝の礼拝においては、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが、紀元56年頃ローマの信徒たちに書いたローマの信徒への手紙を学んでいますが、今日も、わたしたちはキリストにある素晴らしい救いを順序立てて教えているローマの信徒への手紙に耳を傾けたいと思います。

 

 では、今日の個所はどんなところでしょう。すると、救われた者がこの世にあって、どのような生活をしていったらよいのかが、パウロにより教えられています。すなわち、救われた者は旧約時代においても新約時代においても、目に見えない真の神を礼拝しながら力強く生活をしていくのです。

 

 そして、旧約時代のイスラエルであれば、イスラエルの民はエルサレム神殿において、祭司が傷のない最もよい動物を取り分け、聖別し、神に喜ばれるいけにえとして神に献げ、儀式的礼拝をしながら、民は生活をしていったのです。

 

 しかし、約束の救い主メシアのイエスさまが出現し、十字架の死と復活を経て、さらに、ペンテコステにおいて、聖霊が地上に豊かに降臨した新約時代においては、信徒は、最早エルサレム神殿に出かけて、そこで祭司が傷のない最もよい動物を取り分け、聖別し、神に喜ばれるいけにえとして神に献げ、儀式的な礼拝をする必要はなくなりました。

 

では、新約時代の信徒は、どのような礼拝をしながら生活をしていけばよいのでしょう。すると、信徒は自分が日常生活をする場所で、体をもった自分自身を神に喜ばれる生きた聖なるいけにえとして献げて献身し、旧約時代の儀式的礼拝ではなく、新約時代の豊かな霊的礼拝をしながら生活をしていくことを、パウロはローマの信徒に力強く勧めたのです。

 

そして、自分自身を神に献げて献身し、旧約時代の儀式的礼拝ではなく、新約時代の豊かな霊的礼拝をしながら生活すべきことと共に信徒たちがお互いに自分の賜物を十分活用し、キリストの体なる大事な教会を共に建てて教会生活をしていくべきことを、パウロは勧めたのです。

 

そこで、今日の個所から3点お話しいたします。第1点は、パウロはローマの信徒に、自分自身を献げて献身し、旧約時代の儀式的礼拝ではなく、新約時代の豊かな霊的礼拝をしながら生活することを勧めたという点です。第2点は、パウロはローマの信徒に、神による霊的更新を勧めたという点です。第3点は、ローマの信徒がお互いに賜物を認め合い、賜物を活用し合って、キリストの一つの体なる教会を建てていくべきことを勧めたという点です。

 

 そこで、今日のわたしたちも、救われた者として、自らを神に献げて献身し、旧約時代の儀式的礼拝ではなく、新約時代の豊かな霊的礼拝をしながら生活をしていくとともに、お互いに自分に与えられている賜物を十分に用い合い、キリストの体なる教会を、今の時代の日本に共にしっかり建て、豊かな祝福を受けたいと思います。

 

1.自分自身を神に献げて献真し、霊的礼拝をしながら生活することを勧めました

 

早速、第1点に入ります。第1点は、パウロはローマの信徒に、自分自身を献げて献身し、旧約時代の儀式的礼拝ではなく、新約時代の豊かな霊的礼拝をしながら生活することを勧めたという点です。パウロは、わたしたちが学んできましたように、ローマの信徒の手紙の1章から今日の直前の11章までにおいて、救いの方法としての信仰義認を丁寧に、かつ、繰り返し、力強く教えてきました。

 

すなわち、旧約歴史のない異邦人も、旧約歴史のあるイスラエルも、共に信仰によって義とされて救われることを順を追って何度も語ってきました。これにより、救いの方法は律法主義でなく、信仰義認であることがローマの信徒に十分よくわかったはずです。

 

そこで、今度は信仰義認によって救われた信徒の実際の生活について教えていくのです。すなわち、信仰義認によって救われた信徒は、この世にあって生きていきますが、そのとき、どのように生活していくべきか、また、信仰義認によって救われた信徒は、教会の一員として生活していきますが、どのような思いをもって大事な教会を建てていくべきかが、次の大きな問題となります。

それゆえ、1章から11章までは、救いの方法としての信仰義認について語ってきましたが、この12章以降では救われた信徒の生活、実践について語るのです。それで、しばしば、ローマの信徒への手紙は、1章から11章までは救いの教理、12章以降は、救われた信徒の生活と2つの部分に分けられると言われてきたほどです。

 

そこで、パウロは12章1節で、「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」と言っていますが、「こういうわけで」というのは、11章までにおいては、救いの方法としての信仰義認について語ってきましたが、この12章以降では、救われた信徒の生活について語りますよという意味です。

 

また、「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」というのは、「神の憐れみを引き合いに出して、わたしは、あなたがたローマの信徒たちに勧めます」という意味ですが、「神の憐れみ」は、わざわざ複数形になっていますので、その意味を出せば、「神のいろいろな憐れみを引き合いに出して、わたしは、あなたがた、ローマの信徒たちに勧めます」という意味になります。しかし、「神のいろいろな憐れみ」が、具体的に何であるかは、特に語られていませんので、ローマの信徒への手紙の1章から11章までにおいて、すでに語られてきたいろいろな神の憐れみの全体を指していると思われます。

 

たとえば、キリストへの信仰によって、神の前で義とされる信仰義認のこと、キリストを通して与えられている永遠の生命のこと、罪に死に義に生かされていること、聖霊による罪からのきよめ、すなわち、聖化が始まっていること、聖霊によって、神の子とされ天の神を「アッバ、父よ」、すなわち、天のお父ちゃんと親しく呼べること、世の終わりにはキリストと共に栄光を受けること、さらに、世の終わりには体が贖われ、キリストと同じ二度と死ぬことがない栄光の体に復活すること、聖霊の取り執しによって目に見えない神に、今祈れること、神の愛を今十分確信できること、救いは無償の選びによることなどを、「神のいろいろな憐れみ」と言っていると考えられます。

 

まさに、信徒は、神のいろいろなこれらの多種多様な、実に豊かな憐れみを受けて救われているのです。そこで、これらの神のいろいろな多種多様な、実に豊かな憐れみを受けて救われていることを、引き合いに出して、ローマの信徒に、パウロは、今や、自分を神に献げて、旧約時代の儀式的礼拝ではなく、新約時代の豊かな霊的礼拝しながら生活をすべきことを、勧め、願い、力強く促しているのです。

 

そして、「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」の「勧めます」という言葉は、「願う」とか、「切に願う」とか「懇願する」とも訳せる言葉で、新改訳聖書では、「神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願します」となっていて、権威ある使徒であるパウロが、ローマの信徒に、何と、お願いしている言い方になっています。

 

考えてみますと、パウロは、使徒の権威に立って、「あなたがたに命令します」と、強い言い方で言えたはずなのに、何故そうしないで、「勧めます」、すなわち、「願います」あるいは「懇願します」と言ったのかとわたいたちは疑問に思うのです。すると、その理由は、ローマの信徒たちが、神に自分を献げるのは、権威ある使徒パウロによって命令されたので、否応なしに仕方なしに、いやいやしぶ献げるというのではなく、自分たちはいろいろな多種多様な、実に、豊かな神の憐れみを受けて救われていることを心から感謝して、ローマの信徒たちが、自分から進んで、積極的に、自発的に、自分の方から神に喜ばれるきよい生きたいけにえと自分自信を献げて、豊かな新約時代の霊的礼拝をしながら、1世紀の異教社会にあって、信仰でしっかり生きていくことを、とても強く望み願ったからです。そのような積極性がなければ、世界で最初の信徒として、困難な時代に信仰を守って、人生を歩むことができなかったのではないかと思われます。

 

では、パウロは、いろいろな多種多様な、実に、豊かな神の憐れみを受けているローマの信徒たちに、何を願い、何を懇願し、何を促したのでしょう。すると、自分自身を神に喜ばれるきよい生きたいけにえとして献げて献身し、新約時代の特色である豊かな霊的礼拝をしながら、1世紀の困難な時代にあっても信仰でしっかり生きていくことをとても強く願ったのです。

 

そこで、パウロは、新約時代の特色である豊かな霊的礼拝を旧約時代の儀式的な礼拝と比べて語るのです。すなわち、旧約時代のイスラエルにおいては、エルサレム神殿で祭司のきれいな服を着た祭司が傷のない動物を取り分け、聖別し、屠って、いけにえ、犠牲として神に献げ、儀式的な礼拝をしながら生活をしました。

 

それに比べて、新約時代のいては、約束の救い主メシアのイエスさまが出現して十字架の死と復活を経て、天にお帰りになり、さらに、聖霊が降臨しましたので、最早、祭司がエルサレム神殿で動物を聖別し、屠って、いけにえとして、献げて儀式的に礼拝することは、目的を果たして終ったので、信徒は、エルサレム神殿という場所に捕らわれず、自分が日常の生活をしているところで、祭司によらず、自分で、動物ならぬ自分自身を神に献げて献身し、新約時代の霊的に豊かな礼拝をすつように願ったのです。

 

そこで、パウロは、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにとして献げなさい」と言いましたが、この場合の「体」は、「体」だけを献げれば、心は献げなくともよいという意味ではなくて、心も含めて「体」をもって生活をしていく具体的な人間を意味しています。すなわち、心を含めて体をもった自分自身と自分の全生活を神にそっくり丸ごと献げることを意味します。自分のある部分だけを献げるのではなく、自分自身を丸ごと全部残すところなく献げることを意味します。

 

そして、パウロは、献身を勧め、願うことにおいて、信徒が自分の体を「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして」献げることを勧め、願うとき、「神に喜ばれる聖なる生ける」という3つの形容詞をつけましたが、原文の語順は、「生ける、聖なる、神に喜ばれるいけにえ」という語順で、「生ける聖なる神に喜ばれるいけにえ」となり、「生ける」が、一番最初に来て、次に、「聖なる」が来て、最後に「神に受け入れられる」が来ていて、わたしたちが今見ている新共同訳聖書の語順とちょうど逆になっています。

 

そして、「生ける」というのは、旧約時代のいけにえ、動物犠牲は、最初は生きていますが、献げるときには屠って、命を奪って死なせた動物を献げましたが、新約時代のわたしたち信徒が、自分の体を神に献げて献身するときには、もちろん、屠ったりしませんで、具体的に生きていて、神の御心を行うように行動する体であり、神に対して真に生かされる体です。

 

また、「聖なる」というのは、生まれつきの罪に支配された体でなく、聖霊によって、すでに聖化が始まっていて、神に仕える備えがなされている聖別された体を意味します。また、「神に喜ばれる」というのは、神に受け入れられるという意味で、旧約時代の動物のいけにえは、献げる際の細かい規定によって体に傷のない最もよい動物が献げられ、神に受け入れられましたが、新約時代においては、キリストの贖いによって、わたしたちの体は聖霊の宮とされ、神に喜ばれ、神に受け入れられる体を献げて献身するのです。

 

こうして、これは、キリストによって、救われた信徒が、当然なすべき新約時代の豊かな霊的な礼拝であり、信仰の理に適い、信仰の道理にかなった礼拝なのです。1節後半に、「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」とありますが、「なすべき礼拝」という言い方は、「霊的礼拝」とか、「理に適った礼拝」とか、「道理に適った礼拝」とか、あるいは、さらに、「理性的礼拝」とも訳せる言い方ですが、「理性的礼拝」という言い方であっても、それは、聖霊によって再生させられた理性に適う礼拝という意味で、信仰と対立する意味で、理性に基づく礼拝という意味ではありません。

 

そこで、わたしたちが、今見ている新共同訳聖書は、「あなたがたのなすべき礼拝」という言い方にしましたが、以前の口語訳聖書と新改訳聖書は、「あなたたがたのなすべき霊的礼拝」という言い方を取っています。どれを取るにしても、祭司が旧約時代の動物を献げる儀式的礼拝と違って、自分自身を自分の方から献げて神に喜んでいただく新約時代の豊かな霊的礼拝が意図されています。

 

このことは、今日のわたしたちにも当てはまります。わたしたちも、自分自身を、神に喜ばれるきよい生きたいけにえとして献げて献身し、旧約時代の儀式的礼拝でなくて、新約時代の特色である豊かな霊的礼拝しながら、今の時代の日本にあって、信仰でしっかりく日々生きていくのです。

 

2.パウロは、神による自己変革を勧めました

 

第2点に入ります。第2点は、パウロは、ローマの信徒に、神による霊的更新を勧めたという点です。すなわち、自分を神に喜ばれるきよい生きたいけにえとして献げて献身し、豊かな霊的礼拝しながら日常の生活をしていくのですが、では、日常の生活を信徒がしていく場合の生活の規範は何でしょう。

 

すると、それは、もちろん、実に豊かなに憐れみによって、わたしたちを罪から救ってくださった神の御心です。神の御心が、わたしたち信徒の生活の規範であり、規準です。

 

信徒は神の御心を行いながら、日々、日常生活をしていくのです。すなわち、信徒は、この世で生活しているからと言って、罪のこの世に調子を合わせ、罪のこの世に倣い、罪のこの世の考え方や罪のこの世の行動の仕方をするのではなく、いろいろな選択肢のある中で、どれが神の御心であるか、どれが神の前で善いことであるか、どれが神が求める完全さ、すなわち、神が求める信仰の円熟さかを、わきまえ選び取っていくのです。

 

そのために、自分を動かしていく中心である自分の心が、絶えず、継続的に、神により、聖霊により、霊的に新たに変えられ、霊的に変革され、霊的に更新されていくことが必要です。

 

2節がそうです。パウロは、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」とありますが、「この世」とは、罪のこの世のこと、罪のこの世の考え方、罪のこの世の行動の仕方のことです。また、「倣う」というのは、「調子を合わせる」とか、「同調する」とか、「一致する」とも訳せる言葉で、新改訳聖書では、「この世と調子を合わせてはいけません」と分かり易く訳しています。

 

本当にそうです。もし、この手紙の宛てられたローマの信徒が、1世紀の罪のこの世に調子を合わせ、罪のこの世の考え方や罪のこの世の行動の仕方に調子を合わせて生きようとしたならば、1世紀の異教世界の強い力に信仰は飲み込まれ、とても信仰生活は成り立たなかったでしょう。

 

そこで、パウロは、罪のこの世に調子を合せるのではなく、逆に、自分を動かす中心である自分の心が、神により、聖霊によって、絶えず霊的に新たにされ、更新され、霊的に変革され続けて、異教の強い力が働く1世紀の世界において、いろいろな選択肢ある中で、どれが神の御心であるか、どれが神の前で善いことであるか、どれが神が求める完全さ、すなわち、神が求める信仰の円熟さかを、ローマの信徒わきまえ、選び取っていくように求めたのです。

 

「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」とありますが、「完全なこと」というのは、完全無欠になりなさいという意味ではなく、クリスチャンとしての信仰的円熟さ、霊的円熟さを求めなさいという意味です。

 

そして、特に、この1節、2節で、わたしたちの心に響いてくることは、「神に喜ばれる」という言葉が、2回も意識的に使われていることです。最初は、1節で、「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい」に出てきます。2回目は、2節で、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」の中で出てきます。

 

これは、本当に素晴らしいことです。憐みによって救われたわたしたちクリスチャンのすることが、天地(あめつち)を無から創造された全能の偉大な神が、喜んで受け入れてくださるなどということは、考えてみれば、実に、恐れ多いことです。それにもかかわらず、わたしたち信徒が、自分を神に献げて神の御心を行うことは、偉大さ測り知れない神が喜んで受け入れてくださることを聞けば、わたしたちの心も喜びに満ちあふれ、ますます、自分を神に献げて献身し、神の御心を行う思いに導かれるのです。

 

今日のわたしたちクリスチャンも、日本の異教の地にあって、これまでもそうでしたが、これからも自分を神に献げて献身し、神の御心に適う善いことを、日々、沢山行って、神に喜ばれるクリスチャンとして、共に力強く歩んでいきたいと思います。

 

3.お互いの賜物を活用し、キリストの体なる教会を建てていきましょう

 

第3点に入ります。第3点は、ローマの信徒が、お互いに賜物を認め合い、賜物を活用し、キリストの一つの体なる教会を建てていくべきことを、パウロは勧めたという点です。

 

すなわち、神の憐れみによって救われた信徒は、自分を神に献げて神の御心を行い、神に喜んでいただける日常生活をすべきことがわかりましたが、それと共に、今度は、キリストの体なる教会の一員となって、教会生活始まります。では、教会生活において、心がけるべきことは一体何でしょう。すると、それは、教会を成り立たせるためには、お互いの賜物が相互に生かされ、用いられることです。そこで、使徒パウロは、教会を多くの賜物で健徳的に建てていくときの心構えについて教えるのです。

 

すなわち、教会が成り立つためには、お互いの賜物の活用が必要不可欠です。人間の体にたとえて言えば、賜物は、一つの体のいろいろな部分で、相互に必要なものです。すなわち、体を成り立たせるためには、目も必要、耳も必要、鼻も必要、手も必要、足も必要です、もし、目が自らを誇って、耳にいらないと言えば、体は成り立ちません。耳が、鼻をいらないと言えば、体は成り立ちません。そのように、一人ひとりの賜物は、教会を成り立たせるためにお互いに必要とするのです。相手をいらないなどと言っては決してならないのです。

 

そこで、心がけるべきことは、高ぶって自分の賜物を高く考え、他の人の賜物を低く考えることをお互いに避け、各自が自分の賜物について、謙孫な姿勢を持つことをパウロは勧めたのです。3節から6節がそうです。

 

それで、わたしたちが、3節から6節を読みますと、パウロの言い方は、先ほどお話した1節の「あなたがたに勧めます」、すなわち、「あなたがたにお願します」という柔らかい言い方から、一転して、「わたしは与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います」と強い言い方にガラリと変わっています。

 

3節に、「与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います」という言い方は、教会の中で最も権威がある使徒職を恵みとして与えられた者として、あなたがた一人一人を戒めますよ、いいですかという意味で、使徒職も恵みによって与えられたものであることを十分認めながらも、しかし、「あなたがた一人一人に言います」、すなわち、「あなたがた一人一人を戒めます」と権威を感じさせるとても強い言い方になっています。「あなたがた一人一人に言います」の「言います」は、このような場合には、戒めます、あるいは、さらに、注意をしておきますとほとんど同じ意味と言ってよいでしょう。

 

また、次の「自分を過大に評価してはなりまません」という言い方も、これも権威と強さを感じさせる言い方になっています。もともとの言い方は、「自分を高く考えるべきではありません」と言う意味ですが、「べきではありません」と、これもまた強い言い方になっています。

 

また、「評価する」という言葉は、もともと、「高く考える」という意味です。ですから、人より自分を高く考えるなという意味です。なお、以前の口語訳聖書では、ここは、「思うべき限度を超えて思い上ることなく」となっていて、一度も会ったことのないローマの信徒たちに、限度を超えて思い上がらないようにと言うことによって、パウロの言い方に権威と強さを感じます。

 

さらに、次の「神が各自に与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」という言い方も、権威を感じさせます。その意味は、信仰は、人によって強さや大きさなどの度合が違います。しかし、信仰がある限り、どの人も自分の賜物を誇ったりせず、謙孫に、「慎み深く」、すなわち、節度をもって考えるべきですという意味です。ここでも、「慎み深く評価すべきです」となっていて、「すべきです」と、パウロは強く語っています。

 

それで、ここまで来ると、教会を健徳的に建てる賜物について語るときに、何故、パウロは、権威と強さを感じさせる言い方で、ローマの信徒に語っているのかと思うのですが、それには理由があったのです。実は、パウロが、このローマの信徒への手紙を書く一年ほど前か、あるは、直前に、ギリシャ南部のコリント教会において賜物をめぐって大混乱が起こりました。すなわち、コリント教会の人々は、お互いに自分の賜物を誇り、人間的に競い合いました。特に神秘的な言葉を語ると言われた異言の賜物を持っていることを誇ったので、コリント教会が大混乱しました。そこで、パウロは、コリントの信徒への手紙一を書いて、賜物についての正しい理解と健徳的な活用について丁寧に教えたのでした。

 

そこで、コリント教会における賜物についての大混乱が、パウロの頭にあったので、このローマの信徒への手紙を書くときにも、使徒としての権威と強さをもって、賜物の活用について、一人一人に前もってしっかり教え戒めたと思われます。

 

では、パウロは、キリストの一つの体を成り立たせるためには、多くの賜物が必要不可欠ということを、どのように教えたのでしょう。すると、一つの体にはいろいろな部分があるという、とても分かり易いたとえで教えたのです。4節で、「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべて部分が同じ働きをしていないように」と言われているのがそうです。

 

すなわち、具体的には、一つの体を成り立たせるためには、目も、耳も、鼻も、手も、足も、皆必要なのです。もし、目が自ら誇って、耳にいらないと言えば、最早、体は成り立ちません。また、耳が自らを誇って鼻に、いらないと言えば、最早、体は成り立ちません。そして、そのようなことは、実際には、目も、耳も言わないのです。何故なら、お互いに必要であることが十分わかっているからです。

 

そして、このことは、今日も同じです。キリストの体である大切な教会が、成り立つためには、わたしたちのお互いのいろいろな賜物が必要不可欠なのです。そして、どの人にも、必ず御霊の賜物が与えられていますので、わたしたちはお互いに賜物を活用し、キリストの一つの体なる教会を健徳的に建て、神から豊かな祝福を受けるのです。

 

さて、では、1世紀の教会においては、どのような賜物が与えられていたのでしょう。すると、すると、いろいろな賜物が必要とされましたが、ここでは、7つの賜物が、6節から8節に挙げられていますので、一言、二言ぐらいづつで見ていきましょう。

 

まず「預言の賜物」とありますが、これは、神の御心を記した聖書がまだ完結しなかったときに、聖霊の直接的促しや直接的啓示を受け、神の御心を語る賜物のことです。そして、この場合には、「信仰に応じて」、すなわち、聖霊の促しがあったときだけ、啓示を受けたときだけ、信仰によって語ることが必要とされました。聖霊の直接的な促しや啓示がないのに語ることは、信仰に反することとされました。そして、この「預言の賜物」は、聖書が完結するとともになくなりました。聖書の完結後は、神の御心は聖書に書かれておりますので、聖書の解き明かしの説教によって、神の御心は生き生きとわたしたちに伝えられることとなりました。

 

次いで、「奉仕の賜物」とは、2つの理解があります。説教をはじめとする大事な神の御言葉に関する奉仕を広く一般的に意味しているか、あるいは、貧しい人々への心のこもった配慮の奉仕を広く一般的に意味しているかのどちらかでしょう。

 

さらに、「教える人」というのは、特に、キリスト教信仰が成立して間もない1世紀において、他の宗教とは異なるキリスト教信仰の教理をよく教えることができる賜物を持った人を意味したと考えられます。

 

また、「勧める人は勧めに精を出しなさい」とありますが、「勧める人」とは、試練・困難・逆境に置かれている人々を信仰的に慰め、励まし、力づけることができる賜物を持っていた人のことを意味していると考えられます。信仰に対する圧迫や迫害の強かった1世紀においては、この賜物を持った人はとても貴重であったと思われます。

 

また、「施しをする人は惜しまずに施し」とありますが、「施しをする人」とは、貧しい人々にお金や物や生活用品を与えて助けた人のことです。「惜しまずに」というのは、原文では、「気前よく」という意味で、もったいないという気持ちで、施すのではなく、どうぞお使いくださいと積極的に寛大な心で気前よく施す姿勢を意味します。1世紀の信徒は、貧しい人々や奴隷の人々も多かったので、惜しまずに、気前よく施す人は、神御自身からとても大きな祝福を受けたことでしょう。

 

また、「指導をする人は熱心に指導し」とありますが、「指導をする人」とは、教会を霊的に指導し、監督し、教会を秩序正しく治める賜物を持った人を意味すると思われます。

 

最後の「慈善を行う人は快く行いなさい」とありますが、「慈善を行う人」とは、原文では、「憐れみを行う人」という意味です。また、「快く」は、強制されないでという意味です。したがって、孤児ややもめや病気の人などに対して、誰かから強制されて、しぶしぶするのではなくて、自ら自発的に進んで、そのような人々を思いやって、訪ねたり、お世話をしたり、面倒を見たりなどの配慮のできる人を意味していると考えられます。

 

こうして、パウロは、ここで、具体的に7つの賜物を挙げましたが、パウロの意図は、ローマにある教会が、ギリシャのコリント教会のように、各自が自分の賜物を人間的に誇って大混乱するのではなく、相互の賜物を認め合い、尊重し合って、キリストの一つ体である教会を、1世紀の地中海世界の中心地のローマに、しっかり建てることに用いていくことを心から願っていたと思われます。

 

そして、このことは、今日も同じです。聖霊はわたしたち一人一人に異なったいろいろな賜物や能力や力を、恵みとして与えてくださっていますが、それらは、自分のためだけでなく、キリストの一つの体である教会を共に、今の時代に建てていくためでもあるのです。わたしたちも、この召された教会において、お互いの賜物を活用し合い、真理の柱なるキリストの教会を今の時代の日本にしっかりと建て、豊かな祝福を神からたくさん受け、信仰の道を喜んで歩んでいきたいと思います。

 

 

結び

 

 こうして、わたしたちは、今日のところを見ますが、わたしたちも神の憐れみによって罪から救われた新約時代の信徒として、自分自身を神に献げて献身し、御霊の恵みとして与えられている賜物を積極的に用い、この召された地にキリストの体である教会をしっかり建て、神に喜ばれる新約時代の信徒としてこれからも歩みたいと思います。わたしたちは、今週も自分を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げて献身し、力強い歩みをしていきたいと思います。

 

お祈り

 

 憐れみ深い天の父なる神さま、

暑い日が続いていますが、1週間を守られ、今日、また、週の最初の日、8月第2主日として御前に導かれ感謝いたします。

 今、わたしたちは、ローマの信徒への手紙を通して、献身について教えられました。わたしたちもあなたの測り知れない憐れみの数々によって、素晴らし救いを与えられた者として、これからも、さらに、献身の道を歩み、与えられている賜物をお互いに活用し、共に一つのよい教会を建てていくことができますようにお願いいたします。

 また、8月15日の終戦記念日を迎えています。どうか、わたしたちの日本が二度と戦争をしない平和な国となりますように、また、政教分離、信仰の自由が守られて、伝道が進み、福音が広がり、罪から救われる人々が起こされますように、御霊によってお導きください。

 また、阪神大震災の被害を受けた方々を続けて助けてくだい。わたしたちも祈りと支援をもって、復興の手助けができますようにお導きください。

 今日、また、いろいろな都合や事情で集まることができかった方々にそれぞれのところで顧みをお与えください。

 これらの祈りを、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げいたします。アーメン。

 

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