* 佐々木稔 説教全集 * |
ローマ書講解説教 - 佐々木稔 | Shalom Mission |
01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ 02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ 05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利 07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放 08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み | 08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利 09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画 09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教 10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い 11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い 12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活 12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係 13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に... 15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道 16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた.. |
「律法それ自体は、善いもの」
ローマの信徒への手紙7:7-13
はじめに
本日も、ローマの信徒への手紙のお話です。では、これから、ローマの信徒への手紙のどこの個所をお話しするかと言いますと、7章の中ほどです。ローマの信徒への手紙は、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが、紀元56年頃、ギリシアのコリントからローマの信徒たちへ、キリストによる救いを順序立てて書いた手紙です。そして、これまでに、ローマの信徒への手紙を、13回、お話をさせていただきましたが、今日は、14回目のお話です。
では、今日の個所は、何を教えているのでしょう。すると、律法は、わたしたち人間の正しい生き方を教えるものなので、それ自体は、神から与えられた聖い性質のものであり、また、それ自体は、豊かな霊的益を持つとても善いものであって、決して、それ自体悪いものではないというお話です。
すなわち、律法ということを聞きますと、人は、律法をすべて完全に守れないので、律法違反として、神に裁かれ、霊的な死に至らせられるので、律法ということを聞きますと、わたしたちは、律法は悪いもの、すなわち、罪であるかのような悪いイメージを持ちがちです。しかし、律法というものは、それ自体としては、決して、罪でなく、また、悪いものでもなく、神の被造物であるわたしたち人間の真の生き方規準として、創造者なる神から与えられた、とても素晴らしい価値あるもので、無くてはならないものよいものなのです。そこで、パウロは、わたしたちが、律法そのものを罪、すなわち、悪いものと考えて、誤りを犯すことがないように、今日の個所で、律法そのものについて、しっかり教えるのです。
そこで、わたしたちは、今日の個所から、3点を学びたいと思います。第1点は、パウロ、律法そのものが、決して、罪でないことを、結論的に明らかにしたという点です。第2点は、律法そのものは、決して、罪ではないのですが、しかし、罪は、律法を利用して、人に律法違反を意識させて、律法違反の罰として、人を霊的な死に導くという点です。第3点は、律法そのものは、神から出ているので聖いし、神の意志を表すので正しく、律法を守れば永遠の命を与えるものなので、大きな価値のある善いものであるという点です。
1.パウロは、律法そのものが、罪でないことを、結論的に明らかにした
では、早速、第1点に入りましょう。第1点は、パウロは、律法そのものが、決して、罪でないことを、結論的に明らかにしたという点です。「律法」というものは、「あなたは何々しなければならない」という命令のかたち、あるいは、「あなたは何々してはならない」という禁止のかたちで語られた人間の生き方の規準で、モーセの十戒をはじめとする戒め、あるいは、掟のことですが、パウロは、このローマの信徒への手紙において、すでに、律法について、何回も語ってきました。たとえば、3章20節前半で、「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです」と語りました。
また、6章14節後半では、「あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にいるからです」と語りました。そして、さらに、前回学びましたように、7章6節では、「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり」と語りました。
以上のように、パウロは、このローマの信徒への手紙において、すでに、何回も、律法について語ってきましたが、いずれの場合も、それらの語り方は、ある意味で誤解を招き易い語り方でした。すなわち、人は、律法をすべて完全には守れないので、律法違反として、神に裁かれ、霊的な死に至らせられるので、聞き方によっては、律法そのものが、悪いもの、すなわち、罪であるかのような誤解や印象やイメージを与えかねませんでした。
そして、実際、そのように誤解した人々が、1世紀のユダヤ人に、いたのです。パウロは、律法そのものが、悪いもの、すなわち、罪であると語っていると、ある人々は、パウロを中傷、批判していたのです。
そこで、パウロは、その重大な誤解を解くために、この7章で、律法について、結論的に、正しく教えるのです。7章7節前半に、「では、どういうことになるのか。」とありますが、もともとの原文は、「では、わたしたちは、何と言おうか」という言い方ですが、少し言葉を補って読むと、流れがとてもよくわかると思います。すなわち、「では、律法について、わたしたちは、結論的に、何と言おうか」という風に、少し言葉を補って読むと、意味がよく通じるでしょう。
では、そのように、ユダヤ人の中には、パウロは、律法そのものが罪であると語っていると中傷、批判している人々がいたのですが、それに対して、パウロは、どのように答えたのでしょう。すると、パウロは、「律法は罪であろうか。断じてそうではない」と、律法そのものは、決して罪ではないことを、最初にはっきり断言して、誤解を一掃しました。
7節の「決してそうではない」という言い方は、とても強い言い方で、新改訳聖書では、「絶対にそんなことはない」と訳していて、「絶対に」という言葉を使うほどのとても強い断言です。ですから、パウロは、律法それ自身を罪、すなわち、律法そのものを悪いものと考える考え方を、のっけから全面的に強く拒否しているのです。
では、どうして、律法は、罪でないのでしょう。どうして、律法は、悪いものではないのでしょう。すると、罪は、神の御心に反する悪いものですが、律法は、人が、それによって、神の前に、自分が罪を犯している罪人であることを意識させ、知らせ、自覚させる大切な働きをするもので、なくてはならない大切なものです。すなわち、律法によらなければ、人は、自分が神の前に罪を犯している罪人であることを意識しないし、知ることがないし、自覚することもないのです。それゆえ、律法によらなければ、人は、自分を罪人と認識して、十字架にかかったイエスさまによる救いを求めないのです。
そこで、パウロは、7節後半で、「しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう」と言いました。本当に、そうです。「あなたは何々しなければならない」という命令のかたち、あるいは、「あなたは何々してはならない」という禁止のかたちで語られた神の律法に、自分自身を照らして見たときに、人は、はじめて、自分が、神の律法に違反する罪を犯している罪人であることを意識し、知り、認識し、自覚するのです。
今日もまさにそうでしょう。わたしたちも、元を正せば、律法によらなければ、自分自身が、神の律法に違反する罪を犯している罪人であることを意識しなかったであり、知りもしなかったであり、認識もしなかったのであり、自覚もしなかったのです。それゆえ、救いを求めたりもしなかったのです。
ですから、このように考えてきますと、律法は、決して、罪ではないのですし、罪と同じ悪いものではないのです。罪とまったく区別される別物なのです。律法は、わたしたちの罪を知らしめる大切なもので、なくてはならないものなのです。
2.罪は、律法を利用して、人に律法違反を自覚させ、霊的な死に導く
第2点に入ります。第2点は、律法そのものは、決して、罪ではなく、罪とは区別される別物ですが、しかし、罪が、律法を利用して、人に律法違反を意識させ、知らせ、自覚させて、律法違反の罰として、人を霊的な死に導くという点です。
それで、パウロは、律法は、罪ではなく、悪いものではなく、罪と区別されるもので、人に罪を知らしめる働きをすることを、モーセの十戒の第10番目の律法、戒め、掟を引き合いに出して、自分自身の生々しい、リアルな経験として語るのです。
すなわち、モーセの十戒の第10番目の律法、戒め、掟は、「むさぼるな」で、むさぼりの罪の禁止と言われるものです。モーセの十戒の第10番目の律法、戒め、掟は、もともとは、旧約聖書の出エジプト記20章17節に出てきます。そこでは、「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」とあり、他の人の妻、他の人の財産である奴隷や牛やろばなどを、貪欲に欲し、不当に奪って、自分のものにしようという心の中に生じる悪い思を禁止しています。
ローマの信徒への手紙では、「むさぼるな」となっていて、出エジプト記では、「欲するな」となっていますが、これは、「むさぼるな」とも「欲するな」とのどちらにも訳せる言葉なので、どちらに訳してもよいものです。意味は同じで変わりません。どちらも、「むさぼり」、すなわち、わたしたちの心の中に生じるところの満足することを知らない悪しき欲望や欲情や貪欲を禁止している律法、戒め、掟です。他の人が所有しているものは、妻でも、奴隷でも、牛でも、ろばでも、何でもうらやんで、何とかして自分のものにしたいという悪い欲望や欲情や貪欲を心に抱くことを罪として、禁止しています。簡単に言えば、他の人のものは、何でも自分のものにしたいという心に生じる肉の思いを、神に対する罪として禁止しているのです。
そこで、パウロは、自分自身の経験として言います。自分は、「むさぼるな」というモーセの十戒の第10番目の律法、戒め、掟によって、自分の心に生じる「むさぼり」の思い、貪欲の思い、肉の思いが、神の前で、罪であることを意識し、知り、認識し、自覚したと言うのです。「むさぼるな」ということが、律法、戒め、掟に、書かれていなければ、パウロは、自分の心の中に生じる「むさぼり」の思い、貪欲の思い、肉の思いが、神の前で罪とは知らなかったのです。それで、パウロは、「律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりをしらなかったでしょう」と言いました。
ところが、モーセの十戒の第10番目に、ちゃんと「むさぼるな」と書いてあるのです。「むさぼり」の思い、貪欲の思い、肉の思いは、神の前で、罪であるから止めるようにと、はっきり書いてある。それなのに、罪が、まるで、人格を持った人のように、その「むさぼるな」というその戒めを、罪を犯す機会として捕えて、パウロの心の中に、神が禁止したあらゆるもの種類のものに対する欲情や欲望や貪欲を呼び起こしたのです。そこで、パウロは、8節前半で、「ところが、罪は掟によって、機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました」と言いました。
わたしたちは、ここを読んで、罪が、人格を持った人のように、「むさぼるな」というその戒めを、罪を犯す機会として捕えて、パウロの心の中に、具体的に、どのような種類のむさぼりの悪い思いを起こしたのかと思うのですが、具体的に、何に対して、むさぼりのこころを起こしたのかは、記されていませんので、意味がわかりにくいと思います。
しかし、聖書全体を見渡すと、神が禁止したものを、人が、むさぼり、欲しがって、欲情や欲望や貪欲の心を起こして、罪を犯したことは、いろいろ出てきます。たとえば、エデンの園におけるエバが、典型的にそうです。神が取って食べてはいけないと禁止したにもかかわらず、取って食べたいというむさぼりの思いを心に起こして、取って食べ、夫アダムにも与えて、アダムも食べ、それゆえ、アダムの子孫の全人類であるわたしたちも罪人に転落してしまいました。こうして、罪は、まるで、人格を持った人のように、「取って食べるな」いう神のその戒めを、罪を犯す機会として捕えて、エバの心の中に、むさぼりの悪い思いを起こしたのです。
また、出エジプトしたイスラエルの民は、ヨルダン川を渡って、カナンの地に入ったとき、最初に、エリコの町を陥落させねばなりませんでしたが、そのときには、エリコの町とエリコの町の中にあるすべてのものを焼き払って、主に献げ、エリコの町のものを戦利品として取ってはならないと、神に禁止されていました。そして、イスラエルの民は、エリコと戦って勝利しました。ところが、アカンという人は、美しい布で織った上着、銀2百シュケル、約2280グラムの銀、50シュケル、約570グラムの重さの金の延べ板を見て、欲しくなり、自分のものとして取り、自分の天幕に穴を掘って隠しました。そのため、イスラエルの民は、次の戦いであるアイの町との戦いで敗北してしまいました。しかし、厳粛なことですが、アカンの罪は発覚し、アカンとその家族は、石打ちの刑に処せられました。こうして、罪が、人格を持った人のように、エリコの町のものを自分のものに取ってはならないという神の戒めを、罪を犯す機会として捕えて、アカンの心の中に、美しい上着と銀2百シェケルと50シュケルの金の延べ板をむさぼる罪を犯させたのです。
聖書全体を見れば、罪が、人格を持った人のように、その「むさぼるな」というその戒めを、罪を犯す機会として捕えて、人の心の中に、いろいろな種類のむさぼりの悪い思いを起こしたのかがわかりますが、しかし、パウロ自身においては、具体的に、罪が、人格を持った人のように、その「むさぼるな」というその戒めを、罪を犯す機会として捕えて、パウロ自身の心の中に、どのような種類のむさぼりの悪い思いを起こしたのかは、わかりません。そこまでは、パウロは必要がないので記さなかったのです。
ローマの信徒への手紙においては、罪が、人格を持った人のように、「むさぼるな」という神のその戒めを、罪を犯す機会として捕えて、パウロの心の中に、神が禁止しているいろいろな種類のむさぼりの悪い思いを起こしたという事実がわかれば、それでよいのです。
こうして、パウロは、「むさぼるな」という神の律法、戒め、掟によって、むさぼること、すなわち、自分の心の中に生じる欲情・欲望・貪欲というあらゆる種類の悪い思いが、神に対する罪であることを知らなければ、パウロは、罪を意識せず、罪を知らず、罪を認識せず、罪を自覚することがなかったのです。そこで、パウロは、心の中に生じる悪い思いが、罪と意識しなかったときの状態を、罪は死んでいたと表現しました。
こうして、パウロは、その生涯において、かつて、あるときまでは、律法によって、自分が罪を犯しながら生きている罪人であることを、意識しないで生きていたのです。9節に、「わたしは、かつて律法と関わりなく生きていました」と言われているのが、そうです。
これは、別に、パウロは、自分は、神の律法が、存在していることを知らないで生きていたという意味ではありません。パウロは、生粋のユダヤ人ですから、小さいときから律法を教えられて育ち、さらに、後には、1世紀の有名な律法学者のガマリエルの弟子として、律法を学び、研究していた身です。ですから、パウロは、律法の存在を知らかったという意味での、「律法とかかわりなく生きていました」ということではなく、律法によって、自分が罪を犯しながら生きている罪人であることを意識しないで生きていましたという意味です。
そのようなことを聞くと、わたしたちは、疑問を持つかもしれません。律法をもっていたのに、自分が律法によって、罪を犯しながら生きている罪人であることを意識しないで生きるということがあり得るのだろうか疑問に思うのですが、あり得るのですし、実際、あり得たのです。
1世紀のユダヤ人は、福音書に出てくる律法学者やファリサイ派のように、ほとんど全員がそうだったのです。福音書に出てくる律法学者やファリサイ派は、律法を持っていましたが、自分たちが、律法に違反する罪を犯しながら生きている罪人であるとは、少しも意識していませんでした。何故なら、律法が、内面の心の悪い思いまでも、律法違反の罪として、禁止していることを意識していなかったからです。律法は、外側の悪い行為や悪い行動のみを律法違反の罪として禁止していると思っていたからです。
ですから、「かつては、律法とかかわりなく生きていました」というのは律法によって、自分が律法違反の罪を犯しながら生きている罪人とは、意識せずに、生きていましたという意味です。1世紀のユダヤ人は、実は、みんなそうであり、パウロもそうだったのです。
ところが、パウロの人生に大変化が起こるのです。あるときに、パウロは、律法に違反する罪を犯しながら生きている罪人であることが、自分自身の経験として、初めてわかったのです。
すなわち、パウロは、神の律法、戒め、掟は、外側の行為や行動だけでなく、内面の心に生じる欲情・欲望・貪欲などのあらゆる種類の悪い思いそのものを、神に対する罪として禁止している。それゆえに自分の心にも、次々と、あらゆる種類の悪い思いが生じるが、それらは律法、戒め、掟に違反する罪であることを、初めて、意識したのです。
こうして、パウロは、律法、戒め、掟によって、自分の罪を意識していなかたときには、自分には罪がないと思っていたので、罪は、パウロに対して死んでいた状態でした。しかし、ところが、律法、戒め、掟によって、パウロが、自分の罪を意識したときには、死んでいた状態の罪が、パウロに対して生き返って、パウロを神の律法、戒め、掟に違反する罪人であることを意識させ、神との関係で、霊的に死んでいたことを、パウロは初めてわかったのです。
そこで、パウロは、「掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました」と表現しました。「掟が登場したとき」というのは、神の律法、戒め、掟は、自分の外側の行為や行動だけでなく、自分の内面の心の悪い思いを罪として禁止するものとして、登場したときという意味です。
また、「罪が生き返って」というのは、パウロが、律法、戒め、掟によって、自分の罪を意識していなかたときには、自分には罪がないと思っていたので、罪は、パウロに対して死んでいた状態でしたが。でも、律法、戒め、掟によって、パウロが、心の中の悪い思いも罪として、意識したときには、死んでいた状態の罪が、パウロに対して生き返って、パウロを、神の律法、戒め、掟に違反する罪人であることを悟らせたことを意味しています。
「わたしは死にました」というのは、パウロが、心の中の悪い思いも罪として、意識して、自分は、罪人であると意識したとき、パウロは神との関係において、霊的に死んでいたことを、パウロがわかったたことを意味しています。
こうして、パウロは、その生涯のあるとき、律法についての理解が、がらっと変ったのです。それで、わたしたちは、ここを見て、パウロの生涯のいつの時点で、変ったのかと思うのですが、時期は書いてありません。いつ変わったかという時期は、大切ではないので、パウロは、書きませんでした。大切なのは、律法、戒め、掟についてのパウロの理解が、あるとき、変わったという事実です。
そして、このときに、パウロは、本来、それをすべて完全に守れば、永遠の命が与えられることが約束されていたところの神の律法、戒め、掟が、それを守れないゆえに、自分を、律法違反の罪に対する神の裁きとして、霊的な死に導くことが、わかったのです。それまで、そのようなことをまったく知らなかったのですが、これは、まさに、パウロにとって、真理を発見するように経験だったのです。
9節に、「命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることがわかりました」とありますが、「命をもたらすはずの掟」とうのは、それをすべて完全に守れば、永遠の命を与えるものが、神の律法、戒め、掟ですが、しかし、逆に、それをすべて完全に守らなければ、神の律法、戒め、掟は、人を律法違反に対する神の裁きとして、人を霊的な死に至らせるものであることを意味しています。
神の律法、戒め、掟というものは、最初からそういうものなのです。実際、エデンの園でも、そうでした。アダムとエバは、善悪を知る木の実から取って食べてはならないという神の律法、戒め、掟を守れば、アダムとエバ、そして、彼らの子孫であるわたしたち全人類は、永遠の命を与えられたのです。しかし、善悪を知る木の実から取って食べてはならないという神の律法、戒め、掟を守なかったので、アダムとエバ、そして、彼らの子孫であるわたしたち全人類は、肉体的にも、霊的にも死ぬ者になったのです。
こうして、神の律法、戒め、掟は、それをすべて完全に守れば、永遠の命を与えるのですが、しかし、逆に、それをすべて完全に守らなければ、神の律法、戒め、掟は、人を律法違反に対する神の裁きとして、人を霊的な死に至らせるものであることを意味しています。
そして、「命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることがわかりました」の「わかりました」という言葉は、原語は、見い出されました、あるいは、発見されましたという意味の言葉です。
ですから、そのときのパウロにとって、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが、見い出されました、あるいは、発見されましたという言い方で、意味は、このときのパウロにとって、それをすべて完全に守れば、永遠の命を与えられるものが、神の律法、戒め、掟ですが、しかし、逆に、それをすべて完全に守らなければ、神の律法、戒め、掟は、人を律法違反に対する神の裁きとして、人を霊的な死に至らせるものであるという真理を、自分自身の経験として、はじめて見い出した、あるいは、そのとき、自分自身の経験として、はじめて発見したと言えるのです。他の人の経験でなく、このローマの信徒への手紙を書いているパウロ自身が、経験したことであったのです。
こうして、罪は、人格を持った人のように、神の律法、戒め、掟を機会として捕えて、パウロが、心の中で、あらゆる種類の罪の思いを抱くように誘惑し、誘い、そして、実際に、罪を犯させて、パウロが罪人であることを、ますます強く、意識させたので、パウロは、自分は、神の掟違反のゆえに、ますます霊的な死に至らせられることを実感し、自分は、霊的に完全に死んでいることを、霊的に「殺された」と表現したほどでした。
11節に、「罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです」という言い方は、実に、強烈で、すさまじい表現です。「わたしを欺き」というのは、そのままでは、意味がわかりにくいので、「わたしが罪を犯すように誘惑し、さそい」という風に読んだら、よくわかると思います。
すなわち、罪が、人格を持った人のように、神の律法、戒め、掟を機会として捕えて、パウロが、心の中で、あらゆる種類の罪の悪い思いを抱くように誘惑し、誘い、そして、実際に、パウロに罪を犯させることを意味しています。
そして、「掟によってわたしを殺してしまったのです」というのは、パウロは、自分が、罪に誘惑され、さそわれて、実際に、心の中で、神の掟違反の悪い思いを抱いて、罪を犯すことを、ますます強く意識させられ、自分は、本当に罪人であり、掟違反に対する神の裁きとして、完全に霊的に死んでいることを実感したことを、罪は、「掟によってわたしを殺してしまったのです」と表現したのです。ですから、これは、パウロは、自分が、神の掟をすべて完全に守ることができない故に、永遠の命を与えられるどころか、逆に、神の裁きによって、霊的な死を与えられていることを自覚した表現です。
そして、このことは、今日のわたしたちも同じです。わたしたちは、神の掟に違反するあらゆる種類の悪い思いを、罪に誘惑され、誘われて、次々と、子心の中に抱くところの神の掟に違反する罪人で、罪の中に霊的に完全に死んだものです。それゆえに、わたしたちは、救いのよき知らせである福音を聞いて、聖霊によって、霊的死から再生させられて、十字架のイエスさまを信仰して。永遠の命を恵みとして与えられたいと思います。
3.律法そのものは、聖であり、正しく、価値のある善いもの
第3点に入りましょう。第3点は、律法そのものは、神から出ているので聖いし、神の意志を表すので正しく、律法を守れば、永遠の命を与えるものなので、大きな価値のある善いものであるという点です。12節がそうです。これは、短いお話です。
パウロは、今、第1点と第2点で見てきましたように、神の律法そのもの、掟そのものは、決して、罪ではないことを、十分語りました。そして、神の律法そのもの、掟そのものは、決して、罪ではないという言い方は、消極的な言い方ですが、では、神の律法そのもの、掟そのものは、積極的に言えば、どのようなものなのでしょう。
すると、神の律法そのものは、神から出たものなので、罪がまったくなく、聖いのです。また、神の律法を構成するひとつひとつの具体的な掟も、もちろん、神から出たものなので、罪がまったくなく絶対的に聖いのですし、神の意志を表しているので、絶対的に正しいのですし、すべて完全に守れば、永遠の命を与えるものなので、絶対的に善いものなのです。
12節では、「律法は聖なるものであり、掟も聖であり」と、「律法」と「掟」が、一応区別されるかたちで言われていますが、こういう場合は、「律法」は、神から与えられた人の生き方の権威ある規準ほどの意味で、「掟」は、その律法を構成しているひとつひとつの具体的な戒めを表すと考えたらよいでしょう。
結び
こうして、今日の個所を見ます。神の律法は、わたしたちの行為や行動だけでなく、わたしたちの心の中に生じるあらゆる種類の悪い思いをも罪として禁止していることを考えますと、わたしたちは、本当に罪人で、霊的に死んでいるのです。それゆえ、わたしたちは、教会が語る救いのよき知らせである福音を聞いて、聖霊によって、霊的に再生させられて、十字架にかったイエスさまをただ一人の救い主と固く信仰し、すべての罪とがを、恵みによって、赦され、さらに、永遠の命までも与えられて、真の人生を、今週も、喜んで歩んでいきたいと思います。
お祈り
憐れみ深い天の父なる神さま、
各々のところで、1週間の歩みを守られ、また、新しい週の最初に、御前に、礼拝に導かれ、感謝いたします。
今、わたしたちは、御言葉を通して、人は皆、罪の支配力と霊的死に至らせる律法の強い拘束力の下にあることを知りましたが、どうか、わたしたちは、ただひとりの真の解放者の主イエス・キリストを、心から信仰して、罪の支配力と霊的死に至らせる律法の強い拘束力から解放されて、あなたとの豊かなまじわりに生きることができますように、聖霊の力をお与えください。どうか、わたしたちが、ますます、キリストを仰いで、よい歩みができるように、お願いいたします。
今日、いろいろな都合や事情で集まることのできなかった方々にも、それぞれのところで顧みをお与えください。
これらの祈りを、主イエス・キリストの御名により、御前にお献げいたします。アーメン。