* 佐々木稔 説教全集 *   

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   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6;5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


「聖霊による歩み」

ローマの信徒への手紙8:1-11


 はじめに

 

 本日も、キリスト教の伝道者、使徒パウロが、紀元56年頃書いた、ローマの信徒への手紙のお話です。では、これから、ローマの信徒への手紙のどこの個所をお話しするかと言いますと、8章の前半です。では、今日の個所は、どのようなことが語られていうのでしょう。

 

 すると、信者は、聖霊によって、霊的命を豊かに与えられているので、罪の力と死の力に勝利し、救いの完成を目指して、喜んで歩んでいくことができるということが、力強く、パウロによって語られています。

 

それで、今日の個所から、4点、お話をしたいと思います。第1点は、信者は、霊的命を豊に与えられているので、罪の力と死の力に勝利しているという事実についてです。第2点は、信者が罪の力と死の力に勝利できるのは、イエスさまが、すでに、十字架において、罪と死から力をはぎ取ってくださったからであるという点です。第3点は、聖霊に従って歩む信者は、人の生き方の規範の律法を守り始めることによって、神に喜ばれるという点です。第4点は、聖霊は、キリストを復活させたように、わたしたち信者も、世の終わりに、必ず、復活させてくださるという点です。

 

そこで、わたしたちも、ここを学んで、キリストを信じ、わたしたち一人一人にも、聖霊の霊的命が豊かに与えられているので、罪の力、死の力に勝利して、救いの完成を目指し、日々、喜んで歩んでいきたいと思います。

 

1.信者は、罪の力と死の力に勝利している

 

 早速、第1点に入ります。第1点は、信者は、霊的命を豊に与えられているので、罪の力と死の力に勝利しているという事実についてです。前回、わたしたちは、信者であっても、以前の古い罪の性質が、まだ心に残っていて、あるときには、古い罪の性質に負けて罪を犯し、自らの霊的弱さを強く感じて苦しみ、悩むときがあるということを学びましたが、実は、そのようなときがあっても、信者は、通常は、罪の力と死の力から解放され、勝利していて、喜びをもって、日々、信仰生活を歩めるようにされているのです。

 

 では、それは、何故かと言えば、イエスさまを信じて救われ、聖霊を与えられている者は、聖霊の豊かな霊的力によって、罪の力と死の力から解放され、自由にされ、すでに勝利しているからです。8章1節と2節がそうです。わたしたちが、ここを見て、すぐに感じることは、パウロは、とても力強く語っているということです。すなわち、パウロは、権威をもって、堂々と、何のためらいなしに、キリスト・イエス、すなわち、救い主のイエスさまを信じて救われ、聖霊を豊に与えられている信者は、「罪に定められることはありません」と、力強く断言しています。

 

「罪に定められることはありません」というのは、神によって、有罪宣告をされて、罪に定められることは、決してないという意味です。では、どうして、キリスト・イエス、すなわち、救い主のイエスさまを信じて救われ、聖霊を与えられている信者は、罪に定められることが、決してないのかと言えば、それは、信者の心には、「霊」、すなわち、神の御霊、聖霊の豊かな霊的力が働いて、罪の力と死の力から、すでに、信者を解き放ち、解放し、自由にし、罪の力と死の力に対して、信者は、すでに勝利しているからです。

 

 8章2節を見ますと、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです」とありまして、「霊の法則」と「罪と死との法則」という言い方が、比較、対照的に、コントラスト的に出ています。「霊の法則」とは、「聖霊の法則」のことです。「霊」とは、聖霊のことです。そして、「法則」というのは、この場合は、「支配力」という意味です。人は、「法則」に支配されるので、「法則」というのは、支配力、人を支配する力のことを表します。

 

 それに対して、「罪と死との法則」というのは、罪の支配力と死の支配力を意味します。人は皆、生まれながらの罪人であり、罪の力に支配され、さらに、罪に対する裁きとしての死の力に支配されています。しかし、キリスト・イエス、すなわち、救い主のイエスさまを信じた者は、聖霊を与えられ、聖霊の豊かな霊的命に支配されることによって、罪の支配力と死の支配力から解き放たれ、解放され、自由にされ、罪の支配力と死の支配力に勝利しているのです。

 

 「あなたを解放した」とありますが、「解放した」という動詞は、過去の一回的出来事を示すかたちになっていますので、人が、キリスト・イエス、すなわち、救い主のイエスさまを信じたそのときに、もうすでに、聖霊の豊かな霊的命に支配されることによって、罪の支配力と死の支配力から解き放たれ、解放され、自由にされ、罪の支配力と死の支配力に勝利したことを表します。

 

キリスト教信仰は、強い即効力があるのです。わたしたちが、キリスト・イエス、すなわち、救い主のイエスさまを信じたそのときに、その人は、もうすでに、聖霊の豊かな霊的命に支配されることによって、罪の支配力と死の支配力から解き放たれ、解放され、自由にされ、罪の支配力と死の支配力に勝利するのです。それゆえに、信者であるわたしたちも、もちろん、もうすでに、罪の支配力と死の支配力から解き放たれ、解放され、自由にされ、罪の支配力と死の支配力に勝利しているのです。わたしたちは、罪の支配力と死の支配力に対しして勝利者なのです。これは、大きな喜びです。

 

2.十字架において、罪の力および死の力ははぎ取られた

 

 第2点に入りましょう。第2点は、信者が罪の力と死の力に勝利できるのは、イエスさまが、すでに、十字架において、罪と死から力をはぎ取ってくださったからであるという点です。3節がそうです。

 

 実は、本来であれば、わたしたち人間が、自分の力で、人の正しい生き方の規範である神の律法をすべて完全に守って、律法が約束していた霊的命を獲得して、神とのまじわりに生きていかなければならなかったのですが、御存じのように、わたしたち人間の代表のアダムは、エデンの園で、神に禁止されていた善悪を知る木から取って食べて、罪を犯しました。その結果、アダムも、アダムの子孫のわたしたち全人類も罪人となり、罪の力に支配される者となり、また、罪に対する刑罰として、死ぬ者となって、死に支配される者となってしまいました。

 

 こうして、わたしたち人間は、「肉の弱さ」、すなわち、罪に支配されている人間性となりました。神に創造されたときの人間は、罪のない人間性でしたが、アダムの罪以後、わたしたちの人間性は、「肉」、すなわち、罪に支配されている人間性となってしまいました。3節に、「肉」という言葉が出ていますが、実は、今日の個所に、「肉」という言葉が、10回も出てきて目立っています。そして、「肉」という言葉は、幾つかの意味で使われますが、ここでは、罪に支配されている人間性を表します。

 

 そして、罪に支配されている人間性のため、わたしたち人間は、律法を、自分の力で守って、霊的命を獲得することができませんので、律法は、わたしたち人間に、霊的命を与えることができません。

 

 でも、わたしたち人間は、霊的命がないと困るのです。霊的命がないと、罪の力と死の力に支配されて、最後には、滅びてしまいます。これでは困るのです。困るどころの話ではないのです。これは、全人類の危機なのです。全人類は、滅びの淵にいて、あと一押しされれば、奈落の底に落ちてしまいます。

 

 そこで、慈愛深い天の神は、わたしたちが、霊的命を持てるようにしてくださったのです。パウロは、3節で、「肉の弱さのため律法がなしえなかったことを神はしてくださったのです」と言いました。「肉の弱さのため律法がなしえなかったこと」とは、罪に支配されている人間性のため、わたしたち人間が、律法を、自分の力で守って、霊的命を獲得することができませんので、律法は、わたしたち人間に、霊的命を与えることを、なしえないのです

 

そこで、慈愛深い天の神は、わたしたちが、霊的命を持てるようにしてくださったのです。では、どのようにして、霊的命を持てるようにしてくださったのでしょうか。すると、わたしたちの罪を取り除くために、神の御子のイエスさまを、「罪深い肉と同じ姿でこの世に送り」とありますが、この言い方で、神の御子のイエスさまが、マリヤから生まれるという処女降誕の秘儀を表しています。

すなわち、罪のない人間性を取られて生まれたことを意味しています。「罪深い肉と同じ姿で」とありますが、原文では、もっと注意深く書かれていまして、「罪深い肉と同じような姿で」書かれています。そして、「罪深い肉と同じよう姿で」が正しい訳です。

 

「罪深い肉と同じ姿で」という新共同訳聖書の言い方ですと、イエスさまが、わたしたちと同じ罪に支配された人間性を取られてと誤解される恐れがありますので、ここは、「罪深い肉と同じような姿で」と、罪に支配された人間性に似た人間性、すなわち、人間性はわたしたちと同じですが、あくまでも、罪のない人間性を取られたことを、パウロは語っています。

 

そして、神は、罪に支配された人間性に似た人間性、すなわち、罪のない人間性を取られた十字架のイエスさまにおいて、わたしたち人間の罪を罰し、処罰し、処断し、裁きを宣告して、罪から、力をはぎとってくださったのです。それゆえ、イエスさまを信じる者には、罪の力、また、罪に対する罰としての死の力が、最早、支配しないのです。

 

「肉において罪を罪として処断されたのです」とあり、ここでも、「肉」という言葉が、出てきますが、この場合の「肉」は、生まれつきの霊的無力の人間性を意味するのでなく、イエスさまが取った罪の無い人間性を意味します。

 

そして、「罪を罪として処断されたのです」とありますが、「処断する」というのは、罰する、処罰する、処断する、裁きを宣告するなどの意味がありますが、ニュアンスは、罰して、力をはぎ取ってしまうというニュアンスです。

 

したがって、神は、罪のない人間性を取られた十字架のイエスさまにおいて、わたしたち人間の罪を罰し、処罰し、処断し、裁きを宣告して、罪から、力をはぎとってくださったのです。それゆえ、イエスさまを信じる者には、罪の力、また、罪に対する罰としての死の力が、最早、支配しないように、聖霊によって、信者一人一人にあてはめられているのです。

 

ですから、今、信者であるわたしたちにおいて、罪の力、また、罪に対する罰としての死の力が、最早、支配しないのは、2千年前に、イエスさまが、ゴルゴタの十字架で、わたしたちの罪を、すでに罰し、処罰し、処断し、裁きを宣告して、罪から、力をはぎ取ってくださっていたからなのです。そして、聖霊が、イエスさまを信じるわたしたちに、時間を超えて、一人ひとりに、それをあてはめてくださっているからなのです。

 

今、信者であるわたしたとあなたにおいて、罪の力、また、罪に対する罰としての死の力が、最早、支配していないのは、イエスさまが、十字架で、わたしたちの罪を、すでに罰し、処罰し、処断し、裁きを宣告して、罪から、力をはぎ取ってくださったという実に確かな歴史的根拠があることを、わたしたちは、しっかり覚えて、心から感謝したいと思います。


3.聖霊に従って歩む信者は、律法を守り始める

 

 第3点に入りましょう。第3点は、聖霊に従って歩む信者は、律法を守り始めることによって、神に喜ばれるという点です。イエスさまを信じる者は、誰でも、聖霊の豊かな霊的命の力によって、罪の力、また、罪に対する罰としての死の力から解き放たれ、解放され、自由にされているのですが、では、それは、何のためなのでしょう。

 

 すると、それは、信者が、「肉」すなわち、罪に従ってでなく、「霊」、すなわち、聖霊に従って歩んで、人の生き方の規範である神から与えられている律法が要求し、求めている、神の前での正しさときよさが、実現され始め、満たされ始めて、神に喜ばれるという目的のためなのです。4節から10節がそうです。

 

 4節から10節を見ますと、「肉に従って歩む」と「霊に従って歩む」、あるいは、「肉に従って歩む者」と「霊に従って歩む者」、あるいは、「肉に属すること」と「霊に属すること」、あるいは、「肉の思い」と「霊の思い」、あるいは、「肉の支配下」と「霊の支配下」という風に、パウロは、明らかに、意識的に、意図的に、「肉」と「霊」を対立させ、比較し、対照させて、読者に、目立つようにしています。

 

 この手紙の宛てられた1世紀のローマの信徒たちも、このことには、すぐ気づいたことでしょう。こうして、パウロは、いろいろな言い方で、二つのものを対立させていますが、根本は、「肉」と「霊」の対立です。

 

 そして、「肉」というのは、幾つかの意味で使われますが、ここでは、罪のことですし、「霊」とは、聖霊のことです。こうして、「肉」と「霊」の対立は、すなわち、罪と聖霊の対立です。罪と聖霊は対立するのです。相反するのです。

 

 それゆえ、信者は、「肉ではなく霊に従って歩む」のですとは、信者は、最早、以前の罪に従って歩むのでなく、新たに、聖霊に従って歩むことによって、人の生き方の規範である神から与えられている律法が要求し、求めている正しさときよさが、実現され始め、満たされ始めるのです。これは、素晴らしいことです。人の生き方の規範である神から与えられた律法は、信者の歩みにおいて、ついに、実現され始めるのです。

 

 4節後半に、「律法の要求が満たされるためです」とありますが、「律法の要求」というのは、律法が求める神の前での正しさときよさのことです。律法は、人の生き方における神の前での正しさときよさを要求し、求めるのですが、それは、聖霊に従って歩む信者によって、ついに、実現され始め、満たされ始めるのです。「律法の要求が満たされる」の「満たされる」という言葉は、「満たされる」と共に「実現される」という意味を持ちます。

 

 考えて見ますと、1世紀のユダヤ人は、自分たちには、人の生き方の権威ある規範である神の律法がある。そして、律法が、自分たち、ユダヤ人に委ねられていることは、自分たち、ユダヤ人は、律法が要求している、神の前での正しさときよさを完全に実現し、満たすことができると豪語していたのですが、それは、誤りで、律法が要求している、神の前での正しさときよさを実現し始め、満たし始めて、神に喜ばれるのは、十字架にかかってくささったイエスさまを心から信じて、聖霊に導かれて歩むわたしたちクリスチャンなのです。

 

 では、どうして、聖霊に導かれて歩む信者は、律法が求め、要求する神の前での正しさときよさという霊的なことを実現し始めることができるのでしょうか。すると、「肉に従って歩む者」すなわち、生まれたままの霊的無力の人は、「肉に属すること」、すなわち、罪に属する地上的なことをもっぱら考えて生きていきますが、しかし、「霊に従って歩む者」、すなわち、聖霊によって新たに霊的に生まれた信者は、「霊に属すること」、すなわち、神の御心に適う霊的なことを、もっぱら、ひたすら考えて生きていくからです。

 

 そして、「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え」と「霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」とありますが、その「考え」また「考えます」という言葉は、もっぱら考える、ひたすら考えるという意味の言葉です。すなわち、そのことに心を傾けて考えることを意味します。

 

 それゆえ、「肉に従って歩む者」すなわち、生まれたままの霊的無力の人は、「肉に属すること」、すなわち、罪に属する地上的なことをもっぱら考えて生きていきます。しかし、「霊に従って歩む者」、すなわち、聖霊によって新たに霊的に生まれたわたしたち信者は、「霊に属すること」、すなわち、神の御心に適う霊的なことを、もっぱら、ひたすら考えて生きていくのです。

 

それゆえ、「霊に従って歩む者」、すなわち、聖霊によって新たに霊的に生まれたわたしたち信者は、「霊に属すること」、すなわち、神の御心に適う霊的なことを、もっぱら、ひたすら考えて生きていくので、律法が求め、要求する神の前での正しさときよさを実現し始め、満たし始めることができるのです。

 

では、「肉に従って歩む者」すなわち、生まれたままの霊的無力の人は、「肉に属すること」、すなわち、罪に属する地上的なことをもっぱら考えて生きていき、他方、「霊に従って歩む者」、すなわち、聖霊によって新たに霊的に生まれたわたしたち信者は、「霊に属すること」、すなわち、神の御心に適う霊的なことを、もっぱら、ひたすら考えて生きていくと、どこへ行き着くのでしょう。

 

すると、生まれたままの霊的無力の人は、罪に属する地上的なことをもっぱら考えて生きていくので、それは「肉の思い」、すなわち、罪に結びついている思い、考えなので、行き着くところは、「死」、すなわち、霊的な死です。しかし、聖霊によって新たに霊的に生まれたわたしたち信者は、神の御心に適う霊的なことを、もっぱら、ひたすら考えて生きていくので、それは、「霊の思い」、すなわち、神の御心に適う霊的思いなので、行き着くころは、神が恵みの賜物として与えてくさださる「命と平和」、すなわち、永遠の命と、神との平和と人との平和なのです。

 

こうして、「肉の思いに従う者」と霊の思いに従う者の間には、行き着くところに、大きな違いが出てくるのです。一方は、霊的な死に行き着き、他方は、永遠の命と、神との平和と人との平和という恵みの賜物に行き着くのです。

 

では、どうして、「肉の思いに従う者」と霊の思いに従う者の間には、そのような大きな違いが出てくるのでしょう。すると、その違いは、「肉の思いに従う者」は、神に敵対するという性格を持っていて、神が与えた人の正しい生き方の規範である神の律法に従っていないし、また、従うことができないので、神からの恵みの賜物である永遠の命も、神との平和と人との平和も、与えられることがなく、逆に、霊的な死が与えられるからです。言い換えれば、「肉の支配下にある者」、すなわち、罪の支配下に生きる人は、神に喜ばれることがないので、永遠の命も、神との平和と人との平和も、神からの恵みの賜物として、与えられることがないのです。

 

こうして、パウロは、人の生き方は、二つに分かれることを語るのです。一つは、肉に属すること、すなわち、罪のこの世のことを、もっぱら考えて生きていく道で、その道の行き着くところは、霊的な死です。もう一つの道は、霊に属すること、すなわち、神の御心に適うことを考える方向で生きていく道で、その道の行き着くところは、永遠の命と、神との平和と人との平和です。人は、この二つの道のどちらかを行くのですが、もちろん、パウロは、この手紙の宛てられたローマの信徒が、霊に属すること、すなわち、神の御心に適うことをもっぱら考える方向で生きていく道を選んで、永遠の命と、神との平和と人との平和に行き着くことを望み、願い、祈りながら書いたことは、極めて明らかです。

 

21世紀の日本のわたしたちも同じです。わたしたちも、パウロの願いと祈りに従って、わたしも、あなたも、永遠の命と、神との平和と人との平和に行き着く道を選び取りたいと思います。

 

4.信者は、聖霊の多様な豊かな恵みにあずかる

 

 第4点に入ります。第4点は、信者は、聖霊の多様な豊かな恵みにあずかるという点です。人の生きる道は、今、お話しましたように、霊的な死に行き着く道と、永遠の命と、神との平和と人との平和に行き着く道ですが、信者は、もちろん、永遠の命と、神との平和と人との平和に行き着く道を歩むのですが、信者は、聖霊の多様な豊かな恵みにあずかれることを、パウロは語ります。

 

では、信者は、どのような聖霊の多様な豊かな恵みにあずかれるのでしょう。すると、「神の御霊」、すなわち、聖霊が、信者の心に宿り、住んでくださるので、信者は、聖霊との言葉で言い表せない親しい深いまじわりに置かれる恵みです。さらに、信者の体も、罪の影響で死ぬものとなっていても、信者が信仰によって義とされているゆえに、聖霊が、死を克服する信者の豊かな霊的命となっているという恵みです。それゆえ、信者は、聖霊の豊かな霊的命に支配されているので、キリスト再臨の終末には、聖霊によって復活させられ、霊の体とされ、永遠に生きる体に変えられます。これも、聖霊の恵みです。

 

 9節から11節がそうです。9節から11節は、信者が、聖霊の多様な豊かな恵みにあずかれることが、二つ、力強く語れています。まず、一つ目は、 聖霊の内住と言われる豊かな恵みです。9節で、「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたは霊の支配下にいます」と言われているのが、そうです。

 

「神の霊」とは、神が遣わす霊、聖霊のことですが、「宿る」という言葉のもともとの意味は、住む」という意味です。すなわち、人が家に住むように、聖霊が、わたしたち信者一人一人の心を、家のようにして、今、現在、住んでいてくださるということで、聖霊とわたしたち信者との言葉で言い表せない実に親しいまじわりを表しています。

 

 わたしたちは、祝祷ということを知っています。礼拝が終わるときに、牧師が会衆に祝福を祈ることですが、その祝祷の言葉は、「仰ぎ請い願わくは、わたしたちの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しきまじわりが、会衆一同と共にあるように」と祝祷しますが、そのときに、「聖霊の親しきまじわり」を祈ります。では、「聖霊の親しきまじわり」とは、どの程度の親しいまじわりなのかと言えば、人が家に住むように、聖霊が、わたしたち信者一人ひとりの心を、家のようにして、住んでいてくださるほどの親しいまじわりです。ですから、これ以上に深くて、親しいまじわりなないまじわりなのです。

 

 そして、神の霊である聖霊が、自分の心に住んでいてくださるならば、もちろん、その人は、最早、罪の支配下にはおらず、聖霊の支配下に置かれています。また、「神の霊」、すなわち、神から遣わされた聖霊は、同時に、キリストから遣わされたので、「キリストの霊」とも言われますが、もし、人が、キリストから遣わされた聖霊を自分の心に持っていないなら、その人は、キリストに属する者、すなわち、キリストの救いに召された者ではないのです。何故なら、キリストに属する者、すなわち、キリストの救いに召された者は、必ず、キリストから遣わされた聖霊を自分の心に持っているからです。

                                               

 こうして、信者は、聖霊の多様な豊かな恵みにあずかるのですが、その一つ目は、神の霊である聖霊、同時に、キリストの霊と言われる聖霊が自分の心に、家のようにして、今現在、親しく住んでいて、実に親しい深いまじわりを持ってくださるという豊かな恵みです。

 

 では、信者は、聖霊の多様な豊かな恵みにあずかるのですが、その二つ目は、何でしょう。すると、信者は、自分の心に、家のようにして、親しく住んでくださっている聖霊のゆえに、体は罪の影響で死ぬものとなっていても、聖霊は、

信者が信仰によって義とされているゆえに、死を克服する信者の豊かな霊的命となっているという恵みです。

 

 10節と11節がそうです。聖霊が、わたしたちの心に親しく住んでいてくださるということは、キリストが、わたしたちの内におられることと同じですが、キリストが、わたしたちの内におられることによって、霊的に豊かなことが生じるのです。

 

 では、どんな豊かなことが生じるのでしょう。すると、信者の体は、罪の影響のゆえに死ぬものになっていても、聖霊は、信者が信仰によって義とされているゆえに、死を克服する信者の豊かな霊的命となっていて、世の終わり、キリスト再臨の終末には、信者は、聖霊によって復活させられ、霊の体とされ、永遠に生きる体に変えられます。すなわち、聖霊は、イエスさまを死者の中から復活させたように、わたしたち信者をも、その無限の命の力によって、必ず復活させてくださるのです。

 

 10節に、「体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています」ありますが、「体は罪によって死んでいても」というのは、わたしたち信者の体も、罪の影響のゆえに死ぬものになっていることを表します。そして、「霊は義によって命となっています」というのは、聖霊は、信者が信仰によって義とされているゆえに、死を克服する信者の豊かな霊的命となっていますという意味です。

 

 では、聖霊は、信者が信仰によって義とされているゆえに、死を克服する信者の豊かな霊的命となっているとどうなるかと言いますと、次の11節で、言われていますように、世の終わり、キリスト再臨の終末には、聖霊によって復活させられ、霊の体とされ、永遠に生きる体に変えられて、救いが、ついに完成するのです。

 

 「イエスを死者の中から復活させた方の霊」とは、聖霊のことです。無限の命の力を持った聖霊が、その力を働かせて、十字架の死の後、お墓に納められたイエスさまを、死者の中から復活させたのですが、その同じ無限の命の力を持った聖霊が、世の終わり、イエスさまの再臨の日に、その無限の命の力によって、わたしたち信者をも復活させて、救いの完成に至らせてくださるのです。

 

 「あなたがたの死ぬはずの体も生かしてくださるでしょう」とは、世の終わり、イエスさまの再臨の終末のときに、罪の影響のゆえに死ぬべきわたしたちの体を、復活させて、救いを完成してくださることを表しています。こうして、わたしたち信者は、十字架のイエスさまを信じて始まった救いの完成を目指して、聖霊によって日々喜びにあふれて歩んでいくのです。

 

 実は、ローマの信徒への手紙においては、1章から7章までは、「聖霊」あるいは、「御霊」、あるいは、「霊」という聖霊を表す言葉は、たった4回しか出てきません。ところが、今日の8章に入ると、せきを切った水のように、8章全体で、何と20回も出てきて、8章全体が、聖霊の豊かな力、働き、祝福、勝利で満ち満ちているのです。まるで、御霊の花園なのです。

 

 こうして、十字架の死で開いてくださったイエスさまによるわたしたちの救いを、聖霊は、その無限の豊かな力、働き、祝福、勝利で、完成に導いてくださるのです。それゆえに、今日のわたしたちも、聖霊霊との深くて、豊かで、実に親しいまじわりに置かれて、今週も、喜んで、信仰の道を歩みたいと思います。

 

お祈り


 憐れみ深い天の父なる神さま、
1週間の歩みを守られ、新しい週の最初の日に、公同礼拝に導かれ、感謝いたします。

 今、わたしたちは、ローマの信徒への手紙の8章を通して、あなたが、わたしたちを愛してくださり、イエス・キリストを信仰できるように導き、さらに、御霊との豊かなまじわりの中で、罪の力と死の力に対する勝利を与えて、救いの完成を目指す歩みができるようにしてくださっていることを知り、心から感謝いたします。

 どうか、これからも、わたしたちが、命の御霊の所有者として、あなたの御心に適う正しく、よい行いの実を、日々、たくさん結んで、あなたに喜ばれるようにしてください。

 また、本日、種々の都合や事情により、出席できなかった方々に、それぞれのところで、顧みをお与えください。

また、今日から始まるわたしたちの1週間を、どこにあっても、豊に祝福してください。

 これらの祈りを、主イエス・キリストの御名により、御前にお献げいたします。アーメン。


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