* 佐々木稔 説教全集 *   

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   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6;5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ 11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


「異邦人の祭司としてのパウロ」
ローマ書15章14節―21節

 

 15:14 兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。15:15 記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、15:16 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。15:17 そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。15:18 キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、15:19 また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。15:20 このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。15:21 「彼のことを告げられていなかった人々が見、/聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。

 

はじめに

 

 寒さを感じるこの頃ですが、今日も、わたしたちは、聖書が教える、今も生きて、豊かな祝福のみわざを日々行ってくださる真の神を心から礼拝したいと思います。

 

さて、それで、わたしたちは主の日の朝の礼拝においては、紀元56年頃キリスト教伝道者の使徒パウロによって書かれたローマの信徒への手紙を、少しづつ学んでいますが、今日も、わたしたちはキリストによる救いを順序立て、力強く記しているローマの信徒への手紙に、さらに取り組んでいきたいと思います。

 

では、今日の個所は、どんなところでしょう。すると、今日の個所は、ローマの信徒への手紙の最後の部分に入るところです。そこで、今日は、ローマの信徒の手紙の最後の部分に入るところから、3点についてお話をしたいと思います。まず第1点は、パウロはローマの信徒への手紙を、「ところどころかなり思い切って」大胆に書きましたが、「ところどころかなり思い切って」大胆に書いた第1の理由は、ローマの信徒を軽んじたからでなく、ローマの信徒が、すでに知っていたことの記憶を新たに鮮明に、思い起こしてもらうためであったという点です。

 

第2点は、第1点に続くのですが、パウロが、ローマの信徒への手紙を、「ところどころかなり思い切って」大胆に書いた第2の理由は、パウロは異邦人を神に献げる祭司の役目を担っていたので、ローマの教会に多くいた異邦人の信仰の整えるため、「ところどころかなり思い切って」大胆に書いたという点です。

第3点は、パウロの異邦人伝道の特色は、キリストの御名がまだ知られていないところに伝えるという特色であったという点です。

 

そして、これらのことを学んで、わたしたちも信仰がよく整えられ、神に喜ばれる異邦人クリスチャンとして、今の時代の日本の地で、日々力強く信仰の歩みをしていきたいと思います。

 

1.「ところどころかなり思い切って」書いた第1の理由

 

早速、第1点に入ります。第1点は、パウロは、ローマの信徒への手紙を、「ところどころかなり思い切って」大胆に書きましたが、「ところどころかなり思い切って」大胆に書いた第1の理由は、ローマの信徒を軽んじたり、辱めるためでなく、ローマの信徒が、すでに知って信仰と生活についての記憶を新たに鮮明にはっきり思い起こしてもらうためであったという点です。

 

すなわち、パウロは、このローマの信徒への手紙において、わたしたちが見てきましたように、1章1節から、キリスト教信仰と生活について、いろいろなことを書いてきました。しかし、このローマの信徒への手紙も、いよいよ終わりの部分に来たとき、パウロは、これまでこの手紙に書いてきたことを顧みて、自分は、「ところどころかなり思い切って」大胆に書いたという思いを持ちました。

 

たとえば、第1章において、早々と、旧約歴史のない異邦人の罪を、数え方にもよりますが、何と22も挙げて、それらの罪に対して、神は怒りを持って最後の審判で裁いて、滅ぼすことをかなり思い切って書きました。

 

また、旧約歴史のあるユダヤ人の罪も、かなり思い切って書きました。すなわち、ユダヤ人も罪人であり、弁解の余地がないとか、神の裁きを逃れられると思っているのかとか、偶像を忌み嫌いながらも、偶像を祭っている異教の神殿に入り込み、金目のものを盗んでは売り捌いていて、それは、地中海世界の異邦人にたちに知られていて、神の名が汚されているではないかとか、神の民のしるしである割礼を受けていても、神の律法を守っていなければ、神の民のしるしにならないではないかとか、ユダヤ人の罪をパウロは、「かなり思い切って」書きました。

 

また、ユダヤ人の律法主義では人は絶対に救われないので、そのため、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです」と「かなり思い切って」書きました。

 

また、人は、十字架で罪の贖いをしてくださった約束の救い主メシアのイエスさまを信じることだけによって、すなわち、恵みによってのみ、恩寵によってのみ義とされ、救われるので、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と「かなり思い切って」書きました。

また、ローマの教会において、肉を自由に食べる人と野菜だけを食べる人の裁き合いを即刻止めさせるために、パウロは肉を自由に食べる人は、「信仰の強い人」、野菜だけを食べる人を、「信仰の弱い人」と、「かなり思い切って」書きました。信仰の弱い人と書かれた人は、どのような気持ちになったでしょう。

 

そこで、この手紙を受け取って読む側のローマの教会の信徒の気持ちを考えると、「ところどころかなり思い切って」大胆に書いたことが、誤解されないとも限りません。すなわち、この手紙を読むローマの教会の信徒は、パウロは、「ところどころかなり思い切って」大胆に書いているが、これは、わたしたちローマの信徒が、キリスト教信仰と生活について、よく知っていないので、「ところどころかなり思い切って」大胆に書いたのではないか。使徒パウロは、わたしたち、ローマの信徒を軽んじているのではないかと誤解されてしまうこともないとは言えません。そして、もし誤解されれば、パウロがこの手紙で書いてきた信仰と生活に関する教えが、ローマの信徒に、受け入れられなくなり、この手紙を書いたことが無意味となってしまいます。

 

 そこで、パウロは不必要な誤解が生じないように、慎重に注意し、よく配慮し、最後の部分を書くのです。すなわち、パウロは、ローマの教会の信徒たちは、パウロが「ところどころかなり思い切って」大胆に書いたことを、悪意を持って読んだりしないこと、かえって、パウロの手紙を善意を持って読んでくれることを、十分確信していると語りました。

 

また、パウロが手紙に書いた信仰と生活に関することについては、パウロがわざわざ書かなくても、すでにローマの教会の信徒は、信仰と生活に関する知識を「あらゆる知識で満たされ」と言えるほど、多く持っていて、ローマの教会の信徒同士で信仰と生活について、お互いに話し合って不十分なところを直していくことができる、すなわち、戒め合うことができることを十分確信していると、親しみと慎重さをもって語ったのです。14節と15節前半がそうです。

 

14節の今日の書き出しを見ますと、「兄弟たちよ」と、親しく呼びかけていますが、原文では、「わたしの兄弟たちよ」と、「わたしの」という一語がわざわざ入っていて、一層、ローマの教会の信徒たちへの愛と親しさが感じられるようにされています。

 

また、「わたしは確信していますが」文章の最後に来ていますが、実は、原文では、「わたしは確信しています。わたしの兄弟たちよ」となっていて、「わたしは確信していますが」が、文章に最初に来て強調されています。ですから、この手紙を読むローマの教会の信徒は、「わたしは確信しています」という言葉が、一番先に目に入って、使徒パウロは、ローマの信徒であるわたしたちを軽んじているのでなく、確信している、すなわち、信頼しているということを最初に知って、安心して、この手紙が読めるようになっています。

 

そして、「あなたがたが善意に満ち」というのは、ローマの教会の信徒たちが、パウロが「ところどころかなり思い切って」大胆に書いたことを、悪意を持って読んだりしないことを、パウロが確信していることを表しています。また、「あらゆる知識で満たされ」とは、パウロがわざわざ手紙で書かなくても、すでにローマの教会の信徒は、信仰と生活に関する知識を「あらゆる知識で満たされ」と言えるほど、多く持っていることを、パウロが確信していることを表しています。また、「戒め合う」とは、信仰と生活について、ローマの教会の信徒同士でお互いに話し合って、不十分なとことを直し、改めていくことができることを表しています。

 

では、それにもかかわらず、パウロは、どうして、「ところどこかなり思い切って書いた」のでしょう。すると、その理由は、ローマの教会の信徒を軽んじたり、辱めたりする意図ではなく、ローマの教会の信徒が、すでに信仰と生活について知っていることの記憶を新たにし、鮮明に思い起こすために、大胆に書いたにすぎないという謙孫な言い方をして誤解を防ぎました。

 

すなわち、パウロは、自分が書いてきたことは、ローマの信徒が、それまでまったく知らないことを新しく教えようとして、上から目線で書いたのではなく、ローマの信徒が、すでに以前から知っていた信仰と生活に関することの記憶を、もう一度新たに、鮮明に、はっきり思い起こし、キリスト教の信仰と生活はどのようなものかを確認してもらうことを願って書いたと言うことによって、パウロが書いたことを受け入れ易くしたのです。パウロは、誤解されないように、非常に慎重に、かつ、注意深く配慮して誤解を防いでいることがとてもよく伝わってきます。

 

教会において、互いに誤解されないように配慮する、注意するということは、信頼し合って共に歩むために必要であり、大事なことであることを、今日のわたしたちもしっかり覚えたいと思います。

 

2.パウロは、異邦人を神に献げる祭司の役目を担っていた

 

 第2点に入ります。第2点は、パウロが、「ところどころかなり思い切って」大胆に書いた理由は、今、お話しましたように、すでに知っていることの記憶を新たにして、鮮明に思い起こして、確認してもらうためであったのですが、もう一つの大きな理由がありました。それは、パウロが旧約歴史のない異邦人を、神に献げる祭司の役目を担っていたので、ローマの教会の多く異邦人が信仰的、霊的に整えられて、神に喜ばれる供え物として受け入れられるようになるため、パウロは信仰と生活に関することを、「ところどころかなり思い切って」大胆に書いてはっきり教えたのです。

 

すなわち、この手紙が宛てられたローマの教会は、1世紀の地中海世界を支配しているローマ帝国の首都のローマの都にあったので、大きな教会であり、また、ユダヤ人信徒もいたでしょうが、異邦人信徒が多くいたと考えられます。

 

 そこで、神の恵みにより、異邦人のために、キリストであるイエスさま、救い主のイエスさまに祭司として仕える者とされたパウロは、ローマの教会の多くの異邦人が信仰的、霊的に整えられ、神に喜ばれる供え物として受け入れられるようになるため、信仰と生活に関することを、「ところどころかなり思い切って」大胆に書いて、はっきり教えたのです。15節後半から19節がそうです。

 

 16節を見ますと、祭司に関する専門用語が3つも出てきます。まず、異邦人の救いのためにキリストであるイエスさま、救い主であるイエスさまに「仕える者」とありまして、「仕える者」という言葉が出ていますが、この「仕える者」とは、原語では、「祭司として仕える者」という意味で祭司を表します。

 

次に、神に出所を持つ救いのよき知らせである福音ために働く「祭司の役を務めているからです」とありますが、「祭司の役」という言葉は、「祭司の役目を果たす者」という意味で、これまた祭司用語です。

 

 では、祭司の役目とは何かと言えば、もともとは、エルサレム神殿において、動物犠牲を神に献げる働きをしますが、パウロの祭司の役目は、もちろん、動物を犠牲として神に献げる祭司の役目をするのではなく、異邦人を神に献げる祭司の働きをするのです。

 

すなわち、異邦人にキリストによる救いのよき知らせである福音を宣べ伝え、回心に導き、異邦人が聖霊により罪からきよめられ、聖なるものとされ、神に喜ばれる供え物として献げられることを、パウロは行うのです。それで、「それは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません」とありまして、「神に喜ばれる供え物」と言われていますが、「神に喜ばれる供え物」とは、もちろん、祭司用語で、もともとは、エルサレム神殿で、祭司が神に献げ、そして、神に受け入れられる聖別された動物犠牲を表します。「神に喜ばれる」というのは、もともとは、神に受け入れられるという意味です。

 

こうして、パウロは、「祭司として仕える者」、「祭司の役目を果たす者」、「神に喜ばれる供え物」という祭司用語を3つ、自分の働きに当てはめ、自分自身を旧約れ歴史のない異邦人を神に献げる異邦人の祭司として語るのです。

 

そして、パウロは、自分が、旧約歴史がないゆえに霊的暗黒に坐している異邦人を神に献げる祭司として、神のために働けることを、救い主のイエスさまにあって、少しも恥と思わなかったのです。考えてみますと、1世紀の時代において、偶像を拝むゆえに、宗教的に汚れており、最後の審判で裁かれて滅ぼされると考えられていた旧約歴史がない異邦人の救いのために、命をかけて働くなどということは、1世紀当時のユダヤ人からは、まったく評価されなかったでしょう。評価されるどころか、旧約歴史がない異邦人の救いのために働くなどということは、恥と思われたことでしょう。

 

しかし、パウロは、全然、違うのです。パウロにとっては誇りなのです。すなわち、旧約歴史のない異邦人の救いのために働くことは、神の誉れになり、十字架にかかって、その異邦人の罪の贖いをしてくださったキリストであるイエスさま、救い主であるイエスさまへの信仰において、パウロの誇りなのです。

 

パウロにとっては、伝道の主であるキリスト御自身が、パウロの生涯を通して、働いてくださったということだけで、十分誉れであり、何の不足もなく、それ以上の要求など、何も申し上げることがないのです。

 

すなわち、伝道の主キリストは、旧約歴史のない異邦人を父なる神に従わせるために、パウロの説教の言葉と伝道の働きを通し、また、パウロの説教の言葉と働きに、神からのしるしや不奇跡を伴わせてくださって働いてくださったのです。すなわち、神の霊である聖霊の力を伴わせて働いてくださったのです。

 

 そして、パウロの説教の言葉と伝道の働きに、神からのしるしや奇跡を伴わせてくださり、すなわち、聖霊の力を伴わせ、伝道の主キリスト御自身が働いてくださったからこそ、何と、パウロは、イスラエルのエルサレムから始まり、キプロス島、今日のトルコ半島にあったデルベ、リストラ、イコニオン、アンティオキア、エフェソ、トロアス、そして、今日のギリシアにあったフィリピ、テサロニケ、アテネ、コリント、さらに、「イリリコン州」、すなわち、今日のバルカン半島のアルバニアやセルビア付近まで、すなわち、1世紀の地中海世界のほぼ東半分にあたる地域に、あまねく広く、旧約歴史のない異邦人へ福音を宣べ伝えることができたのです。これは、電車も自動車も飛行機もない当時としては仰天すべき広さの伝道です。

 

18節を見ますと、主語が、キリストになっています。「キリストがわたしを通して働かれた」とあり、また、19節に「キリストは異邦人を神に従わせるために・・・働かれました」となっていて、主語が、伝道の主キリスト御自身になっているのです。これは、素晴らしいことです。

 

18節の「わたしの言葉と行いを通し」とありますが、「わたしの言葉」とは、パウロの説教の言葉であり、「行い」とは、伝道の働きのことを表します。また、19節の「しるしや奇跡の力」とありますが、「しるし」と「奇跡」は、わざわざ複数形になっていますので、パウロの説教と伝道の働きが神に起源することのしるしとなる数々の奇跡を表しています。

 

確かに、キリストは、伝道の主です。わたしたちが、よく知っていますように、マタイ福音書の最後で、キリストは弟子たちに対して、「あなたがたは行って、すべての国民を弟子としなさい」と伝道命令を与えました。

 

また、使徒言行録の1章においては、天にお帰りになる前に、弟子たちに、「あなたがたは、・・・地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と語って、地の果てまでの伝道を命じました。こうして、伝道の主はキリスト御自身です。

その伝道の主キリストが、旧約歴史のない異邦人を父なる神に従わせるため、パウロの説教の言葉と伝道の行いを通し、また、パウロの説教の言葉と伝道の行いに、神からのしるしや奇跡を伴わせてくださり、すなわち、聖霊の力を伴わせて働いてくださって、ローマ帝国が支配する1世紀の地中海世界のほぼ東半分の驚くべき広い範囲の異邦人に、キリストによる救いのよき知らせである福音を宣べ伝えさせてくださったのです。

 

19節に、「エルサレムからイリリコン州まで」とありますが、エルサレムは、わたしたちが知っている通り、イスラエルの中心地ですが、「イリリコン州」というのは、今日のバルカン半島のアルバニアやセルビヤ付近のことです。

 

ですから、具体的に言えば、何と、パウロは、イスラエルのエルサレムから始まって、キプロス島、今日のトルコ半島にあったデルベ、リストラ、イコニオン、アンティオキア、エフェソ、トロアス、そして、今日のギリシアにあったフィリピ、テサロニケ、アテネ、コリント、さらに、「イリリコン州」、すなわち、今日のバルカン半島のアルバニアやセルビア付近まで、すなわち、1世紀の地中海世界のほぼ東半分にあたる地域に、あまねく広く、異邦人へ福音を宣べ伝えることができたのです。これは、驚くべ広範囲の伝道です。

 

わたしたちは、地中海世界の地理をよく知らないので、「エルサレムからイリリコン州まで」と聞いても、ピンと来ないので特に驚かないのですが、この手紙を読んだローマの教会の信徒たちは、もちろん、地中海世界の地理をよく知っていましたので、パウロが、「エルサレムからイリリコン州まで」の異邦人に、あまねく広く、キリストによる救いの福音を宣べ伝えたということを読んだとき、本当に驚いたと思われます。驚いて、圧倒されて、言葉が出なかったかもしれません。

 

パウロは、ローマ帝国が支配する1世紀の地中海世界のほぼ東半分の地域の異邦人に伝道したのだ、何ということだと驚愕したと思われます。それほど、広い範囲なのです。

 

もし、今日でも、わたしたちが、かつて1世紀のパウロが伝道した地を、電車や自動車や飛行機などを使って移動しながらでも巡る旅をしたら、今日のわたしたち自身でさえも、その広大さを実感し、使徒パウロの異邦人伝道への強く深い思いが、わたしたちの心にも伝わってきて、わたしたちも驚き、圧倒され、言葉が出ないのではないかと思います。

 

そして、もちろん、パウロが、異邦人伝道に深く強い思いを抱いていたのですが、パウロが、そのように、異邦人伝道に深く強い思いを抱いたのは、伝道の主のイエス・キリストによるのです。すなわち、パウロを異邦人伝道の器として用い、パウロの異邦人伝道を導き、パウロの説教の言葉と伝道の行いに、神からのしるしや奇跡を伴わせてくださって、すなわち、聖霊の力を伴わせて働いてくださって、ローマ帝国が支配する1世紀の地中海世界のほぼ東半分の驚くべき広い範囲の異邦人に、キリストによる救いの福音を宣べ伝えさせ、そして、実際に、福音を信じて、救われる異邦人を次々と起こし、神に従う者にしてくださったのは、伝道の主キリスト御自身なのです。

 

そして、このことは、今日も同じです。今日は聖書が完結しているので、1世紀のように、福音の説教と伝道の行いに、聖霊の力による目に見える奇跡が伴うことはありません。でも、聖霊の力は、福音の説教を聞いた人が、十字架のキリストを自分の救い主と信じて、すべての罪とが赦され、真の人生に立ちあがることにおいて、豊かに十分に何の不足なく働いています。伝道の主イエス・キリストは、福音を通し、聖霊を力強く働かせ、救われる人を今も、今日も起こし続けているのです。わたしたち自身も、こうして救われたのです。伝道で、大切なことは、聖霊の働きを信じて、教会が福音を、常に、絶えず、世の終わりまで熱心に語り続けていくことです。教会は福音を語ることを止めてはならないのです。

3.パウロの伝道は、キリストの御名が知られていないところに伝えること

 

第3点は、パウロの異邦人伝道の特色は、キリストの御名がまだ知られていないところに伝えるという特色であったという点です。すなわち、パウロは、ペンテコステ、聖霊日降臨以来、ペトロ、ヤコブ、ヨハネなどの12弟子たちが伝道して、キリスト教信仰の土台が、すでに築かれていたエルサレムを中心とするイスラエルとその周囲の地域は、彼らに任せ、自分はキリストの御名が、まったく知られていない異邦人に、キリストによる救いのよき知らせである福音を伝えることを切に強く望んだのです。

 

そして、キリストの御名がまったく知られていない異邦人に、キリストによる救いのよき知らせである福音を伝えたことは、パウロが切に強く望んだから行われたのですが、キリストのことを、まだ告げ知らされていない異邦人が、パウロから福音を聞いて、福音を悟る、すなわち、福音の素晴らしさを、目で見るかのようにはっきり理解することは、実は、旧約聖書の預言の実現成就であり、すでに旧約時代からの神自身の御心であったことを、パウロは確信していたからなのです。20節と21節がそうです。

 

20節に、「このように・・・わたしは、熱心に努めてきました」とありますが、「熱心に努める」という言葉は、意味のとても強い言葉で、「熱心に努める」の他にも、切に強く願うとか、熱望するとも訳せます。

 

また、20節に、「他人の築いた土台の上に建てたりしないためです」とありますが、この言い方で、エルサレムを中心としたイスラエルとその周囲の地域を表しています。具体的には、ペンテコステ、聖霊降臨が生じたエルサレム、さらに、サマリヤ地方、地中海に近いリダ、地中海沿いのヤッファ、同じく地中海の港町のカイザリヤなどの地域を表します。それらの地域は、もう、すでに、ペトロ、ヤコブ、ヨハネなどの12弟子たちが、伝道し、救い主キリストの御名が宣べ伝えられ、教会の土台、礎、基礎は築かれていました。

 

そこで、パウロは、救い主キリストの御名が、まだ宣べ伝えられておらず、教会の土台、礎、基礎がまだ築かれていない異邦人の地への伝道を切に願い、熱望し、熱心に努めたのですが、それは、パウロが自分の異邦人伝道は、旧約時代からの神御自身の御心の実現成就であることを、聖書を通して確信して揺るがなかったからなのです。

 

21節に、鍵括弧に入った御言葉がありますが、この御言葉は、旧約聖書のイザヤ書52章15節の御言葉ですが、イザヤ52章と53章は、よく知られたメシアの受難が予告され、預言されている個所です。すなわち、将来、人類の救い主、メシアが出現て、人類の罪を身代りに背負い、見る影もなくなるほど神から打たれて苦しみ死ぬことにより、救いの道が開かれます。しかし、そのことが、伝えられたとき、人々は、驚きながらも、その出来事は、自分たちの救いのためであったということを、目で見るようにはっきり理解し、悟って、メシアによる救いの道を開いてくださった天の神を、賛美するようになるという旧約聖書の予告は、自分の異邦人伝道において実現成就することを、パウロは、固く確信して揺るぎがなかったのです。パウロは異邦人伝道こそが自分の使命として深く強く自覚し確信していたのです。

 

分かり易く言えば、旧約聖書で予告されていた異邦人伝道は、自分が異邦人に、救い主・キリストの御名を伝えることによって、実現成就していくことを確信し、自分の使命として、異邦人伝道に命をかけたのです。異邦人伝道がユダヤ人伝道の付録やおまけでなく、神御自身の御心であり、パウロの伝道によって1世紀の世界の歴史に確実に実現成就していったのです。

 

本当にそうです。ローマ帝国が支配していた1世紀の地中海世界のほぼ東半分の異邦人は、パウロから福音を聞き、まるで目で見るように、はっきりとキリストによる救いを理解し、悟って、キリストの十字架により、自分たち異邦人の罪を赦し、長年の霊的暗黒から救ってくださった慈愛深い父なる神を、異邦人は心からほめたたえたのです。

 

 こうして、異邦人を神に喜ばれる供え物として献げる祭司の役目を担ったパウロは、異邦人信者を、信仰的、霊的に、よく整えるために、「ところどころかなり思い切って」大胆に書き、信仰と生活についてはっきり教えたのです。

 

結び

 

以上のようにして、今日の個所を見ますが、わたしたちも、「ところどころ大胆に書いたローマの信徒への手紙」に親しむことにより、信仰と生活が整えられ、神に喜ばれる異邦人信者として、今週もしっかり歩みたいと思います。

 

お祈り

 

 憐み深い天の父なる神さま、

あなたの変わらぬいつくしみの御心によって、わたしたちは1週間を各々のところで歩むことができ感謝いたします。

 また、今日、週の最初の日に、公同礼拝に導かれ、あなたを礼拝できる幸いを感謝いたします。

 今、わたしたちは、パウロが異邦人の祭司として、命をかけて異邦人の救いのために働いたことを見ましたが、異邦人の救いは、ユダヤ人の救いの付録でなく、すでに旧約時代から予告されていたあなたの御計画の実現であることを教えられ、心から感謝いたします。

 どうか、異邦人クリスチャンのわたしたちが、聖霊によって、罪からきよめられ、あなたに喜ばれ、受け入れられる供え物となれるようにお導きください。また、さらに、異邦人である日本の人々が、福音を聞いて、キリストを自分の救い主と信じ、あなたに喜ばれ、受け入れられる供え物となれるように、教会の伝道をお導きください。

今日、いろいろな都合や事情で集まることができなかった兄弟姉妹、子供たちを、それぞれのところで顧みてください。

今日から始まる新しい1週間を、わたしたちがどこにあっても豊かに祝福してください。

これらの祈りを主イエス・キリストの御名によって御前にお献げいたします。アーメン。

 

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