* 佐々木稔 説教全集 * |
ローマ書講解説教 - 佐々木稔 | Shalom Mission |
01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ 02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ 05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利 07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放 08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み | 08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利 09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画 09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教 10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い 11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い 12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活 12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係 13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に... 15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道 16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた.. |
「信仰の勝利の歌」
ローマの信徒への手紙8章31節―39節
はじめに
わたしたちは、主の日の朝の礼拝においては、1世紀の使徒パウロが、紀元56年頃、ローマの信徒たちに書いたローマの信徒への手紙を学んでいますが、今日も、わたしたちは、キリストにある素晴らしい救いを順序立てて教えているローマの信徒への手紙を共に、学びたいと思います。
それで、今日のところは、何が教えられているのでしょう。すると、今日のところは、信者は、逆境の中でも、心の最も深いところに、信仰の勝利を、確信して歩むようにと、使徒パウロが、実に、力強く、1世紀の信者を励ましているところです。具体的には、5つの信仰の確信を語って励ましています。
そこで、今日の個所から、それらの5点の信仰の確信を、学び、今日のわたしたちも、いろいろなことがあっても、これらの5つの信仰の確信を、心の深みに、しっかり定着させ、揺がず、信仰の勝利の人生を歩んでいきたいと思います。
1.神は、常に、信者の味方で、信者を助けてくださるという信仰の確信
早速、第1の信仰の確信に入ります。第1の信仰の確信は、神は、常に、信者の味方で、いつも、共にいて、信者を助けてくださるという信仰の確信です。31節がそうです。
考えてみますと、パウロが、この手紙を書いたときは、まだ、キリスト教は、人々に知られていないゆえに、キリスト教信仰は、先祖伝来の宗教とは異なる危険な宗教として敵視され、信者は、キリスト教信仰に敵対する多くの人々の中で、信仰の戦いをしながら信仰を維持しなければなりませんでした。
すなわち、キリスト教信者になれば、それまで、周囲の人々と、一緒に、行っていた先祖伝来の宗教行事を、一緒にできなくなりますので、人々は、キリス教信仰は、和を乱す危険な宗教として、キリス教信仰を敵視し、多くの人々が、キリスト教信者に敵対するようになります。
では、このような厳しい状況のとき、使徒パウロは、どのように語ったのでしょう。信仰をもって生きることは、苦しいから、止めていいですよと言ったでしょうか、いいえ、逆です。慈愛深い天の父なる神は、常に、信者の味方で、幾つもの恵みの仕掛けを作って助けてくださるので、信者は、逆境にあっても、揺るがず歩むように、力強く勧めたのです。
31節がそうです。「では、これらのことについて何と言ったらよいのでしょうか。もし、神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」と言われていますが、何と、力強い信仰の確信の表明でしょう。「これらのことについて何と言ったらよいのでしょうか」とありますが、「これらのこと」というのは、それまでに語られてきたところの8章1節から30節までで言われてきたことを意味します。
具体的には、信者には、信仰ゆえのいろいろな苦しみがあります。しかし、神は、幾つもの恵みの仕掛けを作って助けていてくださるのです。たとえば、1人ひとりの信者の心に、聖霊を親しく住まわせてくださって、罪の力が信者を支配しないようにしてくださっています。
また、1人ひとりの信者の心に、親しく住んでくださる聖霊は、天地万物の偉大な創造主なる神を、「アッバ、父よ」と呼ばせて、神を天のお父ちゃんと親しく呼べるようにしてくださいます。また、聖霊が与えられているゆえに、信者は、キリストにあって、共同の相続人とされて、世の終わりに栄光の神の国を受け継ぎます。
また、信者は、世の終わりには、二度と死ぬことにない不死の体に復活させられ、神の子として出現します。また、内住の聖霊は、わたしたちの祈りが、父なる神に受け入れられるように、祈りを執り成し、媒介をしてくださっています。また、神は、万事が相働きて、わたしたち信者の益になるように摂理の御手をもって導いてくださいます。これらすべては、神が、信者のためにしてくださっていることです。これだけしてくだされば、絶対、大丈夫なのです。
こうして、慈愛深い神は、恵みの仕掛けを幾つも作って、信者を助けてくださっているなら、信者は、逆境にあっても、「もし、神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」と信仰の確信を、大胆に表明して、信仰の道を、勇気をもって歩んでいけるのです。
それで、「もし、神がわたしたちの味方であるならば」という言い方が出ていますが、実は、原文では、「もし、神がわたしたちのためならば」という言い方で、それは、もし、神が、信者のために、すなわち、信者の益のために、幾つもの恵みの仕掛けを作って助けていてくださるのであればという意味です。そして、そうなら、「だれがわたしたちに敵対できますか」と言えるのです。
今日も同じです。わたしたち信者には、信仰ゆえにいろいろなことがあります。しかし、慈愛深い神は、わたしたちの信仰が壊れないように、幾つもの恵みの仕掛けを作って助けていてくださるのです。それゆえ、今日のわたしたちも、「もし、神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」という信仰の確信を力強く表明して、信仰を持って、生涯歩んでいくことが、必ずできるのです。
2.神は、なおさら、信者の歩みに必要なものを与えてくださるという確信
第2点に入ります。では、1世紀の逆境にある信者が、心の深みに、しっかり持つべき第2の信仰の確信とは、何でしょう。すると、第2の信仰の確信は、御子のイエスさまをわたしたちの救いのために与えてくださった神は、御子のイエスさまを信じて歩むために必要なものを、御子のイエスさまと一緒に、恵みとして必ず与えてくださるという信仰の確信です。
1世紀の信者は、先祖伝来の宗教とは異なる宗教として、人々から危険視され、キリスト教信仰に敵対する多くの人々中で生きていかねばなりませんでした。そのため、日々の生活においても制裁を受け、パンを手に入れることができなくなる不安もありました。
そこで、パウロは、第2の信仰の確信として、信者の救いのために、御自身の比類なき大切な御子であるイエスさまを十字架の犠牲の死に引き渡して、救いの恵みという最高の価値ある恵みを惜しむことなく、神が与えてくださったのであれば、その御子のイエスさまと一緒に、他のすべての必要なものも恵みとして与えてくださるという信仰の確信を、心の最も深いところに、しっかり持って歩むべきことを、これまた、実に、力強く勧めたのです。
32節がそうです。「その御子さえも惜しまず」とありますが、「御子」という言い方は、もともとは、「御自身の御子さえも惜しまず」という言い方で、わざわざ「御自身の」という言葉がついていて、父なる神御自身にとって、イエスさまが、比類なき大切さを持っている御子であることを、この上なく強調しています。まさに、神の独り子で、神の御子は何人もいませんし、他の者が代わることもできない唯一無比の、この上なく尊い存在です
そして、また、「惜しまず」という言葉の意味は、犠牲にすることを少しもためらわない姿勢を表します。それゆえ、罪からの救いのために、少しもためらわず、御子のイエスさまを恥と苦しみと裁きと呪いの十字架の死に、父なる神が、引き渡したのは、わたしたちを、絶対的に、一方的に、無償で、愛してくださっていたからです。
それゆえ、神が、最高で、最大の恵みである御自身の御子のイエスさまを惜しみなく、わたしたち信者に与えてくださったということは、なおさら、信者がイエスさまを信じて、この世の歩みをしてくために必要なすべての恵みを、惜しみなく与えてくださることを必ず含んでいるのです。
「すべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありえましょうか」とありますが、「すべてのもの」が、一体、何を意味しているのかと思うのですが、おそらく、イエスさまを信じて、この世の歩みをしていくときに必要な日毎のパンをはじめとする、生活的な、具体的なものが意味されていると思われます。
かつて、イエスさまは、山上の説教で、マタイ6章で、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と教えられましたが、その教えと同じことを、パウロも教えていると思われます。
天の父なる神は、最高で、最大で、無限の価値を持つ恵みであるイエスさまを惜しみなく与えてくださったのであれば、イエスさまよりも価値の低いこの世のものは、なおさら、恵みとして、惜しみなく、必ず与えてくださるのですし、また、与えることがおできになるのです。大きなものを、惜しみなく与えてくださる神は、なおさら、小さなものを、惜しみなく、必ず与えてくださるのです。
今日のわたしたち信者も、大きな恵みを、惜しみなく与えてくださる神は、なおさら、小さな恵みを、必ず与えてくださることを、信仰によって確信し、今、生きて動く神を、日々信頼して、歩んでいきたいと思います。
3.わたしたちが、神からの選びと義認により、救われているという確信
さて、では、1世紀の逆境にある信者が、心の深みに、しっかり持つべき第3の信仰の確信とは、何でしょう。すると、第3の信仰の確信は、信者が、自分は、永遠からの神の選びと、神御自身から義とされて、救われているという信仰の確信を、心の深みにおいて、しっかり持つことです。
すなわち、1世紀において、キリスト教信仰は、先祖伝来の宗教とは異なった危険な宗教として危険視され、多くの人々から敵対され、まるで悪事をしているかのように扱われ、敵対する人々の自分勝手ないろいろな口実で、この世の法廷に訴えられ、告訴される可能性がありました。
そこで、使徒パウロは、キリスト教信者たちが動揺しないで、信者は、天地の造られる前の永遠において、すでに、キリストによって救われるように、神によって選ばれており、さらに、神御自身が、信仰義認によって、信者を義として、すなわち、正しいと宣言してくださっているという強い信仰の確信を、心の深みに、しっかり持ち続けて、背教しないように励ましたのです。
33節がそうです。33節前半に、「だれが神に選ばれた者たちを訴えるのでしょう」とありますが、「訴える」とありますが、これは、キリスト教信仰が、先祖伝来の宗教とは異なった宗教として危険視され、ローマの信者たちが、人々から、いろいろな口実で、この世の法廷に訴えられ、告訴される可能性を意味しています。
でも、パウロは、信者たちが、この世の法廷に訴えられても、決して、背教せず、信仰にしっかり留まり続けるように、力強く励ましたのです。すなわち、キリスト教信者は、何一つ悪事をしてはいないのです。それゆえ、キリスト教信者は、何と、すでに、天地の造られる前の永遠において、キリストによって救われるように、神の愛と恵みにより選ばれており、そして、神御自身によって、信仰義認のゆえに、義、すなわち、正しいと宣言されています。それゆえ、訴えられたり、告訴されることがあっても、決して、動揺して、背教しないように励ましたのです。
33節前半に、「神に選ばれた者たち」とありますが、これは、いわゆる、永遠からの恵みの選びのことで、すでに、キリスト教信者は、天地創造以前の永遠において、キリストによって救われるように選ばれていたことを表します。また、33節後半に、「人を義としてくださるのは神なのです」とありますが、もともとのギリシャ語の語順は、「神なのです。人を義としてくださるのは」となっていて、最初に、神という言葉が、ドーンと出て、キリスト教信者を、信仰義認によって、義、すなわち、正しいと宣言してくださっているのは、他ならぬ神御自身であることを強調しています。ですから、天地万物の創造者である偉大な神御自身が、義、すなわち、正しいと宣言しているキリスト教信者を訴え、告訴できる人など、本来、もともと、誰1人もいないという信仰の確信をもって、ローマの信者たちが、信仰の確信をもって歩み続けるように励ましたのです。
そして、このことは、21世紀の日本の信者であるわたしにも当てはまります。わたしたちも、日本の異教社会で生きていまして、いろいろなことがあります。でも、いろいろなことがあっても、自分は、何と、神により、天地の造られる前の永遠において、キリストによって救われるように、すでに、愛と恵みゆえに選ばれており、そして、さらに、神が自ら権威をもって、自分を、信仰義認のゆえに、義、すなわち、正しいと宣言してくださっているという信仰の確信を、心の最も深いところにしっかり定着させて、いろいろなことがあっても、それらを全部乗り越えて、信仰の道を歩んでいきたいと思います。
4.キリストが罪から贖い、神に執り成しをしていてくださるという確信
第4点に入ります。では、第4の信仰の確信は、何でしょう。すると、第4の信仰の確信は、キリストが罪から贖い、父なる神に執り成しをしていてくださるわたしたち信者を、罪に定めることは、本来、だれにもできないという信仰の確信を持つことです。
この第4の信仰の確信は、第3の信仰の確信と、内容的には、ほとんど同じと言えますが、第3の確信は、永遠からの選びと、信仰義認のゆえに、信者は本来、誰からも、もともと、訴えられたり、告訴されたりする筋合いはないという確信でしたが、この第4の信仰の確信は、さらに、より強い確信で、本来、だれも、キリスト教信者を、有罪として、この世の法廷に、訴え、告訴して、刑罰を要求できる人はいないという信仰の確信です。
では、どうして、本来、だれも、キリスト教信者を、有罪として、この世の法廷に、訴え、告訴して、刑罰を要求することは、できないかというと、その理由が、第3の信仰の確信の理由と違って、信者には、天の父なる神の右に親しく坐して、信者が父なる神に受け入れられるように、常に、絶えず、いつも執り成しをしてくださっている救い主のイエスさまがいるからです。
父なる神の御心にしたがって、信者の罪の贖いのため、恥と苦しみと呪いの十字架の死に至るまで従順に歩んで、信者を罪から買い戻し、贖って死んでくさった救い主のイエスさまを、父なる神は、喜び、イエスさまを死から復活させ、誉れと親しさと権威のしるしである御自分の右に坐せしめたのです。そして、そのイエスさまの執り成し、仲介、媒介を、父なる神は、すべて快く受け入れるのです。それゆえ、イエスさまによって、執り成しをされている信者を、この世の法廷に訴え、告訴して、罪ありして、刑罰を要求できる者は、本来、だれ一人いるはずがないのです。そこで、パウロは、信者が、この信仰の確信をもって、歩んでいくように励ましたのです。
34節がそうです。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう」とありますが、「罪に定める」というのは、この世の法廷に、罪ありとして、有罪として、訴え、告訴して、刑罰を要求することを意味します。
しかし、信者を、この世の法廷に、罪ありとして、有罪として、訴え、告訴して、刑罰を要求できる人は、本来、もともとは、いるはずがないのです。何故でしょう。すると、その理由は、信者には、天の父なる神の右に親しく坐して、信者が父なる神に受け入れられるように、常に、絶えず、いつも執り成しをしてくださっている救い主のイエスさまがいるからです。
35節後半に、「死んだ方」とありますが、これは、父なる神の御心にしたがって、信者の罪の贖いのため、恥と苦しみと呪いの十字架で死んでくださったキリストであるイエスさま、すなわち、救い主のイエスさまを表しています。
また、「否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが」とありますが、これは、父なる神の御心にしたがって、信者の罪の贖いのため、恥と苦しみと呪いの十字架の死に至るまで従順に歩んで死んだ救い主のイエスさまを、父なる神が、喜び、イエスさまを死から復活させたことを表します。
そして、さらに、「神の右に座っていて」とありますが、これは、父なる神が、イエスさまを死から復活させて、誉れと親しさと権威のしるしである御自分の右に坐せしめ、そのイエスさまの執り成し、仲介、媒介を、父なる神は、すべて快く受け入れるので、イエスさまによって、執り成しをされている信者を、法廷に訴え、告訴して、罪ありとして、有罪として、刑罰を要求できる者は、本来、だれ一人いるはずがないことを、力強く教えています。
特に、この文脈においては、イエスさまの死よりも、むしろ、死から復活させられて、誉れと親しさと権威のしるしである父なる神の右に坐している救い主のイエスさまが、信者が、父なる神に受け入れられるように、常に、いつも、執り成し、仲介、媒介をしていてくださることを強調しています。キリストであるイエスさま、救い主であるイエスさまが、常に、いつも、取り成してくださっているのですから、誰も、キリスト教を信仰しただけの理由で、さも悪事をなしたかのようにして、この世の法廷に訴え、告訴し、刑罰を要求できる人など、本来は、一人もいないのです。なお、「神の右に坐す」というのは、誉れと親しさと権威のしるしです。
そして、このことは、今日も同じです。死から復活させられた救い主のイエスさまは、あなたが、そして、わたしが、父なる神に受け入れられるように、絶えず、常に、いつも、執り成してくださっているのです。それゆえ、心の最も深いところに、平安をもって、日々、しっかり歩みたいと思います。
5.キリストの大きな愛から、信者を引き離すものはなにもない
では、逆境において持つべき第5の信仰の確信は、何でしょう。すると、第5の信仰の確信は、十字架で示されたキリストの大きな愛から、また、その御計画を立ててくださった父なる神の愛から、信者を引き離せるものは、この世に何一つないという信仰の確信です。
35節から39節がそうです。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょうか」と、パウロは、疑問文で問うていますが、その答は、「だれも、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができません」という力強い答えが返ってくることを前提としています。
そして、「キリストの愛」とありますが、これは、もちろん、わたしたち信者の罪の贖いのため、十字架の苦しみと死において現わされたイエスさまの絶対愛、一方的な愛、無償の愛を意味しています。この「愛」というギリシャ語は、よく言われますように、アガペーという言葉ですが、アガペーで表わされる愛は、愛される資格がないのに愛される絶対愛、一方的な愛、無償の愛を意味します。
愛される資格がまったくないのに、逆に、罪を犯して生きているゆえに、神の怒りによって、裁かれ、滅ぼされることがふさわしいのにもかかわらず、わたしたちをその罪から、御自分のきよい命を代価として払って、罪から買い戻し、あがなってくださったキリストの絶対愛、一方的な愛、無償の愛から、わたしたちを分離できるもの、セパレートできるものは、この世に、何一つないのです。
信仰ゆえに受ける困難、苦しみ、迫害、食べるものに困ることも、身にまとうものに事欠くことも、身の危険も、そして、剣で、信仰を捨てるように脅されたり、また、実際に、剣で命を奪われようとも、わたしたち信者を、キリストの絶対愛、一方的な愛、無償の愛から分離できないのです。セパレートできないのです。
キリスト教信仰が成立して30年も、まだ経っていない時代において、キリスト教信仰をもって生きていくということは、文字通り、ここに羅列されているだけでも7つの苦しみを覚悟しなければなりませんでした。それゆえ、使徒パウロも、それを隠しませんでした。
否、隠すどころか、信仰ゆえの苦しみが伴うことは、以前の旧約時代から教えられていたことであるとして、パウロは、36節で、旧約聖書の詩篇44編23節の御言葉を引用したほどです。その詩編の意味は、旧約時代の神の民と言われるイスラエルにおいても、霊的に荒廃し、荒れ廃れていて、真の信者は少なく、真の信者は、真の神への信仰のために、他の人々から、朝から晩まで一日中、死の危険にさらされていて、屠られる羊、すなわち、殺される羊にたとえられるほどの苦しみを覚悟しなければならなかったのです。
そうだとすれば、1世紀の異教の地中海世界においては、なおさら、ここに羅列されているだけでも、7つの苦しみが伴うことを、覚悟しなければ、信仰をもって生きていくことはできませんでした。そこで、パウロは、信仰には苦しみが伴うことを、隠さず、逆に、はっきり教えたのです。そして、同時に、その苦しみに打ち勝つ方法も、はっきり教えたのです。これが、キリスト教信仰が、真実で、素晴らしいところですね。
では、ここに羅列されているだけでも、7つの苦しみが伴うにもかかわらず、キリスト教信仰を持って、勝利の人生を歩むことができる方法とは、何でしょう。すると、それが、キリストの絶対愛、一方的な愛、無償の愛から、わたしたちを分離できるもの、セパレートできるものは、この世に、一切ないことを、心、魂、霊魂、精神の最も深いところで、確信して歩むことであったのです。この確信があれば、どのような逆境も乗り越えて、信仰の勝利の歌を歌って、信仰の生涯をまっとうすることができるのです。
37節を見ますと、驚くべきこと書いてあります。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」とありまして、「わたしたちを愛してくださる方」とは、救い主のイエスさまのことです。そして、「輝かしい勝利を収めています」とありますが、「輝かしい勝利を収める」というギリシャ語は、「より勝利する」という意味で、聖書において、ここにだけ、一回出てくるとても印象深い言葉で、一回聞いたら忘れることができない言葉です。
では、「より勝利する」とは、具体的に、どのような意味でしょう。すると、普通の勝利よりももっと勝利する、通常の勝ち方よりも、それ以上の勝ち方をするという意味です。そこで、新共同訳聖書は、「輝かしい勝利を収めています」と訳しましたが、以前の口語訳聖書は、名訳をしていて、「・・・勝ち得て余りがある」と訳したのです。
まさに、名訳、素晴らしい訳ですね。勝利するのですが、やっと勝つとか、どうにか勝ついのではないです。完全に勝つのです。そして、それでも、まだ、余りがある、余裕があるという勝利、大勝利であり、完全な勝利なのです。
では、「勝ち得て余りある勝利」とは、具体的に、どんな勝利でしょう。すると、この世のどんな被造物も、イエスさまの十字架による救いの道を開く御計画を立ててくださった父なる神の絶対愛、一方的愛、無償の愛から、わたしたち信者を引き離すことができない勝利なのです。
38節に、10個のものが羅列されていますが、この表現は、1世紀の信者が、神に造られた被造物全体を表す慣用句であったかもしれません。この表現で、神に造られたものすべてを表したのでしょう。
それで、10個のものの意味を見ておきましょう。まず、「死も、命も」、神の愛から引き離せないということですが、死とは、迫害ゆえの死もという意味と思われます。では、「命」も、神の愛から引き離せないとは、どういうことかと思いますが、信仰を捨てるなら、命を奪うことをしないという誘いも、神の愛から引き離せないということを意味しているのかもしれません。
「天使も、支配するものも、力あるものも」というのは、どの階級にいる天使も、神の愛から引き離せないということを意味しているのかもしれません。「天使も、支配するものも、力あるものも」という言い方で、天使の階級を表しているのかもしれません。「現在ものものも、未来のものも」というのは、時間、あるいは、時間の経過も、神の愛から引き離せないということを意味しているのかもしれません。「高いところにいるものも、低いところにいるものも、」というのは、原文では、「高さも、深さも」という言い方で、空間的なものも、神の愛から引き離せないということを意味しているのかもしれません。「他の被造物も」というのは、これら以外にもいるかもしれない被造物も、神の愛から引き離せないということを意味しているのでしょう。
1個、1個については、いろいろな理解がありますが、パウロが言おうとしていることは、単純明快で、どんな被造物も、わたしたちの救いのため、イエスさまを十字架にかけて救いの道を開く御計画を立ててくださった父なる神の絶対愛、一方的愛、無償の愛から、わたしたち信者を引き離すことができないことを言おうとしています。
本当にそうです。わたしたちの救いのために、御自身を十字架で犠牲にしてくださったことにおいて現わされたイエスさまの絶対愛と、その御計画を立ててくださった父なる神の絶対愛という二重に重なった驚くべき愛から、わたしたち信者を引き離すことができる被造物は、何一つあり得ないのです。そんな力をもった被造物はまったくないのです。そこで、パウロは、信仰のこの強い確信を持って、1世紀の逆境を乗り超えていくように、ローマの信者に勧めたのです。
今日も同じです。日本においても、信仰を妨げるいろいろな力が働いています。でも、わたしたちも、十字架において現わされたイエスさまの絶対愛と父なる神の絶対愛が重なる驚くべき愛を、心に深く確信して、信仰の勝利の歌を歌いながら、信仰の生涯をまっとうしたいと思います。
結び
以上のようにして、本日のところを見ます。わたしたちも、1世紀のローマの信徒に倣い、今週も、信仰の勝利の歌を歌って、信仰の道を、喜んで歩んで行きたいと思います。
お祈り
憐み深い天の父なる神さま、
あなたの変わらぬいつくしみと御心に支えられて、1週間を各々とところで、歩みましたが、また、今日も、新しい週の最初の日に、御前に、礼拝に導かれ、心から感謝いたします。
今、わたしたちは、使徒パウロのローマの信徒への手紙の8章を通して、信仰の勝利の歌とも言えるところを学びました。まことに、わたしたちの歩むにおいて、試練も強く働きますが、しかし、あなたの愛、また、キリストの愛かは、もっともっと強く、圧倒的に豊かに、強く働いて、わたしたちに、勝ち得て余りある確信を与えて、救いの完成を目指してくださることを、深く知り、心から感謝いたします。
どうか、聖霊なる神が、一人一人の魂の奥深くに、この素晴らしい確信を与えてくださるようにお祈りいたします。そして、わたしたちが、いつでも、どこでも、あなたとの喜びに満ちた愛のまじわりに、日々、生きていくことができるようにしてください。
また、阪神大震災に遭った教会、信徒の方々、一般の方々を、助けてください。わたしたちも、被災した方々を、いろいろな仕方で、支援できますように、聖霊の導きをお与えください。
種々の都合や事情で、出席できなかった兄弟姉妹に、それぞれのところで顧みがありますように、お祈りいたします。
今日から始まるわたしたちの新しい1週間を、どこにあっても、豊かに祝福してください。
これらの祈りを、主イエス・キリストの御名によって、御前に、お献げいたします。アーメン。
http://minoru.la.coocan.jp/ro-masinkounosyourinouta.html