* 佐々木稔 説教全集 * |
ローマ書講解説教 - 佐々木稔 | Shalom Mission |
01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ 02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ 05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利 07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放 08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み | 08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利 09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画 09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教 10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い 11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い 12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活 12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係 13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に... 15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道 16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた.. |
「旧約時代からの信仰義認」
ローマの信徒への手紙4:1-12
はじめに
お話をさせていただきます。では、本日のお話は、どこのお話でしょう。すると、ローマの信徒への手紙のお話です。ローマの信徒への手紙は、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが、紀元56年頃書いた手紙です。そして、これまで、8回、お話させていただきましたが、今日は、その続きで、第9回目のお話となります。
では、今日の個所は、何を教えているのでしょう。すると、人が救われる方法は、旧約時代から同じで、人が行いをすることによってではなく、目に見えない真の神を信じることによってのみ、神から義と認められ、恵みによって救われる方法です。すなわち、信仰義認の恵みによって救われるのです。
考えてみますと、今日のわたしたちは、人の救いは、信仰によってのみ救われるということは、当り前のように思っていますが、それは、決して、当たり前ではなく、行いによる救いを強硬に主張していた1世紀のユダヤ人に対して、パウロをはじめとする伝道者たちが、命をかけて、信仰によってのみ救われるという真理を、明らかにしてくれたからです。
それゆえ、今日のわたしたちも、信仰による救いの旗を、今の時代に高く掲げて、みんなで力強く歩んでいきたいと思います。
1.アブラハムも信仰の義によって救われた
それで、まず、わたしたちは、旧約時代の代表的人物のアブラハムも、行いではなく、信仰によって、義とされ、救われたということから見ていきたいと思います。すなわち、ユダヤ人の世界においては、何かが真実であることを証明するためには、2人または3人の証人が、旧約聖書の定めによって必要でした。そこで、パウロは、ユダヤ人なら誰でも知っているアブラハムとダビデの2人を、信仰義認の証人として取り上げました。
では、アブラハムの場合を見てみましょう。1節から5節がそうです。1節に、「肉によるわたしたちの先祖アブラハム」とありますが、この言い方には、ユダヤ人の誇りが強く感じられます。すなわち、わたしたちユダヤ民族の先祖は、あのアブラハムであるという言い方です。「肉による」というのは、血のつながったという意味で、アブラハムは、血のつながったユダヤ民族の出発点として、ユダヤ人たちが誇りとしていましたが、イエスさまよりも、約2千年前の人物でした。
そして、「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょう」とありますが、「何を得たと言うべきでしょう」というのは、原文では、「何を発見したというべきでしょう」という言い方です。すなわち、1世紀のユダヤ人は、ユダヤ民族の出発点のアブラハムも、信仰によってではなく、行いによって救われていたと強硬に主張していました。では、本当にそうかどうか、アブラハムが、救いの方法について、何を得ていたか、すなわち、アブラハムが、救いの方法について何を発見し、何を見い出していたのか、取り上げてみましょうと、パウロは言うのです。
そして、パウロは、あなたがた、ユダヤ人が強硬に主張するように、もし、アブラハムが、自分の何かのよい行いによって、義とされて救われたのであれば、アブラハムは、神の前で、救いを、自分の手柄や功績として誇ることができますが、しかし、アブラハムは、自分の行いによって救われたのではないので、誇ることができないのですと、パウロは、アブラハムの行いによる救いを、きっぱり否定しました。
1節後半に「もし、彼が行いによって義とされたのであれば」とありますが、「行いによって」というのは、モーセの十戒をはじめとする律法の行いをすべて完全に、自力で行ってという意味ではありません。というのは、モーセの十戒をはじめとする律法そのものが、まだ、アブラハムの時代になかったからです。そえゆえ、この場合の「行いによって」というのは、モーセの十戒をはじめとする律法の行いによってというのでなく、広く一般的に、アブラハムのよい行いによってという意味です。
実は、出エジプトの指導者のモーセを通して、ユダヤ人に、十戒をはじめとする律法が与えられたのは、アブラハムよりも、何と、430年も後のことです。それゆえ、アブラハムが、モーセの十戒をはじめとする律法をすべて完全に、自力で、守り、行って、救われたとは、言えないということは、1世紀のユダヤ人たちも、もちろん、知っていました。
しかし、モーセの十戒をはじめとする律法は、まだ無くとも、1世紀のユダヤ人は、アブラハムは、一般的によい行いをして、神に義とされ、救われたのであるという行いによる救いを強硬に主張し、アブラハムが信仰によって、義とされて、救われたことを認めようとしませんでした。
そこで、パウロは、それなら、聖書、すなわち、旧約聖書が、アブラハムは、どのようにして義と認められて、救われたと言っているのか、神の言葉である旧約聖書そのものを見てみましょうと言うのです。
そこで、わたしたちは、先ほど読んだ旧約聖書・創世記15章6節を見るのです。すると、「アブラムは主を信じた。主は、それを彼の義と認められた」とありまして、一目瞭然で、信仰義認による救いを教えていることが、明白にわかります。なお、「アブラム」とは、アブラハムのことです。アブラハムの最初の名前は、アブラムでした。では、ここの文脈は、どのようなものでしょう。
すると、アブラハムは、天地万物の偉大な創造者である目に見えない真の神の召しにしたがって、もともと住んでいたユーフラテス川の下流のカルデヤのウルという地から、カナンの地、すなわち、現在のパレスチナの地にやってきました。そのとき、神は、アブラハムに、「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束しました。それから、時間が経過し、アブラハムの人生にいろいろなことがあり、アブラハムも年を取りましたが、まだ、アブラハムには、子孫も、カナンの地も与えられていませんでした。
それで、あるとき、神が、幻の中で、アブラハムに語りかけたとき、アブラハムは、神に言いました。神さま、あなたは、わたしに子孫とカナンの地を与えると、以前に約束してくださいました。でも、いまだに、子孫を与えてくださっていません。そのため、年を取ったわたしは、わたしの家の僕として働いているダマスコ出身のエリエゼルという者をわたしの跡継ぎに考えていますと、言いました。
すると、神は、アブラハムの家で働いている僕のエリエゼルが、アブラハムの跡継ぎになるのでなく、年を取ったアブラハムと不妊の妻のサラの間に生まれるアブラハムの実の子が跡継ぎになると約束してくださったのです。
それで、アブラハムは、そのとき、そのように約束してくださった神を疑うことなく、信じたのです。そこで、神は、アブラハムのその信仰を御自分の前での正しさ、すなわち、義と認めて、アブラハムは、救われました。
ですから、アブラハムは、このとき、何かの行いをして、それが、彼の義と認められ、救われたのではないのです。行いは何もなかったのです。したがって、アブラハムは、自分が、義と認められて、救われたことは、恵みなので、救いを、自分の手柄や功績として誇ることができませんし、実際、誇ることをしませんでした。そこで、パウロは、ローマの信徒への手紙4章2節で、「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません」と言いました。
では、このアブラハムの出来事から、何がはっきりするのでしょう。すると、信仰義認による救いは、この世の働きや行いに対して支払われる当然の報酬と違って、何の働きや何の行いもないのに与えられる神からのまったく純粋な恵み、純粋恩寵であるという性質が、実にはっきりするのです。
すなわち、この世における働きや行いをすれば、それに対しては、当然、報酬が支払われることになります。しかし、救いの場合には、人は、救いを得るために何の働き、何の行いもしないのです。それにもかかわらず、神を信じただけで、神から義と認められ、本当に、救われるのです。それゆえ、恵み以外の何ものでもないことが、はっきりします。そこで、パウロは、「働く者に対する報酬は恵みでなく、当然支払われるべきもの」と、この世において働く者や行う者に対する当然の報酬と、救いを比較して語っています。
何故、パウロは、この世の働きと行いに対する報酬をここで持ち出したかと言えば、救いは、この世の働きや行いに対するように、当然の報酬として与えられるのではなく、神からの純粋な恵みであることを、教えるためです。すなわち、救いは、人が、何かの働きや行いをして、当然の見返りや報いや報酬として、神から与えられるものではなく、何の働き、何の行いもしないのに、神を信じたというこの1点の理由だけで、無償で与えられるもの、すなわち、純粋恩恵であり、純粋恩寵なのです。
1世紀のユダヤ人には、救いが恵みであるということは、まったく考えられなかったことです。そのような教えは、青天の霹靂であり、聞いたことがなかったのです。救いは、自分が、行いをすることに対して、与えられる当然のもの、すなわち、働きや行いに対する当然の報酬のように考えていました。
しかし、パウロは、救いは、まったく違うことをはっきりさせたのです。救いは、「不信心な者」、すなわち、生まれつき不信仰で、罪人である者を、義と認めて、受け入れてくださるお方である神を、信じる人が、何の働き、何の行いがないにもかかわらず、ただ神を信じるというまさにこの1点だけで、恵みにより、義と認められて救われることを、正しく、はっきり教えたのです。
「不信心な者を義とされる方」とは、もちろん、慈愛深い神のことですが、1世紀のユダヤ人が、これを聞いたときには、青天の霹靂であり、驚愕し、天地がひっくり返る思いがしたことでしょう。何故なら、1世紀のユダヤ人は、不信心な者が義とされて、救われるのではなく、まさに逆に、信心深い者が、善い行いをして、義とされて救われると、律法学者やファリサイ派に、さんざん教えられ、それが骨の髄まで染み込んでいたからです。
福音書に見るように、律法学者やファリサイ派は、信心深い者が、善い行いをして、神から義とされて救われると教えて、自らも、会堂や街角で施しのよい行いをしたり、会堂や大通りに立って、人々の目につくように祈るというよい行いをしたり、週に2回も断食をして、よい行いをして、信心深さをアピールして、自分たち信心深い者が、よい行いによって、救われると豪語していました。
ところが、パウロは、真逆のことを教えたのです。神は、信心深い行いをする者を義とするのでなく、「不信心な者」、すなわち、よい行いやよい働きのない生まれつきの不信仰な罪人である者を義とする慈愛深い神であることを教え、よい行いやよい働きが、ゼロであるにもかかわらず、否、ゼロどころか、マイナスの罪を犯している罪人であるにもかかわらず、神を信じるというまさにその1点だけで、本当に、義と認められて救われることを、はっきり教えたのです。
こうして、ユダヤ人の先祖のアブラハムは、信仰によって義とされ、恵みによって救われましたが、それは、後に続くユダヤ人たちも、先祖のアブラハムに倣って、神を信仰するだけで、義とされ、救われて、神との心満たされるまじわりに日々喜んで生きるための模範となるためでした。
今日のわたしたちも、救いのために何の働き、何の行いもできない者です。でも、それにもかかわらず、アブラハムの模範に倣い、わたしたちも、神を信じることにより、純粋な恩恵によって、義とされ、救われ、1回しかない真の人生を、悔いなく、歩んでいきたいと思います。
2.ダビデも、行いでなく、信仰義認によって、救われ、幸いを得ました
さて、これで、アブラアムが、信仰によって救われたことは、わかりましたが、パウロは、もう一人の旧約時代の代表的人物のダビデも、行いではなく、信仰によって救われ、人としての真の幸いを得たことを語るのです。6節から8節がそうです。
6節に、「同じようにダビデも」と、ダビデのことが出てきますが、ダビデとは、どのような人物でしょう。すると、イエスさまよりも、約千年前のイスラエルの王さまでした。では、そのダビデは、どのようにして、救われ、人としての真の幸せを得たのでしょう。すると、1世紀のユダヤ人が主張していたように、よい行いすることによって、救われ、真の幸いを得たのではないのです。
それを言うなら、まったく逆です。ダビデは、よい行いどころか、姦淫と殺人の大罪を二つも犯しました。それらについては、旧約聖書のサムエル記下11章、12章に記されていますが、今は、わたしの言葉で、簡潔にお話をします。あるとき、ダビデは、自分の部下ウリヤの妻バト・シェバと姦淫の罪を犯しました。でも、その姦淫が露見しないように、部下ウリヤを敵との戦いの最前線に出して戦死させるように、現場の司令官に命じました、そこで、現場の司令官は、ダビデに命じられた通り、ウリヤを戦いの最前線に出し、ウリヤを戦死させました。これは、殺人の罪です。
こうして、ダビデは、よい行いどころか、大きな罪を犯しました。しかし、ダビデは、よい行いをしなかったにもかかわらず、信仰ゆえに、神から義と認められ、罪赦され、救われ、恵みにより、真の幸いを得た人について、自分の経験から、神をほめたたえることができたのです。
ローマの信徒への手紙の4章7節と8節は、言葉は少し違っていますが、旧約聖書のよく知られた詩篇32編1節、2節の引用です。そして、この意味は、難しいことを言おうとしているのではありませんで、信仰ゆえに、「不法」、すなわち、神の律法への背きが、恵みによって赦されて、犯した罪が見えないように、神の憐れみによって覆い隠された人は、本当に幸せである。また、信仰ゆえに、罪が、神からの恵みにより赦されて、罪があると神に見なされなくなった人は、本当に幸せであるという意味です。信仰によって、恵みにより、罪が赦されたことの真の幸いが、ダビデ自身の苦悩の経験を通して、わたしたち読者の心に伝わるように記されています。
実は、もともとのギリシャ語の言い方も、さらに、旧約聖書のヘブル語の詩編の言い方も、「幸いである」という言葉が、文章の一番先に出て来て、意識的に目立つようされています。直訳すれば、「幸いである、不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである 主から罪があると見なされない人は」という語順で、「幸いである」が先に出てきて、ダビデが、行いではなく、信仰によって、神から罪赦され、救われた人の真の幸い、すなわち、真の幸せを、感謝と喜びに溢れて心から歌っているのです。
実は、姦淫と殺人を犯したダビデは、それらの罪をすぐには反省せず、神に告白もせず、赦しを求めることもしませんで、罪を隠蔽し続けました。その間中、ダビデの心は、激しく苦しみ、苦悶しました。そのときの激しい苦しみを、ダビデは、よく知られた旧約聖書の詩篇32編3節、4節で、「わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました」と歌いました。
すなわち、ダビデは、骨がボロボロになり、朽ち果てるほどの苦しみと苦悶の中に置かれたのです。また、神の裁きの御手が、ダビデの上に、昼も夜も絶えず重くのしかかり、ダビデの命の力そのものが、夏の強い日照りにあったように、弱くなり、枯れ果て、命が尽きる寸前にまで陥り、苦悶したのです。ダビデは、身も心も、ズタズタの状態でした。
また、よく知られた詩篇51編においても、ダビデは、そのときの苦しみを歌っています。詩篇51編12節と13節で、「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください」と歌っています。この部分は、罪を心の底から反省し、告白し、悔い改めて、罪を赦された後で、赦しを求めなかったときの苦悶を思い起こして、歌ったものです。
すなわち、そのとき、ダビデの心は、すぐに、罪を神に告白して赦しを求める清い心ではなく、反省もしないし、告白もしないまったく頑なな邪悪な心でした。また、そのときの、ダビデの魂は、確かさを失い、神の裁きに恐れ、おののいて、不安極まりない魂でした。また、反省もしないし、告白もしないその間中、ダビデは、神の前から自分が退けられ、神とのまじわりが断切されている苦しみを強く感じていました。また、自分の心から、神の霊、すなわち、聖霊が取り去られている苦しみを感じていました。また、それゆえ、聖霊の賜物である救いの喜びや罪からの自由を心に感じることが、全くできませんでした。ダビデの心は、まさに暗黒そのもの、真っ暗闇でした。
しかし、その後、神は、預言者ナタンをダビデに遣わし、ダビデの罪を指摘させたとき、ダビデは、へりくだり、自分の犯した罪を、神にすべて告白し、心から赦しを求めました。これらすべては、神への信仰から出たことでした。
そこで、神は、ダビデを、まさに信仰のゆえに、罪を赦し、ダビデを義と認め、ダビデをまじわりに受け入れ、ダビデに救いの喜びを、再び与えたのです。そこで、ダビデは、自分は、よい行いをしなかったのに、逆に、大きな罪を二つも犯したにもかかわらず、神を心から信仰したゆえに、真の幸いを得たといて、感謝し、神を、心からほめたたえたのです。このときのダビデは、まさに人の真の幸いは、神を信じて、罪赦され、救われることにあることを、身にしみて強く感じたことでしょう。
ですから、ローマの信徒への手紙4章6節で大切なことは、「同じようにダビデも、行いによらずに」と言われていることです。では、「行いよらずに」、何によって、義と認められ、救われたのかと言えば、もちろん、「信仰によって」です。「信仰によって」という言葉は、6節には、入っていませんが、入っていなくても、読者が、十分わかることが前提されています。
こうして、ダビデも、信仰によって義と認められて罪赦され、救われて、人の真の幸せを得ることができたのです。そこで、パウロは、アブラハムとダビデというユダヤ人が誰でも知っている2人を、信仰による救いの恵みを映し出す鏡としたのです。これで、人は、信仰によって救われるという大真理が1世紀のユダヤ人に最後的に明らかにされたのです。
今日も同じです。わたしたちも、生まれつきの不信仰な罪人で、自力で救いを獲得するよい行いやよい働きは、まったくできません。できないどころか、日々、罪を犯して生きています。でも、慈愛深い真の神への信仰によって、人の真の幸いを得て、人生を日々喜んで歩めることは、何にも代えられない純粋な恵みであり、心から感謝できます。
3.割礼のない異邦人も、信仰によって義と認められる
さて、以上のようにして、アブラハムもダビデも、行いによってではなく、信仰によって救われたことがわかりました。しかし、1世紀のユダヤ人は、救いは、行いによると共に、神の民のしるである割礼を受けることによって救われると主張していました。そして、先祖のアブラハムも割礼を受けて救われたと強硬に主張していました。
そこで、パウロは、アブラハムが、割礼を受けたのは、信仰によって、救われた後のことであったという事実を示して、割礼を受けることによって、救われたのではないことを明らかにし、それゆえ、異邦人も、割礼を受けることなく、信仰によって、救われることを明らかにしたのです。
こうして、アブラハムは、割礼を受けなくとも、信仰によって救われる異邦人の父となり、また、同時に、割礼を受ける前に、すでに、信仰によって救われたアブラハムは、割礼を受けているユダヤ人であっても、信仰によって救われているユダヤ人たちの父ともなったのです。9節から12節がそうです。
9節に「この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか」とありますが、これは、1世紀のユダヤ人が強く主張していたことです。1世紀のユダヤ人は、アブラハムは、行いによって義と認められて救われた、また、割礼を受けたから義と認められて、救われた強硬に主張していました。
でも、パウロは、先ほどお話しましたように、アブラハムは、行いによって義とされたのではなく、信仰によって義とされて救われたことを、旧約聖書の創世記を挙げて示しましたので、今度は、アブラハムは、割礼を受けて義と認められて救われたのではないことを示すのです。
9節の「この幸い」というのは、神から義と認められて、救われることの幸いを指しています。また、割礼というのは、ヘブル語では、もともと、「切り取る」とか「切り捨てる」という意味で、男の子が生まれて8日目に、生殖器の前の皮を切り取る儀式で、これは、神の民のしるしとして、神がアブラハムとその子孫であるユダヤ人に行うように命じたものです。
そこで、アブラハムが、神から命じられて、一族郎党と共に、割礼を受けたことは、旧約聖書の創世記17章9節から11節で、次のように言われています。お聞きくだされば、結構です。「神はまた、アブラハムに言われた。『だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。 あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる』」とあります。
そこで、アブラハムは、神に命じられたように、一族郎党と共に、割礼を受けましたが、アブラハムが一族郎党と共に割礼を受けたことは、創世記17章で語られています。
では、アブラハムの信仰が、義と認められて救われたのは、いつかと言えば、もうすでに創世紀15章で記されていました。それゆえ、アブラハムの信仰が、義と認められて救われたのは、創世紀15章で、割礼を受けたのは、それよりも後の創世記17章です。
したがって、創世紀は、時間の順序でアブラハムの出来事を記していますので、割礼は、アブラハムが、神を信じて義と認められて、救われていたことのしるしとして、また、証しとして、救われた後で、追加された事柄だったことが、明白です。そこで、パウロは、ローマの信徒への手紙の4章11節で、「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印(しるし)を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました」と、明言しました。ここでの、キーワードは、「割礼を受ける前信仰によって義とされた」という事実です。
こうして、信仰によって義と認められて救われたアブラハムは、アブラハムと同様に、信仰によって義と認められて救われたすべての異邦人の信仰の父、すなわち、霊的先祖となりました。また、同時に、当時、割礼を受けていたユダヤ人の中でも、アブラハムが割礼を受ける前に、すでに持っていた信仰を、模範、お手本として、信仰によって義とされて救われていたユダヤ人の信仰の父、すなわち、霊的先祖ともなったのです。
11節に「こうして、彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました」とありますが、「割礼のないままに信じるすべての人」というのは、直接的には、1世紀に、教会が宣べ伝える救いのよき知らせである福音を聞いて、神が遣わしてくださった救い主のイエスさまを信じただけで、本当に救われ、喜んで真の人生を送っていた異邦人たちを意味します。
また、12節に、「単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼を受ける以前に持っていた信仰の模範に従う人々」とありますが、この言い方で、1世紀当時、割礼を受けていたユダヤ人の中で、アブラハムが割礼を受ける前に、すでに持っていた信仰を、お手本、模範として、信仰によって義と認められ、救われていたユダヤ人を意味します。
それで、今日の個所を見ますと、「義と認められる」という言い方が、数えてみますと、6回も出てきて、一番目立つようにされていますが、「義」とは、神の前での義しさのことで、「認める」という言葉は、もともと、「数える」とか「数に入れる」とか「勘定に入れる」という意味です。
ですから、わたしたちが、救いのよき知らせである福音を聞いて、神から遣わされた救い主のイエスさまを信仰すると、神は、わたしたちを、義人として数えてくれるのですし、わたしたちを義人の数の中に入れてくださるのですし、わたしたちの名前を義人という勘定書に書き込んでくださるのです。
これは、本当に、純粋恩寵なのです。どんな小さな罪も、決して見逃がすことなく裁くところの全能の神によって、わたしたちは、最早、決して、裁かれることなく、義人として、しっかり数えられ、義人の数の中に忘れられないで、入れられ、義人という勘定書にはっきり、あなたの名前とわたしの名前が書き込まれているのです。これを知ったら、わたしたちの心は喜びで満ちあふれ、顔は希望で輝き、慈愛深い天の父なる神を心からほめたえることができるでしょう。これを、人の真の幸いと言わずして、何を真の幸いと言うのでしょう。心から感謝できます。
結び
お祈り
恵み深い天の父なる神さま、
わたしたちは、10月の歩みをしていますが、今日も、御前に、礼拝に導かれ、感謝いたします。
今、聖書を通して、人の救いは、行いによるのではなくて、信仰によること、それゆえに、まったく、純粋に恵みであることを改めて教えられ、心から感謝いたします。わたしたちは、生まれながらの不信仰な罪人であり、救いを、自力で獲得するようなよい行いなど、まったくできず、逆に、罪ばかりを犯す者ですが、でも、救いのよき知らせである福音を聞いて、キリストを信じたゆえに、すべての罪とがを赦して、救ってくださり、あなたの心満たされるまじわりをしながら、真の人生を歩める幸いを、本当に感謝いたします。これからも、信仰から信仰へ、恵みから恵へと歩めるように、聖霊の導きを、いつも豊かにお与えください。
、種々の都合や事情で、出席できなかった兄弟姉妹に、それぞれのところで顧みがありますように、お祈りいたします。 今日から始まるわたしたちの新しい1週間を、どこにあっても、祝福してください。
これらの祈りを、主イエス・キリストの御名によって、御前に、お献げいたします。アーメン。
http://minoru.la.coocan.jp/ro-makyuuyakuzidaikaranosinkouginin.html