* 佐々木稔 説教全集 * |
ローマ書講解説教 - 佐々木稔 | Shalom Mission |
01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ 02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ 05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利 07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放 08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み | 08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利 09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画 09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教 10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い 11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い 12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活 12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係 13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に... 15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道 16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた.. |
人は、どのようにして、救われるか
ローマ1:8-17
1:8 まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。1:9 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、1:10 何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。1:11 あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。1:12 あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。1:13 兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。1:14 わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。1:15 それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。 はじめに 今日は、どこの個所をお話しするかと言いますと、ローマの信徒への手紙の1章の後半です。先月末、ローマの信徒への手紙の1章の前半のお話をさせていただきましたが、その続きということになります。 では、さっそく、第1点に入りましょう。第1点は、パウロが、ローマの教会をぜひとも訪ねたいと強く願っていた理由は、イスパニア伝道の支援の他にも、理由があったという点です。確かに、パウロが、ローマ教会をぜひとも訪ねたいと、とても強く願っていた理由は、先ほども触れましたように、現在のスペインにあたる当時のイスパニア伝道のための支援ですが、しかし、それだけがすべての理由ではありませんで、実は、他にも、3つの明白な理由があったのです。 では、それらの3つの明白な理由とは何でしょう。すると、第1の理由は、ローマの教会の信者たちと、パウロが直接、顔と顔を合わせて、パウロの豊かな賜物で、ローマの信者たちの信仰を、さらに、しっかり確立し、揺るぎないものにするためでした。 8節から11節がそうです。ここを見ますと、この手紙の宛てられたローマ教会の人々のよき信仰は、1世紀の地中海世界各地の諸教会に、評判となって知られていたことがわかります。そこで、パウロも神に感謝しましたが、さらに、パウロは、彼らと直接、顔と顔を合わせて、自分に与えられている聖霊の豊かな賜物である説教と教えによって、彼らの信仰を、さらに、より一層強いものにし、揺るぎないものするため、ローマの教会をぜひとも訪ねたかったのです。
8節に、「あなたがた一同について、わたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです」とありますが、これは、ローマ帝国の中心地のローマの都にあった教会の信者たちが、とてもよい信仰を持っていて、広く知られていたことを表しています。「わたしの神に」という言い方は、パウロと神の近さを表しますが、「全世界」というのは、もちろん、1世紀の地中海世界のことです。 そして、少し、飛んで、11節を見ますと、「あなたがたにぜひ会いたいのは」とありますが、「会いたい」の「会う」という言葉は、原語は「見る」という言葉です。したがって、直接、相手の顔を見ながら、福音の素晴らしい真理を力強く説教し、生活の状況にあてはめて指導することを表しています。相手の顔を見ながら、「わかりましたか」と親しく教えるのです。
考えてみますと、パウロは、聖霊の賜物、特に、福音の素晴らしい真理を、その深さ、豊かさにおいて、縦横無尽に自由に語って、大事なキリスト教信仰をしっかり根付かせることができた人ですが、パウロは、その賜物を、ローマの教会の信者たちのためにも、惜しみなく使うことを心から望んだのです。真理の柱なる教会を、キリスト教信仰が始まった1世紀の困難な時代に、しっかり立てたいというパウロの強い願いが、読者のわたしたちの心にも伝わってきます。わたしたちも、与えられている聖霊の賜物を、お互いに用い合い、21世紀のこの日本に、真理の柱なる教会を、みんなで、しっかり立てていきたいと思います。 (2)では、パウロが、ローマの教会をどうしても訪ねたかった第2の理由は、何かと言いますと、それは、ローマの教会の信者たちと、顔と顔を合わせて、主にある親しいまじわりによって、お互いに、信仰を励まし合うためでした。 確かに、今、見ましたように、パウロは、自分は、ローマの教会の信者たちの信仰を揺るぎないものに確立するため、ローマの教会を訪れたいと言ったのです。しかし、だからと言って、パウロは、自分自身は、ローマの教会の信者たちから、信仰的な益を何も受けないと、高ぶって言っているのではなく、自分も、主に親しいあるまじわりを通して、ローマの信者たちから信仰的に励まされ、霊的勇気を与えられることを望んでいたのです。
12節に「あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」と、パウロは、自分から言っています。パウロは、どんな人だったでしょう。すると、とても信仰が強く、逞しく、不屈の人でした。しかも、福音の真理については、このローマの信徒への手紙を書いて、福音の真理を系統立てて教えることができるほどの、ずばぬけた賜物の持ち主でした。福音の素晴らしい真理について、何でも、深く豊かに知っていたでしょう。
ところが、それにもかかわらず、その同じパウロが、12節で、「あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」と表明していて、自分自身も、信仰的に励まされたいし、勇気を与えられたいと言うのですから、驚くのです。 12節に「励まし合いたいのです」とありますが、 「励ます」という言葉は、「励ます」と共に、「勇気づける」とか「勇気を与える」とも十分訳せる言葉です。すなわち、信仰をもって生きていくことに、勇気が与えられることを意味します。ですから、パウロは、ローマの教会の信者たちと、主にある親しいまじわりを通し、ローマの教会の信者たちが、キリスト教が始まったばかりの1世紀の困難な時代に、いろいろなことがあっても、信仰をもって一生懸命歩んでいる姿を見、知ることによって、パウロ自身も、さらに、霊的に勇気づけられ、励まされることを望んでいたことを意味しています。
(3)では、パウロが、ローマの教会をどうしても訪ねたかった第3の理由は、何かと言いますと、パウロは、自分に委ねられた異邦人伝道の使命を積極的に果たすためです。すなわち、パウロは、特に、旧約歴史のない異邦人へ、イエスさまによる救いのよき知らせである福音を伝える使命を果たす義務を負っていたからです。ローマの教会は、ユダヤ人もいたかもしれませんが、基本的には、異邦人の教会で、異邦人の信仰者や求道者がたくさんいたと思われます。
13節から15節までがそうです。そして、特に、わたしたちは、14節の「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります」というところへ注目したいと思います。このパウロの発言は、自分に委ねられている異邦人伝道の使命を積極的に果たしたい、そのため、異邦人の教会であるローマの教会へ行って、福音の素晴らしい真理を、どんどん語りたいというパウロの積極的な気持が、わたしたちに伝わってきます。 そして、実は、「果たすべき責任があります」という言い方は、原文では、「負債を負っている」、あるいは、「債務を負っている」という言い方になっています。では、「負債」あるいは「債務」とは何でしょう。すると、それは、「負債」ですから、「債務」ですから、必ず、返すべきもの、必ず返却すべきものです。
今日でも同じです。会社でも、人でも、負債を負っている、あるいは、債務を負っていれば、必ず返していく、必ず返却していくのです
そこで、これをパウロにあてはめますと、「わたしには、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、返すべき負債がある、返すべき債務がある」ということになります。では、その意味は何かと言えば、パウロは、イエスさまによる素晴らしい救いを知らない異邦人に対して、自分は、負債を負っているので、その負債を異邦人に、どんどん返していきたい。そのためには、異邦人の教会であるローマの教会をもぜひとも訪れて、負っている負債、債務を、進んで返したいと述べているのです。
それで、ある聖書注解者は、「これは喜びの負債」、「喜びの債務である」と言いました。すなわち、この負債、あるいは、この債務は、この世の強制的にいやいや、しぶしぶ返す負債や債務と違って、喜びをもって返していく霊的負債、霊的債務なので、「これは喜びの負債」、「喜びの債務である」と言いましたが、本当にそうです。
その負債、債務は、この世の負債や債務と違って、それを伝えることによって、異邦人が、悔い改めて、イエスさまを信仰し、罪の赦しと永遠の命からなる素晴らしい救いを得て、万物の創造者なる真の神との心満たされる真の人生に立ち上がっていくですから、パウロにとっては、喜びの負債、喜びの債務であったのです。
そして、このことは、今日(こんにち)も同じです。先に、恵みにより救われたわたしたちも、喜びの負債、喜びの債務を負っています。それゆえ、わたしたちも、日本の人々が、悔い改め、イエスさまを信仰し、罪の赦しと永遠の命からなる素晴らしい救いを得て、神との心満たされる真の人生に立ち上がる喜びの負債、喜びの債務として、福音を伝える働きを、していきたいと思います。 2.人が救われる方法は、福音信仰による 第2点に入ります。第2点は、人が救われる方法は、律法主義ではなく、救いのよき知らせらである福音を聞いて、イエスさまを信じ、信頼するという、ただ信仰によって救われる方法であるという点です。16節と17節がそうです。別に言い方をすれば、信仰義認が教えられていて、ローマの信徒への手紙の中心的な教えとなって、この後、展開していきます。 それで、ここに、「福音」という言葉が、3回出てきますが、「福音」とは、前回にもお話しましたが、イエスさまによる救いのよき知らせのことです。もっと具体的に言えば、十字架で死んでくださったイエスさまを自分の救い主と信じる者は、恵みによって、罪赦され、救われて、永遠の命を与えられ、真の人生に喜んで生きていけるというよき知らせのことですが、パウロは、そのイエスさまによる救いのよき知らせである福音を少しも恥ずかしく思わないと、力を込めてとても強く断言しています。
16節に、「わたしは、福音を恥としない」とありますが、原文の順序は、「しない、何故なら、わたしは恥と、福音を」という順序で、「しない」という否定の言葉が、文章の頭に来て、わざわざ目立つようにされています。では、何故、パウロは、このような言い方をしたのでしょう。
今日(こんにち)でしたら、キリスト教信仰の歴史は、約2千年もありますし、世界の人口の3分の1は、プロテスタントにしろ、カトリックにしろ、クリスチャンですので、イエス・キリストが十字架について死ぬことにより、救いの途を開いたことは、よく知られています。クリスチャンでない人々でも、キリスト教信仰が、そのように言うことは、知っています。 しかし、パウロがこの手紙を書いているキリスト教が始まったばかりの1世紀の50年代は、全然違います。十字架に架けられて死ぬということは、最悪の恥ずべき事でした。十字架にかけられることは、死刑にされることで、極悪人だけに課せられる極刑でした。十字架刑は、人類が考え出した最も残酷で屈辱的な死刑の方法と言われ、それゆえ、ローマの市民権を持っている人は、免除されたほどです。
したがって、1世紀当時、自分の身内、友人、知人に十字架に架けられた人がいるなどということは、恥ずかしくて、口に出せないことでした。恥ずかしくて、恥ずかしくて、口が裂けても言えないような不名誉なことだったのです。
まして、十字架に架けられて死んだ者が救い主であるなどということは、当時の常識ではあり得ないことでした。実際、ユダヤ人は、旧約聖書で、木にかけられる者は、神に呪われると教えられていましたので、十字架という木にかけられたイエスさまが、救い主であるなどということは、絶対にあるはずがないと言って、つまづきとなり、今だに、信じていません。 また、理性にかなう知恵を求めるギリシア人は、十字架刑という極刑に架けられて死んだ人が、人類のただひとりの救い主などということは、理性に反する愚かなことと見なして、拒否しました。愚かなこととは、わかりやすく言えば、馬鹿げたことという意味です。
こうして、十字架に架けられて死んだイエスさまが、正真正銘のただひとりの救い主であることは、ユダヤ人にはつまづき、ギリシア人には愚かなことと見られ、1世紀においては、軽蔑と嘲りの対象でした。
しかし、パウロは違います。イエスさまが、十字架刑という極刑に架けられて死んだことは、わたしたち人間の罪に対する神の刑罰を、身代りに受けて、神から打たれ、呪われ、捨てられることによって、イエスさまを救い主と信仰する人々に、神との関係における正しさが、恵みとして与えられ、わたしたちを罪から救うという、神がお立てになった方法であることを、パウロは確信していたからです。 それゆえ、パウロは、イエスさまが十字架刑で死ぬことによって、信じる者が救われるよき知らせである福音を、決して、恥ずかしくは思わなかったのです。では、どうして、パウロは、決して、福音を恥とは思わないと力強く断言できたのでしょう。すると、イエスさまが十字架に架けられて死ぬことにより、救いの途を開いたことを知らせる福音は、旧約歴史を持つユダヤ人であろうが、旧約歴史を持たないギリシア人をはじめとする異邦人であろうが、イエスさまを自分の救い主と信仰し、信頼する者には、誰に対してでも、罪からの救いを得させる神の強い霊的力があるからです。 では、さらに、一歩踏み込んで、どうして、十字架で死んでくださったイエスさまによる救いのよき知らせである福音には、罪からの救いを得させる神の強い霊的力があるのでしょう。すると、理由があります。十字架で死んでくださったイエスさまによる救いのよき知らせである福音には、義、すなわち、神との関係における正しさが明らかに示されていて、さらに、信じる者には、神との関係におけるその正しさが、恵みとして与えられ、罪が赦されて、救われるからです。
17節前半に、「福音には、神の義が啓示されていますが」とありますが、「啓示されています」とは、示されていますという意味ですが、「義」とは、神との関係における正しさのことです。そして、「神の」というのは、神から与えられるという意味です。ですから、「神の義」とは、神から与えられる、神との関係における正しさのことです。
考えてみますと、わたしたちは、生まれながらの罪人で、義、すなわち、神との関係における正しさを持っていません。持っていないどころではありません。わたしたちは、人間の生き方の基準である神の律法を守らず、律法に背く罪を日々犯し、わたしたちの罪は山のように積もっています。それゆえ、厳粛なことですが、わたしたち人間には、神の正当な裁きによる滅びが待っています。でも、しかし、それでは、わたしたち人間が困るのです。1回しかない大切な人生が、神の正当な裁きによる滅びで終わるのでは、困るのです。何とかして、義、すなわち、神との関係における正しさを持つ者となって、罪が赦されて救われ、神との平和な関係の中で、1回しかない大切な地上の人生を、喜びと感謝と希望をもって日々歩まねばなりません。 そこで、憐れみに富む神は、コリントの信徒への手紙二5章21節で、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」と、明白に言われていますように、神は、罪のないイエスさまに、わたしたち人間の罪をすべて背負わせて、十字架上で、わたしたちの代わりに、イエスさまを遠慮容赦なく、徹底的に罰したのです。こうして、神との関係のおける正しさが示されることとなり、さらに、示されるだけでなく、イエスさまを自分の救い主と信仰する者には、神との正しさが、恵みとして与えられることになったのです。 そこで、わたしたちは、信仰の必要性を見ましょう。17節の後半がそうです。「それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」とあるのが、そうです。この文章は、信仰の必要性を、二重に強調しています。
「・・・初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」というのは、信仰の必要性を強調する、当時のほとんど決まった表現と考えられます。「初めから終わりまで」ということで、初めも信仰、終わりも信仰ということで、もちろん、途中も信仰という含みで、罪人であるわたしたち人間の救いは、初めから終わりまで、もちろん途中もすべて信仰によるということで、信仰の必要性が十分伝わる言い方です。
人の救いは、守り切ることのできない神の律法を全部完全に守り切って救われるかのように教える律法主義ではなくて、よき知らせである福音において、啓示され、明らかに示されているように、十字架に架かって死んでくださったイエスさまを、自分の救い主として、信仰することによってのみ、罪赦され、救われることが、強調されています。
ですから、「・・・初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」という言い方で、もう十分、救いの方法は、律法主義でなく、信仰によるということがわかるのですが、でも、パウロは、それだけでは、まだ足りないかのように、さらに、信仰の必要性を強調するために、旧約聖書のハバクク書から引用しました。 「『正しい者は信仰によって生きる』とありますが、以前の口語訳聖書では、「・・・義人は信仰によって生きる」という言い方でした。以前の口語訳聖書の言い方のほうがピンと来るという方々もおられるでしょう。でも、意味は同じで、この御言葉は、旧約聖書のハバクク書の2章4節の引用です。イエスさまよりも、約600年ほど前ですが、預言者ハバクク時代のイスラエルの民の霊的状態は、ひどいものでした。高ぶって、神に逆らう人々がたくさんいて、神から祝福を受けることができませんでした。そこで、神は、御自分との関係が正しい者と見なされて、すなわち、義人と見なされて、罪赦され、救われて、祝福を受ける者は、信仰によって生きる者であると、ハバククに語り、信仰の必要性を教えたのです。 こうして、パウロは、信仰をとても強く強調しましたが、では、信仰とは、初心に戻って、そもそも何でしょう。すると、信仰とは知識と信頼のことです。知識とは、何も難しい教理を意味しているのではなくて、十字架で死んでくださったイエスさまがただひとりの救い主であるという知識を持つことであり、信頼とは、そのイエスさまを自分の救い主と信頼して、自分の大切な人生をイエスさまに委ねることを意味します。 わたしは、ある人から、こんな証しを聞いたことがあります。その人は、あるとき、説教で、牧師が、信仰とは、知識と信頼で成り立つというお話をしたのを聞いたというのです。知識というのは、人は、誰を信じるのかを知ることである。すなわち、十字架にかかったイエスさまであるという知識がなければ、信仰は成り立たないというのです。
では、信仰は、救い主はイエスさまであるという知識を持てば、もう、それで、信仰が成り立つかというと成りたない。同時に、信頼、人格的信頼が必要である。すなわち、イエスさまを自分の救い主として心から信頼し、自分の人生をイエスさまに委ねることが必要であると、その牧師は説教したそうです。 それを聞いたときに、その人は、初めて、信仰がわかったというのです。自分は、確かに、イエスさまが救い主であるという知識を持っていた。でも、そのイエスさまを自分の救い主として人格的に信頼して、自分の人生を委ねることを一度も考えたことがなかった。だから、信仰がわからなかった。でも、今わかったと、大喜びをして、イエスさまを自分の救い主として心から信頼し、自分の人生を委ねることを、喜んで決意したのです。そして、その人は、救われ、罪の赦しから来る平安を持って歩む人となりました。その人は、罪の赦しからくる平安を持って、日々、喜んで、真の人生を歩むようになりました。後に、その人は、牧師となり、十字架のイエスさまを信じるだけで、恵みによって救われるよい知らである福音を、力強く説教して、多くの人々を救いに導いています。神のなさることは、何と素晴らしいことでしょう。 結び 以上のようにして、本日の個所を見ます。今日のわたしたちも、よき知らせである福音を聞いて、当時、極悪人にしか課せられなかった十字架刑で、わたしたちの罪を身代わり背負って、父なる神から徹底的に打たれて死んで、罪の贖いをしてくださったイエスさまだけが、ただ一人の救い主であるという確かな知識を持つと共に、復活し、今も生きておられるイエスさまを心から信頼し、自分の1回しかない大切な人生を、イエスさまに委ね、平安のある真の人生を、今週も、喜んで歩んでいきたいと思います。 慈愛に富んでおられる天の父なる神さま、 http://shmission.com/xe/index.php?mid=sh_jp_board_9&document_srl=98782 |