* 佐々木稔 説教全集 *   

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   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6;5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


「自由な選びによる神の救いの御計画」

ローマの信徒への手紙9章1節―18節

 

じめに

 

 わたしたちは、主の日の朝の礼拝においては、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが、紀元56年頃、ローマの信徒たちに書いたローマの信徒への手紙を学んでいますが、今日も、わたしたちは、キリストにある素晴らしい救いを順序立てて教えているローマの信徒への手紙を共に、学びたいと思います。

 

 それで、今日のところは、何が教えられているのでしょう。すると、今日のところは、旧約歴史を担ったユダ人の救いの問題が、語られています。すなわち、ユダヤ人は、信仰の父と言われるアブラハムの子孫で、救いが約束されていたはずなのに、実際には、ユダヤ人の大多数が、イエスさまによる救いを拒否し、代わって、旧約歴史のない異邦人が、イエスさまによる救いを、次々と、喜んで受け、救いは異邦人に広がっていきました。

 

 そこで、使徒パウロは、これは、一体、どのようなことなのかを解き明かすのです。そして、この流れで、パウロは、救いは、アブラハムの子孫のユダヤ人すべてに、自動的に、当然のこととして、当たり前として、与えられるのではなく、神の自由な選びの計画によって、恵みとして与えられるという大真理を語るのです。

 

 それで、今日の個所から、3点、お話をいたします。第1点は、多くのユダヤ人が、イエスさまによる救いを拒否したことは、パウロにとって、深い悲しみであったという点です。第2点は、多くのユダヤ人が、救われなかったということは、神がユダヤ人と結んだ救いの契約の無効を意味しないという点です。第3点は、神の自由な選びによる救いは、決して、不公平や不義ではないという点です。

 

そこで、わたしたちも、これらのことを、誤解しないで、正しく知り、わたしたちをも、自由な恵みの選びによって、救ってくださった慈愛深い天の神を、心から賛美したいと思います。

 

1.       多くのユダヤ人のキリスト拒否は、パウロの深い悲しみでした

 

早速、第1点に入ります。第1点は、1世紀の多くのユダヤ人が、イエス・キリストによる救いを拒否したことは、パウロにとって、とても深い悲しみであったという点です。1世紀のユダヤ人は、旧約時代から、約束されていた救い主のイエス・キリストが、出現したときに、どうしたでしょう。すると、福音書に記されておりますように、少数のユダヤ人は、イエスさまを信じて救われたのですが、大多数のユダヤ人は、イエスさまを拒否して、十字架にかけて殺してしまいました。

 しかし、十字架にかかって死んだイエスさまは、復活し、昇天して、天の父なる神の右に坐し、ペンテコステにおいて、聖霊を地上に豊かに注いで、教会が、救い主のイエスさまを、宣べ伝えるようにしてくださいました。

 

 では、そのとき、ユダヤ人は、どうしたでしょう。すると、少数のユダヤ人は、教会の宣教によって、イエス・キリストを受け入れて、救われましたが、多くのユダヤ人は、福音を拒否しました。否、拒否しただけでなく、誕生したばかりのエルサレム教会を圧迫し、激しく迫害し、指導者の一人のステパノを殉教の死に至らしめたほどの凄まじさでした。

 

 さらに、その後、今度は、使徒パウロが出てきて、地中海世界各地を3回も旅行して宣教したとき、地中海世界各地の多くのユダヤ人は、キリストを受け入れず、パウロの語る福音を拒否し、さらには、パウロの宣教を妨害し、パウロを捕えて、何度も殺そうと、激しく迫害する有様でした。

 

 そのように、1世紀のユダヤ人の多くは、キリストによる救いを拒否しました。ところが、それに引き換え、旧約歴史を持たない異邦人たちは、次々と救われました。そこで、これは一体、どのようなことなのかと疑問が出てきますが、実は、そこに、人間の思いをはるかに超える、神の御心があったのです。そこで、パウロは、救いには、神の自由な主権的な選びによる救いの御計画があることを、順序立てて解き明かしていくのです。

 

 1節から3節を見ますと、パウロは、まず、同胞の1世紀のユダヤ人の多くが、福音を拒んでいることを、深い悲しみ、大きな痛みとして表明しています。3節に、「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」とありまして、「キリストから離され」、および、「神から見捨てられた者」と言われておりますが、これは、どちらもとても強い驚くべき言い方です。

 

 実は、直前の個所の8章35節で、パウロは、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」と言って、キリストの十字架において現わされた神の絶対愛から、わたしたち信者を引き離すことは、不可能だと大宣言をしました。ところが、この9章3節では、そのキリストから離されてもよいと言うことによって、パウロが同胞のユダヤ人の救いを、実に、真剣に願っていることが、とても強く、わたしたちの心に伝わってきます。

 

 また、使徒パウロは、「肉による同胞のためならば・・・神から見捨てられた者となってもよい・・・」言っていますが、「神から見捨てられた者」とは、もともとのいい方は、「神に呪われた者」という意味です。ですから、神から呪われ、裁かれて、一切の祝福を失って、滅ぼされる者となっても、自分はかまわないと、パウロは言っているのです。

 

 こうして、パウロにとっては、いろいろな特権を与えられ、旧約歴史を担ってきた1世紀の多くのユダ人が、キリストによる救いを拒んでいるということは、深い悲しみであり、心の大きな痛みでした。

 

 では、ユダヤ人は、どんな特権をもっていたでしょうか。すると、パウロは、特権を、何と、ここでは、9つも挙げています。4節、5節に、ユダヤ人が受けた特権が、9つも、挙げられています。

 

 1言づつで見ていきましょう。「彼らはイスラエルの民です」というのは、ユダヤ人が、イスラエル、すなわち、神と闘って勝つというよい意味を持つ名前を民族の名前として、神御自身から与えられた誉れある民族であることを意味しています。「神の子としての身分」とは、イスラエル民族だけに、神の子としての身分が与えられて、他の民族と区別され、祝福を受けることを意味しています。「栄光」とは、栄光に満ちた神が、最初は、イスラエルの幕屋に、後には、エルサレム神殿に、臨在してくださることを意味しています。

 

「契約」とは、原語では、複数形になっていて、「いろいろな契約」のことです。代表的な契約は、アブラハム契約で、神は、「わたしは、あなたとあなたの子孫との神となる」という契約を、アブラハムに対して、何回もしました。また、預言者エレミヤに対して、神は、「わたしは、彼らの神となり彼らはわたしの民となる」との契約、すなわち、神がイスラエルの民の神となり、イスラエルの民は、神の民となるという契約を結んでくださいました。

 

また、ローマの信徒への手紙に戻りますが、9章4節で、律法」とありますが、「律法」とは、世界のすべて人の生き方の規範であるモーセの十戒をはじめとする、「あなたは、何々、しなければならない」いう命令のかたちと、「あなたは、何々、してはならない」という禁止のかたちで表わされた神の御心を意味しています。「礼拝」とは、万物の偉大な創造主なる目に見えない真の神を礼拝する特権を与えられてきたことを意味します。

 

「約束」とは、これも、原語では、複数形になっていて、「いろいろな約束」のことで、救い主メシアの出現に関する数々の約束を意味しています。たとえば、ダビデの子孫から救い主メシアが出現するという約束、クリスマスで語られるように、救い主メシアは、ベツレヘムに生まれること、救い主は処女(おとめ)から男の子として生まれるということ、また、イザヤ諸53章のように、救い主は、受難を通して救いの道を開いてくださるという約束などがそうです。

 

「先祖たちも彼らのものです」とありますが、これは、アブラハム、イサク、ヤコブをはじめとして、信仰のすぐれた先祖たちがいたことを意味します。「肉によればキリストも彼らから出られたのです」とありますが、これは、ユダヤ人に与えられた特権のクライマックスになります。「肉によれば」というのは、人としては、キリストは、ユダヤ人として出現しましたという意味で、ユダヤ人の特権のクライマックスと言えるものです。

 

何故、クライマックスと言えるかというと、確かに、救い主キリストは、人としては、1世紀のユダヤ人として出現したのです。しかし、キリストは、単なるユダヤ人の一人ではなく、本来、万物の上におられて、万物を支配し、とこしえにほめたたえられ偉大な神御自身であられるからです。でも、罪人である人間の救いのために、無限のへりくだりをして、人としては、1世紀のユダヤ人の一人として出現してくださったのです。

 

 万物の上におられて、万物を支配し、とこしえにほめたたえられ偉大な神御自身であられるキリストが、罪人である人間の救いのために、人として、ユダヤ人として出現してくださったことは、本来であれば、同じユダヤ人として、最大の誇り、最高の誉れとなるべきものでした。

 

 こうして、1世紀のユダヤ人は、9つも、特権を与えられていたにもかかわらず、多くのユダヤ人が、キリストを救い主として受け入れることを、拒否したことは、パウロにとって、深い悲しみであり、心の大きな痛みであったのです。

 

2.ユダヤ人の不信仰は、神の契約を無効としない

 

第2点に入ります。第2点は、多くのユダヤ人が、キリストを拒否して、救われなかったということは、神がユダヤ人と結んだ救いの契約の無効を意味しないという点です。すなわち、ユダ人に与えられた9つの特権に入っていたように、「契約」によって、神は、「わたしは、あなたとあなたの子孫、すなわち、イスラエルの民の神となる」という契約を、アブラハムに対して、何回もしました。また、預言者エレミヤに対して、神は、「わたしは、彼らの神となり彼らはわたしの民となる」、すなわち、神がイスラエルの民の神となり、イスラエルの民は、神の民となるという契約を与えていました。

 

ところが、その契約通りにはなっていないように見えるのです。すなわち、神は、イスラエルの民の神となると契約で語っていたのに、イスラエルの民においては、救われるのは少数で、異邦人が救われる者の大多数でした。

 

すると、神の契約の言葉は、守られず、効力を失ったのではないか、無効になったのではないかということになり、神と神の契約の言葉の真実性が疑われてしまうことになります。もし、そうなら、これは、重大問題です。そして、実際、そのように思ったり、言ったりする人々が、当時いたと考えられます。

 

そこで、パウロは、この疑問に答えるのです。では、どのように答えたのでしょう。すると、救われるユダヤ人が少数で、大多数のユダ人は、キリストによる救いを拒んでいても、神の契約の言葉は、何ら力を失わず、効力も失わず、無効にならず、逆に、少数であっても、アブラハムの子孫であるイスラエルの民、ユダヤ人が救われていることにおいて、契約は、真実に実現成就していることを、パウロは、堂々と、ためらいなく、力強く語るのです。

というのは、神がイスラエルの神となるという契約は、それは、アブラハムのすべての子孫をひとり残らず、全員を網羅的に、自動的に救うという意味で与えられていたわけではなく、また、神がイスラエルの神となるという場合のイスラエルは、アブラハムの血を引いた肉の子孫を意味するのではなく、アブラハムの霊的な子孫を意味していたことを、パウロは語るのです。

 

そこで、パウロは、その真理を、イスラエルの歴史に即して、アブラハムの二人の子どものイサクとエサウの場合を引き合いに出して語ります。6節から13節がそうです。6節に、「ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけでありません」とありますが、「神の言葉」とは、アブラハムやエレミヤに対して、神が、わたしは、イスラエルの神となり、イスラエルの民を救うと約束した契約の言葉のことです。ですから「神の言葉」を「契約」に置き換えて、「神の契約は決して効力を失ったわけではありません」と読んだら分かり易いでしょう。

 

「また、アブラハムの子孫だからといって、皆がアブラハムの子孫ということにはならない」というのは、神は、確かに、わたしは、アブラハムの子孫のイスラエルの民の神となり、アブラハムの子孫のイスラエルの民を救うと約束し、契約を結んでくださいました。しかし、その場合のアブラハムの子孫のイスラエルの民というのは、アブラハムの血を引く肉の子孫の全員を、すべて、一人残らず、自動的に救うという意味ではなかったのです。

 

何故なら、その場合のアブラハムの子孫というのは、肉のイスラエル全員すべてではなく、アブラハムの二人の息子のイサクとエサウの内のイサクから生まれる霊的子孫を意味していたからです。6節から13節を見ますと、名前が、4人出てきます。アブラハム、イサク、ヤコブ、エサウの4人です。そして、これら4人を含む一連の出来事は、旧約聖書の創世紀16章、17章、18章に詳しく記されていますが、今は、必要なことだけを、わたしの言葉で、短くお話をしておきたいと思います。

 

イスラエルの先祖のアブラハムは、救いを受け継ぐ息子が与えられることを、神からの契約によって、約束されていました。しかし、約束の息子は、すぐには与えられませんでした。そこで、不妊の妻サラの勧めによって、アブラハムは、86歳のとき、エジプト人の仕え女のハガルとの間に息子をもうけました。その子どもがイシュマエルでした。

 

そして、当時は、家父長制の社会でしたので、最初に生まれた長子、すなわち、日本流に言えば、長男が、神による尊い救いを受け継ぐのが習しでした。そこで、アブラハムは、長子のイシュマエルが救いを受け継ぐ者と思っていました。

 

しかし、神は、イシュマエルが、救いを受け継ぎことを御心としませんでした。そこで、神は、あるとき、御使いの姿で、アブラハムに現れ、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、さらには男の子が生まれる」と約束しました。そして、その通りに、翌年、神から約束された息子が生れ、イサクと名づけられました。そして、このイサクが、救いを受け継いだのですし、さらに、救いは、このイサクから生まれた者が受け継いでいくことになるのが、神の御計画でした。

 

ですから、神の尊い救いを受け継ぐ仕方は、当時の人間の常識とはまったく異なっていたのです。当時の家父長制時代の常識であれば、当然、当たり前に、自動的に、長子のイシュマエルが受け継ぎ、そして、さらに、そのイシュマエルから生まれる者が、次々と受け継ぐはずなのです。

 

ところが、神の御計画は、まったく常識と異なっていたのです。イシュマエルは、アブラハムの血を引く肉による子供でしたが、彼が救いを受け継ぐことは、神の御計画ではなく、神が来年の今頃、生まれるという約束にしたがって生まれた約束の子供のイサクが、アブラハムの霊的子孫として選ばれ、救いを受け継ぎ、さらに、イサクから生まれる者が、アブラハムの霊的子孫として、救いを、次々と受け継いでいくのが、神の御計画であったのです。

 

この歴史からわかることは、何でしょう。それは、救いは、アブラハムから出てくる子孫の全員すべてに、当然、当たり前に、自動的に、機械的に与えられるものではなく、神の自由な主権的な選びの御計画によって、恵みとして与えられるものであることが、この事実で、はっきりし、明白になったのです。

 

そして、救いは、アブラハムから出てくる子孫全員すべてに、当然、当たり前に、自動的に、機械的に与えられるものではなく、神の自由な主権的な選びの御計画によって、あくまでも、恵み、恩寵として与えられるものであることは、もうひとつの出来事によっても、さらに、はっきり、明白にされました。

 

それは、今度は、ヤコブとエサウの出来事です。10節から13節がそうです。ヤコブとエサウの出来事は、旧約聖書の創世記25章に詳しく記されていますが、今は、必要なことだけを、わたしの言葉でお話しします。

 

あるとき、イサクの妻リベカは、子供をも身ごもります。そして、双子であることが、生まれる前に、わかりました。もちろん、そのときは、双子が、母親のリベカのお腹にいたときですから、まだ生まれもせず、善いことも、悪いことも、何もしていません。しかし、そのときに、神は、母リベカに、「兄は弟に仕えるであろう」と語りました。そして、双子が生まれました。兄、すなわち、長子がエサウ、弟がヤコブでした。そして、当時の家父長制時代の常識であれば、当然、当たり前に、自動的に、機械的に、兄のエサウが、長子の特権として、尊い救いを、受け継ぐはずでした。

 

しかし、人間の常識とまったく違って、神の自由な主権的な選びの御計画は、兄のエサウが救いを受け継ぐのではなく、弟のヤコブが、恵みとして、恩寵として受け継ぐことでした。それで、エサウとヤコブが成長したあるとき、兄のエサウは、狩りから帰って来たとき、余りにも空腹であったので、一杯の豆の煮物と引き換えに、救いを受け継ぐ長子の特権を、弟のヤコブに譲ってしまったのです。これで、何にも代えられない尊い救いは、何と、弟のヤコブが受け継ぐことになってしまったのですし、実際、弟のヤコブが尊い救いを受け継いだのです。

 

では、この出来事から、何がわかるでしょう。すると、神が、アブラハムの子孫に救いを与えるという契約は、アブラハムの血を引く子孫であれば、誰にでも、全員すべてに、当然、当たり前に、自動的に、機械的に与えられものではなく、神の自由な主権的な選びの御計画によって、恵みとして、恩寵として与えられるものであることが、さらに、はっきりしたのです。ですから、救いは、その人の行いや価値や人柄や功績やいさおしによって与えられるものではないことが明らかとなったのです。

 

そこで、パウロは、11節と12節後半で、「それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした」と語ったのです。救いは、その人の行いによって与えられるものではないのです。もし、行いによって与えられるというのであれば、誰にも与えられないのです。何故なら、わたしたちは生まれつきの全的堕落の罪人であり、毎日、罪を行って生きているので、神に裁かれ、滅ぼされるのが、当然であり、当り前なのです。それにもかかわらず、救われるのは、ただ、神の側の自由な主権的な選びの御計画によって、恵みとして救われるのです。わたしたち人間の側に救いを引き出す根拠や原因や功績やいさおしはまったくないのです。

 

救いの理由は、神の側にあるのです。すなわち、ヤコブとエサウの場合なら、神が、ヤコブを救いに召してくださったからであり、神が、御自分の自由な選びによる御計画によって、ヤコブをより愛し、エサウを、より少ししか愛さなかったからなのです。13節の括弧に入っている御言葉は、旧約聖書のマラキ書1章2節の引用で、神は御自分の自由な主権的な選びによる御計画によって、ヤコブをより愛して救いを与え、エサウを、より少ししか愛さなかったので、エサウには、地上的な恵みは与えましたが、霊的な救いの恵みは、与えなかったことを意味しています。

 

「エサウを憎んだ」という言い方に、わたしたちは、つまずいてはなりません。この言い方は、神がエサウを積極的に憎んだという意味ではなく、エサウを、ヤコブに比べ、より少なくしか愛さなかったので、地上的な祝福の恵みはエサウにも与えましたが、霊的な救いの恵みは、エサウには与えなかったことを言おうとしていることがわかればよいのです。

 

こうして、救いは、神の自由な主権的選びの御計画によって、恵みとして与えられるものであることが非常にはっきりしました。今日でもそうです。わたしたちが救われたのも、わたしたちの側には、救いを引き出すものが何もありません。ただただ、神の側の自由な選びの御計画によって、恵みとして、恩寵として、救われたことを覚えて、心から感謝したいと思います。

 

3.神の自由な選びによる救いは、決して、不公平ではない

 

第3点に入ります。第3点は、神の自由な選びによる救いは、決して、不公平や不正や不義ではないという点です。すなわち、救いは、神の自由な選びの御計画による恵みであるとして、イサクやヤコブには救いが与えられ、イシュマエルやエサウには、救いが与えられなかったことは、それは、不公平、不正、不義ではないかという疑問が生じます。1世紀に、そのように言う人がいたと思われます。

 

そこで、パウロは、その疑問に答えるのです。そして、答えは、少しも不公平でないし、少しも不正や不義でないことを、堂々と語るのです。何故かと言いますと、救いは、人間が神に要求できる正当な権利ではないからです。神には、罪人である人間に救いを与えねばならないという義務はまったくありません。神は、主権的なお方で、絶対的に自由で、人間にまったくとらわれないのです。

 

しかし、ところが、神は、まったく自由な主権的な御意志によって、罪人である全人類の中から、憐れみよって、ある者の心を柔らかにして、救いが受けられるようにし、また、ある者の心を頑なにするので、救いを受けることができないのです。

 

そこで、パウロは、再び、旧約聖書の実例を引き合いに出すのです。すなわち、神の主権的意志によって、憐みを受けて、モーセの例と、神の主権的意志によって、心を頑なにされたエジプト王のファラオの例を用いるのです。

 

15節の括弧に入った御言葉は、旧約聖書の出エジプト記33章19節の引用です。そして、では、その御言葉は、どのような状況で語られたのでしょう。すると、出エジプトの指導者のモーセは、あるとき、神がイスラエルと共にいてくださるしるしとして、神の栄光を見ること願って祈るのです。すると、神は、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と語って、モーセが願ったように、御自分の栄光の一部を、モーセに見せてくださったので、モーセは、神がイスラエルと共に、確かにいてくだることを心の深みにおいて、もう一度、確信して、出エジプトの大事業に励むことができたのです。

 

そのように、モーセは、他の人には、誰にも決して与えられないところの神の栄光の一部を見るという大きな恵みが与えられましたが、それは、モーセの意志から出た正当な当然の権利として与えられたのではないし、また、出エジプトにおけるモーセの熱心な努力から出た正当な権利として与えられたものでもありませんで、まったく自由で、何ものにも決してとらわれない神の主権的な御意志の憐れみによって与えられたものでした。

神によって造られたちっぽけな被造物にすぎない人間、まして、エデンの園で、神から、善悪の木からは取って食べるなと禁止されていたにもかかわらず、自らの責任において、食べ、罪人に転落した人間が、神に対して、正当な権利の要求など、何一つできません。ですから、モーセと言えども、神の臨在のしるしとしての神の栄光の一部を見ることが、許されたことは、まったく自由で、何ものにもとらわれない神の主権的憐れみによって与えられた実に豊かな恵みであったのです。

 

では、逆に、神が主権的意志によって、その心を頑なにし、神に逆らい、その逆らいを打ち砕くことにおいて、御自分の力と御名の偉大さを現わす器として用いられたエジプト王ファラオの例を見てみましょう。

 

17節に、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによって、わたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」とありますが、この御言葉は、旧約聖書の出エジプト記9章16節の引用です。

 

そして、そのこの御言葉は、どのような状況で語られたかと言いますと、モーセに導かれたイスラエルが、出エジプトしようとしたときに、エジプト王ファラオは、激しく反対しました。そこで、神は、御自分の力と御名の偉大さが天下に現されるために、エジプト王ファラオの心を益々頑なにすると共に、ファラオのその反対をことごとく打ち砕く10個の奇跡を次々と行ったのでした。

 

こうして、エジプト王ファラオが、出エジプトに対して、心頑なにして、反対したにもかかわらず、出エジプトが行われることによって、神の力と御名の偉大さが、世界の歴史において明白にされたのです。したがって、神は、主権的意志によって、エジプト王ファラオの心を頑なにして、御自分の力と御名の偉大さを世界の歴史に現わす器として用いたのです。なお、「ファラオ」というのは、個人名ではなく、エジプトの王のことを言う決まった言い方です。

 

こうして、霊的祝福や救いは、人間の正当な権利ではなく、神が主権的な憐れみによって与えるものなので、モーセのように与えられる場合もあり、エジプト王ファラオのように与えられない場合もあるのです。それは、あくまでも、神が自由に、主権的になさることなのです。

 

そして、このことは、今日も同じです。救いは、わたしたち人間が神に対して、「神よ、わたしを救え」とか「神よ、あなたはわたしを救うべきである」などと正当に要求できる権利では、ないのです。もし、正当と言うならば、生まれながらの罪人で、毎日、成すべき善を成さず、成してはならない罪を、思いと言葉と行いで犯しながら生きているゆえに、神に裁かれ、滅ぼされるのが、わたしたちに正当で、当然なのです。

 

しかし、何ものにもとらわれることがない、まったく自由な神が、憐れみをもって、わたしたちを、神の御子、イエス・キリストの尊い十字架の死によって、救われるように、選んでくださっていたので、今、わたしたちは、キリストを信じて救われ、一切の罪とがを赦され、心、魂、霊魂、精神が、最も深いところから真に平安であり、聖霊の水を、日々十分豊かに注がれ、霊的にたっぷり潤され、そして、永遠の生命までも与えられ、神のかたちを回復しながら喜んで歩んでいますが、これらすべては、神の憐れみによるのです。それで、14節から18節までのところで、特に注目すべきことは、「憐れみ」という言い方が、5回も出てきて、目立つようにされています。

 

こうして、救いは、神の自由な選びによる神の御計画によるのですが、その神の自由な選びによる御計画が立てられたのは、神の憐れみによるのです。ですから、罪人であるわたしとあなたが救われた究極の理由は、わたしとあなたを、神が憐れんでくださったというこの一点にあるのです。それ以外の理由はありません。神の一方的な憐みのゆえに、わたしも、あなたも、キリストを信じて救われ、喜びの中で、今、真の人生を、日々歩んでいるのです。心から感謝できます。

 

結び

 

 以上のようにして、今日の個所を見ます。わたしたちは、測り知れない神の憐れみによって、救われていることを喜び、今週も、慈愛深い天の父なる神を賛美しながら、力強く歩みたいと思います。

 

お祈り


憐み深い天の父なる神さま、 
1間の歩みを、各々のところで守られまして、また、新しい週の最初に、6月第2主日の礼拝を導かれ、心から感謝いたします。 わたしたちは、今、ローマの信徒への手紙の9章を通して、わたしたちの救いが、正当で、当然の当り前の権利ではなく、むしろ、自らの罪ゆえに裁かれるのが当然にもかかわらず。ただただ、あなたの主権的な憐れみゆえに、キリストを信じて、救われていることを教えられ、心から感謝いたします。  
 これからも、あなたの憐れみと恵みに感謝して、よい僕たちとして、あなたに喜び仕えていくことができますように、聖霊によって、お導きください。
 
 わたしたちの教会は、今月第4主日には、教会設立30周年を記念することを計画したいますが、どうか、よき導きを与え、教会が、さらに、人々の救いのために、活動して、前進し、発展していきますように、助けてください。
 
 今日、種々の都合や事情で、出席できなかった兄弟姉妹に、それぞれのところで顧みがありますように、お祈りいたします。
 これらの祈りを、主イエス・キリストの御名によって、御前に、お献げいたします。アーメン。


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