* 佐々木稔 説教全集 * |
ローマ書講解説教 - 佐々木稔 | Shalom Mission |
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「信仰義認の豊かな実」
ローマの信徒への手紙5:1-11
はじめに
本日も、ローマの信徒への手紙のお話です。では、これから、ローマの信徒への手紙のどこの個所をお話しするかと言いますと、5章前半です。ローマの信徒への手紙は、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが、紀元56年頃、ギリシアのコリントから、ローマの信徒たちに書いた手紙と言われます。そして、これまでに、ローマの信徒への手紙を、8回、お話をさせていただきましたが、今日は、9回目のお話です。
では、今日の個所は何を教えているのでしょう。すると、信仰義認の結果としての豊かな実が、数え方にもよりますが、3つ教えられています。では、信仰によって義と認められると、その結果、信仰義認は、どのような豊かな実を結ぶのでしょう。
すると、ここでは、3点挙げられています。第1の実は、以前は、罪ゆえに、神に裁かれる関係でしたが、信仰義認によって、神との平和関係が確立し、最早、神に裁かれることがなくなります。第2の実は、神との実に親しいまじわりの中に置かれ、霊的に満たされ、潤されるという恵みを受けることです。第3の実は、世の終わりに、再臨のキリストと同じ栄光の体に変えられ、そのとき出現する栄光の神の国に入れられるという絶対確実な希望をもって、喜んで生きられることです。そこで、今日は、この個所から、信仰義認がもたらす3つの豊かな実についてお話しします。
1.第1の実は、神との平和関係の確立
では、早速、信仰義認がもたらす第1の実である、神との平和を得る祝福に入りましょう。すなわち、以前は、罪ゆえに、神に裁かれる立場にありましたが、信仰義認によって、神との平和を得て、最早、裁かれることがなくなることです。これで、神に裁かれることのない真の人生の基礎がしっかり確立するのです。
1節がそうです。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との関に平和を得ており」がそうです。「信仰によって義とされたのだから」と言われていますが、これは、わたしたちが、すでに学んできた信仰義認と言われるとても重要な教えで、ローマの信徒への手紙の中心的な教えです。
そして、その意味は、旧約時代においては神を、新約時代においては、救い主のイエスさまを信仰する人は、その信仰が、神の前での正しさと認められ、義人と数えられて、一切の罪が恵みによって赦されることを意味します。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから」とありますが、「義とされる」というのは、「義と認める」あるいは、「義と数える」と言う意味で、旧約時代においては神を、新約時代においては、神が遣わしてくださった救い主のイエスさまを信仰する人は、その信仰が、神の前で正しさと認められ、神によって、義人と数えられて、一切の罪が恵みによって赦され、最早、神に裁かれることがなくなることを意味します。
それで、ここで、大事なのは、「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」の「主イエス・キリストによって」の「よって」です。「よって」というのは、「通して」という意味で、媒介、仲介、仲立ちを表します。すなわち、十字架につけられた主イエス・キリストを通してのみ、主イエス・キリストを媒介としてのみ、仲介としてのみ、仲立ちとしてのみ、異邦人も、ユダヤ人も、神に裁かれることがない神との平和を得ることができるのです。
すなわち、神に裁かれる立場から、最早、神に裁かれることのない平和を得ることができるのは、十字架につけられた主イエス・キリストを通してのみであり、また、十字架につけられたその主イエス・キリストを信仰することによってのみなのです。他に、神に裁かれる立場を変えることができる道は、まったくないのです。1世紀のユダヤ人が、強く言い張っていた旧約時代を有していても、人の生き方の基準である律法を持っていても、割礼を身に帯びていても、神に裁かれる人間の立場を変えることは、決してできないのです。
でも、この信仰義認の道があるので、わたしたち人間は、恵みにより救われるのです。旧約歴史のない異邦人も、罪を犯して生きているゆえに、神に裁かれます。また、旧約歴史があり、律法があり、割礼があると豪語していた1世紀のユダヤ人でさえも、罪を犯しながら生きていたゆえに、神の裁きを逃れることは、決してできず、神に裁かれるのです。こうして、全人類が神に裁かれるのです。
でも、神は、旧約時代に、御自分を信じたアブラハムを、また、御自分を信じたダビデを、その信仰ゆえに義と認めて、義人と数えてくださったので、アブラハムも、ダビデも、恵みにより、救われ、神との平和を得て、真のよい人生を歩むことができたのです。そして、新約時代に入ってからは、神から遣わされた主イエス・キリストを信ずる人が、神に裁かれる立場を変えられ、神との平和を得て、真の人生がしっかり確立するのです。ですから、今日のわたしたちも、信仰義認によって、神に裁かれることのない真の人生を確立しましょう。
2.第2実:の生ける真の神とのまじわりの中で日々霊的に満たされる
さて、では、パウロが、ここで、挙げている信仰義認の結果が結ぶ豊かな実の第2は何でしょう。すると、それは、生ける真の神との実に親しいまじわりの中に、日々置かれて、心が、最も深いとこからから、霊的に満たされ、潤される祝福です。2節の前半がそうです。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ」がそうです。
わたしたちは、ここで、「導き入れられ」という言葉に注目することが大事です。実は、この「導き入れられ」という言葉は、旧約時代において、祭司が、生ける神との親しいまじわりに導き入れられることを表す言葉が、意識的に使われています。すなわち、旧約時代のイスラエルにおいては、祭司だけが、神の臨在が約束された聖所に入って、神と親しく交流して、心が霊的に豊かに潤されたのですが、その恵みが、今や、十字架のイエスさまを信仰して、神から義と認められた人には、誰にでも分け隔てなく与えられ、その人は、新約時代の祭司として、神と実に親しくかつ豊かに交流し、心が真の霊的満ち足りを得ることができるのです。
また、2節に、「今の恵みに」とありますが、「今の恵み」というのは、今、生ける神の臨在に親しく導き入れられて、心ゆくまで、たっぷり、神と交流して、霊的に満ち足り、潤うことができるという神との豊かなまじわりの恵みを表しています。
十字架のイエスさまを信仰して義と認められる人は、新約時代の祭司として、今の時代の祭司として、生ける神の臨在の中に、実に親しく導き入れられ、心、魂、霊魂、精神が、日々、豊かに、十分、たっぷり、霊的に満たされ、潤され、真のよい人生を歩んでいけるのです。ありがたいことで、心から感謝できます。
3.第3の実:世の終わりに、栄光の神の国で、イエスさまと共に、永遠に生きていく
さて、では、パウロが挙げている信仰義認の豊かな実の第3は何でしょう。すると、それは、世の終わりに、再臨のイエスさまと同じ栄光の体に変えられ、そのとき完成する栄光の神の国で、イエスさまと共に、永遠に生きていくという身に余る栄光の希望を、真の喜びとして、人生が真に生かされるという世の終わりにまで届くスケールの実に大きな祝福です。
すなわち、信仰義認の豊かな実は、現在だけに限られるのではなく、将来に向かって、人の人生を真に生かす確実な希望というスケールの大きな祝福も与えるのです。そして、パウロは、今日の個所では、人の人生を真に生かす将来の絶対確実な希望という祝福に、最も大きな光を当てて語るのです。
そこで、わたしたちは、2節後半を見てみましょう。「神の栄光にあずかれる希望を誇りにしています」がそうです。考えてみますと、人というのは、不思議なもので、将来の希望があれば、今の苦しみにも耐えて歩むことができます。2節後半に、「神の栄光にあずかる希望」とあります。
これは、具体的に、どのような希望でしょう。すると、この希望は、世の終わり、終末が来て、キリストが天使の大軍を率いて、王の王、主の主として、栄光のうちに再臨されるとき、わたしたち信者たちも、罪からの贖いが完成し、再臨のキリストと同じ栄光の体に変えられ、そのとき出現する栄光の神の国で、キリストと共に、永遠に生きていくという身に余る測り知れない栄光と誉れが与えられることを表しています。
そして、この希望は、絶対確実なので、信者が誇りにできるものであり、大いに喜ぶことができるものです。2節の「誇る」ということは、素晴らしいものだぞと主張することですが、この「誇る」という言葉は、「喜ぶ」、さらに、「大いに喜ぶ」とも訳せる言葉が使われています。以前の口語聖書では、「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」となっており、新改訳聖書では、「神の栄光を望んで、大に喜んでいます」と訳されていて、「喜ぶ」また、「大いに喜ぶ」とも十分訳せる言葉です。
ですから、只単に、素晴らしいものだぞと主張するのでないのです。世の終わりに、終末に、天使の大軍を率いて、王の王、主の主として、栄光の内に再臨するキリストと同じ栄光の体に変えられ、そのとき完成する栄光の神の国に入れられて、キリストと共に、永遠に生きていくという人間の言葉で言い表すことができない無限の栄光と誉れを受けるという素晴らしい希望があることを意味しています。それゆえ、この絶対確実な希望こそ、人が キリストにあって真に誇れるものであり、大いに喜べる希望なのです。
4.世の終わりの栄光にあずかれることの確実な希望の第1の理由
以上のようにして、パウロは、信仰義認の豊かな実を3つ挙げましたが、ここで、疑問が出るかもしれません。パウロは、信者は、将来、世の終わりに栄光と誉れにあずかることができる絶対確実な希望があると言うが、1世紀の信者の現実を見れば、希望があるどころか、逆に、どこにおいても、信者は、信仰ゆえに苦難、すなわち、苦しみや迫害に遭っているではないか。それにもかかわらず、どうして、絶対確実な希望があると言えるのかという疑問が出るかもしれません。
そこで、パウロは、信者には、将来、世の終わりに栄光と誉れにあずかることができる絶対確実な希望があると言える理由が、あることを語ります。では、どのような理由でしょう。
すると、まず、信仰ゆえの苦難、すなわち、信仰ゆえの苦しみは、信者に忍耐を学ばせ、そして、忍耐することによって、信者は、信仰が鍛え上げられて、連達し、折り紙つきの強くてたくましい信仰の持ち主に変えられ、ますます、世の終わりの栄光を、希望として生きられるようになるという信仰の連鎖があるからです。
イエスさまの弟子たちもそうでした。弟子たちは、イエスさまが天にお帰りになった後で、自分たちが、イスラエルの最高議会に捕えられて、尋問され、鞭打たれて、苦しみを受けたとき、使徒言行録5章41節で、「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」と言われていますが、これは、イエスさまへの信仰ゆえに受ける苦しみを喜びとして、信仰が鍛え上げられたこと、練達していたことを表しています。
こうして、イエスさまを信仰するゆえに受ける苦しみは、信者に忍耐を学ばせ、そして、忍耐することによって、今度は、信仰が鍛え上げられ、練達して、試験済みの、保証付きの、折り紙つきの強くてたくましい信仰へと変えられて、ますます、世の終わりに、神の栄光にあずかる希望が強くされるという信仰の連鎖をもたらすのです。
ローマの信徒への手紙の5章3節、4節、5節前半がそうです。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」とあります。
ここに「練達」という言葉が出てきますが、「練達」という言葉は、もともと、大変興味深い言葉で、もともとの意味は、「試験済み」とか「テストによって品質が保証されている」とか「折り紙付き」いう意味です。当時、パウロがこの手紙を書いた当時、貴重品と考えられていた金や銀などに熱を加えて、るつぼに溶かして、何度も試験をし、テストをし、その都度、不純物を取り除いて、より純粋で、より価値のある金や銀にされて、折り紙が付けられ、保証されるときに用いられた言葉です。
ですから、これを信仰に当てはめると、「練達」というのは、信仰ゆえに避けることのできない困難は、信者の金や銀のように大事な信仰が、何回も試験され、テストされ、その都度、信仰から不純物が取り除かれて、より純粋で、たくましい、折り紙つきの、保証付の信仰に鍛え上げられていくことを意味します。そして、鍛え上げられた折り紙つきの、保証付の信仰の持ち主は、将来、世の終わりの神の栄光にあずかることをますます確信して歩みますので、この希望はますます強くなるという信仰の連鎖を生むのです。
このことは、今日も同じです。信仰ゆえに受ける困難は、わたしたちの金や銀のように大事な信仰を壊し、破壊するのではなく、逆に、鍛え上げて、練達させ、たくましい折り紙つきの信仰、保証付きの信仰に変えて、世の終わりの神の栄光にあずかる確信を強くするのです。それゆえ、信仰ゆえに受ける困難があっても、この希望は、絶対確実で、わたしたち信者を欺いたり、騙したりはしないのです。
5.聖霊により、神の絶対愛が、今も、注がれ続けている
では、信者は、将来、世の終わりに栄光と誉れにあずかることができるという希望は絶対確実と言える次の理由は、どのような理由でしょう。すると、キリストの十字架の死で示された驚くべき神の絶対愛が、わたしたちの心に、聖霊により、今、十分たっぷり注がれ続けているので、世の終わりに、神の栄光を受けることは、間違いがないのです。
キリストのあの十字架の死は、一体、どのような意味で、驚くべき神の愛を表しているのでしょう。すると、キリストの十字架の死は、霊的に無力で何ら霊的善を行えず、神ならぬものを神として拝み、律法に背いて的外れの人生を送っていた惨めな罪人のために、なされたものであり、それは、受ける資格や値打ちがまったくない者を、愛するところの絶対愛と言われるもので、人間の世界においては見ることができない驚くべき愛でした。
5節後半から8節がそうです。ここも、よく知られた素晴らしい御言葉です。では、これらの御言葉は、何を言おうとしているのでしょう。すると、人間世界には、決して見ることができない、また、人間世界の愛とは比べものにならない、驚くべき神の絶対愛が、実に、力強く、パウロの口から語られているのです。
6節前半に、「わたしたちが弱かったころ」とありますが、この「弱い」というのは、これで、霊的無能力を表しています。すなわち、神の御心に適う霊的善がまったくできない悲惨さ、すなわち、霊的無能力を表していますが、わたしたち罪人のことです。
そして、6節後半に、「定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」とありますが、「不信心な者」とは、神ならぬものを神として拝む者という意味ですが、1世紀の異邦人は皆そうであったのですが、今日のわたしたち、日本人も皆そうです。
そして、さらに、8節には、「しかし、わたしたちが罪人であったとき」とありますが、「罪人」とは、もともと、「的を外した者」という意味で、人生の基準である神の律法に背いて、的外れの人生を送っているみじめな罪人のことで、わたしたち人間を表しています。
以上のようにして、わたしたち人間は、霊的無能力で何ら霊的善を行うことができず、また、神ならぬものと神として拝み、神が与えてくださった人生の基準である律法に背き、的外れの人生を送っている罪人で、どこから考えても、神に裁かれこそすれ、神に愛される資格と値打ちがまったくないのです。ゼロです。否、日々罪を犯しているゆえにゼロ以下のマイナスの罪深い人間です。
ところが、それにもかかわらず、神は、わたしたちを愛して、罪から救うため、御自身の独り子イエス・キリストを、十字架で、わたしたちの罪を償う供え物としてくださったのですから、その愛は、愛される資格や値打のない者を愛するという驚くべき愛であり、絶対愛であり、ギリシア語でアガペーの愛と言われるものなのです。そして、この愛は、人間世界においては決して見ることができない愛であり、また、人間世界における愛とは比べるものがない愛なのです。
では、人間世界における愛とは、どんなものでしょう。すると、あの人の言動は正しいからとか、あの人は正しいことをしているから、あの人に代わって、わたしが身代りに死んであげるという人は、ほとんどないでしょう。しかし、あの人は、わたしが困っているときに、親身になって本当に助けてくれた善い人で、恩人であると言える人のためには、ある場合に、その人のために、自分の命を惜しまず投げ出す人も、少しはいるかもしれません。
しかし、キリストの十字架の死において現わされた神の愛は、違います。霊的無能力で何ら霊的善を何も行うことができず、また、神ならぬものと神として拝み、神が与えてくださった人生の基準である律法に背き、的外れの人生を送っている罪人で、どこから考えても、神に裁かれこそすれ、神に愛される資格と値打ちがまったくないのです。
ゼロです。否、日々罪を犯して、罪が、山のよう積り積もっているゼロ以下のマイナスの罪人であるわたしたちを愛して、罪から救うため、「定められた時に」、すなわち、神の永遠からの御計画の時に、御自身の独り子キリストを、十字架で、わたしたちの罪を償う供え物にしてくださった愛なのです。
ですから、紀元30年ごろ、エルサレム郊外のゴルゴダの刑場に立てられたキリストのあの十字架は、わたしたち罪人に対する神の絶対愛を、力強く示しているのです。そして、それだけではありません。キリストの十字架の死において示された神の絶対愛は、救われて依頼、信者一人ひとりの心に、多量の水がザーッと注がれるように、あるいは、天から雨がザーザー降り注ぐように、聖霊によって、たっぷり注がれて、信者は自分に向けられた神の絶対愛を確信できるので、世の終わりに神の栄光にあずかれる希望も絶対確実であることを確信できるのです。
少し戻って5節後半を見ましょう。「心に注がれています」とありますが、わたしたちは、「注がれる」という言葉を見落とすことがないようにしましょう。すると、「注ぐ」という言葉は、もともと、多量の水をザーッと注ぐとか、天から雨がザーザー降り注ぐことを意味しますので、多量のものをたくさん、たっぷり、十分、注ぐことを表します。チョロチョロ注ぐのではありません。多量に、たっぷり、十分、注ぐのです。
また、この「注ぐ」という動詞の形は、わざわざ現在完了形になっていて、あるときから始まったことが、ズーッと切れ目なしに、今も続いていることを意味します。したがって、信者は、救われたときから、十字架のキリストの死において現わされた神の絶対愛を、聖霊が、一人ひとりの信者の心に、切れ目なしに、ズーッと、今も、豊かに、たっぷり、十分注ぎ続けていることを意味しています。
今日もそうです。聖霊は、わたしたちが救われたときから、神の絶対愛を、わたしたちの心に、切れ目なしに、今も、たっぷり注ぎ続けてくださって、神の絶対愛を確信させてくださっているので、わたしたちは、世の終わりの栄光にあずかれる希望が確実であることを、十分確信できるのです。
6.信者は、神の怒りの最後の審判から完全に救われる
それで、わたしたちは、これだけの理由が挙げられれば、わたしたち信者が世の終わりの栄光にあずかれるという希望は、絶対確実であると思えるかもしれませんが、パウロは、もう一つの理由を挙げて、信仰ゆえに受ける苦しみがとても多かった1世紀の信者たちを、励まし、力づけています。
それは、わたしたち人間は、霊的無能力であり、神に喜ばれる霊的善をしませんで、逆に、人生の基準である神の律法に背き、的外れの人生を、日々、歩んでいます。また、わたしたちは、神ならぬものを神として拝む偶像礼拝の輩です。
それゆえに、人間は神の敵と言えますが、神の敵と言える人間であっても、キリストの十字架の血を信じる人を、神は、すでに義と認めてくださって、人間と和解してくださった神は、人間に最後にやって来るところの神の怒りによる最後の審判からも完全に救い出し、死から復活したキリストの命の力によって、永遠の命に生きるようにしてくださることは、なおさら、確実なので、信者が世の終わりに、栄光にあずかれることは、確実なのです。9節から11節がそうです。
9節に「神の怒りから救われる」とあり、また、10節でも、「御子の命によって救われる」と、「救われる」が2回出ていますが、この場合の「救われる」という動詞は、2回とも未来形になっていますので、将来、神の怒りによる世の終わりの最後の審判からも完全に救い出されることを意味しています。
また、10節で「敵であったときでさえ」とありますが、これは、わたしたち人間は、霊的無能力であり、神に喜ばれる霊的善をしないこと、逆に、人生の基準である神の律法に背き、的外れの人生を、日々、歩んでいること、また、わたしたち人間は、神ならぬものを神として拝む偶像礼拝の罪を犯しながら生きているので、人間は、神の敵と言えることを意味しています。
そして、また、9節から11節には、「和解」という重要な言葉が3回も出て目立つようにされていますが、この言葉も重要です。そして、「和解」とは、神が、罪を犯しながら生きている人間を、キリストの死によって罪を赦し、キリストの死から復活した命の力によって、信者が永遠の命を与えられて、神が、人間と和解してくださることを意味しています。人間の力で、人間の方から神と和解することはまったく不可能で、神が、一方的に、神御自身の側から、キリストの死と復活を通して、人間と和解してくださる恵みを表しています。人間には、神と和解できる力は、まったくありません。神が、キリストを通して、一方的に、人間と和解してくさるのです。これもまた大きな恵みなのです。
こうして、信者は、キリストを通して、神と、今、すでに、もう和解が成立しているので、将来、世の終わりに来るところの神の怒りによる最後の審判においても、裁かれることは、最早、決してあり得ないのです。
そして、これらをすべて可能にしてくださったのは、神御自身です。神御自身が、キリストを通して、一方的に、してくださる大きな恵みです。それゆえ、信者は、天の神は、何と素晴らしいお方なのかと、神を誇ること、すなわち、喜ぶこと、大いに喜ぶことができるのです。したがって、世の終わりに、神の栄光にあずかれる希望は確実で、微塵の疑いもありません。そして、この身に余る大きくて確かな希望が、今、地上の歩みをするわたしたち信者の人生をしっかり支えていてくれるのです。本当に、大きな恵みで、心から感謝できます。
結び
以上のようにして、今日のところを見ます。わたしたちも、世の終わりに、キリストと同じ栄光の体に変えられ、そのとき、出現する栄光の神の国で、キリストと共に永遠に生きていくという希望をしっかりもって、揺るがずに、日々、祝福された信仰生活を、今週も喜んで歩んでいきたいと思います。
お祈り
憐れみ深い天の父なる神さま、
今日は、今年の第2回目の礼拝導かれ、感謝いたします。
今、わたしたちは、パウロのローマの信徒への手紙の第5章を通して、信仰義認の実としての種々の祝福について学びました。
主イエス・キリストを自分の購い主として信仰することによって、真の人生を歩むためのいろいろな祝福と絶対確実な将来の希望が豊かに与えられていることを感謝いたします。
どうか、わたしたち一人一人が、さらに、主イエス・キリストを信仰して、義と認められ、もろもろの祝福で満たされながら、今週も歩めるように、聖霊によってお導きください。
今日、また、いろいろな都合や事情で集まることができかった方々に、それぞれのところので、顧みをお与えください。これらの祈りを、主イエス・キリストの御名によって、御前に、お献げいたします。アーメン。