* 佐々木稔 説教全集 *   

 http://minoru.la.coocan.jp/index.htm 



 

   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6;5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


万事が益となるように共に働く人生」

ローマの信徒への手紙8章26節―30節

 

じめに

 

本日は、今年、最後の礼拝ですので、一年の締めくくりとなるお話をしたいと思います。そこで、わたしたちクリスチャンの人生は、慈愛深い天の父なる神の配慮により、救いの完成を目指して、真の人生を喜んで日々歩んでいけるということについて、お話しいたします。

 

わたしたちは、キリストを信じて、救われ、永遠の生命の道を喜んで歩んでいます。でも、わたしたちには、まだなお罪といろいろな弱さがあります。そこで、神は、弱さをもつわたしたちの大切な人生が、倒れないように、恵みにより、幾つものよい配慮をしてくださっています。

 

そこで、本日は、わたしたちの大切な人生が倒れないように、慈愛深い天の父なる神が、恵みによって、施してくださる配慮について、3点、お話をします。第1点は、わたしたちの大切な人生が、倒れないように、神の配慮として、祈りにおける聖霊の執り成しがあるという点です。第2点は、わたしたちの大切な人生が、倒れないように、神の配慮として、万事が益となるように共に働く摂理があるという点です。第3点は、神には、救いのすばらしい御計画があという点です。

 

1.神の配慮として、祈りにおける聖霊の執り成しがあります

 

 早速、第1点に入ります。第1点は、わたしたちクリスチャンの大切な人生が、倒れないように、慈愛深い天の父なる神の配慮として、祈りにおける聖霊の執り成しがあるという点です。

 

それで、本日は、ローマの信徒への手紙からお話をしますが、この手紙を書いたのは、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロです。そして、この手紙は、その名の通り、1世紀当時の地中海世界を支配していたローマ帝国の首都、ローマの都にあった教会の信徒に宛てた手紙です。紀元56年ごろ、ギリシャ南部のコリントという町で書いたと思われます。

 

そこで、ローマの信徒への手紙を見たいと思います。すると、救われたとは言え、まだ罪といろいろな弱さをもつわたしたちを、天の父なる神は愛して、わたしたちの大切な人生が、何があっても決して倒れないように、救いの完成を目指して喜んで歩めるように、2つのよき配慮してくださっていることを、この個所で力強く教えています。

 

 では、それらの2つのよき配慮とは、何でしょう。すると、ひとつは、祈りにおける聖霊自らの積極的執り成しです。そして、もうひとつが、万事が益なるように共に働く天の父なる神の摂理です。

 そこで、ひとつづつ見ていきましょう。まず、祈りにおける聖霊自らの積極的執り成しです。考えて見ますと、わたしたちは、生まれながらの罪人で、霊的なことがまったくわかりません。そのため、目に見えない真の神が存在しておられることさえも知りません。まして、目に見えない神の御心にかなう祈りなど、生まれつきの自力では到底できません。しかし、祈りができなければ、神からの祝福を受けることができませんので、困ります。

 

でも、大丈夫なのです。なぜなら、聖霊が、わたしたちの弱さを知って、思いやり、わたしたちの祈りを助け、執り成して、天の父なる神の御心にかなうようにちゃんと整えてくださるからです。26節と27節がそうです。

 

そこに、「霊」という言葉が、4回も出てきますが、「霊」とは、聖霊を意味します。また、「弱いわたしたち」とありますが、もともとの言い方は、「わたしたちのもろもろの弱さ」という言い方で、わざわざ、複数形になっていて、わたしたちには、いろいろな弱さがあることを強調しています。

 

確かにそうです。わたしたちは、キリストを信じて、恵みにより救われたとはいえ、一人ひとりが、いろいろな多くの弱さをもっています。内側には、絶えず、罪との戦いがあり、外側からは、試練や苦しみが来ます。

 

 でも、聖霊なる神は、そのようないろいろな弱さをもつわたしたちに対し、うめくようにして、わたしたちに真に同情し、わたしたちがどのような状況にあっても、わたしたちの祈りが、目に見えない天の父なる神の御心にかなって、豊かな祝福が受けられるように、聖霊自らがわたしたちの祈りを積極的に整え、執り成し、ちゃんと助けてくださるのです。

 

弱いわたしたちを助けてくださいます。」とありますが、「助ける」という言葉は、とても印象深い言葉がわざわざ使われています。「助ける」という言葉は、もともと、ギリシャ語では、シュナンテランバノマイという17文字からなるとても長い言葉です。聖書の中に出てくる最も長い一語と思われます。

 

 そして、この言葉は、合成語で、3つの言葉をくっつけて作った言葉です。シュナンテランバノマイのシュナというのは、一緒に、共にという意味です。シュナンテランバノマイのアンテは、向かい合ってという意味です。シュナンテランバノマイのランバノマイは、持つとか、持ち上げるという意味です。ですから、合わせると、向かい合って一緒に持ってくれるという意味になります。

 

すなわち、重いものを自分ひとりで持ち上げようとしても、どうしても持ち上がりません。でも、だれかが、向かい合って、一緒に持ち上げてくれれば、持ち上がります。たとえば、子どもが、重いものをひとりで持ち上げようとしても、どうしても持ち上がりません。でも、やさしいお母さんがそばにやって来て、子どもと向かい合って持ち上げてくれれば、持ち上がるでしょう。そして、子どもは、持ち上がった、持ち上がったと言って、喜ぶでしょう。

そういうイメージの言葉で、17文字の長い印象深い言葉で、一度聞いたら生涯忘れられない合成語がわざわざ用いられています。ですから、わたしたちは罪人で、いろいろな弱さがあり、霊的なことがわからず、内側には、罪との戦いがあり、外側からは、試練や苦しみが来ます。しかも、真の神は、わたしたちの目に見えません。そのため、何をどのように祈れば、目に見えない神の御心にかない、神から祝福が受けられるのかわかりません。こうして、わたしたち生まれつきの罪人には、目に見えない真の神への祈りは、重いのです。

 

ところが、聖霊は、自ら積極的に、わたしたちの弱さをうめくようにして、真に、そして、深く同情し、真に思いやってくださって、祈りの重さを向かい合って担ってくださるかのように、祈りを軽くし、わたしたちの祈りが、天の父なる神の御心にかない、豊かな祝福を受けられるように、わたしたちの祈りを整え、執り成し、助けてくださるのです。

 

うめくというのは、真の、そして、深い同情を表すこれまた、非常に印象深い言い方です。今日でもそうです。もし、だれかが、悲惨な境遇に置かれていれば、そばにいる人は、うめくようにして、その人に真に、そして、深く同情し、思いやって、その人を助けるでしょう。

 

ですから、わたしたち読者は、ここを読んだら、気持ちがとても楽になります。この手紙の宛先の1世紀のローマの信徒たちも、気持ちがとても楽になったと思われます。自分たちは、生まれつき知性・感情・意志が全面的に堕落した罪人で、霊的なことがまったくわからない。しかも、神は目に見えない。それゆえ、いったい何をどのように、天の神に祈ったらよいのかわからない。でも、聖霊が、まるでうめくように、弱いわたしたちに真に同情し、そして、親しく向かい合って、やさしく一緒に、持ち上げてくれるかのようにして、目に見えない天の神の御心にかなうように、わたしたちの祈りを、自ら積極的に整え、執り成し、助けてくださるので、自分たちはどんなときでも祈れて、豊かな祝福が受けられ、何があっても、わたしたちの大切な人生は決して倒れることなく、救いの完成を目指して喜んで歩めるのだと悟り、気持ちがとても楽になったはずです。

 

クリスチャンは、祈りにおける聖霊自らの積極的執り成しがあるので、どんなときでも、試練のときでも、祈れるのです。そして、祈れば、必ず豊かな祝福を受け、倒れることのないよい人生を歩めるのです。

 

では、聖霊は、どうして、積極的に執り成しができるのでしょう。すると、天の父なる神は、聖霊の執り成しの思いをよく知り、聖霊の側も、天の父なる神の御心をよく知っているからです。すなわち、天の父なる神と聖霊なる神は、相互の愛において熟知し合っているので、執り成しが成り立つのです。

 

すなわち、わたしたちの心にある思いが、どのようなものかをすべてご存知の天の父なる神は、聖霊の思いも実によく知っておられるのです。そして、聖霊が、うめくようにして、わたしたちクリスチャンに真に、そして、深く同情し、思いやって、わたしたちの祈りが、天の父なる神の御心にかなうように整えようとする聖霊のその思いを知っていて、聖霊の執り成しを、天の父なる神が受け入れるからです。

 

また、聖霊の側も、天の父なる神の御心を十分知っているので、クリスチャンの祈りを、父なる神の御心にかなうように十分整え、執り成すことができるのです。「人の心を見抜く方は」とは、天の父なる神のことです。また、「聖なる者たち」とは、わたしたちクリスチャンのことです。わたしたちクリスチャンは、聖霊により罪から聖められていますので、「聖なる者たち」といわれます。

 

 考えて見ますと、目に見えない真の神の御心にかなう祈りして、豊かな祝福を受ける人生を歩むということは、とても不思議なことです。わたしは、クリスチャンが、目に見えない真の神にお祈りしている姿を目の前で見て、本当に驚いたことがあります。

 

わたしは、東京で、1年間、サラリーマンをしていました。ロッキード事件で有名な田中角栄さんの目白のお屋敷のそばの家で間借りをしていました。わたしは、そのときは、まだクリスチャンでないので、日曜日は、お昼ごろ起き出して、近くの食堂にお昼を食べに行くのが常でした。すると、いつも、男性1人と女性3人が、やって来るのです。そして、テーブルルを囲んで、楽しそうに、顔を輝かせてお話をしているのです。わたしは、下を向いて食べていましたら、その人たちの話し声が急にしなくなりましたので、どうしたのかと思って見ましたら、その人たちは、頭を垂れて、食前のお祈りしていたのです。

 

 わたしは、そのとき、本当に、正直びっくりしました。えー、この人たち、いったい何をしているのかと思いました。そのとき、わたしは、まだ、クリスチャンでなかったので、その人たちが何をしているのかがわかりませんでした。でも、後になって、そうか、この人たちは、キリスト教徒、クリスチャンなのだ。それで、目に見えない神にお祈りをしていたのだとわかりました。確かに、他の人から見れば、何をしているのかと思われるでしょう。キリスト教の祈りは、不思議なものです。でも、それから1年後には、わたしも恵みによりクリスチャンとなり、今度は、他の人がわたしの祈っている姿を見れば、この人はいったい何をしているのかと思うであろう目に見えない真の神に祈る者に、わたしも変わりました。

 

そのときから、今日までの49年間、わたしも、目に見えない生ける真の神に毎日祈って、豊かな祝福をいっぱい受け、救いの完成を目指し、喜んで人生を歩んできました。また、今も喜んで歩んでいます。これは、まさに、聖霊自らが、言葉に表せないうめきをもって、いろいろな弱さをもつわたしの祈りにおいて、いつも積極的に執り成してくださっているからです。そして、このことは、もちろん、わたしだけでなく、皆さんも同じです。わたしたちは、これからも、聖霊自らの積極的執り成しという恵みの配慮にしっかり支えられ、日々祈りながら、救いの完成を目指し、真の人生を喜んで歩んでいきたいと思います。

 

2.神の配慮として、万事が益となるように共に働く神の摂理があります

 

 第2点に入ります。第2点は、わたしたちクリスチャンの人生が、倒れないように、慈愛深い天の父なる神の配慮として、万事が益となるように共に働くという摂理があるという点です。今、第1点でお話したように、父なる神は、聖霊自らの積極的執り成しという恵みの配慮により、弱いわたしたちをしっかり支え、救いの完成を目指して、よい人生を歩ませてくださいますが、恵みの配慮は、それだけでなく、他にもあります。それは、何でしょう。すると、万事が益となるように共に働く神の摂理です。すなわち、主権者なる天の父なる神は、わたしたちクリスチャンのために、罪との戦い、試練や苦しみなどすべてを無駄にせず、また、無意味にせず、救いの完成のために益としてくださるのです。

 

28節がそうです。28節を読むと、以前の口語訳聖書に親しんできた方は、あれっ、今の新共同訳聖書は、少し、言葉が変わったと感じるでしょう。確かにそうです。以前の口語訳聖書は、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」となっていて、神が主語になっていました。

 

ところが、わたしたちが、今見ている新共同訳聖書は、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」となっていて、神が主語でなく、万事が主語になっています。

 

 でも、神が主語でも、万事が主語でも、どちらでもよいのです。2つの読み方があるのです。そして、どちらをとっても、天の慈愛深い父なる神の主権的摂理の支配を表していることに変わりはありません。そして、意味もいたって明白です。すなわち、罪との戦い、試練や苦しみなどが、クリスチャンの人生にいろいろあっても、それらは決して無駄や無意味にならず、天の父なる神の摂理の支配において、わたしたちの救いの完成のために益として用いられることを、力強く教えているのです。

 

万事が益となるように共に働く神の摂理の一番よい具体例は、旧約聖書の創世記37章から50章に出てくるイスラエルの先祖、ヨセフの生涯です。ヨセフは、ヤコブの12人の子どもの一人でした。しかし、父ヤコブは、弱さのため、ヨセフをえこひいきしました。そのため、上の兄たちは、ヨセフをねたみ、あるとき、ヨセフをエジプトへの奴隷として売り飛ばしてしまいました。

 

ヨセフは、エジプトで、ひとりぼっちで、奴隷として身を粉にして働きましたが、あるとき、主人の留守に、主人の妻を誘惑しようとしたという無実の罪を着せられ、捕らえられて牢屋に入れられてしまいました。これは、人間的に考えれば、ヨセフの人生は、これでもうアウト、終わりでした。

 

ところが、神は、ヨセフを愛して、牢屋のヨセフといつも共にいて、ヨセフを慰め、励まし、希望を与えてくださいました。そして、あるとき、ヨセフは、エジプト王ファラオの不思議な夢の意味を解き明かしたことが、きっかけで、7年間も続く大飢饉乗り切りのため、エジプトの総理大臣となって大活躍するのです。

 

その結果、カナンの地、パレスチの地でも大飢饉で、食糧がなくなったため、ヨセフの兄弟たちも、父ヤコブも、エジプトのヨセフのところに移住してきて、食糧を得て、命をつなぐことができました。そこで、イスラエル民族は、大飢饉で滅亡せず、そのイスラエル民族から、後に、世界の救い主のイエスさまが、出現することになります。

 

 また、ヨセフは、苦しみの中で、いつも自分と共にいて、自分を慰め、励まし、絶えず、希望を与えてくださった神の大きな愛を知り、生ける真の神への信頼が、ますます強くされ、信仰が非常に豊かになり円熟しました。

 

また、ヨセフを奴隷に売り飛ばした兄弟たちは、自分の罪を知らされて、悔い改め、長い間失っていた良心の平安を回復することができました。また、父親のヤコブは、ヨセフをえこひいきした自分の罪を反省したことでしょう。

 

こうして、ヨセフは、試練と苦しみを受け、逆境に置かれました、でも、それらの試練と苦しみは無駄にならず、また、無意味にもならず、すべてをご存知のいつくしみ深い神の万事が益となるように共に働く、摂理により、ヨセフ自身の益、ヨセフの兄弟たちの益、ヨセフの父ヤコブの益、そして、イスラエル民族の益、さらに、人類の救い主のイエスさまが出てくるので、わたしたち人類全体の益とされたのです。

 

 今日も同じです。日本において、クリスチャンは、100人にひとりで、数が少ないのです。でも、神の目から見れば、日本の中心は、神の民である教会であり、クリスチャンなのです。そこで、人間的には、マイナスに見えることでも、偉大で慈愛深い天の神は、万事が益となるように共に働く摂理において、マイナスだけで終わらず、それらのマイナスも、わたしたちの救いの完成のため、必ず役立ててくださるのです。ですから、わたしたちも、パウロに倣い、万事が益となるように共に働く摂理の信仰にしっかり立ちたいと思います。

 

3.神には、救いのすばらしい御計画があります

 

 第3点に入ります。第3点は、神には、救いのすばらしい御計画があるという点です。今見ましたように、神は、万事が益となるように共に働くようにしてくださるのですが、では、どうして、そこまでしてくださるのでしょう。すると、神には、救いの素晴らしい御計画があるからです。すなわち、神は、神を愛する者たち、すなわち、クリスチャンたちの何よりも大切な救いが、途中で壊れずに、世の終わりに完成するようにとのすばらしい御計画をもっているからです。

 

では、神がもっているすばらしい救いの御計画とは、どのようなものなのでしょう。すると、それは、わたしたちが、天地創造以前の永遠において、神の愛により、キリストによる救いへ予定されたことから始まって、世の終わりに、栄光のうちに、わたしたちの救いが完成するという素晴らしい御計画です。

 

 29節と30節がそうです。ここで、パウロは、神には、救いについての御計画があることを読者に力強く教えています。永遠の昔に、神の愛により、わたしたちが、キリストの十字架の死によって救われるようにあらかじめ選ばれ、定められ、予定され、そして、歴史のあるとき、教会に導かれ、キリストの十字架の死と復活による救いのよき知らせである福音の説教を聞いて、聖霊によって、救いに召し出され、キリストを信じて、神から正しい者とされ、すなわち、義とされ、そして、世の終わりのキリスト再臨のときに、キリストと同じ朽ちることのない栄光の体に変えられるという素晴らしい御計画です。

 

世の終わりに、わたしたちの体は、神の御子キリストの姿に似て、すなわち、神の御子キリストと同じ朽ちることのない栄光の体に変えられます。これで、わたしたちの救いが完成します。そのとき、わたしたちのために十字架で死んで、復活して、救い道を開いてくださったキリストは、神の家を受け継ぐ長子としてあがめられ、わたしたちは、キリストの兄弟と呼ばれる誉れを受けるのです。これが、神がもっておられる救いのすばらしい御計画です。

 

神は前もって知っておられた者たち」とは、わたしたちクリスチャンの別の言い方です。クリスチャンは、永遠から、神の大きな愛において、すでに知られていましたので、「神は前もって知っておられた者たち」と言われていますが、「前もって」とは、永遠の昔からという意味です。

 

また、「御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」とは、世の終わりに、クリスチャンが、神の御子のキリストに似て、すなわち、キリストと同じく、朽ちることのない栄光の体によみがえらされるために、永遠の昔から、神により、わたしたちがあらかじめ、選ばれ、定められ、予定されていたことを意味します。

 

また、「御子が多くの兄弟の中で長子となられるため」というのは、神の御子のキリストは、へりくだって、わたしたちと同じ人間となり、わたしたちの兄弟となってくださったと言えるほどです。でも、だからと言って、誉れも、わたしたち人間と同じというのでなく、キリストは、神の家の比類なき長子、また、跡継ぎとして、何者にまさりて、ほめたたえられるのです。

 ですから、わたしたちが救われるというのは、神の永遠の大きな愛に基づく確実なものなのです。それゆえ、何があっても、わたしたちクリチャンの大切な人生は、救いの完成を目指して、喜んで歩んでいけるのです。

 

 そして、神の永遠の愛は、わたしたちひとりひとりが歴史の中で、教会に導かれ、牧師の説教を聞いて、救いに召されることにおいて実現します。30節に「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし」とありますが、「召し出し」というのは、わたしたちが、教会に導かれて、キリストによる救いのよき知らせである福音の説教を聞いて、聖霊の働きにより、救いに召し出されることを意味します。

 

また「義とし、義とされた者たち」というのは、教会に導かれて、キリストによる救いのよき知らせである福音の説教を聞いて、キリストを信じて救われ、神から、すべての罪が赦され、神から信仰ゆえに正しい者、すなわち、義と認められることを意味します。キリスト信じて、救われて、よい歩みをしているわたしたちが、今、この「義とされた者たち」なのです。

 

 そして、最後の段階が、「栄光をお与えになったのです。」といわれていることです。栄光を与えるというのは、世の終わりのキリスト再臨のとき、キリストと同じ朽ちることのない栄光の体に変えられること、栄化を意味します。

 

そして、ここで、非常に力強いのは、「義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」と過去形で言われていることです。わたしたちが、キリストと同じ栄光の体によみがえらされるのは、世の終わりの将来に生じることなのに、平気で過去形で書かれています。これは、キリストと同じ栄光の体によみがえらされるのは、絶対確実なので、もう過去に生じたかのように、パウロはわざわざ過去形で書きました。1世紀のキリスト教伝道者パウロのこの力強い確信を、21世紀のわたしたちも、持ちたいと思います。

 

 こうして、わたしたちの救いは、神の永遠の愛という測り知れない大きな愛により、天地創造以前の永遠において、キリストによる救いへ、恵みにより、あらかじめ定められること、すなわち、予定されること、そして、歴史の中で、聖霊の働きにより、救いへ実際に召し出されること、キリストを信じて救われ、義と認められること、そして、世の終わりにキリストと同じ栄光の体に復活して、救いが完成するという5つの段階、5つのステージが鎖のようにしっかりつながっているすばらしい神の御計画に基づいています。それで、ここは、教会により、黄金の鎖、ゴールデンチェインと呼ばれてきました。わたしたちも、ローマ書のこの個所は、黄金の鎖、ゴ-ルデン・チェインと呼ばれることを覚えたいと思います。

 

ですから、わたしたちが救われるのは、神の永遠の大きな愛から始まるすばらしい救いの御計画に基づく絶対確実なものです。それゆえ、わたしたちは、万事が益となるように共に働く神の摂理のもとにあるこの世界の中で、何があっても、決して、途中で、大切な救いが壊れることなく、救いの完成を目指して、真の人生を、日々喜んで歩んでいくことができるのです。

 

結び

 

以上のようにして、わたしたちクリスチャンの人生は、神の摂理により、万事が益となるように共に働く人生です。慈愛深い天の父なる神は、罪といろいろな弱さをもつわたしたちを、愛して、わたしたちをしっかり支えるため、恵みの配慮をいくつも作って、わたしたちが、救いの完成を目指して、真の人生を日々喜んで歩めるようにしてくださっています。そして、実際、そのようにして、この一年を、わたしたちは歩んできたのです。そのことを心から感謝して、この一年を終わり、また、来年に向かって、新しい信仰の決意をしたいと思います。

 

お祈り

 

 恵深い天の父なる神さま、

本日、今年最後の礼拝に導かれ、感謝いたします。救われたとは言え、まだ罪といろいろな弱さをもつわたしたちを、愛して、わたしたたちの大切な人生が倒れることがなく、救いの完成を目指して、日々喜んで歩めるように、祈りにおける御霊の執り成しと万事が益となるように共に働く摂理をもって、支えていてくださることを感謝いたします。

 今年1年も、そのようにして、支えられ、たくさんの祝福を受けて、今日まで歩んでいましたが、来年もまた、そのようにして、支えられ、祝福豊かな歩みができますように、わたしたち一人ひとり、また、ひとつひとつの家庭を顧みてください。

本日、いろいろな都合出席できなかった方々にも、それぞれのところで、顧みをお与えください。また、また、健康の弱さを覚えている方々、高齢の方々、困難に遭っている方々に、あなたからの助けと慰めと力づけと希望をお与えください。

 また、大震災と原発事故で困難にある教会と信徒の方々と一般の方々に続けて助けをお与えください。被災地を助ける働きをしている人々を励ましてください。

 これらの祈りを主イエス・キリストの御名により、御前にお献げいたします。アーメン。


http://minoru.la.coocan.jp/ro-mabannzigaekitonaru.html