* 佐々木稔 説教全集 * |
ローマ書講解説教 - 佐々木稔 | Shalom Mission |
01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ 02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ 05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利 07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放 08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み | 08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利 09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画 09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教 10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い 11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い 12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活 12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係 13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に... 15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道 16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた.. |
「イスラエルの回復」
ローマ書11章11節―24節
11:11 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。11:12 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。11:13 では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。11:14 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。11:15 もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。11:16 麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。11:17 しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、11:18 折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。11:19 すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。11:20 そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。11:21 神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。11:22 だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。11:23 彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。11:24 もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。
はじめに
わたしたちは主の日の朝の礼拝においては、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが紀元56年頃ローマの信徒たちに書いたローマの信徒への手紙を学んでいますが、今日もわたしたちは、キリストにある素晴らしい救いを順序立てて教えているローマの信徒への手紙に耳を傾けたいと思います。
では、今日の個所は何を教えているのでしょう。すると、神はわたしたち人間の思いを超えた救いについての素晴らしい御計画を持っておられることが教えられています。
すなわち、旧約歴史を担ったユダヤ人の多くの人々が、不従順にゆえに1世紀において福音を拒みましたが、それは、旧約歴史のない異邦人に福音が広がって、異邦人が次々と救われ真の人生を喜んで歩むためでした。しかし、それだけではなく、旧約歴史のない異邦人が次々と救いを自分たちのものにして、喜んでいる姿を見て、今度はユダヤ人がねたみ心を起こし、救いは本来自分たちが受けるべきものだと奮起して立ち上がり、多くのユダヤ人が福音を信じて救われ、こうして、異邦人もユダヤ人も、共に救われ キリストの一つの教会を形成し、そして、共に世の終わりに、王の王である再臨のキリストを一つになってお迎えするという素晴らしい神の救いの御計画が実現するのです。
そこで、今日は、この個所から3点お話をいたします。第1点は旧約歴史を担うことのなかった異邦人の救いは、ユダヤ人にねたみを起こさせるという点です。第2点は、パウロはユダヤ人の回復を違った言い方でもう一度述べているという点です。第3点は、ユダヤ人は栽培されたオリーブの木、異邦人はその接ぎ木であるという点です。
1.旧約歴史のない異邦人の救いはユダヤ人にねたみを起こさせます
早速、第1点に入ります。第1点は、旧約歴史を担うことのなかった異邦人の救いは、ユダヤ人にねたみを起こさせるという点です。わたしたちは、これまでの学びで、1世紀のユダヤ人は神から与えられた律法をすべて自力で完全に守って救われようとしたために、十字架のイエスさまを信じて、恵みによって救われるという救福音信仰につまづいてしまったことを見てきました。
では、イエスさまを信じただけで、恵みによって救われるという福音につまづいたユダヤ人は、そのまま倒れてしまって、もう二度と起き上がれず、永久に救いから除かれてしまうのでしょうか。すると、決してそうではなく、ユダヤ人は、再び起き上がって救いに回復されるときが来るのです。
では、ユダヤ人はどのようにして、つまづき転んだところから再び起き上がって救いに回復されるのでしょう。すると、ユダヤ人は異邦人が旧約歴史がないにもかかわらず、福音を聞いてイエスさまを信じ、救いを次々と受けているのを見てねたましく思い、自分たちもイエスさまを信じて、神による救いを受けたいと強く願い、実際に、多くのユダヤ人がイエスさまを信じ救われ、ユダヤ人が民族として回心したと言える日が必ず来るのです。
11節と12節がそうです。11節後半に、「かえって、彼らの罪によって、異邦人に救いがもたらされる結果となりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです」とありまして、「ねたみを起こさせる」と言われています。また、14節においても、「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ」と2回も言われていますが、「ねたみを起こす」というのは、他の人がとてもよいものを持っているのを見て、ねたましく思い、自分も奮起し、発奮し、そのよいものを自分のものにすることを表します。
すなわち、旧約歴史を担うことのなかった異邦人が、1世紀の地中海世界各地で次々と福音を聞いて、信じて救いを受け、真の人生を喜んで歩んでいるのを見て、ユダヤ人はねたましく思い、律法主義によって救われようとしたことを誤りとして反省し、悔い改め、福音を聞いて、彼らも信じて、多くのユダヤ人が救われるのです。それゆえ、ユダヤ人が民族として救いに回復されると言えるのです。これがいわゆるユダヤ人の大量回心と言われるものです。
そして、いつの日かユダヤ人が民族として、救いに回復されることが、神の救いの御計画なのです。神には救いの世界史的御計画があるのです。考えてみますと、神の救いの御計画は、わたしたち人間の思いをはるかに超えた素晴らしいものです。旧約時代においては、神はユダヤ人だけを神の民として、救いの恵みを与えました。そのときには、旧約歴史のない異邦人は自分たちの罪ゆえに霊的暗黒に中に神ならぬものを神として拝んで、真の神を知らずに罪の中に虚しく生きていました。
そして、約束の救い主のイエスさまが出現したときには、ユダヤ人はイエスさまを十字架につけて殺し、さらに、その後、教会が宣べ伝える救いの良いしらせである福音までも拒否しました。そこで、福音は旧約歴史がなく、霊的暗黒に虚しく生きていた異邦人に伝えられ、異邦人が福音を聞き、イエスさまを信じ、次々と救われ真の人生を喜んで歩むようになりました。
すると、今度は、その姿を見ていたユダヤ人は、本来、自分たちが受けるべき救いを異邦人が受けているのをねたましく思い、ユダヤ人が奮起し、発奮し、それまでの律法主義の誤りを深く反省し、悔い改め、福音を聞いて、十字架のイエスさまを信じ、多くのユダヤ人が救われ、異邦人と共に一つの教会を形成し、世の終わりには異邦人とユダヤ人が一つとなって、王の王として再臨するイエスさまをお迎えして、栄光の御国が完成し、同時に、救いの御計画も完成するのです。これが神の救いの御計画の全貌であり、大パノラマであり、救いの世界史的大展開なのです。
これは、人間の知恵や理性では、到底考え出すことができないものです。少し後の11章33節で、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽し、神の御道を理解し尽せよう」とパウロは言いましたが、パウロの気持が読者のわたしたちの心にも圧倒的な力をもって迫ってくるのを感じるでしょう。
2.パウロは、ユダヤ人の回復を違った言い方でもう一度述べています
第2点に入ります。第2点は、パウロは、ユダヤ人の回復を違った言い方で、もう一度述べているという点です。すなわち、1世紀のユダヤ人による福音拒否が神によって裁かれ、ユダヤ人は一時的にですが、神に捨てられるのです。そのため、福音が旧約歴史のない異邦人の世界に宣べ伝えられ、異邦人世界が神と和解して救われるのであれば、いつの日か、旧約歴史を担ったユダヤ人も民族として大量に回心し、救いに回復されることは、なおさらあり得ることなのです。そこで、パウロはユダヤ人が、異邦人の救いを見て、ねたましく思い奮起し、発奮するように、そして、ユダヤ人が、たとえ幾人でも約束の救い主メシアのイエスさまを信じて救われるように、異邦人に熱心に福音を伝えていくことを語るのです。13節から16節がそうです。
ここは、何も難しいことを言おうとしているのではないのです。実は、ここは直前の11章11節と12節で、すでに語ったユダヤ人の霊的回復を、今度は別の言い方で語っているのです。すなわち、旧約歴史を担ったユダヤ人が、民族として大量に回心し、救われることは神の救いの御計画において重要な霊的意義を持ちますので、もう一度ユダ人の救いについてパウロは強調しているのです。
15節前半に、「もし、彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば」とありますが、これはどういう意味でしょう。すると、1世紀の多くのユダヤ人の福音拒否が、神によって裁かれ、ユダヤ人は永久にではなく、一時的にですが、神に捨てられるのです。そのため、福音は旧約歴史のない異邦人世界に宣べ伝えられ、異邦人が救われることによって、異邦人世界が神と和解することを意味するのです。これは、旧約歴史のない異邦人世界にとって、驚くべき大きな祝福になります。
そして、異邦人が続々と救われ、真の人生を喜んで歩んでいるのを見ていたユダヤ人は、救いは本来旧約時代を担った自分たちユダヤ人が受けるべきものではないかと思い、異邦人の救いをねたみ、自分たもちも奮起し、発奮し、福音を聞いて、約束の救い主メシアのイエスさまを信じて救われるのですが、ユダヤ人が救われるのは、死者、すなわち、死んでいた者が命によみがえるような素晴らしい出来事であるとパウロは語るのです。
15節後半に、「彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなく何でしょう」とありますが、この言い方でユダヤ人の回復の事実を表していることは間違いないですが、しかし、その意味の理解については、二つあります。ある人は、いつの日か、ユダヤ人が大量に回心して救いに回復されることは、それまで福音を拒否して、霊的に死んでいたユダヤ人が、霊的命によみがえることを表すと理解します。すなわち、「使者の中からの命」ということを、ユダヤ人の霊的よみがえりと理解します。
しかし、ある人は、ここはユダヤ人が、大量回心して救いに回復されることは、キリストが再臨して終末となり、ユダヤ人を含めて、クリスチャンの体が永遠の命に復活することを、この言い方で表わしていると理解します。すなわち、「死者の中からの命」ということを、終末のときのクリスチャンたちの体の復活と理解するのです。それで、わたしたちは、どちらを取るにしても、ユダヤ人の大量回心が、世界史的な霊的意義を持つことがわかればよいと思います。
では、どうして、ユダヤ人の多くが回心して、救いに回復されることは、世界史的な霊的意義を持つのでしょう。すると、ユダヤ人は、神から救いを契約で約束されたアブラハム、イサク、ヤコブなどのイスラエル民族の先祖たちとの結びつきによって、神に対して形式的なきよさを、まだなお持っているからです。
すなわち、神からの救いを約束されたスラエル民族の先祖たちは、ちょうど、麦の初穂が、神に献げられていれば、麦の粉のかたまり全体も、聖別されて、きよいものにされているように、アブラハム、イサク、ヤコブなどのユダヤ人の先祖という麦の初穂が、神に献げられ、救いが約束されているので、彼らとの結びつきのゆえに、彼らの子孫のユダヤ人は、形式的なきよさを、まだなお、持っているのです。
また、木の根っこが、神に献げられていれば、根っこにつながっている枝全体も、聖別されてきよいものにされているように、アブラハム、イサク、ヤコブなどのユダヤ人の先祖という民族の根っこが、神に献げられ、救いが約束されているので、彼らとの結びつきのゆえに、彼らの子孫のユダヤ人は、形式的なきよさを、まだなお持っていると、パウロはたとえで語るのです。
16節がそうです。ここも、難しいことを言おうとしているのではないのです。旧約時代のイスラエルにおいては、麦の初穂を神に献げれば、その後に、収穫される麦全体が聖別され、聖なるものと見なされ、普通の麦とは区別されたのです。それと同じで、ユダヤ人は、先祖に、救いを約束されたアブラハム、イサク、ヤコブなどの先祖がいたので、彼らと結びついている彼らの子孫のユダヤ人は、民族として、神に聖別された民族としての立場を、ずーっと持っているのです。今も持っています。ですから、他の民族とは違うのです。
しかし、決して誤解してはいけないですが、ユダヤ人は神に聖別された民族としての立場を持っている、今でももっていますが、だからと言って、ユダヤ人は実質的に聖なる民にされているわけではありません。実質的に聖なる民にされるのは、彼らも福音を聞いて、約束の救い主メシアのイエスさまを自分の信仰で信じて救われ、聖霊の働きを受けて聖化されたときに、はじめて実質的に聖なる民にされるのです。
そして、パウロは、まさにそれを望んでいたのです。16節後半の木の根っこと木の枝全体のたとえも同じ意味です。木の根っこが、神に献げられていれば、根っこにつながっている枝全体も聖別されていて、聖なるものにされているように、アブラハム、イサク、ヤコブというイスラエル民族の根っこが、神に献げられ、救いが約束されているので、彼らとの結びつきのゆえに彼らの子孫の、ユダヤ人は、形式的なきよさを、まだなお持っていると、パウロはたとえで語るのです。
こうして、救いを約束されたアブラハム、イサク、ヤコブなどのイスラエル民族の先祖たちとの結びつきによって、神に対して形式的なきよさを、まだなお持っている彼らの子孫のユダヤ人が、福音を聞いて、キリストを信じて救われ、聖霊によってきよめられて、実質的に聖なる民になることを、強く、強く、心の底からパウロは望んでいたのです。
神は旧約の歴史を担ったイスラエルを、永久に捨てたり、放り出したりはなさらないのです。神は、なおもアブラハム、イサク、ヤコブなどの先祖たちに、契約で救いを約束したゆえに、イスラエルを愛し、彼らの子孫が救いへ回復されるように道をちゃんと開いておいてくださっているのです。少し先の29節と30節を見ますと、「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなおです」と、福音を拒否したイスラエルに対する驚くべき神の無償の愛を、なお、パウロは何のためらいなしに堂々ととても強く語っています。
このことからも、神は旧約歴史を担うことのなかった異邦人も、また、旧約歴史を担ったユダヤ人も、どちらも福音を聞いて、十字架にかかった約束の救い主メシアのイエスさまを信じて救われ、聖霊によって聖化され、霊的に聖なる者とされ、共に一つになって真の人生を日々喜んで歩んでいくことを、どれほど強く望んでいるかが、読者であるわたしたち一人ひとりの魂に強く響いてくるでしょう。その日が早く来るように、わたしたちも祈りたいと思います。
3.ユダヤ人は栽培されたオリーブの木、異邦人はその接ぎ木です
第3点に入ります。第3点は、オリーブの木の枝のたとえと言われるものですが、これも、また、ユダヤ人の救いへの回復が再度語られています。考えてみますと、1世紀に救われた異邦人クリスチャンは、ユダヤ人対してある一つの気持ちを持つ可能性があります。
それは、どのような気持ちでしょう。すると、福音を拒否して、救いを失ったユダヤ人を愚かな民として軽んじ、他方、福音を受け入れた自分たち異邦人はユダヤ人よりも賢いものと優越感を持ち、思い上がってしまう可能性があります。そうしますと、教会が気持の上で異邦人とユダヤ人の2つに分断されてしまいます。
そして、これは、教会の本来の姿に反するのです。ユダヤ人は愚かである。救いを契約によって約束されたアブラハム、イサク、ヤコブなどの先祖を持ちながらも、信仰によってその先祖たちにつながることをせず、それゆえに、多くのユダヤ人が福音を拒否してみすみす救いを逃している。
それに比べると、自分たち異邦人は旧約歴史がないのに、アブラハム、イサク、ヤコブなどの救いを約束されたイスラエルの先祖たちと、信仰でつながっているゆえに次々と救われているから、自分たちはユダヤ人よりも優れている、自分たちはユダヤ人よりも立場が上だと誇ったり、思いあがったりして、ユダヤ人を上から目線で見下し軽蔑する可能性があったと考えられます。
これでは、一つであるべき教会が分断されてしまい、教会の本質に反するのです。教会は主イエス・キリストにあって一つであり、皆が主にある兄弟姉妹として、対等・同等に尊ばれ、相互の愛で結ばれるものです。この点において、この世とは異なるのです。
そこで、パウロはオリーブの木の枝のたとえを用い、異邦人は福音を拒否したユダヤ人に優越感を持ち、誇ったり、思い上がってはならず、逆に、謙孫に歩むべきこと、また、ユダヤ人には、民族として救いに回復される約束があることを、皆が共に確信すべきこととして再度強調して語るのです。17節から24節がそうです。
そこで、パウロは少し先の24節にあるように、異邦人を荒れ野にかろうじて生えていた「野生のオリーブの枝」に、ユダヤ人を、農夫によって農園で手をかけられて「栽培されているオリーブの木の枝」にたとえて語るのです。
そして、たとえそのものは難しいものではなく、次のようです。農夫によって農園で手をかけられて栽培されているオリーブの木があります。そして、農夫によって農園で手をかけられて栽培されているそのオリーブ木からは、当然、枝が出ます。そして、農夫によって農園で手をかけられて栽培されたオリーブの木の根っこは、栄養分をたっぷり蓄えています。したがって、通常であれば、農夫によって農園で手をかけられて栽培されたオリーブの木の枝には、オリーブの実がなるはずです。ところが、農夫によって農園で手をかけられて栽培されたオリーブの木の枝には実がなりませんでした。
そこで、農夫は、手をかけたにもかかわらず実のならない栽培されたオリーブの木の枝を切り落としました。そして、代わりに、荒れ野にかろうじて生えていた野生のオリーブの木の枝を取ってきて、農夫によって農園で手をかけられて栽培されたオリーブの木に接ぎ木しました。すると、接ぎ木された荒れ野にかろうじて生えていた野生のオリーブの木の枝は、農夫によって農園で手をかけられて栽培されたオリーブの木の根っこから栄養分を十分吸い取り豊かに実をならせたのです。
そこで、パウロは言うのです。実をならせた野生のオリーブの木の枝は、農夫によって農園で手をかけられて裁倍されたオリーブの木の枝に対して、誇れるかというと、誇ることができないのです。何故なら、荒れ野にかろうじて生えていた野生のオリーブの木の枝は、農夫によって農園で手をかけられて栽培されたオリーブの木の根っこの栄養分を吸い取って、実をならせたからです。農夫によって農園で手をかけられて栽培されたオリーブの木の根っこが、実をならせた野生のオリーブの木の枝を支えているので誇れないのです。
また、実をならせた野生のオリーブの木の枝は、思い上がって、農夫によって農園で手をかけられて栽培されたオリーブの木の枝が切り取られたのは、野生のオリーブの木の枝が実をならせるためであり、実のならない栽培されたオリーブの木の枝が切り取られたのは、当然であると思い上がって言うかもしれません。
確かに、実のならない栽培されたオリーブの木の枝が切り取られたのは、荒れ野にかろうじて生えていた野生のオリーブの木の枝が実をならせるためでした。でも、だからと言って、野生のオリーブの木の枝は、思い上がってはならないのです。何故なら、手をかけて育ててきた実のならない栽培されたオリーブの木の枝が、農夫によって、容赦なく切り取られたのであれば、なおさら、農夫がその気になれば、荒れ野にかろうじてはえていた野生のオリーブの木の枝を、容赦なく軽く切り取って捨ててしまうことがいくらでもできたからです。
それゆえ、実をならせたからと言って、荒れ野にかろうじて生えていた野生のオリーブの木の枝は、誇ったり、思い上がってはならないのです。かえって、荒れ野にかろうじて生えていた野生のオリーブの木の枝は、謙孫になり、喜んで続けて実を結んでいくことが大事なのです。
以上が、オリーブの木の枝のたとえと言われるものです。そして、このオリーブの木のたとえの狙いは、二つです。一つは、実のなる野生のオリーブの木の枝にたとえられた異邦人は、実のならない栽培されたオリーブの木の枝にたとえられたユダヤ人を、上から目線で軽んじ、ユダヤ人を愚かとして低く見て、自分を高くして、誇ったり、思い上がってはならず、むしろ、謙孫になり、これからも救いの中を感謝と喜びを持って歩み続けることが求められるのです。
それゆえ、パウロは、特に異邦人クリスチャンが自分を高くして、誇ったり思い上がったりしないように命じています。18節後半では、「誇ってはなりません」ときっぱり命じています。
また、20節後半では、「思い上がってはなりません」と命じています。「思い上る」という言葉は、もともとは、「高く考える」という意味で、自分の方を相手よりも、高く考えて、相手を見下すことを意味します。1世紀において、異邦人クリスチャンの思い上がりが、主イエス・キリストの一つの教会を2つに分断する可能性がありましたので、パウロはとても強く命じました。
また、22節後半では、「神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」と言いまして、異邦人が救われたのは、ユダヤ人に比べ、異邦人に何か優れた点があったからでなく、ただ神の慈しみ、すなわち、ただ神の憐れみによってであることを教えて、これからも神の慈しみ、すなわち、神の憐れみによる救いの中に謙孫に感謝しながら歩み続けるように、パウロは異邦人に命じたのです。
このことは、今日も同じです。神の救いの御計画において、今も、まだユダヤ人の大量回心は起こっていませんで、わたしたち異邦人が救われる時代今もなお続いていますが、それは、わたしたち異邦人に、ユダヤ人と比べて、優れた点があるからでは決してありません。今も、見よ、今は、恵みのとき、救いのときとして、わたしたち異邦人が救われる時代が続いているのは、神の慈しみ、すなわち、神の憐れみによるのです。
それゆえ、わたしたち異邦人信者は、20節後半に、「思い上がってはなりません。むしろ、恐れなさい」と命じられているように、旧約歴史がないゆえに霊的な光のない中で、偶像礼拝の罪を犯しながら、また、あらゆる種類の罪を犯しながら神の裁きに向かって虚しく生きていたにもかかわらず、救ってくださった神をよい意味で恐れ、畏怖して、信仰のよい歩みを続けていくことが大事なのです。
以上が、オリーブの木の枝のたとえとの狙いの一つですが、では、もう一つは何でしょう。すると、それは、1世紀において、福音を拒否し、一時的に捨てられた人たちを、農夫によって手をかけられて栽培された栄誉分たっぷりのオリーブ木の根っこにたとえられているアブラハム、イサク、ヤコブなどと契約によって救いが約束されている先祖たちに接ぎ木して、ユダヤ人を救いに回復することがおできになるできる神を、異邦人クリスチャンもユダヤ人クリスチャンも固く確信し、共に一つになって歩むことの大切さです。
23節と24節がそうです。すなわち、ユダヤ人は、農夫によって手をかけられて栽培されたオリーブの木の枝であったのに、不従順にも福音を拒否し、救いの実を結ばなかったので、神のさばきとして、ある期間、捨てられるのです。しかし、永久に捨てられて、最早ユダヤ人は誰も救われないというのではなく、いつの日か、再び福音を聞いて、キ約束の救い主メシアのイエスさまを信じることにより、多くのユダヤ人たちが、救いを約束されたアブラハム、イサク、ヤコブなどの元の木に信仰で接ぎ木され、救われるのです。神の賜物と招きは取り消されることがないのです。
そして、ここで、注目すべきことが幾つかあります。まず、23節の「神は
彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです」という文章の語順です。実は、もともとの文章の語順は、「おできになるのです。神は、再び、接ぎ木することが」となっていて、「おできになる」という言葉が、文章の最初に来て、強調されて目立つようにされています。
ですから、1世紀においては、救い主のイエスさまを十字架にかけて殺し、さらに、救いの良い知らせである福音までも、不信仰によって激しく拒否したユダヤ人ではありますが、しかし、わたしたち人間の思いをはるかに超える神の救いの世界史的御計画と全能の力によって、神はユダヤ人の大量回心を起こし、救いに回復し、異邦人とユダヤ人が共に一つとなって、御自身を賛美できようにすることがおできになるのです。神に不可能なことはないのです。
そして、注目すべきもう一つのことは、24節の「まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう」の「まして」と「どれほどたやすく」という言葉です。
24節の意味は、荒れ野にかろうじて生えていた野生のオリーブの木の枝にたとえられている旧約歴史がなく、それゆえに、真の神のいることさえも知らなかった異邦人が、旧約歴史がなく、それゆえ真の神のいることさえも知らなかったという元の性質とは違うアブラハム、イサク、ヤコブなどを根っことするオリーブの木に、信仰で接ぎ木されて救われたのであるならば、旧約歴史を担ったゆえに、真の神がいますことを知っているユダヤ人を、アブラハム、イサク、ヤコブなどを根っことする元のオリーブの木に、信仰で接ぎ木して救うことは、神にとり、まして、どれほどたやすいことでしょうという意味です。
24節に、「元の性質に反して」とありますが、「基の性質」というのは、異邦人が、旧約歴史がなく、それゆえ真の神のいることさえも知らなかったという性質や性格を持っていたことを表しています。それにもかかわらず、彼らを救った神は、なおさら、旧約歴史を持ち、アブラハム、イサク、ヤコブなどの先祖に契約で救いを約束したユダヤ人を救うことは、なおさら、一層容易であることを表しています。
単純に言えば、旧約歴史がなく、それゆえ真の神のいることさえも知らなかった異邦人を救うよりも、旧約歴史を担ったゆえに、真の神がいますことを知っているユダヤ人を救う方が、ずーっと容易でしょうという意味です。そこで、パウロは、何のためらいなしに、「まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう」と「まして」と「どれほどたやすく」というより簡単さ、よりた易さを表す二つの言葉を、わざわざ意識的に使って語ることができました。
考えてみますと、多くのユダヤ人は、まだなお今日も福音を拒否しています。パウロがこの手紙を書いている1世紀から数えると、もうすでに、約2千年間も拒否していることになり、人間の目から見れば、ユダヤ人が民族として、大量に回心し、救いに回復されることなどは、不可能ではないかと思われるかもしれませんが、そんなことは決してないのです。
いつの日か、神の救いの世界史的御計画と全能の力によって、旧約歴史を担った民族として、大量回心が起こり、救いに回復され、わたしたち異邦人とユダヤ人が、一つのキリストの教会を構成し、共に慈しみ深い天の神を声高らかに賛美する日が必ず来るのです。いつ来るかは、わたしたち人間が知るところではなく、全能の神にお任せすればよいのです。わたしたちのなすべきことは、十字架のキリストを信じるだけで本当に救われる救いの良い知らせである福音の宣教です。今は、なおも、まだ、恵みのとき、救いのときです。福音の宣教の前進のために、これからも祈り続けましょう。
お祈り
主イエス・キリストの父なる神さま、
本日も、御前に礼拝に導かれ心から感謝いたします。
今、わたしたちは、ローマの信徒への手紙を通して、旧約歴史を担ったユダヤ人が、十字架のキリストにつまづいて不従順に陥った結果、福音は異邦人に宣べ伝えられ、異邦人が次々と救われることとなりました。しかし、だからと言って、旧約歴史を担ったユダヤ人は、もうまったく救われなくなるのではなく、異邦人が救われるのを見て、妬みを起こし、自分たちも信仰で奮起して、福音を信じ救われるときが来ることを知りました。
それゆえ、異邦人は自分たちが救われていることを、自分の手柄や功績として誇るのではなく、大きな恵みとして心から感謝することを教えられました。どうか、わたしたち異邦人クリスチャンが、ユダヤ人を見下して思い上がることなく、これからも福音に従順に従い救いの道を日々喜んで歩むことができますようにお導きください。
今日、いろいろな都合や事情で集まることができなかった兄弟姉妹、子供たちをそれぞれのところで顧みてください。
今日から始まる新しい1週間をわたしたちがどこにあっても、御言葉と聖霊によって力強く導き、豊かに祝福してください。
これらの祈りを主イエス・キリストの御名によって、御前にお献げいたします。アーメン。
http://minoru.la.coocan.jp/ro-maisuraerunokaifuku.html