* 佐々木稔 説教全集 * |
ローマ書講解説教 - 佐々木稔 | Shalom Mission |
01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ 02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ 05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利 07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放 08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み | 08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利 09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画 09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教 10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い 12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活 12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係 13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に... 15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道 16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた.. |
「光の武具を身につけて」
ローマ書13章8節―14節
13:8 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。13:10 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。
13:11 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。13:12 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。13:13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、
13:14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
はじめに
わたしたちは、主の日の朝の礼拝においては、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが、紀元56年頃ローマの信徒たちに書いたローマの信徒への手紙を学んでいますが、今日も、わたしたちは、キリストによる救いの豊かさ、深さ、大きさ、素晴らしさを順序立てて、力強く教えているローマの信徒への手紙に耳を傾けたいと思います。
では、今日の個所はどんなところでしょう。すると、今日の個所は、隣人愛の実現と救いの完成を目指す歩みについて教えられています。すなわち、信者はお互いに愛し合う義務を神から与えられていますが、愛することには、これで終わりということがない無限の豊かさをもつ素晴らしい義務であることを覚え、常に、お互いに愛の実践に励み、神から祝福を受けるように、使徒パウロは勧めています。
また、信者は、キリストの再臨による救いの完成という栄光に満ちた大目標を目指し、日々、信仰的、霊的に目覚め、よき信仰生活を送って、神から豊かな祝福を受けるように、使徒パウロは勧めています。それで、わたしたちも、隣人愛の実践に励み、また、救いの完成を目指す歩みに、日々励んでいきたいと思います。
1.信者も、社会の一員として果たすべきいろいろな義務があります
さて、それで、まず、わたしたちは、使徒パウロは、どのように、隣人愛の実践を勧めたかを見ましょう。すると、わたしたち信者が果たすべき義務は、社会においていろいろなものがあるのですが、隣人を愛するという義務は、他のすべての義務と違って、もう、これで終わりということがない義務であることを、各人がよく弁え、常に、実践していくという姿勢を持つことの大切さを、パウロはまず教えています。
8節から10節がそうです。それで、わたしたちは、8節に、「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」とありまして、「借りがあってはなりません」という勧めを見ます。
そして、わたしたちは、「借りがあってはなりません」とは、どういう意味かと思うのですが、実は、「借りがあってはなりません」という言い方は、果たすべき義務を果たさないままにして、借りたかたちにしておいてはなりませんという意味です。
すなわち、わたしたちは、前回のローマの信徒への手紙13章1節から7節までの学びにおいて、信者も神の僕である地上の国家に従う義務があること、また、地上の国家に税を納める義務があることを見ましたが、もちろん、信者が果たすべき義務は、それだけでなく、その他にもたくさんあります。他の人々と一緒に社会の一員として歩むときに、社会において果たすべき多種多様な義務があるのです。
そこで、パウロは勧めるのです。ローマの信者たちが、ローマ帝国に従って義務を果たし、ローマ帝国に税を納め、義務を果たすとともに、もっと広く、1世紀のローマ社会の一員としてのいろいろな義務を、しっかり果たしながら歩むように勧めたのです。
すなわち、信者は、神の国の一員にされているから、神の国に関する義務だけを果たせばよいかというと、決してそうではなく、同時に、この世の国家の一員、また、この世の社会の一員として、自分の義務を果たしていくことが、神の御心に適い、神から豊かな祝福を受けるのです。
そこで、1世紀のローマの信者は、当時の社会において、どのような義務を負っていたのかと思うのですが、それは、原理的には、今日のわたしたちと変わらないのです。たとえば、自分の仕事に関する義務、職場の上司や部下などに対して自分が果たすべき義務、商売相手や取り引き相手に対して、自分が果たすべき義務、友人・知人などの関連で、自分が果たすべき義務、同じ地域に住む人々と一緒に行う義務、誰かと何かの約束や取り決めをすることによって、果たすべき義務、その他いろいろな社会的義務があったはずです。
人は、一人で生きることはできません。必ず、他の人々と共に、社会というものを築いて生きていきます。そして、社会というものは、お互いに義務を果たし合うことによって成り立っています。そこで、信者も信仰に反しない限りは、社会において、自分が果たすべき義務を果たして、少しでもよい社会にし、神の栄光を現わすように努力して、神の祝福を受けるのです。このことは、今日も、また、パウロの時代も同じで変りはありません。
そこで、パウロは、「だれに対しても借りがあってはなりません」と語り、社会の一員として、自分が果たすべき義務を果たさないままにしておいて、借りのあるかたちにしておいてはなりませんと命じたのです。このことは、今日も同じです。
2.隣人愛の実践には終わりがありません
さて、以上のようにして、社会における、いろいろな義務は、積み残しがないように、果たすように、パウロは、1世紀のローマの信者たちに命じました。では、他の人、すなわち、隣人を愛するという義務も、借りがないように、また、積み残しがないように、果たせるものなのでしょうか。
すると、違うのです。信者が、他の人、すなわち、隣人を愛するように、神から与えられている隣人愛の義務は、先ほど出てきた社会のいろいろな義務と違って、これで、もう終わりということのない豊かな、素晴らしい義務であることをよく弁え、常に、隣人愛を行っていくという姿勢をもって、実践し、神から祝福を受けるべきことを、パウロは教えるのです。
8節をもう一度よく見てみましょう。すると、「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」と言われていて、「互いに愛し合うことのほかは」となっていて、隣人愛を実践する義務だけは、借りがあることから、除かれているのです。
換言すれば、お互いに愛し合いなさいという神から与えられている隣人愛の実践の義務は、いつもお互いに借りがある状態で、これで終わりと言って、返し切ることができず、無限にお互いに愛し合っていくことだけがあることを、使徒パウロは教えているのです。
8節前半に、「互いに愛し合うことのほかは」とありますが、「互いに愛し合うこと」というのは、信者が、神から与えられている隣人愛実践の義務のことです。相手が信者であれ、信者でなかれ、神のかたちに造られた尊さを持つ人間である限りは愛するという、隣人愛の実践の義務のことを表しています。
そして、他の人を尊び、大切にし、愛するというこの隣人愛の実践の義務は、社会のいろいろな義務と根本的に違って、これで、もう終わりということがなく、無限に実践していくべきとても素晴らしい義務なのです。
考えてみますと、確かにその通りなのです。先ほど出てきた社会におけるいろいろな義務というものには、終わりがあります。自分の仕事に関する義務、職場の上司や同僚や部下などに対して自分が果たすべき義務、商売相手や取引相手に対して自分が果たすべき義務、友人・知人に対して自分が果たすべき義務、同じ地域に住む人々と一緒に必要なことを行う義務、誰かとの約束や取り決めをすることによって果たすべき義務などの一連の社会的義務は、その義務をきちんと果たせば、もう、それで全部終わってしまう義務なのです。
ところが、一たび、お互いに愛し合うという隣人愛の義務は、もう、これで終わりということがないのです。隣人愛の実践は、無限なのです。愛というものは、終わりがなく、常になされていく性質を持つのです。そして、神のかたちに造られた人を愛すること、すなわち、お互いに愛し合うことは、終わりがなく、常に、なされていくということは、困ることではなく、素晴らしいことなのです。すぐれたことなのです。最高に価値があることなのです。人間が行うことで、これ以上に素晴らしいものは何もないのです。
何故なら、人を愛すること、すなわち、隣人愛は、人間が、神から与えられた人生の規範である神の律法の目的を、見事に実現成就するからです。こうして、隣人愛の実践は、人間の創造者なる神の御心にかなって、必ず、満ちあふれる祝福を豊かにもたらすのです。
8節後半に、「人を愛する者は、律法を全うしているのです」とあります。そして、さらに、10節の後半にも、「だから愛は、律法を全うするのです」とありまして、隣人愛は、人間が、創造者なる神から与えられた人生の規範である律法の目的を見事に実現成就する、素晴らしくて、すぐれていて、最高に価値があり、最高度の豊かさをもつ行為であることを、わざわざ、パウロは、2回も繰り返して強調しています。2回繰り返していることは強調です。
そして、「律法を全うする」というのは、律法の目的を完全に実現成就し、そして完成するという意味ですが、特に注目したいのは、8節の「人を愛する者は律法を全うしているのです」という言い方です。
実は、ここは、ギリシャ語では巧みな組み立てになっていまして、「人を愛する」の「愛する」という言葉は、現在進行形になっていて、今、隣人を愛しつつあることを表しています。過去に愛したとか、将来、愛するでしょうというのではなく、まさに、今、現在の事実として、愛しつつあることを表しています。
そして、「律法を全うしているのです」の「全うしている」という言葉は、わざわざ現在完了形になっていて、律法をすでにまっとうしたことが、愛したときから、今も、ずーっと続いていることを表しています。すなわち、今、隣人を愛していれば、それは、もう、すでに、律法の目的を実現したことが、今もずーと続いていることを意味しているのです。それほど、隣人愛の実践は、神の律法の目的を見事に実現成就し、そして完成する、実にすぐれた行為であって、人間を創造した神の御心にかなうことを、実に巧みに教えているのです。
それで、隣人愛は、神が人間の生き方の規範として与えた律法の目的を「全うする」こと、すなわち、実現成就することはよく知られています。神が人間の生き方の規範として与えた律法は、たとえば、十戒で、それは、「姦淫するな。殺すな。盗むな。むさぼるな」と命じているわけですが、それらの律法、掟は、すべて隣人を愛することを目的として成り立っているのです。
すなわち、隣人を愛して、隣人に悪を行わず、隣人に善を行うので、隣人と姦淫をしないのです。隣人を愛して、隣人に悪を行わず、隣人に善を行うので、隣人を傷つけたり、殺したりしないのです。隣人を愛して、隣人に悪を行わず、隣人に善を行うので、隣人のものを盗んだりしないのです。隣人を愛して、隣人に悪を行わず、隣人に善行うので、隣人のものを不当に奪おうとして、むさぼりの心を起こさないようにするのです。
こうして、創造者なる神が人間に生き方の規範として与えた律法、掟、戒めは、自分を愛するように、隣人を愛するという目的で成り立っていることがわかります。そこで、パウロも、「どんな掟も」、すなわち、どんな律法も、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約され、まとめられると言いました。
したがって、信者が隣人愛を実践することは、創造者なる神が人間に生き方の規範として与えた律法を、まさに見事に実現成就し、完成することになって、創造者なる神の御心にかない、必ず豊かな祝福をもたらすのです。ですから、隣人愛を実践することは、律法の目的を実現成就し、全うし、完成するのです。
そして、このことは、今日も同じです。今日のわたしたちも、隣人愛を実践する義務を神から与えられています。そして、隣人愛の実践の義務は、他の社会的義務と違って、もう、これで終わりということがない無限の豊かさを持つ義務であることを弁え、常に、今、隣人愛を実践しているならば、神から与えられている生き方の規範である神の律法の目的を、もう、すでに実現成就したことが今も続いていることのなり、神の御心に適い、、必ず、神御自身から、豊かな祝福を受けることになりますので、わたしたちも、御霊の力により隣人愛を、常に、今、実践する者となって歩みたいと思います。
3.今の時代は、キリスト再臨による救いの完成を目指している時代です
さて、以上のようにして、隣人愛の勧めを見るのですが、わたしたちは、もう一つの勧めを見ましょう。では、使徒パウロによるもう一つの勧めは、どんなものでしょう。すると、神の御計画において、今の時代は、キリスト再臨による救いの完成を目指している時代であることを知って、一人ひとりが、信仰的、霊的に目覚め、罪に陥らないように、自己抑制、セルフ・コントロールをしっかりしながら、善き信仰生活に励んで、祝福を受けるように、パウロが勧めたことです。
11節から14節がそうです。そして、特に13節と14節は、4世紀から5世紀にかけて、教会の指導者として、大活躍したあのアウグスチヌスの回心のきっかけとなった御言葉としてもよく知られています。この個所の注解書を見ますと、必ずと言ってよいほど、この個所はアグスチヌスの回心のきっかけとなった御言葉として記しています。
アウグスチヌスは、よく知られていますように、その当時の教会の偉大な指導者として活躍した人です。北アフリカの出身の人ですが、後に、当時の地中海世界の文化の中心地の一つであったイタリヤのミラノに出て来ました。
実は、アウグスチヌスは、若いときは、今日で言う放蕩残三昧の生活を送っていました。まさに、彼の生活は、今日の個所で言われていますように、「夜」であり、「闇の行い」であり、「酒宴と酩酲、淫乱と好色」、そして、「欲望を満足させようとして、肉に心を用いる」罪の堕落した生活でした。
そこで、熱心な信者で、常に、息子アウグスチヌスの救いのために祈っていた母モニカとの関係もあって、彼は教会へ行き、聖書に親しむようにもなるのです。しかし、彼は救いを確信できませんでした。でも、彼は、何とかして、放蕩三昧の生活から足を洗おうとするのです。しかし、自分にはその力がなく、また、罪の力にずるずる引っ張られていくので、悩み苦しみました。
ところが、あるとき、外の庭の方から、子どもたちの遊ぶ声が聞こえました。その声は、アウグスチヌスには、「取りて読め、取りて読め」と聞こえたというのです。そこで、彼は、手元にあった聖書を手に取って、読んだのです。そして、その個所が、この13節と14節でした。すなわち、「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」という個所でした。
そして、この個所を読んだときに、アウグスチヌスの心には、平安が宿りました。そして、その平安は、それまでに経験したことのない素晴らしい平安でした。そこで、アウグスチヌスはすべてを悟りました。キリストの恵みの救いがわかったのです。それで、アウグスチヌスは、それまでの罪の生活を心から反省し、悔い改め、洗礼を受け、信者となり、さらに、司教、すなわち、今日の牧師にあたる者となり、キリストの恵みによる救いの素晴らしさ、豊かさ、強さ、広さ、大きさを力強く説教し、かつ、多くの書物に書くことを通して、たくさんの人々を救いに導いたのです。
こうして、アウグスチヌスは、神の恵みを映し出す大きな鏡となったのです。アウグスチヌスを見ますと、そこには、罪に勝利した神の救いの恵みが、はっきり映し出されているのです。こうして、この個所は、アウグスチヌスの回心のきっかけの個所として、よく知られているのです。
さて、それで、わたしたちは、この個所をよく見てみましょう。すると、この個所の書き方は、この手紙の他のところ書き方と、雰囲気が、少し違うのです。どのように違うかと言えば、この個所には、印象深い言葉、比較対照の言葉、コントラストの言葉、比喩の言葉、たとえの言葉、似た言葉をまとめて、巧みに並べていることが目立つのです。
たとえば、「今がどんな時」とか、「眠りから覚めるべき時」とか、「救いは近づいている」、すなわち、キリスト再臨による救いの完成の時が近づいているなどの印象深い言葉が出てきます。
また、「夜は更け」と「日は近づいた」、「闇の行いを脱ぎ捨てて」と「光の武具を身につけましょう」が、たとえ、比喩となっており、同時に、比較対照、コントラストになっています。また、「日中を歩むように」というのは、日中の明るい光の中を堂々と胸を張って歩むという意味で、これまた印象深い言い方です。
また、「酒宴と酩酲、淫乱と好色、争いとねたみ」というのは、似た言葉が二つづつ三組、巧みに並べられています。また、「主・イエス・キリストを身にまといなさい」とありまして、主イエス・キリストとの深い結び付きを、服を着るたとえで語っています。こうして、この個所は、印象深い言葉、比喩、たとえの言葉、比較対照、コントラストの言葉、似た言葉を組みにして巧みに並べるというような特色があります。
そこで、ある人は、この個所は、もともと、1世紀の教会の信仰の詩、あるいは、1世紀の教会の賛美歌であったものを、パウロが用いて書いているのではないか。そして、この讃美歌は、それまでの罪の生活を離れて、救いの完成を目指して歩み始める洗礼式のときに歌った賛美歌であったのではないかと考えるのですが、実際、そうであったのかもしれません。
さて、それで、わたしたちは、これらの印象深い言葉、比喩やたとえ、比較・対照、コントラストの言葉、似た言葉を巧みに並べることによって、パウロは、1世紀のローマの信徒に、何を語ろうとしたのかと思うのです。すると、ローマの信徒たちが、信仰によって今の時代を認識し、今の時代は、キリスト再臨による救いの完成を目指している時代であることを知って、一人ひとりが、信仰的・霊的に目覚め、この世の罪に巻き込まれないように自己抑制、セルフ・コントロールをしっかりし、善き信仰生活に日々励むように勧めているのです。
11節に、「・・・今がどんな時であるか」、また、「眠りから覚めるべき時・・・」とあり、「時」が2回出てきますが、「時」とは、キリスト再臨による救いの完成を目指している今の時、今の時代を表しています。
そして、キリスト再臨による救いの完成は、一年ごとに近くなります。したがって、パウロやこの手紙の宛てられたローマの信徒たちが、入信した時点よりも、この手紙が書かれた時の方が、キリスト再臨による救いの完成に、一層近づいています。そこで、パウロは、11節後半で、「救いは近づいているからです」と言いましたが、こういう場合の「救い」は、キリスト再臨による救いの完成を意味します。それゆえ、キリスト再臨による救いの完成に近づいている時代の流れを表します。
考えてみますと、人類の歴史は罪の歴史でもあります。罪人である人類が犯す罪は、歴史に中に積り、積もって、ますます、霊的に暗くなっていきます。すなわち、霊的に暗い夜が更けていくのです。
しかし、歴史はそれで終わりではありません。どんなに暗い夜であっても、明るい朝と昼が巡ってくるように、人類の歴史にも、キリストの再臨というこの上ないこうこうと明るい希望の日が、必ずやって来るのです。時代は、キリストの再臨という希望の日を目指して、一日一日進んでいるのです。
では、今の時代は、そのように、キリストの再臨による救いの時代を目指して、進んでいる時代であることを認識すると、どうなるのでしょう。すると、異教の虚しい罪の生活から救い出された信徒たちは、キリスト再臨による救いの完成にあずかれるように、今の時代にあって、自己抑制、セルフ・コントロールを、しっかりし、自己をよく管理し、二度と、この世の罪に巻き込まれないようにして、善き信仰生活を日々行っていくのです。
12節後半に、「闇の行いを脱ぎすてて」、また、「酒宴と銘酊、「淫乱と好色、争いとねたみを捨て」、また、14節では、「欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」とありますが、これらの言い方は、すべて、自己抑制、セルフ・コントロールをしっかりして、この世の罪に巻き込まれないようにすべきことを教えています。
たとえば、「酒宴と銘酊」は、度を越した過度の極端な飲酒によって、自分を見失って罪を犯すことがないように、セルフ・コントロールすることを表し、「淫乱と好色」は、ローマで流行していた結婚関係以外の性の誘惑から、自分をしっかり守って、コントロールすることを表します。また、「争いとねたみ」は、自己中心から来る敵対心によって、他の人々と争って、共に生きていくべき人間関係を壊すことがないように、自己をコントロールすることを表します。
では、自己管理と自己抑制を、しっかりして、この世の罪の巻き込まれないようにするのは、何のためでしょう。すると、それは、もちろん、救いの完成を目指す善き信仰生活をして、神から豊かな祝福を受けるためです。
そこで、使徒パウロも、12節後半で、「光の武具を身に着けましょう」と語って、福音の真理を帯として腰に締め、神の正義を胸当てとし、救いのかぶとをかぶり、罪を切り捨てる剣である神の言葉を手に取って、信仰的・霊的に武装するように、力強く勧めました。
この武装の姿は、1世紀のローマ軍の兵士の武装の姿をイメージしていて、信者は、キリストの兵士として、信仰の武具で霊的に武装する姿を描いています。信者は、キリストの兵士であり、罪の力とこの世の誘惑と戦って勝利するために、信仰的、霊的に武装するのです。
「光の武具を身に着けましょう」とありますが、「光の武具」とは、「闇の行い」に対立する言葉ですので、「闇の行い」が、この世の罪の行いを意味し、「光」は、「信仰」を意味し、「光の武具」とは、信仰の武具を表すと考えられます。それにしても、「光の武具」とは、何と、きれいで力強い素晴らしい表現でしょう。いかにも、当時の力強い賛美歌の言葉ではなかったかと思わせられます。この手紙を読んだ1世紀のローマの信者たちは、毎日、街で見かけている完全武装したローマ軍の兵士たちと違って、自分たちが信仰的、霊的に完全武装したキリストの兵士たちであることを強く自覚したことでしょう。
また、13節前半に、「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」と、パウロは語って、夜の暗闇を人目をしのび、はばかって歩くようにではなく、日中、昼間、ハイヌーンの明るい光の中を、キリスト信者として、胸を張って堂々と歩くように、道徳的な善き品性をもって生活するように、パウロは勧めました。
また、「主イエス・キリストを身にまといなさい」と語って、一人ひとりが、衣、服をまとうかのように、主イエス・キリストと一体となって、歩むように勧めました。「キリストを身にまとう」という言い方は、キリストとの信仰による一体化を表す言い方です。ローマの信徒たちは、異教から改宗し、洗礼を受けたとき、ぼろぼろになったこの世の罪の古い衣を脱いで、キリストという新しいピカピカの永遠の衣を身にまとうようになりましたが、逆戻りして、再び、この世の罪でぼろぼろになった古い衣をまとうようなことがないように、しっかり歩んでいくのです。
そして、これらのことは、今日も同じです。恵みによって罪から救われたわたしたちは、一人一人が、信仰的・霊的に目覚め、自己をよく管理し、セルフ・コントロールし、この世の罪に巻き込まれないようにし、キリスト再臨による救いの完成を目指し、善き信仰生活をし、神から、日々豊かな祝福を受けるのです。わたしたちは、輝かしい希望を目指し、歩んでいくのです。信者は真の希望に生きる人々なのです。
結び
こうして、わたしたちは、今日のところを見ます。そして、わたしたちも、救いの完成を目指し、御霊の力により、隣人愛の実践に励み、「光の武具」、すなわち、信仰の武具を身につけて、霊的な戦いをし、勝利しながら、今週も真の人生を力強く歩んでいきたいと思います。
お祈り
憐れみ深い天の父なる神さま、
あなたの変わらぬいつくしみにより、1週間の歩みを各々のところで守られ、今日、また新しい週のはじめに御前に礼拝に導かれ心から感謝いたします。
今、わたしたちは、ローマの信徒への手紙を通して、クリスチャンのまじわりについて教えられました。根本的でないことにおいては、違いがお互いにあることを認め合い、キリストによって贖われ、キリストの所有にされていることにおいて一致していることを根本的に大切にし、教会の平和なまじわりを築き、共に永遠の生命の道を喜んで歩んでいくことができますように、聖霊の力と導きをお与えください。
外部から講師の先生をお招きしての伝道集会も近づいてきましたが、どうかよい備えをしていくことができますように、そして、一人でも多くの人が集まって、キリストによる救いのお話を耳にすることができますようにお導きください。
また、今日集まることができなかった方々にも、それぞれのところで祝福がありますようにお願いいたします。
これらの祈りを主イエス・キリストの御名により御前にお献げいたします。アーメン。
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