* 佐々木稔 説教全集 * |
ローマ書講解説教 - 佐々木稔 | Shalom Mission |
01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ 02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ 05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利 07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放 08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み | 08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利 09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画 09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教 10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い 11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い 12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活 12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係 13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に... 15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道 16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた.. |
「神がお定めになった救いの方法-信仰義認」
ローマ書9章30節―10章4節
はじめに
わたしたちは、主の日の朝の礼拝においては、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが、紀元56年頃、ローマの信徒たちに書いたローマの信徒への手紙を学んでいますが、今日も、わたしたちは、キリストにある素晴らしい救いを順序立てて教えているローマの信徒への手紙を共に、学びたいと思います。
それで、今日のところは、何が語られているのでしょう。すると、信仰によって救われるという神がお定めになった信仰義認による方法で、救いを求めた異邦人は、次々と救われ、律法をすべて完全に行って救われるという自分勝手な律法主義による方法で、救いを求めたイスラエルの民の多くは、救いを受けることができなかったことが、パウロによって語られています。
それで、ここから3点、お話をいたします。第1点は、神の義を求めることのなかった異邦人は、神がお定めになった方法である信仰によって 義を求めて、救われたという点です。第2点は、律法をすべて完全に行って救われるという自分勝手な律法主義による方法で、義を求めたイスラエルの民の多くは、救いを受けることができなかったという点です。第3点は、イスラエルの民は、熱心に、律法を行うことによって、神の義を求めましたが、その熱心は誤った熱心であって、正しい認識に基づくものではなかったという点です。
そこで、わたしたちも、ここを学んで、神が、お定めになった救いの方法は、十字架にかかったイエスさまを自分の救い主と素直に信仰し、恵みによって、義を与えられて救われるという信仰による方法であることを、再確認し、わたしたちも、この方法で、宝もののように尊い救いを自分のものにし、これからも、救いの喜びと希望に満ちあふれて、大切な人生を歩んでいきたいと思います。
1.異邦人は、神がお定めになった信仰によって 義を求めて、救われた
早速、第1点に入ります。第1点は、神の義を求めることのなかった異邦人は、神がお定めになった方法である信仰によって 義を求めて、救われたという点です。わたしたちは、前回、救い主のイエスさまを民族的な規模で、拒否して、十字架につけて殺すというメシア殺しの大罪を犯した1世紀のイスラエルの民の多くは、神の正当な審判により「怒りの器」として、滅ぶべきものとされて、救われず、イスラエルの民の中で、少数の者だけが、神の主権的憐れみにより、救われて、「憐れみの器」とされ、さらに、「憐れみの器」には、旧約歴史のない霊的暗黒にむなしく坐していた異邦人の中からも、救われる人々が出てきて、彼らも「憐れみの器」にされたことを見ました。そして、これらすべてのことは、焼き物師が、同じ粘土から、一つを尊いことに用いる器に造り、もう一つを尊くないことに用いる器に造るたとえで、何ものにも捕らわれない神の自由な主権性によって生じることが、パウロにより、厳かに語られていました。
こうして、救いは、神の自由な選びの計画によるのであり、その自由な選びの計画は、神が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむという、人間の思いをこえる神の主権的な憐れみよって成り立ち、人間は「憐れみの器」とされるのです。それゆえ、人間は、神と対等であるかのように、何故、神は、1世紀のイスラエルの民の多くを救わないのかと、神のなさることに口答えしたり、言い返したり、反論したり、異議を唱えるべきではなく、神のなさることを信仰によって受け入れるべきことが、パウロにより、教えられていました。そして、このことは、人間の救いというものを、神の側から見たものでした。すなわち、救いは、神の側から見ると、人間の思いを超える神の主権性によって生じるということが教えられていたのです。
では、今度は、観方を、ガラリと変えて、救いを、神の側からでなく、人間の側から見ると、どうなるのでしょう。すなわち、何故、1世紀のイスラエルの民の大多数は救われず、逆に、旧約歴史のない霊的暗黒にむなしく坐していた異邦人の中から、救われる者が続々と出てきたのでしょう。
すると、人間の側から見れば、1世紀の異邦人は、神がお定めになった方法で、すなわち、十字架にかかったキリストを救い主と信仰して、義、すなわち、神の前での正しさを、恵みとして受け、救われたからであり、イスラエルの民は、神がお定めになった方法によらずに、十字架にかかったキリストを、救い主と信仰しなかったので、義、すなわち、神の前での正しを、恵みとして与えられず、救われなかったのです。9章30節がそうです。
30節に、「では、どういうことになるのか」と、パウロは、問いを立てています。すなわち、旧約歴史を担った1世紀のイスラエルの民の大多数は救われず、逆に、旧約歴史のない霊的暗黒にむなしく坐していた異邦人の中から、救われる人々が続々と出てきたのは、どういうことなのでしょうと、その出来事の理由を問うています。
考えてみれば、不思議なことです。長い旧約歴史を担い、神の民と言われてきたイスラエルの民は、義、すなわち、神の前での正しさを得なかったのに、旧約歴史を担うことがなかったため、人間の創造主なる真の神のいますことさえも知らず、また、それゆえに、義、すなわち、真の神の前での正しさなど追い求めてこなかった異邦人が、その義を得て、救われ、御霊の実である喜びと希望に満ちあふれて、真の人生を歩んでいるということは、考えてみれば、さかさまにも観えることです。それは、逆じゃないかと言える状況でした。
30節に、「義を求めなかった異邦人」とありますが、「義」とは、神の前での正しさ、神との関係の正しさ、神の前での正しい身分のことです。人間が、義、すなわち、神の前での正しさを持てば、当然、神から義なる者、すなわち、正しい者と認められ、救われ、最後の審判で、神に裁かれることなく、滅びを宣告されることもありません。ですから、人間が、義、神の前での正しさを持つことが、実際には、救われることと同じです。
でも、異邦人は、旧約歴史を担うことがなかったゆえに、人間の創造主なる真の神のいますことさえも知りませんで、先祖伝来の虚しい偶像礼拝をし、日々、神の御心に反する罪を犯しなら生きていました。それゆえ、まして、異邦人は、義、すなわち、真の神の前での正しさなど、まったく追い求めてきませんでした。
しかし、ところが、彼ら異邦人は、パウロをはじめとするイエスさまの弟子たちが宣べ伝えるよき知らせである福音を聞いて、自分たちが罪人であることを率直に認め、十字架にかかったイエスさまを自分の救い主と信じて、すべての罪とがを赦され、義、すなわち、神の前での正しを、恵みとして、与えられ救われ、真の人生を、喜びに満ちあふれて、歩む人々が、続々と出てきたのです。
こうして、異邦人は、神がお定めになった十字架にかかったイエスさまを自分の救い主と信仰して、義、神の前での正しを与えられるという方法で、義を得て救われたのでした。そこで、パウロは、30節で、異邦人は、「信仰による義を得ました」と言い、異邦人は、神がお定めになった方法で、すなわち、信仰の方法で義を求めたので、実際に、義を与えられて救われたことを語りました。「信仰による義を得ました」というのは、神がお定めになった信仰の方法で義を求めたので、義が与えられたことを表しています。
ですから、確かに、人間の救いは、以前から、何度も触れていますように、神の主権によって生じるのですが、しかし、だからと言って、人間は、何もしないで、自動的に、機械的に救われるわけでは、決してないのです。神の主権は、神がお定めになった救いの方法である、十字架にかかったイエスさまを自分の救い主として、一人ひとりが、積極的に信じて、義を与えられて、救われるのです。
それゆえ、神の主権によって救われるということは、わたしたち人間を、何もしないロボットにはしないのです。逆に、人間が、十字架のイエスさまを信仰するという神がお定めになった方法で、責任ある応答を、積極的にすることによって救われるのです。
そして、実際、1世紀の異邦人は、神がお定めになった十字架のイエスさまを救い主として信仰するという方法によって、積極的に応答をして、義、神の前での正しさを恵みとして、賜物として与えられ、そして、救われ、喜びに満ちあふれた真の人生に歩み始めたのでした。こうして、異邦人世界に、明るい光が、こうこうと輝き始めたのでした。
そして、この方法は、今日も同じです。それゆえ、わたしたちも生まれながらの全的堕落の罪人で、日々、罪を犯して生きていますが、最後の審判で、神に裁かれ、滅びを宣告されることから、免れるために、神が主権的にお定めになった唯一の方法である十字架にかかったイエスさまを自分の救い主と、何があっても揺るがずに信仰し、義、すなわち、神の前での正しさを恵みの賜物として与えられ、救われて、御霊の結ぶ実である喜びと希望に満ちあふれ、日々、よい歩みをしていきたいと思います。
2.イスラエルの民は、律法主義による方法で、義を求めた
第2点に入ります。第2点は、律法をすべて完全に行って救われるという自分勝手な律法主義による方法で、義を求めたイスラエルの民の多くは、救いを受けることができなかったという点です。
すなわち、1世紀のイスラエルの民の多くの人は、十字架にかかったイエスさまを救い主と信仰せず、人の生き方の規範として与えられていたモーセの十戒めをはじめとするすべての律法を完全に行って、自力で、義、神の前での正しさを得て、救われるという自分勝手な律法主義の方法によって、義に導く律法を追い求めたので、義に到達することができず、救われることができませんでした。
すなわち、1紀のイスラエルの民の多くの人は、十字架にかかったイエスさまへの信仰ではなく、自分勝手に、律法主義の方法によって、義を求めたので、救いを得ることができなかったのです。彼らは、律法をすべて完全に行って、義に到達できると考えましたが、これが、そもそも根本的な誤りであったのです。律法主義によって、義を得ることは、神がお定めになった方法ではありませんでした。1紀のイスラエルの民の多くの人は、自分たちが十字架にかけて殺したイエスが、約束のメシア、救い主であるはずがないと、自分勝手に思い込みました。こうして、イエスさまが、当時、極悪人にしか課せられない最も屈辱的な十字架にかけられて死んだことが、1世紀のイスラエルの民の多く人の躓きの石となったのでした。31節と32節がそうです。
31節に、「イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした」とありますが、その意味は、1紀のイスラエルの民の多くの人は、義に導く律法を追い求めて、律法をすべて完全に行って、律法の要求に応えようとしましたが、しかし、もちろん、律法の要求に到達することは、到底、できなかったことを意味しています。
「義の律法」というのは、義に導く律法と言う意味です。信仰でなく、律法が、自分たちを義に導いてくれるのだと思い込み、律法をすべて完全に行って、律法の要求に到達して、義を得ようとしたことを表します。「達する」というのは、到達するという意味ですが、律法の要求に到達できず、それゆえ、もちろん、義を得ることができませんでした。
こうして、1世紀のイスラエルの民の多く人は、神がお定めになった信仰によって義を得ようとしたのでなく、自分勝手に考えた律法の行いによって義を得るという律法主義の方法によって、義を得ようとして、最も屈辱的な十字架にかかって死んだメシアのイエスさまへが、彼らには、つまづきの石となったのです。
つまづきの石とは、人がつまづいて、倒れてしまうものを表します。たとえば、人が歩くところに石があれば、その人は、その石につまづいて、倒れてしまうところからきたたとえです。そこから、比喩的に、人が、信仰的につまづいて、倒れて、救いから外れてしまうものを意味します。具体的には、十字架のイエスさまのことです。救い主、メシアのイエスさまが、極悪人にしか課せられない恥と苦しみの十字架にかかって死んだことは、1世紀のイスラエルの民の多く人にとって、つまづきの石でした。でも、それこそが、まさに、神が、お定めになった救いの方法であったのです。
こうして、十字架にかかったイエスさまを救い主と信仰するか否かで、救いか、それとも、つまづきかに分かれたのですが、実は、十字架のイエスさまを信仰するか否かで、救いか、それとも、つまづきかに分かれることは、旧約時代にすでに語られていたこととして、パウロは、旧約聖書イザヤ書8章14節と28章16節を自由に組み合せて、引用し、説明しました。
そこに括弧に入った御言葉が出てきますが、この御言葉は、パウロが、旧約聖書イザヤ書8章14節と28章16節を自由に組み合せて、引用したものです。そして、その意味は、神は、「シオン」、すなわち、イスラエルに、「つまづきの石、妨げの岩」、すなわち、十字架にかかるメシアを置きますが、十字架にかかるメシアであるこの石、この岩につまづかないで、「信じる者は、失望することがない」、すなわち、信じる者は、救われるので、失望することがないという意味です。「シオン」というのは、ヘブライ語で、もともと、砦とか要塞という意味ですが、これで、エルサレムの町を意味しましたが、エルサレムの町は、イスラエルの中心でしたので、「シオン」という言葉で、ここでは、神の民であるイスラエルを表しています。
そして、その通りのことが、1世紀のイスラエルの民に起こったのです。異邦人は、十字架のイエスさまにつまづくことなく、信仰によって救われて、失望しませんでした。かえって、救われて、希望で胸を膨らませて、御霊が豊かに働く新しい真の人生に次々と立ち上がりました。しかし、イスラエルの多くの人は、恥と苦しみの十字架のイエスさまにつまづき、何にも増して尊い救いを受けることができませんでした。
神は、律法をすべて完全に行って、義を自力で獲得するというまったく不可能な難解な方法ではなく、十字架にかかったイエスさまを、幼な子のように素直に信仰して、義を恵みとして与えられ、救われるというごく平易で、単純なな方法を定めてくださったことを、わたしたたちは、心から感謝したいと思います。
3.イスラエルは、熱心に、律法を行うことによって、神の義を求めた
第3点に入ります。第3点は、イスラエルの民は、熱心に、律法を行うことによって、神の義を求めましたが、その熱心は誤った熱心であって、正しい認識に基づくものではなかったという点です。10章1節から4節がそうです。
パウロは、神がお定めになった信仰によって、義を求めることをせず、律法の行いによって、自力で、義を獲得しようとしているゆえに、つまづいているイスラエルの民が、救いの方法について正しい認識に基づいて、義を求めて救われることを、心から願って、彼らのために、執り成しの祈りを、常に行っていました。
すなわち、1世紀のイスラエルの民は、旧約歴史を担った神の民であり、異邦人が偶像に仕えていたのとは違って、創造主なる真の神に、熱心に仕えていたことは、パウロも十分認めて、証言できる事実でした。イスラエルの民は、エルサレム神殿においては、旧約聖書のレビ記に命じられていますように、動物犠牲を献げて、毎日、朝と夕べの礼拝をはじめとして、一年を通して、いろいろな儀式を、すべて怠りなく、熱心に守っていました。
また、町や村の会堂においては、毎週の安息日礼拝を厳格に熱心に守っていました。また、母国のユダヤの地を離れて、地中海各地に散らばって住んでいたデアスポラ、すなわち、離散のユダヤ人と言われるユダヤ人々は、成人男性が10人いれば、会堂を建てて、安息日礼拝を守ったと言われるほど熱心でした。また、その町にユダヤ人が少なく、会堂を建てられない場合には、川のそばなどに簡単な祈り場を作って、集まり、安息日礼拝を守るほどの熱心さであったのです。
こうして、1世紀のイスラエルの民は、母国においても、地中海各地に散らばっていても、神に熱心に仕えていたことは事実で、パウロも、2節で、「わたしは、彼らが熱心に仕えていることを証ししますが」と述べて、彼らの熱心を法廷で証言するかのように十分認めています。「証ししますが」とありますが、「証しする」という言葉は、もともとは、法廷で証言するという意味の言葉が使われているほどです。それほど、熱心であったのです。
ですから、1世紀のイスラエル民の多くが救われなかったのは、神に対して、熱心さが足りなかったからではないのです。では、何故、それだけ、熱心であったのに、救われなかったのでしょう。すると、それは、彼らが、恥と苦しみの十字架のイエスさまを救い主として信仰し救われるという神がお定めになった救いの方法について、正しい知識、正しい認識を持っていなかったからです。逆の言い方をすれば、誤った救いの方法で、義、神の前での正しを求めたからです。
すなわち、1世紀のイスラエルの民の多くの人は、信仰を通して神が与えてくださる義について無知であり、律法を行うことによって、自分の義、すなわち、自分自身の正しさ、自己義認で救われようとしたからです。3節に、「神の義」と「自分の義」が、比較対照的に出てきていますが、「神の義」とは、神の前での正しさのことで、恥と苦しみの十字架のイエスさまを信仰することによって、恵みの賜物として与えられる人を救う義ですが、「自分の義」とは、律法をすべて完全に行うことによって獲得する自分自身の正しさを表しています。
こうして、1世紀のユダヤ人は、神の民と言われながらも、また、自分たちも、神の民であることを誇っていたのに、神がお定めになった方法で得られる神の義に、従うことをしなかったのです。このことは、大変皮肉なことでした。
神がお定めになった救いの方法は、罪人である人間に代わって、律法をすべて完全に守って、義を獲得してくださったキリストを信じて、キリストが獲得した義を、自分に、恵みとして与えてもらうこと、自分に転嫁してもらうことによって、義を自分のもとして、救われることであったのです。
こうして、キリストは、律法の終わりとなられたのです。確かに、律法をすべて完全に行えば、義を、自力で獲得して、救われます。しかし、最初の人アダム以来、すべての人が罪人に転落して、霊的無能力になったので、最早、誰も、自分の力で、律法をすべて完全に行って、義を、自力て獲得して、救われる人はいなくなりました。
でも、神から遣わされたイエスさまは違います。イエスさまは、地上生涯において、自力で、すべて完全に律法を行うことによって、神の前での正しさである義を、自力で獲得しました。それは、何故か言えば、イエスさまを救い主と信じるわたしたちに、イエスさまが獲得した義を、恵みとして、与えて、義を転嫁して、わたしたちが信仰によって、救われるためであったのです。
イエスさまは、わたしたちの代わりに、律法をすべて完全に行って、義を獲得し、その義を、わたしたち信じる者に、恵みの賜物として、与え、転嫁して、わたしたちが救われるようにしてくださったのです。ですから、イエスさまは、わたしたち罪人に不可能な律法による救いの方法を終わらせてくださったのです。
4節に、「キリストは律法の目標であります」とありますが、「目標」という原語は、もちろん、「目標」という意味がありますが、それとともに、「終わり」という意味があります。そして、ここでは、「終わり」と訳した方が、文脈上よいのです。以前の口語訳聖書も「キリストは・・・律法の終わりとなられたのです」と訳していましたが、こちらの訳がよいのです。
キリストは、御自分を救い主と信じる者に、義を、恵みとしてもたらし、与え、転嫁するために、御自分が、わたしたち人間に代わって、律法をすべて完全に行って、御自分で、神の義を獲得することによって、律法をすべて完全に行って救われるというわたしたち人間に不可能な方法を終わりにしてくださったのです。
それゆえに、1世紀の異邦人は、律法をすべて完全に行って救われるという方法を終わりにしてくださったイエスさまを信じるだけで、恵みの賜物としての義を与えられて、救われるという平易で、単純な、しかし、確実な方法で、次々と救われたのです。
今日も同じです。律法をすべて完全に行って救われるというのであれば、わたしたちは誰ひとりとして救われません。でも、十字架のイエスさまを救い主と信じただけで、恩寵により、確実に救われるのですから、本当に、ありがたいことです。心の底から感謝できます。
結び
以上のようにして、今日の個所を見ます。わたしたちも、神御自身が、御心によって、お定めになった救いの方法である十字架にかかったイエスさまを自分の救い主と素直に信仰し、恵みによって、義を与えられて救われ、今週も、御霊の結ぶ豊かな実である救いの喜びと希望に満ちあふれて、大切な人生を歩んでいきましょう。
お祈り
憐れみ深い天の父なる神さま、
各々の持ち場、立場での1週間の歩みを、お守りくださいまして、今日、また、新しい週の最初の日に、御前に、あなたへの礼拝に導いてくださり、心から感謝いたします。
、わたしたちは、聖書を通して、救いは、律法主義によるのではなく、最も屈辱的な十字架にかかったイエスさまを約束の救い主と信じて、あなたから義と認められ、恵みによって、救われるという信仰義認の方法を、あなたがお定めになられたことを、改めて、教えられました。
これらも、信仰義認に、ますます、一層、固く立ち続けて、信仰の道を喜んで、生涯、歩むことができますように、聖霊の導きと助けをお与えください。
また、イエスさまを、自分の救い主と信仰しただけで、恵みによって、救われるの人々が、わたしたちの教会を通しても、さらに起こされていきますように、伝道を豊かに祝福してください。
本日、種々の都合や事情で、出席できなかった兄弟姉妹に、それぞれのところで顧みがありますように、お祈りいたします。
これらの祈りを、主イエス・キリストの御名によって、御前に、お献げいたします。アーメン。