* 佐々木稔 説教全集 *   

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   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6;5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


「ユダヤ人の誤った反論」

ローマの信徒への手紙3:1-8


 はじめに


  お話をさせていただきます。では、これから、聖書のどこの個所のお話しをするかと言いますと、ローマの信徒への手紙の3章前半です。これまでに、ローマの信徒への手紙を5回、お話をさせていただきましたが、今日は、その続きで、6回目で、3章前半のお話となります。

 

 ローマの信徒への手紙は、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが、紀元56年頃書いた手紙ですが、わたしたちは、これまで、ローマの信徒への手紙から何を学んできたのでしょう。すると、モーセの十戒をはじめとする人の生き方の基準である神の律法を持ち、また、神の民のしるである割礼を身に帯びていても、実際に、日常生活において、律法に背く数々の悪事を犯して、そのことが、1世紀の地中海世界の人々に、広く知られていた1世紀のユダヤ人は、異邦人と同じ罪人であり、神に裁かれることが、パウロにより、語られていました。

 

そして、実は、今日の3章前半も、その続きで、自分たちが、神に裁かれる罪人であることを決して認めようとせず、激しく、反論をしてくる1世紀のユダヤ人を念頭に置いて、ユダヤ人も、罪人であることを、パウロが、最後的に、はっきり断言している個所なのです。

 

 それで、今日の個所は、そのまま読むと、何を言おうとしているのか、わかりにくいかもしれませんが、実は、ここは、パウロに対して、激しい反論をしてくる1世紀のユダヤ人を念頭に置いて語られています。すなわち、1世紀のユダヤ人は、神に不真実で、不誠実な罪人で、約束の救い主のイエスさまを十字架につけて殺すというメシア殺しの大罪を犯したのですが、それにもかかわらず、あの手、この手で、自分たちは罪人ではない、それゆえ、神に裁かれることはないと、強く、激しく、何と4つもの反論を展開するのです。そこで、パウロは、彼らの激しい4つの反論を最後的に退けて、1世紀のユダヤ人も、神に裁かれる罪人であり、それゆえ、救いを必要とすることに導いていくのです。ローマの信徒への手紙は、難しいと言われますが、できるだけ簡潔にお話ができればと思います。

 

1.第1の反論


 さて、それで、まず、わたしたちは、第1の反論を見たいと思います。すでに学びましたように、パウロは、ユダヤ人も、異邦人と同じ罪人であることを2章で述べてきました。しかし、ところが、1世紀のユダヤ人は、心が石のように固く、自分たちが異邦人と同じ罪人で、自分たちも神に裁かれるということを、素直に認めようとはしないのです。素直に認めるどころか、逆に、激しく反論してくる有様でした。。

 

 では、当時のユダヤ人は、どのような反論をしたのでしょう。すると、それらの反論は、誤解と曲解と極端で成り立つ反論でしたが、次々と4つの反論をしてきたのです。そこで、わたしたちは、当時の1世紀のユダヤ人の4つの反論を、一つづつ見ていきましょう。

 

 すると、パウロに対するユダヤ人の第1の反論は、ユダヤ人は、神の民のしるしである割礼を身に帯びているのに、パウロは、ユダヤ人が、異邦人と比べて、何の特権もないと言っているのはおかしいという反論です。

 

 3章1節がそうです。「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か」とありますが、これは、1世紀のユダヤ人の反論です。すなわち、これまでのパウロの言い方を見ますと、パウロは、少し前の2章28節で、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく」と語り、ユダヤ人も、異邦人とまったく同じ罪人で、ユダヤ人には何の特権もないと言っているかのように聞こえるが、それはおかしい、ユダヤ人には、異邦人と違う特別な権利、特権があるはずだというユダヤ人の反論を意味しています。

 

また、パウロは、もう少し前の2章25節後半でも、「それは割礼を受けていないのと同じです」と語り、神の民のしるである割礼のあるユダヤ人は、神の民としての実を、実際に、結んでいないので、割礼のない異邦人と同じであり、割礼そのものに価値がないと言っているように聞こえるが、それはおかしい、割礼そのものには、価値があるはずだというユダヤ人の反論を意味しています。

 

それで、3章1節の「ユダヤ人の優れた点は何か」とありますが、「優れた点」とは、原語では、特権という意味です。直訳すれば、「ユダヤ人の特権は何か」となり、ユダヤ人には、特権、特別な権利があるはずだという反論です。また、「割礼の利益は何か」とありますが、割礼とは、神の民のしるしで、生後8日目の男の子の生殖器に傷をつける儀式です。これは、イスラエルの民だけが、世界の多くの民の中から選ばれて、神の民とされるという契約のしるしでしたが、パウロの語ることを聞いていると、割礼を受けたユダヤ人も、割礼を受けていない異邦人と同じと聞こえるが、それは、割礼そのものの価値を認めていないことになり、おかしいというユダヤ人の反論を意味しています。「割礼の利益は何か」とありますが、「利益」というのは、原語では、価値という意味です。ですから、「割礼の価値は何か」ということになります。

 

こうして、ユダヤ人の特権を認めないと言っているように聞こえるパウロはおかしい、割礼そのものの価値がないと言っているように聞こえるパウロはおかしいと、1世紀のユダヤ人は、キリスト教の伝道者のパウロに対して、激しく反論したのです。

 

そこで、パウロが、応答するのです。パウロは、ユダヤ人の特権、また、割礼そのものの価値を否定してはいないのです。いないどころか、逆に、しっかり認めているのです。すなわち、ユダヤ人の特権、そして、神の民のしるしである割礼そのものの価値は、いろいろな観点から言及できるのです。ユダヤ人の特権は、たとえば、万物の創造主なる真の神を知っていたこと、エジプトで奴隷であったところから、指導者モーセを立てて、神により救い出されたこと、旧約時代において、神に従えば必ず豊かに祝福され、敵から守られたこと、信仰の弱さを助けるために、目に見えるしるしとしての価値を持つ割礼そのものが、神の配慮により与えられたことなど、いろいろあるのです。

 

しかし、何と言っても、一番大きな特権は、全世界の救い主・メシアの出現の約束を中心とした神の言葉が、ユダヤ人に、委ねられ、託されたことです。これ以上に、大きな特権はありません。3章2節で、「まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです」とありますが、「神の言葉」とは、原語では、単数形でなく、わざわざ意識的に、複数形になっていますので、「神のいろいろな言葉」という意味です。では、「神のいろいろなことば」とは、具体的に何でしょう。すると、いろいろな仕方で、いろいろな場合に、ユダヤ人に語られてきた神の言葉を意味しています。

 

具体的には、旧約聖書のいろいろな言葉のことです。たとえば、神が、ユダヤ人の先祖のアブラハムに直接語った神の言葉とか、十戒をはじめとする律法のかたちでモーセに語られた神の言葉とか、神がイザヤ、エレミヤ、エゼキル、ダニエルなどの預言者たちに語った神の言葉とか、詩篇や箴言のかたちで語られた神の言葉など、いろいろな仕方で、いろいろな場合に、ユダヤ人に語られてきた神の言葉、すなわち、旧約聖書全体を指していると言えます。

 

そして、いろいろな仕方で、いろいろな場合に、ユダヤ人に語られてきた神の言葉である旧約聖書全体の中心は、何と言っても、全世界の救い主・メシアの出現についての約束の言葉が中心です。こうして、全世界の救い主・メシアの出現の約束の言葉が中心である神の言葉の旧約聖書は、確かに、長い歴史において、ユダヤ人にその維持と管理が委ねられ、託されてきたのです。そして、実際、このローマの信徒への手紙が書かれた1世紀のユダヤ人も、神の言葉である旧約聖書を維持、管理してきたのです。

 

こうして、パウロは、異邦人と異なるユダヤ人の特権を、十分、認識し、認めていたことがわかります。これで、パウロは、ユダヤ人の第1の反論を退けました。1世紀のユダヤ人は、自分たちが罪人であることを認めたくないので、石のように固い心で、頑なに、激しく反論してきますが、パウロは、その反論を無視せず、愛と忍耐をもって、しっかり答えて、ユダヤ人を、キリストによる尊い救いに、一人でも多く導こうとしているのです。わたしたちも、今日、誰かが、キリスト教信仰について、聞いてきた場合には、無視しないで、しっかり答えられるようになりたいと思います。

 

2.ユダヤ人の不真実


 では、パウロに対するユダヤ人の第2の反論は何でしょう。すると、ユダヤ人は、彼らに委ねられた神の言葉を忠実に守り、神に対して誠実であったと言えるかどうかです。すると、決して、誠実ではありませんでした。3章3節に、「それはいったいどういうことか。彼らの中には不誠実な者たちがいたにせよ」とありますが、「不誠実な者」とは、どのようなことを、具体的に意味するのでしょう。

 

 これについては、幾つかの理解があります。少し前の2章21節から24節で言われていたことを意味しているのかもしれません。すなわち、1世紀のユダヤ人は、「盗むな」と説きながら、自ら盗んで窃盗事件をしばしば犯し、「姦淫するな」と言いながら、自分の妻がいるのに不倫問題をしばしば起こし、「偶像を忌み嫌いながら」も、宗教的に汚れた偶像を祭る異教の神殿に自分から進んで近づき、侵入し、金目のものをかすみ取り、奪って、売り捌き、お金に換えるという異教の神殿荒らしの悪事をしていて、これらのことは、1世紀の地中海世界において広く知られていて、ユダヤ人の神は、悪事を許す神なのかと異邦人からさんざん嘲られている始末でした。これらのことを、「彼らの中には不誠実な者たちがいたにせよ」と、言っているのかもしれません。

 

そして、また、「彼らの中には不誠実な者たちがいたにせよ」という言い方は、実は、原文を直訳すれば、「彼らの中には不誠実をした者たちがいたにせよ」という「不誠実をした者たち」という動詞の言い方で、その動詞のかたちが、わざわざ、過去における1回的な出来事を示すかたちになっています。 

 

そこで、その動詞のかたちが、わざわざ、過去における1回的な出来事を示すかたちにされていることに、大きく注目するならば、何と言っても、1世紀のユダヤ人が、約束の救い主・メシアのイエスさまを拒否して、十字架につけて殺してしまう罪を犯したことによって、神がユダヤ人と結んだ救いの契約あるいは救いの約束に対して、ユダヤ人が不誠実をしたことが、これで、意味されているのかもしれません。

 

また、ここで、パウロは、「彼らの中には不誠実な者たちがいたにせよ」という言い方で、ユダヤ人全体が不誠実であったと言わないで、「彼らの中には」というワンクッションを入れた言い方をしていますが、これは、ユダヤ人の一部の人々だけが、神に対して不誠実で、不真実であって、他の大部分のユダヤ人は、神に対して誠実で、真実であったと言おうとしているのではなく、ユダヤ人が全体として、不誠実で、不真実であったのですが、しかし、パウロは、ユダヤ人を、ここで厳しく責めること自体が目的ではなく、ここでは、ユダヤ人が神に対して、不誠実で、不真実であった事実だけを述べることが目的であったので、「彼らの中には」という一語を入れて、和らげたと考えられます。

 

しかし、だからと言って、1世紀のユダヤ人は、自分たちの不誠実、不真実を、罪と認めて、心柔らかにして、悔い改めたかというと違うのです。なお、まだ、ユダヤ人は、さらに、手をゆるめず、反論してくるのです。すなわち、もし、自分たちユダヤ人が、神に対して不誠実と言うならば、ユダヤ人がいろいろな悪事することと約束の救い主メシアを十字架につける大罪を犯すことを許した神御自身も、不誠実となり、神の誠実それ自体も無力化されて、神御自身も不誠実になってしまう、神御自身が不誠実になるということは、それはおかしい、だから、自分たちは、不誠実な罪人ではないと、パウロに反論したのです。もう、この段階になってきますと、1世紀のユダヤ人の反論は、筋が通らない反論になってきます。

 

そこで、パウロは、人間というものは、あの人も、この人も、すべての人が、うそ・偽りを語る不誠実な罪人であっても、神は、常に、いつも変わらず、誠実で、真実であるので、神の誠実や真実が無力化されて、神や神の言葉が不誠実になることは、絶対にあり得ないことを、とても強く語ります。4節に「決してそうではない」とありますが、以前の口語訳聖書のように「断じてそうではない」と訳した方が、パウロのとても強い否定の気持ちが、読者のわたしたちの心に、より伝わってくるかもしれません。

 

そして、わたしたちは、4節に鍵括弧に入っている御言葉を見ますが、この御言葉は、旧約聖書、詩篇51編4節のあのダビデの言葉の引用です。ダビデは、イエスさまよりもちょうど千年ほど前のイスラエルの王でした。若いときからとても信仰深い人でした。若いときに、ガトのゴリアトという雲を突くような敵のペリシテ人の大男と1対1で、戦って、勝利しました。そして、そのダビデの勝利は、神への強い信仰によるものでした。

 

そのようなことの後、いろいろなことがありましたが、ダビデは、神の恵みにより、イスラエルの王となりました。しかし、その信仰深い王ダビデも、また不誠実な罪人でした。これらのことは、旧約聖書・サムエル記下11章、12章に記されていますが、今は、わたしの言葉で、短くお話しておきます。ダビデ王は、あるとき、自分の家来のウリヤの妻のバト・シェバを横取りし、邪魔になった夫ウリヤを戦いの前線に出させて戦死させ、何食わぬ顔をしていました。そこで、神は預言者ナタンを遣わし、ダビデがしたことは大きな罪であることを糾弾し、鋭く指摘させました。

 

すると、そのとき、ダビデは、へりくだり、砕けた魂をもって、自分の罪と責任をすべて認めて、神が預言者ナタン通して語られる言葉は、すべて正しく、真実で、もし、裁判が行わるならば、神が述べる言葉がすべて、常に、正しく、神が勝利されることを語りました。

 

そこで、キリスト教の伝道者パウロは、そのダビデの言ったことを、ここで引用しましたが、その意図は、1世紀のユダヤ人も、さまざまな悪事をしていることと、救い主・メシアのイエスさまを十字架につけた罪を、ダビデと同じように、砕けた魂をもって、自分たちの罪と責任として率直に認め、心から反省と悔い改めをし、救いを求めるように、1世紀のユダヤ人に願ったのです。今日のわたしたちもそうです。わたしたちも、一人ひとりが、ダビデのように砕けた魂をもって、自分が、神に対して不誠実な罪人であることを率直に認め、恵みよる救いを、へりくだって求めたいと思います。

 

3.第3の反論


 では、パウロに対するユダヤ人の第3の反論は何でしょう。すると、それは、1世紀のユダヤ人が、さまざまな悪事をし、また、救い主・メシアのイエスさまを十字架につけたことは、仮に、自分たちユダヤ人が正しくないことをしたとしても、それらのことによって、逆に、神の正しさを明白にすることに役立つのであるから、自分たちユダヤ人を罪人として、神が怒りをもって裁くことはないというとんでもない反論をしたのです。

 

 これは、さらに一層、へ理屈としか思えないものです。5節に、「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら」とありますが、これは、1世紀のユダヤ人が、パウロに対する反論として言っていたことです。すなわち、1世紀のユダヤ人が、さまざまな悪事をし、また、救い主・メシアのイエスさまを十字架につけたことは、仮に、自分たちユダヤ人が正しくないことをしたとしても、それらのことによって、逆に、神の正しさを明白にすることに役立つのであるならば、神が怒りをもって、自分たちユダヤ人を罪人として、裁くことはあり得ないというとんでもない反論です。

 

 ここでは、5節にあるように、「わたしたちの不義」と「神の義」が、比較対照、コントラストされて目立つようにされています。「わたしたちの不義」とは、1世紀のユダヤ人たちのさまざまな悪事や、約束の救い主・メシアのイエスさまを十字架につけた罪のことで、正しくないことを意味します。逆に、「神の義」とは、神の正しさ、神の正しい御性質を意味します。

 

 したがって、1世紀のユダヤ人がさまざまな悪事をし、また、救い主・メシアのイエスさまを十字架につけたことは、ユダヤ人の罪と責任で、自分たちユダヤ人が正しくないことをしたことを表すとしても、それらのことによって、逆に、神御自身には、悪事や罪の責任がなく、神は正しいお方であることを明白にすることに役立つのであるならば、自分たちユダヤ人を罪人として、神が怒りをもって裁くことは、ないという反論です。これは、一層のへ理屈としか思えないとんでもない反論です。

 

この反論は、「人間の論法」、すなわち、人間的な自分勝手な論法によるとんでもない反論です。「人間の論法」とありますが、「人間の論法」というのは、人間的な自分勝手な論法という意味です。

 

1世紀のユダヤ人がさまざまな悪事をし、また、救い主・メシアのイエスさまを十字架につけたことが、逆に、神は正しいお方であることを明白にすることに役立つのであるなら、自分たちユダヤ人を罪人として、神が怒りをもって裁くことはおかしいという反論は、1世紀のユダヤ人のまったく人間的な自分勝手な論法で、全然成り立ちませんという意味です。

 

でも、パウロは、ユダヤ人のそのような人間的な自分勝手な言い方の論法による反論には、答える必要なしとして、上から目線で無視して終わるのではなく、その人間的な自分勝手な論法による反論が、どうして間違っているかを、また、ここでも、愛と忍耐をもって、教えて、なおも、同胞のユダヤ人を尊い救いへ導こうとしています。同胞の救いのためのパウロの愛と忍耐は、とても大きいのです。わたしたちも、同胞の救いのため、日々、祈りたいと思います。

 

さて、では、パウロは、その反論に、どのように答えたのでしょう。すると、もし、ユダヤ人の人間的な自分勝手な反論を認めれば、神はユダヤ人の悪事も、救い主・メシアのイエスさまを十字架につけた罪も、最後の審判で裁けなくなってしまい、そうすれば、1世紀のユダヤ人のそれらの悪事と罪だけでなく、いつの時代のどの人間の悪事と罪も、すべて神の義、神の正しさを明らかにするのに役立つことになり、神は、いつの時代のどの人間の悪事と罪も、まったく裁けなくなり、神の怒りによる最後の審判そのものができなくなってしまうことを、パウロは語りました。

 

だれが、どれほど悪事をしても、あるいは、だれが、どれほど残虐非道な罪を犯しても、それらは、比較対照的に、コントラスト的に、逆に、正反対に、神の義、神の正しさを引き立たせるのに役立ち、有益なのですから、神は最後の審判で、どの人間も裁けないことになりますが、そんなことは絶対にあり得ないのです。そこで、パウロは、再び、6節後半で、「決してそうではない」、すなわち、以前の口語訳聖書では、「断じてあり得ない」と力を込めて、再度、強く否定しました。

 

 本当にそうです。人間の罪と悪に対する神の怒りによる最後の審判が、なくなることは、断じてありません。厳粛なことですが、人は、ひとりひとり、わたしもあなたも、いつの時代のどこの国のどの人も、例外なく、最後の審判で、神の前に、また、イエスさまの前に立たせられるのです。

 

それゆえ、今、わたしたちは、教会が語るよき知らせである福音を聞いて、十字架のイエスさまを自分の救い主と信じて、神の怒りによる最後の審判で、罪に定められないように、また、滅びを宣告されないように、逆に、最後の審判のとき、感謝と喜びと確信をもって、御前に立てるように、今、信仰によるよき備えをしておくことが必要なのです。今が、真に恵みのとき、今が真に救いのときなのです。それゆえ、わたしたちは、自分が救われることと共に、他の人も救われるように、熱心に、伝道をしていきたいと思います。

 

4.第4の反論


 では、パウロに対するユダヤ人の第4の反論は何でしょう。すると、それは、第3の反論と似ていますが、さらにもっと極端です。すなわち、神の民のユダヤ人が、嘘・偽りを語れば、逆に、神には嘘・偽りはまったくなく、神は真実であることが明らかになります。それゆえ、神の民のユダヤ人の嘘・偽りは、逆に、神御自身の誉れ、神御自身の栄光を表す善きものとなって大いに役に立つことになると、ユダヤ人は、最後の大反論をするのです。

 

それゆえ、ユダヤ人の嘘・偽りが、逆に、神御自身の誉れや神御自身の栄光を表すのに大いに役立つならば、それは、「善が生じる」、すなわち、善いことが生じるので、ユダヤ人が、世の終わりの最後の審判で、神によって 罪に定められたり、滅びを宣告されることなどあり得ないと、パウロに、激しく反論したのです。この第4の反論は、第3の反論よりも、もっと極端であり、神をきわみまで冒涜するすさまじい大反論です。

 

 7節がそうです。7節に、「またもし、わたしの偽りによって」とありますが、これは、何もパウロ自身が、嘘・偽りを語るという意味でなく、パウロが、自分を、1世紀のユダヤ人の立場において語っていることを意味します。

 

 この反論は、わたしたちから見れば、滅茶苦茶の反論としか思えないのですが、これは、1世紀のユダヤ人の開きなおった最後の大反論です。すなわち、割礼を身に帯びた神の民である自分たちユダヤ人が、宗教的に汚れた異邦人と同じく、最後の審判で、罪に定められて、滅びを宣告されることを、絶対に認めたくないので、反論できると思えることは、何でも、反論したのです。これは、とても極端であり、神をきわみまで冒涜するすさまじい反論です。

 

 では、1世紀のユダヤ人の最後の大反論の内容を、もう少し見ていきましょう。すると、自分たちの嘘・偽りが、逆に、神御自身の栄光を明らかにすることに大いに役立つのであるから、それは善いことである。それゆえ、神御自身の栄光が明らかになるというその善いことを目立たせるために、わたしたちユダヤ人は、積極的に、進んで、どんどん悪を犯そう、そうすれば、神御自身の栄光を表す自分たちユダヤ人は、善いことをしているのであるから、神に裁かれることがないという実に目茶苦茶なユダヤ人のへ理屈です。

 

8節に「『善が生じるためには悪をしよう』」とも言えるのではないでしょうか。」がそうです。「悪をしよう」というのは、積極的に、進んで、どんどん罪を犯しましょうという意味ですが、「善が生じるためには」というのは、神御自身の栄光が明らかになるという善いことを意味します。すなわち、神御自身の栄光が明らかになるという善いことをするために、自分たちユダヤ人は、積極的に、進んで、どんどん悪を犯しましょうという意味です。とても極端で、神を極みまで冒涜するすさまじい反論です。

 

 1世紀当時、実際に、ある人々は、パウロたちキリスト教伝道者たちが、そのように教えていると中傷、批判していたのです。すなわち、パウロたちキリスト教伝道者たちは、律法を行うことによっては、人は救われず、キリスト教のよき知らせである福音を聞いて、十字架のイエスさまを信じるだけで、恵みによって救われると語って、律法主義による救いを否定していました。そこで、あるユダヤ人たちは、そのことを正しく理解しようとせず、パウロたちを、中傷、批判するため、神御自身の栄光を明らかにするという善いことを目立たせるために、ユダヤ人が、律法に違反する悪を、進んで、どんどん犯すようにと、パウロたちは教えていると、根も葉もない中傷、批判をしたのです。

 

 そこで、パウロたちが、そのように教えていると、中傷・批判して、地中海世界のどこででも、霊的暗黒の世界に、こうこうと輝く救いのよき知らせである福音の伝道を、激しく妨害していた1世紀のユダヤ人は、自分から福音を拒否することになるので、最後の審判で、神により、罪に定められ、滅びを宣告されるのが正当であることを、パウロは、厳かに語って、1世紀のユダヤ人の反論をすべて誤りとして退けたのです。

 

 8節に「こういう者たちが罰を受けるのは当然です」とありますが、「こういう者たち」とは、自らを、正しいとしていた1世紀のユダヤ人たちのことで、「罰を受ける」いうのは、最後の審判で、神に裁かれ、罪に定められ、滅びを宣告されるという罰を受けることを意味しています。こうして、パウロは、ユダヤ人の反論は、すべて的外れであることを語り、ユダヤ人が、救いのよき知らせである福音を聞いて、心を開き、十字架にかかったイエスさまを信仰し、ただただ恵みによって、すべての罪とがから救われ、真の人生を喜んで歩むことを、心から強く望んだのです。

 

結び


 こうして、今日のところを見ます。1世紀のユダヤ人は、自分たちが罪人であることを、認めず、パウロに激しく反論しました。しかし、ユダヤ人が、どんなに、激しく反論したところで、何にも代えられない宝物のように尊い救いは受けられないのです。

 

 それゆえ、1世紀の心頑ななユダヤ人は、反面教師でしたが、今日のわたしたちは、1世紀の心頑なユダヤ人のようにではなく、救いのよき知らせである福音を聞いて、聖霊により罪の心が再生されて、十字架にかかったイエスさまを救い主として信仰し、恵みにより救われ、イエスさまを遣わしてくださった天地の造り主なる真の神との愛のまじわりの中で、わたしたち一人ひとりの心、霊魂、精神が、救いの喜びと平安で満たされ、今週も、よい歩みしていきたいと思います。 

 

お祈り


  恵み深い天の父なる神さま、
9月の歩みも守られ、今日、9月の最後の礼拝に導かれ、感謝いします。
 今、ローマの信徒への手紙を通じて、ユダヤ人の反論を見ましたが、反論からは、救いは出てこないことを覚えます。

わたしたちは、福音を聞いて、心柔らかにし、十字架のイエスさまを自分の救いに主と固く信仰し、すべてのつみとがを赦され、永遠の命を与えられて、救いの道を喜んで歩めるようにしてください。

 今日、集まることのできなかった方々を、それぞれのところで、顧みてください。

また、東日本大震災、原発事故、熊本自身、台風などで、被災し方々に励ましが与えられ、必要なものが備えられ、復興を目指して歩めるようにしてください。
 今日から始まるわたしたちの新しい1週間を、どこにあっても、豊かに祝福してください

これらの祈りを、主イエス・キリストの御名により、御前に、お献げいたします。アーメン。

 

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