* 佐々木稔 説教全集 *   

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   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6;5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


「イスラエル民族の救い」

ローマ書11章1節―10節

 
 11:1 では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。11:2 神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。11:3 「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」11:4 しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。11:5 同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。11:6 もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。11:7 では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。11:8 「神は、彼らに鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。11:9 ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、/自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。11:10 彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。」


はじめに

 

 わたしたちは、主の日の朝の礼拝においては、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが、紀元56年頃、ローマの信徒たちに書いたローマの信徒への手紙を学んでいますが、今日も、わたしたちは、キリストにある素晴らしい救いを順序立てて教えているローマの信徒への手紙に耳を傾けたいと思います。

 

 それで、今日のところは、何が語られているのでしょう。すると、1世紀のイスラエルは、約束の救い主のイエスさまを十字架かけて殺し、さらに、救いの良い知らせである福音までも、拒否して、あくまでも、律法の行いによって救われるという律法主義に立ち続けました。

 

 これでは、もちろん、救われません。すると、ここで、大問題が出てきます。すなわち、イスラエルは、メシアのイエスさまを殺し、さらに、福音までも拒否しているのだから、神から捨てられて、当然だよな、イスラエルは、もう、これで、全部終わりだよなと考える信者たちが、いたと思われます。

 

 では、本当に、イスラエルは、神から捨てられたのでしょうか。そこで、パウロは、この大問題を取り上げ、神は、イスラエルを退けたり、捨てたりはなさらないことを、4つの証拠あるいは理由を挙げて、明らかにするのです。

 

 そこで、今日の個所から、4点のお話をいたします。まず第1点は、イスラエル民族の一員であったパウロが捨てられずに、救われたことは、パウロと同じイスラエル民族が捨てられていないことの証拠となるという点です。第2点は、神は、イスラエルを永遠の御計画において、愛して、選んで、御自分の民とされたので、イスラエルを捨てたりしないという点です。第3点は、預言者エリヤの時代の背教したイスラエル民族も、神から捨てられなかったという前例があるという点です。第4点は、1世紀のイスラエル民族の中には、現に、実際に、救われて、信者になって、喜んで信仰生活をしている者たちがいたので、イスラエルは、捨てられていないという点です。

 

1.パウロの救いは、同じイスラエル人の救いを保証する

 

 早速、第1点には入ります。第1点は、同じイスラエル民族の一員であるパウロ自身が捨てられず、救われていることは、イスラエル民族が、神から捨てられていないことの証拠となるという点です。1節がそうです。

 

1節に、「では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決して、そうではない」とありますが、「御自分の民」とは、旧約歴史を担い、そして、キリストによる救いの良い知らせである福音を聞いたのですが、しかし、不従順のゆえに、民族的な規模で、福音を拒んだ1世紀のイスラエルを表します。

 

 そして、「退ける」という言葉は、とても意味の強い言葉で、「退ける」の他にも、「捨てる」、「捨て去る」、「縁を切る」、「拒否する」、「拒絶する」などと訳すことができます。以前の口語訳聖書は、「神はその民を捨てたのであろうか」となっていて、「捨てる」と訳したほどです。また、「神は御自分の民を退けられたのであろうか」の「退けられた」という動詞は、過去に起こった出来事示すかたちになっていますので、神は、イスラエルを、もう捨ててしまったという意味です。

 

すなわち、イスラエルは、民族的な規模で、メシアのイエスさまを殺し、さらに、福音までも拒否したので、神は、イスラエルを、もう捨ててしまった。そして、捨ててしまったとが、今も続いているという意味です。

 

そのように考えていた信者たちが、1世紀の教会にいたと思われます。しかし、パウロは、確信をもって、否、ノーと答えることができました。では、どうして、パウロは、イスラエルが、神から捨てられていないと断言できたのでしょう。では、まず第1証拠あるいは理由は、何でしょう。すると、この手紙を書いているパウロ自身も、イスラエル民族の一員でありながら、捨てられず、救われていたことは、同胞のイスラエル民族の他の人も、救われることができるはずだからです。

 

 1節後半を見ますと、「わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です」とありますが、この言い方は、パウロが、正真正銘のイスラエル人であり、イスラエル人の先祖のアブラハムの血を引く者であり、さらに、イスラエル12部族の中のベニヤミン部族に属する者であったことを、強調しています。

 

 1節後半を見ますと、「わたしもイスラエル人で」と言われていますが、この「わたしも」の「も」が大事なのです。原文では、「わたし自身もイスラエル人で」となっていて、「自身も」という一語が、わざわざ入っていて、この手紙を書いているパウロ自身も、イスラエル人であるが、捨てられず、救われたのであるから、同じ他のイスラエル人も救われるという意味になります。

 

なお、「ベニヤミン族の者」とありますが、「ベニヤミン族」とは、イスラエル民族を構成する12部族の一つで、言い伝えによれば、かつて、モーセに率いられて出エジプトして、紅海を渡るとき、一番最初に先陣を切って渡ったのが、「ベニヤミン族」であったと言われています。したがって、「ベニヤミン族の者」というのは、生粋のイスラエル人であることを意味します。

 

 そして、このことは、霊的に、今日も意味を持ちます。すなわち、あなたが恵みによって救われ、わたしも恵みによって救われているなら、他の日本の人々も、恵みによって救われるはずです。自分と他の人を区別するものはありません。自分も罪人で救いを必要としていますが、他の人も罪人で、救いを必要としているのです。それゆえ、わたしたちは、他の人々の救いのために、憐れみ深い神に、希望と期待をもって、熱心に祈り続けていきたいと思います。

 

2.神は、イスラエルを永遠の御計画において、愛して、選んでくさった

 

 第2点に入ります。第2点は、イスラエルが、神から捨てられていない理由は、神は、イスラエルを永遠の御計画において、愛して、選んで、御自分の民とされたからです。2節前半がそうです。

 

 2節前半に、「神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした」とありますが、「前もって知る」という言葉は、「前もって愛した」という意味です。この場合の「知る」というのは、「愛する」という意味です。聖書においては、「知る」という言葉は、しばしば、「愛する」という意味で使われます。たとえば、「アダムは、妻エバを知った」と、旧約聖書、創世紀にありますが、それは、「アダムは、妻エバを愛した」という意味です。

 

 では、「前もって知っておられた」の「前もって」とは、どのような意味でしょう。すると、この「前もって」は、「ずーっと以前」、すなわち、天地創造以前の永遠を表すのです。ですから、神は、永遠において、イスラエル民族を愛してくださっていたのです。

 

すなわち、神は、ずーっと以前、天地創造以前の永遠の御計画において、イスラエル民族を愛して、世界の諸民族の中で、イスラエル民族だけを選んで、御自分の民とすることを定めてくださっていたのです。ですから、イスラエル民族に対する神の愛は、とても深いもので、出発点が神にあるのです。それゆえ、1世紀のイスラエルが、民族的な規模で、イエスさまを殺し、さらに、福音までも不従順に拒んでも、もうそれで、神は、用済みとして、イスラエルを捨てたり、退けたりはなさらないのです。

 

 確かに、イスラエル民族は、不信仰と不従順のゆえに、ある期間、神から裁きを受けます。しかし、イスラエル民族に対する神の選びと召しと賜物は変ることがないのです。少し後の11章28節、29節で、「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのおかげで神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」と、はっきり言われている通りです。

 

 イスラエル民族は、不信仰と不従順のゆえに、ある期間、神から裁きを受けますが、しかし、神の選びと召しと賜物は変ることがなく、イスラエル民族の多くの者たちが、福音を信じて、回心するとき、すなわち、イスラエルの大量回心と言われることが、キリスト再臨直前か、あるいは、歴史の普通の流れの中で、いつか生じるのです。

 

3.預言者エリヤの時代の背信したイスラエルも、神から捨てられなかった

 

では、第3点に入りましょう。第3点は、預言者エリヤの時代の背教したイスラエルも、神から捨てられなかった前例があるという点です。すなわち、かつて、旧約の預言者エリヤの時代に、イスラエルの人々は、民族的規模で背教し、真の神を忘れ、代わりにカナンの偶像の神であるバアル礼拝に走ったときでさえも、神は、なお、バアルに膝をかがめず、御自分を礼拝する者たち、すなわち、救われる者たちを7千人も残してくださって、イスラエルを民族として捨てることをなさならなかったのです。

 

 この預言者エリヤの時代の出来事は、旧約聖書の列王紀上17章、18章、19章に出てきますが、わたしの言葉でお話をしたいと思います。次のような出来事でした。預言者エリヤは、イエスさまの出現の8百数十年前の預言者でした。では、当時のイスラエルは、どのような状況であったのでしょう。すると、南王国と北王国に分裂していました。南王国は、神殿のエルサレムを中心として、2部族から成っていました。北王国は、サマリヤを中心として、10部族から成っていました。そして、預言者エリヤは、この北王国で活躍した預言者です。

 

 そして、預言者エリヤが活躍した北王国の霊的状態は、イスラエルの歴史における最悪の状態でした。すなわち、王のアハブと王妃のイゼベルが、国の政策として、国中に、バアル礼拝を積極的に広め、強力に推進していたのです。 バアルというのは、偶像の神です。バアルは、天候を司る神、特に、雨を降らすことができる神と考えられて、カナンの地の原住民族たちは、バアルが、雨を降らしてくれる神として、熱心に礼拝していました。

 

 ところが、このバアル礼拝が、イスラエルの王アハブの妻のイゼベルによって、イスラエルに持ち込まれました。イゼベルは、もともとは、シドンという地中海沿岸の異教の都市国家の王の娘で、熱心なバアル礼拝者でした。そのイゼベルが、イスラエルの王のアハブに嫁ぐとき、バアル礼拝を、イスラエルに持ち込み、夫のアハブ王と共に、国の政策として、バアル礼拝を、国中に、強力に広めたのです。そのため、イスラエルは、民族的規模で、急速に、バアル礼拝が広まり、バアル神に仕える預言者たちが、はびこりました。

 

 そして、真の神、ヤーウェに仕える預言者たちは、捕えられ、殺されました。また、神ヤーウェを礼拝する祭壇は、次々と破壊され、代わりに、国中に、バアルを礼拝する祭壇が築かれました。そのために、人々は、真の神ヤーウェを忘れて、バアルを拝むようになりました。そして、そのとき、神によって起こされたのが預言者エリヤでした。預言者エリヤは、大胆にも、たった一人で、王宮に乗り込んで、バアル礼拝に対する真の神ヤーウェによるさばきとして、数年間、雨が降らないことを語り、実際に、3年6カ月、雨が降りませんでした。

 

 しかし、イスラエルの人々は、バアルの預言者たちの活動により、バアル礼拝を止めませんでした。そこで、預言者エリヤは、バアルの預言者たちと決着をつけるため、イスラエル北部のカルメル山という山で、バアルの預言者たち450人と、自分ひとりで対決しました。

 対決の方法は、祭壇の上に、いけにえを乗せ、そのいけにえを天からの火を降して、焼き尽くした方の神が勝ちとする方法でした。そこで、最初は、バアルの預言者たち450人が、朝から晩まで、「バアルよ、火を降してください」と祈ったり、叫んだりしましたが、火は降りませんでした。そこで、今度は、預言者エリヤが、真の神ヤーウェに祈ると、直ちに、天から火が降り、いけにえ、そして、さらに、いけにえが乗せられていた祭壇までも一瞬のうちに焼き尽くしました。そこで、エリヤが仕える神ヤーウェが、真の神であることが明らかになり、エリヤは、バアルの預言者450人を捕えて、カルメル山のふもとのキション川で、神の裁きとして、処刑しました。

 

 さて、ところが、バアルの預言者450人が、エリヤによって処刑されたことを聞いた王妃のイゼベルは、烈火の如く怒り、軍隊を繰り出し、エリヤを捕えて殺そうとしました。そこで、エリヤは、急に恐ろしくなり、イスラエルの北から南に、200キロ以上も逃げまくりました。そして、アラビヤ半島のシナイ山の洞窟に隠れていました。450人のバアルの預言者たちを倒したエリヤでしたが、そのエリヤが、如何に、王妃のイゼベルを恐れていたかがわかります。

 

 その洞窟の中で、エリヤは、不安、恐れ、孤独、絶望感にさいなまれ、真の神ヤーウェに祈りました。どのように祈ったのでしょう。すると、イスラエルに、真の神ヤーウェを信仰する者は、自分一人になってしまった。そして、最後に残った自分も、間もなく、捕えらて、殺されてしまう。それゆえ、イスラエルに、真の神ヤーウェを信仰して、救われる者は、だれもいなくなってしまう。もう、これで、何もかも全部終わりだと悲壮感に満ちて祈ったのです。

 

 ところが、神の答えは、エリヤの思いとは、まったく別でした。神は、神の民を成り立たせるに十分な人数である7千人の信仰者を残していることを力強く語り、エリヤをやさしく、また、力強く励ましてくださったのです。そこで、エリヤは、恵みによって、救われる者が7千人もいることを知り、魂に、明るい光、力、希望を受けて、再び、元気に立ち上がり、預言者の使命に励んだのです。

 

 以上が、預言者エリヤの時代の出来事でした。エリヤは、救われる者は、もうだれもいない。神の民、イスラエルも、もう、これで終わりだと思いましたが、そんなことは、決してないのです。神は、何と、神の民を成り立たせるための十分な人数として、救われる人、7千人を残しておられたのです。

 

 そこで、パウロは、エリヤの時代の出来事は、1世紀にも当てはまるとして、1世紀の多くのイスラエル人が、民族として、救い主のイエスさまを殺し、さらに、福音までも拒んでも、しかし、だからと言って、イスラエル民族は、神から捨てられ、退けられることがないことの証拠として、パウロは語ったのです。エリヤの時代と同じように、1世紀においても、恵みによって残されて、救われる者が、まだ、なお確実にいるのです。

 2節後半から4節がそうです。そして、ここには、列王紀上19章からの引用の言葉が、2つあります。3節と4節の鍵括弧に入ている御言葉がそうです。3節は、列王紀上19章14節、4節は、列王紀上19章18節の引用です。

 

 そして、特に、注目すべきことは、3節で、「わたしだけが残りましたが、彼らは、わたしの命をねらっています」というところです。すなわち、エリヤの絶望感が、よく表れています。エリヤの絶望感、孤独感、悲壮感が、ひしひしと伝わってきます。「わたしだけが残りました」の「わたしだけ」というエリヤの言葉が、読者のわたしたちの胸に響いてきます。

 

 しかし、神は、まったく違うのです。神は、慌てたり、うろたえたり、おろおろしたりなど、まったくしないのです。神は、神の民を成り立たせるための十分な人数を、ちゃんと、救って、残しておられるのです。そこで、4節で、注目すべき言葉は、「バアルにひざをひざまずなかった7千人を自分のために残しておいた」の「7千人」という言葉です。

 

「7千人」とは、どのような意味でしょう。すると、いろいろに理解されます。ひとり、ふたり、三人と数えて、きっちり「7千人」を意味するとも理解できるでしょう。また、「7千人」の「7」は、聖書においては、完全数、十分数ですので、神の民を成り立たせる十分な人数とも理解できるでしょう。また、イスラエルにおいて、人数を数えるときには、成人男性を数えるので、成人男性が7千人という意味で、その7千人の妻や子どもたちを入れると、その数倍になるとも理解されるでしょう。いろいろに理解されますが、でも、基本は、神の民を成り立たせるための十分な人数を表していることは、間違いありません。

 

 こうして、人間エリヤの目が見るところと、神の御計画は、次元がまったく違うのです。エリヤは、絶望して、神の民と言われたイスラエル民族は、もう救われる者はゼロで、すべてが終わりと絶望したのです。しかし、神は、なおも、御自分の民イスラエルを深く愛して、神を信仰して、救われて、神を礼拝し、神の民を成り立たせるのに十分な人数の7千人を、ちゃんと残してくださっていたのです。神の愛は、驚くほど、大きく、高く、深く、豊かなのです。

 

 そして、この事実は、いつの時代においても、霊的意義を持ちます。神は、御自分を信じて、礼拝して、救われて、神の民を成り立たせるに十分な人数を備えてくださっているのです。神の民が、地上から途絶えることは、絶対にありません。神の民は、恵みにより、歴史の終わりまで、切れ目なく続いていくのです。

 

 そして、今、日本における神の民として、神は、あなたを、また、わたしを信仰に導き、罪からの救いを得させ、さらに、永遠の生命までも与えて、御自分の民としてくださっていることを覚え、わたしたちは、これからも、真心から神を礼拝し、真の人生を、喜んで、日々歩んでいきたと思います。

4.イスラエルには、現に、救われている者がいるので、捨てられていない

 

 第4点に入ります。第4点は、1世紀のイスラエル民族の中には、恵みによって、選ばれて、救いのために残されている者がいて、現に、実際に、救われて、信者になって、喜んで信仰生活をしている者たちがいたことは、イスラエル民族が、神から捨てられていないことの証拠となるという点です。5節から10節がそうです。

 

 すなわち、1世紀のイスラエルは、民族的な規模で、律法主義に立ち続けて、福音を拒んだので、神は、イスラエル民族の全員を救うことはなさいませんでした。しかし、だからと言って、神は、イスラエル民族全員を完全に捨て、最早、イスラエル民族から、救われる者が、まったく、出てこないようにされたかと言うと、そのようなことは、ないのです。

 

 神は、確かに、律法主義に立つイスラエルへのさばきとして、彼らの心をかたくなにして、全員を救いに導くことは、しませんでした。でも、イスラエル民族のある者たちを、救いのために選んで、残してくださっていたので、彼らは、福音を聞いて、信じて、1世紀において、現に、実際に、救われ、喜んで歩んでいたのです。この手紙が宛先のローマの教会においても、イスラエル人の信者たちがいて、喜んで、信仰生活をしていたことは間違いないでしょう。

 

 そこで、わたしたちは、5節に、注目しましょう。5節は、「・・・現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」とありますが、「現に今も」と言われていますが、その「現に今」とは、どのような「現に今」なのでしょう。

 

 すると、その「現に今」は、イスラエルが民族的な規模で、救い主のイエスささまを十字架につけて殺し、さらに、救いの良い知らせである福音までも拒んで、律法の行いによって救われるという律法主義に、なおも立ち続けていた1世紀の「現に今」です。

 

 それゆえ、律法主義のイスラエルは、民族としては、自分たちが熱心に求め続けている救いを得ることができませんでした。しかし、神は、救いのために、恵みによって選び、残しておいたイスラエルの少数の者に救いを得させて、御自分が、イスラエル民族全体を捨てていないことを、明らかにお示しになったのです。

 

 ですから、この手紙を読んだローマの信者たちは、人間の思いをはるかに超える神の大きな愛を知って、本当に、驚いたのではないかと思います。また、それとともに、人知を超える驚くべき大きな神の愛を知って、心が、喜びで満ち溢れたことでしょう。

 

 さて、このようにして、イスラエルの民族の中から少数の者が、恵みゆえに、選ばれて、救われたことは、わかりましたが、では、その他の大多数のイスラエル人は、どうなったのでしょう。すると、律法主義に立ち続けるゆえに、神は、彼らを裁いて、彼らの心をかたくなにして、彼らに救いを与えることをされませんでした。

 

そして、神が、イスラエルの多くの人々を裁いて、救いを与えなかったということは、実は、以前にも、何回もあったことなのです。すなわち、イエスさま出現の1400年前後の、あの出エジプトのモーセの時代においも、また、イエスさま出現の7百数十年前の預言者イザヤの時代においも、イスラエルは、民族的な規模で、不従順であったので、神によるさばきとして、彼らの心が、霊的なものにたいして鈍くされ、かたくなにされて、彼らは、霊的なものが見えず、霊的なものを耳で聞いても、悟ることができず、それゆえ、救われなかっのですが、それらの出来事は、1世紀のイスラエル民族にも当てはまったのです。1世紀のイスラエル民族は、霊的なものに心が鈍く、かたくなで、救い主のイエスさまを見ても見えず、福音を耳で聞いても聞こえなかったのです。

 

 8節がそうです。8節の御言葉は、旧約聖書の申命記29章3節とイザヤ書6章9節、10節、また、イザヤ書29章10節の3カ所を混ぜ合わせながら引用したものですが、神が、不従順なイスラエル民族を裁いて、救い与えなかったことを意味しています。

 

また、さらに、9節もそうです、9節は、旧約聖書の詩篇69編23節、24節を少し変えて引用したものですが、意味は、次のようです。イエスさまよりも、ちょうど、千年ほど前のダビデ王の時代においても、イスラエルの人々に中には、神に不従順で、信仰に励むよりも、「食卓」を囲んで楽しむ、すなわち、日本流に言えば、宴会を開いて、日々、ドンチャン騒ぎをすることを楽しみにしていた人々がいました。そこで、神は、彼らが、楽しみにしていた食卓、宴、祝宴、宴会は、彼ら自身が、神の裁きに陥る「罠」に変り、彼ら自身が神の裁きに捕えられる「網」に変り、彼ら自身が、霊的につまづいて倒れる石に変り、さらに、彼ら自身が受ける神の「罰」に代わり、さらに、彼らは、神の裁きで、霊的に目がくらんで、霊的に見えなくなり、かつ、彼らは、神から受ける裁きの重さで背中が曲がったままでいるようにという意味で、これらの言い方で、神への不従順に対する神の裁きを、いろいろな言い方で表しています。

 

9節に「罠」と「網」というのが出てきますが、「罠」というのは、鳥や動物を捕える罠の総称です。具体的には、鳥を捕えるためには、「網」が用いられたようです。「網」を鳥にかぶせたのか、あるいは、木と木の間に「網」を張って、鳥が「網」に引っ掛かるようにしたのかもしれません。また動物や獣を捕えるためには、地面に穴を掘って、その上に、木の枝や葉っぱで隠し、餌をそこにおいておくと、餌を食べに来た動物や獣が、穴に落ちて、捕えられるというものであったようです。

 

そして、「網」にかかった鳥、穴に落ちた動物や獣は、逃げられず、捕えられてしまいます。そこで、ダビデは、これを、たとえに用いました。神に不従順な者たちは、「網」にかかった鳥、穴に落ちた動物や獣のように、神のさばきに捕えられて逃げられないことを、語ったのですが、このことは、1世紀のイスラエル民族にも当てはまったのです。

 

すなわち、律法主義に立ち続けて、不従順に、福音を拒んでいる1世紀のイスラエル民族の多くの者たちが、神の裁きに捕えられること、そして、実際に、裁かれて、救われないことが、語られたのです。

 

また、10節に、「彼らの背をいつも曲げておいてください」というのは、神の裁きを背負って、その裁きの重さで背中が丸まって、曲がってしまうことを意味していると思われます。これもまた、神に裁かれて、1世紀のイスラエル民族の多くの者たちが救われないことが語られています。

 

こうして、1世紀のイスラエル民族の多くの者たちは、律法主義に立ち続けていたので、神は、裁きとして、彼らの心をかたくなして、彼らに救いを得さえなかったのです。でも、1世紀のイスラエル民族の全員が、もう、捨てられて、救われないのではなく、神の恵みにより、選ばれて、救われた者たちが、現に、実際に、いたことによっても、イスラエル民族が、神に捨てられたのではないことが、明白になり、神の召しと賜物は、変わらないことが、天下に証しされたのです。

 

当時、救い主のイエスさまを十字架にかけて殺し、さらに、福音までも拒んでいるイスラエル民族は、当然、もちろん、神に捨てられたよななどと考えていた信者たちがいたと思われますが、しかし、神の愛は、人の思いや常識をはるかに超える驚くべき大きなものであることを、彼らも知って、神の栄光を心からほめたたえたと思われます。

 

結び

 

以上のようにして、今日の個所を見ます。神は、いつの時代でも、神を信じて、救われ、喜んで、神を礼拝し、神の栄光をほめたたえる民を、恵みによって起こし続けてくださいますが、その神の民が、今の時代においては、あなたであり、わたしたであることを覚えて、心から感謝し、今週も、神を誉めたたえながら、日々、歩んでいきたいと思います。

 

 

お祈り

 憐れみ深い天の父なる神さま、
各々のところで、1週間の歩みを守られ、今日、また新しい週の最初の日、3月第3主日として、礼拝に導かれ、心から感謝いたします。今、わたしたちは、ローマの信徒への手紙の11章を学びました。
 イスラエルの民は、不従順のゆえに、その罪が審判されましたが、しかし、だからと言って、あなたは、イスラエルを見捨てず、いつくしみをもって、回復といやしと真の慰めを約束してくださいました。
 どうか、わたしたちは、イスラエルの不従順に習わず、あなたの御言葉と福音を聞いて、従順に、キリストを救い主として受け入れ、救いと祝福と永遠の生命を自分のものとして、喜びの中を日々歩めるようにしてください。
 今日、また、いろいろな都合や事情で集まれなかった方々を、それぞれのところで顧みてください。
また、阪神大震災の被害を受けた方々に、必要なものを与えて、、復興をお導きください。わたしたちも、祈りつつ支援できますように、お導きください。
 今日から始まるわたしたちの新しい1週間を、豊かに祝福してください。
これらの祈りを、主イエス・キリストの御名によって、御前にお献げいたします。アーメン。

 

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