真の変化
- ローマ書12:1-2 -
[ローマ書12:1-2] 「1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
*** 今この時代の変化に対応することも重要だが、より重要なのは人が変化することである。本文は、人が真に変化するとは何から始まるのかを説明している。
1. 礼拝の変化
(1) 「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」という御言葉は、私たち自身を全人格的に生涯を通じて神にささげることを意味する。
① 「聖い、生きた供え物として」ささげるということは、欠点のない純粋な者として、神の前で正しく清く生きることを指す。
② 「生きた供え物」とは、常にどこでも生き生きと動き、生活する信仰をもって神に捧げよということである。
(2) 私たちの礼拝は宗教的な儀式に留まるのではなく、生活の中で具体的に現れる生命力のある信仰として表現されなければならない。
- 私たちの礼拝が形式的で習慣的になり、神の御言葉を聞いても変えられないなら、これは大きな問題と言わざるを得ない。
「あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、」 (ヤコブ書2:22)
(3) 礼拝の変化なくして、いかなる分野においても、いかなる場所においても変化を期待することはできない。
- 今、私たちは礼拝を通して主の権能を体験し、主の御前であらゆる問題を解決され、勝利する人生を歩むべきである。
2. 心の変化
(1) 「心の一新によって自分を変えなさい。」とは、私たちの考えと理解が新しく、絶えず変化することを指す。
① 「心」とは、道徳的活動に関連する理解力や思考力が宿る場所を指す。
② 「自分を変える」とは、自分ではなく他者によって変化し、一時的なものではなく継続的に必ずそうならなければならないことを示す。
(2) なぜ私たちに心の変化が必要とされるのか?
① 何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るためである。
- 良いことは教会の中で(9節)、社会の中で(21節)、国家の中で(13節)にも適用される。
② 神の御心を知るためである。
- 神は御心が成し遂げられたり、御心に一致するとき喜ばれる。
「16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(第二テモテ3:16~17)
3. 人生の変化
(1) 「この世と調子を合わせてはいけません」とは、自分を世の流れに委ねてはいけないということである。
- 世の価値観に囚われてその流れに飲み込まれると、自覚せずに世俗的な欲望を抱くようになり、結局は不幸になるのである。
(2) 「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために」とは、「神の御心を認める」という意味である。
- 聖徒は神が望まれることを正しく知り、心を新たにするので、継続的に神の御心を成し遂げていくことができるようになる。
「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。」(エペソ書4:17)
*** 聖徒は日々心を新たにし、変えられなければならない。私たちは神との出会いを通して、真の変化と力を経験すべきである。神の力なしには、罪に染まった私たちの生活は決して変えられることはない。
パウロは聖徒たちに、まず神の前で変えられなければ、その生活は変えられないと強調する。そして、その心が変えられるとき、人は完全に神に正しい生活として実を結ぶようになるであろう。<詩篇73:28>