理解を越えた事を告げよう
- エレミヤ書33:1~3 -
[インマヌエル 下巻.7-25]
[エレミヤ書33:1~3] 「1 エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき、再びエレミヤに次のような主のことばがあった。2 「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」
*** 「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」と仰せられた。私が神の御言葉を信じて祈るとき、神はその御言葉どおりに答えてくださる。
神は、私という一人の者が理解を越えた大いなる恵みを受け、他の者たちに私が受けたその恵みを伝えることを望んでおられるからである。<ヨハネ福音書8:3-11>
* 神の理解を越えた大いなる事は、私にどのように成就されるのか?
1. 神の御言葉を聞き、考えなければならない。
(1) 「エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき、再びエレミヤに次のような主のことばがあった。」(エレミヤ書33:1)
<エレミヤの預言:紀元前605~536年、バビロン(捕囚:第1次;紀元前605年、帰還:第1次;紀元前538年)>
(2) 「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。」(エレミヤ書33:2)
(3) 「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。」(詩篇119:97) <詩篇119:97-104>
(4) 「12 のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。 13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(ヘブル書4:12~13)
(5) 「16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(第二テモテ3:16~17)
(6) 「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ福音書5:18)
2. 神に近づかなければならない。
(1) 「主のすべてのさばきは私の前にあり、そのおきてから私は遠ざからなかった。」(サムエル記下22:23)
○ ダビデが偉大な指導者となれたのは、神に近づいたからであろう。私たちも神との交わり(祈りと黙想)に多くの時間を捧げるべきである。(マルコ福音書1:35)
(2) 「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23:6)
(3) 「夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らは、あらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている。」(哀歌2:19)
(4) 「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ書4:13)
3. そして神に信仰をもって祈ると?
(1) 知らない、理解を越えた大いなる事が現れる。
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ書33:3)
(2) 癒しの力が現れる。
「見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。」(エレミヤ書33:6)
(3) 回復の祝福が現れる。
「わたしはユダの捕われ人と、イスラエルの捕われ人を帰し、初めのように彼らを建て直す。」(エレミヤ書33:7)
(4) 赦しの恵みを受ける。
「わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしにそむいたすべての咎を赦す。」(エレミヤ書33:8)
(5) 祝福を伝える者となる。
「この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。彼らはわたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの町に与えるすべての祝福と平安のために、恐れおののこう。」」(エレミヤ書33:9)
◈ 「理解を越えた大いなる事」とは。
「理解を越えた」とは、人間の知識・理性・経験では完全に説明したり把握できない、という意味です。
「大いなる事」とは、神や宇宙、人生の根本的な真理など、人間を超えた偉大な出来事・存在・計画を指します。つまりこの表現は、「人間の知恵や理屈では計り知れない、偉大で神秘的な神の御業(みわざ)」を意味します。
聖書では、しばしば神の働きや計画が「人の理解を超えるもの」として描かれます。
例えば:「神のなさることはすべて時にかなって美しい。しかし、人は神が行われる業を初めから終わりまで見極めることができない。」(伝道書3:11)また、ヨブ記でも同様に語られます:「神は大いなる方、その御業は我々の理解を超える。」(ヨブ記36:26)、これらの箇所では、「理解を越えた大いなる事」とは、神の知恵・計画・愛が人間の理性を超えているという意味です。