* 佐々木稔 説教全集 *   

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   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6;5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


「罪に死に、神に生きる」

ローマの信徒への手紙6:1-14

 

はじめに

 

 先週、兵庫県南部地震が生じまして、大きな被害が出ています。肉親を亡くされた方々や行方不明の方々、家や財産を失った方々、その他多くの方々が、悲しみと苦しみの中に置かれています。

 

 また、わたしたちと同じ改革派教会に連なる関西地区の諸教会および信徒の方々も、いろいろなかたちで、大きな被害を受けておりますが、わたしたちは、それらすべての方々に、慰め、励ましが与えられ、また、必要なものが備えられ、少しでも早く、回復し、復興していきますように、天の慈愛深い神に心から祈りつつ、今日の礼拝をしたいと思います。

 

 さて、それで、わたしたちは、主の日の朝の礼拝においては、使徒パウロが、紀元56年頃、ギリシアのコリントから、ローマの信徒たちに書いた手紙を取り上げていますが、わたしたちは、今日も、キリストによる救いを順序立てて、力強く語っておりますローマの信徒への手紙に取り組んでいきたいと思います。

 

 では、今日の個所は、何を教えているのでしょう。すると、イエス・キリストを信仰して、救われた者は、罪に対しては、死んでおり、最早、罪に支配されず、罪から解放されているので、以前の罪の生活に留まることは不可能で、救われたことを感謝し、自分を神に献げて、神の前で正しことを行う生活に、積極的に歩むべきことが、力強く語られています。

 

 そこで、わたしたちも、ここを学んで、罪に死んで、神に生きる者にされていることを感謝し、自分の心と体を神に献げ、神の御心に適う正しいことを、日々、たくさん行い、神から豊かな祝福を受け、信仰の力強い歩みをしていきたいと思います。

 

1.ある人々は、恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきと誤解しました

 

 さて、それで、まず、わたしたちは、今日のところで、パウロは、どのようなことを問題にしているかを見てみましょう。すると、パウロは、わたしたちが、前回学びましたように、少し前の5章20節で、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれます」と語ったのですが、この語り方は、ある意味で、誤解され易い言い方でした。そして、実際に、誤解する人々が、1世紀当時、いたのです。

 

 では、どのような誤解したのでしょう。すると、罪の認識が深くなればなるほど、罪からの救いの恵みの理解も豊かになるのであれば、キリストを信仰し、救われても、それまでと同じく、罪の生活に留まっていた方が、神の恵みを、より豊かに知ることができて、よいのではないかという誤解でした。そして、実際に、ある人々は、パウロ自身がそのように教えていると誤解していたのですが、この誤解は、救われても、なお、以前の罪の生活を続けることを認め、罪と決別した新しい信仰生活を否定することになるので、この誤解は、非常に危険な誤解で、そのままにはしておくことができないものであり、使徒パウロは、この誤解が誤りであることをしっかり教えて、徹底的に退けたのです。そこで、パウロは、この非常に危険な誤解を真正面から取り上げて、この誤解が成り立たないことを教えて、教会から全面的に退けるのです。

 

6章1節を見ますと、「では、どうゆうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだとうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお罪の中に生きることができるでしょう」ということを見るのですが、これは、1世紀のある人々が、パウロを誤解して言っていたことです。

 

 「罪に留まる」というのは、救われる以前と同じように、罪の生活に留まり続けることを表します。そして、ある人々は、パウロ自身が、そのように教えていると誤解したのです。そして、この誤解は、神に対して生きる新しい生活を否定することになりますので、非常に危険な誤解で、パウロは、この危険な誤解を真正面から取り上げ、その誤解が成り立たないことを明らかにして、全面的に退けていくのです。

 

 さて、では、パウロは、どのようにして、この非常に危険な誤解を退けていくのでしょう。すると、この誤解は、ローマのクリスチャンたちがすでに知っていることに反するという仕方で、退けていくのです。そこで、パウロは、3節で、「それとも、あなたがたは知らないのですか」と言いましたが、「あなたがたは知らないのですか」という言い方は、この手紙の宛てられているローマのクリスチチャンたちが、知らないということを言っているのではなくて、逆に、よく知っていることを前提にして語っているのです。こうして、パウロは、ローマのクリスチャンたちがすでに知っていることに訴えて、この誤解を退けていくのです。

 

 そして、3節で、「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち」と、パウロは言っていますが、この言い方は、原文では、「キリスト・イエスに入っていくために洗礼を受けたわたしたち」という言い方です。

 

では、「キリスト・イエスに入っていくために洗礼を受けたわたしたち」とは、どのような意味でしょう。すると、キリストであるイエスさま、救い主であるイエスさまに入っていく」というのは、救い主であるイエスさまとのまじわりに入っていくために洗礼を受けたという意味で、洗礼を受けて、わたしたちが、イエスさまと結ばれたこと、結合したことを表します。わたしたちは、洗礼を受けることによって、救い主のイエスさまと結ばれ、結合するのです。

 

 そして、また、さらに、「その死にあずかるために洗礼を受けた」とありますが、この言い方も、原文では、「その死の中に入っていくために洗礼を受けた」という言い方です。そして、その意味は、キリストの死の中に入っていくとは、特に、キリストの死との結びつきに入るために洗礼を受けたという意味で、洗礼におけるキリストの死との結びつきを表し、洗礼を受けた者は、キリストの死と結びついて、霊的な意味で、死んだこと、すなわち、罪に対して死んだことを表します。

 

 ですから、「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた、またその死にあずかるために洗礼を受けた」というのは、キリストと結ばれるために、さらに、特に、キリストの死と結ばれるために洗礼を受けたという意味になります。

 

 そして、キリストと結ばれるために、さらに、特に、キリストの死と結ばれるために洗礼を、わたしたちクリスチャンが受けたということは、罪のために十字架で死んだキリストと、洗礼を受において、信仰で結ばれると、わたしたちクリスチャンも、霊的な意味で、罪に対して死んだことを意味するのです。

 

そこで、4節を見ますと、「わたしたちは洗礼によって葬られ、その死にあずかるものとなりました」とあり、クリスチャンが霊的な意味で死んだことが、さらに、最も強く強調されています。

 

「わたしたちは洗礼によって葬られ、その死にあずかるものとなりました」とありますが、原文では、「「わたしたちは洗礼によって葬られ、その死の中に入っていきました」という言い方で、ここでも、また、クリスチャンは、キリストの死の中に入っていくという言い方で、洗礼において、クリスチャンは、霊的な意味で、キリストの死、そして、さらに、キリストの葬りに、結ばれていることが強調されています。すなわち、クリスチャンは、罪のために十字架で死んで、お墓に葬られたキリストと、洗礼を受けることにおいて結ばれているので、クリスチャンも、キリストと共に、霊的な意味で、罪に対して死んで、霊的な意味で、すでに、お墓に葬られているので、最早、罪に支配されないことを意味しています。

 

「わたしたちは洗礼によって彼とともに葬られ、」とありますが、「葬られ」というのは、もうすでに、死んで、埋葬されているという意味です。日本流に言えば、もうすでに、お葬式が済んで、お墓に納められていますよという意味です。お墓に納められているくらいですから、もう完全に死んでいるのです。そこで、「葬られ」というのは、死んだことを強調しているのです。もう完全に死んでいますよと、死んだことを強調しています。

 

それを霊的なことに当てはめますと、キリストは、十字架で、罪に対して死んで、葬られました、すなわち、キリストはお墓に納められたのですから、完全に、罪に対して死んだのですが、クリスチャンも、洗礼において、キリストと結びついているので、罪に対して死んでいて、さらに、クリスチャンは、もうすでに、葬られた、すなわち、死んでお墓に納められていると言えるほど、罪に対して、完全に死んでいて、クリスチャンは、最早、罪に支配されていないので、救われる前の罪の生活に留まることはできないことを強調しているのです。

 

本当にそうです。クリスチャンは、洗礼を受けることによって、キリストに結ばれ、結合しているので、キリストに起こったことは、クリスチャンにも、霊的な意味で、起こるのです。それゆえ、キリストが、十字架で、罪に対して死んだので、人は、洗礼を受けることによって、キリストと結ばれ、お葬式が済んでお墓に納められたと言えるほど、罪に対して死んだ者とされ、罪の支配から解放され、罪の下にはいないので、最早、以前の罪の生活に留まることが不可能なのです。

 

こうして、パウロは、ローマのクリスチャンたちが自分たちの経験として知っている洗礼に訴えて、救われた後は、以前の罪の生活に留まり続けることができないことを力説しています。

 

本当にそうです。わたしたちクリスチャンは、洗礼を受けることによって、キリストに結ばれ、お葬式が済んで、すでにお墓に納められたと言えるほど、罪に対して、死んだ者とされ、罪の支配から解放され、罪の下にはいないということが、パウロにより強力に語られていて、洗礼を受けたクリスチャンであるわたしたちは、罪の支配から、本当に解放され、自由似されているのだと改めて強く感じ、心に感謝と喜びが満ちあふれます。

 

2.クリスチャンは、新しい霊的な命に生きる者にされています

 

 こうして、洗礼を受けたことによって、特に、キリストの死と結ばれ、クリスチャンは、お葬式が済んでお墓に納められたと言えるほど、罪に対して死んだ者とされて、罪の支配から解放され、罪の下にはいなので、最早、以前の罪の生活に留まることが不可能であることは、よくわかったのですが、では、その後、クリスチャンは、どうなるのでしょう。

 

 すると、特に、キリストの死と一体にされ、罪に対して死んだ者とされたように、今度は、特に、キリストの復活と一体にされ、キリストが父なる神の栄光を現わすために、死者の中から復活させられて生きているように、クリスチャンも、霊的な意味で、新しい霊的な命に生きる者に、すでにされているのです。

 

 すなわち、わたしたち、クリスチャンは、特に、洗礼において、キリストの死の姿と一体にされて、キリストが、罪に対して死んだように、クリスチャンも、霊的な意味で、罪に対して死んだ者にされているならば、今度は、キリストが復活して、死に勝利する命に生きているように、クリスチャンも、キリストの復活の姿と一体にされて、霊的な意味で、死に勝利する霊的命に生きる者に、すでにされているのです。

 

 5節の言い方は、意味が分かりにくい個所として知られています。「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」とありますが、この言い方で、パウロは、何を言おうとしているのでしょう。

 

 原文の言い方は、「もし、わたしたちが、キリストの死に似たことと一体になるならば、キリストの復活と似たことと一体になるでしょう」という言い方です。そして、言い方は、確かに、難しいのですが、でも、パウロが言おうとしている意味は、とても単純なことで、難しいことではないのです。

 

意味は、クリスチャンは、キリストの死に似て、霊的な意味で、罪に死んだのですから、今度は、クリスチャンは、キリストの復活に似て、霊的な意味で、死に勝利する新しい霊的命に生きる者にされているという意味です。ですから、わたしたちは、言い方は難しいですが、意味は、そのような意味であることを理解しておけばよいと思います。

 

なお、「一体となって」と「あやかる」という言葉が、2つに分けられた言葉として出てきますが、原文では、「一体となってあやかる」という一語で、意味は、単純に一体となるという言葉ですが、その意味は、強いのです。すなわち、一つになっていて、一体になっていて、決して分離できないことを表します。すなわち、キリストの死と復活は、分離できないのです。

 

それゆえ、クリスチャンは、キリストの死に似て、霊的な意味で、罪に死んだのですから、今度は、クリスチャンは、キリストの復活に似て、霊的な意味で、死に勝利する新しい霊的命に生きる者にされているというとても強い意味です。

 

本当にそうです。わたしたちクリスチャンは、キリストの死に似て、霊的な意味で、罪に死んだのですから、今度は、クリスチャンは、キリストの復活に似て、霊的な意味で、死に勝利する新しい霊的命に、今、生きる者にされているのです。それゆえ、以前の罪の生活に、留まることなど絶対にできないのです。もし、洗礼を受けて、クリスチャンになったのに、救われる以前の罪の生活と同じ罪に支配される生活をしているのであれば、何も変わらず、クリスチャンになった意味がなくなります。でも、そんなことは、ないのです。わたしたち、クリスチャンは、死に勝利する新しい命である霊的命、永遠の命の中に、日々、生き生きとして、新鮮に、喜び生きる者に、父なる神によって、すでに変えられているのであり、この素晴らしい事実をだれも動かすことはできないのです。

 

 3.クリスチャンは、新しい霊的命に生きる者に変えられています

 

こうして、パウロは、「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」という誤解を、ローマのクリスチャンたちもよく知っている洗礼に訴えて退けたのです。しかし、パウロは、それで、もうこの誤解を退けたとして、終わりにしませんで、さらに、パウロは、この誤解を退けるために、パウロも、ローマのクリスチャンたちも共に知っていること、あるいは、共に信じていることに、なおも、次々と訴えて、徹底的に退けていくのです。それほど、この誤解は、信仰生活に危険なものだったのです。

 

それゆえ、6節を見ますと、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」と、パウロは言いましたが、「知っています」というのは、厳密に訳せば、わたしたちは知っていますで、主語は、わたしたちで、パウロもローマのクリスチャンたちも共に知っていることに、さらに、訴えて、誤解を退けようとしていることが、伝わってきます。

 

では、パウロとローマのクリスチャンたちは、共に何を知っているのでしょう。すると、クリスチャンというものは、信仰によって、キリストと結びついているゆえに、罪に支配された古い自分が、霊的な意味で、キリストと共に、十字架につけられたので、罪に支配されていた自分の体が、罪を犯すことに無力とされ、最早、自分が罪に支配される奴隷とならないことを、共に知っているのです。それゆえ、救われたのに、「恵みが増すように、罪の中にとどまるべきである」などとは、決して言わないのです。

 

6節に、「わたしたちは古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」とありますが、「古い自分」とは、罪に支配された古い自分のことであり、「十字架につけられた」というのは、もちろん、罪に支配された自分が、霊的に死んだことを意味します。

 

そして、「罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならない」とは、罪に支配されていた自分の体が、罪を犯すことに無力とされ、最早、自分が罪に支配される奴隷とならないことを意味します。「体が滅ぼされ」という言葉は、もともと「無力にされる」という意味の言葉です。

 

ですから、それを当てはめますと、「罪に支配された体が無力にされ、もはや罪の奴隷にならない」となり、クリスチャンの体が、罪を犯すことに無力にされるので、最早、罪に支配されることがなくなるので、罪に留まることができないことを強調した言い方です。

 

 では、何故、クリスチャンの体が、罪を犯すことに無力にされるのでしょう。すると、クリスチャンは、すでに、罪に対して死んだ者であって、罪から解放され、自由にされていて、最早、罪に支配される奴隷ではないので、以前のように手、足、体を使って、罪を犯し続ける生活には、留まらないからです。

 

 すなわち、クリスチャンは、確かに、救われる前は、罪に支配された古い自分であったので、自分の体も罪に支配され、手、足、体を使って罪を犯し続ける罪の生活に生きていました。しかし、ところが、クリスチャンは、霊的な意味で、キリストと共に、死んだので、今度は、罪の奴隷として生きるのではなく、死者の中から復活して、神に対して、今も、生きているキリストと共に生きる者にされていることを、信じるのです。

 

 8節に、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」とありますが、ここも、最後のところに、「信じます」とありますが、厳密に訳せば、「わたしたちは信じます」で、主語は、「わたしたち」で、パウロも、ローマのクリスチャンたちも、共に、信じていることを表しています。

 

 すなわち、パウロも、ローマのクリスチャンたちも、キリストの死と復活は分離できないことを信じているので、自分たちクリスチャンというものは、霊的な意味で、キリストと共に、死んだのであれば、同じように、今度は、必ず、キリストと共に、霊的な意味で、死から復活して、キリストと共に生きるものにされていることを固く信じているので、最早、以前の罪の生活に留まることはできないという意味です。

 

 パウロは、クリスチャンが、以前の罪の生活に留まることができないことの理由として、自分とローマのクリスチャンたちが共に知っていることや共に信じていることに、次々と訴えて、クリスチャンが、最早、以前の罪の生活に留まることはできないことを退けるのに、手を緩めないのです。すなわち、それほど、この誤解は、危険なもので、そのままにしておくことができなかったのです。

 

 それゆえ、さらに、パウロは、9節でも、「と知っています」とありますが、「と知っています」というのは、パウロも、ローマのクリスチャンたちも、知っていることを表します。

 

 では、さらに、パウロと、ローマのクリスチャンたちは、共に、何を知っているのでしょう。すると、死者の中から、父なる神によって、復活させられたキリストは、最早、死ぬことがないことです。

 

 では、死者の中から、父なる神によって、復活させられたキリストは、最早、死ぬことがないということは、どのような意味を持つのかと言えば、もちろん、死から復活させられたのですから、再び、もう一度死ぬなどということはありません。もう一度、死ぬなら、死者の中から復活させられた意味がなくなります。それゆえ、キリストが復活したからには、最早、死がキリストを支配することはあり得ません。

 

 キリストが死ぬのは、罪に対して、ただ一度だけ死ねば十分なので、実際に、一度だけ死なれました。では、その後、キリストは、死者の中から、父なる神によって復活させられたのは、一体、何のためだったのでしょう。何のために、キリストは、復活させられたのでしょう。

 

 すると、キリストが復活させられたのは、生きるためであり、生きるためというのは、キリストを復活させた父なる神に対し、父なる神との関係において、父なる神の栄光を現わすために生きるためです。

 

 こうして、キリストは、ただ単に、罪に対して死んだのではなく、わたしたち人間の罪を赦すために死んだのであり、また、キリストは、ただ単に、死者の中から復活させられて、生きているのではなく、父なる神に対し、父なる神の栄光を表すために生きておられるのですが、そのことは、クリスチャンにも霊的な意味で当てはまるのです。

 

すなわち、クリスチャンは、信仰によって、キリストに結ばれているゆえに、罪に対して死んでいます。しかし、父なる神に対して生きているキリストに、信仰によって結ばれているゆえに、クリスチャンも、父なる神に対し、父なる神の栄光を表すために生きていると、積極的に考えるべきなのです。それゆえ、最早、以前の罪の生活には、到底、留まることができないのです。「神に対して生きている」というのは、父なる神の栄光を現わすために生きているという意味です。

 

 11節に、「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」とありますが、14節は、今日の最初の6章1節の「恵みが増すように、罪にとどまるべきだろうか」という誤解に対するパウロの結論となります。その誤解に対して、「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」ので、最早、以前の罪の生活には留まることはできないという風に、ローマのクリスチャンたちが、しっかり考えて、非常に危険なその誤解を完全に退けるように、使徒として、命じたのです。

 

4.クリスチャンの生活は、神への献身の生活です

 

 以上のようにして、パウロは、この手紙の宛てられていたローマのクリスチャンたちが、自分の経験として、十分知っていたことと固く信じていたことに、次々と訴えて、クリスチャンは、罪に死んで、神に生きる、すなわち、神の栄光を現わすために生きる者に変えられているという動かすことができない素晴らしい霊的事実を、しっかり教えました。

 

 では、クリスチャンは、洗礼を受けたときに、すでに、罪に死んで、神の栄光を現わすために生きているということが、わかると、具体的に、クリスチャンの生活は、どのようになるのでしょう。

 

 すると、クリスチャンは、「死ぬべき体」、すなわち、地上で生きる期間が限られている自分の体を使って、これまでと同じように、罪の生活に留まり続けて、自分の体を罪に支配させたり、「肉の欲望」、すなわち、罪に促される情欲に従ったりは、最早、させないのです。また、自分の手、足、体を、「不義」、すなわち、神の御心に反する悪を行うための道具とし、罪の支配に任せたりもしないのです。

 

 むしろ、逆に、キリストの復活に、信仰によって結ばれているゆえに、自分を、霊的な意味において、死から復活して、生き返り、新しい霊的命に生きる者として、神に、自分自身を献げ、また、具体的に、神に、自分の手、足、体を、献げて、「義」、すなわち、神の前での正しいことを、積極的に行って生きていくのです。12節から14節がそうです。

 

12節に、「死ぬべき体」とありますが、これは、地上で生きる期間が限られているクリスチャン一人ひとりの大事な体を表します。もちろん、クリスチャンの体は、世の終わりのキリスト再臨のときには、よみがえって、二度と死ぬことがない永遠に生きられるキリストと同じ栄光の体に変えられますが、地上においては、いつかは死ぬべきもので、生きる期間が限られている体です。

 

 では、クリスチャンは、いつかは死ぬべき、地上で生きる期間が限られている自分の大事な体を、どのようにするのでしょう。すると、救われる前と同じく、罪に献げたりはしません。逆に、いつかは死ぬべき、地上で生きる期間が限られている自分の大事な体を、洗礼を受けるときに、神に献げる決心をして、自分の体を、道具、手段、器として用いて、「義」、すなわち、神の前での正しい行いを、日々、積極的に、活発に行って、神から豊かな祝福をたくさん受けて、生きていくのです。

 

 13節に、「自分自身を神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」とありまして、「献げる」という言葉が、2回出ていますが、この「献げる」という動詞は、1回的行為を表すかたちで記されていますので、この「献げる」は、洗礼を受けるときに、自分の大事な体を神に献げる一大決心をすることを意味します。ですから、クリスチャンは、洗礼を受けたとき、自分の大事な体を神に献げる決心を、すでにしているのです。

 

 また、「五体」とは、体の具体的な言い方で、手、足、体を、神に献げることで、神への献身を表します。また、「道具」というのは、手段、あるいは、器という意味で、「義」、すなわち、神の前での正しさを行う手段を表します。

 

そして、実際に、「義のため」、すなわち、神の前での正しいことを、日々、積極的に、活発に行って、神から豊かな祝福をたくさん受け、神の栄光を現わして歩んでいくのです。

 

では、どうして、クリスチャンは、そのように、いつかは死ぬべき、地上で生きる期間が限られている自分の大事な体を、神に献げる決心をして、自分の体を、道具、手段、器として用いて、「神の義」、すなわち、神の前での正しい行いを、日々、積極的に、活発に行って、神から豊かな祝福をたくさん受けるのでしょう。

 

 すると、それは、わたしたちクリスチャンが、守り切れない律法のくびきの下で、律法に反する罪を犯し続ける以前の古い生活からキリストにより解放されて、今や、救われ、恵みの下に置かれ、御霊の力によって、「義」、すなわち、神の前での正しい行いをしながら生きる者に、父なる神により、変えられているからです。

 

 14節に、「律法の下」と「恵の下」が、並んでいますが、「律法の下」とは、わたしたちクリスチャンが、守り切れない律法のくびきの下で、律法に反する罪を犯し続ける以前の古い生活をしていたことを表します。そして、「恵の下」とは、わたしたちクリスチャンが、キリストにより救われて、今、恵みの下に置かれ、御霊の力によって、「義」、すなわち、神の前での正しい行いをしながら生きる者に、父なる神により、変えられていることを表します。

 

 確かに、パウロは、14節で、「律法の下」と「恵の下」を並べて記しましたが、その意図は、「律法の下」と「恵みの下」を、同じ対等の重さで並べているのではなくて、今、「恵みの下」に生きていることが、「律法の下」に生きていた以前とは、比べものにならないほどに、比較にならないほどに、圧倒敵に、神に祝福されていることを教えているのです。力点は、「恵みの下」にあるのです。

 

 そして、このことは、今日も同じです。わたしたち一人一人も、死ぬべき体、すなわち、この地上で生きる期間が限られている体です。しかし、わたしたちクリスチャンは、自分のこの大事な体を、罪に献げるのではなく、キリストであるイエスさま、救い主であるイエスさまを遣わしてくださった天の慈愛深い父なる神に献げて、神の義を行う道具、手段、器として用いて、神の御心に適う正しいことを、歴史の中で、日々、積極的に行って、豊かな祝福を受けて、力強く歩んで生きていくのです。このことは、1世紀も、今日も同じです。

 

結び

 

 こうして、今日のところを見ます。わたしたちも、クリスチャンとして、自分の心と体を神に献げて、神の義を行い、神からの豊かな祝福の中を、今週も、喜んで歩んでいきたいと思います。

  

お祈り


 憐れみ深い天の父なる神さま、
1週間の歩みを、各々の立場で、守られて、今日、また、新しい週の最初の日に、礼拝に導かれ、感謝いたします。
 今、わたしたちは、礼拝を通して、御言葉を学び、わたしたちは、キリストに結ばれた者として、恵みにより、罪に死に、あなたに生きる者にされておりますことを、改めて、感謝いたします。
 どうか、わたしたちは、罪に死に、あなたに生きる者に変えられていることを、一層、深く自覚して、ますます、わたしたち自身を、丸ごと、あなたに献げて、歩み、御霊により、あなたの義を行わせてくださるように、お願いたします。

 また、兵庫県年南部の地震によりまして、多くの被害が出ております。一般の方々、また、信仰の仲間も、いろいろなかたちで、悲しみと苦しみの中に置かれています。どうか、慰めと励まし、そして、必要なものが与えられ、少しでも早く復興、回復していきますように、心からお願いいたします。
 
 今日、集まることのできなかった方々、健康の弱さを覚えている方々、病いにある方々、困難にある方々に、助けをお与えください。
 
 今日から始まる新しい1週間を、わたしたちが、どこにあっても、豊かに、祝福してください。

これらの祈りを主イエス・キリストの御名により、御前に、お献げいたします。アーメン。

 

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