* 佐々木稔 説教全集 *   

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   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6;5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ 11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


「愛の実践」

ローマ書12章9節―21節

 

はじめに

 

 わたしたちは、主の日の朝の礼拝においては、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが、紀元56年頃ローマの信徒たちに書いたローマの信徒への手紙を学んでいますが、今日も、わたしたちは、キリストにある素晴らしい救いを順序立てて、力強く教えているローマの信徒への手紙に耳を傾けたいと思います。

 

 では、今日の個所はどんなところでしょう。すると、神の憐れみによって、素晴らしい救いを受けた信徒が、キリストの体である大切な教会を共に建てていく信仰の仲間に対して取るべき姿勢および教会の外の人々に対して取るべき姿勢が具体的に教えられています。

 

そこで、今日のわたしたちも、ここに教えられている信仰の仲間に対する姿勢および教会の外の人々に対する姿勢を自分自身の姿勢として受け入れ、愛の実践に励み、神から豊かな祝福を受けつつ、信仰の道を喜んで歩んでいきたいと思います。

 

1.具体的な行動の土台としての真実な愛

 

 さて、それで、わたしたちは今日のところを見るのですが、まず、わたしたちは、ここにも、また、キリスト教信仰の素晴らしさを見ることができます。では、一体、どこが、そんなに素晴らしいのでしょう。すると、神の豊かな憐れみによって救われた信徒は、キリストの一つの体なる教会を一緒に建て上げていく信仰の仲間に対して取るべき姿勢、および、教会の外の人々に対してとるべき姿勢が、具体的、実践的に教えられているので、信徒は救われたら、どのように歩んだらよいのか迷わないで済むようにされていることがとても素晴らしいのです。

 

 すなわち、ローマの信徒への手紙は、救いの方法としての信仰義認を教えて、もうこれで終わりで、信仰義認で救われたら、後は、信徒各自が好きなようにやりなさいというのではなく、今度は、信仰義認によって救われた信徒の具体的な生活、姿勢、行動、生き方までも、さらに、はっきり教えているので素晴らしいのです。救いの方法の信仰義認だけを教えて、後は知りませんというのではなく、救ってくださった神の御心に適う愛の実践までも、きちんと教えて、信徒が実践において、迷わないで、確信を持って力強く生きていけるにしてくださっているのです。

 

 それで、わたしたちが今日のところを見ますと、ここには、「このようにしなさい」という1世紀の世界で最初の信徒に対する具体的な実際的な勧めが、数え方にもよりますが、何と22個も丁寧に配慮よく教えられています。

 

そして、これが素晴らしいのです。これらの具体的な勧めがあるので、キリスト教信仰は、観念論にならずに、一人一人の生きた行動を引き出す力になっているのです。

 

 そして、さらに、わたしたちが、今日のところをよく見ますと、実は、大まかに、3つに分けて考えることができます。第1区分は9節で、今日の個所全体の土台になることが語られています。そして、第2区分は10節から16節で、キリストの一つの体である教会を共に建てていく信仰の仲間に対して、取るべき姿勢が、主に教えられています。そして、第3区分は17節から21節で、教会の外の人々に対して取るべき姿勢が教えられています。それで、わたしたちも大まかな3つの区分について見ていきたいと思います。

 

 さて、以上のように、今日のところは、キリストの一つの体である教会を、共に建てていく信仰の仲間に対して取るべき姿勢、および、教会の外の人々に対して取るべき姿勢が教えられていますが、では、それらの姿勢を成り立たせる土台、基礎、礎、基いは何でしょう。すると、それは、偽りのない真実な愛を持って接することと、神の前での善悪の判断基準に基づいて行動することです。

 

 9節がそうです。それで、わたしたちは、この9節は、今日の個所の全体と、どのような関係があるかと思うのですが、実は、今日の個所の全体の土台、基礎、礎、基いを表しています。

 

 すなわち、今日の個所は、信仰の仲間に対して取るべき姿勢と教会の外の人々に対して取るべき姿勢の両方が教えられているのですが、どちらの姿勢においても、土台は、真実な愛をもって接することと、神の前での善悪の基準に基づいて行動することを教えているのです。

 

9節は、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず」とありますが、この御言葉は、とても含蓄が深い豊かな御言葉になっています。「偽り」というのは、原語は、びっくりするような意味の言葉で、「役者の演技」という意味の言葉です。すなわち、今日も、役者・俳優はいますが、1世紀のローマやギリシャの世界にも、役者・俳優はいました。そして、役者・俳優は、舞台において、ある役になって演技をするのですが、その役者・俳優の演技を表す言葉が、「偽り」という言葉です。

 

 したがって、この意味を当てはめますと、信徒の愛は、役者や俳優の演技のような愛であってはなりませんということで、神の豊かな憐れみによって救われた信徒は、信仰の仲間に対しても、また、教会の外の人々に対しても、役者のような演技としての愛をするのではなく、心からの真実な愛を行い実践することを、パウロは勧めていることがわかります。

 

 また、「悪を憎み、善から晴離れず」とありますが、これは、神の前での善悪の判断基準に基づいて行動することを勧めています。すなわち、神の前で悪になるものは遠ざけ、神の前で善となるものとは、固く結びついて離れず、その善をいろいろな選択肢の中から選びとって行動することを表します。

 

 「悪を憎み」の「憎み」という言葉は、とても意味の強い言葉で、憎悪するという意味です。強く憎むことを意味します。そして、「善から晴離れず」の「離れず」も意味の強い言葉が使われています。かつて、イエスさまは、夫と妻の結びつきを教えるときに、「人は、その妻と結ばれ、二人は一体となる」と言われましたが、そのときの「結ばれ」という言葉が、実は、「善から離れず」の「離れず」とまったく同じ言葉です。ですから、信徒は、夫と妻が結ばれるように、神の前での善と固く結びついて離れないことを表します。

 

 したがって、この意味を当てはめますと、信徒は、信仰の仲間に対しても、また、教会の外の人々に対しても、神の前で悪になるものを強く憎んで遠ざけ、神の前で善になるものと固く結び結びついて離れず、その善を行い実践していくことを、すべての行動と生活の土台とするように、パウロは勧めているのです。

 

 そして、このことは、今日の信徒であるわたしたちにも当てはまります。わたしたちも共に教会を建てていく信仰の仲間に対しても、また、教会の外の人々に対しても、役者や俳優のような演技の愛を演じるのでなく、心からの真実な愛を持ち、また、神の前で通用する善悪の基準を土台として、接し、行動し、そして、神から豊かな祝福を受けるのです。

 

2.教会の内側の信仰の仲間に対する姿勢

 

 さて、以上のようにして、土台はわかりました。では、その土台の上に立って、今度は、教会の中の信仰の仲間に対しては、具体的にどのような姿勢を持ったらよいのでしょう。すると、パウロは、10節から16節までの第2区分と言われることにおいて勧めていますので、わたしたちもその要点を見ていきましょう。

 

 まず、パウロは、信仰の仲間を神の家族に属する兄弟として愛し、相手を認め、尊び、尊敬することを、相手よりも先に自分自身が行うように勧めています。これも、また、豊かな含蓄のある言い方です。ここに「兄弟愛」とありますが、原語では、フィラデルフィアと言います。そして、フィラデルフィアと聞きますと、わたしたちは、どこかで聞いたことがあると思うのですが、フィラデルフィアとは、アメリカの一つの都市の名前ですが、聖書から取ってつけられた名前で、兄弟愛という意味です。

 

それで、今、わたしたちが、特に注目したいのは、「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」とありますが、実は、また、ここも、もともとは、びっくりするような言い方がなされています。もともとの言い方は、「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思うことにおいて、先に行きなさい」という言い方で、「先に行く」という変った言い方がわざわざなされています。

 

 では、「先に行く」というのは、どのような意味でしょう。すると、相手よりも先に行くというのは、相手よりも先に行い、相手よりも先に実践することを意味します。すなわち、相手がしないうちに、自分の方が先に行うことを意味するのです。

 

 具体的に言えばこうです。信仰の仲間と接するときには、相手が自分を認め、尊び、敬ったら、わたしも相手を認め、尊び、敬うというふうに、相手がしたら、その後、自分もするというのではなくて、まったく逆に、自分の方が先に相手を認め、尊び、敬うことを、パウロは勧めているのです。

 

 ポイントは、自分の方が先にするという点にあります。相手がしたら、自分がするというのではないのです。自分の方が先にするのです。今日の勧めには、驚くべきことが幾つもあります。そして、信仰というものはそうゆものなのだと教えらえるのです。

 

次いで、パウロは、今度は、信徒がキリストに対して持つべき姿勢を、ここで、合わせて教えるのです。では、神の豊かな憐れみによって救われた信徒は、キリストに対して、どのような姿勢を持つべきなのでしょう。すると、キリストに対する信仰の生活が怠惰にならず、勤勉に励み、信徒の人格と人生の全体を動かしていく中心である自分の心が、いつも、信仰によって赤々と燃え続け、信仰の熱心を継続していくように、パウロは勧めています。

 

 11節がそうです。「主に仕えなさい」というのは、主イエス・キリストに仕えるということで、主イエス・キリストに従い仕える信仰生活を表していますが、ここで、特に注目したいことは、「霊に燃えて」という言い方です。この御言葉は、以前に、東部中会の信徒大会のスローガンになったこともあります。意味は、信者の一人ひとりの心が、信仰の火が途中で消えることなく、信仰の火が赤々と燃え続けていくという意味で、信仰の熱心さの継続を勧める御言葉です。

 

 なお、「霊」というのは、聖書においては、聖霊、御霊、神の霊のことを表すとともに、わたしたち人間の霊、すなわち、わたしたちの心、魂、霊魂も表します。そして、ここでは、人間の霊、すなわち、魂、心のことを霊という言い方で表わしています。そして、「燃える」というのは、信仰の火が消えることなく、赤々と燃え続けるということで、信仰の熱心さの継続を表します。

 

 それで、信徒は、信仰の火によって、心が、いつも赤々と燃え続け、信仰の熱心さを継続し、豊かな祝福を受けるのです、しかし、現実には、さまざまな試練や困難があります。特に、1世紀の時代には、ののしり、嘲り、罵詈雑言、試練、困難、圧迫、迫害という苦しみがありました。

 

 そこで、パウロは、信徒が、そららのさまざまな試練や困難や迫害の苦しみにも、神への祈りを通し、力を与えられ、忍耐し、救いの完成を希望として歩むように勧めました。12節がそうです。ここには、「苦難を耐え忍び」とありますが、「苦難」というのは、信仰ゆえに受けるののしり、嘲り、罵詈雑言、試練、困難、迫害などを表しています。

 

 また、1世紀の時代の教会には、貧しい信仰の仲間がたくさんいました。また、旅人を自分の家に泊め、親切に配慮することが、神の御心に適う愛の実践として勧められました。

 

 13節がそうです。ここに、「聖なる者たちの貧しさ」とありますが、「聖なる者たち」と言われていますが、「聖なる者たち」というのは、信徒の別の言い方です。約束の救い主メシアのイエスさまを信仰した信徒は、罪赦され、聖霊により罪からの聖化がもうすでに始っていて、神から聖なる者、神との関係がきよい者と見なされているので、「聖なる者たち」と呼ばれます。

 

 さて、ところで、すでに、12節で、「苦難を耐え忍び」と言われていましたが、1世紀においては、信仰ゆえに迫害されるということが、しばしばありました。では、信徒は、自分たちを迫害する人々に対して、どのような姿勢を取るべきなのでしょう。

 

 すると、彼らも、また、約束の救い主メシアのイエスさまを信仰して救われることを必要とする罪人なので、彼らも、また、神の祝福によって救われるように信徒は祈るのです。迫害するからと言って、彼らが神に呪われ、神から災いと不幸を受けるようにと祈るのではなく、彼らも、また、いつくしみ深い神を知って、それまでの罪を反省し、悔い改めて救われるように祈るのです。

 

 そして、これも、また、驚くべき画期的な勧めでした。どんなに迫害されても、仕返しをせず、相手も救われることを心から祈るということは、1世紀の地中海世界の人々にとっては考えられないことで、本当に驚くべきことでした。それで、実は、これで、当時の人々は、キリスト教信仰が、人を愛する真の宗教であることを次第に知って、キリスト教に回心していくことになるのです。

 

 14節がそうです。実は、この14節で、強調されているのは、「祝福を祈る」という言葉です。実は、「祝福を祈る」という言い方が、パウロにより、2回もここで意識的に繰り返されています。そして、もともとの語順は、「祝福を祈る」という言葉が、文章の先頭に来て、目立つようにされています。もともとの言い方は、「祝福を祈りなさい。あなたがたを迫害する者のために。祝福を祈りなさい。呪ってはなりません」という語順です。

 

 そして、迫害する者のために祈るということは、どのようなことかと言えば、迫害をする人々が、自分の罪に気づいて、反省し、悔い改め、十字架につけられたイエスさまを自分の救い主と信仰し、恵みによって罪から救われるように神に祈るという意味です。パウロのこの勧めも驚くべきものでした。何故なら、この世においては、他の人からやられたらやり返すというのが普通だからです。否、やられたら、二倍にして、仕返しをするという人だっているでしょう。以前に、テレビのドラマで、「倍返し」という言葉が流行ったほどです。でも、パウロの勧めは、この世の仕方とはまったく違うのです。

 

そして、パウロは、ここで、再び、信仰の仲間への姿勢を教える勧めに戻って、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と言って、信仰の仲間への真の同情をと思いやりを勧めています。また、「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません」と命じて、信仰の仲間との一致、調和、ハーモニー、まじわりを強く勧めました。

 

 そこに、「身分の低い人々と交わりなさい」とありますが、これは、信仰の仲間に対して差別をしないことを教えています。「身分の低い人々」とは、具体的には、1世紀の地中海世界においては、奴隷や遊女や犯罪を犯した人々のことを表していると思われます。1世紀の時代においては、教会には、お金で売買され、人格を認められず、道具としか見なされなかった奴隷で信仰を持った人々も多くいたと思われます。しかし、社会においては、奴隷であっても、教会においては、キリストの一つの体を共に建てていく信仰の大切な仲間として、差別なくまじわりがなされたのです。

 

 身分制度が社会をがっちり支配していた1世紀の時代において、キリストの教会においては、奴隷であっても、主にある兄弟姉妹として、対等・平等に親しく交流をするなどということは、当時としては、驚くべきことであり、画期的なことでした。そして、教会においては、人を差別しないで、親しく交流するというキリスト教信仰の教えが、やがては、奴隷制度をはじめとするいろいろな差別制度を世界から廃止していく大きな原動力になっていったのです。

 

 以上のようにして、10節から16節までは、大まかに言って、主に信仰の仲間に対する姿勢が教えられていますが、ひとつひとつの教えが、宝石箱の宝石のようにキラキラ輝いて光を放っています。こうして、神の豊かな憐れみによって救われた信徒は、お互いにキリストの一つの体を共に建てていく大事な信仰の仲間として、親しく交流することにより、神御自身から豊かな祝福を受けていくのです。そして、このことは今日も同じです。わたしたちも、お互いにキリストの一つの体を、今の時代の日本に共に建てていく大事な仲間なのであり、どの人もなくてならない存在であることをお互いにしっかり覚えたいと思います。

 

3.教会の外にいる人々への姿勢

 

 さて、それで、わたしたちは、教会の中にいる人々、すなわち、信仰の仲間に対する姿勢がわかりましたので、今度は、教会の外にいる人々に対する姿勢を見ていきたいと思います。

 すると、先ほども、すでに、12節で、「苦難を耐え忍び」と言われ、また、14節では、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と言われていたように、この手紙の書かれた1世紀は、信徒は、教会の外の人々から信仰ゆえにののしり、嘲り、罵詈雑言、試練、困難、迫害を受ける状況でした。したがって、教会の外の人々に対する姿勢は、迫害する人々に対して、どのような姿勢を取るかという仕方で教えられています。そして、迫害する人々には、耐え忍ぶことと、迫害する人々も救いという神の祝福を受けられるように祈ることを、パウロはすでに教えましたが、今度は、17節から21節において、迫害されても、決して、仕返しや復讐をして争わず、あくまでも平和に暮らすように命じました。

 

17節から21節がそうです。そして、17節から21節までが、ひとつのまとまりになっていて、教会の外の人々から迫害された場合に、信徒が取るべき姿勢が、使徒パウロにより具体的に教えられています。

 

それで、17節と21節に、「悪」という言葉が出てきますが、この場合の「悪」とは、具体的には迫害の悪を意味しています。したがって、その意味を当てはめますと、17節の「だれに対しても悪に悪を返さず」は、「だれに対しても迫害の悪に対して仕返しの悪を返さず」となりまして、信仰ゆえに迫害されたからと言って、こちらも仕返しや復讐をしないようにとの意味になります。もし、信仰ゆえに迫害されたからと言って、こちらも仕返しや復讐をするならば、それは悪になるとパウロは言うのです。

 

では、迫害する人々に対して、どうするかと言いますと、あくまで真実な愛の心をもって、「善」、すなわち、善いことを行うように心がけるのです。そして、迫害する人々とも、できるだけ平和で穏やかな交流をして暮らすように努力や工夫や知恵を尽くすのです。

 

それで、わたしたちは、ここまで見てきますと、ひとつの疑問を持ちます。18節を、よく見て見ますと、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」とありまして、「できれば、せめて」と言われているのです。それで、わたしたちは、この「できれば、せめて」とは、どのような意味かと思うのですが、実は、これは、迫害が余りにも激しすぎて、信徒の忍耐の限界を超えて、平和で穏やかな交流を、最早、どうしても維持できない場合があることを表しています。

 

実際、かつて、そのような場合がエルサレム教会にありました。使徒言行録8章に記されているように、あるとき、エルサレム教会のクリスチャンたちに対して、忍耐の限界を超える激しい迫害が起こりました。そのため、エルサレム教会のクリスチャンたちは、迫害する人々と、それ以上には交流を保って暮らすことができなくなり、クリスチャン徒たちは、エルサレムを離れ、イスラエルの各地に散り、各地で新しい生活を始めました。そして、そのことが結果的には、イスラエル各地にキリストによる救いのよき知らせである福音が、人の思いを超えて広まることになったのでした。でも、そのように、クリスチャンの忍耐の限界を超える迫害のときには、別の対応があることを、パウロは知っていてその旨を記しているのです。

 

さて、それで、信仰ゆえに、迫害されても、仕返しや復讐をしないことが、神の御心であることを強調するために、パウロは、19節で、「愛する人たち」と優しく呼びかけをした上で、旧約聖書から2つの御言葉を引用しました。すなわち、悪に対する裁きは、神が最後の審判で行うことですので、迫害の悪も、神御自身が最後の審判で必ず裁きますので、神に委ねるという信仰の姿勢をもつべきことを命じました。また、迫害する人々に対しては、なお親切と善を行い続けることを変わらずに命じました。

 

そうすれば、あるときに、迫害をする人々は、自分のしていることが、悪であることに気づいて、燃えるような恥ずかしさを感じ、良心が非常に強く責められ、自分が迫害していたことを反省し、悔いて、迫害を止めるときが必ず来るのです。こうして、真実な愛の心から出る善と親切をもって、迫害の悪に打ち勝つことが神の御心であることを、パウロは丁寧に教えて、信仰ゆえに迫害されても、仕返しや復讐を決してしないように命じました。

 

19節に、「・・・自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」とありまして、「神の怒り」と言われていますが、「神の怒り」とは、神の正当な怒りによって裁かれる最後の審判を表しています。

 

また、19節に、鍵括弧に入っている「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」という御言葉は、もともとは、旧約聖書の申命記32章35節の御言葉ですが、ここで、大事なことは、神が、「わたし」、「わたし」と2回も、「わたし」が繰り返され、しかも、語順も、原文の語順は、「わたしのすること、復讐は。わたし自身が、報復する」という言い方で、「わたし」また「わたし自身」という言葉が、先頭に出て目立つようになっています。これは、明らかに、強い強調で、迫害の悪に対する裁きは、神御自身が必ずなさるので、神にお任せすればよいことがとてもよく伝わってきます。

 

そして、もうひとつの20節の鍵括弧に入っている御言葉、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」という御言葉は、旧約聖書の箴言25章21節の引用です。そして、特に大事なことは、「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」という言い方の意味を正しく理解することです。

 

この御言葉は、その意味が、難しいと昔から言われてきた御言葉です。でも、多くの注解者たちは、この言い方は、迫害している人々に対して、親切と善を行い続けると、迫害している人々は、あるときに、自分がしている迫害が悪であることに気づいて、燃えるような強い恥ずかしさを感じて、良心が激しく責められ、迫害を悔いて止めることを意味していると理解してきました。「燃える炭火」というのは、燃えるような強い恥ずかしさを意味すると思われます。

 

そして、パウロのこの教えは驚くべき画期的な教えでした。この世の教えとは、まったく異なる教えで、真逆の教えでした。この世において、他の人からひどいことや理不尽なことをされれば、こちらもやり返すというのが、通常でしょう。否、単に、やり返すというのではなく、自分がやられたら、相手に2倍にも、3倍にもしてやり返してやるとさえ人は平気で言うでしょう。しかし、それでは、悪の連鎖となり、悪はますますお互いにエスカレートするでしょう。そして、実際、最後には、殺傷沙汰が生じ、1回しかない大事な人生をお互いに破壊してしまうということが、いくらでも現実に日々起こっているでしょう。

 

でも、パウロは、そのようなことは、1世紀のローマ帝国が支配する異教世界に生きる最初の信徒には決して教えはしませんでした。パウロは、この世とはまったく逆のことを教えたのです。そして、1世紀の信徒たちは、実際に使徒パウロのこの教えを信仰によって守り実践したのです。

 

わたしたちは、1世紀のローマの信徒たちが、信仰ゆえに捕えられ、ローマのコロッセウムで、人間たいまつにされたり、猛獣と戦かわせられたりして、迫害されたのを知っています。しかし、彼らは、それでも、使徒パウロの教えに信仰によって従って、決して仕返しをしたり、復讐をしたりはしなかったのです。

 

ローマ帝国における迫害は、断続的に、何と、二百数十年の長きにわたって行われました。でも、ローマの兵士たちは、迫害しても、迫害しても、仕返しや復讐をせず、迫害をする自分たちが救われように、信者たちが祈るのを見て、最後には、迫害ができなくなってしまいました。そして、キリスト教信仰は、他の宗教とまったく違う、人を真実に愛する宗教であることを知り、救いのよき知らせである福音に耳を傾けるようになり、さらに、自分の罪を反省し、悔い、十字架につけられたイエスさまを自分の罪を赦す救い主として信じ、救われることとなり、迫害はここに終わり、神を愛し、人を愛するキリスト教信仰が、ローマ帝国において勝利したのです。迫害の悪が負け、キリスト教信仰による愛と善が勝利したのです。

 

パウロのこの手紙の宛てられた1世紀の世界の最初の信者たち、さらに、彼らに続く初期の信者たちが、この手紙で使徒パウロによって教えられことを信仰によって本当に守って、愛の実践をしたので、その後いろいろな紆余曲折があったにせよ、キリスト教信仰が途絶えることなく続き、今、東洋の小さな島国の日本にまで、福音が伝えられ、あなたもわたしも救われ、罪の赦しと永遠の生命を与えられ、日々、喜んで、真の人生を歩んでいるのです。わたしたちは、雲のような多くの証人に囲まれているのです。それゆえ、わたしたちも、使徒パウロの権威ある教えに信仰によって従い、信仰のよい歩みをして、今度は、わたしたちが後の信者たちに対して、雲のような証人になりたいと思います。

 

 

結び

 

 以上のようにして、今日の個所を見ます。今の時代の日本の信者であるわたしたちも、信仰の仲間に対しても、教会の外の人々に対しても、御霊の結ぶ実である真実な愛を行い、実践しながら、今週も喜んで信仰の道を歩んで行きたいと思います。

 

お祈り

 

 憐れみ深い天の父なる神さま、

8月も終わりまして、今日は9月の最初の礼拝ですが、いつも、わたしたちの信仰と健康を支えてくださることを感謝いたします。

 今、わたしたちは、また、御前に礼拝に導かれ、御言葉を通し、珠玉の宝石のように輝いている具体的な勧めと教えを受けることができ感謝いたします。

 どうか、わたしたちも、真実な愛とあなたの前での善悪の判断基準をもって、信仰の仲間および教会の外の人々と接して、豊かな祝福を受けることができますように、聖霊の力をお与えください。

 いつも、わたしたち一人一人の心に信仰の火が赤々と燃え続けますようにお導きくだい。

 また、9月に入り、教会の記念集会のための準備と作業を支障なく進めていくことができますようにお願いいたします。

また、今日集まることができなかった方々にも、それぞれのところで顧みがありますようにお願いいたします。

これらの祈りを主イエス・キリストの御名により御前にお献げいたします。アーメン

 

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