* 佐々木稔 説教全集 *   

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   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6:5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ 11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


「近くにある救い」

ローマの信徒への手紙10章5節―13節


じめに

 

 わたしたちは、主の日の朝の礼拝においては、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが、紀元56年頃、ローマの信徒たちに書いたローマの信徒への手紙を学んでいますが、今日も、わたしたちは、キリストにある素晴らしい救いを順序立てて教えているローマの信徒への手紙を共に、学びたいと思います。

 

 それで、今日のところは、何が語られているのでしょう。すると、神が、わたしたちの救いのために、定めてくださった救いの方法は、身近で、単純で、絶対確実な方法であるということが、パウロにより、教えられているところです。

 

 もし、わたしたちが、救われる方法が、難解で、不可能であるならば、誰一人として、救われません。しかし、慈愛深い神は、救いの方法を、とても身近で、平易で、単純で、しかも、絶対確実である救いの方法を、ちゃんと定めてくださっていたのです。それゆえに、旧約時代を担ったユダヤ人も、旧約時代を担うことのなかった異邦人も、共に救われ、共に喜び、共に同じ恵みの神を賛美できるのです。

 

 そこで、今日の個所から、3点のお話をしたいと思います。第1点は、神が定めてくださった救いの方法は、とても身近であるという点です。第2点は、神が定めてくださった救いの方法は、難解で不可能なものでなく、とても平易で、単純であるという点です。第3点は、神が定めてくださった救いの方法は、確実であるという点です。

 

それゆえ、わたしたちも、神が定めてくださった身近で、平易で、単純で、確実な方法で、何にも増して尊い自分の救いを、恵みの賜物として受け、喜びの中で、真の人生を、力強く歩んで行きたいと思います。

 

1.神が定めてくださった救いの方法は、身近である

 

 早速、第1点に入ります。第1点は、神が定めてくださった救いの方法は、とても身近であるという点です。では、一体、どのくらい身近なのでしょう。すると、パウロをはじめとするイエスさまの弟子たちが語る、あるいは、すでに成立していた教会が語る救いのよき知らせである福音の言葉を聞いて、一人ひとりが、自分の心で、イエスさまを救い主と信じ、自分の口で、イエスさまは救い主であると告白できるほど、身近なのです。

 

 それゆえ、人は、神の住まいと言われる高い天にまで昇って行って、救いを捜すことを、心の中で考えたり、あるいは、死者の世界と言われていた深い底なしの淵と考えられていた死者の世界にまで下って行って、救いを捜すことを、心の中で考えたりする必要がまったくないのです。それほど、救いの方法は、一人ひとりに御近なのです。

 

5節から8節がそうです。そして、5節から8節を見ますと、パウロは、まず、1世紀のユダヤ人の多くが陥っていた律法主義による救いは、難解で、まったく不可能であることを、述べています。

 

 すなわち、「掟を守る人は掟によって生きる」とありますが、この御言葉は、旧約聖書のレビ記の18章5節の引用ですが、パウロが、この御言葉を引用した意図は、人が、もし、掟、すなわち、人の生き方の規準である神の律法をすべて完全に守れるならば、その人は、「律法による義」すなわち、律法が目指す義、すなわち、神の前での正しさを与えられて、神に義と認められて救われるのですが、そんなことができる人は、誰ひとりいませんという意味で、引用されています。

 

 実際、そうでした。1世紀のユダヤ人は、「掟」、すなわち、律法をすべて完全に行って、律法が目指していた義、神の前での正しさを、自力で獲得して、律法主義の方法で、救われることを、熱心に求めました。しかし、その方法で、義を得た人は、誰一人もいませんでした。こうして、1世紀の多くのユダヤ人は、不可能な方法で救いを求めたので、誰も救われることができませんでした。

 

 では、まったく不可能で、誰にもできない律法の行いによる救いの方法と違って、十字架のイエスさまを救い主と信仰して、義を、恵みの賜物として与えられて救われる信仰の方法は、どうかと言うと、とても身近で、誰にでもできる救いの方法なのです。

 

 何故、身近かと言うと、パウロをはじめとするイエスさまの弟子たちが宣べ伝えていた、あるいは、すでに成立していた教会が宣べ伝えていた救いのよき知らせである福音の言葉を聞いて、一人ひとりが、自分の心で、十字架のイエスさまを救い主と信じ、自分の口で、イエスさまは救い主であると告白すれば、もう、それで、救われるほど、身近なのです。

 

 したがって、救いを求めて、神の住まいと言われる高い天にまで昇っていかなければと心の中で考えたりする必要もないし、また、死者の世界と言われていた深い底なしの淵、すなわち、陰府にまで下って行かねばならないと心の中で考える必要もないのです。

 

6節に、「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない」とありますが、これは、救いを求めて、神の住まいと言われる高い天にまで昇っていかなければと心の中で考えたりする必要がないという意味です。「天」とは、神の住まいと言われる高い、高い、天のことです。

 

そして、人が、高い天に昇って、救いを探しに行くことは、救いのために、へり下って御自身が、自ら、天から地上に下ってきて、十字架について、救いの道を開いたのち、天にお帰りになったキリストを、救いのために、再び、天から地上に、引き降ろすことと同じことになるのですが、そのような必要は、最早、まったくないのです。もう、すでに、救いのために、キリストは、へり下り、自ら、天から地上に来てくださり、わたしたちの罪の罰を身代りに受けて、十字架にかかり、すでに救いの道を開いて、天に、お帰りになったからです。

 

後は、パウロをはじめとするイエスさまの弟子たちが力強く宣べ伝えていた、あるいは、すでに成立していた教会が力強く宣べ伝えていた救いのよき知らせである福音の言葉を聞いて、一人ひとりが、自分の心で、十字架のイエスさまを自分の救い主と信じ、自分の口で、イエスさまは救い主であると表明、告白すれば、もう、それで、救われるのです。それほど、救いの方法は、身近なのです。これなら、誰でもしようと思えば、できることなのです。

 

また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってはならない」とありますが、これも同じ理屈です。「底なしの淵」とは、陰府(よみ)、すなわち、死者の世界と言われていたところで、底がないような深い地中の中にあると考えられていましたが、キリストは、救いのため、十字架で死んでから、死者の世界に、陰府に、3日の間、置かれました。しかし、3日目に、死者の世界からよみがえり、死の力を打ち砕いて、死に勝利し、救いの道を開いてくださり、すでに、天にお帰りになりました。

 

それゆえ、人は、救いを求めて、「底なしの淵」、すなわち、陰府(よみ)、死者の世界に降る必要はまったくないのです。それは、十字架の死後、死者の世界に降り、3日目に、死者の世界からよみがってくださったキリストを、再び、死者の世界に行かせて、再び、死者の世界から引き上げる、すなわち、再び、よみがえらせることと同じで、そんなことをする必要がないのです。「底なしの淵」とは、陰府(よみ)、すなわち、死者の世界と考えられていたところです。また、「キリストを死者の中から引き上げる」とは、イエスさまを、死者の世界から、再び、よみがえらせることを表します。

 

それゆえ、後は、パウロをはじめとするイエスさまの弟子たちが力強く宣べ伝えていいた、あるいは、すでに成立していた教会が力強く宣べ伝えていた救いのよき知らせである福音の言葉を聞いて、一人ひとりが、自分の心で、死者の世界からよみがえったイエスさまを自分の救い主と信じ、自分の口で、イエスさまは救い主であると告白すれば、もう、それで、救われるのです。それほど、救いの方法は、身近だったのです。これならば、誰でもしようと思えば、できる方法で、とても身近な方法でした。

 

また、8節に、「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」とありますが、この御言葉は、旧約聖書の申命記30章12節から14節の引用です。そして、パウロが、これらの御言葉を引用した意図は、神が定めてくださった救いの方法は、人の身近にあるので、だれでも、できることを強調するためです。

 

 それで、これらの御言葉の引用で、一番大切なのは、8節前半で、「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」という御言葉の順序です。実は、この8節の、もともとの語順は、「近くにある、あなたの、御言葉は、あなたの口に、あなたの心に」という語順で、「近くにある」という言葉が、最初に出て来て、最も目立つようにされています。すなわち、救いを起こす御言葉は、パウロをはじめとするイエスさまの弟子たちが力強く宣べ伝えていた、あるいは、すでに成立していた教会が力強く宣べ伝えていた救いのよき知らせである福音の言葉ですので、とても身近なところにあって、だれでも、一人ひとりが、自分の耳で聞いて、自分の心で信じて、自分の口で告白すれば、もう、それで、救われるほど、身近なのです。

 

 こうして、神が定めてくださった救いの方法は、とても身近なのです。今日も同じです。今日では、すでに成立している教会で、主の日毎に力強く宣べ伝えられている救いのよき知らせである福音の言葉を聞いて、わたしたち一人ひとりが、自分の心で、イエスさまを救い主と、喜びをもって信じ、自分の口で、感謝をもって告白すれば、それで、もう、罪の赦しと永遠の命から成る救いを、恵みの賜物として、自分が受け、日々、確信をもって、歩んで行くことができるのです。本当に、ありがたいことです。

 

2.神が定めてくださった救いの方法は、とても平易で、単純である

 

 第2点に入ります。第2点は、神が定めてくださった救いの方法は、難解で不可能なものでなく、とても平易で、単純であるという点です。では、一体、どれくらい平易で、単純なのでしょう。すると、イスラエルのナザレ村から出現したイエスさまは、十字架にかけられて死んで、お墓に納められのですが、しかし、お墓で朽ち果てて終わったのではなく、3日目に、父なる神によって復活させられ、その後、天にお帰りになり、今、イエスさまは、天から万物を支配している偉大な神であることを、一人ひとりが、自分の心で信仰し、また、自分の口で表明、告白すれば、もう、それで、救われるのですから、とても平易で、単純で、誰にでもできる方法です。

 

 すなわち、キリスト教の救いの方法は、外面の口で公に表明、告白することと内面の心で信仰することです。したがって、もし、自分自身の口で表明、告白し、自分自身の心で信仰していれば、もう、それで、間違いなく救われているのです。それゆえ、救いの方法は、難解で、不可能なものでなく、実に、簡単で、単純で、明快で、やさしく、た易い方法なのです。

 

 9節と10節がそうです。9節を見ますと、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」とありますが、原文では、「あなたの口でイエスは主であると公に言い表し、あなたの心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」となっていて、「口」と「心」に、そぞれぞれ「あなたの」が、わざわざ付いていて、「あなたの口」と「あなたの口」となっていて、一人ひとりの自分自身の口と自分自身の心が強調されています。

 

すなわち、人は皆、自分自身の口と自分自身の心を必ずもっていますので、他の人から何かを借りて来なければ救われないということがないのです。自分自身の口と自分自身の心を使うことによって、十分、救われるのです。これで、何も不足がないのです。

 

では、自分自身の口で、どのようなことを公に言い表すのでしょう。また、自分自身の心で、どのようなことを信じるのでしょう。すると、パウロは、自分自身の口で、イエスさまが、主、すなわち、万物を支配する偉大な神であることを、公に言い表し、自分自身の心で、イエスさまが、父なる神によって復活させられたことの二つを挙げています。

 

それで、わたしたちは、ここで、疑問が出るかもしれません。わたしたちが、イエスさまについて、信ずべきことは、いろいろ幾つもあるのに、何故、パウロは、ここで、イエスさまが主であること、すなわち、万物を支配する神であることと、イエスさまが、父なる神によって、復活させられたことの二つだけを挙げたのかと思うのです。

 

考えてみれば、イエスさまについて、信ずべき大切なことは、いろいろ幾つもあります。先ほども、使徒信条を交読しましたように、イエスさまは聖霊によってやどったこと、処女マリアより生まれたこと、ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受けたこと、死にて葬られたこと、陰府にくだったこと、天に昇ったこと、父なる神の右に坐したこと、かしこより来たること、すなわち、再臨すること、そして、生ける者と死ねる者を審くこと、すなわち、最後の審判をすることなど、イエスさまについて、信ずべき大切なことは、いろいろあります。

 

それなのに、どうして、パウロは、何故、ここで、イエスさまが主であること、すなわち、万物を支配する神であることと、イエスさまが、父なる神によって、復活させられたことの二つだけを挙げたのかと思うのです。

 

すると、これは、1世紀のユダヤ人を強く意識していたからと思われます。1世紀のユダヤ人は、イエスということを聞くと、イスラエルのエルサレムの郊外のゴルゴタという死刑場で、極悪人にしか課せられなかった十字架刑につけられて死んで、終わった偽メシアという風に思っていました。

 

しかし、実際には、そうではなかったのです。わたしたちが、福音書を通して、よく知っていますように、イエスさまは、偽メシアではありませんでした。父なる神の御計画に従順に従い、わたしたち人間の罪の贖いのために、十字架にかかりました。しかし、3日目に、父なる神によって復活させられ、その後、天にお帰りになり、父なる神の右の誉れの場に坐して、万物を支配しているお方であり、御自身も偉大な神であり、天地のあらゆるものが、神であるイエスさまにひざをかがめて礼拝すべきお方なのです。このことを教えるために、パウロは、イエスさまが主であること、すなわち、万物を支配する神であることと、父なる神によって復活させられたことの二つを、特に、挙げたと思われます。

 

9節に、「口でイエスは主であると公けに言い表し」とありますが、「主」という言葉は、旧約聖書においては、万物の支配者である偉大な神を表す言葉ですが、パウロは、何のためらいなしに、イエスさまにあてはめました。ですから、イエスさまは、1世紀のユダヤ人の多くが思っていたように、ナザレ村か出現した単なる人ではないのです。すべての人が、その御前にひざまづくべき主、偉大さ測り知れない神御自身なのです。それゆえに、救われるためには、イエスさまを、主、すなわち、万物の支配者である偉大な神と公に、自分自身の口で表明、告白する必要があります。

 

また、パウロは、イエスさまが、父なる神によって、復活させられたことも挙げていますが、これは、イエスさまが、極悪人でもなく、偽メシアでもなく、真のメシアであることを、父なる神が、イエスさまを復活させることによって、自ら証明したということを意味します。

 

もし、イエスさまが、極悪人で、偽メシアであったなら、父なる神は、イエスさまを復活させず、イエスさまを墓の中で腐敗させ、朽ち果てて、終わりにさせたはずです。しかし、父なる神の御計画にしたがい、恥と苦しみの十字架に死に至るまで従順であった真のメシアのイエスさまに、誉れと栄光を与えるために、墓の中で朽ち果てることを、決してお許しにならずに、底なしの深い淵、死者の世界、陰府から、イエスさまを、父なる神は復活させたのです。復活は、イエスさまが、あらゆる疑いを木端微塵に打ち砕いて、真のメシアであることの強力な証明だったのです。そして、人は、これを自分心自身の心に固く信じて、救われるのです。

 

そして、さらに、10節を見ますと、内面の心における信仰と、外面の口で公に表明、告白することの大切さが、9節と10節では、順序が逆になって、強調されています。9節では、外面の口で、公に表明、告白することが先に来て、内面の心で信じることが後になっていますが、この10節では、内面の心における信仰が先に来て、外面の口で公に表明、告白することが後に来ています。でも、その順序の違いは、どちらがより大切かを言おうとしているのではなく、両方とも同じく大切であることを表しています。

 

そして、ここで、忘れてはならないことは、9節では、「口でイエスは主であると公に言い表し」とあり、10節では、「口で公に言い表して」とあり、どちらも「公けに言い表し」と言われていて、どちらも、わざわざ「公に」と言われていますが、これは、わたしたちが、教会の公同礼拝で、会衆一同と共に、一緒に、公に、言い表すことを意味しています。

 

すなわち、先ほど、お話したように、口で表明し、告白し、言い表すのは、わたしたち信者一人ひとりが自分自身の口で表明し、告白し、言い表すのですが、では、どの場面で、自分自身の口で自分自身の口で表明し、告白し、言い表すかと言いますと、それは、もちろん、ひとりでいるときも個人的に自分自身の口で表明し、告白し、言い表すのですが、それと共に、教会の公の礼拝で、信仰の仲間と共に、会衆一同が、一緒に、公に自分自身の口で表明し、告白し、言い表すことが、必要なのです。

 

信仰は、個人的であると共に、いつでも、教会的なのです。それゆえに、1世紀の初代教会も、礼拝のたびに、信者たちが、自分の口で、イエスは主であると会衆一同が、共に、一緒に、公に、力強く、言い表して、信仰の歩みをしたのです。それゆえ、21世紀の日本の信者のわたしたちも、主の日の礼拝ごとに、イエスさまは、単なる人間ではなく、万物を支配しておられる偉大さ測り知れない神御自身であることを、主の日の礼拝のたびに、会衆全体として、共に、一緒に、自分自身の口で、表明し、告白し、言い表して、救いの道を力強く歩んで行きましょう。告白は、個人の告白共に、会衆一同の公の告白なのです。

 

3.神が定めてくださった救いの方法は、確実である

 

 第3点に入ります。第3点は、神が定めてくださった救いの方法は、確実であるという点です。すなわち、神が定めてくださった救いの方法は、不確かで、あやふやで、救われるかどうかわからない、救われるかもしれないし、救われないかもしれないというようなものでなく、救われることが確実な方法なのです。

 

 では、一体、どのくらい、確実なのでしょう。すると、イエスさまを、万物を支配する偉大な神と信仰して、教会において、会衆一同として、「主、イエス・キリストよ」と公に呼びかけて、礼拝をすれば、自分の救いは確実で、それで、救いを得られなくて、失望することがまったくないのです。その人が、旧約歴史を担ったユダヤ人であるか、それとも、旧約歴史を担うことのなかった異邦人であるかという区別は、最早、何の役にも立たないのです。イエスさまを、主、すなわち、神として礼拝すれば、もう、それで、確実に救われるのです。それゆえ、他の何か、難しい、実行不可能はことをする必要な、まったくないのです。

 

 11節から13節がそうです。それで、わたしたちは、ここに、鍵括弧に入ている二つの御言葉を見ます。11節の御言葉は、旧約聖書のイザヤ書の28章16節の引用です。また、13節の御言葉は、旧約聖書のヨエル書の3章5節の御言葉の引用です。

 では、パウロが、それらの御言葉を引用した意図は何でしょう。すると、「主を信じる者はだれも失望することがない」という御言葉で、イエスさまを主、すなわち、神と信じる者が、確実に救われることを言うためです。「失望することがない」というのは、人は、イエスさまを主、すなわち、神として信じたのに、救われなかったという失望を経験することが、決してないという意味です。イエスさまを主、すなわち、神と信じた者は、必ず救われるので、失望がないのです。

 

それで、もともとの旧約聖書のイザヤ書においては、主とは、偉大さ測り知れない神のことで、その神を信じる者は救われるという意味でしたが、パウロは、神を表す「主」という言葉を、何のためらい、何の躊躇なしに、イエスさまに堂々と当てはめて語っています。

 

そして、イエスさまを主、すなわち、神と信じた者は、必ず救われて、失望することがないことは、旧約歴史を担ったユダヤ人にも、旧約歴史を担うことのなかったギリシャ人をはじめとする異邦人のどちらにもあてはまり、最早、両方の区別はないのです。

 

今や、罪からの救いは、ユダヤ人だから与えられるとか、異邦人のギリシャ人だから与えられないという民族の区別がなくなったのです。確かに、旧約時代においては、神の民であり、旧約歴史を担ったユダヤ人だけが救われましたが、そのユダヤ人の中から万民の救い主・メシアのイエスさまが出現した今、ユダヤ人も、異邦人も、万民の同じ救い主・メシアのイエスさまを信じて、イエスさまの御名を呼び求めて、イエスさまを神として礼拝することによって、豊かな恵みとして、救いを確実に受けるのです。

 

ですから、最早、旧約歴史を担ったユダヤ人だからとか、旧約歴史を担うことのなかったギリシャ人をはじめとする異邦人だからという民族の区別はなくなったのです。すべての人にとって、同じひとりの主、すなわち、神であるイエスさまがいるのです。

 

イエスさまだけが、すべての人にとっての同じ主、すなわち、神であることが、3回も強調されています。12節で、「すべての人に同じ主がおられ」と、「すべての人に」が出てきます。次いで、「御自分を呼び求めるすべての人」と、ここでも、「すべての人」が出てきます。そして、さらに、13節でも、「主の御名を呼び求める者がだれでも救われる」とありますが、「だれでも」という言葉は、もともと「すべて」という言葉です。ですから、「主の名を「呼び求める者はすべて救われる」ということになり、「すべて」という言葉が、3回も繰り返されて強調されています。

 

その意味は、最早、旧約歴史を担ったユダヤ人と旧約歴史を担うことのなかったギリシャ人をはじめとする異邦人の区別は終了したのです。決定的に重要なことは、イエスさまを主、すなわち、偉大な神として、呼び求めて、その御前に膝まづき、あるいは、その御前に、ひれ伏して礼拝をすることなのです。そうすれば、主、すなわち、偉大な神であるイエスさまから、恵み、豊かな恵みとして、救いが必ず与えられるので、失望することが、決してないのです。イエスさまは、主、すなわち、偉大さ測り知れない神御自身であるので、御自分の名を呼んで、御前に、膝まづき、あるいは、その御前に、ひれ伏して礼拝するすべての人に、豊かな恵みとして、救いを与えることがいくらでもおできになるのです。

 

12節と13節に、「御自分を呼び求める」という言い方が出ています。また、13節でも、「主の名を呼び求める」という言い方が出てきますが、「呼び求める」あるいは「主の名を呼び求める」というのは、旧約時代からの決まった言い方で、主、すなわち、神の名を呼んで、礼拝することを意味しています。

 

ですから、これを当てはめると、イエスさまを、主、すなわち、偉大な神として信じて、イエスさまの御前に膝まづき、あるいは、その御前に、ひれ伏して礼拝をするすべての人が、確実に救われて、決して失望することがないことを表しています。イエスさまを、主、すなわち、偉大な神として信じて、イエスさまの御前に膝まづき、あるいは、その御前に、ひれ伏して礼拝をするが、救われず、失望するということは、まったくないのです。大丈夫です。確実に救われ、決して失望することがないのです。

 

そして、念のために、触れておきますが、イエスさまを、主、すなわち、偉大な神御自身として信じて、イエスさまの御前に膝まづき、あるいは、その御前に、ひれ伏して礼拝をすることと、イエスさまを遣わしてくださった父なる神を信じて、礼拝することは、二つの別個のことではなく、一つに重なりあったことで、何の矛盾もありません。イエスさまを礼拝することは、イエスさまを遣わしてくださった父なる神を礼拝することと一つに重なることで、調和することなのです。

 

こうして、イエスさまを、万物を支配する偉大な神と信仰し、教会において、会衆一同として、「主、イエス・キリストよ」と公に呼びかけて、礼拝をすれば、わたしたちの救いは確実で、失望することがまったくないのです。神が定めてくださった救いの方法は、確実なのです。

 

結び

 

以上のようにして、神が、わたしたちの救いのために、定めてくださった救いの方法は、身近で、単純で、確実な方法なのです。今日のわたしたちも、神が定めてくださった方法で、イエスさまを、また、イエスさまを遣わしてくださった父なる神を礼拝し、共に救われ、共に喜び、共に賛美しならが、今週も、力強く歩んでいきましょう。

 

お祈り
 
 恵み深い天の父なる神さま、
わたしたち、1週間、各々のところでの歩みを守られ、祝福されて、
本日も、週の最初の日に、御前に礼拝に導かれ、心から感謝いたしますす。
 今、聖書を通して、わたしたちの罪からの救いは、わたしたちの遠いところにあるのではなく、近いところにあることを、改めて教えられましたが、わたしたちは、これからも、教会を通して、告げ知らされている救いのよき知らせを聞き続け、イエスさまを偉大な神として、また、神がイエスさまを死者の中から復活させたことを、共に告白し、共に信じて、尊い救いの中を、生涯、喜んで歩めるように、聖霊によってお導きください。
 本日、種々の都合や事情で集まることができなかった兄弟姉妹に、それぞれのところで、顧みがありますように、お祈りいたします。また、本日から始まる新しい1週間を、わたしたちが、どこになっても、豊かに祝福してください。
 これらの祈りを主イエス・キリストの御名によって、御前にお献げいたします。アーメン。


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