* 佐々木稔 説教全集 *   

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   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6;5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


「神の子とされる恵み」

ローマの信徒への手紙8:12-17

 

はじめに

 

 本日も、1世紀のキリスト教の伝道者、使徒パウロが、紀元56年頃書いた、ローマの信徒への手紙のお話です。では、これから、ローマの信徒への手紙のどこの個所をお話しするかと言いますと、8章の中ほどのお話です。

 

そこで、前回、学んだことを、二言、三言、おさらいして、それから、今日の個所に入りたいと思います。すると、直前の8章前半から学んだことは、信者は、一人ひとりの心に住んでくださる聖霊によって、すなわち、聖霊の内住によって、霊的生命を豊かに与えられているので、罪の力と死の力から解き放たれ、勝利して、救いの完成を目指し、喜んで、日々歩んでいくことができるということが、力強く、パウロによって語られていました。

 

それで、今日の個所は、それを受けて、聖霊が、一人ひとりの心に親しく住んでいてくださる信者は、神の家の養子の身分を与えられ、正式に、神の可愛い子供とされて、信頼と親しさをもって、神を父と呼び、さらに、キリストと共に、世の終わりに栄光を相続するというお話です。

 

そこで、今日の個所から、3点、お話しいたします。第1点は、聖霊が内住している信者には、果たすべき義務があるという点です。第2点は、信者は、神の家の養子の身分を与えられ、正式に、神の可愛い子供とされて、信頼と親しさをもって、神を父と呼んで祈ることができるという点です。第3点は、信者は、正式な法定相続人として、キリストと共に、世の終わりに栄光を相続するという点です。

 

1.聖霊が内住している信者には、果たすべき義務がある

 

 早速、第1点に入ります。第1点は、第1点は、聖霊が内住している信者には、果たすべき義務があるという点です。すなわち、わたしたちは、直前の個所から、信者は、聖霊のいろいろな祝福を受けているということを学びました。

 

 具体的には、わたしたち信者は、聖霊の豊かな霊的生命を受けているゆえに、罪の力と死の力から解き放たれ、解放され、自由にされました。また、わたしたち信者は、罪ゆえに、体は、死ぬものとなっていますが、しかし、わたしたち信者は、聖霊によって、神との関係において、霊的に豊かに生かされる者とされれいます。さらに、罪ゆえに、死ぬべきわたしたちの体は、キリスト再臨の終末のときには、二度と死ぬことのない霊の体に復活させられて、救いが完成することを学びました。

 

このように、わたしたち信者は、聖霊のいろいろな祝福を受けますが、だからと言って、わたしたち信者は、聖霊がすべてのことをしてくださるので、わたしたち信者は、何もしないでよいかというと、そうではなく、わたしたち信者が、積極的に、必ず果たすべき「一つの義務」があるのです。

 

 では、それは、何かと言えば、「肉にしたがって」、すなわち、以前の古い罪の性質にしたがって生きていかねばならないという、「肉に対する」、すなわち、以前の古い罪の性質に対する義務ではないのです。

 

 もし、「肉にしたがって」、すなわち、以前の古い罪の性質にしたがって、信者が生きるならば、信者は、霊的に死ぬことになります。しかし、信者一人ひとりに豊かに内住してくださる聖霊にしたがって、手、足、体を通して外に現れてれくる罪の行いを殺してしまうと言えるほどに、罪の行いを根絶するように努力して歩むならば、永遠の生命に生きていくことができるのです。

 

 12節と13節が、そうです。12節に、「それで、兄弟たちよ、わたしたちには、一つの義務があります」とありますが、「義務」という言葉は、もともとは、「負債を負う者」という言葉で、「義務」というよりも、もっと具体的な言葉が使われています。すなわち、今の時代でも、人は、負債を負ったら、どうするでしょう。必ず、負債を返さねばなりません。負債は返しても、返さなくても、どちらでもいいというものではないのです。負債は必ず、返さなくてはなりません。

 

 それをあてはめますと、自分の心に、聖霊が親しく住んでいてくださる信者は、聖霊のいろいろな祝福を一杯受けているのですから、負債を、必ず返すかのように、必ず、しなければならないことがあると、パウロは言うのです。

 

 でも、自分の心に、聖霊が親しく住んでいてくださる信者は、「肉にしたがって」、すなわち、以前の古い罪の性質にしたがって生きていかねばならないという、肉に対しての負債、すなわち、以前の古い罪の性質に対する負債は、まったくないのです。もし、信者が「肉にしたがって」、すなわち、以前の古い罪の性質にしたがって生きるならば、、霊的に死ぬことになります。

 

しかし、信者一人ひとりに豊かに内住してくださる聖霊にしたがって、「体の仕業」、すなわち、手、足、体を通して外に現れてれくる罪の行いを殺してしまうと言えるほどに、罪の行いを根絶するように努力して歩むならば、永遠の生命に生きていくことができるのです。

 

 13節に、「体の仕業を断つならば」とありますが、「体の仕業」というのは、

もともとの言い方は、体のいろいろな行いという意味で、手や、足や、体を通して外に現れてくる罪のいろいろな行いのことです。また、「断つならば」の「断つ」という原語は、わざわざ「殺す」という、非常に強い言葉を、パウロは意識的に使っています。「殺す」のですから、殺して、最早、活動できないよういするのです。あるいは、罪の行いの息の根を止めてしまうのです。あるいは、罪の行いを死なせてしまうのです。

 

では、罪を殺す、罪の行いの息の根を止めてしまう、あるいは、罪の行いを死なせてしまうということは、どのようなことかと言いますと、自分の心に、聖霊が親しく住んでいてくださる信者は、罪を殺すと言えるほどに、あるいは、いろいろな罪の行いの息の根を止めてしまうと言えるほどに、あるいは、罪の行いを死なせてしまうと言えるほどに、自分がいろいろな罪を犯さないように注意し、努力して歩むことを表します。

 

 しかし、「殺す」と、非常に強く言っても、罪を絶対犯さないようにするという完全主義の意味ではありません。それは無理であり、そのような無理なことを、パウロは、1世紀のローマの信徒に要求はしてはいません。罪を絶対犯さないようにするなどということは、この手紙を書いているパウロ自身でもできなかったことです。

 

 少し前の7章19節で、パウロは、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」と、正直に告白しています。ですから、パウロは、手や、足や、体を通して外に現れてくる罪のいろいろな行いを殺しなさいということによって、自分の心に、聖霊が親しく住んでいてくださる信者が、以前のように、罪を犯して生きる生き方から、意識的に、自覚的に、積極的に離れる努力をすることを、この言い方で表したのです。

 

 そして、これは、今日の信者であるわたしたちにも、十分当てはまります。自分の心に、聖霊が親しく住んでいてくださるわたしたち信者も、以前のように、罪を犯して生きる生き方から、意識的に、自覚的に、積極的に離れて、永遠の生命に生きていく努力を、前向きに、積極的に、日々、喜んでして、歩んでいくのです。

 

2.信者は、神の子の身分を与えられ、神の家の大事な養子にされる

 

 第2点に入ります。第2点は、信者は、神の家の養子の身分を与えられ、正式に、神の家の大事な息子とされ、また、信頼と親しさをもって、神を父と呼ぶことができる可愛い子供として受け入れられるようになるのです。これも、また、聖霊による祝福です。

 

すなわち、内住の聖霊によって導かれて、人生を歩んで行く信者は、だれでも、神の家の大事な息子たちにされるのです。すなわち、信者は、神の家の養子の身分を正式に与えられて、神の家の大事な息子たちされるのです。それゆえ、お金で売り買いされる奴隷が、乱暴な主人を恐れ、脅え、おどおどして、主人に仕えるような関係に置かれるのではないのです。

 

 また、信者は、当時の小さな子供が、父親を、「アッバ、父よ」、すなわち、「お父ちゃん」と、信頼と親しさをもって、呼びかけたように、天地万物を無より創造した偉大な神に対して、信頼と親しさをもって、神を天の父と呼びかけることができる関係に置かれるのです。また、信者は、自分が神の可愛い子供にされているという確信を、信仰によって、心に持ちますが、聖霊も、信者の心に働きかけて、信者が神の可愛い子供であることの確信を、いつも強めてくださるのです。

 

 14節から16節がそうです。15節に、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく」とありますが、この言い方で、お金で売り買いされる奴隷が、乱暴な主人を恐れ、脅え、おどおどして、主人に仕える関係を表していますが、信者と神との関係は、そのような関係ではなく、信頼と親しさを特色とする可愛い子供たちと愛情あふれる父の関係なのです。

 

この手紙が書かれた1世紀の地中海世界は、まだ奴隷制の時代でしたので、奴隷がたくさんいました。人は、戦争に負けることによって、戦勝国の奴隷にされました。また、人は、貧しさから、奴隷として、売られました。また、奴隷の子は、奴隷になりました。

 

 そして、奴隷は、人格を認められていませんでした。それゆえ、奴隷は、ひどい扱いを受けました。主人から打ち叩かれるということは、日常茶飯事でしたし、主人が奴隷を殺しても罪にはなりませんでした。そのため、奴隷は、主人を恐れて、仕えました。奴隷と主人との関係は、恐れ、脅える関係でした。

 

 15節に、「恐れに陥れる霊」とあり、「霊」と言われていますが、これは、信者の心に住んでいてくださる霊、すなわち、内住の聖霊は、奴隷が、乱暴な主人を恐れさせるような霊ではないことを教えています。すなわち、信者は回心する前は、罪に支配されている状態で、たとえて言えば、奴隷が主人の乱暴な支配を恐れる状態にたとえられるほど悲惨な状態であったと言えるのですが、聖霊は、信者を、再び、そのような罪の支配を恐れ、脅えるような悲惨な状態に、信者を陥れたりはしないのです。

 

 では、信者の心に住んでいてくださる霊、すなわち、内住の聖霊は、信者をどのような状態にしてくださるのでしょうか。すると、素晴らしい状態にしてくださるのです。すなわち、信者は、聖霊により、神の家の養子の身分を与えられ、正式に、神の大事な息子とされるのです。また、信頼と親しさをもって、神を父と呼ぶことができる関係に入れられるのです。

 

 14節から16節がそうです。14節に、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」とありますが、「神の霊」とは、もちろん、聖霊のことです。信者の心に住んでくださる内住の聖霊のことですが、「神の子」の「子」という言葉は、原語では、「息子たち」という言葉です。

  

1世紀時代は、家父長制の時代で、男性中心の社会でしたので、聖書もその時代において書かれ、「子」と言うと、息子のことを意味しましたが、ここでは、複数形になっていますので、厳密には、「神の子とする」というのは、「神の息子たちとする」という意味になります。こうして、信者は、「神の子」、すなわち、神の息子たちにされて、神から、大事に、大切にされるのです。

 

 では、どうして、罪に汚れたわたしたちが、「神の子」、すなわち、神の大事な息子たちになれるのでしょうか。すると、それは、恵みにより、わたしたちが、正式に、神の家の養子にしてもらえたからなのです。わたしたち信者は、法的に、正式に、神の家の養子にされるので、「神の子」、すなわち、神の家の大事な息子たちになれるのです。

 

 15節後半を見ますと、「神の子とする霊を受けたのです」とありますが、「霊」とは、もちろん、聖霊のことですが、特に、注目すべき点は、「神の子とする霊」という言い方です。ギリシャ語の厳密な言い方は、「養子にする霊」あるいは、もっとわかり易く、日本的に言えば、「養子縁組をする霊」という言い方です。

 

 ですから、聖霊は、信者を神の養子にして、神の家の大事な息子たちに、正式にくださるのです。あるいは、聖霊は、信者を、神と養子縁組をしてくださって、神の家の大事な息子たちに、正式にしてくださるのです。

 

 わたしたち信者は、神の家の養子なのです。本来の永遠からの神の子は、イエスさま、ただ、おひとりだけです。わたしたちは、聖霊の豊かな働きによる神の養子という意味で、神の子なのです。

 

 わたしたちは、礼拝のとき、小教理問答を読んでいますが、小教理問答の問34に、「子とすることとは、何ですか」とあり、答えがついていますが、その「子とすること」も、厳密に訳せば、「養子とすることとは、何ですか」という言い方になります。英語の原文を見ますと一目瞭然で、「養子とすること」という言葉は、英語で、adoption(アドプション)となっていて、英語の辞書を引けば、「養子とすること」あるいは、「養子縁組をすること」と出ています。

 

 そして、これは、素晴らしいことであり、実に、驚くべき祝福なのです。罪に汚れたわたしたちは、神から裁かれ、滅びを宣告されても当然の身で、何一つ文句も言えません。それにもかかわらず、逆に、聖霊を与えられ、正式に、養子にされて、神の家の大事な息子として、神を父とする関係の中で、喜んで歩むことができるようにされているのです。

 

 そして、さらに、また、信頼と親しさをもって、神を父と呼ぶことができる関係に入れられるのです。これも、また、驚くべき祝福です。

 

 15節後半に、「この霊によってわたしたちは、アッバ、父よ」と呼ぶのですとありますが、「この霊」とは、聖霊のことです。そして、「アッバ、父よ」の「父」はギリシャ語ですが、「アッバ」というのは、1世紀のアラム語で、イエスさまをはじめ、1世紀のイスラエル人々が、日常生活で話していた言葉でした。旧約聖書のヘブル語とよく似た言語と言われていますが、「アッバ」は、アラム語で、家庭で、小さな子供たちが父親に、「お父ちゃん」と信頼と親しさを持って、呼びかけるときに使った言い方と言われています。

 

 実は、16節前半に、「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証してくださいます」とありまして、ここに、「神の子供」という言葉が出てきますは、この「子供」という言葉は、原語では、「小さな子供たち」という意味の言葉が、わざわざ使われています。

 

 ですから、「アッバ」というのは、小さな子供たちが、家庭の中で、「お父ちゃん」と、信頼と親さをもって、呼びかける言葉なのです。すなわち、小さな子供たちが、家庭で、父親を「お父ちゃん」と、信頼と親さをもって呼びかけると、父親は、可愛い自分の小さな子供に、目を細めて、愛情たっぷりに、「何だい?」と応答する様子で、描かれています。

 

 こうして、わたしたち信者は、聖霊により、神の家の養子の身分を与えられ、正式に、神の大事な息子とされ、さらに、聖霊により、信頼と親しさをもって、小さな子供たちが、家庭で、父親を「お父ちゃん」と、信頼と親さをもって呼びかけるように、偉大な神を、「お父ちゃん」と呼びかけて祈ることができる信頼と親さの関係に入れられていることがわかります。

 

 ですから、信者は、神の家の養子の身分を与えられ、正式に、神の息子とされ、法的な関係においてしっかり保護されているだけでなく、神と、実に、親しい関係に置かれているのです。信者は、神を「お父ちゃん」と呼ぶような親さにあり、神は、父として、目を細めて、愛情たっぷりに、わたしたち信者を、可愛い子供たちとして、応答してくださる愛の関係に置かれているのです。

 

 では、わたしたちは、いつ、どこで、神を、「アッバ、父よ」、すなわち、「お父ちゃん」と、小さな子供たちのような信頼と親さをもって、神に呼びかけて、祈るのでしょう。すると、もちろん、信者が、一人ひとりが、「アッバ、父よ」、すなわち、「お父ちゃん」と、神に呼びかけて、個人的に祈ることができますが、15節を見ますと。「わたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とありまして、主語が「わたしたち」と複数形になっていますので、『アッバ、父よ』と、信頼と親さをもって、呼びかけて祈るのは、わたしたち信者一同が、口を揃えて、みなんで一緒に祈るとき、すなわち、公同礼拝において祈ることが意図されていると考えられます。

 

ですから、具体的に言えば、今、わたしたちが、している公同礼拝が、『アッバ、父よ』との呼びかけの実現になっていると言えるでしょう。そして、神も、父として、わたしたち信者一同を、可愛い子供たちに応答するように、愛をもって応答してくださっているのです。こうして、「アッバ、父よ」との信頼と親さのある呼びかけは、まず、公同礼拝において、実現しているのです。

 

 こうして、信者には、聖霊の働きによって、「アッバ、父よ」と、信頼と親さをもって、神を父として呼びかえることができる祝福も与えられていますが、聖霊の働きによる祝福は、まだ、あります。では、それは、どのような祝福でしょう。すると、信者は、自分は神の息子にされているという確信を、信仰によって、心に持ちますが、聖霊も、信者の心に、いつも働きかけて、信者が神の息子であることの確信を、共に、一緒に、強めてくださる祝福があるのです。

 

 16節がそうです。「この霊こそは、わたしたちが神の子供たちであることを、わたしたちの霊と一緒になって証してくださいます」とありますが、これは、信者が神の子であることについての聖霊の証言、聖霊の証しと言われるものです。

 

ただし、聖霊の証言、聖霊の証しと言っても、聖霊が、わたしたち一人ひとりの心の中で、実際に、言葉で、「あなたは、間違いなく、神の可愛い子供ですよ」と、語ったり、ささやいたり、しゅべったりするわけではありません。わたしたちは、自分の心に、聖霊が、「あなたは、間違いなく、神の可愛い子供ですよ」と、語ったり、ささやいたり、しゅべったりするのを聞いたことはないはずです。ですから、聖霊の証言、聖霊の証しというのは、「あなたは、間違いなく、神の可愛い子供ですよ」と、わたしたち一人ひとりの心に働きかけてくださる聖霊の働きのことを言うのです。

 

ある注解者は、聖霊が証してくださる、聖霊が証言してくださるということは、ローマの社会の養子の制度を背景にして、パウロは語っていると解説しています。実は、当時のローマの社会において、誉れのある家で、養子を取るときは、7人の証人を立てて、7人の証人の前で、養子縁組の儀式が行われました。そして、その養子にされた人が、正式な手続きを経て養子とされたことを公けに証言する必要が出てきたときには、その7人の証人がやってきて、その養子にされた人は、正式な手続きを経て、その誉れある家の養子にされたことを公に。7人が証言して、その養子にされた人の権利を守るという制度があったと言うのです。

 

そして、パウロは、このローマの社会の養子の制度を背景として、語っていると言うのです。すなわち、ローマの社会の養子の制度においては、7人の証人が、その人が、その誉れある家の正式な養子であることを公けに証言しましたが、キリスト教信仰においては、わたしたち信者が、正式な手続きを経て誉れある神の家の養子とされていることは、7人の証人でなく、聖霊なる神御自身が証人として、証言してくださるという実に確実なものであることを、パウロは語ろうとしていると言うのです。

 

そこで、16節を、注意深く見ますと、「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証してくださいます」とあますが、実は、「この霊こそは、」というのは、原語では、「霊自らが、すなわち、聖霊自らが、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証してくださいます」となっていて、わたしたちが、正式な手続きを経て養子とされ、誉れある神の家の可愛い神の子供とされていると証言するのは、7人の人間の証人でなく、聖霊なる神自ら、聖霊なる神御自身が、積極的に、証言してくださることを強調しています。

 

本当にそうです。わたしたちは、信者と言えども、いろいろな理由で、心にある信仰の確信が弱くなり、自分が、神の可愛い子供にされていることを確信できなくなるときがあります。すると、そのようなとき、聖霊なる神自ら、聖霊なる神御自身が、わたしたちの弱くなった心に、共に、一緒に、いつも、積極的に働きかけて、言わば、「あなたは、間違いなく、神の可愛い子供ですよ」と、語りかけるようにして、働きかけて、わたしたちの心の確信を強くして、わたしたちが、再び、神の可愛い子供にされていることを確信して、立ち上がり、喜んで、希望で胸を膨らませて、信仰の道を、さらに歩んでいくことができるのです。これも、また、聖霊の豊かな祝福であり、わたしたちの弱さへの愛の配慮なのです。本当に、ありがたいことで、心から感謝できます。

 

3.信者は、キリストと共に、世の終わりに栄光を相続する

 

第3点に入ります。第3点は、信者は、正式な相続人、すなわち、共同の相続人として、キリストと共に、世の終わりに栄光を相続するという点です。17節がそぅです。17節に、「相続人」という言い方が2回、「共同相続人」という言い方が、1回出ていますが、この相続人と言い方も、当時のローマの社会の相続の制度を背景にして、パウロは語っていると思われます。

 

当時の1世紀のローマの社会にも、相続の制度がありました。誉れある家の実子が、その家の財産全部をごっそり相続するという制度でした。では、その家の養子にされた人の相続は、どうなっていたのでしょう。

 

仮に、その家に、子供がいないということで、養子をもらいました。そして、そのままであれば、その養子は、正式な手続きで、養子にされ、大事な息子になりましたので、その家の財産全部を、そっくり相続できます。

 

では、その家の養子とされた後で、その家に、実子が生まれた場合の相続は、どのようになるのでしょう。実子が生まれたから、養子は、無用といて、養子縁組を解消され、その家から出され、相続できなかったのでしょうか。

 

すると、そうではないのです。養子は、実子が生まれても、正式な手続きを経て、養子とされ、その家の大事な息子であることに変更はなく、実子と共に、共同相続人として、その家の財産を実子と共に、相続することができたのです。こうして、養子の財産相続権が、ローマの法律によって、ちゃんと保護されたのです。

 

そこで、それに似て、わたしたち信者も、正式な手続きを経て養子にされ、神の家の大事な息子にされていて、聖霊の働きにより、キリストと結ばれており、キリストと一体にされていますので、キリストにある共同の相続人として、世の終わりに、「栄光」を、確実に相続することができるのです。これも、また、素晴らしい祝福です。

 

では、わたしたち信者が、世の終わりに、キリストと共に、キリストと結びついて、キリストと一体になって、キリストにあって、相続するところの「栄光」とは、具体的に、どのようなものでしょう。

 

すると、次の18節から25節までが、わたしたち信者が、世の終わりに、キリストと共に相続する「栄光」とは、どのようなものかが語られています。すなわち、全被造物が罪の結果である滅びの縄目から解き放たれ、わたしたち信者は、罪と無縁の二度と死ぬことなない栄光の体に復活し、また、罪の影響を受けて苦しみ呻いている全被造物も、罪から解き放たれ、栄光のうちに完成する神の国を受け継ぎ、相続するのです。

 

こうして、わたしたち信者は、栄光の体に復活し、栄光の神の国を、キリストと一体になって、共同に相続し、栄光の神の国で、キリストと共に、また、キリストを遣わしてくださった父なる神と共に、また、キリストの救いを、わたしたちに適用としてくださった聖霊と、すなわち、父・子・御霊の三位一体の神と共に、口で言い表すことができない無限の愛と喜び中で、永遠に生きていくのです。

 

このような、素晴らしい「栄光」を、信者は、キリストと共に、相続するのです。それゆえ、今、この世で、キリストを救い主と信仰するゆえに、困難や苦しみを受けても、それも、キリストと共に受ける苦しみとして、忍耐できるのです。こうして、信者は、世の終わりに受ける無限の栄光を受けることを思い、希望として、この世で受ける困難や苦しみに、キリストと共に耐え、信仰の生涯を歩んでいくのです。

 

パウロが、この手紙を宛てた1世紀のローマの信徒たちも、そうでした。彼らは、最初のクリスチャンとして、苦しみを、キリスト共に受ける苦しみとして、忍耐し、世の終わりに受ける無限の栄光を受けることを思い、希望として、忍耐して、信仰の生涯を立派にまっとうしたのです。

 

それゆえ、21世紀の日本のクリスチャンであるわたしたちも、いろいろなことがあっても、キリストと共に受ける苦しみとして忍耐し、そして、世の終わりに受ける無限の栄光を受けることを思い、希望として、信仰の生涯をまっとうしたいと思います。

 

結び

 

 以上にようにして、今日の個所を見ます。わたしたち信者は、聖霊の働きによって、豊かな祝福をたくさん受けていることを学びました。わたしも、あなたも、聖霊の働きにより、大事な息子、神の家の可愛い子供にされていて、豊かな祝福を受けながら、また、身に余る栄光も約束されていることを感謝しながら、今週も、喜びと希望をもって、信仰の道を進んでいきたいと思います。

 

お祈り

 憐れみ深い天の父なる神さま、
あなたの変わらぬいつくしみの御心に支えられ、3月の歩みをしていますが、今日も、新しい週のはじめに、御前に、礼拝に導かれ、感謝いたします。
 今、わたしたちは、パウロのローマの信徒への手紙を通して、イエス・キリストを信仰した者は、誰でも聖霊を与えられ、誉れある神の子にされ、豊かな祝福をあなたから、日々注がれることを見ました。
 どうか、わたしたちは、これからも、あなたに愛される神の子として、よい歩みができるようにしてください。
 今日、いろいろな都合で集まることができなかった方々に、顧みをお与えください。
 また、阪神大震災に被災された方々を助けてください。わたしたちも、応援、支援できますようにお導きください。
これらの祈りを主イエス・キリストの御名によって、御前にお献げいたします。アーメン。


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