* 佐々木稔 説教全集 *   

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   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6;5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


「律法からの解放」

ローマの信徒への手紙7:1-6

 

はじめに

 

 本日も、ローマの信徒への手紙のお話です。では、これから、ローマの信徒への手紙のどこの個所をお話しするかと言いますと、7章前半です。ローマの信徒への手紙は、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが、紀元56年頃、ギリシアのコリントから、ローマの信徒たちに書いた手紙です。そして、これまでに、ローマの信徒への手紙を、12回、お話をさせていただきましたが、今日は、13回目のお話です。

 

 では、今日の個所は、何を教えているのでしょう。すると、主イエス・キリストを信じて救われている者は、律法の強い拘束力から解放され、キリストに結ばれ、聖霊の豊かな実を結ぶ真の人生に変えられていることを覚えて、それらの救いの御計画を立ててくださった神に心から感謝するようにと、パウロが、とても力を込めて勧めているところです。

 

 それで、わたしたちも、ここを学んで、わたしたちも守り切ることができない律法の強い拘束力から解放されて、キリストに結ばれ、慈愛深い天の神を覚え、これからも、聖霊によるよき実を、たくさん結んで、大事な歩みを、日々喜んで、していきたいと思います。

 

1.クリスチャンは、律法の強い拘束力から解放されて、自由にされている

 

 さて、まず、わたしたちは、今日のところで、パウロが、何を問題にしているかを見ておきましょう。すると、ここで、パウロが問題にしていることは、クリチャンと律法の関係です。

 

 実は、パウロは、すでに、6章14節後半で、「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」と断言して、クリスチャンは、律法の強い拘束力から解放され、自由にされていることを語りました。

 

 しかし、どうして、クリスチャンは、律法の強い拘束力から解放されて、自由にされているのかという理由については、まだ説明していませんでした。そこで、パウロは、この7章で、クリスチャンが、律法の強い拘束力から解放されて、自由にされていることの理由を、丁寧に説明するのです。そして、特に、今日のところでは、クリスチャンが、律法の強い拘束力から解放されていることを、1世紀当時の人々が、よく知っていた婚姻関係、すなわち、夫と妻の結婚関係をたとえとして用いてのです。

 

 そこで、わたしたちも、夫と妻の結婚関係をたとえとして用いて、クリスチャンが律法の強い拘束力から解放され、自由にされていることを、パウロが、力を込めて、説明している今日のところを見ていきましょう。

 7章1節を見ますと、パウロは、これから自分が語ろうとすることは、とても重要なことなので、この手紙を読むローマのクリスチャンたちを、「兄弟たち」と、2回も、意識的に呼び掛けて、注意を喚起していることに、気づきます。

 

 7章1節で、「兄弟たち」と呼びかけて、注意を喚起していますが、さらに、少し後の、4節で、「ところで、兄弟たち」と、もう一度、呼びかけていますが、4節は、原文では、「わたしの兄弟たち」となっていて、わざわざ、「わたしの」という言葉を入れて、一層親しく呼び掛けて、注意を喚起していますので、パウロとしては、これから語る霊的真理を、重要なこととして、十分理解してほしいという願いを持っていたことが、ローマの読者たちに伝わってきます。

 

 では、パウロが、「兄弟たち」、また、「わたしの兄弟たち」と、2回も親しく呼びかけて、注意を喚起し、語る重要な真理とは、一体何でしょう。すると、それは、クリスチャンは、律法の強い拘束力から解放され、自由にされているという重要な真理なのですが、パウロは、この重要な霊的真理を、十分理解してもらうために、1世紀の地中海世界の人々なら、誰でも知っている婚姻関係、すなわち、夫と妻の結婚関係に関する法律一般をたとえとして用いるのです。

 

 1節後半で、パウロは、「律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか」と言っていますが、この言い方は、相手が、よく知っていることを確認する言い方です。「知らないのですか」と尋ねると、相手が、「そんなことはよく知っていますよ」と答えることを予想した言い方です。

 

 こうして、パウロは、この手紙が宛てられたローマのクリスチャンたちも、よく知っていた夫と妻の結婚関係に関する法律をたとえとして用いるのです。

 

 1節に、「わたしは、律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは」とありまして、「律法」という言葉が出てきますが、ここでの「律法」という言葉は、1世紀の地中海世界の夫と妻に関する法律一般を表します。

 

 実は、聖書には、「律法」という言葉が、何回も出てきますが、いろいろな意味で使われています。具体的には、旧約聖書全体を指す場合もあります。また、旧約聖書の中の特に、モーセの十戒をはじめとする神の戒めの全体を指す場合もあります。また、もっと狭く、モーセの十戒だけを指す場合もあります。また、最も広い意味で、当時の法律一般を指す場合もありますが、7章1節から3節に出てくる「律法」は、この最も広い意味での法律一般を表します。

 

 言い換えますと、イスラエルの法律を含めて、どこの国の法律でもよいのです。ローマ帝国の法律でも、ギリシアの法律でも、どこの法律でもよいのです。1世紀当時の地中海世界各国には、もちろん、各々、法律がありましたが、それら法律一般のことを表しています。そして、この手紙の宛てられたローマのクリスチャンたちは、ローマの法律をよく知っていました。そこで、パウロは、「わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは」と言ったときの「律法」は、最も広い意味で、「法律一般」を指しています。

 

2.夫が死ねば、罪は夫の強い拘束力から解放され、自由にされる

 

 さて、それで、法律というものは、イスラエルの法律を含め、ローマ帝国にも、ギリシアにも、どこの国にもあったのですが、では、法律の強い拘束力は、どのようなものであったでしょう。すると、それは、もちろん、生きている人々だけに及ぶもので、人が死ねば、最早、拘束力は及びません。これは、法律一般、皆同じです。法律の強い拘束力は生きている人を対象にして、人が死ねば最早、法律には束縛されません。死ねば、法律から解放され、自由になるのです。このことは、1世紀の人々なら、誰でもよく知っていたことでした。この手紙の宛てられたローマのクリスチャンたちも、よく知っていました。

 

 そして、今、言ったことは、婚姻、すなわち、夫と妻の結婚に関する法律についてもそのまま当てはまりました。すなわち、結婚した女性である妻は、夫の所有となって、夫の強い拘束力の下にありました。それゆえに、夫がまだ生きているのに、妻が他の男性と結ばれれば、それは姦通罪、すなわち、姦淫の罪となり、厳罰を受けました。しかし、夫が死ねば、結婚に関す法律の強い拘束力から解放され、自由になり、他の男性と結ばれることができました。これらのことは、1世紀当時の人は、誰でもよく知っていました。ローマのクリスチャンたちも、もちろん、よく知っていました。

 

 2節に、「結婚した女は」とありますが、これは、もちろん、妻の立場にある女性のことです。原語では、「男の下にある女は」という言い方で、1世紀当時の男性中心の家父長制社会の結婚観を表しています。すなわち、1世紀当時は、結婚するということは、女性にとっては、男性である夫のもの、夫の所有となって、夫に強く拘束される者になるという状況を表しています。

 

 また、2節前半で、「夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが」とあり。

2節後半でも、「夫が死ねば、自分を夫に結びつけていた律法から解放されるのです」とあり、「結ばれている」あるいは「結びつけている」という言葉が出てきますが、もともとは、意味が強い言葉で、「束縛される」とか「縛られる」とも訳せる言葉で、妻に対する夫の強い拘束力を意味します。

 

 なお、2節後半では、「夫が死ねば、自分を夫に結びつけていた律法から解放されるのです」とありますが、「解放される」という言葉も、強い言葉で、「無力にされる」とか「脇に置かれる」とか「廃止される」とも訳せる言葉で、夫が死ねば、夫の強い拘束力から解放されて、自由になることを表しています。

 

 以上のように、地上で最も強い拘束力を持つ夫と妻の結婚に関する法律であっても、夫と妻の関係に、死が生じれば、拘束力は、無力とされ、脇に置かれ、廃止される、すなわち、拘束力から解放されて自由になるという事実です。この点が、結婚関係のたとえにおける中心です。

 実は、結婚に関係するすべてのことが、ことごとく、律法とクリスチャンの関係にあてはまるという意味で、パウロが、婚姻関係をたとえに使っているのではありません。結婚関係のすべてを、ことごとく、律法とクリスチャンの関係にあてはめて、パウロが語っていると理解すると、ここの意味が不自然になってしまい、意味がわからなくなってしまいますので、結婚関係のすべてが、ことごとくあてはまるとこだわらないことが大切です。

 

 ですから、パウロは、確かに、夫と妻の結婚関係には、律法とクリスチャンの関係に似ているところがあると言うのですが、どこが似ているかと言うと、夫の妻の関係において、死が生じれば、拘束力から解放されて、自由になるという点においてだけ似ているのです。

 

すなわち、律法とクリスチャンの関係においても、そこに、死が生じれば、クリスチャンも、律法の強い拘束力から解放されて、自由になるという点が、似ているのです。それで、わたしたちも、この点が中心になって、パウロの語ることが流れていくということに、よく注意しておきたいと思います。

 

3.キリストの死は、クリスチャンを律法の拘束力から解放し、自由にする

 

 さて、以上のようにして、夫と妻の結びつきは、地上において、最も強い拘束力を持ちます。しかし、そこに、死が生じれば、拘束力から解放されて、自由になるという事実が、とてもよくわかりましたが、実は、この点が、律法とクリスチャンとの霊的関係にも当てはまるのです。

 

 すなわち、クリスチャンは、キリストの死が生じたことによって、律法の強い拘束力から解放され、自由にされるのです。では、キリストの死とは、どのようなものなのでしょう。すると、キリストの死は、クリスチャンを、律法の強い拘束力から解放して、自由にする死なのです。

 

そこで、パウロは、4節で、「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています」と語りましたが、ここでの「律法」は、当時の法律一般の最も広い意味でなく、「あなたは、何々してはならない」という禁止のかたちと、「あなたは何々をしなければならない」という命令のかたちで表された神の律法のことです。すなわち、モーセの十戒をはじめとする神のすべての戒めを意味し、わたしたち人間の生きる基準として、神から与えられた厳粛なもので、とても強い拘束力を持っています。

 

それゆえ、神の律法は、被造物であるわたしたち人間が守っても、守らなくても、どちらでもよいというようなあいまいなものでなく、すべて完全に守るべきものです。もし、すべて完全に守らないのであれば、神の裁きを受けねばなりません。そして、この律法違反から逃れることのできる人は、誰ひとりいません。そのように、神の律法は、非常に強い拘束力を持っています。

 

では、わたしたち人間は、そのように強い拘束力を持った律法を、すべて完全に守り、行うことができるでしょうか。いいえ、決して、できません。何故なら、わたしたち人間の代表のアダムが、エデンの園で、神に背いたことにより、すべての人が罪人になり、生まれながら、霊的に、無能力で、とても守れません。

 

そして、守れないゆえに、わたしたちは、ローマの信徒への手紙1章で、厳粛に宣告されていましたように、神の怒りによって、裁かれる身です。しかし、憐み深い神は、わたしたちの罪をキリストに身代りに負わせ、キリストは、十字架にかかり、その体をもって、真実に苦しみ、真実に死ぬことによって、神の裁きを、わたしたちの身代りに、完璧に受けてくださいました。

 

すなわち、律法を守れないゆえに、わたしたち人間が受けるべき神の裁きをキリストが、身代りに、全部、死をもって、受けてくださったのです。それゆえ、十字架で、体をもって、真実に、苦しみ、死んでくださったそのキリストと信仰でしっかり結ばれ、キリストと霊的に一体とされ、霊的な意味で死んだゆえに、わたしたちクリスチャンは、律法の強い拘束力から、解放され、自由にされ、最早、律法は、わたしたちクリスチャンを拘束することが、決して、できません。

 

言葉を換えれば、わたしたちクリスチャンは、「律法に対して死んだ者」となり、律法から解放され、自由の身とされたのです。そこで、パウロは、4節で、「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています」と、律法からの解放の恵みを堂々力強く宣言しました。

 

4節に、「キリストの体に結ばれて」と言われていますが、パウロは、単に、「キリストに結ばれて」と言わないで、わざわざ「キリストの体」と、「体」という一語を入れていますが、これは、キリストが生身の体をもって、十字架上で、神に裁かれて、真実に、苦しみ、真実に、死ぬことによって、わたしたちの身代わりとして、実際に、本当に、神に裁かれたことを強調しています。

 

また、「キリストの体に結ばれて」の「結ばれて」というのは、信仰によってしっかり結ばれているという意味で、十字架上で、神に裁かれ、真実に、苦しみ、真実に、死んでくさったそのキリストに、信仰によって、わたしたちクリスチャンがしっかり結ばれ、キリストと霊的に一体にされたという意味です。

 

そして、わたしたちの律法違反の罪を身代りに背負って、十字架上で、神に裁かれ、真実に、苦しみ、死んでくださったそのキリストに、信仰によってしっかり結ばれ、キリストと霊的に一体にされると、どうなるかと言いますと、その人は、「律法に対して死んだ者」となり、律法の強い拘束力から解放され、自由にされた者となるのです。「律法に対して死んだ者」とは、律法との関係において、最早、律法の拘束をまったく受けないので、クリスチャンは、律法に対して死んでいると言えるのです。律法は、生きている者に対して、あれをしてはいけない、これをしてはいけない、あれをしなければならない、これをしなればならないと、いちいち、強力に、拘束してきます。しかし、死んだ者に対して、あれをしてはいけない、これをしてはいけない、あれをしなければならない、これをしなればならないなどと、最早拘束しないのです。

 

今日もそうです。生まれつき霊的に全的堕落しているので、律法を守れないゆえに、わたしたち人間が受けるべき律法違反の裁きを、全部、十字架で、体をもって、真実に、苦しみ、真実に、死んで、身代りに受けてくださったキリストと信仰でしっかり結ばれ、キリストと霊的に一体にされ、霊的な意味で死んだわたしたちクリスチャンは、死んでいるゆえに、律法の強い拘束力から、解放され、自由にされ、最早、律法は、わたしたちクリスチャンを拘束することができません。わたしたちクリスチャンは、律法に対して死んだ者であり、律法違反の裁きから解放され、心が、魂が、霊魂が、精神が、意識が、真の自由を日々実感して、このような素晴しい自由があるのだと、喜びであふれています。本当に、ありがたいことです。

 

4.クリスチャンは、キリストの花嫁となり、夫キリストのものとなる

 

さて、では、律法違反の罪に対する神の裁きを、わたしたちに代わって、受けてくださったキリストと、信仰によってしっかり結ばれ、霊的に一体とされ、霊的な意味で死んだわたしたちクリスチャンは、律法のとても強い拘束力から解放され、晴れて、自由の身とされたのですが、それは、何のためでしょう。

 

律法の強い拘束力から解放され、自由にされたのだから、後は、何をしてもよいのだと、自由奔放に生きてよいのでしょうか。すると、そうではありません。わたしたちが、律法の強い拘束力から解放され、自由にされたのには、素晴らしい目的があるのです。

 

すなわち、律法の強い拘束力から、わたしたちを解放し、自由の身にするために、生身の体をもって、十字架上で、苦しみを受け、死んでくださいましたが、しかし、神の御計画によって、死者の中から、復活させられて、今も生きておられるキリストのもの、キリストの所有と、わたしたちがなって、その救いの御計画を立ててくださった神に喜ばれるよい行いの実を、聖霊の力によって結びながら、真の人生を日々歩むためなのです。

 

4節に、珍しい言い方がなされています。「使者の中から復活させられた方のものとなり」と言われています。「使者の中から復活させられた方」というのは、もちろん、天の父なる神の御計画によって、十字架で死んで、お墓に葬られたキリストが、3日目に、お墓から復活させられたことを意味しています。キリストが、「復活させられた」と受け身で言われていますが、キリストの復活については、2つの言い方が、聖書に出てきます。

 

ひとつは、キリストは、御自分の力で復活すると能動的に語られています。もうひとつは、キリストは、復活させられるという受け身の言い方です。受け身に言い方の場合には、キリストの復活は、救いの御計画を立ててくださった天の父なる神によって、復活させられたことを、特に意味します。

 

そして、この4節で、珍しい言い方は、「使者の中から復活させられた方のものとなり」とあって、「方のものとなり」という言い方です。この言い方は、クリスチャンがキリストの花嫁となって、夫キリストのものとなり、夫キリストに所有されることを意味しています。すなわち、キリストとの結婚を意味しています。

 

この手紙が書かれた1世紀の地中海世界においては、結婚は、妻が夫のものとなることでした。夫の所有となることでした。そこで、クリスチャンは、律法の拘束力から解放され、自由の身とされましたが、それは、何のためかと言いますと、クリスチャンがキリストの花嫁となり、夫キリストのものとなり、夫キリストに所有されて、その救いの御計画を立ててくださった天の父なる神に喜ばれるよい行いの実を、聖霊の力によって結びながら、真の人生を日々歩むためなのです。

 

今日のお話の最初の部分で、当時の結婚は、妻が夫のものとなり、夫の所有となり、夫の強い拘束力の下に置かれるということを言いましたが、では、クリスチャンは、キリストの花嫁となり、夫キリストのものとなり、夫キリストの所有にされて、夫キリストの強い拘束力に置かれて、自由でなくなるのではないかと心配するかもしれませんが、その心配は、まったくありません。

 

そういうことはありません。何故なら、クリスチャンがキリストの花嫁となり、夫キリストのものとなり、夫キリストに所有されるということを語る場合には、夫キリストの強い拘束力に縛られて、不自由になることをまったく意味しないからであす。

 

その逆です。クリスチャンがキリストの花嫁となり、夫キリストのものとなり、夫キリストに所有されるということを語る場合には、そのような素晴らしい御計画を立ててくださった天の父なる神に喜ばれるよい行いの実を、クリスチャンが、聖霊の力によって、自由に、自発的に、豊かに、沢山、結びながら、真の人生を日々歩めるようにされたことを意味しているからです。

 

 その証拠に、人が、クリスチャンでなかったときと、クリスチャンにされた今を、比較対照すれば、わかります。では、人が、まだ、クリスチャンでない状態にあったときは、どんなであったでしょう。すると、人は、罪に支配されて生きていて、異邦人であれば、生まれつき心に刻み込まれた善悪を判断する良心という律法によって、ユダヤ人であれば、文字で書かれたモーセの十戒という律法によって、それは罪だからしてはいけないと禁止されているにもかかわらず、罪に誘う悪いいろいろな感情に負けて、自分の手足体を使って、罪を犯し、罪への裁きである霊的な死に至る悪い行いの実を結び続けていたのです。

 

 5節がそうです。5節は、人が、クリスチャンでなかったときの状態を表しています。「肉に従って生きている」というのは、罪に従って生きていると言う意味で、「肉」は、ここでは、「罪」を表し、罪に支配された生き方を意味しています。また、「罪へ誘う欲情」とありますが、この言い方で、罪に誘う悪いいろいろな感情を表します。

 

 また、「律法によって五体の中に働き」とは、律法が、それは罪だからしてはいけないと禁止されているにもかかわらず、罪に誘う悪いいろいろな感情に負けて、自分の手足体を使って、罪を犯すことを表します。具体的には、異邦人は、文字で書かれた律法を持っていませんが、生まれつき心に刻み込まれた善悪を判断する良心という律法によって、それは罪だからしてはいけないと禁止されているにもかかわらず、罪に誘う悪いいろいろな感情に負けて、自分の手足体を使って、罪を犯すことを表します。

 

 ユダヤ人であれば、文字で書かれたモーセの十戒という律法によって、それは罪だからしてはいけないと禁止されているにもかかわらず、罪に誘う悪いいろいろな感情に負けて、自分の手足体を使って、罪を犯すことを表します。

 

 こうして、異邦人も、ユダヤ人も、クリスチャンでなかたときは、罪に誘う悪いいろいろな感情に負けて、自分の手足体を使って、罪を犯し、罪への裁きである霊的な死に至る悪い行いの実を結び続けていたのです。

 

 でも、クリスチャンになった今は、まったく違います。天と地ほど違います。今は、それまで自分を、逃げられないように、まるで、牢獄に閉じ込めておくほど強く拘束していた律法に対して死んだ者となって、完璧に解放され、自由にされています。

 

 それゆえ、今や、文字で書かれたモーセの十戒という律法に支配される罪の古い生き方でなく、死者の中から復活させられたお方であるキリストが、ペンテコステのとき以来、豊かに注いでくださった御霊に支配される新しい霊的な生き方で、救いの御計画を立ててくださった慈愛深い天の父なる神に、自由に、自発的に、喜んで、心からの感謝をもって仕える真の人生を、日々歩む者に変えてくださっているからです。

 

 6節がそうです。「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり」とありますが、「自分を縛っていた」の「縛る」という原語は、とても意味が強い言葉で、もともとは、「逃げられないように捕まえておく」とか、更には、「逃げられないように牢獄に閉じ込めておく」とも訳せる強い言葉を、パウロは、わざわざ使っています。

 

 ですから、神の律法というものは、人間が逃げられないように捕まえておくものであり、さらには、人間が逃げられないように、牢獄に閉じ込めておくと言えるほど強い拘束力を持っていて、律法をすべて完全に守らないと、律法違反の罪に対する裁きとして、人間を霊的死に至らせるのです。

 

 でも、クリスチャンは違います。死者から復活させられたキリストと信仰によってしっかり結ばれています。それゆえ、最早、律法の死の拘束力から解放され、自由にされ、キリストが与えてくださった御霊によって、「霊に従う新しい生き方」すなわち、御霊に支配される新しい霊的生き方をして、救いの御計画を立ててくさった慈愛深い天の父なる神に、自由に、自発的に、喜んで、心からの感謝をもって仕える真の人生を、日々歩んでいるのです。本当に、ありがたいことで、このような素晴らしい生き方は、他にはありません。

 

結び

 

 以上のようにして、今日の個所を見ます。わたしたちも、守り切ることができない律法の強い拘束力から、キリストによって解放され、慈愛深い天の神に対して、御霊の実であるよい行いを、たくさん結んで、今週も、日々喜んで、歩んでいきたいと思います。

 

お祈り


 憐れみ深い天の父なる神さま、
 1週間の歩みを守られて、今日も、週の最初の日に礼拝に導かれ、感謝いたします。
 
 今、わたしたちは、御言葉を通して、わたしたちが律法の下から、恵みの下に移されておりますことの大きな祝福を知り、感謝いたします。
 
 わたしたちは、かつては、律法の厳しい要求下にありましたが、キリストと共に霊的な意味で死んで、今は、キリストの花嫁として、キスストとの喜びに満ちたまじわりに、日々、置かれていますことを感謝いたします。
 
どうか、わたしたちは、これからも、聖霊の力によって、あなたに喜ばれるよい行いの実をたくさん結びつつ歩むことができるようにしてください。 
 今日、また、いろいろな都合や事情で集まることができかった方々に、それぞれのところので、顧みをお与えください。
これらの祈りを、主イエス・キリストの御名によって、御前に、お献げいたします。アーメン。

 

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