* 佐々木稔 説教全集 * |
ローマ書講解説教 - 佐々木稔 | Shalom Mission |
01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ 02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ 05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利 07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放 08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み | 08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利 09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画 09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教 10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い 11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い 12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活 12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係 13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に... 15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道 16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた.. |
「お互いに受け入合う」
ローマ書15章1節―13節
15:1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。15:2 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。15:3 キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。15:4 かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。15:5 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、15:6 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。 15:7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。15:8 わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、15:9 異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、/あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。15:10 また、/「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、15:11 更に、/「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。15:12 また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、/異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」15:13 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。
はじめに
朝晩、寒さを覚える頃となりましたが、今日も、わたしたちは聖書が教える、今も生きていて豊かな祝福のみわざを、日々行ってくださるいつくしみ深い神を、心からの喜びをもって礼拝したいと思います。
さて、それで、わたしたちは、主の日の朝の礼拝においては、紀元56年頃キリスト教伝道者の使徒パウロによって書かれたローマの信徒への手紙を学んでいますが、今日も、わたしたちは、キリストによる素晴らしい救いを順序立て、力強く表明しているローマの信徒への手紙に、御一緒に取り組んでいきたいと思います。
では、今日の個所は、どんなところでしょう。すると、今日の個所は、14章1節から述べられてきた食べ物についての問題に関するしめくくりがなされているところです。すなわち、信仰の強い人も、信仰の弱い人も、主イエス・キリストに倣ってへりくだり、互いに受け入れ合い、一つとなり、主イエス・キリストを遣わしてくださった父なる神を共にほめたたえ、礼拝することを使徒パウロが切に願って、勧めをし、命じているところです。
それで、今日のところから4点のお話をしたいと思います。第1点は、パウロは、隣人愛の実現として、信仰の強い人が、信仰の弱い人の弱さを担うべきことを命じたという点です。第2点は、信仰の強い人は、信仰の弱い人を裁くのではなく、キリストの模範に倣ってへりくだり、信仰の弱い人の未熟さからくるそしり、すなわち、批判に忍耐を示すべきであるという点です。第3点は、パウロは、信仰の強い人と信仰の弱い人が、一つとなり、キリストの父なる神をほめたたえて礼拝するように祈ったという点です。第4点は、キリストが、互いに対立し合うユダヤ人と異邦人のどちらも受け入れたことに倣い、信仰の強い人も信仰の弱い人も、互いに相手を受け入れるように、パウロは命じたという点です。
そこで、今日のわたしたちも、ここを学んで、わたしたちも互いに一つになり、いつくしみ深い天の父なる神をほめたたえ、礼拝をし、祝福を豊かに受けたいと思います。
1.隣人愛の実現として、信仰の弱い人の弱さを担うべきです
早速、第1点に入ります。第1点は、パウロは、隣人愛の実現として、信仰の強い人が、信仰の弱い人の弱さを担うべきことを命じたという点です。使徒パウロは、14章1節から、食べ物についての問題をすでに扱ってきましたが、今日の15章前半で、その締めくくりをしようとして4点のことを述べていますが、その第1点が、信仰の強い人は、隣人愛の実現として、信仰の弱い人の弱さを担うべきことを命じたという点です。
すなわち、これまでに何度も触れてきましたように、1世紀のローマの教会には、信仰の強い人と信仰の弱い人が食べもののことで、互いに裁き合っていました。信仰の強い人はキリスト教信仰をよく把握していて、旧約時代が終わり、新約時代が始まってからは、何でも自由に食べてよいことを確信していました。
他方、信仰の弱い人は、キリスト教信仰を、まだよく把握していないゆえに、旧約聖書のレビ記などに記されている宗教的に汚れている動物の肉を食べてはいけない、食べると罪になると、まだなお心が捕らわれていて、肉を食べずに、野菜だけを食べていました。こうして、1世紀のローマの教会には、信仰の強い人と信仰の弱い人がいて、食べもののことで互いに裁き合い、そのままでは教会の一つの大事なまじわりが壊れてしまう危険性がありました。
そこで、使徒パウロは4つの勧めをしましたが、その第1は、肉を自由に食べていた信仰の強い人は、野菜だけを食べる信仰の弱い人に対して、理解力が欠如しているなどと言って、信仰の弱さを責めたり、裁いたりして、自分の思いを満足させるべきではなく、逆に、キリスト教信仰が常々教えている隣人愛の実現として、信仰の弱い人の弱さを、自分が担ってあげる、自分が背負ってあげるという優しい思いを持つべきことをパウロは命じたのです。1節、2節がそうです。
1節に、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべき」とあり、「強い者」という言い方と「強くない者」という言い方を見るのですが、これは、前から学んでおりますように、この手紙が書かれた1世紀のローマの教会には、食べ物の問題について、信仰の強い人と強くない人、すなわち、信仰の弱い人がいたことを表わしています。
それで、「信仰の強い人」とは、キリスト教信仰をよく把握していて、クリスチャンはどんな食べ物でも、宗教的に清いものとして、自由に食べてよいことを確信していた人のことです。他方、「強くない人」、すなわち、信仰の弱い人は、旧約聖書のレビ記11章その他において命じられていたように、ある動物は宗教的に汚れているので食べてはならないと禁止されていましたが、その禁止はキリストの出現によって役目を終わって廃止されたということを、よく把握できずに、肉を食べることが、まだなお罪になると思い込み、野菜だけを食べていた人のことです。
こうして、1世紀のローマの教会においては、食べ物のことで、信仰の強い人と強くない人が、互いに、相手の主張に対して、責めたり、批判したり、あるいは、神の裁きを語ったりして、裁き合っていたのでした。
そこで、パウロは、食べものを巡るこの問題を、14章1節から取り上げ、これまでにも、問題解決のための勧めを幾つも述べてきたのですが、今日のところで、問題解決の締めくくりとして、まず第1に、信仰の強い人が自己満足のために、信仰の弱い人を裁くのでなく、逆に、常日頃から繰り返し教えられている隣人愛の実践として、強い人の方が、自分が弱い人の弱さを担ってあげる、自分が背負ってあげるという優しい思いを持つべきことを、パウロは命じたのです。
1節に、「わたしたち強い者は」とありますが、パウロは自分も含めて信仰の強い人のなすべきことを語っています。また、「強くない者の弱さを担い」とありますが、この「担う」という言葉は、印象深い言葉で、救い主のイエスさまが、ゴルゴタの死刑場に向かうとき、自分がかけられる十字架を背負って行きますが、その「背負う」というときにも使われた言葉です。ですから、信仰の強い人は、信仰の弱い人の弱さを責めたり、裁いたりするのでなく、イエスさまが十字架を担い、背負ったように、自分が彼らのその弱さを担ってあげる、自分のその弱さを背負ってあげるという優しい思いを持つべきことを使徒パウロは命じたのです。
それゆえ、信仰の強い人は、肉を食べずに野菜だけを食べていた信仰の弱い人を、理解力が欠如している、洞察力がない、新約時代の飲食の自由を知らないなどと言って、信仰の弱い人の弱さをさんざん責めたり、上から目線で裁いて、自己満足をしてはならないのです。信仰の強い人は、どの人も、一人一人がそのようなことをせず、逆に、まじわりにあるゆえ、自分の一番近い隣人である信仰の弱い人に対して、常日頃から繰り返し教えられている隣人愛を実践し、信仰の弱い人の信仰の向上になる信仰的に善いこと、すなわち、信仰的善、霊的善を行うべきなのです。
2節に、「おのおの善を行って隣人を喜ばせ」とありますが、ここに、わたしたちは、使徒パウロの勧めの適切さを見ることができます。すなわち、「善を行って隣人を喜ばせ」というのは、もちろん、隣人愛のことです。隣人愛は、キリスト教信仰の根本精神で、クリスチャンは隣人愛を常日頃から繰り返し根本的に重要なこととして教えられています。
しかし、うっかりすると、隣人愛はしばしば、遠くにあるものと考えられてしまいます。すなわち、隣人というものは、遠くの誰かと考えてしまうのです。しかし、実は、そんなことはなく、信者にとって、一番近くにいる大事な隣人は、同じ教会の同じまじわりにいて、一緒に永遠の生命の道を共に歩んでいる信仰の仲間と言えるのです。
そこで、パウロは、ローマの教会でも、常日頃から繰り返し教えられていたはずの隣人愛のまさに実践として、信仰の強い人が、信仰の弱い人の弱さを担い、背負って、信仰の弱い人の信仰的向上のために、努力すべきことを命じたのです。信仰の強い人の一番近くにいる隣人は、同じまじわりにいて、一緒に永遠の生命の道を歩む信仰の仲間なのです。
今日も同じです。わたしたちに信者にとって、自分の一番近くにいる隣人は、同じ教会の同じまじわりにいて、一緒に永遠の生命の道を共に歩む信仰の仲間であることを覚え、互いの信仰の向上のため、信仰の善を行って共に歩んでいきたいと思います。
2.信仰の強い人は、キリスト倣ってへりくだり、そしりに耐えるべきです
第2点に入ります。第2点は、信仰の強い人は、信仰の弱い人を裁くのではなく、キリストの模範に倣ってへりくだり、信仰の弱い人の未熟さからくるそしり、すなわち、批判に忍耐を示すべきであるという点です。3節と4節がそうです。
すなわち、信仰の強い人は、信仰の弱い人を、上から目線で裁いて、自己満足するのでなく、キリストの模範に倣って、へりくだり、信仰の弱い人の未熟さからくる「そしり」、すなわち、非難や中傷や攻撃や激しい批判を受けても、神の言葉の忍耐と励ましの教えに支えられ、救いの完成を希望として忍耐して歩み続けていくのです。
「そしり」というのは、非難、ののしり、わるくち、悪口(あっこう)、侮辱、辱め、批判などを表します。ですから、ローマの教会においては、信仰の弱い人が、信仰の強い人を、相当激しくきつく裁いていたと思われます。信仰の弱い人は、自分の霊的未熟さに気がつかず、自分が野菜だけを食べることが絶対正しく、肉を自由に食べる信仰の強い人は、絶対に間違っているとして、信仰の強い人を、非難し、ののしり、悪口を言い、侮辱し、相当激しく信仰の強い人を裁き、そしっていたと思われます。
しかし、だからと言って、信仰の強い人が、自分も負けじと、信仰の弱い人を上から目線で裁いて、自己満足してよいかと言えば、信仰の強い人は、そんなことをしてはならないのです。信仰の強い人は、信仰が強いのですから、キリストの模範に倣い、自分の方からへりくだり、信仰の弱い人から、どれほどそしられ、非難され、ののしられ、悪口を言われ、侮辱され、そしられても、権威ある神の言葉が教える忍耐と慰めにしっかり支えられ歩み、自分の救いが完成することを希望として、忍耐して歩む姿勢を持つべきなのです。こうして、信仰の強い人の責任は、非常に大きいことが、ひしひしと伝わってきます。信仰の強い人は問題解決のため、いつの時代でも、自分の方からへりくだるのです。そして、それで問題が解決していくのです。信仰の弱い人の方からはへりくだれないのです。
そこで、パウロは信仰の強い人のへりくだりの模範として、キリストが自己満足を求めず、どれほどへりくだったかを記すのです。すなわち、キリストがどれほどへりくだって、人々から「そしり」、すなわち、非難、中傷、攻撃、激しい批判を受けたかを旧約聖書の篇69遍9節を引用して示すのです。
3節に、「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふかかかった」とありますが、この御言葉は、旧約聖書の詩篇69遍10節の引用です。そして、この御言葉は、もともとは、神への強い信仰を持った詩編の作者が、神への信仰を持たない者たちから、さんざん、そしられ、苦しみます。しかし、作者は忍耐し、神との深いまじわりで、心慰められ、神に希望を見いだして、忍耐して救いの道を歩んでいくことを歌ったものですが、パウロは、この詩編の御言葉は、約束の救い主メシアのイエスさまにおいて実現したことを語るのです。
確かに、そうです。約束の救い主メシアのイエスさまは、地上におられたとき、御自分が偉大な神の御子であり、罪がないにもかかわらず、律法学者、ファリサイ派、サドカイ派、最高法院、大祭司、一般民衆から、さんざん非難され、中傷され、攻撃され、激しく批判され、すなわち、そしりを受けました。しかし、忍耐し、父なる神との深いまじわりで、慰めを受け、そして、父なる神に希望を置き、メシアとして歩み、救いの道を開いてくださったのです。
そこで、パウロはローマの教会の信仰の強い人も、約束の救い主メシアのイエスさまに倣い、信仰の弱い人から非難され、そしられ、ののしられ、悪口を言われ、侮辱され、激しく裁かれても、旧約聖書のメシア預言の御言葉が教えているように忍耐し、神との深いまじわりで、心に慰めを受け、神に希望を置き、忍耐して救いの道をしっかり歩んでいくように勧めたのです。
詩編をはじめ旧約聖書の御言葉は、旧約時代の信者を教え導くためだけでなく、約束の救い主メシアのイエスさまが出現した新約時代の信者をも教え導くためにあるのです。それゆえ、新約時代の信仰の強い人も、信仰の弱い人からそしられ、ののしられ、悪口を言われ、侮辱され、激しく裁かれることがあっても、旧約聖書の詩篇の御言葉が教えているように、救い主のイエスさまに倣って忍耐し、神との深いまじわりで、心に慰めを受け、神に希望を置いて、救いの道をしっかり歩んでいくように、使徒パウロは勧めたのです。
こうして、見てきますと、教会の一つの大事なまじわりを築いていくために、実に、いろいろな配慮や努力や工夫がなされるものであることが、読者のわたしたちの心にもとてもよく伝わってきます。今日のわたしたちも、教会の一つの健徳的なよいまじわりを築くため、お互いの立場でいろいろな配慮や努力や工夫をしていきたいと思います。
3.信仰の強い人と信仰の弱い人が一致して、神をほめたたえ礼拝する
第3点に入ります。第3点は、信仰の強い人と信仰の弱い人が、思いと心と声を合わせ、一致してキリストの父なる神をほめたたえ、礼拝できるように、神御自身が導いてくださるように、パウロは力強く祈ったという点です。
すなわち、パウロは、今日のこれまでのところで、ローマの教会の信仰の強い人が、隣人愛の実践として、また、旧約聖書の詩篇の教えに導かれ、救い主、メシアのイエスさまの模範に倣ってへりくだり、そしられても忍耐し、信仰の弱い人を受け入れ、救いの道をしっかり歩むように勧めましたが、今度は、信仰の強い人と信仰の弱い人が、どちらも双方が、相手を思いやる心で一致し、救い主のイエスさまを遣わし、救いの道を開いてくださった父なる神を、共に声を揃えてほめたたえ、礼拝できるように、神御自身が導いてくださるよう力を込めてパウロは祈りました。5節と6節がそうです。
6節に、「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに」とありますが、「忍耐と慰め」とは、直前の5節の「わたしたちは、忍耐と慰めを学んで」を受けています。すなわち、直前の5節は、信仰の強い人が、信仰の弱い人から、激しくそしられても、旧約聖書の詩篇の教えに支えられて忍耐し、神との深いまじわりで、心に慰めを受けて、救いの道を歩むことが言われていましたが、この6節は、信仰の強い人だけに言われているのではなく、信仰の強い人に対しても、信仰の弱い人に対しても、どちらに対しても言われています。
すなわち、忍耐と慰めを、信仰の強い人だけにでなく、信仰の弱い人にも双方に与えてくださる源、大元である神御自身が、今度は、双方が相手を思いやる心で一致して礼拝できるように導いてくださることを、パウロは祈ったのです。
それで、5節と6節で注目すべきことは何でしょう。すると、一致を表す言い方が、3回も出てくることです。まず、5節に、「・・・キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ」とありますが、これが、一致を表しています。「同じ思い」というのは、具体的には、1世紀のローマの教会の肉を自由に食べてよいことを知っている信仰の強い人と、野菜だけしか食べない信仰の弱い人の双方が裁き合いをするのではなく、救い主メシアのイエスさまに倣い、自分の満足を求めるのではく、へりくだり、相手の益になることを求める同じ思いで一致することを表しています。
次いで、6節では、「心を合わせ、声をそろえて」とありますが、これもまた、1世紀のローマの教会の一致を表す言い方です。具体的には、1世紀のローマの教会の肉を自由に食べてよいことを知っている信仰の強い人と、野菜だけしか食べない信仰の弱い人の双方が裁き合いをするのではなく、心を一つにし、声を合わせて、メシアのイエスさまを遣わし、救いの道を開いてくださったいつくしみ深い父なる神を共にほめたたえて礼拝する姿で、一致を表しています。「心を合わせ」とは、もちろん、心を一つにしてという意味で一致を表しています。
また、「声を揃えて」というのは、もともとのギリシャ語では、「一つの口で」という意味です。すなわち、人々がたくさんの口で歌っていても、あたかも、一つの口で歌っているかのよう一致しているという素晴らしい言い方です。
こうして、パウロは、「同じ思い」、「心を合わせ」、「声をそろえ」という一致を表す言い方を、わざわざ三つも使って、1世紀のローマの教会のまじわりが壊れることなく、信仰の強い人も、信仰の弱い人も、一致して主にある一つのまじわりをしっかり築いて、父なる神をほめたたえて礼拝できるように、神御自身が導いてくださるよう真剣に祈ったのです。
本当にそうです。いつくしみ深い天の父なる神が、今日も、わたしたちの心に、聖霊を豊かに働かせ、わたしたちを「同じ思い」とし、また、わたしたちが「心を合わせ」、「声をそろえ」て、主イエス・キリストの父なる神御自身を礼拝させてくさるように、わたしたちも真剣に祈りたいと思います。
4.キリストに倣って、お互いに受け入れ合う
第4点は、信仰の強い人も信仰の弱い人も、キリストがユダヤ人と異邦人のどちらも、受け入れたことに倣って、互いに相手を受け入れ合うように、パウロは、命じたという点です。7節から13節がそうです。そして、これが、ローマの教会の信仰の強い人と信仰の弱い人への最後の勧めとなります。
考えてみますと、人間の歴史における最も激しい当時の対立は、旧約の歴史を担ったユダヤ人と旧約の歴史を担うことのなかった異邦人の対立と言えます。旧約歴史を担ったユダヤ人は、自分たちだけが、神に選ばれた選民であり、そのしるしとして、割礼を身に帯びていると豪語し、さらに、自分たちには、神が救いを約束したアブラハム、イサク、ヤコブなどの先祖たちがいて、自分たちはその子孫であると誇り、旧約歴史のない異邦人は、神ならぬ偶像を拝む宗教的に汚れた民族であり、異邦人は最後の審判で皆滅ぼされると言って、異邦人とまじわりや交流をしませんでした。
しかし、約束の救い主メシアのイエスさまは、御自分を遣わした父なる神の御栄光を現わすために、へりくだりの限りを尽くし、十字架の死の犠牲により、旧約の歴史を担ったユダヤ人と旧約の歴史を担うことのなかった異邦人の双方の罪を贖い、ユダヤ人も異邦人も、差別なく罪の赦しと永遠の命より成る素晴らしい救いへと受け入れてくださいました。
それゆえ、1世紀のローマの教会の信仰の強い人も、信仰の弱い人も、キリストがユダヤ人と異邦人を何の差別なく、素晴らしい救いに受け入れてくださったことに倣い、彼らも、互いに差別なく、受け入れ合うように、使徒パウロは力強く、また、最後的に、印象深く勧めたのです。
8節は、キリストが、ユダヤ人のために、救いの道を開いたことが語られています。「キリストは神の真実を現わすために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです」とありますが、この言い方で、キリストは、神が、アブラハム、イサク、ヤコブなどのユダヤ人の先祖たちに約束した救いが、真実であることを明らかするために、割礼のしるしのあるユダヤ人の救いのために、十字架で死んで、彼らに仕えたことを表します。「割礼ある者たち」とは、もちろん、ユダヤ人のことであり、「仕える者」とは、割礼のしるしのあるユダヤ人の救いのために、へりくだって、十字架で死ぬ者となったことを表します。
では、キリストが、異邦人を救いに受け入れたのは、どのような仕方だったのでしょう。すると、ユダヤ人の救いにおいては、ユダヤ人の先祖たちへの救いの約束を実現したということで、神の真実が目立つのですが、異邦人の救いにおいては、異邦人は霊的暗黒から救われるので、神の憐れみが目立ち、神の憐れみがほめたたえられるべきなので、使徒パウロは、9節で、異邦人が救われるのは、「異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえられるようになるためです」と、神の憐れみを強調しました。
そして、旧約時代がないゆえに霊的暗黒に虚しく坐している異邦人の救いで、素晴らしいことは、異邦人の救いが、すでに、旧約聖書において明白に堂々と力強く約束されていたことです。ですから、異邦人の救いはユダヤ人の救いの付録や付け足しやおまけでは、決してないのです。対等、同等の救いで、最初からの神の御計画にあったことなのです。ただし、救いの順序が違っただけで、ユダヤ人が先に救われ、次に異邦人が救われるという順序の違いだけなのです。
その証拠として、パウロは異邦人の救いを約束した旧約聖書の御言葉を、4個所も引用するのです。4個所、引用すればもう十分です。まず、9節後半の鍵括弧に入っている御言葉は、詩篇18編50節の引用で、その意味は、何と、キリストよりも千年ほど前のイスラエルの信仰深い王のダビデが、神の救いを異邦人と一緒にほめたたえるという詩篇です。すなわち、異邦人も救われ、ダビデと共に神をほめたたえるという言い方で、異邦人の救いが力強く約束されています。
そして、また、ローマ書に戻りますが、15章10節の引用は、旧約聖書の申命記32章43節の引用です。その意味は、何と、キリストよりも、千四、五百年前の出エジプトの指導者のモーセが、異邦人も、主の民であるイスラエルと共に救いを喜ぶようにと語っているところで、この言い方で異邦人の救いが、喜びに満ちあふれて約束されています。
さらに、11節の引用は、詩篇117編1節の引用で、作者は不明ですが、キリスト出現の5百年前頃作られたものかもしれません。意味は、ダイレクトに、救いを与えられたすべての異邦人が救いを与えてくださった憐れみ深い主なる神をたたえ、賛美するように語っています。この言い方で、異邦人の救いが、これまた力強く約束されています。
そして、もうひとつの12節は、旧約聖書のイザヤ書11章10節の引用です。その意味は、ダビデの父のエッサイの家系から出現するメシアによって、異邦人は救いを与えられ、喜んでメシアに治められるときが来るので、異邦人は救いを与えてくれるメシアに希望を置くという言い方で、異邦人がメシアによって救われることが約束されています。
こうして、旧約聖書は、あちらこちらに、すでに明白に、力強く、堂々と異邦人の救いを約束していました。そして、実際に、後に、メシア・キリストによる救いは、教会を通し、聖霊の力により教会を通して、1世紀の地中海の異邦人世界に宣べ伝えられ、その結果、この手紙の宛てられたローマの教会にも、救われた異邦人が多くいたのです。
そこで、パウロは、異邦人の救いの希望である神が、信仰を通して与えられる救いの喜びと罪の赦しによる神との平和に、異邦人クリスチャンの心が満たされ、聖霊の力と導きにより、救いを希望として歩めるように祈りました。13節に「希望の源である神」とありますが、何と、素晴らしい表現でしょう。希望と元気と活力がこんこんと湧き出てくる表現です。すなわち、神は、異邦人にとっても救いの唯一の源、源泉なのです。神以外に異邦人の救いの源、源泉はないのです。
また、「聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」とありまして、もう一度、「希望」が異邦人の救いに関して語られていますが、今度は、異邦人が、自分たち異邦人も神によって救われるという希望で心を満ちあふれさせてくださるのは、聖霊の豊かな働きなので、パウロは「聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」と祈りました。霊的暗黒に長い間虚しく坐していた異邦人の救いの希望は、神にあり、また、聖霊の働きにあるのです。それ以外のところにあるのではありません。
このようにして、キリストは、1世紀当時、最も深刻な対立関係にあったユダヤ人と異邦人の双方を十字架の死によって、差別なく救いに受け入れてくださったのです。それゆえ、ローマの教会の信仰の強い人も、信仰の弱い人も、お互いに裁き合うのではなく、キリストに倣い、へりくだり、互いに受け入れ合うように、使徒パウロは力強く命じたのです。
結び
以上のようにして、今日のところを見ますが、今日のわたしたちも、救い主のイエスさまに倣い、互いに主にある兄弟姉妹として、受け入れ合い、心を一つにし、声を合わせ、救い主のイエスさまを遣わしてくださったいつくしみ深い天の父なる神を口を一つにしてほめたたえ、礼拝し、祝福を豊かに受けながら、今週も、信仰の道を歩んでいきたいと思います。
お祈り
憐み深い天の父なる神さま、
あなたの変わらぬいつくしみに支えられ、わたしたちは各々のところで1週間の歩みができ感謝いたします。
また、今日、週の最初の日に、公同礼拝に導かれ、共にあなたを礼拝できることを感謝いたします。
今、わたしたちは、ローマの信徒の手紙を通して、互いに受入れ合い、救いの完成を希望として歩んでいくことを学びました。
どうか、わたしたちは、これからも互いに受入れ合い、キリストにあって一つとなり、心からあなたを賛美し、共に豊かな祝福を受け、歩めるようにしてください。
わたしたち皆の信仰と健康と生活をお導きください。また、本日、種々の都合や事情により、出席できなかった方々に、それぞれのところで顧みをお与えください。
また、今日から始まるわたしたちの1週間をどこにあっても豊かに祝福してください。
これらの祈りを主イエス・キリストの御名により御前にお献げいたします。アーメン。
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