* 佐々木稔 説教全集 *   

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   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6;5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


「人は皆、罪の下にある」

ローマの信徒への手紙3:9-20

      

はじめに


 それでは、お話をさせていただきます。では、これから、どこのお話しするかと言いますと、ローマの信徒への手紙の3章の中ほどのお話です。これまでに、ローマの信徒への手紙を6回、お話をさせていただきましたが、今日は、その続きで、7回目となります。

      

 それで、これまでのことを、二言、三言、お話してから、今日の個所に入りたいと思います。ローマの信徒への手紙は、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが、紀元56年頃書いた手紙ですが、わたしたちは、これまで、ローマの信徒への手紙から何を学んできたのでしょう。すると、旧約歴史を持たないギリシア人をはじめとする異邦人も、旧約歴史のあるユダヤ人も、等しく罪人であり、どちらも最後の審判を免れることができないことを学びました。

      

 では、今日の個所は、何を教えているのでしょう。すると、異邦人も、ユダヤ人も、共に両方とも皆罪人であり、最後の審判を免れることができないことが、今度は、旧約聖書自身の神の御言葉を、引用して、決定的に、最後的に、しかも、実に、印象深く教えられている個所です。

      

そこで、わたしたちは、今日の個所から、3点を学びたいと思います。第1点は、ユダヤ人も、異邦人も、共に皆罪人であるという点です。第2点は、人は、ユダヤ人であろうが、ギリシアであろうが、皆罪人であることは、ユダヤ人が持っていた神の御言葉である旧約聖書自身が極めて明白に教えているという点です。第3点は、人の生き方の基準である神の律法を完全に守れる正しい人、義人は、誰ひとりいないという点です。

      

1.ユダヤ人も、異邦人も、共に皆罪人である


 では、早速、第1点に入りましょう。第1点は、旧約歴史のあるユダヤ人も、旧約歴史のないギリシア人をはじめとする異邦人も、共に皆罪人であるという点です。すなわち、パウロが、この手紙を書いている時代の1世紀のユダヤ人は、旧約歴史を持たないギリシア人をはじめとする異邦人は、罪人であるが、旧約歴史を持つ自分たちユダヤ人は、罪人ではないと言い張って、最後の審判で、自分たちユダヤ人が、神に裁かれることを、決して認めようとせず、激しい反論をパウロに、次々と浴びせてきました。

      

 しかし、それでは、救われないので、パウロは、ユダヤ人の反論を、ひとつひとつ丁寧に取り上げ、それらの反論が成り立たないことを教えてきました。それは、パウロが、同胞のユダヤ人たちを愛して、彼らの救いを、心から願っていたからです。

      

 そこで、パウロは、これまで述べてきたことによって、旧約時代を担ったユダヤ人と言えども、他の民族と比較して、人間性において、何ひとつより優れた点、より勝った点がないことを、改めて、はっきり断言しました。9節に、「では、どうなのか。わたしたちには、優れた点があるのでしょか」とありますが、「わたしたち」とは、パウロも含めて、1世紀のユダヤ人を指しています。パウロも、1世紀のユダヤ人の一員として語るかたちになっています。

      

そして、「わたしたちに優れた点があるのでしょか」とありますが、「優れた点」とは、ユダヤ人が、他の民族と比較して、人間性がより優れていることを意味します。少し前の3章1節にも、「では、ユダヤ人の優れた点は何か」とあり、そこにも、「優れた点」と出ていますが、3章9節の「優れた点」と、3章1節の「優れた点」は、原語が違います。

      

3章1節の「優れた点」とは、特権、特別な権利を意味し、ユダヤ人が、他の民族と比べて、特権、特別な権利があることを意味し、具体的には、神の言葉である旧約聖書の維持、管理が委ねられてきたことを意味しますが、今日の3章9節の「優れた点」とは、厳密に訳すのが難しい言葉と言われますが、強いて訳せば、「より優れている点」とか「より勝っている点」と訳せるでしょう。

      

それゆえ、ユダヤ人が、他の民族と比べて、人間性という性質において、より優れている点がないこと、あるいは、ユダヤ人が、他の民族と比べて、人間性という性質において、より勝っている点がないことを意味していると考えられます。すなわち、1世紀のユダヤ人は、自分たちユダヤ人は、異邦人と違って、罪人という性質を持たないと言い張っていたのですが、パウロは、ユダヤ人であっても、罪人という人間性を持っていて、より優れた点、より勝った点は、まったくないことを、断言しているのです。

      

1世紀のユダヤ人が、異邦人とまったく同じ罪人であることを、パウロは、これまでで、十分証拠を挙げて語ってきましたので、1世紀のユダヤ人が、異邦人と同じ罪人であることは、もはや動かせない事実です。9節に、「既に指摘したように」とありますが、「指摘する」という言葉は、宗教改革者のカルヴァンが言いますように、もともとは、裁判用語、法廷用語で、裁判で、法廷で、その人が罪を犯した十分な証拠を指摘して、その人が罪を犯したことを確定する言葉が、わざわざ用いられています。

      

 実際、パウロは、少し前の2章21節と22節で、「それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『「盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。」と述べて、1世紀のユダヤ人の罪を証拠として指摘しています。これらの罪を犯しているユダヤ人は、異邦人と同じ罪人で、人間性において、「優れた点」、すなわち、「より優れている点」、「より勝っている点」は、まったくありません。


また、3章3節で、「彼らの中には不誠実な者がいたにせよ」とありますが、もともとの原語の厳密な言い方は、「不誠実をした者たちがいたにせよ」という言い方で、「不誠実をした」という言い方は、過去における1回的な出来事を示すかたちになっていますので、これは、1世紀のユダヤ人が、約束の救い主メシアのイエスさまを十字架につけて殺し、神がユダヤ人と結んだ救いの契約、あるいは、救いの約束を破って、不誠実を行った大きな罪が、特に、意味されているのではないかと考えられます。これも、ユダヤ人が、異邦人とまったく同じ罪人で、人間性において、「優れた点」、すなわち、「より優れている点」、「より勝っている点」が、ないことの十分な証拠になります。

      

 そして、パウロは、ギリシア人をはじめとする旧約歴史のない異邦人が、罪人であることは、以前に学びましたように、ローマの信徒への手紙の第1章で、異邦人が、神ならぬものを神として偶像礼拝をしている事実、また、道徳的な罪をたくさん犯している事実を、証拠として、指摘して、すでに、異邦人の罪は確定しています。

      

それゆえ、今や、旧約歴史のあるユダヤ人も、旧約歴史を持たないギリシア人をはじめとする異邦人も、共に皆罪の支配下にある罪人で、生き方の基準である神の律法から的外れの生き方を日々しています。3章9節に「ユダヤ人もギリシア人も皆罪の下(もと)にあるのです」とありますが、「罪の下に」(もとに)とは、罪の支配下に日々、実際に、現実に、生きているという意味です。

      

そして、ここで、「罪」という名詞の言葉が、初めて出てきます。わたしたちは、ローマの信徒への手紙を、これまで学んできまして、「罪」という名詞の言葉は、すでに、至るところに、何度も出てきたような印象を持っていますが、実は、「罪」という名詞の言葉は、この3章9節で、はじめて出てくるのです。しかも、「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の支配下にある」というわたしたち人類全体が罪の支配下にあるというとても重みをもった言い方で、はじめて「罪」という名詞の言葉が、ここで出てくるのです。

      

そして、「罪」という名詞の言葉は、ローマの信徒への手紙全体においては、84回も使われる重要な言葉ですが、罪という名詞の言葉は、よく言われますように、原語では、ハマルティアと言いまして、その意味は、元来、的外れという意味で、的に当たらない人生を、日々、真の希望なく歩んでいることを意味します。すなわち、神に造られた人間が、本来歩むべき道から外れて、人生を、日々、歩んでいることを表します。

     

今日の日本の人々も皆同じです。皆が、罪の支配下にあり、皆が、真の希望なく、的外れの人生を、日々歩んでいる罪人ですので、一日も早く、救いのよき知らせである福音を聞いて、十字架にかかったイエスさまを自分の救い主と信仰し、恵みによって、罪とがを赦され、救われ、永遠の生命を与えられて、的を得た真の人生を、悔いなく歩む必要が、どの人にもあります。救いのよき知らせである福音を必要としない人はいないのです。


2.旧約聖書は、万人が罪人であることを、明白に教えている


  第2点に入ります。すると、第2点は、人は、ユダヤ人であろうが、ギリシアであろうが、皆罪人であることは、ユダヤ人が持っていた神の御言葉である旧約聖書自身が明白に教えているという点です。そこで、パウロは、ユダヤ人が持っていた旧約聖書に出てくる御言葉そのものに、次々と、力強く訴えるのです。10節から18節がそうです。

      

 それで、旧約聖書の御言葉へのパウロの訴えは、旧約聖書の詩篇から4個所とイザヤ書から2個所の計6個所の引用です。そして、これらの引用には、よく注意して見ますと、2つの特色があることがわかります。まず、一つ目は、罪人でない人間は、ただの一人も存在しないことが、非常に強く、また、非常に印象深く強調されていることです。すなわち、ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、自力で霊的に善い行いをして、神に正しい人、義人と認められる人は誰もいないこと、自力で霊的真理を悟れる人は、誰もいないこと、自力で真の神を求める人は、誰もいないこと、自力で神の御心に適う霊的善ができる人は、誰もいないことが、非常に強く、また、非常に印象深く強調されています。

     

10節から12節を見ますと、この部分は、原文では、「いない」という言葉が、文章の頭に4回もゾロゾロ目立って出て来るのです。10節から12節のギリシア語のもともとの言い方は、次のようになっています。
「いない、正しい者は、いない、一人も、
 いない、悟る者は、
 いない、神を探し求める者は、
 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった
 いない、善を行う者は、ただの一人もいない」となっていまして、「いない」という言葉が、文章の頭にゾロゾロ出て来て、意識的に目立つようにされています。これは、非常に、読者に目立つのです。すぐに、パーと読者の目に入り、とても強いインパクトを与える書き方です。

      

10節の「正しい者はいない。一人もいない」という御言葉には、わたしは、思い出があります。あるとき、何十年も信仰生活をしてきた年配の信徒の方とお話をしていたとき、その方は、自分は、この10節の「正しい者はいない。一人もいない」という御言葉で、自分が罪人であることを知り、回心したというのです。その人は、戦前に信仰を持った人で、当時、教会で使っていた聖書は、文語訳聖書と言われるものであって、この10節は、「義人なし。一人だになし。」という言い方で、その言い方の強さが自分の良心に強く突き刺さるように響いてきて、自分が罪人であることを知り、回心したと言っていました。


 本当にそうです。今日の日本のわたしたちも、万物を無から創造された全知全能の偉大な神が、「正しい者はいない。一人もいない」、文語訳聖書では、「義人なし。一人だになし。」と権威をもって大宣言しているにもかかわらず、心頑なに、自分は罪人ではないと言い張るのであれば、自分の救いはなくなるのです。わたしたちは、そのようなことをせず、自分が罪人であることを知り、十字架のイエスさまを自分の救い主と揺るぎなく信仰し、告白して、恵みにより、すべての罪とがを赦され、救われ、永遠の生命を与えられ、大事な心が晴ればれとして、的を得た真の人生を、生涯、悔いなく歩みたいと思います。

 

では、パウロのここでの旧約聖書の御言葉の引用のもうひとつの特色とは、何でしょう。すると、今度は、13節から18節を見ますと、生身の人間の体の6つの部分、6つの器官が、罪を犯すことを、具体的に、生々しく、リアルに描写していることです。

      

すなわち、罪を犯すということは、何か抽象的なことでなく、非常に具体的なことなのです。わたしたちが、罪を犯すということは、何か、難しい原理的なことでなく、非常に具体的な日常生活的なことで、わたしたちは、自分自身の「のど」、「舌」、「唇」、「口」、「足」、「目」などを使って、具体的に罪を犯すのです。

      

 13節を見ますと、「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある」とあり、人間の「のど」と「舌」と「唇」が罪を犯すことを、具体的に、生々しく、リアルに描写しています。まず、「のど」が、耐えられない悪臭を放っている開いてお墓にたとえられています。パレスチナのお墓、イスラエルのお墓は、山や丘の中腹を横穴式にくり抜いた洞窟式のお墓でしたが、何かの理由で、そのお墓の入り口を塞いでいた石のふたが外れて脇にずれたり、ころがったりして、その中から、耐えられない死臭を放って、そのそばを通る人々の気持ちを害していたことにたとえて、生身の人間の「のど」から、人を害する言葉が出てきて、他の人の気持ちを激しく傷つけて、罪を犯すことを表しています。

      

 また、「舌」が、人を騙し、欺く言葉を語って、お互いに、傷つけ合って、罪を犯し合うことが語られています。さらに、「唇」が、まむしの毒にたとえられていますが、パレスチナにも、まむしがいて、人がまむしにかまれて毒が回り、のとうちまわって苦しむことが、人の「唇」が語る言葉が、まむしの毒にたとえられて、他の人を傷つけ、のたうちまわるほどの苦しみを与えて、罪を犯すことが語られています。

      

 14節では、「口は、呪いと苦みで満ち」とあり、「口」が出てきて、人間の口が、神のかたちに造られた他の人々を呪ったり、苦痛を与える言葉で満ちていることが語られています。もちろん、これも罪です。

      

そして、15節では、今度は、「足は血を流すに早く」とあり、人の「足」が出てきて、人間の足が、お互いに、すぐに、他の人々と争い、戦い、戦争と紛争を起こす血を流す争いに、急ぎ走って行く姿で、罪を犯すことを生々しく、リアルに描写しています。


また、16節と17節には、「その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない」とあり、16節と17節に、「道」という言葉が出てきますが、これは、前の15節で「足は血を流すに早く」と、「足」が出てきたので、今度は、人間の足が歩いたり、走ったりする道が出てくるのですが、16節と17節も、これらもまた、お互いに、他の人々と争い、戦い、戦争と紛争を起こして、命や財産などを容赦なく破壊し合い、お互いに大切なものを失って深く悲しむ悲惨な状態になる罪を犯し合うことを意味しています。こうして、罪人である人間は、お互いに、ささいなことで、すぐに争うことばかり考えて、お互いに平和に歩む道を知ろうとしないのです。これも、また、罪です。

      

 そして、18節では、「彼らの目には神への恐れがない」とあり、人間の「目」が出てきます。すなわち、人間がいろいろな罪を犯す根本は、一人ひとりが、自分の目の前に、それらの罪を、必ず裁く審判者である聖にして義なる真の神を恐れる思いが、ひとかけらもないことから来ていることを表しています。

      

 ここを読んだら、さすがのユダヤ人も、もう自分は罪人ではないと言い張れないと思われます。もし、ここを読んでも、自分は、それでも罪人でなく、義人と言い張るのであれば、それは、全能の神の言うことに逆らうことになり、自分に神の裁きを招くことになり、最早、救いはなくなってしまいます。

      

こうして、パウロは、ローマの信徒への手紙の流れにおいて、最初は、異邦人が罪を犯している事実を、裁判、法廷においてのように、十分指摘しましたが、次いで、ユダヤ人も罪を犯している事実を、裁判、法廷においてのように、十分指摘し、最後には、全能の偉大な神御自身の御言葉そのものである旧約聖書の御言葉を、6個所引用し、ユダヤ人も、異邦人も、皆例外なく罪人であることを、最早、誰も、自分が罪人であることを言い逃れできないように、明らかにしたのです。本当に、いつの時代の、どこの誰でも、罪人であり、「正しい者はいない。一人もいない」のです。文語訳聖書では、「義人なし。一人だになし」なのです。

      

今日の日本のわたしたちも皆例外なく罪人です。「義人なし。一人だになし」と権威ある偉大な神の御言葉である聖書が言うとき、読者であるわたしも、そして、あなたも、義人ではなく、罪人で、自分自身の「のど」、「舌」、「唇」、「口」「足」、「目」などを使って、日毎に、日常的に、罪を犯しながら生きているのです。それゆえ、わたしたちは、教会が熱心に伝えるよき知らせである福音を聞いて、素直に、十字架にかかったイエスさまを救い主として受け入れ、罪とがを赦され、救われ、今度は、恵みによって義人とされ、生涯、神から、祝福を山のようにたくさん受け、喜びと感謝をもって、真の人生を日々歩みたいと思います。

      

3.律法を完全に実行できる人は、誰ひとりいない

     

第3点に入ります。第3点は、生き方の基準である神の律法を完全に実行できる人、義人は、誰ひとりいないという点です。今、わたしたちは、10節から18節までの旧約聖書の御言葉の引用は、異邦人も、ユダヤ人も、共に同じ罪人であることを教えている個所として見たのですが、1世紀のユダヤ人は、ここを読んだときは、「えっ」と本当に驚いたと思われます。

      

というのは、1世紀のユダヤ人は、異邦人が罪人であることは、百も承知していました。しかし、今、自分たちユダヤ人も罪人であることを、パウロが引用した旧約聖書の神の言葉そのものによって、御早、逃げられない仕方で示されたので、驚愕し、天地がひっくりかえるような思いをしたことでしょう。

      

何故なら、自分たちには、あなたは、何々をしてはならないという禁止のかたちと、あなたは、何々をしなければならないという命令のかたちでのモーセの十戒をはじめとする生き方の基準である律法がある。そして、律法が自分たちユダヤ人に与えられているということは、自分たちユダヤ人は、神の律法をすべて完全に実行できるし、また、すべて完全に実行して救われることができるので、異邦人のような罪人ではなく、義人と固く思い込んでいたからです。

      

ところが、今や、神から律法を与えられていた自分たちユダヤ人も、異邦人とまったく同じレベルの罪人であることが、権威ある旧約聖書の神の御言葉そのものによって、はっきり、最早、どのような言い逃れもできない最後的な仕方で示されたのです。それゆえ、1世紀のユダヤ人は、これまで自分たちが立っていた足場が、ガラガラ崩れる思いであったでしょう。

      

そして、同時に、一つの根本的疑問を持ったでしょう。では、どんな疑問でしょう。それは、生き方の基準である律法が、自分たちユダヤ人に与えられている理由についてです。すなわち、自分たちユダヤ人に律法が与えられている理由は、ユダヤ人は、罪人でなく、義人なので、律法をすべて完全実行して救われるとことができるからという理由で、律法が、ユダヤ人に与えられていると思いこんでいたからです。

      

ところが、今、それが、パウロが引用した神の言葉そのものである旧約聖書によって、完全に覆されてしまったのです。そこで、当然、それなら、一体、律法が、自分たちユダヤ人に、何故、与えられているのかという理由についての疑問が、生じたはずです。

      

そこで、パウロも、1世紀のユダヤ人が、そのような疑問を持つことを十分承知していましたので、ユダヤ人に、律法が与えられている理由について、明白に語ります。すなわち、確かに、神の律法がユダヤ人に与えられていることは、「律法の下(もと)にいる人々」、すなわち、律法の枠の中に生きているユダヤ人が、律法が命じていることを実行して生きていくべきことを教えていますが、しかし、だからと言って、それは、ユダヤ人が、罪人でなく、神の律法を、すべて完全に実行して救われることを、意味してはいないことを、パウロは明らかにするのです。


では、パウロは、律法がユダヤ人に与えられている理由は、何であると言っているのでしょう。すると、それは、ユダヤ人が思いこんでいたことと真逆でした。すなわち、律法を、すべて完全に実行して救われる人は、誰もいないのだと悟って、ユダヤ人も、異邦人も、人間みんなが罪人であって、律法をすべて完全に実行して救われると語る口がまったく封じられ、自分は律法をすべて完全に実行して救われることができない罪人であることを、ユダヤ人を通して、「全世界」すなわち、世界中のユダヤ人と異邦人が、共に知り、自覚し、認識して、神に対する一切の自己主張を止め、従順に、謙孫に、へりくだって、自分が神の裁きに服従する罪人であることを、ユダヤ人を通して、「全世界」、すなわち、世界中のユダヤと異邦人が共に認めるために、律法がユダヤ人に与えられたことを、パウロは語るのです。19節と20節がそうです。

      

19節に、「わたしたちが知っているように」というのは、パウロも、1世紀のユダヤ人の一人として語る仕方です。また、「律法の下(もと)にいる人々」というのは、原語では、もっと強い意味で、「律法の中にいる人々」という言い方で、律法の枠の中で生きているユダヤ人を意味しています。そして、律法が与えられた理由は、律法が命じていることを実行して生きていくことであることを、ユダヤ人は、もちろん、知っているという意味です。

      

でも、しかし、それは、ユダヤ人が、罪人でなく、律法を、すべて完全に実行できて、救われるという律法主義による救いを、少しも意味していなかったのです。その真逆なのです。すなわち、ユダヤ人に与えられた律法は、異邦人も、ユダヤ人も、全世界の人々が、律法を、すべて完全に実行して救われると語る口が完璧に封じられて、自分は律法をすべて完全に実行して救われることができない罪人であることを、ユダヤ人を通して、全世界の人々が共に知り、自覚し、認識し、神に対して、一切の自己主張を止め、従順に、謙孫に、へりくだって、自分が神の裁きに服従する罪人であることを、ユダヤ人を通して、全世界の人々が認めるという理由のために、与えられていたのです。

      

「神の裁きに服するためである」というのは、自分は律法をすべて完全に実行して救われることができない霊的に無力な罪人であることを知り、自覚し、認識し、神に対して、一切の自己主張を止め、従順に、謙孫に、へりくだって、自分が神の裁きに服する身であることを認めることを表します。

      

生まれつき霊的に無力な「肉」にすぎない罪人であるか弱い人間が、神の律法のすべてを、しかも、完全に守り、実行して、神から正しい人、義人として認められて、救われる人は、誰一人として、いないのです。

      

20節に、「だれ一人神の前で義とされないからです」とありますが、もともとの言い方は、「すべての肉は神の前で義とされないからです」という言い方で、すべての人間を「すべての肉」と呼んで、生まれつき、霊的に無力なか弱い人間を強調しています。それなのに、どうして、神から与えられた律法のすべてを、しかも、完全に守り、実行して、神から正しい人、義人として認められて救われると言い張れるのでしょうか。そんな人は、誰、一人いないのです。

      

では、モーセの十戒をはじめとする人の生き方の基準である律法は、何のためにあるのでしょうか。すると、それは、人は、ユダヤ人も、異邦人も、全世界の人が、律法をすべて完全に実行して、救われることができない「肉」、すなわち、霊的に無力な罪人であることを、律法が教え、自覚させ、認識させて、十字架にかかったイエスさまを信じて、恵みによる救いに連れて行く守役、養育係の働きをする目的のため、律法が与えられていたのです。

      

1世紀の地中海世界の裕福な家には、僕たちがいましたが、僕たちの中には、その家の子どもの世話をする守役、お守りをする者、養育係がいて、子どもが、どこへ行くにも、そばについて、目的地に連れていきました。それに似て、律法は、わたしたち罪人を、十字架にかかった真の救い主イエスさまのところ連れて行く働きをするのです。この目的のために、律法が与えられていたのです。

      

「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」とあるように、律法によっては、救いは、決して出て来ないのです。救いが出て来るどころか、逆に、律法によっては、到底、救いを得ることができない罪人であることを、律法自体が、人に、はっきり知らせ、自覚させるのです。そして、人類の唯一の救いの道である十字架のイエスさまのところに連れて行くのです。こうして、いよいよ、十字架にかかったイエスさまによる素晴らしい救い、すなわち、恵みによる救いが、前面に出てくることになるのです。

      

結び


このようにして、今日の個所を学びます。ユダヤ人も、ギリシア人も、共に罪人故に、最後の審判で、神に裁かれる身であることが、パウロによって、決定的に、最後的に明白にされ、もう、如何なる反論も成り立ちません。これは、まさに、全世界の人にとって霊的に危機の状況で、そのままでは、神の怒りの審判により、打ち倒されてしまうのです。そして、これこそが、罪人であるわたしたち人間の現実、真の姿なのです。

     

でも、わたしたちは、自分がどんなにひどい罪人であっても、 希望を失う必要はありません。罪の暗闇の中に、こうこうと明るく輝く希望の光があります。それは、1世紀においては、パウロたちが全力で語り、今の時代においては、教会が熱心に語る救いのよき知らせである十字架の福音です。それゆえ、イエスさまの十字架が、わたしとあなたの救いのためであることを揺るがず信じ、罪とがを、恵みによって赦され、最後の審判での神の裁きを免れ、心晴れ晴れとして、的を得た真の人生を、今週も、喜んで、歩んでいきたいと思います。


お祈り

 恵み深い天の父なる 神さ ま、 今日 も、礼拝に導いてく ださり 、 感謝いたし ま す。 今、わたし たちは、ロ ーマの信徒への手紙を 通し て、異邦人も 、ユダヤ人も 、 全世界の人が、あなたの前に、罪人であることを、あら ためて知り まし た。 日 本のわたし たちも、生まれつき 霊的無力の罪人であり 、律法を すべて完全に守 っ て 救わ れる こと が でき な い 罪人で す 。 そ れゆえ 、 教会が 語る 救いのよ き 知ら せである 福音を 聞 いて、 十字 架に かか つたイエスさ まを自 分の救い主とし て、喜んで信仰し 、すべての罪と がを、恵 みよつて赦さ れ、救われて、永遠の生命に、日 々、生かさ れる 真の人生を、悔 いなく 歩むこと ができるよう にし てく ださ い。 この後、行われる 聖餐式をも 祝福し てく ださ い。 こ れら の祈り を、主イエス・キリ スト の御名によって、御前にお献げいたし ま す。アーメン 。


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