恵みの契約


序論

 

 わたしたちは、契約という用語が聖書において用いられるとき。すでに契約の基本的な概念について考察してきた。わたしたちは、ノア(Noah)の場合においては、その用語は人間との神の側の一方的な取り決め(a unilateral arrangement on the part of God)について用いられたこに注目した。そのようなものとして、契約は、神的に考えられ、啓示され、そして、遂行される恵みの主権的執行(a sovereign administration of grace)であった。ノアの契約においては、取引(a bargain)、あるいは、相互に立てられた約定(a mutual contract)の理念はない。さらに、聖書は、「契約」(covenant)という用語を、神の啓示との関連において用いていることが考察されるべきである。すなわち、契約は、性格において歴史的であるころのものについて用いられているのである。このことが、「契約」(the covenant)よりも、三位一体内の関係(the inter-Trinitarian relations)を表す「平和の計画」(the Counsel of Peace)という用語がより有利な理由の一つなのである。

 「恵みの契約」(the Covenant of Grace)という用語は、キリストにおいてわたしたちに与えられたところの救いの恵み深い計画に言及するのに使われている。もし、わたしたちが、たった一つの恵み深い契約があるということを信じるように導かれるならば、それは誤りに導く用語であろう。実際に、聖書は、性格において恵み深いものとして描かれるであろうところの一連の契約を提示している。それらはすべてが、究極の恵みの契約の進展的な啓示の部分(a part of the progressive revelation of the ultimate Covenant of Grace)なのである。特に、わたしたちは、次の恵み深い契約を見い出す。1)洪水前のノア契約(創世紀6:18)。これは、契約(ברית:covenant:ベリース)という言葉の最初の言及である。2)一般恩恵についての洪水後のノア契約(創世紀9:9-17)。3)アブラハム契約(創世紀15:17)。4)モーセ契約、それは、いろいろな個所における契約として述べられている(たとえば、出エジプ24:5-6)。5)ダビデ契約(サムエル下17章、詩編89:3)。6)キリストの到来と共に結びつけて考えられる新しい契約(the New Covenant)、それは、キリストの血によって批准された(エレミヤ31:31、コリント一11:23以下、ヘブライ8:8以下)。わたしたちは、こうして、一連の恵み深い契約における進展的啓示における神の恵みについて考えるのである。それらは新しい契約においてクライマックスに達する。その契約は永遠的である。新しい契約は、神が御自身の民において永遠に栄光を受けるということにある。それ以上の発展はあり得ない。というのは、契約の啓示は キリスト、彼が血を流したこと、彼の復活、手で造られたのはない天における永遠の幕屋への昇天において到達したこと以上のより高い実りには到達し得ないからである。恵みの契約の進展的な啓示を認めながらも、それにもかかわらず、わたしたちは、「恵みの契約」(Covenant of Grace)という用語の下に、救いの全計画(the whole plan if salvation)について語るのである。そのようにすることは、恵み深い契約の継続的な啓示(the successive revelation)のすべてにおいて存在する統一性(the unity)を前提することなのである。

 

Ⅰ.恵みの契約を分析する

 

 ベルコフは、恵みの契約を、「罪を犯された神と罪を犯した、しかし、選民である罪人の間の恵み深い協定(gracious agreement between the offended God and offending but elect sinner)であり、そこにおいて、神が救いをキリストへの信仰を通して約束し、そして、信仰と従順の生涯を約束して、罪人がこの約束を信じて受け入れるのである」(SytematicTheology,op.cit.p.227)と定義している。

 

A.  契約の当事者

 

わたしたちがすでに注目したように、契約についての聖書的な理念は、わたしたちのお互いの約定(our mutual contract)とは一致しないが、しかし、御自身の目的を遂行するために、神の一方的な御自身の束縛を含む。神の側におけるそのような束縛は、人間における条件的な応答に結びつくかもしれないし、あるいは、結びつかないかもしれない。神によって立てられたノアの契約は、地上に生きているすべての被造物と結ばれた。それは無条件的であった。 恵みの契約は、神と選民の罪人(the elect sinners)の2つの側の間にある。それは条件的である、第1に、キリストがわたしたちの救いを引き受ける、そして、第2に、キリストのみわざが選民によって信仰的に受け入れられる。それは、聖霊の活動の結果として生じる。

 

B.  恵みの契約の内容

 

 ベルコフの定義によって示唆されるように、恵みの契約は、キリストのみわざを根拠にした神とキリストの間の和解についての約束である。この約束は、最初に、創世紀3:15において、アダムとエバに示唆された。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」。その約束の本質は、アブラハムが創世紀17:7において契約を与えられたとき、アブラハムに述べられている。「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」。この章句において、キリスト、女の子孫が罪とサタンに対して得る勝利が含意されている。こうして、神と人間との間の罪深い敵意(the sinful enmity)の和解も含意されている。この和解に基づいて、神は罪人を義(righteous:義認justification)として受け入れ、聖さに聖化するのである。このことは、キリストの到来によって果たされ、そして、キリストのみわざの聖霊による適用によって果たされる。

 

C.  恵みの契約の性格

 

1. それは三位一体的である

a.  父は、選民を選び、そして、それから、選民と契約を結ぶ。

b.  子は、仲保者の要求を満たし、また、契約の約束の実効化(effectuation)の手段を供える。

c.  聖霊は、契約の祝福を全選民に適用する。

 

2. それは、永遠的で、壊れないものである。

 神の永遠的な計画、キリストと聖霊のみわざに基づいて、この契約は確かな約束である。神はこの約束に真実であり続け、そして、契約を選民において十分な実現に至らせる。人間は、信仰という契約の要求を満たさないかもしれないが、神は御自身が契約するすべてのことに忠実である。

 

3. それは、特別な契約である。

 わたしたちは、契約は神と選民との間における契約として定義したことにおいて、このことをすでに示唆してきた。恵みの契約の供えは、すべての人のために十分であるが、それは、すべての人がそれによって救われることが神の目的ではない。神が特に選民のために計画したのである。その選民は、御心のよしとすることにしたがい神が選んだのである。

 

4. それは、恵み深い契約である

 このことは、契約に適用された名称において意味されている。恵みによっては、神の怒りに値する者たちに与えられるところの神の愛顧(the favor of God)が意味される。神は、救いのために、地獄に値する者の中からある者たちを選んだ。神は、これを御心のよしとすることにしたがって行い、そして、人間の如何なる予見を根拠にしてではなかった。神は、御子をこの罪深いこの世に送るという協定(the agreement)を御子と結んだ(ヨハネ3:16)。御子は、契約の仲保者(Mediator of the Covenant)としてその要求を満たすことを同意した。彼は、わたしたちの立場を取り、わたしたちが彼を通して命を得るために、また、彼自身の体において、わたしたちの罪の刑罰に服するために来たのである。この命は、無償の賜物として提供され、信仰によってのみ受け入れられる。聖霊は、ペンテコステにおいて聖霊を注がれ、そして、キリストによって達成された贖いを選民に適用し続ける。

 

5. それは、条件的な契約である、

 恵みの契約は、2つの方法で条件的である。最初に、わざの契約の要求を満たす必要性があった。それは、神が義であり、また、罪人を義とする者の両方(both the Just and the Justifier of sinners)であるためであった。このことは、罪人自身がこれらの要求を満たすか、あるいは、身代わり(the Substitute)が罪人のためにそうするかであった。罪人は、彼らの罪により、自分自身を変えることができないし、また、そうすることを望みさえもしないので、身代わりが彼らのためにしなければならなかった。こうして、恵みの契約の仲保者は、罪人の果たすべきことを負い、また、破られた契約の要求を彼らのために果たしたのである。このことは、死に至るまでの受動的な従順と命の積極的従順を包含する。契約の恵み深い性格の最も意義深い局面の一つは、神御自身が契約の条件のこの局面の実現を供えたことである。換言すれば、神は、救いの方法を開くため、罪人と恵みの契約を結んだのであり、また、神は、わたしたちのために、契約を保持(keep)もしたのである。これが、わたしたちが福音において宣言するところのよき知らせ(the good news)なのである。

 契約の第2の条件は、選民の側における信仰の要求される応答があるという事実である。神は選んだが、また、こうして、救われる者たちを決定したが、とは言え、このことは、人間が福音に応答する責任を除きはしないのである。神は、契約を、御言葉の宣教によってわたしたちを悔い改めと信仰へ招くのである。この招きは、すべての人に与えられる。福音を拒否することは、罪人の落ち度(the fall)である。選民による福音の受け入れは、他方においては、罪人の責任である。福音の恵み深い性格は、神は選民が聖霊の有効召命を通して信じられるようにしてくださることに見られる。

 

Ⅱ.恵みの契約の統一性

 

 わたしたちは、救いの計画は恵み深い一連の契約によって継続的に啓示され、新しい契約において頂点に達することをすでに考察した。今や、これらの契約の統一性を吟味することがわたしたちの目的である。この疑問の重要性は、契約期分割説的神学(Dispensational theology)の流行の光において見られる。この神学の型(the type)を主張する人々は、聖書の歴史を7つの契約期間あるいはそれ以上に分ける。一つの契約(a dispensation)は、ニュー・スコーフィールド・バイブル(the New Schofield Bible)において、次のように定義されている。

 一つの契約期は、その間において人間が神の意志のある特別な啓示に対する従順に関して試めされる期間(a period)である。

 3つの重要な概念がこの定義には含まれている(1)神の意志に関する神的啓示の「供託」(a deposit)、それは神が人間の行動に関して、人間に要求するところのものを盛り込む(embodying)。(2)この神の啓示の人間の「忠実な管理」(man’s stewardship)、それはその中において人間がそれに従うべきところのものである。(3)時間の期間(a time-period)、それはしばしば「時代」(age)と呼ばれる。その間においてこの神的啓示が神への人間の従順の試験において支配する(dominant in the testing of man’s obedience to God)。

 契約期は進展的であり、また、人間を扱う神の啓示と結びついていて、ときどきは全人類に、他のときは特別な民族、すなわち、イズラエルに与えられる。これらの異なった契約期は救いの方法について分離していない。これらの各契約期の間中、人間は唯一の方法において神に責任がある、すなわち、神の恵みより、十字架において果たされ、彼の復活において保証されたところのキリストのみわざを通してである。

 各契約期の目的は、それゆえ、人間を特別な行動規範に(a specific rule of conduct)に置くことであるが、しかし、そのような忠実な管理は、救いの条件ではない。ことごとくの過去の契約期においては、再生していない人は失敗したし、また、この現在の契約期において失敗し、また、将来においても失敗するであろう。しかし、救いは、神の恵みにより、信仰を通して、その人にも手に入れられてきたし、これからの手に入れられ続けるのである(New Scofield Bible,NewYork:Oxford University Press,1967 p.3)。

 ニュー・スコーフィールド・バイブル(the New Schofield Bible)からのこの注意書において、スコーフィールド・バイブル(the Schofield Bible)のより初期の版に対してもたらされた以前の批判についての幾つかの点が否定されていることが考察されるであろう。特に、7つの契約期(seven dispensations)の理念は救いについての7つの異なった方法(seven different ways)であることが、ここで明白に否定されている。

 ニュー・スコーフィールド・バイブル(the New Schofield Bible)は、8つの主な契約をも設けていることに注目することは興味深い。契約は、それによって神が責任性の関係を立てるところの主権的な宣言(a sovereign pronouncement)である。(1)御自身と個人との間に・・・(2)御自身と人類一般との間に・・・(3)御自身と国家の間に・・・あるいは、(4)御自身と特別な人間の家族との間に・・・。

 人間への神の目的の仕上げの説明における特別な意義についての8つの主な契約は、エデン的(創世紀2:16)、アダム的(創世紀3:15)、ノア的(創世紀9:16)、アブラハム的(創世紀12:2)、モーセ的(出エジプト19:5)、パレスチナ的(申命記30:3)、ダビデ的(サムエル下7:16)、新しい契約(ヘブライ8:8)(Op.cit.p.5)。

 一見、ニュー・スコーフィールド・バイブル(the New Schofield Bible)は、ウェストミンスター信仰基準の契約神学と真に一致している立場を提示しているように見える。しかしながら、モーセ契約(the Mosaic Covenant)とモーセ契約期(the Mosaic Dispensation)についての注意深い研究は、なお広い違いがあることを示す。恵みの契約はそのすべての異なった段階においても本質的に同じであることが、ウェストミンスター信仰基準においては提示されているものとして歴史的改革派信仰の立場なのである。すなわち、種々の契約の統一性がある。換言すれば、この見解の下では、モーセ契約とモーセ契約期は恵みであり(of grace)、その支配的な原則は、それ自身、信仰を通し恵みによる救いのために与えられている原則なのである。こうして、人々がこの期間の間中、恵みによって救われるということが真実であるだけでなく、その下にイスラエルが、この期間の間中、生きたところのまさにその契約は、その本質において、救われた者たちが享受したところのこのまさに救いのために与えられた契約であったのである。そのことを他の方法で表わすなら、この見解は、選民が享受したところの救いは、モーセ契約にもかかわらず、その準備(its provision)であったことを断定するのである。すなわち、このことは、ニュー・スコーフィールド・バイブル(the New Schofield Bible)の見解ではないことは、モーセ契約についての注意書きにおいて見られる。「クリスチャンは、条件的なわざのモーセ契約の下、律法の下にいるのではなくて、無条件的な恵みの新しい契約の下にいるのである・・・」(Op.cit.p.95)。

 問題は、モーセ契約は、聖書においてわざの契約か、それとも、恵みの契約か解決されねばならない。特に、その課題について語る3つの個所がある。すなわち、ガラテヤ3:1-17-22、ヘブライ8:7-13、10:16-17である。

 

A.  ガラテヤ3:17-22

 

ガラテヤ3:17-22において、パウロは、わたしたちがここで議論しているまさのその疑問を扱っている。彼は、モーセ契約(the Mosaic Covenant)は、アブラハム契約を取り消したりはしないことを断言している。すなわち、モーセ契約は、アブラハム契約をいかなる程度においても廃止したり、あるいは、無視したりはしなかった(ギリシャ語:υκο άκυροι:ウウク アクロイ:無にするの意)のである。パウロが断言していることは、律法は、アブラハム契約において見られる恵みの原則に如何なる意味でも矛盾していないということである。換言すれば、パウロは、シナイ的契約期(the Sinaitic dispensation)は、律法を恵みとの対立に置くことが目的ではなかったと言っている。このことは、律法の契約期分割説的理解に反するのである。「律法は対照にある」(Law is in contrast)(Op.cit.p.1286)。

ガラテヤ3:19は、わたしたちが提示したところの解釈を確信させる。「では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので」、すなわち、モーセの律法(the Mosaic law)は、あるいは、その執行(administration)は、アブラハム契約の補足あるいは中止(not a parenthesis or a suspension of Abrahamic Cvenant)ではないのである。モーセの律法は、アブラハム的執行の恵みに反する新しい原則を導入しているという示唆はないのである。むしろ、モーセの律法は、アブラハム契約の拡大、拡張、付則(an enlargement,anextension,or asupplement of the Abrahamic)なのである。モーセ期は、アブラハム契約の恵みへのまったくの対立的な原則の侵害であるということは、パウロの思想に無縁なのである。これこそが、契約期分割主義的見解(the Dispensational view)が断言するところのことなのである。「モーセ契約は、恵みに基づくところの新しい契約とアブラハム契約と対照的(kontrasted)なのである・・・律法と恵みは対立するものであり、結合(admixture)を許さないものなのである」(C.P.Lincoln,Covenant,Dispensational and Related Studies,unpublishedsyllabus,p.24)。

 再び、21節において、パウロは、教えのこの型に答えているように見える。「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう」。この章句を通して使われている律法(νόμος:nomos:ノモス)という用語は、明らかにモーセ律法(the Mosaic law)に言及している。それは、十戒に限定されていることがあり得るがが、おそらくモーセ的執行(the Mosaic Administration)の全体を含んでいるであろう。こうして、パウロは、モーセ的経綸(the Mosaic economy)は、約束に反しておらず、また、それゆえ、約束についてのアブラハム契約にも反していないことを断言している。もし、モーセ的経綸がアブラハム契約に反しているならば、そのとき、モーセ的経綸はアブラハム契約と調和している(in harmony)のであり、それゆえ、パウロは、モーセ的経綸(the Mosaic economy)はアブラハム契約についての拡張、拡大、展開であって、アブラハム契約と如何なる方法においても矛盾しないのである。

 パウロが、彼の理由として、律法(the law)は、約束を生かすものなので、約束に反するものではないことを与えるとき、彼は、律法は義に至る義認の方法に道を譲ったのではないことを断言している。もし、わたしたちが、パウロは、モーセ的経綸が如何にして人は行いによって義認を獲得できるかについての模範を示すという主張であるユダヤ主義者たち(the Judaizers)の誤りを扱っていることを覚えるならば、そのとき、わたしたちはこの章句の重要性を見るのである。パウロは、モーセ的経綸が、この書簡の壮大な命題を、すなわち、恵みによる義認を、また、恵みのみを樹立することを言っている。契約期分割説主義者たちは、昔のユダヤ主義者たちと同様に、同じ誤りをしたのであり、そして、この章句がその誤りを訂正するのである。

 パウロは、22節において、彼は恵みによってのみの義認を証明するものとして旧約聖書全体に訴えている。もし、モーセ的経綸の全体が行いによる救いを教えていたならば、如何にこの訴えは、愚かであったろうか。ユダヤ主義者たちは、そのような証明のために旧約聖書全体に訴えるであろう、そして、契約期分割説主義的見解も同じ誤りをするであろう。

 

B.  ヘブライ8:7-13、10:16-17

 

ヘブライ人への手紙の著者は、古い契約(the Old Covenant)と新しい契約(the New Covenant)の比較に、エレミヤ31:31-34を引用している。古い契約は、モーセ契約(the Mosaic)であり、新しい契約はキリストの福音である。対照は何か。もし、契約期分割説主義的見解が正しいならば、わたしたちは、この対照が、新しい契約における恵みに対する律法と律法主義(law and legalism)における原則にあることを期待するであろう。律法的な原則(the legal principle)は、モーセ的な契約と契約期(the Mosaic Covenant and dispensation)の大きな欠点であるであろう。

ヘブライ人への手紙の著者が、対照させていることは真実であるが、しかし、この特別な事柄は、その部分の一つではない。古い契約の欠点性(faultness)は、新しくてより良い契約の必要性を証明するために提示されている。ヘブライ人への手紙の吟味は、祭司制度(priesthood)の二つの秩序間、すなわち、アロン的・メルキゼデク的犠牲制度とレビ的犠牲制度(Aronic and Melchizedekian,and the Levitical sacrificial system)における違いにある。人がモーセ的経綸(the Mosaic economy)を吟味するとき、彼はその中に包含されている祭司制度と犠牲制度は、その経綸の律法的な原則ではなかった(not the legal principle)という事実に驚かざるを得ない。その経綸には恵みの原則が明らかにあるのである。ヘブライ人への手紙の著者は、モーセ的執行(the Mosaic administration)の弱さをその律法主義に(in its legakism)見い出すのではなくて、その経綸の恵み深い供えの不完全さと不足(in the imperfection and shortcoming of the gracious provision)に見い出すのである(7:1、27、8:3、9:22以下)。

 新しい契約との関係におけるレビ的な経綸の考察は、最も啓示的である(ヘブライ9:23-24)。意味は明白である。レビ的な犠牲は、天の原型を型取っていた(patterned after the heavenly Exemplar)のである。すなわち、キリスト、彼の祭司的な奉仕(his priestly ministry)と犠牲が、レビ的な経綸が影であるところのリアリテー(the reality)なのである。換言すれば、レビ的な経綸は新しい契約それ自体以下のものではないのである。その欠点は、それが影であり、型(a pattern)に過ぎないという事実から来た。それはリアリテーではなかった。リアリテー、恵みの充満が見い出されるべきは、新しい契約にある。このことが事実ならば、行いのモーセ的な経綸(the Mosaic economy)は、わざの契約ではなく、新しい契約との類似(its affinities)を有しているのである。モーセの古い契約は新しい契約の影である。モーセの古い契約は、新しい契約の期待である。新しい契約は、その充満とその頂点をキリストの祭司的な、天上的な奉仕において啓示するのである。彼は、メルキゼデクの秩序の祭司なのである。古い契約を導く原則は恵みであるに違いなく、行いでないのである。何故なら、古い契約を導く原則は、新しい契約を型取ったものであり、わざの契約を型取ったものではないからである。

 これらの章句についてのわたしたちの研究から、わたしたちは、旧約聖書の恵み深い契約の統一性the unity of the gracious covenants of the Old Testament)を見るのである。創世紀から新約聖書へ走る恵みの原則の継続性(a continuity of the principle)があるのである(この部分の材料は、ウェストミンスター神学校のジョン・マーレ教授のクラス・ノートから多く取ったものである)。

 

 

解説

 

 「第25章:恵みの契約」の紹介が終わったので、4点の解説をする。まず第1点は、スミスは、前章で、三位一体内において父と子の間で結ばれた「平和の計画あるいは贖いの契約」について述べたので、今度は、その「平和の計画あるいは贖いの契約」を基礎として、三位一体を代表としての神とキリストにある罪人である選民との間で結ばれる「恵みの契約」について述べる。キリストにある罪人である選民が受けるあらゆる祝福は、この恵みの契約に基づいて与えられるのである。

 そして、この恵みの契約は、歴史においては、いろいろな時代に、いろいろな執行の方法で進展的に与えられるが、それらの契約はバラバラに孤立しているのではなく、恵みの契約の統一性を構成している。具体的には、洪水前のノア契約、一般恩恵についての洪水後のノア契約、アブラハム契約、モーセ契約、ダビデ契約は、執行の様式は変わるが、本質的には同一で、同じであり、そして、新約時代になり、キリストの血によって批准された新しい契約において頂点に達し、完成し、永遠に至ることを、スミスは述べる。

 第2点は、スミスは、恵みの契約を分析して、恵みの契約の定義、恵みの契約の当事者、恵みの契約の内容、恵みの契約の特色について述べる。恵みの契約の定義としては、スミスは、ベルコフを引用し、「罪を犯された神と罪を犯した、しかし、選民である罪人の間の恵み深い協定あり、そこにおいて、神が救いをキリストへの信仰を通して約束し、そして、信仰と従順の生涯を約束して、罪人がこの約束を信じて受け入れるのである」と定義する。

 恵みの契約の当事者は、神と選民の罪人であり、それは、キリストがわたしたちの救いを引き受けること、また、キリストのみわざが、聖霊の活動の結果として、選民によって信仰的に受け入れられるという条件がついている。

 恵みの契約の内容は、創世紀17:7において契約を与えられたとき、アブラハムに述べられている「わたしはあなたとあなたの子孫の神となる」で表明されているように、地上的幸福、義認、聖霊、永遠の命、最後的栄光化などのあらゆる約束の祝福を内容として包含する。

 恵みの契約の特色については、三位一体的でること、永遠的で破られないこと、神が選民のために計画した特別な契約であること、地獄に値する者の罪人の中からある者たちを選んで、罪の贖いと永遠の命を与えるので恵み深いこと、恵みの契約は、仲保者のキリストが選民の罪を身代りに引き受け、神に審判されることによって罪を赦すという受動的従順と、キリストが律法をすべて完全に守り切る積極的従順によって永遠の命を獲得し、選民に無償の賜物として与えるという条件、また、選民は信仰による応答をするという意味で、恵みの契約は条件的である。

 第3点は、恵みの契約の統一性の吟味についてである。スミスは、恵みの契約の統一性を契約期分割説的神学と比較しながら明らかにする。契約期分割説的神学は、アメリカにおいては広い支持があるので、アメリカの神学者のスミスは多くを語る。すなわち、契約期分割説的神学は、ニュー・スコーフィールド・バイブルに基づいて、聖書の歴史を7つの契約期間に分ける。サイラス・インガスン・スコーフィルド(Cuyus Ingerson Scofield:1834-1921)はアメリカの会衆派の神学者であった。彼が分けた7つの期間は、無垢の期間、良心の期間、人間による統治の期間、約束の期間、律法の期間、恵みの期間、御国の期間の7つであるが、その7つの期間において人が救われる原則は一つで、各期間において、人が従順にその期間の神の御心に従ったかどうかがテストされ、救われるか救われないかが決まると言う。

 また、スミスは、ニュー・スコーフィールド・バイブルは、契約期を7つに分割していることも述べているが、主な契約を8つも語っていることに注目する。8つの契約は、具体的には、エデン的契約、アダム的契約、ノア的契約、アブラハム的契約、モーセ的契約、パレスチナ的契約、ダビデ的契約、新しい契約の8つである。そして、このように、聖書に出てくる契約を挙げることは、ノア契約、アブラハム契約、モーセ契約、ダビデ契約などの契約を挙げる改革派の契約論と似ている感じがするかもしれないが、しかし、事実はまったく異なることをスミスは述べる。すなわち、改革派は、モーセ契約を語るときも、それは恵みの契約のその時代の執行様式であり、後にキリストが出てきて頂点に達して完成する新約時代の新しい契約と本質に一つの同じ契約であり、信仰で応答することによって救いの恵みを受けることなのであると語る。

 ところが、契約期分割説的神学におけるモーセ契約は、律法を守ることによって、すなわち、律法の行いによって救われることを語り、後にキリストが出てきてからの新しい契約は、信仰によって救われると語るので、改革派の恵みの契約の統一性とはまったく異なることを、スミスは語る。換言すれば、モーセ契約とキリストが血で批准した新約時代の新しい契約は、対立関係にあるのか、それとも調和関係にあるのかの問題となり、改革派においては、モーセ契約期も、神の約束を信仰することによって救われる時代であり、決して律法主義でないので、両者は調和することをスミスはガラテヤ3:17-22、ヘブライ8:7-13、10:16-17を解説して証明する。

 ちなみに、ガラテヤ3:17-22は、モーセ契約(モーセの律法のこと)は、アブラハム契約を取り消したりはしないことを断言している。すなわち、モーセ契約は、恵みを原則としたアブラハム契約を廃止したり、あるいは、無視したりはしなかった。律法は、アブラハム契約において見られる恵みの原則に如何なる意味でも矛盾していないのである。パウロは、モーセの律法が与えられたのは、執行された期間を、恵みとの対立に置くことが目的ではなく、律法違反の罪を明らかにして、アブラハムの子孫のメシアに期待することを言っている。

 ヘブライ8:7-13と10:16-17は、エレミヤ31:31-34の「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」の引用であり、「最初の契約」とは、モーセ契約であり、「第二の契約」あるいは「新しい契約」は、キリストの福音である。そして、この両者の対照は、契約期分割説的神学が主張するように、律法主義と恵みの対立ではなく、「最初の契約」すなわちモーセ契約も恵みの契約であるが、新約時代のキリストの福音のように恵みの供えが完全でなく不完全であり、充満でなく、不足していることだけが違うことを語っている。

 また、レビ的経綸、すなわち、レビ的な旧約時代の犠牲は、新約時代のキリスとの犠牲と比べると、契約期分割説的神学が主張するように律法主義と恵みの対立ではなく、影とリアリテーの関係であることがわかる。それゆえ、契約期分割説的神学は、旧約時代は律法の行いが支配原理であり、新約次第は恵みが支配原理で両者は対立すると主張するが、それは誤りであることを、スミスは明らかにして、旧約時代も新約時代も、救いと祝福の原則は恵みの契約の統一性に基づく恵みであることを語る。

 第4点は、スミスは、特に述べていないが、バルトの契約についての考え方についてである。バルトは、神は永遠において、キリストにおいて人間を選んで、御自身との契約の相手とすることを予定したと考える。すなわち、バルトにとって、契約は御自身と人間とのまじわりを契約するものであり、そのため、キリストにおいて人間を選び、創造において人間を創造したと言う。そこで、よく知られているように、創造は契約の外的根拠であり、契約は創造の内的根拠と言った。そのように、バルトにおいては、契約は一つで、その契約はすべての人間を包み込むので、万人救済論的になり、聖書の教えから外れる。聖書は、契約によって神とのまじわりに入れられ、救われるのは、すべての人間ではなく、すべての人間の中から選ばれた選民だけであることを明白に教えている。すべての人間を含む契約は、アダムを代表としてアダムの子孫であるすべての人間が含まれるわざの契約(命の契約)であるが、アダムの失敗により、すべての人間は神とのまじわりを失っているのである。しかし、アブラハムに「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」と語って契約されたように、恵みの契約が神とキリストにある選民と結ばれているので、すべての人の中から選民だけが救われ、神とのまじわりに生かされる。これが聖書の教えである。それゆえ、一つの契約にすべての人が含まれ、すべての人が神の恵みを受け、すべての人が救われて、神とのまじわりに生かされるというバルトの見解は、万人救済論的になるので、聖書の教えではないことを、世界的改革派神学者のベルクーワは語る。すべての人が神の恵みを受けて救われ、神とのまじわりに生かされるということを一つの契約で語れば、万人救済論的にならざるを得ないのである。一つの契約で語るには無理がある。バルトの契約についての見解は、拙著「G.C.ベルクーワ:カール・バルト神学における恩恵の勝利-その紹介と解説-」の「第3章 創造における恩恵の勝利」参照のこと。

         

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