摂理の神のみわざ

 

神が世界を創造したことを見たので、わたしたちに直面する次の疑問は、如何にしてこの創造がその存在において続いていくかである。創造された世界の保持の理念は、その統治と共に「摂理」(providence)という用語で示される。この特殊な用語それ自身は聖書的ではないが、しかし、保持と統治の両方(both preservation and governance)とも明らかに聖書的な概念である。実際に、「摂理」(providence)という言葉の文字通りの意義は世界についての神の配慮についての適切な表示ではない。それはラテン語のprovideoから来ており、それは「前方を見る」(to see ahead)を意味する。そのようなものとして、その用語は、神が単にこれから生じることを前もって知ることを示唆する。実際には、神は前もって単に見たり、あるいは、知ったりするのではない。「神はそれらを前知(a certain prescience)によって知るのではなく、御自分の計画から永遠的知るのである」(Hoeksema,Herma,Reformed 

Dogmatics,op.cit.p.228)。フクセマは考察する。「しかしながら、その用語は神学的な用語法においてある場所を獲得してきた。そして、よりよい用語を求めて、わたしたちはそれを使い続けてよいであろう。それは神の絶大で全能の力を示し、それによって神がすべてのものを存在し続けさせ、また、神がすべての被造物において、またすべての被造物を通してご自分の計画を遂行し、すべての被造物が、例外なしに、神の計画においてすべての被造物に定めた目的に至るという、そのような仕方で導くのである」(Idem.)。 

 

Ⅰ.現代思想における摂理の教理の危機(この部分の思想はG.C.Berkouwer,The Providence of Godからの転用:Grand Rapids)Wm.B.Eerdmans Publishing Company,1952 Chater1.)

 20世紀は、2つの世界大戦とそれらに関わるいろいろな残虐行為があり、わたしたちの日において広く抱かれている人生の無意味感(sense of meaninglessness of life)に来ている。ヒューマニズムが19世紀の楽観主義から悲観主義に変わり、それは新しい現実主義と呼ぶ。20世紀は、たった一つの現実的な世界観と人生観、すなわち、ニヒリズムに対して余地を持つのである。無神論と無意味性がこの20世紀の現実主義から引き出される唯一の論理的結論なのであろうか。そのような思いをもって、特に日々のいろいろな出来事において、神の摂理の理念がわたしたちの時代において厳しく疑問とされている。存在の本質としての不安をもって(with  anxiety)、実存主義は恐れの問題(the problem of dread)にわたしたちの注目を向けさせ、そして、わたしたちの存在は虚無(nothinglessness)の中に保留されているものと考される(Heidegger,Sein und Zeit、Ⅰ,p.191、Was ist Metaphysik?,p.23ff.)。

 誓書は、恐れと不安とにおいて表わされた人間の根源的疎外(the radical estrangement)に対する理由を明らかにする。それは、人間の罪深さから来る死への病である(It is the sickness unto death stems from man’s sinfulness)。聖書は、この恐れに対する勝利は自律的人間の思考の結果ではなくて、キリストの福音における神の賜物としてのみ来ることをも知っている。

 誓書は、不安と不確かさに対する疑問を避けてはおらず、正面から向き合っている。詩編73編は、詩編の作者は悪人の繁栄の問題と葛藤している。ヨブは、人間の苦しみの問題(the problem of human suffering)と個人的に直面している。神の知恵といつくしみが疑問とされている。コヘレトの言葉は、人生の明白な無意味性について語る。聖書はその諸問題への道を塞ぐ。聖書的な現実主義は、人間の諸問題の余りの単純化に対してわたしたちを警戒させる。教会のわたしたちは、苦難と嵐の中にいつところの人々とのコンタクトを失うべきではない。聖書は、夜の闇についての証言ではなくて、夜の中の光についての証言なのである。

 あまりにもしばしば教会は人間の苦難の現実を扱うことに失敗してきた。結果は教会から世界がますます離れることであった。近代思想における科学の増大する場所が人間の不信仰を教える手段であったのである。自然は自然的諸原因に還元される。神と信仰は前科学的時代に追いやられ、最早、関連はない。科学のこの世俗主義と共に、宗教は人間の願望の反映に過ぎないことを教える哲学が来たのである。この仕方で、宗教は捨てられたが、それらの執拗さは大衆の間でこうして説明された。マルクスは、彼が宗教は人民の麻薬(the opium of the people)であると語るとき、それは人間が耐えられないものを耐えられるようすることであると断定した。フォイエルバッハは、宗教を利己主義の願望の反映と見て、こうして、神学を人間学以上のものとしなかった。ニーチェは、キリスト教は、人民のためのプラトン主義(a Platonism for the people)と見た。信仰は。理想、超自然界の反映であり、それは地上的価値を下落させたのである。フロイトは、宗教を人間の想像の結果と見た。これらのすべては、宗教を逃避(an escape)と見る。彼らは、人間が現実と直面し、幻想のない人生(life void of illusions)を受け入れるように呼びかけるのである。

 近代の人間の思想の発展は摂理の教理に関する危機をもたらしたのである。啓蒙主義の到来をもって、神の概念は人間化され(humanized)、戯画化された(caricatured)。神は抜け目のない主人、この世界の事柄を上手に扱う作者(a shrewd master-worker)と見られた。理神論が神についての正しい見解を破壊することに影響を与えた。それは、神を非人間化すること、神についてのわたしたちの思考からすべての擬人化(all anthropomorphisms)を取り除くことを試みた。その結果は、不毛の知性のみの神であった。この不毛の概念に代わって、リッチュルは愛の神(a God of love)に置き換えた。神は人間の愛のイメージにおいて作られたのである。神は怒ることができなかった。神についてのこの見解は、なお近代のリベラルな思想の多くの基礎となっている。20世紀の悲劇的結末と共に、この永遠の博愛主義者(this eternal philanthropist)は幻影としてさらされた。これが、わたしたちの時代の信仰の危機をもたらしたのである。この危機は、正統派神学よりも、危機神学によって、あるいは、実存主義神学者によって語られてきたのである。その結果は、今日の教会における摂理についての一般的に誤解された教理なのである。

 リッチュル主義のリベラリズムの一面的で楽観的な神概念は、聖書における神に対して絶対的な矛盾にある。啓蒙主義の時代に続く時代と共に、神と罪についての聖書的見解は捨てられ、そして、その結果は「明るく愛想のよい摂理」(a genial providence)・・・裁きのない恵み、正義のない愛、贖いのない赦しであったのである。20世紀の大変動は現実についてのこの見解の正体を暴いたのであるが、しかし、聖書からの離反と共に、摂理についての真の見解への帰還の失敗があったのである。

 

Ⅱ.摂理についての異った諸見解

A. 摂理は予知に過ぎない

教会教父のある者たちは、摂理を出来事についての神の予知(the foresight if God)に限定した。他の者たちは予知だけではなく、神による前もっての定め(the foreordination of God)も含めた。本質的に、このことは、神の聖定と摂理の同意一視である。バスウェル(Buswell)は、摂理を聖定と同じ章において考察する(Buswell,Oliver J,.Systematic Theology:Grand Rapids:Zondervan Publishing House,1962,Vol.Ⅰ.p.170)。創造と摂理の両方は神の聖定の外に向かうみわざであるが、しかし、それらは同一ではない。ウェストミンスター小教理問答が言うように、聖定は創造と摂理のみわざにおいて遂行されるのである。

 

B. 摂理についての理神論的見解

 理神論者たちは、一般的な仕方以外において以外には、世界について関心を持たないと主張した。神が世界を創造したとき、神は世界をその本来の力と諸法則をもって動くように設定した。神は最早、世界を統治も、支配もしないが、しかし、世界がそれ自身で動くことを許した。この概念はペラギウス主義(Pelagianism)によって主張された。それは、ソシニウス主義者たち(the Socinians)に採択され、そして、神の主権性と聖定の否定のゆえに、アルミニウス主義者(Arminianism)に影響を与えた。それは、18世紀の理神論者たちによる哲学的形態において表明された。今日、この見解は自然の同一性の強調共に進化論において見られる。

 

C.無神論的-運命論

 無視論にとって摂理の理念は矛盾であるが、とはいえ、神の存在を否定するが、盲目的な決定論(a blind determinism)あるいは運命論(fatalism)を主張する人々がいる。その思想は、わたしたちの運命を決定するところの影響があるというものである。占星術(Astrology)はそのような無神論的運命論の模範である。そのような見解は、もちろん、人生を無意味に、また、希望なくさせるのである。

 摂理についてのこの異教的な見解の模範は、そこにおいてヒットラー(Hitler)が、摂理を自分が第3帝国(the Third Reich)における権力へと導くものとして訴えたことである。ここには、異教徒は目的のためにキリスト教の言語を借用していたが、しかし、それは摂理についての聖書的な教理をまったく意味していない。彼にとっては、それは運命であり、あるいは、歴史を治めるところの幸運であった。

 

D. 摂理についての聖書的な有神論的見解

 摂理についての聖書的な見解は、神は御自分の被造物を置き去りにせず、それを保持し続け、持続させ続け、また、その中に起こるすべてのことを統治し、支配するのである。

 

Ⅲ.摂理の認識

 世界は時には摂理について言及するかもしれないが、摂理につていのどの見解も神の特別啓示によって教えられていないので、罪の認識論的影響にゆえに、摂理についての誤った見解となる。わたしたちは、創造についての教理が啓示によってのみ認識されることを認める。摂理についても同じである。ローマは、自然神学をもって、わたしたちは自然を通して摂理についての真実な知識に来ることが可能と主張する。そのような見解は、生まれつきのままの人間は、聖霊の再生のみわざなしに、世界を正しく解釈できることを前提している。

 摂理についての真の教理は、明白にキリスト教教理なのである。救いの計画それ自身が神の特別啓示なのである。十字架において、クリスチャンは、神の特別啓示を見るのであり、それは赦しと再生の恵みの結果をもたらすのである。彼はそれを経験し、また今や、彼は歴史のすべてを神の恵み深い天の父の御手の下に見るのである。アブラハム・カイパー(Abraham Kuyper)は言う。「すべてのキリスト信仰告白と教会において、改革派信仰告白と教会は、摂理を救いの途の脇に決して置かないところの唯一のものであるが、しかし、両方を統一体(one unit)として定義するのである」(Kuyper,Abraham,as cited by Berkouwer in the English translation of The Providence of God,p.48。それはカイパーの「召しから」(E Vote)に言及しているが、しかし、そこには見い出されない。この引用に対するオランダ語原書における脚注がない)。この解説は、ベルギー信条の第13章における言及と明らかに関連している。13章は摂理についてこのように語る。「神は万物を創造した後で、それらを見捨てず、あるいは、運命や偶然に任せず、かえって、御自分の聖い御心にしたがってそれらを支配し、統治し、その結果、この世界には、神の定めなしに何事も起こらないことを、わたしたちは信じる・・・また、神が人間の理解を超えているところのことに関して、わたしたちは、わたしたちの能力が許す以上には、それを興味半分に詮索しないのである。かえって、謙孫と尊崇をもって、神がわたしたちに隠しておられる神の義なる裁きを崇めるのである。わたしたちは、これらの制限を超えることなく、神の御言葉においてわたしたちに啓示したところのことのみを学ぶことで、キリストの弟子たちであることにわたしたち自身が満足するのである」(Belgic Cinfession,Philip Schaff,The Creeds of Christendom:Grand Rapids:Baker Book House,1966、Vol.Ⅲ.pp.396-397)。

 フクセマは、ハイデルベルク信仰問答の第1問に基づいて、同じ理念を断言している。「すでにハイデルベルク信仰問答の最初の問答において、この真理は、生きるときも死のときも、体と魂をもって、自分の真実な救い主、イエス・キリストのものであることが、慰めの豊かな源泉として表明されている。というのは、わたしたちは、この真実な救い主は、『天にいますわたしの父の御旨でなければ 神の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます』。ハイデルベルク信仰問答のこの答えは美しい。何故なら、それは神の摂理をすぐにわたしたちの救いに関する教理に結びつけているからである」(Op.cit.p.227)。

 もし摂理がこうして救いに関係しているならば、そのとき、摂理についての認識は、それによってわたしたちが神の救いのみわざを知るところの同じ手段・・・特別啓示によって来ることができるのである。

 ベルクーワは、摂理についてのわたしたちの見解をキリスト教信仰から分離することの危険を警告する。彼は賢明に考察している。「歴史は、宗教的に国家社会主義(a religiously clothed national socialism)に装われた形態においてかあるいは徹底的な自然神学(a consistent natural theology)の結論においてにしろ、キリストなしの摂理の告白の結果を例証している。神々と偶像の幻影と神格化された被造物が人間の存在の舞台に現れるのである。それは、あいまいな推測あるいは推論化された結論、最終的原因あるいは第一原因、初めの動者(a prime mover)あるいは究極的原理、神秘的なX、スフィンクス(a sphinx:スフィンクスのような怪物、または謎めいたことを言ったりする謎の人物のこと)、あるいは人々を防御の武器をもって抱きしめところの「導き」(a Guidance)かもしれないのである。それが何であれ、それはキリスト無き混乱であり闇の中での手探りである。人は、摂理について非キリスト教的理念から派生した慰めについてなお語るかもしれないが、しかし、どのそのような概念においても、繁栄における真の感謝はないし、また、確かに、逆境における真の忍耐もないのである。この摂理は詐欺師であり、繁栄において受け入れられるが、しかし、恐怖のときには、恐怖が保護の友好的な武器を引っ込めるとき、恐怖は信頼も信仰も吹き入れることに失敗するのである。この理由のゆえに、信仰告白における摂理の教理の救済論的志向(the soteriological orientation)は決定的なのである(Berkouwer,op.cit.p.50)。

 わたしたちが見ていくように、聖書は摂理について言うべきことを多く持つのである。わたしたちは、この章の次の部分でこの啓示の内容を吟味しよう。

 

Ⅳ.保持としての摂理

A.  保持に関する聖書的な教え

 神は創造しただけでなく、ご自分の被造物を保持するという理念を伝えるところの多くの個所がある。コロサイ1:16-17で「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです」。ここに、わたしたちは、創造と摂理の密接な関係を見る。「世界を創造した後、神は世界から退いたのではないし、また全体的にも最小程度でも半分にも退いたのではなく、かえって世界との結びつきの留まり、世界にあるすべてのもの、大きなものも小さなものも、御自分の力によって保っているのである。ヘブライ1:3は、キリストの保持のみわざについて語る。「万物をご自分の力ある言葉によって支えておられます」という句は、創造された世界は彼の継続的な保持(his continued preservation)を必要としていることを示す。ネヘミヤは、神のこの保持するみわざを描いているレビ人たちの祈りを記録している。「あなたのみが主。天とその高き極みを/そのすべての軍勢を/地とその上にあるすべてのものを/海とその中にあるすべてのものを/あなたは創造された。あなたは万物に命をお与えになる方。天の軍勢はあなたを伏し拝む」(ネヘミヤ9:6)。神の保持のみわざは、神のすべての被造物、天、地、海、またそれらにあるすべてのものを包含するものとして描かれている。これは、マタイ10:29-30の「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」におけるイエスの教えの主眼である。イエスは、ここから、わたしたちは雀よりも価値があり、そしてこうして、摂理についての教理がわたしたちをなぐさめであるべきということの意味を引き出している。

 摂理の神のみわざは、創造のこのみわざとと同じように、不把握的なの(incomprehensible)である。エリフは言った。「神は驚くべき御声をとどろかせ/わたしたちの知りえない/大きな業を成し遂げられる」(ヨブ37:5)。「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す」(詩編19:2)。詩編104編は、地における神の活動を祝っている。詩編の作者は、彼が神をほめたたえるとき、わたしたちを神の摂理への適切な応答へと向けている。「主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている」(詩編104:24)。

 ベルクーワは正しく考察している。いわゆる自然詩編(the so-called nature Psalms)は、それゆえ、自然の栄光に献げられているのではない。またそれらは自然自体を通して神への道を差し示しているのではない。それらにおいては、神の尊厳が歌われているのである(参照 詩編74:12-17、特に詩編19編、33編、89編、148編)。

 

B.  創造と保持の関係

 この保持のみわざと神の創造的なみわざの活動の関係について疑問が生じた。ある者たちは、神の保持のみわざは、神の力ある御言葉による神の創造的活動の継続という理念を持った。それは、神の力の御言葉によってなされると同様にである。すなわち、神は世界を瞬間から瞬間へと永続的に創造しているのである、そうでなければ、世界は無に帰してしまうからである。こうして、保持は永続的な再創造(a perpetual re-creation)なのである。これに対する論拠は次のようである。

1.神だけが自己存在的であり、こうして、創造は存在の根拠を持たないし、あるいは、継続の根拠を自己自身において持たない。

2. すべての被造物は、時間の継続的な瞬間において存在し、それは何の連結を持

たない。こうして、「継続的存在は、瞬間的に無に帰っているのである。そして、永続的な創造によって無から守られているだけなのである。

3.次の聖書は、このことを教えているとして引用される。ネヘミヤ9:6、ヨブ10:12、詩編104:27-30、使徒言行録17:28、ヘブライ1:3、コロサイ1:17、イザヤ10:15。

ルター派の神学者のフランシス・ピーパー(Francis Pieper)は、ルターを引用して「わたしたちクリスチャンたちは、創造することと保持することは、神にとって一つであり、同じであることを知っている」(idem est creare et conservare)(St.L.Ⅰ.1539)(Op.cit)。

 バーフィンクは、摂理を「継続的創造」(a creatio continua)と呼ぶ。創造と同じようにまさに偉大で、力強く、全能であるみわざなのである。それらは一つの行為であり、違いは思考だけにある。「創造と摂理は、こうして、神のみわざとして、神の本質において客観的に、また実質的に区別できないのである。ただ思考においてだけである」(Idem.)。バーフィンクは、保持を継続的創造として語るが、彼は、神は継続的に世界を無から呼び出しているということを意味しないことを示す。これは、創造を摂理から区別するものとしてユニークである。創造も保持も神の言葉に関わるものとして同様なのである。ベルクーワは言う。「創造は無から有を呼び出し、保持は継続的存在を呼ぶのである」(Bavinck,op.cit.p.566)。

アブラハム・カイパーもこの主題を扱った。彼は言った。「わたしたちは、摂理は『継続的な創造』(a creatio continuata)、すなわち、最初の創造から今に至るまでの時間を形成する意味において理解されるべきであり、神、主は創造の瞬間においてのように同じことをしてこられたのである。神はすべてのものに御自分の力を通して存在の力を与えたのである」(Kuper,Abraham,Locus de Providentia in Dictaten Dogmatiek,(no date),p.37f. cited by Berkouwer)。

 ベルクーワは、バーフィンクとカイパーが書いたところのものを考察した後で、保持を継続的な創造としてわたしたちが語ることが最善かどうかという疑問について論じる。彼は結論する。「改革派神学者たちは継続的創造というその用語を、保持のみわざの偉大さと神性を強調するため用いるが、彼らは、それにもかかわらず、その理念を無から創造の更新される行為(renewed act of creation out nothing)の意味においては拒否したのである・・・わたしたちは、最初の創造を表す無からの創造という用語を保留した方がよいであろう、そして、保持をすべてのものを保つ神の力として単純に保持を表すところのハイデルベルク信仰問答の模範に従う方がよいであろう」(Op.cit.p.70)。

 ベルクーワは、保持の事柄に語る聖書の章句に言及して、自分の立場を支える。詩編102:25は言う。「わたしは言った。『わたしの神よ、生涯の半ばで/わたしを取り去らないでください。あなたの歳月は代々に続くのです』」。ヘブライ語は、保持を表す別の用語を持っておらず、また、世界の継続の概念はヘブライ語のברא

:bara:バーラー(創造するの意)という言葉によって示されていることが注目されてきたのである。「このことは両者の区別を弱めるのではなくて、神の言葉の統一性にいついての聖書的な証言を強調し、そして、すべての被造物の依存性を意味するのである」(Ibid.p.72)。「光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである」(イザヤ45:7)。

 ベルクーワ(カイパーの誤りか?)は結論する。「自然と歴史における神のみわざを見ることは・・・このことは、神が創造の第1日においてと同様に今日、神のみわざにおいて壮大であるこことを理解することなのである。ヘブライ語のברא:bara:バーラー(創造するの意)は、『神の初め』(Divine Origination)を示すのである。無からの創造の神の初めだけでなくて、各瞬間の神の初め(the Divine origination of each moment)を意味するのである。こうして、永続的な創造的諸行為内における創造された現実性の継続性を失うことなく、保持についての神のみわざの偉大さ(the grandeur)を持つのである(Kuyper,op.cit.p.72)。

 創造が完結したものとして見られることは、神が創造をなされたもの、そして、今立っているものとして見ているものとして聖書において表明されている。「大地を造り、その上に人間を創造したのはわたし。自分の手で天を広げ/その万象を指揮するもの」(イザヤ45:12)。再度イザヤは、神は地を覆う大空の上にある御座に着かれることを断言する(イザヤ40:22)。終わったみわざの概念は、イザヤ51:13においても意味されていて、そこで、神は「天を広げ、地の基を据えられた」と呼ばれている。「あなたはラハブを砕き、刺し殺し/御腕の力を振るって敵を散らされました」(詩編89:11)。「世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない」(詩編93:1b)。

 新約聖書は、旧約聖書と同様に創造を、世界を始めるための別個の行為(a distinct act)として見ている。こうして、世界の創造は、先に存在していた物から形成されたのではないことを示している(マルコ10:6、ヘブライ1:10、ペトロ二3:4、マタイ19:4)。ベルクーワは結論する。「聖書はわたしたちが創造と摂理を区別させる。わたしたちは、神の力のみわざの内に創造と摂理の別個の諸行為の間の関係が考えられ得ることを示唆するのである。それを問うことは、禁じられたことを人間的に考えられ得ることになる。この点において、わたしたちは、バーフィンクが、言葉の不足ゆえに、『神秘』(mystery)と呼んだところのものに達するのである」(Berkouwer,op.cit.p.73)。

 

C.  一般恩恵の問い

 アブラハム・カイパーは、保持は単なる維持以上のものであることを指摘する。彼は、摂理の教理は、神学者たちによって一般的に非常に表面的に扱われると主張した。彼は、創造はもうすでに死んだ事柄(a just dead matter)ではなく、生きていて、そして、常に変化していることを主張する。創造は、神が前もって定めた目標に向かって動いているので、神の保持はその全体の過程に包含されねばならない。これがそうならば、保持と統治は分離されるべきではなく、むしろ、密接に関係していると見られるべきである。支配(Ruling)は、現在、存在している世界から分離されてはならないし、また、保持はその最終的な目的から分離されてはならないのである。

 ノア契約(the Naohic Covenant)は、歴史の終わりまでの世界の継続的な保持の約束なのである。「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない」(創世紀8:21―22)。カイパーは、ノア契約を一般恩恵の教理にとって歴史的出発点(the historical point of departure)として見た。ノア契約において「神は、保持の恵みの行為を人間の存在の全体へ広がるものとして行った」(Kuyper,Abraham,Gemeene Gratie:Kampen:J.H.Kok.Vol.Ⅰ.1931 p。94)。クラース・スキルダー(Klaus Schilder)は、ここにおいてカイパーと鋭く異なる。スキルダーは、この活動に恩恵を見ないのである。「この継続と展開は何の恩恵を示さない。また、それらは定罪や裁きも示さないのである」。それらは、その上に恩恵と裁きの両方が依拠する基礎(the substratum upon which both grace and judgement rest)なのである(Schilder,Klaas,Christus und Cultur:Kampen:J.H.Kok.1948 p.63)。スキルダーによれば、歴史の目的は、救いの実現ではなくて、キリストのみわざの二重の局面、すなわち、救い主-贖罪主と救い主-審判者(Saivior-Redeemer and Savior-Judge)を実現することなのである。頂点はこの二重の目的なのである。歴史はその意味をこの二重の目的において受けるのである。保持は救いのために第一義的でなくて、救いと裁きの両方がその上に実現する基礎(the bases upon which both salvation and judge)を与えるのである。

 キリスト改革派教会(the Christian Reformed Church)が、神は選民と同様にすべての人々に恵み深くあると言って、1924年に一般恩恵を認める立場を採択したとき、ヘルマン・フクセマはキリスト改革派教会と手を切ったのである。フクセマの見解は、選民でない人々(the non-elect)には純粋に怒りだけがあるというものである。遺棄されている人々に提供される恩恵は何もない(no measure of grace)。選民でない人々には、福音の真剣な提供(no serious offer of the Gospel)もないのである。

 スキルダーもフクセマも、マタイ5:45あるいはルカ6:35も一般恩恵を教えている章句と見ない。スキルダーは、それらの章句は遺棄されている人々に神の愛顧(a favorable disposition of God to the reprobate)も教えていないと主張する。フクセマは、この一般的な立場に賛成する 「聖書のすべては、神は彼の敵を愛さず、憎み、そして、彼らを滅ぼすことを意図することを証言している・・・神がイエス・キリストにおいて選んだ人々以外の人々については」、神は「感謝しない悪人にも親切である」(God is kind to the unthankful and evil)が、しかし、「神は感謝しない悪人である遺棄されている者には親切ではないのである」(He is not kind to the reprobate unthankful and evil)(Hoeksema,The Protestant Reformed Church in America,p.317,as cited be Berkouwer,op.cit.p。82)。

 スキルダーは、わたしたちは、神の傾向(the disposition of God)を神の賜物から決して結論することはできないと主張する。ヴァン ティル(Van Til)もマーレー(Murray)もこの立場に異議を唱えた(Van Til,Cornelius,Common Grace,1947 p.37;Murray,John,Common Grace,in Westminster theological Journal,Nov.1492)。

 ベルクーワはスキルダーが、「寛容」(longsuffering)についての聖書の概念を正当に扱っていないと批判する。ベルクーワは、ヨナとニネベの場合における寛容の古典的模範を見い出すのである。彼は、また歴史は終わりに向かって進んでいるという信者たちの見解に対して人々が嘲るとき、ペトロ二3:4における寛容を見い出す。

 「保持としての摂理は単調な教義学的理論ではないことは如何に明白か。それは、夜が昼に変ることにおいて現実である・・・わたしたちは聖書の語ることの論理的な枠組みを作ることはできない。神の聖なる怒りと恵み、神の支配と保持、神の忍耐と惜しんでくださること(his sparing)において、誰ひとりとして神を把握することはできない。しかし、これらの不可把握的な現実において、怒りに対する神の寛容あるいは神の寛容における怒りを犠牲にすることは、誰ひとりとしてしてはならないのである」(Ibid.,p.89)。

 わたしたちが保持としての摂理についてのこの部分を終わるにあたって、この主題についてのベルクーワの締めくくりの言及はふさわしい。「神をその恩恵と世についての寛容において知る者は、保持の告白は神学的な精巧化ではなく、説教への招きなのである」(Idem.)。

 

Ⅴ.統治としての摂理

 神は被造物を保持するだけではなくて、統治もする(governs)。ベルコフは、統治を「神の目的の実現を確証するために、それによって神がすべてのものを目的論的に治めるところの継続的行為と定義している」(Berkhof,Louis,Systematic Theology,op.cit.p.175)。このことは、神としての神の性質から起こるのである。神は、最も賢いお方として、御自分の被造物に対して計画と目標を持っておられ、それを実現されるのである。「神はすべての形態における命があるこの広大な世界を創造したが、しかし、それらを支配はしないという理念は、神の性質とまったく一致しないのである」(Hodge,Chales,Systematic Theology,op.cit.Vol.Ⅰ.p.583)。統治としての摂理の教理は、神の聖定から生じる。神は世界の歴史のすべてを論理的に覆うことを聖定したという事実は、神が聖定を実行することを意味する。聖書は、神の摂理的な統治は普遍的であり、神のすべての被造物と被造物のすべての行為を包含するのである。

 「外的世界、理性的なまた非理性的な被造物、大きな事柄と小さな事柄、通常のことまた通常でないことは、すべて等しく、また常に神の支配下にある。摂理の教理は世界から必然性と偶然の両方を排除する。必然性と偶然の代わりに、無限で全能の神の知的で普遍的な支配を置くのである」(Ibid.,p.582)。

 それは、クリスチャンが、運や運命への言及をするべきでないことは真実であるからである。むしろ、クリスチャンは、出来事は、神の摂理によって起こることを承認すべきなのである。

 摂理的な統治の教理は、世界の王また主権者としての神の支配を語る多くの章句から聖書的であることが明白である。「神はとこしえに力強く支配し/御目は国々を見渡す。背く者は驕ることを許されない。〔セラ 詩編66:7)。「すべて地に住む者は無に等しい。天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。その手を押さえて/何をするのかと言いうる者はだれもいない」(ダニエル4:32)。「神は時を移し、季節を変え/王を退け、王を立て/知者に知恵を、識者に知識を与えられる」(ダニエル2:21)。「このことはすべて、ネブカドネツァル王の上に起こった」(ダニエル4:25)。「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが/あなたは知らなかった」(イザヤ45:5)。「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」(箴言16:9)。「お前たちの角を高くそびやかすな。胸を張って断言するな。そうです、人を高く上げるものは/東からも西からも、荒れ野からも来ませ。」(詩編75:6-7)。「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」(使徒言行録17:27)。「主は洪水の上に御座をおく。とこしえの王として、主は御座をおく。どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように」(詩編29:10-11)。「主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る。羊の毛のような雪を降らせ/灰のような霜をまき散らし 氷塊をパン屑のように投げられる。誰がその冷たさに耐ええよう。

御言葉を遣わされれば、それは溶け/息を吹きかけられれば、流れる水となる。主はヤコブに御言葉を/イスラエルに掟と裁きを告げられる。どの国に対しても/このように計らわれたことはない。彼らは主の裁きを知りえない。ハレルヤ」(詩編147:15-19)。「主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ」(詩編146:10)。神の支配の概念は、聖書をその最初から最後まで満たしているのである(Berkof,op.cit.pp.175-176)。

 ベルコフはこの統治を三つの見出しの下に扱う。

1.それは、世界の王としての神の統治。神はすべてのものの創造主であるので、すべてのものの支配者でもある。王として御座に座しているお方としての神の表明、また、神の足台としての地は、神の世界的なこの王であることを暗示する。「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です」(使徒言行録17:24a)。「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(テモテ一1:17)。再び黙示録19:6において、「わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、/全能者であり、/わたしたちの神である主が王となられた」。

2.それは、神が統治する被造物の性質に合わせた統治( a government adapted to the nature of the creatures)である。このことは、神は自然法則を制定し、そして、自然界においては、これらの法則を通して御自分の統治を司る。理性的な世界においては、神は精神の法則(laws of mind)また聖霊の直接的な働き(the direct operations)を用いるのである。御自分の道徳的な被造物を扱うときには、神は説得し導くのに多様な手段を用いる。神はまた聖霊によって直接的に知性、意志、心に働きもするのである。

3.この統治の範囲は普遍的(universal)である。このことは聖書の明白な教えである。「地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように」(詩編22:28)。「主は天に御座を固く据え/主権をもってすべてを統治される」(詩編103:19)。「天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。その手を押さえて/何をするのかと言いうる者はだれもいない」(ダニエル4:32b-35)。

 この支配は一般的にだけでなく、世界の特殊なこと(the particulars)をも支配する。最も意義の小さなことも含まれる。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」(マタイ10:29-30)。「くじは膝の上に投げるが/ふさわしい定めはすべて主から与えられる」(箴言16:33)。人々の悪い行為と同様に善い行いも神の支配と制御の下に(under his rule and control)ある。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ2:13)。「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました」(使徒言行録14:16)。このことは、わたしたちの行為のすべてに対する人間の責任を否定したり無にしたりはしない。パウロは、フィリピ2:12において、恐れおののいて自分の救いの達成に努めるように読者たちに呼びかけた。それは神の統治の下にあるが、努めるのは神でなく彼らである。罪との関連における神の主権性と人間の責任性の古典的範例はわたしたちの主の十字架である。ペトロは言う。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」(使徒言行録2:23)。ここに、わたしたちは、十字架は神の聖定と摂理によって定められたが、しかし、責任は人々の邪悪さにある。わたしたちは、これらの事実の両方を如何にしても把握できないことを認めねばならないことは正しい。聖書は、この問題をわたしたちに対して解いてはいないで、二つの事実を並べて単に述べるのである。わたしたちはこの事柄においてわたしたちの精神を謙虚にかがめ、そして、見えるところによってでなく信仰によって歩かねばならない。

 上に引用された章句を見てきたが、それらは摂理的な統治を三位一体の神に帰しているが、それがキリストのメシア的な王(the Messianic Kingship)とどのように関係するのかという問いが問われよう。イエスはマタイ28:18で認めた。「天と地の一切の権能を授かっている」。彼は、さらに絶対的な王の言葉で描かれている。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました」(エフェソ1:22)。「神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン」。(テモテ一6:15b-16)。「この方の衣と腿のあたりには、『王の王、主の主』という名が記されていた」(黙示録19:16)。

 アブラハム・カイパーはこの主題を扱った。彼は、原初の創造に基礎づけられ、そして、創造主としての神によって行使される本質的支配(the essential rule)と、キリストの仲保者的なみわざに基礎づけられ、そして、キリストとによって行使される一時的支配(the temporal rule)を区別した。この支配は、性格において仲保的で(mediating)であり、その目的を本質的な支配の再構成(the reconstruction of the essential rule)として持つ、そして、それは罪によって一時的に腐敗されてきたのである。「この仲保的な御国はいつか消失し、コリント一15章の仕方で、永久に残る本質的な支配を残すのである」(Berkouwer,op.cit.p.118)。カイパーは、恩恵の支配における王であり、同時に三位一体の第二人格である仲保者の人格としての御国との間に接点(the point of contact)を見たのである。この結びつきは聖書において、『神の右に座している』キリストへの言及によって表明されている」(Ibid,.p.118)。聖書は、すべてのものへの権威(having power over all things)を持っているキリストに言及していて、そのことはキリストが三位一体の第二人格であるから真実なのである。カイパーは、すべてのものをキリストに与えることが支配者として御自分のみわざについて御父による退位(an) abdication by Father)を意味するという理念に反対したのである。彼は、それゆえ、キリスト神政政治(a Christocracy)の理念に反対したのである。

 ベルクーワは言う。「カイパーが、神の退位と呼ぶものに対ししてのこの抗議は正しい。イエスの昇天後、三位一体の神の摂理的な支配が一時的に停止し、仲保者に与えられるかのようではないのである・・・仲保者の権威(the majesty of the Mediator)は神的存在の権威(the Majester of the Divine Being) に属する場所に決して押しやられはしないのである」(Ibid.,p.119)。

 このことを言うことにおいて、カイパーは、二つの支配(the two rules)の間の関係の問題が解決しなかったことを認めたのである。ベルクーワは、わたしたちに対して、聖書がこの主題について語ることを単純に認めるのである。「キリストの支配において、わたしたちは『キリストにおける神』に出会うのである」(In the ruling of Christ we encounter ’God in Christ’。生じた変化は、神の支配の様式においてのみなのである(The change which took place is only the mode of God’s rule)。「キリストが昇天後、以前には直接的であった同じ活動が、神の右に座すお方を通して仲保者的になった(became  mediate)のである。

 

Ⅳ.同流(Concurrence)としての摂理

 摂理的な支配とキリストが王であることの関係に関して神秘がまさにあるように、神と被造物の行為の両者の間にも神秘がある。聖書は両者が同時に起こることを教える。この関係性は同流(あるいは同行)(concurrence)と呼ばれる。ベルコフは、それを「神の力とすべての従属的な力の相関関係(the cooperation of the divine power with all surbordinate powers)と定義し、それらの働きの前もった制定された法則に従い、それら行為に導き、まさにそれらが行為するように行為させる」とした(Berkhof.,op.cit.p.171)。ベルコフはこの教理から二つの意味を引き出す。

1.神が直接的に被造物のどの行為においても働くこと。被造物は自己自身の本来的な力から行為するのではない、それは理神論が教えるものである。

2 聖書は、同流の理念を教える多くの章句を与える。古典的な場合は、ヨセフがエジプトに売られたことである。それは兄弟たちの行為であったが、他方、神の行為でもあった。兄弟たちはヨセフに対して罪を犯したのは、他方、神は彼らの命を救うため彼らの罪を抑制していた。「ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」(創世紀45:4-5)。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(創世紀50:20)。同流の他の明らかな場合は、モーセがファラオに語ることである。それは神の言葉である同時にモーセ自身の言葉である。「主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」(出エジプト4:11-12)。同流の基本的理念は箴言21:1において述べられている。「主の御手にあって王の心は水路のよう。主は御旨のままにその方向を定められる」。この原則の適用がエズラ記6:22において記されているアッシリアの王の場合に見られる。「そして七日間にわたって、喜び祝いつつ除酵祭を行った。主がアッシリアの王の心を彼らに向け、イスラエルの神の神殿を再建する工事を支援させて、彼らに喜びを与えられたからである」。罪の事柄においてさえも、神は同流すること(concurring)が描かれている。「三か月の間、主の箱はガト人オベド・エドムの家にあった。主はオベド・エドムとその家の者一同を祝福された」(サムエル下16:11)。「その霊は、『わたしは行って、彼のすべての預言者たちの口を通して偽りを言う霊となります』と答えました。主は、『あなたは彼を唆して、必ず目的を達することができるにちがいない。行って、そのとおりにせよ』と言われました」(列王上22:22-23)。わたしたちは、使徒言行録2:23において、十字架が神の前もって定められたみわざであり、また邪悪な人々のわざでもあったことをすでに注目してきた。

 ベルコフは、同流のこの教理に関する三つの誤りに対して警告している。

1.それは力の一般的な交流(a general communication of powers)であり、特殊な行為を決定するものではない。そのような見解は、人間はコントロールされているということを究極的に意味する。

2.神は御自分の側を行為し、人間は人間の側を行為する。「各行為はまったき神の行為であり、また、被造物の行為である」(Berkhof.,op.cit.p.172)。神の意志から独立したものは何もない。神は、こうして、被造物のどの行為にも関与している。神は被造物自身が行為することを定めたので、こうして、被造物は神の意志を遂行する。

3.神のみわざと被造物は共同的で(co-ordinate)ある。神の意志は常に優先性を持つ。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ2;13)。

 

 これらの誤った見解を見たので、神の同流についての特徴を今や見てみよう。

1.それは論理的な意味において前もって定められている(predeterming)が、必然的に一時的な意味ではない。わたしたちが、世界におけるどの行為もその下に神の行為を持っていることに注目した。神からのこの動き(this movement)は、行為にあるのでなくて、被造物自身にある。神は、こうして、可能にし促すが、他方、被造物は自由に行為する。聖書はこのことを認めている。「働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」(コリント一12:6)。再びエフェソ1:11において、わたしたちは古典的な叙述を持つ。「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」。これらの章句から、神は御自分が前もって定めた目標へ向かってすべてのものを支配し、働かせることを、わたしたちは明らかに見るのである。

2.それは同時に同流でもある。神は、わたしたちを行為に動かす一つのもの(one moving)であるだけでなく、神は、もしそれが継続するならば、どの瞬間のどの行為も保持し伴うに違いない。パウロは、わたしたちは神の内に生き、動き、また、わたしたちの存在を持つことを認めている(使徒言行録17:28)。

3.それは同時的な同流でもある。このことは、もし、行為が起こるならば、神の行為は被造物のどの行為にも伴うに違いないという事実から生じる。

 

 神の同流と罪の関係は大きな問題として残る。ペラギス派、セミ・ペラギウス派、アルミニウス主義は、神の同流は前って定められているという理念を拒否する。何故なら、このことは、論理的に神が罪の作者になることを意味するからである。改革派神学者たちは、このことを知っているが、聖書に明らかに教えられているように、道徳的な被造物の自由な行為に対する神の絶対的な支配を否定することをしようとしないからである(上記の引用を見よ)。この立場を認めて、ベルコフは、この主題についての改革派神学の教えを再び要約している。

1.罪深い行為も、神の前もって定められた目的にしたがって、神の支配下にあるが、しかし、それは許容によってのみであり(only by permission)、その結果、神は罪深い行為の効果因(the efficient cause)ではない(創世紀45:5、50:19-20、出エジプト10:1、20、サムエル下16:10-11、イザヤ10:5-7、使徒言行録2:6、4:27-28)。

2.神はしばしば罪人の踏み深いわざを抑制する(創世紀3:6、ヨブ1:12、2:6、詩編76:10、イザヤ10:15、使徒言行録7:51)。

3.神は悪を善に変える(創世紀50:20、詩編76:10、使徒言行録3:13)(Ibid.p.174)。

 ベルクーワは、許容へのこの訴えが満足的かどうかを問う。彼は、カルヴァンが許容の理念を拒否していることを引用する。『カルヴァンは、それゆえ、神の許容の理念を聖書的洞察の曖昧さ(an obscuration)と考えた』(Ibid.,p.149 citing Calvin’s Institutes,Ⅰ,18,4)。もし、許容が聖定を描くのに用いられるならば、そのとき、わたしたちはカルヴァンと一致する。もし、他方、聖定と聖定の遂行の間に明白な区別がなされるならば、そのとき許容という用語が用いられる。換言すれば、神は起こり来るすべてのことを積極的に聖定する。摂理における聖定の遂行において、神は罪人が御自分の認識できる意志に反し、その行為は神の隠れて定められた意志にしたがっている(according to his secret ,decretive will)ことになるが、行為することを許容するのである。被造物は自分の行為のすべてに対して責任がある。彼は自分の行為における効果的作用者(the efficient agent)のである。彼が、神の恵みによって善を行うことができるとき、そのとき、それは彼の性質においてでなく、あるいは、それを行う彼の能力においてでなく、彼はそれが神の恵みによったことを認めねばならない。他方、彼が神の許容によって罪を犯すとき、彼は十分な罪責と恥を負わねばならない。何故なら、罪は彼自身の罪深い性質と欲望から生じるからである。

 わたしたちは、ベルクーワと共に、神と被造物の行為が如何に関係しているかという全疑問はわたしたちにとって謎として(a mystery)残ることに同意しなければならない。彼は、同流が摂理の第三局面(the third aspect)であるべきか否かを問うが、それは、如何に摂理が働くかという問題について語るときに役に立つ。

 

Ⅶ.非日常的な摂理-奇跡

 もし、歴史のすべてのことが神の摂理の実現であるならば、それは、一般的な法則と原則の下で起こることをわたしたちは考えるが、では、わたしたちは聖書に記録されている奇跡をどのように説明するのか。神学者たちは、通常の摂理と非日常的な摂理(ordinary providence and extraordinary providence)を区別してきた。通常の摂理は、その中において、神が自然法則と一致して第二原因を用いることである。非日常的な摂理は、その中で神が直接的に(immediately)あるいは、通常の働きにおける第二原因の使用なしに(without use of the second cause)働くことである。「奇跡的な行為における顕著なことは、それは神の超自然的な力の行使から結果することである」(Berkhof,op.cit.p.176)。

 フクセマは、神の自然的みわざと超自然的みわざの区別に批判的である。「神の言葉から、神のすべてのみわざは驚くべきもの(wonders)であることが明らかである。何故なら、それらは神の神のみわざとして、驚嘆すべきものである(marvelous)からである。この理由のゆえに、どのことが自然的であるか超自然的であるかという疑問は、奇跡についての理念との関連においてしばしば議論されてきたが、極めて不適切であり、神と世界の間の関係についての誤った概念に基づいている。その疑問は改革派神学には適切には属さないのである。それは真に理神論的概念である。というのは、神の摂理についての改革派の概念を信じる者は誰でも、自然的なものと超自然的なものの区別が偽りであることを理解し、告白するからである・・・自然はそれ自体で働くのではない・・・自然的なものと超自然的なもののことごとくは、神のみわざの保持と統治の御腕なのである」(Op.cit.p.241-242)。

 奇跡を表すところのヘブライ語とギリシャ語における幾つかの言葉がある。ヘブライ語פלא:para:パーラーは、それは分離する(to seprate)、驚くべきも、非日常的なものとのとする(to make waonderful,extraoridinal)、することを意味し、ギリシャ語によってθαυμα:thaumaと訳され、驚くべきわざ(marvelous work)を意味する。他のヘブライ語はמפת:mophet:モウフェートで、「しるしと奇跡」(singns and wonders)を意味するאתת ומפתים:othoth umophethim:オーソー ウー モウフェティームという句において、אתוח:othoth:オーソース、ギリシャ語では、σημεια  και  τέρατα:semeia kai terata:セーメイア カイ テラタと訳されて、共にしばしば用いられる。奇跡はヘブライ語で、「力あるわざ」(mighty work): גברות:ゲブロース、ギリシャ語では、δυνάμεις

:dunameis:デュナメイスあるいはέργα μεγαλεια:erga megaleia:エルガ メガレイアと呼ばれる。

 ある者たちは、奇跡を自然法則と矛盾するものと定義しようとした。これは、ローマ・カトリックの神学者たちによって一般的に主張された見解である。カイパーはこれを拒否した。「奇跡は、こうして、自然的なことの流れの中への神による折々の介入ではない。というのは、何事も、神を離れた何かの力によって起こるのではないからである。奇跡は、『そのことが、それまで神により起こることが望まれていた瞬間までと異となって、神が所与の瞬間にあることが起こることを望んだこと以上の何ものでもないからである』」(Kuyper,E.Voto,Ⅰ.p.240as cited by Berkouwer、op.cit.p.213)。ベルクーワは、この定義は奇跡の否定ではなく、自然への反対においてなされたところの理念の否定なのであることを指摘している。「奇跡は自然の固定化された秩序において神による折々の介入ではないのである」(Berkouwer,op.cit.p.214)。出エジプト34:10は奇跡についてのこの概念を確証している。「だが、もし主が新しいことを創始されて、大地が口を開き、彼らと彼らに属するものすべてを呑み込み、彼らが生きたまま陰府に落ちるならば、この者たちが主をないがしろにしたことをあなたたちは知るであろう」(民数記16:30、エレミヤ31:22、イザヤ48:6以下も見よ)。ウォルター・シャントリィ(Walter Chantry)は、「使徒たちのしるし」(The Sings of the Apostels)という名の優れた小さな書において、奇跡を実質的に同じ仕方で定義している。「奇跡は、それゆえ、人々に畏怖される注目(the awed attention)を要求する神の力の非日常的なみわざである」(London:The Banner of Truth Trust,1973 p.14)。

 聖書には奇跡の三つの主な期間がある。モーセと出エジプト、エリヤとエリシャ、キリストのときである。モーセは、自分がエジプトに行ったとき信じられなかったであろうことを心配した。神は彼に杖が蛇に変る、あるいは、蛇が杖に戻る奇跡を行う力を与えた。モーセのこの最初の奇跡はイスラエルとエジプト人へのしるしとして与えられた。「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる」(出エジプト4:5)。再び、神は彼に手をハンセン氏病になる、あるいは、ハンセン氏病から普通の腕に戻る奇跡を与えた。「主は更に、『あなたの手をふところに入れなさい」と言われた。モーセは手をふところに入れ、それから出してみると、驚いたことには、手は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。主が、『手をふところに戻すがよい』と言われたので、ふところに戻し、それから出してみると、元の肌になっていた」(出エジプト4:6-7)。換言すれば、モーセによってなされた奇跡は、神の代弁者(God’s spokesman)として彼の権威を確証するためのしるしであった。申命記はモーセのしるしへの言及で終わる(34:10-12)。「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった」。

 このことはモーセだけでなく、エリヤについても真実であった。カルメル山の奇跡は、ヤーウェが神であることを知らせる明白な目的のためであり、エリヤは神の僕であり、代弁者であった(列王上18:36)。

 詩編74:9は、奇跡が真の預言者たちのしるしであることを効果づけることを直接に語る。「わたしたちのためのしるしは見えません。今は預言者もいません。いつまで続くのかを知る者もありません」。シャントリィ(Chantry)は解説する。「換言すれば、しるしがないことは、預言者がいないことと同じである、それは、代わって、『いつまで神はわたしたちから離れておらえるのか』という彼らの疑問に対して何の権威ある答えがないのと同じである・・・奇跡がなされるところで、わたしたちは、語られる神の霊感された言葉を聞くことを期待すべきなのである。預言者のいないところには、しるしはないのである」(Op.cit.p.18)。

 わたしたちが新約聖書に戻るとき、奇跡は旧約聖書においてそうであったように、まさに同じ目的に仕えている。ヨハネは、奇跡を「しるし」(signs)として語った(ヨハネ2:11と20:30-31を見よ)。イエスは、御自分が行ったみわざのゆえに御自分を人々が信じるように呼びかけた。ペトロは、「スラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです」(使徒言行録2:22)という事実に言及してペンテコステのときに説教した。使徒たちは、自分たちが神からの権威ある使者たちである証拠として行った奇跡に訴えた(ガラテヤ3:5、ローマ15:18-19)。ヘブライ2:1-4は、使徒的権威への奇跡としるしの証明について鋭く語る。4節は「更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます」。シャントリィ(Chantry)は次にように結論する。「奇跡は神の新しい啓示をわたしたちにもたらすところの人々の神的使命への証明なのである」(Op.cit.p.26 奇跡の主題が特別啓示の形態として前にこの著作で扱われたのは、啓示へのこの信仰のつながりのゆである)。

 今日、奇跡が今継続しているかどうかという疑問が問われる。ローマと新ペンテコステ派(neo-Pentcostals)は奇跡が継続していることを認める。奇跡についての聖書の目的は、預言者たちと使徒たちの権威を証明することであることをわたしたちが認めるとき、使徒の時代の終わりが奇跡の停止(the cessation of miracles)をもたらすことは明らかである。ベルクーワは、礼典が奇跡のようにしるしであることを考える。しかしながら、違いがある。礼典は新しい啓示をつけ加えないが、奇跡は預言者たちと使徒たちの霊感された啓示と結びついている。ベルクーワは考察する。「人々が後に神の臨在の特別なしるしと新しい啓示をもの欲しそうに憧れ始めたことは、御言葉と礼典の重大な過小評価(a serious devaluation of Word and sacrament)と信仰の力の無力化(an emasculation of the power of faith)を示しているのである。人々は、特別なしるしなしの神は遠い神であるとしばしば考えたのである。彼らは、キリストにおける救いの現実性、そう、キリスト御自身に対する彼らの視野を失ったのである」(Op.cit.pp.242-243)。

 聖書は、奇跡の停止について明白には語っていないが、それらは使徒たちのしるしであるという事実は、使徒の時代の終わりをもって、奇跡も停止したのである。特別啓示の終わりのしるしは、紀元70年のエルサレムと神殿の破壊であったであろう。この出来事は確かにその犠牲制度を伴った古い経綸を終わらせた。その時代は特別啓示、また、その啓示のしるしをもってしるしづけられていた。こうして、その時代の終わりのしるしは、特別啓示と、それを証明するところのしるしの終わりであったのである(奇跡の停止についてのより十分な扱いについては、第16章を見よ)。

 

 

解説

 

「第15章:摂理の神のみわざ」の紹介が終わったので11点の解説をる。まず第1点は、現代思想における摂理の教理の危機についである。スミスは、ベルクーワの「教義学研究:神の摂理」の「序論」に基づいて、現代思想には神に摂理の教理が入る余地がなくされている危機の時代であることを、そのいろいろな原因や理由を挙げながら的確に述べている。宗教改革のときには神の摂理についての力強く生きた信仰告白があったが、その後の理神論、信仰でなく理性の立場に立つ啓蒙主義、カントの不可知論、2度の世界大戦とそれに伴う悲惨な出来事、人生の無意味感と虚無感の拡大、自己の存在への確信が持てない不安と恐れ、自然科学の高度な発展による自然法則によって動く固定化された世界感によって神の摂理が入る余地が無くなった感がする時代となった。思想的には、マルクス、フォイエルバッハ、ニーチェ、フロイト、ハイデッガーなどの影響がある。また、キリスト教においては、19世紀のリッチュル、ハルナックのリベラリズムによりキリスト教が人間主義化されてしまった。こうして、教会とクリスチャンによる神の摂理の教理の力強い告白は影をひそめた危機的状況になったことを、スミスは述べる。それゆえ、今こそ、教会とクリスチャンは神の言葉しっかり立って、神の摂理の教理を力強く生き生きと信仰告白して生きていかねばならない。

 第2点は、摂理についての異った諸見解についてである。スミスは、神の摂理についてのいろいろな見解があることを述べる。具体的には、摂理の出来事を神の予知に限定する立場、神は世界を創造したが、後は、世界自身の力と法則に任せて、保持と統治をしないというペラギウス主義、ソシニウス主義者、18世紀の理神論の立場、これは摂理とは言えないが、歴史と人生を導くのは運命であると考える立場の人々もいる。現代でも占星術によって自分の運命を知ろうとする人々がいる。スミスは、これを無神論的運命論と呼んでいる。日本でも、占い、易、おみくじなどによって将来を知ろうとする習慣があるが、わたしたちクリスチャンは、申命記18:9-14で「あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入ったならば、その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない。あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。あなたが追い払おうとしているこれらの国々の民は、卜者や占い師に尋ねるが、あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない」と命じられているように、そのようなものに頼っては決してならない。わたしたちクリスチャンは、ローマ8:28で約束されているように万事を益としてくださる全能でいつくしみ深い天の父なる神の摂理を固く信頼して生きていくのである。  

なお、ヒットラーは自分の目的を果たすために自分のしていることは神の摂理と主張したが、これはもちろん本来の摂理の教えから逸脱している。スミスは、これを異教的摂理論と呼んで、聖書の摂理の教理とはまった違うことを語っている。自分勝手な目的実現のために神の摂理を語ることは冒涜である。

 第3点は摂理についての聖書的な正しい教えについてである。人間は全的堕落の罪人であるので、自力で神の摂理を知り、認識することはできない。カトリックは、神の創造と摂理を自然的理性で認識できるという自然神学を主張するが誤りである。人間は特別啓示である聖書と聖霊による再生によって救われて、初めて神の摂理を認識できることをスミスが述べる。救いと摂理は密接不可分に結びついている。

 第4点は、保持としての摂理についてである。摂理の二つの要素として、聖書は保持と統治の二つを教えている、保持は、神が創造した世界を、その後も継続的に保持してくださるみわざを特に表わす。ヘブライ1:3で、キリストの保持のみわざについて、「万物をご自分の力ある言葉によって支えておられます」と語られている通りである。

 なお、保持のみわざと神の創造的なみわざの関係について、改革派神学者たちはしばしば「保持は永続的な再創造」と呼んでいるが、その根本意図は創造には神の全能の力が表れているが、それを保持する摂理は一段低い神のみわざと見られないためであった。確かに、カイパーもバーフィンクも「保持は永続的な再創造」と呼んだ。しかし、だからと言って、保持にも無からの創造があるなどとは決して言わず、違いを十分認めた。それにもかかわらず、「保持は永続的な再創造」と呼んだのは摂理のみわざを創造のみわざと比べて過小評価しないためであったことをスミスは語る。なお、聖書は、旧約聖書も新約聖書も、創造と摂理は密接不可分の関係にあることを認めながらも別個の神のみわざと明白に教えていることをスミスは語る。

 第5点は、一般恩恵についである。すなわち、神の摂理のみわざにおいて、クリスチャンもクリスチャンではない人も共に共通に一般的に受ける恩恵があるかどうかが疑問となるが、改革派神学は、マタイ5:45あるいはルカ6:35などに基づいて、一般恩恵、共通恩恵があると告白してきた。一般恩恵、共通恩恵は、罪の赦しと永遠の命よりなる信仰による救いの特別恩恵と違って、自然の恵みや罪が抑制されて文化や社会が成り立つ恵みのことであるが、オランダのスキルダーとアメリカのフクセマは一般恩恵なるものはないと否定し、恵みというものは、そもそも選民のみに与えられるものと主張した。文化や社会が成り立つのは恵みではなく、歴史の基礎、基底、基層と理解した。スキルダーとフクセマは、それぞれが一般恩恵を認めない教派を組織した。

 ベルクーワは、ヨナとニネベの場合における神の寛容という一般恩恵の古典的模範を見い出す。また、ペトロ二3:4において、歴史は終わりに向かって進んでいるというクリスチャンたちの信仰を嘲る人々に対して、神の即座の裁きがなされないことは、神の寛容としての一般恩恵であることとして示す。

 日本のクリスチャンでない人々も神の一般恩恵を受けて日々生きている。自然の恵みを受けていることは、使徒言行録14章17節で明示されている。また、わたしたちクリスチャンもクリスチャンでない人々も共に文化活動ができ、共に社会を構成できるのは一般恩恵による。学問、芸術、娯楽、音楽、趣味、スポーツなども皆すべてが神の一般恩恵である。

第6点は、統治としての摂理についてである。神は被造物を保持するだけではなくて統治もする、すなわち、神は御自身の目的のためにすべてのものを治めるのである。その治め方はすべてのものを治める世界の王としての統治である。また、治め方は、自然は御自分が創造された自然法則に従って納め、理性を持つ者は精神によって治め、クリスチャンは御言葉と聖霊の再生によって治めるのである。また、支配の対象は、一般的にだけでなく、世界の特殊なこと、最も意義の小さなことも含まれる。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(マタイ10:29-30)し、人々の悪い行為も善い行いも神の支配と制御の下にある「くじは膝の上に投げるが/ふさわしい定めはすべて主から与えられる・」(箴言16:33)。

第7点は、神の摂理の支配とキリストの支配との関係についてである。摂理は神の統治、すなわち、三位一体を代表する父なる神の万物支配であるが、では、キリストが出現し、十字架の死と復活を経て昇天し、父なる神に右に座して万物を支配するようになったとき、父なる神の支配はどうなるのか。一切の権を与えられたキリストの万物支配に譲って、父なる神の万物支配は終わったり、無くなったりするのであろうか。すると、支配の様式が変わるだけで父なる神の支配が終わったり、無くなったりはしない。すなわち、父なる神は御自分の右に座すキリストを通して万物支配を継続するのであり、それまでの直接的支配が仲保者主イエス・キリストを通した支配という仲保的支配になったことをスミスは語る。

第8点は、同流についてである。英語では、concurrence(コンカランス)で、同行とも訳されるが、意味は、摂理において、神と被造物の行為の両方が同時に起こることを教えるものである。同流は摂理の生じる方法、仕方を教える。すなわち、摂理は被造物の行為において同時に神のみわざがなされていくのである。この関係性が同流あるいは同行と呼ばれる。聖書は、同流の理念を教える多くの章句を与える。古典的な場合は、ヨセフはエジプトに売られたが、それは兄弟たちの行為であったが、他方、神の行為でもあり、後に兄弟たちを飢饉から救うため、神は彼らの罪を抑制していた。また、モーセがファラオに語った言葉は、神の言葉である同時にモーセ自身の言葉でもあった。「主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」(出エジプト4:11-12)。同流の基本的理念は箴言21:1において「主の御手にあって王の心は水路のよう。主は御旨のままにその方向を定められる」と述べられている。

このように考えると、同流における罪の問題が出てくる。被造物の行為は同時に神のみわざであるとなると、被造物が罪を犯すことは、神が罪の作者にならないかという問題が生じるが、改革派神学においては、罪は神の許容と理解してきた。すなわち、その意図は、神に罪の責任はなく、罪の責任はまったく被造物にあることを意味する仕方における神のみわざなのである。この典型的な例は、使徒言行録2:6、4:27-28のペンテコステのペトロの説教で、ペトロは、彼らがイエスを十字架につけて重大な罪を犯したこと、しかし、それは彼らを第二原因として用いる神があらかじめ定めたことであり、イエスの十字架の死は人間の罪であると同時に共に神の聖定のみわざであることを明白に語っていることをスミスは述べる。こうして、改革派神学は神の摂理における人間の罪は許容と語ってきたが、スミスは、ベルクーワは使い、神と被造物の行為が如何に関係しているかという全疑問はわたしたちにとって謎として残ることに同意しなければならないというベルクーワの発言を記す。

なお、ベルクーワの「教義学研究:神の摂理」の「第五章:第三局面?」を読むと、ベルクーワは、摂理の二つの要素として保持と統治が語られてきたが、その二つに並べて、同流を第三の要素、第三の局面として導入する必要はなないことを語っている。しかし、ベルクーワは、神の摂理的支配と人間の自由な行動の関係、また、神の行為と人間の行為の関係は合理的には説明できないことを確認することが大切であることを語る。無理をして、原因結果の人間の因果律に偉大な神を閉じ込めてはいけないことを語っている。

なお、スミスは、ベルコフの「組織神学」に倣って、保持としての摂理、統治としての摂理、同流としての摂理の三本立てで摂理論を扱っているが、その理由は、三本立てで摂理論を扱うことがよいかどうかは疑問であるが、しかし、同流は如何に摂理が働くかという問題について語るときに役に立つという理由で、3本立てで扱っている。

 第9点は、摂理における奇跡の問題についである。奇跡については、スミスはすでに「第4章:特別啓示」において、啓示の形態として預言、神現、奇跡、象徴として扱ったが、ここでは非日常的な摂理として扱うし、また「第16章:人間の創造」でも扱う。すなわち、摂理においては、通常、神は第二原因を用いて摂理的支配を行うが、第二原因を用いないで直接、神が行うみわざが奇跡である。なお、カトリックは、神の自然的みわざと超自然的みわざの区別をして、奇跡は超自然的なものへの神の超自然的介入と理解した。しかし、フクセマは、改革派神学はそのような理解の仕方はしなかった述べていることをスミスは引用して述べる。すなわち、神のすべてのみわざは驚くべきものであることが明らかである。この理由のゆえに、どのことが自然的であり、超自然的であるかという疑問は、改革派に極めて不適切であり、神と世界の間の関係についての誤った概念に基づいていて、改革派神学はこの考え方をしなかった。改革派は、自然的なものと超自然的なものの区別が偽りであることを理解し告白してきた。改革派は、自然がそれ自体で働くのではなく、すべてが神のみわざの保持と統治の御腕なのであると言ったことを、スミスは紹介する。

 聖書には奇跡の三つの主な期間があり、それらはモーセと出エジプト、エリヤとエリシャ、キリストのときである。モーセの奇跡は、神の代弁者として彼の権威を確証するためのしるしであった。エリヤのカルメル山の奇跡は、ヤーウェが神であることを知らせる明白な目的のためであり、エリヤは神の僕であり、代弁者であることの権威を確証するためであった。新約聖書においては、イエスは、御自分が行った奇跡のゆえに御自自分を神の子、約束の救い主メシアと人々が信じるように呼びかけた。ペトロは、ペンテコステのときに説教し、使徒たちは、自分たちが神からの権威ある使者たちである証拠として行った奇跡に訴えた。そこで、シャントリィは、「奇跡は神の新しい啓示をわたしたちにもたらすところの人々の神的使命への証明なのである」と正しく結論した。

 なお、奇跡の継続の問題があるが、ローマと新ペンテコステ派は奇跡の継続を認めるが、これは誤りである。何故なら、奇跡の目的は、預言者たちと使徒たちの権威を証明することであるので、使徒の時代の終わりが奇跡の停止をもたらすことは疑いなく明らかであるからである。ベルクーワは、奇跡が継続していなければ、キリスト教が力がないかのように考えることは、御言葉と礼典の効力を過小評価し、信仰そのものの無力化を示すと言う。奇跡が停止しても、キリストによる救い、また、キリスト御自身の臨在は十分強いのであり、今日の教会とクリスチャンにとって何も不足はないことをベルクーワは述べる。本当にそうである。主イエス・キリスト御自身が世の終わりまで共にいてくださるのであり、恵みの手段の御言葉と礼典と祈りがある今、何の不足があろうか。何もない。教会とクリスチャンは主イエス・キリスト共に世の終わりまで力強く進んで行くのである。

 なお、奇跡の停止については、わたし(佐々木稔)はウェストミンスター信仰告白第1章第1節にしたがって、聖書啓示の完結と共に啓示としての奇跡が停止したと覚えてきた。そして、年代的には最後の使徒ヨハネの死と共に、あるいは、ヨハネ文書をもって停止したので、1世紀末と理解してきたが、スミスは紀元70年のエルサレム陥落を挙げている。エルサレム陥落をもって啓示が停止したであろうとの見解があることをわたし初めて知った。啓示としての奇跡の停止については、拙著「ウェストミンスター信仰告白の解説」「第1章:聖書について」の「第1節:聖書の必要性」を参照のこと。

 第10点は、スミスは述べていないが、摂理の統治の対象はすべてのものであるが、もちろん、地上の国家も入る。では、国家はどのように摂理において統治、支配されるかについて、バルトは国家のキリスト論的基礎づけをという独創的な見解を主張し、ローマ13章を根拠にする。すなわち、クリスチャンは、そこに出てくる「権威」と「支配者」たちは地上の国家を表すが、同時に、国家の背後にいる天使たちを表している。そして、クリスチャンが国家に従うのは、国家の背後にいる神の僕の天使がいるからと考えた。この場合には、国家はキリストの王的権威に束縛されているので、クリスチャンは国家に従い、国家を尊敬する。天使たちは、原則的にはイエス・キリストの支配下にあり、武装解除されている。しかし、それでもイエス・キリストに反逆して、デーモン化し、悪魔化して、国家に悪い影響を与えることができる。そうなると、黙示録13章のように国家は堕落して、デーモン化し、悪魔化する。この場合には、教会は、デーモン化した国家をイエス・キリストの支配下にある国家とは認められないと考える。

 以上はバルトの考えであるが、ベルクーワはバルトのローマ13章の国家の背後に天使がいて、天使の権威ゆえに国家に従うという新しい釈義は無理があると批判する。何故ならローマ13章の権威は、神による制度としての国家で、国家は神から与えられた権威をもっているので、すべての人が服従すべきことを教えていることは極めて明白で疑いを入れないからである。天使の権威などローマ13章にはまったく述べられていない。このことは、ペトロ一2:13.14、17で「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。・・・すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」とあることからも十分理解できる。ペトロは人が立てた制度であってもそこに神の権威を認めて従うべきことを十分教えている。また、バルトは、国家はキイエス・リストに支配されると基礎づけるが、では、イエス・キリストが出現していない以前の国家は何によって基礎づけられるのかという大きな疑問が出てくるが、それに対して、バルトは、やはりイエス・キリストによると主張する、すなわち、イエス・キリストへの将来の服従によって成り立っていると言うが、この釈義も無理である。

 ベルクーワは、正しい見解は、改革派神学が理解してきたように、国家は仲保者イエス・キリストが出現する以前から、神に造られた制度として、神から権威を与えられているので、誰もが従うべきなのである。なお、イエス・キリストが出現し、十字架の死と復活を経て昇天してからは、神が御自分の右に座すキリストを通して国家を支配するのであり、国家はますます神への奉仕への召しに強化されたのである。国家のデーモン化、悪魔化は国家が神から委ねられた権威の限界を踏み越えたときに生じることを、ベルクーワは述べて、バルトの国家の天使論的基礎づけは聖書のローマ13章の釈義に基づかないことを明らかにした。バルト神学には問題が多い。バルトの独創的な見解は文脈を踏まえた健全な釈義とは思えない。この件については、拙著「G.C,ベルクーワ:教義学研究-その紹介と解説-」の「第4巻:神の摂理」の「4.国家は天使の権威と深く結びついているか」、「ウェストミンスター信仰告白の解説」の「第23章 国家的為政者について」の「第1節 国家的為政者を立てることは神の定め」、日本基督改革派教会三十周年記念宣言」の「教会と国家に関する信仰の宣言」を参照のこと。

 第11点は、スミスが本章で引用しているウォルター・シャントリー(Walter Schantry)についてである。彼は1938年に生まれ、長老派教会で育った。1964年にウェストミンスター神学校卒業後、Grace Baptist Churchの牧師として活躍す。著作は下記のようである。

The Signs of the Apostels

Imputation of Righteouness & Covenant Theology

Baptism and Covenant

Shadow of the Cross

The Fatherhood of God

 

http://minoru.la.coocan.jp/morton14.html