キリストの人格 

 

序論

 

 わたしたちが、救拯論についてのわたしたちの研究において、キリストの人格に来るとき、わたしたちは、ここでは、恵みの契約の仲保者としての彼の人格についてのわたしたちの考察に限定することに注目されるべきである。彼の三位一体内関係に関するところのそれらの論題は、神学の「論題」の下に(under the locus of Theology)属する。契約の仲保者についての本質的な必要条件(the essential requisites)は、ウェストミンスター大教理問答も38問から42問に提示されている。わたしたちは、これらの必要条件を次のように要約できよう。仲保者は真に神であり、真に人間であり、彼は一人格であると。この章におけるわたしたちの目的は、これらの各題目を吟味することである。

 

Ⅰ.キリストは真に神である

 

 聖書は、キリストが真に神であることを明らかに教えている。わたしたちは、三位一体の教理についてのわたしたちの研究において、彼は三位一体の第二人格であることをすでに見た。キリストの神性(the Deity)についての聖書的な証拠についての幾つかを吟味することは適切である。

 

A.  旧約聖書はメシアの神性の証言している

 

1. 出エジプト3:1-14

 

 この章句において、神は燃える柴の中においてモーセに現れた。特に、彼は「わたしはある。わたしはあるという者だ」(I AM that I Am)という名前をもって身元を明かした。彼が、旧約聖書において御自身を啓示したところの「わたしはある」(I Am)であることのイエス自身の主張に基づいて、この章句をメシア的と見ることは適切である。燃える柴の中に現れたのは主の天使(the Angel of the Jehovah)であることが考察されるべきである。こうして、わたしたちは、神との区別を見、また、神における区別される人格(位格)があることを理解するときにのみ、理解され得るところの神との同一性を見るのである。

 わたしたちの目的にとっての「わたしちはある」(I Am)というこの名前の特別な意義は、イエスはそれを御自身に当てはめたことを認めることである。ヨハネ8:58において、彼は言った。「イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』。ヨハネは、これらの同じ言葉で御自身に言及するとき、他の機会も記録している。それは、裏切りのときである。「イエスが『わたしである』と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた」(ヨハネ18:6)。彼らは彼の神性の前に立っていることができなかったことが明らかである。彼は、こうして、彼らの手に御自身を自発的に与えたのである。

 御自身に言及するイエスによるこの表現の使用は、御自身に対する神的大権(the divine prerogative)を主張することであった。彼は、永遠性を主張したし、また、神の不変性の性格を御自身のものとして主張した。ユダヤ人は、ヨハネ8章において、彼を石で打とうとした。彼は、彼らがどのような仕方においてでも誤解していたことを暗示していないのである。

 燃える柴の中において見い出されるべき本質的な絵は、神の不変性(the unchanging of God)である。14節において、神がモーセに与えた名前は、この同じ要点を表している。「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわ』たしをあなたたちに遣わされたのだと」」(この名前扱いのためには、「第8章 神の名」を見よ)。

 

2. 詩編2:7

 

 詩編第2編は、油注ぎ(anointing)についての聖定を導入する。「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ」。問題は、この宣言が如何に理解されるべきかである。

 

a.第2編を、神の第一人格と第二人格の間に常に存在したところの永遠的で内在的な関係性への言及として解釈することも可能である。聖定への言及は、必ずしも聖定によって決定されるところのものへの言及ではなく、むしろ、同じもの(a decree of identification)についての聖定(a decree of identification)に言及し得る。こうして、その意味は、聖定が関しているお方は、神の御子なのである。その人格は神の御子として同一視され、また、神は、神が彼を神とのこの関係において同一視することにおいて語ったところのことを繰り返しているのである。もし、その章句がこの仕方で解釈されるならば、そのとき、「今日、わたしはお前を生んだ」という第2の文章は、サムエル下7:14の類比の「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と一致するのである。第2の文章は、そのとき、最初の文章との単純な付随するものであり、また、父と子の継続的な関係への言及なのである。

 

b.両方の文章をメシア的御子性(the messianic sonship)に言及するものとして解釈することも可能である。それらは、そのとき、メシア的な同一性(the messianic identity or the messianic investiture)あるいはメシア的な就任(the messianic investure)に言及する。その詩編の行き渡る思想はこれである。第2節は油注がれた者(the anointed)について語る。第6節はメシア的な就任について語る。8節と9節は約束されたところの継業(the inheritance that is promised)について語り、そして、こうして、メシア的王国(the messianic kingdom)について語る。10節と11節は、メシア的な王国との関連における適切な姿勢をしっかり教え込んでいる。7節は、こうして、それによってキリストがメシア的な職務(the messianic office)に就任される聖定への言及であろうし、あるいは、彼の就任と神の子としての戴冠式(coronation)を語り得るであろう。最初の文章はメシア的な関係(the messianic relation)に言及し、第2の文章は就任に言及するであろう。

c.最初の文章を三位一体内の存在論的な関係に言及すると見ることも可能であり、また、第2の文章をメシア的な任命あるいは就任(the messianic appointment or investiture)に言及すると見ることも可能である。詩編89:26-27が、この種の構造と意味を持つと思われる「彼はわたしに呼びかけるであろう/あなたはわたしの父/わたしの神、救いの岩、と。わたしは彼を長子とし/地の諸王の中で最も高い位に就ける」。詩編2:7についてのこれらのいろいろな可能な解釈についてある結論を求めるならば、わたしたちは、その章句についての新約聖書に当たることが必要である。詩編2:7は、ヘブライ1:5、5:5、使徒言行録13:33に引用されている。

 

ヘブライ1:5

 

 この節においては、詩編2編とサムエル下7:14の両方が引用されている。問題は、これらの章句の存在論的解釈かあるいはメシア的な解釈のどちらが有利さを与えるかというヘブライの文脈に、何かの兆候があるかどうかである。

 ヘブライ1:2は、3節、6節、8節と同様に存在論的な用語(in ontological terms)において語る。ヘブライ1章における全体の章句の言語は、存在論的な関係で満ちているし、また、前提は、5節における引用は同じ意味を持つであろう。他方、その章句には、メシア的な言及もある。2節は、彼が万物の相続者(heir of  all things)に任命されたことを語る。3節は、摂理の経綸と贖い主としての彼の経綸的なみわざの終わりについて語る。すなわち、わたしたちの罪の清めと高く右に座していることを語る。4節も、メシア的な就任に言及する。彼の状態は、彼の終えられたメシア的なみわざのゆえである。

 詩編2:7とサムエル下17:14の同格(the coordination)それ自身は、詩編2:7のメシア的な解釈に味方する強力な論拠である。サムエル下7:14は、明らかにメシア的な職務と働きへの言及であり、最初はソロモンについて、そして、次にキリストについてである。

 その章の残りも、8節のように、明らかメシア的であるところの言及を持っていて、それは王的な笏に言及し、また、9節は彼の仲間以上の彼の油注ぎに言及している。

 証拠の重さは、詩編2:7をメシア的な仕方で解釈することに傾くように思える。

 

ヘブライ5:5

 

 ここで再び、文脈は、言及が祭司的な職務になされているものとして、明らかにメシア的な任命の一つである。詩編110:4もこの文脈において引用されている。詩編2:7の最初の句は、関係性への言及により適しているし、また、第2の句は、任命への言及により適している。最初の句は、同一視の語りかけを与えているように思える。他方、第2の句は、メシア的な就任について語っていると思える。最初の句は、それゆえ、第2の区が依拠する根拠を示しているであろう。「あなたはわたしの子、それゆえ、わたしはあなたをこの特別な栄誉に定めた(Thou art my Son,and therefore,I have appointed thee to thus unique honor)」。


使徒言行録13:32-33

 

 ここで再び、文脈は、復活させられたことに、また、こうして、彼のメシア的なみわざに言及している。このことは、詩編2編をメシア的な就任への言及としてのわたしたちの理解を有利にする。

 

結論

 

 詩編2:7についての新約聖書の使用は、この文章によってメシア的な言及を明らかに立てている。第2の文章は、そのような言及を疑いもなく持つと思われる。最初の文章は、他方、存在論的で、三位一体内的な関係に言及するかもしれない。それは、メシア的な関係の背後にある。もし、このことが適切な解釈ならば、そのとき、次の意味が引き出される。

1)メシア的な職務はキリストの永遠的な御子性(the eternal Sonship)に依拠する。永遠の御子だけが、メシアの職務の尊厳(the dignity)に資格づけられるであろう。

2)メシア的な職務と働きは、永遠的で、内在的な関係の表われ(expressive of the eternal and immanent relation)である。換言すれば、経綸的な領域の委任は、超経綸的な領域(the super-economic sphere)に適切である。メシア的な職務は、御子が三位一体における父に対して持つところの永遠的な関係を表している。

 

3. 詩編45

 

この詩編は、メシア的として長く見られてきた。詩編45は、ヘブライ(1:8-9、45:7-8を引用)。詩編45編全体に関心があるが、わたしたちは、メシアの人格への直接的な言及を持つところのそれらの節のみを扱おう。

 3節は、メシアの栄光についての一般的な叙述である。彼の美しさは人の子らのだれよりも美しい。彼の人格は、単に人間的であることをはるかに超えている。アレクサンダー(Alexander)は、その節の後半について言う。「その節の後半は、ここで意味されている人格が、一万人の中で一番であり、まったく美しいこと、彼について述べられている美しさは、ことごとくの道徳的で霊的な魅力を包含していること、彼の唇の恵みは、彼の預言者的性格と職務への言及であること、その文章は筋が通っているものと思われ、また、その約束はその最も密接に適切である。4節は、戦士としての王を描いている。彼が戦いのため用意を整えるとき、彼の栄光と威厳が見られる。この節において特に興味深いのは、彼についての用いられている「勇士」(Mighty One: גבור:gibbor:ギッボール)である。これは、イザヤ(9:6)によって遣われた同じ言葉である。事実、5節とのこの節の文脈が考察に入れられる。「力ある神」(Mighty God)という肩書の使用におけるイザヤによるこの詩編への言及があったろう。「あなたの栄え」(thy glory)と「あなたの輝き」(thy majesty)は、死すべきものと区別されて(ヨブ40:10)、あるいは、特別な神の愛顧によって彼らに与えられるものとして(詩編21:6)、常に神の輝きを示すために用いられる(詩編96:6、104:1、111:)

・・・勇士(Mighty)あるいは英雄(Hero)の形容辞(the epithet)と共に、これらの表現の使用は、それは、預言におけるメシアの特徴的な肩書の一つなのであり、彼はここでは、語りかけられる対象であるという以前に語られた結論を確証するのである」(J.A.Alexander,The Psalmen,op.cit.Vol.Ⅰ.p.382)。

 特に、6節と7節は興味深い。ここで、わたしたちは、神として語りかけられる人格を持つ。この構造を避ける試みがなされてきた。たとえば、「神」אלהים:elohim:エロヒーム)が、呼格(a vocative)の代わりに、属格(a genetive)として取られる。これは文法的には可能である。そのとき、読み方は、「神のあなたの王座は世々限りなく」(Thy throne is God for ever and ever)となるであろう。次のようにするのも可能である「あなたの王座は神で世々限りなく」(Thy throne is God for ever and ever)。もし、これらがその句の可能な解釈であるしてさえも、そのときには、その意味は明白ではない。より自然な解釈は、呼格(a vocative)と取るべきである。「あなたの王座は、おお神よ、世々限りなく」(Thy throne ,O God,is for ever and ever)。そのような使用法は聖書のどこにでも見い出される、たとえば、詩編43:1、44:5、48:10、11など)。さらに、このことは、70人訳旧約聖書の理解でもあり。また、ヘブライ人への手紙(1:8)でもある。あるときには、「神」((אלהים:elohim:エロヒーム)が、神性についての意味を持たないで人々に当てはめられることが論じられた。それは、ときどきはこのように用いられるが、しかし、1人の個人(single individual)について用いられてはいない。むしろ、それは、神の裁きの座の職を表すものへの言及を持つ。さらに、詩編のコラの子ら版(the Korahite version)においては、「神」((אלהים:elohim:エロヒーム)という用語は、一般に見られ、また、「主」(Jehovah)よりも。ほとんど神性(deity)のみを表すのである。使用法は、それゆえ、ここでは、まさに人間ではなく、神性に言及するのである。

 神としてのこの語りかけが、彼に油を注ぐ「神、あなたの神」(God.thy God)への言及と共に取られるとき、わたしたちは、三位一体についての啓示の何かを持つのである。ここに神として語りかけられるお方がおり、今度は、彼は彼の神であるお方によって油注がれるのである。再度、彼が「喜びの油を、あなたの仲間を超えて」(with the oil of gladness above thy fellows)注がれることへの言及が、彼は人々と共に数えられるであろうところの事実を暗示するのである。

 

4. 詩編110

 

 これは、旧約聖書の最も明白なメシア的章句の一つである。それは、イエス御自身によってメシア的と明らかに証言された。彼は、御自身の神性をそれに言及することにより防御した。

 「ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。『あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。』彼らが、『ダビデの子です』と言うと、イエスは言われた。『では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。 『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで』と。このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった」(マタイ22:41-46、参照 マルコ12:35-37、ルカ20:41-44)。

 アテキサンダー(Alexander)は、この詩編について、このように彼の注解を紹介している。「これは、第2の詩編(the Second Psalm)にぴったり合うもの(the counterpart)であり、克服しつつあるメシアについての預言者的な絵を完成する。メシア的教理の進展的展開がここにある。すなわち、メシアが王であること(the Kingship of Messiah)が、そこで疑いをかけられ、そして、神の聖定によって確証されたことが、ここで最初に仮定されている。そして、それから、彼の祭司性(the Priesthood)と結びついていることが示され、それは厳粛に宣言され、そして、その永遠性が神的誓いによって確実にされるのである(J.A.Alexander,The Psalmen,op.cit.Vol.Ⅲ.p.101)。

 肩書の後の開始の言葉は、「宣言する」(declaration)あるいは「啓示」(revelation)を意味するנאם:neum:ネウムである。それは、名詞として使用される受け身の分詞である。それは、旧約聖書において、語る人格(the person speaking)を示すとために預言において定まった公式として使われる。נאייהוהם:neum yehowah:ネウム イェホーワーは、しばしば、「主はこう言われる」(thus saith the Lord)と訳される。より文字的には、「主の啓示」(a revelation of Jehovah)であろう。それは、単純に「主は言われる」(Jehovah saith)と訳される。ここでの使用法は、預言者的な叙述について、わたしたちに予期させるのである。

 イスラエルの王は、彼の王国の代表として、主の御座に座ると言われているが、主は、ここで、語りかけられているその人物(the person)が御自身の右に座すように命じている。これは、最高の栄誉の場である。「ここで、右に座すことは、単に漫然とした栄誉(the idle honor)であるだけでなく、尊厳と支配と神の統治における参加に関して、神のまじわりに受け入れることである」(Delitzsch,Commentary on the Psalmas,Edinburgh:T.and T. Clark,1873、Vol.Ⅲ.p. 189)。それは、彼が彼の人格において、神的性質を有し、彼が神の右に座すことができるからである。その詩編の理念は、彼がそこで活動しないというのではなく、むしろ、主が御自身の敵を克服するのは彼を通してなのである。ここで、彼のメシア的な支配への言及は、地上において果たされた彼の救拯的なみわざに基づくのである。キリストがマタイ28:18において「イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」に言及しているのは、これである。神の右へのキリストのこの座すことは、神のすべての敵が完全な服従が果たされるときまで続くのである。そのとき、彼は彼のすべての御国を父に渡し、神がすべてのすべてとなるのである(コリント二15:24-28)。このことが、新約聖書における旧約聖書の最高に引用される節(the most quoted verse)であると言われるのである。それは、父の右に座すキリストを表すすべての章句の基礎となる。

 神の座から支配するところのお方の尊厳は神的尊厳(the divine dignity)以外の何ものでもない。彼はそこに座すことができる。何故なら、彼は神の御子以外の何ものでもないからである。彼御自身が神御自身以外の何ものでもないのである。

 

5. イザヤ4:2

 

 「その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる」。

 ここにわたしたちは、メシアの描写として導入された「若枝」(צמח

:tsemach:ツェマ:branch)という用語を持つ。サムエル下23:4において、主が成長させるあるいは萌え出させるところの救いに言及するこの概念へのより早い言及がある。ここでは、より人格的な性質の言及がある。ここでは、ダビデにまで育てられる「若枝」(a Branch)があるが、この用語はエレミヤによって拾い上げられる(23:5、33:15)。ゼカリヤは、その用語を適切な名称として使う(3:8、6:12)。(詩編132:17も見よ)。

 「主の若枝」(branch of Jehovah)צמח יהוה:tsemach yehowah: ツェマ  イェホーワー)は、いろいろな解釈を与えてきた。最初に、それは、主が萌え出させるところのものに言及する。このことは、エレミヤ(23:5、33:15)によって支援されるように見え、そこでは、それは、主がダビデに若枝を起こすと言われている。神が彼を萌え出させる。第2の見解は、それを「彼が主から萌え出させられた者である」と取る。このことは、単に神が若枝の源であることを意味し、あるいは、もっと強く若枝は主の「子孫」(the offspring of Jehovah)であることを意味する。もし、後者が適切と取られるならば、そのとき、それは、このお方の神性への明白な言及である。

 続く平行句は、人間と対照するものとしての神的なお方(the Divine)への明白な言及である。「この地の結んだ実り」(the fruit of the land)は、その地における起源を持つ。この句は、メシアへの言及であり、その地の実り豊かさへの言及ではないことは、そのような実り豊かさが対照させられる不毛さがない事実からも見られる。むしろ、ここで、対照は、主からの芽とその地からの実の間の対照である。このことは、ローマ1:3-4と9:5のような章句と類似していて、そこはキリストの二つの性質が並べて置かれている。

 「主の若枝」(branch of Jehovah)という表現は、ダビデに言及するエレミヤにおける平行がないという事実に注目することは、興味深いことである。すなわち、わたしたちは、そこに「ダビデの若枝」(Branch of David)の表現を見い出さないのである。代わりに、わたしたちは、神はダビデに至る若枝を育てるという事実を見い出すのである。こうして、そこには、その用語において、ダビデにまで育てられる若枝の神的起源(the divine origin)への言及がある。キリストの神性と人間性への両方への類似した二重の言及が、処女降誕とその名前がインマヌエル(Immanuel)という子の約束において見られるのである。同じことがイザヤ9:6についても真実であり、そこでは、言及は、その名は「力ある神」(the Mighty God)である生まれる子供、与えられる男の子にある。イザヤの同時代の人のミカは、メシアの二つの面の性質(the two –sided nature)も預言した。というのは、彼の出生は古く、そして、それゆえ、彼を主の力において御自身の群れを養うものとしての彼に言及している。

6. イザヤ9:6-7

 

 この章句は、キリストの神についての証言において、旧約聖書における最も明白な個所の一つである。「ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(6節)。

 子供(a child)が生まれ、男の子(a son)が与えられるという冒頭の章句はイザヤ7:14における奇跡的な誕生、インマヌエルの誕生に十分言及している。思想は、彼は子供として約束されたことすべてを果たすのではなく、彼は人間存在として、すなわち、真に人間として生まれるのである。「この子供(a child)の誕生は神の賜物である。彼は子供であるが、しかし、彼は男の子(a son)でもある・・・何故、それゆえ、子供が男の子として生まれるかのかがそのように明らかであるかぎり、この子供は男の子と示されるのか。彼は、もちろん、ダビデの子(a son of David )であり、ダビデの王座の合法的な世継である。というのは、彼は、すべてその責任をもって統治を担うからであり、また、これを彼はダビデの王座に座して行うからである・・・もし、この子供がダビデの王座の合法的な世継なら、彼がダビデの子ということは、不必要なことである。しかしながら、イザヤが、彼を男の子(son)と呼ぶとき、より大きな言及を心にもっていたに違いない。ここで強調されているのは、ヘブライ人への手紙1章2節において、「神は御子において語られました」(God has spoken in a Son)の節においてのように子であること(sonship)の事実なのである。子供(the Child)は子(the Son)として、ユニークな子(a unique Son)として、特に(a Son par excellence)子として生まれたのである」(Young,The Book of Isaiah,Grand Rapids:William.B.Eerdmans Publishing Company,1965 Vol.Ⅰ.p.329-330)。

 わたしたちが、彼に与えられた名に来るとき、わたしたちは、メシアの神性についてのいろいろな意味を排除しないためのいろいろな企てがなされたことを見い出す。ユダヤ人の学者のキンチ(Kinchi)は、その章句を次のように訳す。「神は、彼は霊妙、議士、力ある神、永遠の父であり、また、そのように呼ばれるが、彼の名を平和の君と呼ぶ」(The God,who is called and is Wonder.Counsellor,the mighty Gpd,the eternal Father,call his name the Prince of Peace)(Cited by Young,Isaiah,Vol.Ⅰ.p.332、footnote 73 from Louis Finkelstein,The Commentary of David Kimchi on Isaiah,1926 p.62)。カルヴァンは、言葉の順序は翻訳のこの型に反することを指摘した最初の人であった。「その名」(his name)という用語は、文章の主語によって名それ自身から分離され得ない。もし、「ויקרא:wayiqra:ワイクラー:唱えられる」という動詞の主語は何か」という疑問が問われるならば、それは、一般的なヘブライ語の使用法への言及によって答えられよう。英語においては、次のように訳される。「人は呼ぶであろう」(One will call)、あるいは、「人は呼んだ」(One has called)、あるいは、しばしば、「彼の名は呼ばれる」(his name shall be called)である。このことは、上に述べた言葉の順序の困難を避けるのである。

 肩書の数については、多くの見解の違いがある。たとえば、ウルガタ・ラテン語聖書は、6節を、Admirabilis,Consiliarius,Deus,Fortis, Pater future saeculi,Princips pacis(驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君)と訳している。キング・ジャームス訳とアメリカ標準訳(American Standard Versions)は、5つの名を与えている。他方、4つの名として取られるべきと信じる十分な理由がある。もし、このことがその場合ならば、そのとき、著しい左右対称(a remarkable symmetry)が見られる。各々の名は2つのヘブライ語を含む。それらは、פלא יועץ:pele yoets:ペレ ヨーエーツ:驚くべき指導者、אל גבור:el gibor:エール ギッボウル:力ある神、אבך עד:avi ad:アビー アド:永遠の父: שר שלום:ser schalom:セール シャーローム:平和の君である。

 さらに、各々のペアは、神的な、また、人間的な言及の両方(both a divine an a human reference)を含む。最初の2つの肩書においては、神的の、他方、最後の2つの肩書は最後の言葉において神的言及を見い出すのである。

 

「驚くべき指導者」

(Wonderful Counsellor:פלא יועץ:pele yoets:ペレ ヨーエーツ)

 

 れが、これらの名の最初である。最初の言葉、「驚くべき」(a wonder)は、実は名詞である。それは、יועץ:ヨーエーツ:驚くべき指導者との結びつきにおいて取られるが、しかし、必ずしも依存的な状態にあるわけではない(not necessarily in the construct state)。それゆえ、それは、同格的属格(an appositional genetive)として見られる。そのとき、力は、「驚き-指導者」(wonder- counsellor)である(創世紀16:12、この依存的な状態の模範として、「野生のろば」-「人」:a wild ass-a man)。ヘングステンベルク(Hengstenberg)はこの依存的な状態を好む(Christlogy of the Old Testament:Edinburgh:T.and T.Clark,1856、Vol.Ⅱ.p.87)。彼は言う。指導者(ciunsellor:יועץ:yoets:ヨーエーツ)は、ここで関心がある属性を示していて、他方、驚き(wonder:פלא:pele :ペレ)は、王がこの属性を所有していることにおいて、超自然的で、超人間的な程度を指摘しているのであり、また、そのような王において見い出される慰めと助けとの無限の豊かさを指摘しているのである。指導者(ciunsellor)として、彼は、驚き(a wonder)であり、イザヤ25:1「主よ、あなたはわたしの神/わたしはあなたをあがめ/御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された」、詩編77:15「あなたは奇跡(wonders)を行われる神」、士師記13:18「主の御使いは、『なぜわたしの名を尋ねるのか。それは不思議(wonder:פלא:pele :ペレ)と言う』と答えたと言う」などの節を引用することによって、この言葉に包含された神的意味を強調するところのことごとくのものを絶対的に超えて高く上げられている。すなわち、「わたしの全性質は、驚きであり、計り知れない深さであり、また、それゆえ、人間のどの名によっても表わされ得ない」(Idem.)黙示録19:12は、人間が知らない名を持つキリストについて語り、こうして、彼の性質についての測り知れない栄光をほのめかしている。「まず第1に、王だけの属性について、ここで言われているところのことは、同時に、他のすべての属性についても当てはまるのであり、彼の全性質について真実なのである。王は指導者として驚きなのである。何故なら、彼の全人格が驚きであるからである」(Idem.)。「『驚き』(wonder)というこの言葉の旧約聖書の使用法は、それはここで、メシアを単に非日常的な誰かとしてわたしたちに結論を強いるのではなくて、まさに彼の人格と存在において『驚き』(a Wonder)でもあるのである。彼は、人間の思いと力を超えるところのお方であり、彼は神御自身なのである。その子供(the child)を:פלא:ele :ペレという言葉で示すことは、彼の神性について最も明白な証明をすることなのである・・・一連の名における最初としてこの言葉の位置は驚くべきである(striking)。彼の名は驚きと呼ばれる。わたしたちは、わたしたちがその子供(the child)の名を聞くとき、言わば、神御自身と向かい合った(we were brought head on)のである。それは、彼とのわたしたちの最初の出会いなのである。すべての続いていく名は、この最初の主権的な名に影響されるか、あるいは、この最初の荘厳な名の下に立つのである。わたしたちのために生まれるその子供は『驚き』(Wonder)なのである」(Young,op.cit.p.334-335)。

 

「力ある神」

(the Mighty God: אל גבור:el gibor:エール ギッボウル)

 

 表面的には、この肩書は、そのように示された人物の神性を予言するように見えるが、しかし、他のように教える多くの者たちがいる。とたえば、ジョージ・アダム・スミス(George Adam Smith)は言う。「それゆえ、わたしたちは、これらの名によって、言葉の形而上学的な意味において、神を理解することに躊躇する」(Commentary on Isaiah,New York:A.C.Armstrong and Son,1888 Vol.Ⅰ.p.

135)。彼は、この肩書を、「神-英雄」(god-hero)と訳し、また、それを人間に関するまさに高く挙げられた言語として理解したのである。ある者たちは、それは、裁判所のお世辞(court flattery)の言語においてヒゼキヤ(Hezekiah)を言及していることを示唆する。そのようなものとして、それは、「主の力」(the strength of Jehovah)を意味するヒゼキヤの名の意味についての遊び(a play)として見られる。人々が、ときどき、聖書においては、「神」(god)という名で呼ばれることが指摘されてきた。とたえば、エサウは、創世紀33:10においてそのように呼ばれている。実際、しかしながら、そこで使われた言葉は、エロヒーム(אלהים:elohim:エロヒーム:神)であって、エール(אל:el:エール:主)ではない。さらに、エール(אל:el:エール:主)という言葉は、神以外のものを示すのにはどこでも使われていない。旧約聖書について一般的に真実なことは、イザヤについての真実である。

 「力ある」(mighty)あるいは「英雄」(hero)などと訳されるところのgibor(ギッボウル:力ある)という言葉は、旧約聖書においてはまさに人々にも言及していることが見い出される。しかし、それがエール(אל:el:エール:主)と結びつくときはいつでも常に神性を示す。このことに例外はない。特に意義深いのは、その句は、神への明白な言及として、次の章(10:20)において生じるという事実である。「残りの者が帰って来る。ヤコブの残りの者が、力ある神に」。申命記10:7とネヘミヤ9:32の両方において、「偉大にして勇ましく恐るべき神」(the great,the mighty,the terrible God)という表現が見い出される。エレミヤ32:18においては、それは「偉大であり、力強い神」(the great the mighty God)である。詩編24:8においては、その言葉は、主と結びついて見い出される。「栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主」(Who is the King of glory? Jehovah strong and mighty,Jehova mighty in battle)。ゼファニヤ3:17においては、gibor(ギッボウル:力ある)は、主(Jehovah)と神(אלהים:エロヒーム)の両者と結びついている。

 「お前の主なる神はお前のただ中におられ/勇士であって勝利を与えられる」(ゼファニヤ3:17)。このことについてのすべてから、gibor(ギッボウル:力ある)がエール(?:el:エール:主)と結びついて見い出されるときは、こうして示された人物について予言されているのである。エール(אל:el:エール:主)が形容詞と取られるのか、それとも、同格的な属格(an appositional genetive)と取られるのかが問題とされる。文法的には、どちらを取ることも可能である。形容詞としては、それは「力ある神」(migthy God)と訳されるであろうし、同格的な属格としては、「神、力あるお方」(God,the mighy One)と訳されるであろう。聖書の他のところにおいてこの言葉の他の使用法に基づいて、重要性は形容詞的用法に有利である。

 gibor(ギッボウル:力ある)が、メシアを示すため、少なくとも2つの章句において使われていることを考察することは興味深い。それらは詩編45:4と詩編89:20である。わたしたちは、神性がこの人物(the Person)について予言されていることをすでに考察した。

 このことすべてから、わたしたちは、イザヤ9:6において、「力ある神」(the Mighty God: אל גבור:el gibor:エール ギッボウル)は、生まれる子供(thechild)の神性を断言しているとの結論にわたしたちを明確に導くところのデータの驚くべき結びつきを持つのである。わたしたちは、メシアは、御自身に神的属性をもたらし、また、彼が彼の職務を行使するところの大権を証明するために、旧約聖書の使用法の外に出ていく必要はないのである。この神性と共に、彼は生れ、また、真の人間であるという事実なのである。

 

「永遠の父」

(the Prince of Peace: אבך עד: avi ad:アビー アド:永遠の父)

 

 この肩書についての正確な意義については確実であることは難しい。4つの示唆が与えられてきた。

a.最初のものは、永遠の(עד:ad:アド)を形容詞として取ることである。そうすれば、「永遠の父」(eternal Father)と訳せる。もし、わたしたちが、この見解を取るならば、そのとき、三位一体の第一人格についての父を侵害しない仕方で理解され得る。この章句のどの肩書も、統治を行使するために生まれるこの子供(this Child)を担う。「永遠の父」(eternal Father)は、彼の統治を示すものとして理解され、また、神における彼の本質的な名称(not a reference to his hypostatic designation)への言及ではない。それは、彼の職務と働きへの言及である。もし、このことが心に留められるならば、この肩書を彼に当てはめることに何の困難もない。

 

b.第2の解釈は、それを、彼が永遠の命の父(the father of eternal life)であることへの言及として取ることである。すなわち、彼は、永遠の命の源泉である。

 

c.第3に、それは、「永遠に父であるところのお方」(the One who is forever Father)と訳される。ここでの力点は、彼が永遠の恩恵付与者(the eternal benefactor)である。このことが、彼の支配の性格なのである。それは、永遠の配慮、憐み、愛の支配なのである。「よい羊飼い」(goof shepherd)が、同じ理念についてのあるものを担うのである。

 

d.それは、ときどき、永遠の所有者性(the ownership of eternity)に言及しているものと解釈されてきた。すなわち、「永遠性の所有者」(the possessor of eternity)である。このことは、むしろ、問題の解釈である。それについての厳密な意味は完全には明らかではない。

 

わたしたちが、全章句は彼の王であることの特別な職務への言及であ

ることを思い出すならば、最初の解釈か、それとも、第3の解釈かが採択され得るし、また、全体に十分に一致するものと見られる。彼の統治と支配の父的な性格(the fatherly character)についての省察がある。

「父」(Father)という言葉は、メシアの彼の民に関する質(quality)を示すのである。彼は、彼らに対して父のように行動する。「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず/イスラエルがわたしたちを認めなくても/主よ、あなたはわたしたちの父です。「わたしたちの贖い主」これは永遠の昔からあなたの御名です」(イザヤ63:16)。「父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる」(詩編103:13)。父の質が永遠性という言葉によって定義される。メシアは、永遠の父なのである・・・何とやさしいことか、愛、慰めがここにある・・・永遠に、彼の民に対する父なのである(Young,op.cit.p.339)。

 

「平和の君」

(the Prince of Peace:שר שלום:ser schalom:セール シャーローム) 

 

この預言の文脈は、戦いと圧迫の文脈であり、また、今や、預言者は、メシアの肩書のクライマッククスに上る。彼は「平和の君」(the Prince of Peace)である。「彼は平和を樹立し、彼はそれを求め、それを追求する。積極的な活力において、彼は真のダビデあり、また、平和の愛におけるソロモンなのである。ダビデの下に彼の王国は栄え、また、ソロモンの下にあるように、彼の王国は繁栄する。アロン的な祝福の3つの発言にように、メシアは『平和』の言葉において死んでいくのである(die away)」(Idem.)。戦いの停止が真に平和をもたらすのではないように、戦いの原因、すなわち、罪も除かれねばならぬ。この原因が除かれるときだけ、真の平和が存在し得るのである。真の平和があるためには、真の平和は人間と人間との間においてだけでなく、なおさら重要に神と人間との間に必要である。敵意が神と人間の間から除かれねばならない。わたいたちを神から分離しているのは罪であり、また、神がわたしたちに敵意を持つのは罪である。敵意のこの原因の除去がメシアのみわざである。パウロは、これらの言葉で、信仰による義認の福音を祝している。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」(ローマ5:1)。「実に、キリストはわたしたちの平和であります」エフェソ2:14a)。

彼は、その平和を生み出した君(the Prince)である。彼は、わたしたちを訴えて不利にする証書を破棄し、それを十字架に釘付けにして取り除いたのである。彼絶対的な義を満足させたのであり、その結果、神は、完全な義において、罪人が神御自身との義しい関係において立つということを宣言するのである。罪人との平和であること、神がその罪人を赦し、また、彼に神との平和を与えるのであり、その平和は神の賜物なのである・・・神の平和が人間の心にあるとき、そのとき、世界において人々の間に平和が現れるであろう。

真の平和は、キリストが生まれるから来るのである。その子供(the Child)また彼だけが平和の君である。わたしたちが平和を持ちたいならば、わたしたちが行かねばならぬのは彼のところである」(Ibid.p.340)。

わたしたちがその預言を全体として考察するとき、わたしたちは、この世に生まれるお方を見い出すし、また、神的肩書を担うお方を見い出すのである。各々の肩書において、知恵、憐み、平和の超人間的で、超越的な性格が全面に出ている。わたしたちは、彼が管理するところの王国について担うようにもたらされるところの神的で永遠的な属性を断言するところの一連の呼称を持つのであり、その結果、王国は今から、そして、永遠に、審判と義をもって樹立され、管理されるであろう。神的人物(a Divine Person)以外の何ものもそのような王国を支配できないのである。

 

メシアについての旧約聖書の結論

 

まさに吟味されてきたところの幾つかの章句をもって、メシアについての旧約聖書の概念は、彼が性質を有するという理念を含んでいる。

 

B.  彼の神性についての新約聖書の証言

 

ごくわずかの章句だけが詳しく見られる。わたしたちは、新約聖書の異なった部分についての全体的な教えを、幾つかの章句についての吟味をもって、示すことを求める。

 

1. 福音書

 

 ヨハネの福音書の序言(the Prologue)は、キリストの神性と受肉前の先在を明らかに断言している。

a.  ヨハネ1:1-3、14、18

1節「言葉は神と共にあった」

(ό λογος ήν προς τον θέον)

 

 この句によって表される2つの要素がある。最初に、ロゴス(the Logos)は、神から区別されている。彼は神と共にいた。第2に、彼は、神との永遠の対等関係に(in eternal coordination)いる。同じことが2節にも繰り返されている。ここに、わたしたちの注目が、彼は初めから神と共にいたというその真理に特に向けられる。彼は、神と共にいるようになったのではない。こうして、神とのまじわりがあるだけでなく、このまじわりは彼との永遠の結びつきにある(in eternal association)。

 

「言葉は神であった」

(και τθεος εν ó ογος)

 

 クライマックスがこの句において達している。それは、神とのロゴスとの永遠的な同一性(the eternal identity)を表す。前の節において、彼は神から区別されており、また、今や、彼は神と同意一視されている。二つの人格的な区別がある。彼が永遠にあることは神と共にあるが、しかし、それは、彼が神と共にあることは、神として彼の同一性にある。彼だけが神ではなく、彼は神であるところのすべてである。彼は、すべての属性を所有しているに違いないし、また、神が彼であるところのものにしていることを断言している。「ヨハネは、永遠からあった言葉は、単に神の共に永遠的な仲間(God’s coeternal fellow)ではなくて、永遠の神御自身であったことをわたしたちに理解させようとしているのである」(Warfield,Bibilical Doctrines,New York:Oxford University Press,1929 p.192、Person of Christ, Piladelphia:Presbyterian and Reformed Publishing Company Co.1950 p.53)。これ以上に高い断言はない。ヨハネは、彼が前に共にいたと断言したところのこの人物(the Person)として、同じ性格を持っていることを断言している。

 「言葉」(Logos)という名は、ここにおいてだけ使われていて、14節においては、分離されて(separetely)いる。ヨハネの手紙一1:1において、「命の言葉」(Word of Life)が使われ、また、黙示録19:13において、「神の言葉」(Word of God)が見い出される。これらのすべての使用法は、本質的であり、同じ人物(the same Person)に言及している。ヨハネが、この同じものを物語の部分において(in the narrative section)使っていないことに注目することは興味深い。彼の一般的な使用法は、「イエス」(Jesus)と、折々に「イエス・キリスト」(Jesus Christ)である。ここに、彼はこの人物を示していて、彼がイエスを「言葉」(Logos)として呼ぶところのお方なのである。真の疑問は、ロゴスのこの肩書が受肉前の活動のゆえに彼に属するのか、それとも、それがキリストの超人間的で永遠的な先在のゆえに彼に属するのかである。この疑問に答えることは難しい。しかしながら、ヨハネはここで序言で、その人物の永遠的で超現世的な先在(the eternal and supermundane existence of the Person)を視野に入れているという一つのことは明らかである。ロゴスという肩書の特別な意味が何であれ、ヨハネ1:1-3の単純な叙述に偏見を持たせる必要はない。

 14節は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と読む。この節において、ヨハネは、ロゴスを受肉したお方として同一視している。意義深いことは、ヨハネは、彼が肉となったとき、彼の尊厳と栄光を彼自身からはぎ取るものと考えていないことである。「独り子」(μονογενής:monogenes:モノゲネース)の意味は、決定するのに重要である。というのは、それは、特にキリストと父の関係が描かれるので、三位一体の教理の適切な基礎における相違を作り得るからである。この言葉は、ヨハネの福音書における4つの場合において、まさに生じ、また、ヨハネの手紙一において、キリストに言及して1回生じる(ヨハネ1:14、18、3:16、18:1、ヨハネ一4:9)。他の4つのキリスト論的でない章句があるだけである(ルカ7:12、8:42、9:38、ヘブライ11:17)。

 ヴォス(Vos)が示唆するように、その言葉に関する問題は、その言葉の本来の意味の問題なのであるし、また、その言及なのである。彼は、ある場合には、その言葉の第2部が、明白な趣旨を失うこと、また、実際に「独り」(μονος:monos)に等しいことを示した。その言葉の力は、それゆえ、それが、その子供(the child)は生まれ、また、こうして、高く評価されることが省察されているように、子供への優しさあるいは厳しさの調べを加えることであろう。

 70人訳旧約聖書におけるその言葉の使用法は、まさに描かれたように、その範疇に倒れる。それは、「独り」(onlyを意味する(יחיד

: yachid:ヤーヒード:only)の訳である。生まれが考慮に入れられているただ1ケ所で使われている。士師記11:3で、she was monogenes to himで、訳はアメリカ標準訳では「彼女は彼のただ独りの娘」である。その言葉は、それと共にユーニクさの意味を担う。このことは、ウォフィールドがそれをヨハネ1:18について注解していることにおいて、それを理解している方法であることに注目することは興味深い。「イエス・キリストは、明らかに人間以上である。彼は明らかに神である。彼の実際に明らかにされた栄光を、ヨハネは、さらに「父の独り子としての栄光」(a glory as of the only begotten from the Father)と語る。それは、ユニークである。それは、他においては見られないようなものである。また、そのユニークさは、父から遣わされ、神のユニークな御子が持つところのものとの一致においてまさに存在する。人々は、見たが、しかし、イエス。キリストの内に、神のユニークな神の御子(the unique son of God)を認めることができなかった・・・父から遣わされた神のユニークな神の御子であり、彼は恵みと真理に満ちあふれていて、受肉した言葉の目に見える栄光は、当然明らかになるであろう」(Person and Work of Christ,op.cit.p.55)。

 ウォフィールドは、「独り子」(only begotton)をここで論じては

いないが、しかし、それを単純に「ユニークな」(unique)という言葉によって訳したのである。このことは70人訳旧約聖書の使用法と一致する。ヴォス(Vos)は、他方、その意味について疑問を挙げている。「『独り子』(monogenes)は、それゆえ、同じ関係性からすべての他を排除して『ただ独り』(only)と等しいのである。重要な疑問は、使用の減少がその思想を運ぶことができる用語に訳すことに関連して、-genes(生まれる)という語尾に対するすべての感情をそのように消し去ったかどうかである。そこで望まれるのは、ただの独り子がいないだけでなく、子としての彼の存在の背後に、ただ一つの生むこと(a single begetting)もあったことである。このことに対しては、証拠がないし、また、事柄の性質上、そのような証拠を備えることは容易ではないのである。その言葉の語源はそのように明白なので、可能な回復の制限内でその最初の力を保つのである」(Self Disclosure of Jesus,op.cit.p.213)。

 ヴォスは、「独り子」(only begotton)と「愛される」(beloved)を比較することに進む。彼は、「独り子」(monogenes)を御子が愛されることに対する理由を与えるものとして見る。そのような場合は、ヨハネ3:16にある。彼は、それゆえ、ヨハネによる特別な使用についての研究を展開する。彼は、キリストの受肉以前の状態について何かを教えるために、その言葉の第2の半分への特別な強調をもって、ヨハネがこの言葉を使ったことを信じるべき理由があることを感じている。ヨハネ1:14の文脈は、「となって」(έγενετο:geneto:became:成った)という言葉と12節と13節の「生まれた」(έγεννήθησαν:egennetai:begotten)という言葉を使った。ヨハネ一4:9における文脈は、7節において「生まれ」(γεγένηνται):gegennetai:begotten)を含む。その章句の全体の中心的な主題は、神から生まれたことを巡る。「生まれる」(begetting)あるいは「生まれる」(being born)の理念は、これらの両方の場合において、-genes(生まれる)の意義に有利な強い前提を造り出すのに十分である。このことに1:14と1:18の両方における「由来による天賦の資質」(endowment by derivation)の理念が言及されると思えることが追加されねばならないのである(Self Disclosure of Jesus,op.cit.p.217)。

 キリストの栄光の基準(the standard)を決定するために与えられる2つの理由がある。最初に、それは独り子(only begotten)としての栄光である。そして、第2に、それは、父から受けた栄光である。ヴォスは、「『独り子』(only begotten)としてのそのような栄光を、彼の生まれたこと(his begetting)あるいは誕生(birth)によって持ち、そして、そのようなものとして彼は父から由来したのである」。再度、彼は言う。「独り子」(the Monogenes)は、神を表す。何故なら、彼だけが、神からの由来により、そのような任務のために要求される神と似たもの(the likeness)と知己(acquaintance)を有するのである」(Idem.)

 もし、わたしたちが、「独り子」(the monogenes)という言葉がこのようにまさに「ユニークな」(unique)以上のものを意味するというこの研究から結論するならば、わたしたちは、monogenes(独り子)の第2の部分は、γιννέσθαι:ginneshtai(to be born:生まれることから由来したものと考える、あるいは、γένναν:gennan(to beget:生まれる)から由来したものと考えるかどうかという疑問となお直面する。どちらの解釈も言語学的に可能である。ヨハネ一(3:9、5:1など)における使用法は、わたしたちに、それを「生まれる」(beget)として解釈する理由を与えるのである。このことは、それが神のσπέρμα:sperma(種)と結びついている3:9においてもその場合なのである。

 ヴォスは結論する。「神的な生まれること(the divine generation)の理念は、こうして、ヨハネの第一の手紙において顕著であるが、しかし、このことは、1:13、3:3、5、6、7、8、また、monogenes(独り子)が生じる3つの個所において、福音書におけるこの同じ理念を見い出す有利さにおける前提を造り出すことができない・・・monogenes(独り子)の出現は、信者たちがbegetting(生まれること)の理念が生じる両方の文脈において、Only Begotten(独り子)としての耐えられる確かさをもって、その言葉の意味を固定化するのである」(Self Disclosure of Jesus,op.cit.p.218)。

 ヴォスは、この用語は、父による御子の永遠の生まれること(the eternal generation of the Son by the Father)についての尊ぶべき教理の頼みの綱(the mainstay)の一つであると、続いて指摘する。彼は、それゆえ、永遠に生まれること(eternal generation)に有利な論拠を提示する。最初に、テキスト、ヨハネ1:18の「神の独り子」(God only begotten monogenes theos)が、特にヨハネ1:1の文脈において見られるときに、それをより好むのである。そこでは、ロゴスの神性が断言されている。もし、それがそうならば、それは、異なって訳すことができる。「独り子であり神でもあるところのお方」(one who is both only begotten and God)。神は、そのとき、先在の状態から由来する。他方、独り子であることの性格(the only begotten character)は、受肉から由来する。しかしながら、もし、このことが意図された読み方であるならば、わたしたちは、順序の逆転を期待したであろう。神への言及が最初で、それから、受肉への言及である。それが実際の順序であり、また、14節における序言それ自身の順序でもある。

 ヨハネ5:26と6:57は、キリストは命の伝達(the communication of life)を父から受けるという理念を支持するのに使われている。三位一体内の関係に適用しているこれらの節についての教義学的であることがあり得るかどうかについては異論がある。神の内には従属はないという改革派の理解は、これらの章句が神の内における代わりにメシア的な御子性(the messianic Sonship)に適用されているものとしてよりよく理解されよう。

 ヨハネ3:16、18、ヨハネ一4:9は、世に遣わされた御子は、すでに独り子なるお方(the only begotton One)であった。「それゆえ、キリストが、彼の世への使命から離れて、また、その使命以前にMonogene(独り子)であることは、論争されよう。このことは、確かに唯一の自然な解釈である・・・神が御子を遣わした(sent)という理念、神が彼に御自身の独り子(gave his only begotten Son)を与えたこと(gave)は、もし、「独り子-子の性格」(the Monogenes-filial character)が受肉と共に始まるものと見なされているならば、それ自身の力を奪われている」(Idem.)。

 永遠に生まれること(the eternal generation)に有利な第4番目の論拠は、イエスの御子性(the sonship)と信者の子性(that of the believer)の間には、ヨハネを通して見い出されるという平行である。両方とも性格においてユニークである。両方とも神的行為の結果である。もちろん、処女降誕はそのようなものでもあるが、とはいえ、それは地上的な出来事として生じる。他方、永遠に生まれること(the eternal generation)は、信者が再び生まれる(the rebirth of believer)ように、神秘的な超自然的な関係である。

 論拠の他の側においては、monogenes(独り子)は、受肉が言及された後においてのみ、ヨハネの序言において導入されている(1:14)。それは、序言は、年代記的な順序には必ずしもないことで答えられる。

 第2に、キリストが生まれること(the begetting of Christ)と信者が再び生まれること(the rebirth of believer)の間の比較は、歴史的な出来事に言及するかもしれないが、また、こうして、この用語はメシアの御子性(the messianic Sonship)に言及していて、永遠の御子性ではない(not to eternal Sonship)。

 ヴォスは、もし、その用語が、受肉だけを言及しているものとして理解されるのであれば、そのとき、その用語は、キリストの神性の先在的御子性(a pre-existent Sonship)を証明することは難しい。「もし、直接的で明白にではなく、少なくとも、間接的に含意的に、神的御子性(the divine sonship)が先在的状態に戻される・・・神の自己犠牲は御自身の御子を世に遣わしたという事実にある・・・彼は受肉から離れて、また、受肉前に神の御子であったのである」(Ibid.p.225)。

 

b.  イエスのみわざ-マタイ9:2-6

 

わたしたちが、イエスのみわざを見るとき、わたしたちは、彼についての最初の印象を神的として完全に調和するところのみわざを彼が果たしているのを見るのである。たとえば、マタイ9:2「において、彼は、中風の人に、「すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われ」と言った。この叙述が疑われたとき、彼はさらに言う。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、『起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい』と言われた」(9:6)。ここに、彼の救いのみわざの証明がある。また、罪を赦し、病をいやす神的権威が包含されている事実がある。そのような権威は神おひとりにある。

 

C.  イエスの主張 マタイ11:27、14:33

 

彼は父との同等性を主張した。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(マタイ11:27)。彼は多くの奇跡を行い、御自身の神性を啓示した。水の上を歩いた折りに水を鎮めた。弟子たちは彼を礼拝して応答した。「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」(マタイ14:33)。人々が彼らを礼拝することを求めたとき、パウロとバルナバは、それを拒否したが使徒言行録14:14-15)、しかし、イエスは彼にふさわしいことして、それをここで受け入れたのである。

 

c.  ペテロの告白 マタイ16:16以下

 

マタイ16:16以下において、わたしたちは、イエスはキリストであり、生ける神の御子であるというペテロの告白を持つ。イエスは、この告白を受け入れ、また、そのことでペトロを称賛した。彼は、それから、御自身の教会を建てることについて、確かに、神的大権をもってさらに語る。彼の復活はそれ自身で神性のへ宣言である(ローマ1:4)。復活に続いて、彼は天と地における一切の権を主張する(マタイ28:18)。彼は、人の子として栄光の内に帰ってくることを約束する(マタイ25:31、マルコ8:38)。多くの他の個所が、彼の神性を示すために引用され得る。

 

d.  他の章句

 

わたしたちは、すでに預言者ヨハネに注目した。この福音書は、彼の神性への言及で満ちている。序言の他にも、次の章句が、キリストの神性を表しているものとして、引用されよう。ヨハネ2:24-25、3:16-18、35-36、4:4-15、5:18、20-22、25-27、11:41-44、20:28。ヨハネは、彼の手紙においても同様の証言をしている。たとえば、ヨハネ一1:3、2:23、4:14-15、5:5、10-13、20が、彼の神性を語る。

 イエス御自身がメシアであること、そのような神の御子であることを意識していたかどうかについて、ときどき、疑問が挙げられた。彼の意識についてのわたしたちの研究の唯一の方法は、福音書における彼の言葉と行為にある。ヴォスは、彼の書、「イエスの自己啓示」(Self Disclosure of Jesus)において、この主題について非常に洞察力のある研究をした。ベルコフは言う。「福音書の証言を受け入れる人々にとっては、イエスがまさに神の御子としてのキリストについて意識していたことは疑いがあり得ない」(Berkhof,op.cit.p.317)。マタイ11:27(ルカ10:22)、マタイ21:37-38(マルコ12:6)、マタイ22:41(マルコ13:25-27、ルカ20:41-44)、マタイ24:36(マルコ13:32)、マタイ28:19。イエスが神の第一人格において、「わたしの父」(My Father)として語るところの特別なグループを含む。マタイ7:21、10:32-33、11:27、12:50、15:1、16:17、18:10、19、35、20:23、25:34、26:29、53、ルカ2:49、22:29、24:49。再び、このメシア的な意識が特に見られるヨハネ福音書においてそうである。ヨハネ3:13、5:17-27、6:37-40、8:34-36、10:17-18、30、35、36。

 

2. 手紙と黙示録

 

 わたしたちは、ヨハネの証言を、彼の第一の手紙において彼の福音書の証言との関連ですでに注目した。パウロの手紙の吟味は、彼がキリストのついての高挙された見解を主張したことを示す。ローマ1:4、7、9:5、コリント一2:6、コロサイ2:9、テモテ一3:16。ヘブライ人への手紙も彼の神性を証明している。ヘブライ1:1-3、5、8、4:14、5:8。

 

D.  キリストの神性についてのまとめ

 

チャールズ・ホッジは、キリストの神性についての聖書の教えの優れたまとめをしている。「聖書は、同等の明白さをもって、キリストが真に神であることを宣言している・・・すべての神的名と肩書が彼に適用されている。彼は神、力ある神、偉大な神、すべての上にある神、主(Jehovah)、主(Lord)、主の主(the Lord of Lords)、王の王と呼ばれる。すべての神的属性が彼に帰せられる。彼は遍在、全知、全能、測り知れない、昨日も今日も永遠に変わらないのである。彼は、世界の創造者、保持者、支配者である。すべてのものは彼によって彼のために造られた。また、彼によってすべてのものが存在する。彼はすべての知的な被造物、最高のものでさえもの礼拝の対象である。すべての天使(すなわち、人間と神との間のすべての被造物)が、彼ら自身を彼の前にひれ伏すように命じられている。彼は、すべての宗教的な感情の尊崇の、信仰と献身の対象である。彼に、人間と天使は、彼らの性格と行動で応答する。彼は、人間が父に誉れを与えたように彼に誉れを与えることを要求した。彼は、御自身と神は一つであることを宣言した。彼を見た者は父をも見たのである。彼はすべての人間を身許に召す。彼らの罪を赦すこと、彼らに聖霊を与えること、彼らに安息と平和を与えること、彼らを終わりの日に復活させること、そして、彼らに永遠の命を与えることを約束したのである。神はそれ以上ではないし、それ以上の約束をすることはできないし、あるいは、キリストがそれであること、約束すること、行うこと以上のことを行わないのである。それゆえ、彼は最初から、すべての時代において、すべての場所において、クリスチャンの神なのである。

 

Ⅲ.キリストは、真の人間である

 

A.  彼の人間性(his humanity)についての旧約聖書の証言

 

福音書の最初の約束から、救いは女の子孫(the Seed of woman) (創世紀3:15)を通して来ることが表明されていた。このことは、より以上に言われる必要がほとんどないところのキリストの人間性について明らかに語っている。子孫の約束(the Seed promise)は継続され、また、旧約聖書の預言において再び現れる。神は、アブラハムに子孫を与えることを約束し、また、この子孫を通し、地のすべての国民が祝福されるのである。「子孫」(Seed)は、個人的な用語であると共に集合的用語(a collective term)である。こうして、それは、イスラエルの子らに言及し得るし、また、海の砂のように多いところの子孫にも言及し、また、一人の子孫にも言及する。そのお方はキリストである(ガラテヤ3:16)。

 イスラエルの部族の中で、ユダが子孫の約束が実現されるところの一つの部族として取り出される(創世紀49:8-10)。この部族から特別な家族が選ばれる、すなわち、ダビデの家である(サムエル下7章、詩編89編)。こうして、わたしたちは、メシアの人間性が旧約聖書において明白に表明されているのを見る。人間であるだけでなく、わたしたちは、彼が生まれるところの特別な国民、部族、家族を持つのである。

 わたしたちは、彼の誕生についてさらに語られる。彼は、女から生まれるが、しかし、彼の人格とみわざのユニークさゆえに、それは特別な誕生、すなわち、処女降誕(イザヤ7:14)であらねばならない。人間として、彼は最初の人が主に従順な僕であるべきであったのに、失敗したところの縮図(the epitome)であるべきであった。それが、イザヤの預言によって表わされたところのこの絵の下に、まさにあることなのである。さらに、わたしたちは、そこに、その僕(the Servant)としての彼の苦しみ、また、最後には罪の代価を支払うための犠牲としての彼の死を見るのである(イザヤ53章)。このことと共に、わたしたちは、人間が神に対して果たすべきであるところ、すなわち、預言者、祭司、王であることの種々の職務を果たすのを見るのである。創造されたものとして、人間は、これらのすべての働きを果たすべきであったが、しかし、罪において、人間は3つのすべてにおいて失敗し、また、こうして、やって来て、これらの働きを人間に回復してくださるところのお方を必要としたのである。このことを、わたしたちは、キリストが第二のアダムとして、彼の人間性において行うのを見るのである。

 

B.  彼の人間性についての新約聖書の証言

 

 新約聖書は、イエスの誕生についての説明で始まる。真に、それはユニークで特別な誕生であり、また、とはいえ、その誕生は女から生まれる人間の子供の誕生である(マタイ1章、ルカ2章、ガラテヤ4:4)。わたしたちは、マタイとルカの両方において、イエスの人間の系図を見い出す。彼はダビデの家の出であり、アブラハムの家族の出であり、アダムの子孫である。わたしたちは、彼を「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2:52)少年としてみるのである。わたしたちは、彼が人間の体、痛み、喜び、飢え、渇き、疲労、苦しみ、そして、死に従うのを見る。彼は見ら得るし、感じられ得られる。彼は血と肉を持つし(ヘブライ2:14)、復活後、肉と骨を持った(ルカ24:39)。人間の体に加えて、彼は真実な人間の霊魂を持っていた。このことは、彼が知恵が増したことにおいて見られる。彼は考え、推論し、感じた。彼は喜び、また、悲しんだ。彼は、審判の日を知らない。それゆえ、彼は、有限の人間の知性を持っていた。こうして、真実な体と理性的な霊魂を持ち、彼は真に人間であった。イエスの最も通常の肩書は、「人の子」(Son of Man)の肩書であった。その表現は、福音書に80回も見い出される。

Ⅲ.キリストは一人格である(one person)

 

A.キリストには、二重の人格の如何なる証拠も完全にない。このことは、三位一体において見い出される人格の区別と鋭い対照にある。そこに、わたしたちは、我と汝(I and thou)の関係性を明らかに見い出す。キリストは、彼と父は一つであり、また、とはいえ、別人格として父と呼びかけている。父は、区別された人格として御子に語りかけた。聖霊は、父と子のどちらとも区別された異なった人格として言及されている(ヨハネ15:26)。キリストの内におけるこの種の区別は決して見い出されない。人間的なものが神的なものに語ることの記録はないし、また、神的なものが人間的なものに語ることの記録もない。

 

B.キリストの個的な人格性は、彼に関する単数の代名詞の使用において見られる。彼を描くのに、あたかも、二つの人格があるかのように、複数形は決して用いられない。

 

C.彼は、二つの異なった性質を持つ一人のお方(one person) である。わたしたちは、聖書はキリストを神でもあり人間でもあるところのものとして表わしている。これらの二つの性質の結合は、人格的結合(the Hypostatic Union)と呼ばれる。

 

1. 定義と原則

 

a.  性質は、本質(a substance:hypostasis)として定義される。

 

b.  属性(attribute)、固有性(properties)、力(powers)は、それらが現われであるところの本質を必然的に意味する。

 

c.属性(attributes)は、本質(a substance)から離れては存在し得ない。

 

d.矛盾する属性(incompatble attribute)があるところには、一つ以上の本質があらねばならない。

 

e.一つの本質の属性(the attribute of one substance)が他の属性に変容することはできない。たとえば、物質が物質であることを止め(cease)、また、精神が精神であることを止めるのでなければ、物質は、精神の属性を付与されることができない。あるいは、その逆もできない。

 

2. キリストは、二つの区別される性質を持っていた

 

a.  彼は、神性のすべての属性を持つものとして啓示される。彼は、すべての上にいます神であると宣言される(ローマ9:5)。彼は、全知、全能、永遠と言われる。こうして、彼は真に神に違いない。

 

b.彼は、人間性のすべての属性を所有しているものとして提示されている。こうして、わたしたちは、彼は真に人間であることを決論する。

 

a.カルケドン信条は、彼を「真に神であり真に人であり、理性的霊魂と体を取り、彼の神性に関しては父と同質(of one substance)、同時に、彼の人間性に関してはわたしたちと一つの本質(of one substance )・・・」と宣言している。

3.二つの性質の結合は混合がない(without mixture)

 

 二つの本質の固有性(the poroperties of two substance)は矛盾しないし、また、変容し得ない(non-transferable)。こうして、二つの区別される性質はキリストの一つの人格において結合されていた。

 

4.キリストの人格は神人的人格(神性と人性の両方を持つ人格)

 

 キリストの人格は、神人的人格(theoanthropic)として描かれるが、しかし、彼の性質(his natures)ではない。というのは、このことは、彼が神でもないし、人間でもないことを意味するであろう。受肉後、人格は神的性質と人間的性質の両方を持つのである。聖書の提示は、常に彼は神でもあり人間でもある。二つの性質の結合は人格的結合(a personal union)であり、あるいは、hypostatic union(人格的結合)であった。それは、聖霊が信者たちの内に住むように、まさに神の霊による人格の内住(the indwelling of the Person by the Spirit of God)ではない。それは、まさに道徳的結合(moral union)あるいは共感的結合(sympathetic union)ではない。むしろ、それは、一つの人格における二つの性質の結合なのである。

 

5.その人間性は非人格的な性質を持たねばならない

 

 キリストには二つの性質があるが、しかし、一つの人格における二つの性質である。人間の人格性(the personality of the man)は、ちょうど霊魂にあって体にはないように、そのように、キリストの場合も、それは、神的人格(the Divine Person)なのであり、そのお方は、非人格的な人間の性質(an impersonal human nature)を取ったお方なのである。換言すれば、彼は、御自身に人間の人格を結びつけたのではなくて、人間の性質を結びつけたのである。

 

C.  人格的結合(the Hypostatic Union)の結果

 

1. 属性の交流(the communion of attributes)

 

 わたしたちが、キリストの属性のまじわりを語るとき、このことは、一つの性質が他の性質への変容(transference)があることを言うことではない。むしろ、一つの人格において二つの性質があることの承認なのである。こうして、一つの人格が両方の性質を持つのである。一方の性質に真実なことは、人格についても真実なのである。このことは、次のような聖書の難しい多くの章句を説明するのを助けるのである。

 

a.主語と述語の両方が全体としてのその人格(the Person)に言及するところの章句である。キリストは贖い主、主、預言者、祭司、王、審判者などである。

 

b.その人格(the Person)が主語である章句であるが、しかし、述語が神的性質について真実である。たとえば、「アブラハム以前に、わたしはいた」、「わたしと父は一つである」など。人間の名と述語によって呼ばれるその人格(the Person)は、神的性質についてだけ真実であることを持つことが可能である。「それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……」(ヨハネ6:62)。「先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン」(ローマ9:5)。

 

c.その人格(the Person)が主語であるが、しかし、述語が人間の性質にだけ真実である章句がある。たとえば、「わたしは渇く」、「イエスは泣いた」、「わたしの魂は悲しみで死ぬほどである」。ある章句は、その人格(the Person)に神的肩書をもって言及するが、しかし、述語は人間の性質にだけ真実である。「御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」(使徒言行録20:8)。「栄光の主は十字架につけられた」(黙示録11:8、コリント一2:8)。

 

d.主語が神的肩書によって示されるが、しかし、述語はどちらかだけの性質に適用できずに、その人格全体(the whole Person)、神人(the God-man)に適用できる章句がある。「御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます」(コリント一15:28)。「父はわたしよりも偉大な方だからである」(ヨハネ14:28)。このことは、仲保者としてのキリストには真実であるが、しかし、神としての本質にはおいてではない。

 

e.結論的な考察

 

主語と述語の呼称についての聖書のこの種々の使用法を説明するのは、キリストにおける二つの性質の真の結合(the genuine union)なのである。そのすべてにおいて、彼がそれを行ったのは神人(the God-man)、一つの人格(One Person)、キリスト・イエスであり、彼は一つの性質においてではなく、また、他の性質においてではなく、それを行ったのである。ヘブライ1:1-4は、彼に関するこれらの用語の交換についての例証を与えている。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです」。

 

2.キリストの行為は、その人格(the Person)の行為である

 

 わたしたちは、キリストが果たした行為は何よりも、それらが一つの性質の行為か、それとも、他の性質の行為であっても、一つの人格(the one person)、神人(the God-man)の行為であったことをすでに示唆した。このことは真実である。何故なら、その一つの人格(the one person)は、自分自身の内に二つの区別される性質を持っていたからである。そのように、性格において純粋に人間的である行為についても真実である。これらは、彼の人格的な行為(his personal acts)である。こうして、彼は、彼の人間性において苦しみ、死ぬが、とはいえ、その人間性は神的性質に結ばれているので、キリストの人格において(in the Person of Christ)キリストの人格によってなされて、それは無限の価値を与えられるのであり、彼は神でもあり人間でもあるのである。

 

3. 神人(the God-man)であるキリスト・イエスは、礼拝の適切な対象である

 

 一つの人格(the One Person)における二つの性質の結合のゆえに、わたしたちは、神でもあり人間でもあるお方を礼拝するのである。キリストの人間性はその礼拝の根拠でないが、とはいえ、それは彼の一部であり、そのお方はすべての上にいますお方であり、永遠にほめたたえられる神であるから、それは聖徒と天使の崇拝の対象になるのである。トマスもそうであった。彼がキリストの手と足の傷を確認したとき、彼を主また神として承認したのである。

 

4. 彼は、神でもあり人間でもあるので、彼は神と人間との間の注保者であり得る

 

 このことは、彼が両方の代表であり得ることを意味する。彼は、じかに神の聖と尊厳を知っており、まさに神の神なのである。彼は、またわたしたちに弱さについての感情を知っている人の中の人なのである。こうして、彼は、わたしたちの同情できる大祭司なのである。「神として、彼はいつもいるし、何でもできるし、救い、祝福するためにすべての源において無限である。また、人間として、あるいは、一人の人として、彼はわたしたちの弱さに触れることができ、わたしたちが試みられるように試みられ、わたしたちが違反した律法に服従し、わたしたちが招いた罰に耐えたのである」(Hodge,op.cit.p.396)。

 

5. キリストの人間性は高挙された(exalted)

 

彼は、受肉のときに取った人間性において昇天し、また、死者から復活された。彼がわたしたちの人間性を神の御座にまで取ったゆえに、わたしたちもその御座の前に立つことがふさわしくされ得ることを、わたしたちが知ることは大きな慰めである。わたしたちは、彼は、わたしたちのために場所を用意し、また、わたしたちは、天の住まいに備えられ得ることを知っている。わたしたちは、彼は同じように再び来られて、わたしたちを御自身のもとに受け入れてくださるのである」(Hodge,op.cit.p.396)。

 

 

解説

 

「第26章:キリストの人格」の紹介が終わったので、6点の解説をする。まず第1点は、前章で恵みの契約が語られたので、今度は、その恵みの契約の仲保者としてのイエス・キリストがどのようなお方であるかが扱われる。すると、恵みの契約の仲保者としてのイエス・キリストは神性と人間性の二つの性質を一人格においてもたれるお方である。すなわち、キリストは神でもあり、人間でもある一人のお方なのである。これが、キリストの二性一人格の教理と言われるもので、三位一体の教理と共に、この教理を認めるか否かで正統か異端かに分かれる。

 第2点は、キリストは真に神であることを示すために、旧約聖書と新約聖書の代表的な個所を挙げて釈義していく。詳しい釈義はスミスの本文を読んでいただければよいと思うが、、神は燃える柴の中においてモーセに現れた主の天使は、受肉前のキリストであることが、後にキリスト御自身の証言によってわかる。詩編2:7についは、幾つかの解釈が可能であるが、ヘブライ1:5、5:5、使徒言行録13:33の新約聖書の3つの個所に引用されて、キリストが約束のメシアであることが三位一体内の永遠的な御子性に依拠していると言えることを、スミスは語る。すなわち、キリストは神性を備えたメシアなのである。詩篇45編はメシア詩篇であるが、「あなた」と語りかけられるお方はメシアであるが、同時に神として語りかけられる人格を持っていて、彼は彼の神であるお方により油注がれることが語られている。詩篇110篇は、、旧約聖書の最も明白なメシア的章句の一つであり、新約聖書においてイエス御自身によってメシア的と明らかに証言された。彼は神的性質を有するゆえに、彼が神の右に座すことができるのである。彼は神の御子以外の何ものでもないからである。

 イザヤ4:2の「主の若枝」はメシアを表す。その用語において、ダビデにまで育てられる若枝の神的起源への言及があるとスミスは言う。なお、スミスは、イザヤ9:6-7についての詳しい釈義を展開する。生まれる子供、男の子は、他のすべてと違って、4つの神的属性を持つことを語るが、特に最初の「驚くべき指導者」の「驚くべき」は、ヘブライ語では名詞であるが、しかし、形容詞として使われている。この「驚くべ指導者」は、メシアの王職を表し、王として統治することを意味している。王職の統治は超自然的で、超人間的な程度を表しており、また、そのような王において見い出される慰めと助けとの無限の豊かさを指している。彼の名は驚きと呼ばれる。何故なら、わたしたちがその子供の名を聞くとき、言わば、わたしたちは神御自身と向かい合ったからである。他の3つの名は、この最初の主権的な名に影響されるか、あるいは、この最初の荘厳な名の下に立つ。わたしたちのために生まれるその子供は「驚き」(Wonder)なのであると釈義していて、とても力が入っている。

 「力ある神」の「力ある」(mighty)という言葉は、旧約聖書においては、それがエール(אל:el:エール:主)と結びつくときはいつでも常に神性を示すとスミスは述べている。それゆえ、生まれる子供の神性を断言している。「永遠の父」については、解釈がいくつもあり、正確な意味を明らかにするのは難しいが、しかし、メシアの統治と支配の父的な性格についての教えがある。詩編103:13に「父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる」とあるように、その子供は。メシアとして永遠のやさしい父であり、愛、慰めがここにある。メシアは永遠に彼の民に対する父なのであるとスミスは語る。「平和の君」とは、スミスは、4つの肩書のクライマックスと言う。真の平和があるためには、人間と人間との間においてだけでなく、なおさら神と人間との間に平和が必要であり、敵意が神と人間の間から除かれねばならない。敵意は罪によるので、罪という原因の除去がメシアのみわざなのである。パウロは、信仰義認によって平和が来ることを教えている。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」(ローマ5:1)と言われている。

第3点は、彼の神性についての新約聖書の証言として、スミスは幾つかの個所を挙げて釈義する。福音書においては、ヨハネ福音書の序言を取り上げ、スミスは相当詳しく論じるので、本文を読んでいただければと思う。序言は、キリストの神性と受肉前の先在を明らかに断言している。ロゴス、すなわち、三位一体の第二人格は、、神から区別されていて、神と共にいた。すなわち、彼は神と共にいるようになったのではなく、最初から永遠の結びつきにあることをスミスは語る。

また、スミスは、14節の「父の独り子」の意味をも詳しく述べ、特にキリストと父の関係が描かれ、父との同質と相違を表していることを語る。またヴォスを引用し、ヴォスが「父の独り子」は、御子が神に愛される理由を与えるものとして見る。また、「父の独り子」は、父による御子の永遠の生まれることについての教理の重要な個所の一つであるとし、御子が天の父に由来していることを続いて指摘する。なお、ウォフィールドは、「父の独り子」の「独り」は、ユニークさを表し、そのニークさは父から遣わされた神のユニークな神の御子であることを表すと述べた。

また、イエス・キリストの神性を表す個所は、マタイ11:27で、中風の人に罪の赦しを宣言することにより、イエスは御自身が神であることを明白にした。罪を赦せるのは神だけである。マタイ11:16以下においては、ペトロの信仰告白である「あなたはメシア、生ける神の子です」を受入れたことにより、キリストの神性がわかる。他の個所に就いては、スミスの本文を読んでいただければと思う。チャールズ・ホッジによるキリストの神性のまとめは分かり易い。キリストは、自ら、父と一つであることを証言している。

第4点は、キリストの人間性についてである。スミスは、神の神子がメシア・イエス・キリストとして人間性を取られて出現して来ることを旧約聖書が語っていることを、手際良くまとめている。人間の代表のアダムが罪を犯したとき、メシアは女の子孫から出ること、さらに、アブラハムの子孫から出ること、ユダ部族から出ること、ダビデの家から出ること、処女から生まれること、ベツレヘムで生まれることが語られている。

では、キリストの人間性についての新約聖書の証言は何か。すると、どこででもキリストが真の人間であったことを記している。処女降誕という特別な仕方で生まれたが、それは人間としてである。イエスの先祖をたどれる系図がある。彼が人間の体、痛み、喜び、飢え、渇き、疲労、苦しみ、そして、死に従うのを見る。こうして、真実な体と理性的な霊魂を持ち、彼は真に人間であったことを、スミスは語る。

第4点は、キリストは神性と人間性を持つが、しかし、だからと言って二つの人格ではない。二つの人格を主張すれば、ネストリウス(381年?-451年?)のキリスト二人格論の異端となる。三位一体の第二人格の神の御子は、マリアから聖霊の力によって生まれることによって、罪を別にして、わたしたちと同じ人間性を取られたが、その人間性は人格のない人間性であり、非人格的人間性(impersonal human nature)と言われる。キリストの非人格的人間性(については、拙著「G.C.ベルクーワ:教義学研究-その紹介と解説‐」の「第6巻 キリストの人格」の「第12章 非人格的人間性」を参照のこと。

それゆえ、キリストは神性と人間性を持つが、しかし、一人格であり、その人格は神人的人格(theoanthropic person)である。キリストの神性と人間性は一つの人格において結合している人格的結合である(the hypostatic union)。彼の神性と人間性は、カルケドン信条(451年)において、「この唯一のキリスト、御子、主、独り子は、二つの性質により(二つの性質において)混ざることなく、変化することなく、分けられることもできず、離すこともできぬ御方として認められねばならないのである」と告白されている。

なお、神性と人間性の人格的結合により、属性の交流(the communion pf attributes)と言われることが生じ、「一方の性質に固有なことが、聖書ではときどき、他方の性質で呼ばれる」(ウェストミンスター信仰告白 第8章 仲保者キリスト 第7節)のである。たとえば、「アブラハム以前に、わたしはいた」、「わたしと父は一つである」などは神性について真実であるが、人格的結合のゆえに、人間性を持ったキリストについて言える。また、逆に、「わたしは渇く」、「イエスは泣いた」、「わたしの魂は悲しみで死ぬほどである」などは、人間性にだけ真実であるが、人格的結合のゆえに、神性を持っているキリストについて言える。それゆえ、ルター派のように、キリストの人間性は神性と交流して神としての性質を帯びるようになったと主張するが、これは誤りである。属性の交流については、拙著「ウェストミンスター信仰告白の解説」の「第8章 仲保者キリスト」の「第7節 ルター派の誤りの排除」を参照のこと。こうして、神人(the God-man)であるイエス・キリストは、わたしたちの礼拝の適切な対象なのである。

 第5点は、スミスは特に述べていないが、キリストの人間性についてのバルトの見解の誤りについてである。バルトは、予定論においも、創造論においても、ナザレのイエス・キリストから考えるべきであると主張し、神性と人間性を持ったナザレのイエス・キリストが永遠から存在しており、ナザレのイエス・キリストにおいて、すべての人が選ばれており、また、ナザレのイエス・キリストが唯一の動機と根拠となって創造がなされたと主張する。すなわち、受肉前の三位一体の第二人格の神の神子が、マリヤから生まれて、そこで初めて人間性を取ったという風に、受肉前の神の御子と受肉後の人間性を取ったナザレのイエス・キリストを分けて考えることは抽象であり、イエスの一つの御名において考えるべきと言う。そこで、バルトは、ヨハネ福音書の序言も、受肉前の神の御子と受肉後の人間性を取ったナザレのイエス・キリストを分けていないと解釈をする。すなわち、序言の1;1-3の「言」(ロゴス)は、受肉した言という意味であり、人間性を持ったナザレのイエス・キリストが創造以前の永遠から人間性を持って存在していたことを表すと解釈する。しかし、ヨハネ福音書の序言の「言」は明らかに受肉前の、マリヤから生まれる前の、まだ人間性を取っていない三位一体の第二人格の神の御子を表し、その御子が14節で言われているように、受肉して人間性を取られてこの世界に出現したことをきわめて明白に語っているので、バルトの人間性を持っていたナザレのイエスが永遠から存在していたという見解は大きな誤りである。

 また、バルトは、創造以前に人間性を持っていたナザレのイエス・キリストが存在していて、創造の動機と根拠になったと主張するが、この解釈も無理である。この解釈で、バルトはアダムもイエスにおいて創造されたとおかしなことを言う。そして、バルトは、神の善き創造にもかかわらず、人間は最初から罪人で罪を犯して生きるが、しかし、人間が罪に支配され、罪に沈んでしまうことはない。何故なら、わたしたち人間性は、永遠から人間性をもったナザレのイエス・キリストにおいて保持され、支えられていて、すでに罪に客観的に勝利した者とされており、誰もこれを覆すとことができないからと言う。しかし、受肉以前のナザレのイエス・キリストがもうすでに創造のときに存在していたという見解も無理である。こうして、バルトは、受肉前の人間性を取っていない御子と受肉後の罪を別にしてわたしたちと同じ人間性を取ったナザレのイエスを区別することは抽象として批判したが、真実は、抽象的と呼ばれる筋合いでないものを、バルトは自分勝手に抽象的と呼んで誤りを犯したのである。わたしは、バルトが、人間性を持ったナザレのイエス・キリストが創造以前の永遠から、最初から人間性を持って存在していたという主張を知ったとき、バルトはヨハネ福音書の序言の正しい解釈していないとすぐに思った。世界的改革派神学者のベルクーワも、バルトのヨハネ序言の解釈の誤りを語っている。バルトのヨハネの序言解釈については、拙著「G.C.ベルクーワ:教義学研究‐その紹介と解説‐」の「第6巻 キリストの人格」の「第9章 啓示と照明」、ナザレのイエス・キリストにおける創造については、拙著「G.C.ベルクーワ:カール・バルト神学における恩恵の勝利‐その紹介と解説‐」の「第4巻 選びにおける勝利を参照のこと。

 第6点は、スミスは特に述べていないが、処女降誕についてのバルトの見解についである。処女降誕については、ブルンナー(1889年-1966年)は事実でないことを強く主張し、激しく反対した。彼は、処女降誕は歴史的事実ではなく、原初の使徒的宣教には入っておらず、キリストの出現を教義学的に説明するために後から入ってきたと考えた。しかし、この考えは、ブルンナーの個人的な考えで聖書の根拠がまったくない。

 では、バルトはどうか。すると、バルトは、ブルンナーと違って処女降誕を擁護した。しかし、その意味は、処女降誕はしるしで、それまでの男性が世界を支配するものの終わりを示し、女が世界を動かす新しい時代の始まりのしるしと考えた。しかし、バルトの見解は、人間的には興味深いが、でも、ブルンナー同様に聖書の根拠がまったくない。世界的改革派神学者のベルクーワは両者の主張には聖書の根拠がないことを語っている。両者の処女降誕理解については、拙著「G.C.ベルクーワ:教義学研究‐その紹介と解説‐」の「第7巻 キリストのみわざ」の「第5章 偉大な奥義」を参照のこと。

        


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