啓示

外的認識原理:Principium Cognoscendi Externum)      

      

序論


  わたしたちが先に示したように、クリスチャンは、キリスト教の真理を前提し、また、こうして、この根本的前提から、すべての真理についての自分の思考に移っていく。わたしたちは、また聖書はキリスト教神学にとって究極的に外的認識原理(principium cognoscendi externum)であることも述べてきた。こうして、わたしたちは、啓示の主題を吟味し始めるとき、わたしたちは、啓示についての適切な理解のため、聖書それ自身に向かう。このアプローチは、ある人々により循環論(circular)として定罪される。わたしたちは、すでにその循環論的性格を認めている。しかしながら、これは定罪の根拠ではない。というのは、すべての推論は究極的には循環論だからである。どの人も自分の前提に基づいて推論するのである。


 クリスチャンでない人々は、キリスト教の真理の前提は非理性的と非難する。このことは、その視点からそのように見えるが、キリスト教以外のすべての思想、すなわち、偶然とすべての事実を扱うことができる人間の理性の能力の下に、根底にある前提は現実には非理性的であり、如何なる予見も不可能にするというのが事実なのである。わたしたちが知っているように、世界は偶然によって進化したことを前提すること、また、道徳の感覚をもった理性的被造物が、世界の非理性的な物質から偶然によって生じたこということは、如何に不可能であることか。世界と人類の事実に対する説明する理性的根拠を与えるのは、キリスト教の前提においてのみである。他のすべての命題は非理性的である。


 事実は、わたしたちは偶然に時間と空間のここに単に到達したのではないのである。聖書が言うところのことは真実である。わたしたちは、生ける真の神により造られたのである。このことは、人間存在の性格は神学的であることを意味する。中立的なあるいは非神学的に有利な位置はない。どの人も自分が神の被造物であることを究極的には認める。人間はこの「神性感覚」(sensusdeitatis)を否定し、あるいは、抑圧するかもしれないが、しかし、それは人間に残っているのである。クリスチャンは、もちろん、自分の罪深い性質が除かれ、そして、クリスチャンだけが現実に関する真理を見るのである。こうして、それはクリスチャンにとって非理性的ではないし、真実であると知っているところのものに基づいて移行していくため、クリスチャンの目は開かれているのである。クリスチャンにとって、それとは違うことをすることが非理性的であろう。


 それゆえ、啓示について吟味することがわたしたちの目的であらねばならない。その事柄のため、組織神学において研究されるべきすべての主題についての見解のため、聖書を見ていくことがわたしたちの目的であるべきなのである。わたしたちの目的は、聖書的な所与の研究から聖書が教える概念を得ることなのである。


 聖書は、もちろん、神学的データの組織的提示ではない。むしろ、神の贖罪的な啓示の記録である。あるいは、他の仕方で言えば、贖罪史の記録(a record of redemptive history)である。それは、神が行ったところの―神の贖罪的行為の歴史的記録であり、また、神が語ったところの歴史的記録である。換言すれば、わたしたちは、聖書において、神の力強い行為だけでなく、それらの行為についての神御自身の解釈(also his own interpretation)をも見い出すのである。今日、啓示は出来事(event)あるいは行為(act)であり、そして、命題は啓示的ではないという理念に多くの強調がある。聖書自身の研究は両者の結合を示している。研究のこの統一性において、十分に聖書的な概念に来るため、神の自己啓示の歴史的記録(the historical record of God’s self-revelation)を吟味することがわたしたちの目的となる。


 Ⅰ.啓示についての聖書的理念


A.  創造と摂理における啓示


 創世紀の最初の1章は、神の最も意議深い啓示的行為の一つをわたしたちに提供している。「初めに、神は天地を創造された」。この現実性において発見され得るすべての真理は、神の創造的で摂理的な活動としての神から来るのである。聖書は、創造が啓示的であること教える。「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す」(詩編19:2)。これは、啓示という言葉が意味する理念を例証する。それは、ラテン語の「覆いを外す」あるいは「隠れたものをあらわにする」を示すrevelatioから来ている。天は覆いを外し―神の栄光をあらわにする。


 神の創造のみわざだけが啓示的であるのではなく、その被造物の保持と統治も啓示的であり、わたしたちはそれを摂理と呼ぶことができる。これは被造物の日毎の啓示において見られる。「昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る」(詩編19:3)。同じ思想が聖書において多くの回数において表明されている。たとえば、「天は主の正しさを告げ知らせ/すべての民はその栄光を仰ぎ見る」(詩編97:6)。パウロは、ルステラの群衆に同じことを証言している。「しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」(使徒言行録14:17)。彼は、15節で神が万物の創造者であることを丁度宣言したところであり、そして、それは神御自身について異教徒たちにさえも証しであることが神の保持の恵みなのである。ローマ1:20も同じ原理を断言している。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません」。この節は、創造と世界の継続的保持の両方が啓示的であることを含んでいる。すなわち、創造と摂理の両方が啓示的なのである。


 人が創世紀における説明の詳細を吟味するとき、人は創造の手段は神の語りかけによったことを見い出す。「神は言われた」が8回も生じる。4回は神の創造的活動の産出が名前で「呼ばれる」(called)。わたしたちは、創造における啓示は行為だけでなく、神の言葉啓示(the word revelation of God)を含むこともここに見るのである。創造的活動を伴う神の語られた啓示のこの連想は他の個所においても見い出される(詩編33:6,9、148:5)。


 この意義は、ヨハネの序言によって強調されている。そこは、ロゴス(Logos)という用語が三位一体の第二人格について用いられている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1:1-3)。言葉はわたしたちに対して神の啓示を表している。啓示は創造において活動的であり、また、摂理においてもそうである。ヘブライ1:1-3に「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」とある。ここに、わたしたちは、神の御子は創造においてだけ活動的であるのだけでなく、摂理においてもそうであるのを見る。そして、また再び、彼が万物を保持するのは彼の言葉によってである。


神のかたちにおける人間の創造は神の啓示の独特な行為である。人間を他の被造物から区別するのが人間における神の啓示である。神のかたち(ヘブライ語で צלמ、ギリシャ語で(εικών)は、類似している(likeness)ところのものである。換言すれば、人間は神を啓示するものとして明らかに造られたのである。


 このことは新約聖書において裏付けられている。パウロは、「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです」(ローマ1:19)と言う。再び、彼は異教徒たちでさえも彼らの心に書かれた律法を持っていると教えている。


 異教徒たちも神のかたちに造られているゆえ、彼らも彼らの内奥において神と神の律法の啓示についてあるものを担っているのである。人々はこの内的な啓示を否定し、歪めるが、それは、聖書の明らかの概念の一つであり、クリスチャンによって見過ごしにされるべきでない。


 福音において、人間は神のかたちに直面し―かたちに回復される。それは罪により知識と義と聖において失われている(ローマ8:30、エフェソ4:24、コロサイ3:10)。神の啓示は、神が御自分の栄光をわたしたちの生活において見られ、映し出されるようにするとき、クリスチャンの生活において明らかになる。人間における神のかたちの究極的啓示は第二のアダム、受肉した神の言葉、わたしたちの主イエス・キリストにおいてさえも見られる。


 わたしたちが見てきたところの創造と摂理から知ったことをまとめると、


1. 創造と世界の保持の両方がそれ自身で啓示的行為である


2. この創造された世界の継続的存在は永久で継続的な啓示を与える


3. 創造と摂理の行為に伴って、神の語りかけがあり、それは啓示の理性的性格を意味する。


4. 啓示は三位一体の神についてである。何故なら、三位一体の三位格のすべてが創造と摂理において活動的であったし、今も活動的である。


5. 特に啓示的なものは、次のものである。神の栄光、神の知恵、神の義、神の永遠の力、神の神性


6. この啓示はすべての人々に向けられ、有効であるので、一般啓示(General Revelation)と呼ばれる。


7. 聖書において創造に与えられている場によって暗示されているように、創造からの啓示は人間に対する神の特別啓示の十分な展開のための背景である。


8. 神の啓示であることは、それは権威ある啓示である。彼が語るときには、いつでも、どこでも神は権威をもって語る。


9. それらの事柄を、特に計画されていることに対して示すことは十分である。続いて起こる特別啓示のための背景として仕えることは十分であるが、しかし、神が人間に対してまだ取って置くさらなる真理を啓示することは十分ではない。


10.それは、すべての人間が知るためには十分明白であり、言い訳を許さない。


 B.堕落前のエデンの園における啓示


 創世紀2:4-25において、わたしたちは、人間の創造について、また、人間の最初の条件についての詳しく述べられた説明を見い出す。第3章において、わたしたちは、誘惑と人間の堕落の説明をもつ。そこから前に向かって、聖書は神の贖罪の啓示の記録である。創世紀2章において、わたしたちは、堕落前の条件が扱われているのを見る。これは、人間の最初の状態、そして、罪への人間の堕落についての理解をわたしたちに与える。


 この章における啓示の最も驚くべき新しい側面は、神が言葉啓示において(in verbal revelation)神の理性的被造物に語りかける事実である。わたしたちは、言葉のあるいは語られる啓示が神の創造的行為に伴うことをすでに見てきた。創世紀1:28-30と2:16-17は、人間に語りかけ、人間と直接的な人格的なまじわりにある神の絵を表している。それは神が人間に与えたところの最初のものであり、次に善悪と知る木に結びついた禁止についてである。わたしたちは、この記録は堕落前の理解のための背景としてのみ仕えるであるから、わたしたちのために記録されていないエデンの園における神と人間のもっと多くの直接的な言葉のまじわりがあったと推測するかもしれない。人間の最初の堕落していない状態は、神とのまじわりの状態であった。これは人間にとって正常な状態であった。堕落に続くことすべては異常と呼ばれねばならない。言葉の啓示は罪によって必要とされたのではないことが考察されるべきである。神との直接的で人格的なまじわりをもつため、神のかたちに造られ、被造物にとって正常な部分であった。このまじわりは言葉のコミュニケーションを含むのである。


 この章において見い出されるもう一つの側面は、すなわち、象徴的なもの(the symbolic)の使用である。これは、説明の幾つかの部分に見られる。最初に、園そのもの(the Garden itself)である。これは特別に神によって備えられた場所である―神がやって来て、歩かれた場所である(3:8)―人間と神とのまじわりの場所である。エゼキエルはエデンを「神の庭」(the garden of God)(28:13)として描いている。ここにおいて、わたしたちは、聖書的な啓示の本質についての絵を持つ。すなわち、神と人間との間のまじわりである。この宗教の神中心的性格(the God-centered character of this religion)が、こうして、エデンにおいて啓示されている。


注目すべき第2の象徴は、命の木(the tree of life)である。黙示録2:7で、「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」と読む。ここでは、言及は神の楽園(in the Paradise of God)における命の木についてである。聖書の最後の章は、玉座から流れる川とともに、また、その傍らの命の木とともに、小羊の玉座についての最終的な栄光を描いている。黙示録22:1-2は次のように読む。「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す」。


 命の木についてのこれらの言及に基づいて、わたしたちは、もし人間がテストにパスしていたならば、この木は人間への永遠の命を意味する礼典的手段であったろうと推論する。


 命の木について言われるところのものが、啓示の礼典的手段であり、そして、祝福を意味するならば、善悪を知る木についても言われ得る。この木は、人間が善悪の認識に来る手段であった。この時点で試験と堕落の内容に詳しく入ることなしに、わたしたちは、エデンの園において、2つの木の象徴的で礼典的なしるしの使用を通し、神は御自身の計画と祝福を啓示したことをわたしたちは見い出すと言うことで十分としよう。


 わたしたちは、神の啓示の性質についてここで学んだところのことをまとめるとき、わたしたちは、エデンの園におけるこの啓示を人間に語りかけた贖罪前的特別啓示(preredemptive special revelation)と呼ぼう。それは、自然から派生し得ない特別な啓示として人間に語りかけられことにとおいて特別なのである。その特殊な意図(the design)は、神と人間との人格的な関係を推進する(promote)ことについての意図であった。換言すれば、この啓示は性格において特別であったのである。


 わたしたたちのさらなる研究において何が見い出されるであろうと予期して、神の啓示の様態(the modes of God’s revelation)は後に見られるであろうところのものをすでに暗示してきた。第1に、創造において、神の行為を啓示として見てきた。第2に、わたしたちは、人間への語りかけにおいて神の言葉啓示(his word revelation)を見てきた。第3に、主なる神の声がエデンの園において日の涼しい間中、神がある神現において(in some theophany)人間にやって来て現れたことが少しでも暗示された。こうして、彼の啓示の三つの直接的な形態、すなわち、奇跡、預言、神現(the three direct modes of his revelation,namely,miracle ,prophecy and theophany)。啓示のこれら形態は罪によって必要とれたのではなく、堕落していない人間への神が御自身を啓示する正常な状態の部分(part of the normal condition of God’s revealing himself to unfallen man)であった。礼典の使用もあった。ここに、神が恵み深く御自分の啓示を御自分の被造物に適合させるのである(God graciously accomodates his revelation to his creatures)。そして、これは原初の正常な状態である。


 この節における発見についてのまとめを提示する前に、わたしたちは、啓示について語るため、神学者たちが用いてきた用語に注目すべきである。わたしたちは、啓示の異なった型(the different types of revelation)を描くため「一般的な」(general)と「特別な」(special)という用語を用いてきた。「自然的な」(natural)と「超自然的な」(supernatural)という用語もある人々により使われる。一般的なと特別なという用語は意図(the design)に基づいて区別されるが、自然的なと超自然的なという用語は啓示の形態を描く。自然啓示は、創造された人間の内と外の現実を通して来る啓示である。超自然啓示は自然の外に啓示されたところのものに言及する。こうして、言葉啓示は超自然的として示される。


 一般啓示は、すべての人に語りかけられる啓示であり、また、すべての人に接している。特別啓示は特殊であるところの啓示であし、自然を通しては得られ得ない。多くの今日の改革派の神学者たちは、自然的なと超自然的なの代わりに、一般的なと特別なという用語を使う。何故なら、自然的なと超自然的なは、ローマが教える自然神学(natural theology)の理念を暗示するからである。他方、自然的なと超自然的なという用語は、多くのより古い改革派神学者たちに見い出されるであろう。


 堕落前のエデンの園における啓示に関しての発見を今やまとめてみよう。


1. これは、人間にとって正常として描かれるべき期間である。


2. 神は、人間に特別な言葉の啓示において語りかけ、創造命令(創世紀1:28-30)、と試験あるいはわざの契約(創世紀2:16-17)を与えた。


3. 神は、御自分の真理を人間に啓示するため、象徴的なものあるいは礼典的なものをこの期間中、用いた。


4. この啓示は、贖罪前的特別啓示と呼ばれてきた。


5. 特別記啓示の四つの基本的形態は行為、言葉、神現、象徴である。


6. 贖罪前的特別啓示は、人間に彼の機能と神との契約関係を教えるため必要であった。


7. この啓示は権威ある神の言葉であった。


8. アダムへの教えの意味は明白であった。これは蛇により求められた命令をエバが繰り返していることによって明白である。


9. この特別啓示は、完全に十分であり、それゆえ、人間を善の意識的選択(a self-conscious  choice of good)にもたらし、そして、こうして、人間をきよさの中に堅固にするのに(to confirmed him in his holiness)十分であった。


 C.堕落後の啓示


聖書記録の他のところは、アダムの堕落以来の神が人間を扱うことについて論じている。必然的に、わたしたちの研究は高度に選択的になる。わたしたちは、今は、この啓示の内容を研究することを求めているのではないが、しかし、啓示の聖書的な理念についての結論に到達することできるため、啓示の様態(the modes of the revelation)を考察することを求める。


 1. 堕落から洪水へ


 堕落後、すぐに園に来て歩く神についての説明を見い出す。わたしたちは、上記の節においてこれは神現の理念を指し示すことに注目した。すなわち、神がある見えるかたちにおいて(in some visible form)やって来て、そして、アダムとエバに御自身を現わしたのである。すでに示されたように、わたしたちは、神がアダムとエバに堕落前に神現において現れてていたにちがいない(must have appeared)と信じる。それは期待されねばならない。というのは、アダムとエバはそのとききよくて善なる被造物であり、彼らの造り主とのまじわりのために造られたからである。しかしながら、今や、堕落が生じ、そして、彼らは神とのまじわりから断たれたのである。彼らはこれを感じ、神から隠れた。神はやって来て、彼らを探し出した。


 この啓示についての第2の考察は、神は彼らに言葉で(verbally)語りかけたことである。それは、やって来たところの「神の声」(Voice of the Lord God)であった。神は彼らを呼ばれ、そして、彼らと会話を始めた。こうして、啓示の言葉の性格(the verbal character)が堕落後に見られる。


 堕落前啓示と堕落後啓示の間の類似性の事実にもかかわらず、著しい変化が生じた。堕落前は、人間は神とのまじわりのために造られ、そして、直接、神とのまじわりが可能であった。しかしながら、堕落後は、人間は最早まじわりに適さなくなった(no longer fit)。彼は神のエデンから追放された(創世紀3:23)。罪の侵入は神と人間の正常な関係を破壊した。人間に対する全状況が今や異常(abnormal)となった。これは、一般啓示の領域において生じた変化において見られる。今や、女は彼女を女として構成していたもの、すなわち、子を生むことにおいて苦しむのである。男は、自分自身を食べさせるため額に汗して働かなければならなくなった。労働は堕落の結果ではない。アダムは、堕落前、園を耕す任務が与えられていた。堕落の結果は、労働の退屈さ(the tediousness)と困難である。地は呪われる。「神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に」(創世紀3:17-18)。


 堕落により、人間は霊的に死んだ。彼は神とのまじわりを失った。彼のまさに存在は肉体的死における解体(dissolution)に服するものとなった。このすべてのことから、一般啓示は、園における原初の特別啓示に仕えるのであるが、それは今や、罪の結果を示し、そして、来るべき新しい特別啓示のための背景として再び仕えるということを、わたしたちは結論しなければならない。


 人間の堕落後の状態は神からの疎遠の一つであるので、彼は最早、神との特別啓示のまじわりを期待できない。しかし、神は恵み深く、人間を探し出し、人間と会話をする。さらに、創世紀3:15において、神は人間の益のために行動しようとして、人間とのまじわりを回復しようとする調べを響かせる。女と男に対する審判の言葉の宣告においてさえも、恵みの調べが伴う。というのは、女は彼女の悲しみににもかかわらず、子どもたちを生むことができ、男は汗して生計を立てることができる。こうして、今や、審判の調べが始まったが、人間との神の継続的な語りかけのまさに事実が、それ自身恵みなのである。創世紀3:15における罪に対する結果的な勝利の約束は、女の末(the Seed of the woman)のわざに依拠している―それは女の末自自身の苦しみを巻き込むわざである。換言すれば、これは、キリストの来るべき贖罪的みわざの約束である。それは、神が御自身を人間に啓示し続けるであろうこの予期された贖罪の根拠においてである。今後、すべての特別啓示は、性格において贖罪的であり、そして、贖罪的特別啓示(redemptive special revelation)と呼ばれる。


 啓示の一つの他の行為は、園において与えられている。それは神による動物の皮のアダムとエバの衣服である(創世紀3:21)。わたしたちはこの取り扱いについてそれ以上のことは何も語られていないが、しかし、ちょうど園と木がある真理の象徴であったと同じように、この行為は象徴的であると推論できる。血の犠牲が関与していたかどうかはわたしたちに語られていない。しかし、一つのことは明らかに啓示されている。すなわち、アダムとエバは自分自身を覆うことができかったのに、神はそのようにすることが可能なのである。こうして、わたしたちは、堕落後も続いた神の真理の象徴的啓示を持つのである。


 象徴的なものは、園の東のケルビム(the Cherubim)の場に、また、命の木を守る剣において現れる。聖書の他のところで、ケルビムは常に神の玉座と、また、神の直接的な臨在と結びついている(出エジプト25章、37章、エゼキエル1:6、41:18-19、黙示録4:7-8)。アダムとエバは、彼らの罪ゆえに、最早、園に入ることはできなかったし、神の臨在に近づくこともできなかった。


 園における堕落後の啓示の性質に関する発見を再びまとめてみよう。


1.一般啓示は特別啓示の背景として継続する。それは、アダムの堕落の結果、そして、もし、原初の正常な秩序の回復があるとするならば、神の介入(a Divine intervention)の必要性を示す。背景として、この罪が影響を与えた一般啓示は、わたしたちが特別啓示を、性格において特別で贖罪的であることを見るのに必要である。


2.特別啓示に対する背景として仕えることが、堕落前に十分で明らかであったように、一般啓示はこの目的のために十分であり続けた。そして、救い主の必要性(the need for a Savior)を指し示すことにおいて明らかであり続けた。一般啓示は今に至るまで呻き苦しんでいる。


3.神は人間を継続する特別啓示から切り離さなかった。


4.特別啓示は新しい資質を取った。それは恩恵あるいは贖罪の要素を含み、そして、それゆえ、贖罪的特別啓示(redemptive special revelation)と呼ばれる。


5.贖罪的特別啓示は、衣服における行為においいて、次にアダムとエバの追放における行為においてと同じように、言葉のまた象徴的な様態を示し続ける。神現も、アダムとエバに彼らの罪の後も語りかけて、主の到来において継続したのである。


 


2. 洪水と結びついた啓示


 わたしたちがエデンから洪水(the flood)へと移行するとき、わたしたちは神の啓示の他の主要な期間を扱っているのである。堕落と洪水の間の期間は神と人間との間の非常に少ししかないまじわりの一つであることは注目すべきことである。それは、神は人類がその邪悪さを発展させ、示すことを許す「干渉のない」期間(a hand-off period)として描かれる。


 洪水は、わたしたちが神の審判と憐れみの両方を見る神の啓示の行為である。堕落後、神の啓示行為のすべては、両刃となった。パウロは、コリント二2:16において、このことを自分自身の説教で語る。「滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです」。洪水は、邪悪な世界に対して神の審判であったが、しかし、このことにおいても、御自分の人々を保持していたのである。


 創世紀6章から9章における中心的調べは、神の行為である。多くの近代の神学者たちは、啓示を行為あるいは出来事としてのみ語る。強調は、言葉のあるいは命題的なコムニケージョンについての「主知主義的概念」(the intellectualistic cconception)への反対である。これが啓示についての聖書的な表明かそれともそうでないかという疑問は答えられねばならない。


 洪水は啓示の多くの他の行為の典型(typical)である。それは、神の行為だけ以上のものを含む。というのは、神が洪水を送る前に、神は御自分の意図をノアに知らせ、彼が箱舟を作るように教えた。それから、洪水後、神は再びノアに語り、そして、それを彼に解釈した。ここでの命令は、聖書においてしばしば見い出されるものであり、そして、それから解釈の言葉がある。これは、出エジプトについてもそうであり、また、来るべき救い主についてもそうである。神は、これらのどの場合にも、彼が行う前に預言し、そして、神が行ったところのことについての神の解釈が伴い、それから、実現するのである。


 洪水それ自体とノアの行為は、神のこの力強い行為に伴う言葉啓示なしでは理解できない。洪水はそれ自身においては、またそれ自体によっては、無音で口が利けない。こうして、ここで言葉啓示を否定することあるいは無視することは、洪水についての聖書全体を見ることと理解することに失敗するのである。


 3. 族長たちの時代における啓示


 族長たちの期間は、人間に対する神の多くの特殊な啓示を含む期間である。ヴォスは、啓示の形態はここで重要さを得ることを考察している。以前に、如何に神が語ったかについての如何なる追加の詳しさなしで神は語ったことが言われた。「全体として、啓示は コッミュニケーションの形態において、同時により制限され、また守られているとわたしたちは言えるであろう」(GeerhardusVos,BiblicalTheology,


Old Testament and New Testament,GrandRapids:WilliamB.Eerdmands Publishing Company,1948 p.82)。


 アブラハムへの最初の啓示(創世紀12:4)は、むしろ、無限定的な言語で与えられている。神は単に彼に語った。約束の地に入ったとき、変化があった。創世紀12:7で、わたしたちは、アブラムに「主が現れた」(「見る」raah:ראה の受身形、こうして、主はアブラムにより御自身を見させるのである)と読む。創世紀15:13aで、より定義的でない叙述が用いられている。「主は言われた」。創世紀15:17では、わたしたちは、煙を吐く炉と燃える松明の形態において、神の目に見える現れについて、あるいは、神現についての記述を見い出す。ヴォスは言う。「ここでは、神現は何か恐ろしい性格を取る」(Vos,op .cit.p.82)。17章において、神はアブラムに御自身を見られるようにし、そして、それから、22節において、「神はこう語り終えると、アブラハムを離れて昇って行かれた」とあり、明らかに神現に言及している。


 創世紀26:2、24で、イサクへのたった2回神の現れが記録されている。ヤコブには、神現への復帰があるが、しかし、なおアブラハムよりも少しである。ヨセフの生涯との結びつきにおいては神現の記録はない。


 族長たちは、神現が生じた場所にしばしば祭壇を作った。彼らは、こうして、その場所における神の臨在の意識を示し、そして、しばしば礼拝のためその場所に戻った(創世紀13:4、35:1-7)。これらの神現はすべて約束の地において生じたことが考察されるべきである。これは、全知の主ではないことを言うためではない。というのは、それはその地に神の贖罪的な臨在(his redemptive presence)を付していたことを暗示するのである。


 この時代の啓示の他の特色は、秘密において(in privacy)見られることである。このことは、族長たちへの神の現れの時が、しばしば夜であった事実に見られる(創世紀15:5、12、21:12、14、22:1-3、26:24)。啓示の様態として幻と夢(visions and dreams)においても見られる。


 幻は創世紀において2回だけ見られる。すなわち、15:1(machazeh:מתזה)と46:2(mara:מראה)である。これらの言葉の最初のものは旧約聖書において3回だけ使用されている、すなわち、民数記24:4、16、エゼキエル13:7である。それは、「見る」を意味する原形(chazah:תזה)から来ていて、そして、こうして、人物を見ることから来るところのものを言及している。第2のものは、見る(to see,tolook,to behold)を意味するraah:ראהから来ている。再び、見るというその用語の意味は人物を見ることから来るところのもの意味である(これらの用語の違いについては、W.J.Beecher,The Prophets and the Promise,FortWorth:


Seminary Book Store,1947を見よ)。わたしたちは、幻については後にもっと多くのことを言うが、ここでは、受ける者が見ることに向けられている啓示があることを示すことで十分である。幻において、見ることだけでなく、聞くことにも向けられている。それは、物理的に見ることを含むかもしれないし、含まないかもしれないが、しかし、内的な視覚(an inner insight)にも言及できた。もし、それが内的でさえも、真の客観的な見ることがあった。創世紀15章と46章において、わたしたちは幻の時として夜への言及を見い出す。これは再び啓示の秘密を暗示する。


 特別啓示の夜の出来事とともに、夢の形態が来る。「夢を見ることにおいては、夢を見る人の意識は多かれ少なかれ自分の人格性から薄くなる。それゆえ、夢は、啓示の伝達手段として完全に用いられる。霊的状態が神との結びつきがうまく適合しない(ill-adapted)」(Vos,op .cit.p.85)。異教の人々も夢を通して啓示を受けた(創世紀20:3、31:24、40:5、41:1)。夢は神の民にも、特に、彼らの霊的状態が未熟であり(ヨセフ)、衰えているときに用いられた(創世紀28:12、31:11、37:5、9)。


 幻と夢の場合の両方において、啓示は神からであり、そして、こうして、啓示の他の形態に負けないくらい客観的である。同じ言語がより直接的な啓示においてのように神の表れと語りについて用いられている。「神は夢の人生へ直接的に近づき、夢の中に入っていくことごとくのことを完全に支配しているのである」(Vos,op .cit.p.85)。


 族長たちの期間において見い出される特別啓示の最も驚くべき形態は、「主の御使」(the Angel of Jehovah)(malakyehowah:מלאךידנה)を通して来るものである。彼はハガルに(創世紀16:6-13、21:17-20)、アブラハムに(創世紀18:19、22、24:7,40)現れた。そして、ヤコブに(創世紀28:13-7、31:11-13、32:24-30、ホセア12:4、創世紀48:15-16)。この啓示の形態との結びつきにおいては、2つの特徴的な側面がある。最初に、御使いは、ヤーウェを三人称において語りかけることにより、御自身をヤーウェと区別している。第2は、彼はヤーウェと同じであるかのように語る。換言すれば、わたしたちは、神の位格的な現れ(a personal manifestation)を持つのであり、それは神と同一であり、また区別されている(both identical with and distinct from God)。わたしたちは、この現象を新約聖書の視点から見るので、わたしたちは同じことが神の受肉した御子についての真実であることがすぐにわかる。これは、主の御使いの同一性(the identity of the Angel of the Lord)に関するデータの十分な提示のための時代ではない。今は、彼を三位一体の第二人格(the Second Person of the Trinity)として同じとすることで十分である。


 族長たちの期間中、主の御使いの啓示において、主要なことは、彼が伝えるところの言葉のコミニュケーションであると思える。事実、わたしたちが洪水についてしたように、御使いの現れの啓示的な意義は彼の言葉の使信がなければ、知られないであろうところのことを、彼についても言えよう。


 行為における神の啓示は、族長たちの期間においても見られる。ソドムとゴモラの滅亡(the destruction of Sodom and Gomorrah)は、人間の罪に対する神の継続的な不興を啓示する。死んだも同様の一人の人からのイサクの誕生は、アブラハムへの子孫の約束を守ることにおける神の恵みの啓示である。


 族長たちの期間をまとめると、


1.族長たちの期間において、わたしたちは、エデンにおいても注目された特別啓示の様態の継続、すなわち、神現、預言、奇跡を見い出す。


2.神現は、種々の形態を取る。すなわち、人格的な形態(主の御使い)と非人格的な形態(煙を吐く炉と燃える松明)である。


3.初期の時代の場合においてのように、言葉啓示が神現より行為の意味の説明するために必要とされた。


4.主の御使いは、受肉の主イエスを予表する。


5.この期間に与えられた幻、夢、秘密の会話(private conversation)の使用は、神の特別啓示における神の選択性(the selectivity of God)を強調する。


6.この期間に与えられた特別啓示の研究は、性格において贖罪的である。これは、族長たちになされた契約の約束において特に見られる。


 4.モーセの期間における啓示


a.  聖書的な啓示におけるモーセの場


 わたしたちがモーセに来るとき、わたしたちは、旧約聖書の高度な期間の一つに来るのである。モーセ自身が贖罪史と啓示史におけるユニークな人物である。


(1)回顧的に考察される


人が旧約聖書の贖罪史を研究するとき、モーセの特殊な場はすぐに見られる。アブラハム契約を顧みると、その実現の始まりを見ることは特権である。最初に、イスラエルの民が別個の民、すなわち、民族(a nation)となったことはモーセの下においてであった。第2に、モーセは約束の地に彼らを導いた。第3に、モーセは、他の諸国民に祝福をもたらした。否定的には、疫病を通して異教の誤りの定罪において(in the condemnation of pagan error)、そして、積極的には、西洋文明の多くにおいて基礎となった律法において(in the Law)である。


 (2)将来的に考察される


 前方を見ると、贖罪史においてそのように重要な他の人物はキリストまでいないのである。預言者たちは、彼らはモーセと彼の働きを彼ら自身よりも上に置くことにおいて、これを認めたのである。モーセ自身は預言者であったが。民数記12:7によれば、モーセは神の家のすべての人々の上に置かれたのである。そのような者として、彼はキリストの型(a type of Christ)となったのである。彼は贖罪の働きにおける型であった。こうして、エジプトからの救い出しは、キリストの贖罪の前兆となったのである(the deliverance from Egypt becomes a foreshadow of Christ’s redemption)。コリント一10:1-6、ヘブライ3:1-6を見よ。この結びつきにおいて、彼の行為は、キリストの活動の前景(a preview)として、奇跡的である。モーセは、キリストがわたしたちの贖い主として遂行する3つの職務(the three offices)を果たした。すなわち、預言者として(申命記18:15)、祭司として、アロン的な祭司制度が制度化される前に(出エジプト24:4-8)、また、彼の民のために身代り的に苦しみを受けるため自分の身を献げることを含む執りなしにおいて(出エジプト32:30-33)、そして、民の指導性におけるまた、律法を与えることにおいて王として。モーセに対する民の態度は、クリスチャンのキリストに対する態度のようであった。すなわち、信仰と信頼(出エジプト14:31、19:9)である。パウロは、モーセにつく洗礼をイスラエルが受けたことを語る(コリント一10:1-3)。


 


b.  モーセ期における啓示の形態


 わたしたちにとって特に関心があるのは、この期間中に生じた啓示の形態である。人が期待するように、わたしたちは、啓示の同じ三つの原初的な形態をこの期間において継続するのを見る。


‘(1)神現


  以前の期間と同じように、この特殊な期間において、わたしたちは神現が継続するのを見い出す。多様性の同じ類もまた非人格的な神現と人格的な神現の間に見い出される。


(a)   非人格的神現


  わたしたちが非人格的神現について語るとき、それは神が啓示したことがより人格的でないことを暗示していない。むしろ、神は啓示の非人格的様態を用いているということである。


 注目されるべき最初のそのようなものは、主の御使いの燃える柴の中においての現れである(出エジプト3:2、4)。「そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。・・・ 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、『モーセよ、モーセよ』と言われた。彼が、『はい』と答えると」この現れに伴う言葉啓示は、燃えているのに無くならない柴の意味についての何かを説明する。というのは、神は御自分が「わたしはあるという者だ」(I AM that I AM)(14)。これは、本質的に不変の永遠性(unchangeable eternity)の宣言である。


 同様の神現が雲と火の柱において現れた。「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった」(出エジプト13:21-22)。この章句からわたしたちは、雲と火の柱が神現であることを知る。というのは、主は御自身をその中に現したのである。出エジプト14:10は、ちょうど、燃える柴が主の御使いであったように、これを主の御使いと同一視している。


 特に意議深いのは、この神現はこのときのイスラエルの生活において取る永続性(the permanence)である。人間の堕落前の原初の状態は、神と人の直接的な人格的なまじわりの状態であった。神はエデンにおいてやって来て人間と語った。これが正常な状態であった。堕落とともに、このまじわりは切られた。族長たちの期間においては、断続的に神現があったが、しかし、今や、民全体が神に召され、神は民に公的で、より永続的な神現(a public and more permanent theophany)を恵み深く与えたのである(出エジプト14:19-24、40:38、民数記9:21、14:14、申命記1:33、ネへミヤ9:12、19、詩編78:14)。


 民との神の臨在の永続性は、神が御自身を幕屋(over the Tabernacle)で(出エジプト33:9、40:34以下、レビ記9:23、民数記9:15-23、11:17、12:5、17:7、20:6、申命記31:15、詩編99:7、イザヤ4:5)また、至聖所(in the Holy of Holies)(出エジプト25:8、22:29:45-6、レビ記16:2、26:11-12、民数記7:89)で啓示された事実において見られる。神の臨在のしるしであることに加えて、火と雲の両方の柱の形態の不限定(the indefiniteness)は、神の存在の霊的属性を暗示する。「主は火の中からあなたたちに語りかけられた。あなたたちは語りかけられる声を聞いたが、声のほかには何の形も見なかった」(申命記4:12)。


 わたしたちは、それは特に火と雲において啓示された栄光(kabod:כבודorδοχα)であったことを聖書において教えられ(出エジプト16:20、24:17、レビ記9:6、23、24)、また、こうして、これは燃える火あるいはなめ尽す火(a consuming or devouring fire)と呼ばれる(出エジプト24:17、レビ記9:23-4)。


(b)   人格的神現


 わたしたちが見てきたように、主の御使いは、啓示の非人格的な手段によって現れた。神についての他の言及がある。それは、神の現れを描かないし、また、わたしたちは、神はこれらの幾つかにおいて人格的な形態を取ったことを推測してよいだろう。出エジプト23:20-21は次のように読む。「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。あなたは彼に心を留め、その声に聞き従い、彼に逆らってはならない。彼はあなたたちの背きを赦さないであろう。彼はわたしの名を帯びているからである」。これは雲と火の柱についての記述のようによく似て響くが、しかし、ここに、わたしたちは、御使いの語りかけへの言及を持ち、それは御使いの人格的な現れを多分意味している。御使いの神性(the deity of the Angel)が彼に対して罪を犯すことに関して教えられている。そうすることは神に対して罪を犯すことと同じであった。


 再び、出エジプト33:14において、わたしたちは、「主が、『わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう』と言われると」を見い出す。これは主が彼の御使いを民に送ることを拒否した後であり、また、モーセが彼らのために執り成した。最後には、神は彼らと共に行くことに同意した。わたしたちは、この臨在がどのようにして現わされたのかについての明らかな徴候がない。


 これらの2つの場合は神の啓示の2つの特別な様態への言及を導入している。すなわち、「御名」(the Name)と「臨在あるいは神の御顔」(the Presence or Face of God)である。出エジプト23章の御名を帯びている御使い(the Name-bearing Angel)は、神と同一視される御使いである。神の臨在が出ていくことは、神が出ていくことに等しくならねばならぬ。御名(the Name)は、聖所の場にある。ヤーウェは、御自分の御名を聖所に住まわせる(申命記12:5、21、14:23、24、16:2、6、11、 26:2)。他のところでは、神は聖所に住むと言われている。ヴォスは、「御名は人間の理解における何かではなく、それはヤーウェ御自身に等しい。さらに、そのようなものとしてのヤーウェと『御名』(his Name)の間には見解において違いが常に残る。神の御名は啓示における神である。そして、同じ区別がシュキナー、御使い、臨在(the Sheckinah,the Angel and the Presence)の使用に適用する」(Vos,op.cit.p.123)。


 モーセは神と直接語る特権を持っていた。これは、出エジプト33:9-11に描かれている。「モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者である若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった」。この同じ章において、わたしたちは、「モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者である若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった」(出エジプト33:19-23)を見い出す。最初の例においては、モーセは直接近づき、語ることができるところのある神現の神によって用いられる手段があったと思われる。しかしながら、山において、モーセは神の栄光のより直接的臨在と直面していて、また、神のうしろを見ることだけが許されたが、しかし、神の御顔の十分な栄光ではなかった(not the full Glory of his Face)。


 


 


(2)預言


 預言の用語の下に、わたしたちは、神によるすべての言葉のコミュニケージョンを含んできた。神は燃える(the Burning Bush)柴の中からモーセに語りかけた(出エジプト3章)。神はモーセがなすべきことを教えた。神はいろいろな疫病を命じ、また、ファラオの上に御自分の力の証明に対する御自分の目的の部分としてのファラオの心の頑なさを説明した(出エジプト3:19-20)。神は最大限に詳しく、言葉のコミュニケーションにおいて過ぎ越し(the Passover)その他に対する教えを与えた。


 神は、モーセとアロンに言葉啓示を与えただけでなく、全イスラエルにも語りかけ、その結果、すべての人々がシナイ山(Mt.Sinai)から語る神を聞いたのである。出エジプト20:1-18を見よ。民はこのことによりそのように恐怖を感じたので、彼らは、神がモーセを通して神の言葉を自分たちに語ることを求めた(出エジプト20:19、 申命記5:22-27、ヘブライ12:19-20)。神は恵み深くこれに同意し、そして、神の声はキリストの時代まで再び民衆に聞かれなかった(ヨハネ12:28-9)。使者たちが神の言葉のコミュニケーションを仲介する必要が預言者の職務(the office of the prophet)を生じさせた。モーセは、わたしたちがこの機能を果たしたことに注目したとき、そして、申命記18:15-22において、彼はその職務を制度化した。それは結果として、預言者である主イエスにおいて頂点に達する(使徒言行録3:22)。


 口頭の言葉啓示に加えて、この期間は神御自身が石の板に律法を書いたという事実を記録している(出エジプト31:18、32:15-16、34:1、28)。ここに最も永続的な形態における言葉啓示がある。それは、神御自身以外の誰によるものでもない。これとともに、わたしたちは、モーセが書いた記録を見い出す(出エジプト17:14、24:4、34:27、民数記33:2、申命記31:9、19)。


 神の言葉啓示は神現と奇跡と絡み合っている。この言葉啓示なしでは、わたしたちは神の現れあるいは行為を理解できないであろう。


 


(3)奇跡


 モーセの期間は奇跡による啓示に対して最も顕著な期間である。奇跡を描く幾つかの用語が用いられる。出エジプト3:20において「驚くべき業」(wonders)と訳され、出エジプト34:10において「驚くべき業」(marvels)と訳されたNiphlaoth:נפלאת、出エジプト15:11において「くすしき御業」(wonders)と訳され4:21において「奇跡」と訳され、詩編105:5において「驚くべき御業」と訳されたpele:פלאがある。ギリシャ語はこれらをτερατείαと訳している。強調は通常ではないもの、特別なもの、あるいは、異常なものにある。申命記3:23においては「力ある業」(mighty acts)、詩編21:13において「力ある業」(power)と訳され、詩編54:2においては「力強い御業」(might)、詩編66:7においては「力強く:力によって」と訳されたGiburah:גבױרהがある。ギリシャ語においてはδύναμιςと訳されている。詩編8:6、詩編103:22、イザヤ5:19においては「業」(works)と訳され、詩編19:1において「手の業」(handiwork)と訳されるMaaseh:מעשהがある。詩編9:12、詩篇77;11において「御業」(doings)と訳されるmaasyimがある。ギリシャ語においては έργαμεγαρέαと訳されている。何故なら、それらが啓示している偉大な神の力のゆえにである。それらは、oth :אותと呼ばれ、出エジプト3:12、12:13においてしるし(token)と訳されている。何故なら、それらは神の臨在の証拠あるいはしるしであるからである。わたしたちは、すでに創造と摂理が啓示的であることを考察してきた。自然の働き(the works of nature)も聖書においてはしばしば驚くべきもの(wonders)と呼ばれた。この事実は、聖書は自然と奇跡の間の区別をしていないことをわたしたちに考えさせるように誤り導くべきではない。もちろん、わたしたちは、奇跡の理念を自然と矛盾し、それゆえに不可能と思うことできない。聖書は、神には何もできないことはないことを教えている(創世紀18:14、申命記8:3以下、マタイ19:26)。他方、聖書は自然の秩序正しい法則は神によって確立されたことを認めている(創世紀1:26、28、8:22、詩編104:5、9、119:90-1、148:6、エレミヤ5:24、31:35以下、33:20、25)。他方、神が自然の上に力を行使するので、明白な区別が認められる(マタイ8:27、9:5)。


 奇跡は、その土台および背景として創造と摂理の御わざを持つ。それは、神の継続的みわざ(a continuing wonder of God)である(詩編33:6、9)。起こるすべてのことは、神の意志と力にその究極的基礎を持つ。神は、エジプトに対する疫病(出エジプト5章以下)、ナダブとアビフの死(レビ記1-:1-2)、コラの死(民数記16:30-33)などにおいて見られるように、罪と邪悪さへの不興を裁きの奇跡によって啓示した。その最後の場合においては、奇跡は「新しいことを創始されて」(make a new thing)と呼ばれるが、文字通りには、被造物を造る(create a creation:beriyahyibra:בריאהינרא)である。他方、恵みの奇跡もある。過ぎ越しは正確において司法的であり、また、贖罪的である。紅海渡河(the crossing of the Red Sea)もそうであった。というのは、神の民は、神による贖罪と保持の現実的な行為があっただけでなく彼らの信仰を勇気づけるためにも意図されたものであった。出エジプト4:1-9において、モーセは、ヤーウェによって使命を託されていたことを証明するためにしるしが与えられた。「「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる」(出エジプト4:5)。申命記は、モーセについて預言者および奇跡を行う者としての叙述で終わっている。「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、 また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった」(申命記34:10-12)。


 奇跡による啓示は幾つかの目的のため現れる。すべての最初に、それは神の使者の権威を証明するためのしるしとして与えられる。第2に、罪を罰するための神の直接的な行為により、罪に対する神の裁きを表す。第3に、神の直接的な行為であり、神御自身のため自然と歴史の秩序正しい手順に介入する(inervening in the ordinary routine of nature and history)。啓示の最後的な意図は性格において特に贖罪的である。モーセの歴史の出来事はキリストのみわざの予表(foreshadow)である。これは、特に出エジプトそれ自体に見られる。イスラエルの民は奴隷状態から贖われたのである。この贖いは、過ぎ越しの小羊の犠牲を通してのみ果たされ、また、神の力強い御腕により彼らに紅海を渡らせたのである。神は、それから、彼の民のために、荒れ野において岩から水を与えた。それは、パウロがキリストと同一視している(コリント一10:1-3)。また、神はマナ(manna)で彼らに食べさせた。それは、キリストが御自身を命のパン(the Bread of Life)であると示している(ヨハネ6:31-35)。換言すれば、モーセの期間の間における神の行為は救い主としてキリスト・イエスにおける神の行為の絵である。再び行為は言葉の解釈を伴ったことが考察されるべきである。


 


(4)象徴的あるいは礼典的啓示


 モーセの期間は、まさに多くの神現、預言、奇跡によってしるしづけられたように、その期間は、礼典的あるいは象徴的啓示の領域において多くのものでしるしづけられた。わたしたちは、すでにこれについては幾ばくかのことを神現的啓示の形態との結びつきにおいて考察してきた。すなわち、雲と火であり、それは神の属性のある局面を表す。 


 モーセの期間は、アロン的な祭司制度(the Aronic priesthood)、犠牲制度(the sacrificial system)、礼拝の儀式主義的形態(the ritualistic form)の制度化の期間であったことに特別な意義がある。これは、この制度についての詳細を研究するときではないが、しかし、神は御自分の真理をモーセに啓示することにおいて象徴的なもの、また礼典的なものを用いた。そのすべての装備をもった幕屋(the Tabernacle)は、象徴的意味を持っている祭司制度と礼拝の儀式的なものすべてとともに、キリストにおける福音の現実性(the reality)と指し示している。


 


モーセの期間のまとめ


 モーセの期間に関するわたしたちの発見をまとめると、わたしたちは次のようなものを見い出す。


1.モーセ自身が、アブラハム契約とキリストの両方に関して、啓示の経綸において独特な場を担っている。


2.旧約時代の他の時代に対して規範的となる各領域における新しい事柄をもって、この期間における啓示の4つの様態の継続がある。


3.啓示の言葉の形態は、語られる言葉と同様に書かれた言葉を意味する。


4.特別啓示の有機的な性格は、すべての異なった様態がメシアの到来を予表することにおいて見られる。それらは贖罪史において相互に絡み合っている。


5.モーセから旧約聖書の終わりまでの啓示


 モーセの期間の終わりとともに、イスラエルは明瞭な民族となり、自分自身の国を持った。彼らが王の下に統一された国家的な性格を取る前に、移行期間がある。王制の(the monarchy)の確立とともに、王の職務の制度化(the establishment of the royal office)が来る。神は、賢明な摂理において、王国の確立の前に、預言者、祭司、王の3つの職務において仕える一人の人、すなわち、サムエルを起こした。


 ヨシュアと志師たちの移行期間において、啓示の3つの原初的な形態が継続した。しかし、以前よりも、より少ししか顕著でない。ヨシュアはエリコで主の御使いに出会った(ヨシュア5:13以下)。彼はエリコで、主の奇跡的な助けを経験した(ヨシュア6章)。主は彼と言葉のコミュニケーションにおいて語った(ヨシュア7:10以下)。志師たちもそうである。すべて3つの形態は再びサムエルの日々に経験された。預言のまばらさ(the sprasity of prophecy)は、彼の経歴のはじめに注目される(サムエル上3:1)。


 預言者、祭司、王の3つの職務の確立ともに、啓示の形態の主な様態は預言であった。主な期間はエリヤとエリシャの期間であったが、幾つかの奇跡があった。神現はごくまれで(far less frequent)あった。部分的には、これは、そこに主が住む幕屋と後の神殿(the Temple)の永続的で象徴的な形態について説明され得る。神の臨在は、至聖所と 契約の箱(the Holy of Holies and the Ark of the Covenant)と結びついている。


 栄光の雲が奉献式のとき神殿を満たした(列王紀上8:9-11)。神殿の崩壊ともに、人格的なあるいは御使いの現れ(angelophanies)が再び生じた(ダニエル3:


25、5:5、8:13、15、9:21、10:5以下)。これらの形態についてより詳しく吟味することはわたしたちの目的ではないが、この期間の間中における啓示の最も顕著な形態については多少時間を使いたい。すなわち、預言の形態である。申命記18:15以下において、モーセは、起こされるであろう預言者たちの職務を預言していた。彼は、預言者職の本質(the essence of the prophetic office)についての記述をそこで与えた。「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう」(申命記18:18)。これは、nabi: נביאという預言者という言葉の使用法に一致している。出エジプト7:1においては、アロンがモーセの預言者として描かれた。「主はモーセに言われた。『見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者(nabi)となる』」。この関係性は出エジプト4:15、16において十分詳細にされている。「彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる」。換言すれば、アロンは、モーセの預言者として、あるいは、彼の代弁者(his spokesman)として描かれていた。モーセはアロンに対して神の場に立っている。すなわち、彼はアロンが語るべきことについて絶対的な権威を持っていた。そのように、預言者は神の代弁者である。これは、常に将来を語ることを含むわけではない。それは、生ける神からの権威ある使信を持つ権威ある代弁者であることを意味する。


 これは近代の批評的な学者たちには極めて異質の概念であることが考察されるべきである。彼らは、預言者たちを彼らの時代の「怒れる若者たち」(the angry young men)と仮定する。彼らは、預言者たちは彼らの歴史的状態から、また、彼らの歴史的状態においてのみ語ると仮定する。多くの預言者的な使信は、直接的な歴史的文脈に向けられていたことは完全に真実である。しかし、それは、語られるところの社会的な不正によって妨げられた「怒れる若者たち」(the angry young men)の言葉ではない。預言者的職務は、わたしたちが上に示してきたように、人間の王制の下の国家の確立ともに真に存在するようになった。換言すれば、国家と預言者職の間には不可欠な関係があった。預言者たちと王たちの間の緊密な関係が旧約聖書の他の歴史を通して見られるのである。ナタン、エリヤ、イザヤ、エレミヤは、捕囚前預言者たち(the pre-exilic prophets)の間にいた。彼らは彼らの各々の時代の王たちと緊密な結びつきに立っていた。彼らの多くの使信はこれらの王たちに向けられていた。王たちの罪深さにゆえに、預言者的使信はしばしば叱責の使信(one of the reprimand)であった。この事実は、批判的な疑問を生じさせてきた。それらはイスラエルにおける2つの異なる党派を表し、また、2つの異なった対立する制度(two different conflicting institutions)を表している。そのような見解は、2つの職務の性質について誤解している。王たちと預言者たちの両方が神の言葉(God’s  Word)に真実である限り、両方が完全な調和にあった。預言者たちが王たちをあるいは民を定罪するときでさえ、それは、神と王制および王国についての適切な概念に真に忠実であった。預言者たちは、自分たちは王と民に王国と王座は主からのものであり、人間からのものでないことを思い出させることを知っていたのである。


 預言者(nabi)の語源は確かではない。種々の暗示が与えられてきたが、しかし、何の派生の言葉かは明らかではない。こうして、それについてのわたしたちの理念のためには、旧約聖書における使用法に依拠するのが最善である。すでに注目したように、出エジプト4:16と7:1が、わたしたちにその使用法の絵を与える。これはエレミヤ1:5、9によって確認される。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。・・・主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。『見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける』」。ここに、わたしたちは、預言者の職務は、アロンがモーセに対して果たしたのと同じ機能を意味することを見る。これらの両方(出エジプトとエレミヤ)の章句を取ると、わたしたちは、預言者についての理念は、自分以上のお方の公的な代理人(an official spokesman)であるという事実に印象づけられる以外にはあり得ない。預言者たちが語るところのことは、自分の言葉ではなく、自分たちをその場に置いたお方の言葉なのである。


 「預言者の仕事は語ることの領域にある。そして、この語ることは通常の語ることではない・・・。それは、神の権威、また、ある程度は、神の全能を帯びる独特な表明であり、神とのコミュニケーションに基づいている。ヤーウェは、口に触れ、口に言葉を入れ、そして、彼らは神の言葉の効果を得るのである」(Vos,op,cit.p.211)。


 ヴォスがそのような職務についての意味を語り続けるとき、彼は言う。「それが旧約聖書の宗教を、ヤーウェとイスラエルの間の意識的な独特な交流の宗教、啓示の宗教、権威の宗教、神が支配する宗教、人間が聴き従う態度に置かれる宗教を作るのである」(Ibid.,pp.211-212)。


 2つの他の言葉roeh:ראה とchozeh:תזהは、英語では、「先見者」(seer)と訳される。それらは、特別な洞察力(special insight)を持つ人である。それが現実の幻かあるいは超自然的な洞察力であるかは、言葉自体によっては決定され得ない。原初の意味は、疑いなく、物理的視力に言及する。後に、これは物理的視覚以上のものを含めて広げられた。nabiという用語は、語ることにおける預言者を描く。他方、roeh とchozehは、預言者を使信の受領(his reception of the message)における預言者を描いている。


 ヴォスが暗示するように、預言者たちに使用される他の用語は、真に自己説明的であり、詳しい議論を必要としない。それらは、tsaphah:צפה「見張り」(outlooker)、natsar:נצר「見張り」(watchman)、malakyehowah:מלאךיהױה「ヤーウェの使者」(messenger of Jehovah)、raah:רעה「羊飼い」(shepherd)、ishharuach:אישהרױח「霊の人」(man of the Spirit)、ishElohim:אישאלה׳ם「神の人」である。


 2つの他の点が、申命記18:15以下における章区に関して考察されるべきである。最初に、預言者たちは神の民から召される。時折、神は預言を伝えために、イスラエル人でない人、バラム、エンドルの口寄せ(Witch of Endor)などを用いたが、しかし、これらの人々は預言者の職務を担わなかった。第2に、彼らは、モーセのようでなければならない。すなわち、彼らはモーセにおいてそのように多く始められ、詳しく述べられた同じ啓示を継続するのである。彼らの教えは彼の教えのようであり、また、彼の教えの上に立てられる。「預言者たちは、律法に反するのではないが、しかし、律法それ自体に熟慮し、それを作り直すのではなく、民の心の前に律法を保つことしたのである」(William Henry Green,Prophets and Prophecy,Princeton:The Princeton Press,1888 p.10)。


 申命記18におけるこの章区を去るに前に、わたしたちは、定罪されるところの神の御心を求めるそれらの形態を注目しなければならない。換言すれば、啓示についての聖書的な理念を発見するために、啓示でないところのものについての聖書の教えを吟味する必要がある。申命記18:10-14は、異教が彼らの神々からの使信をそれによって求めたところの手段を描く。これらを、各々についての短いコメントをつけて、一覧化しよう。


 


(1)子供たちに火をくぐらせること


 これは子供たちの人間の犠牲に言及していると多くの人々により信じられている(列王下3:27、17:31)。それは、イスラエルにおいても折々に行われた(列王下16:3、17:17、21:6、23:10、歴代下28:3、33:6)。それはモーセにより禁止されただけでなく、預言者たちによっても定罪された(ミカ6:9)。人間の犠牲は、それ自体においては(per se)定罪されるべきものではない。というのは、これは、キリストの犠牲を排除するであろうから。しかし、それは神が始め、神が定めた行為であった。人間が、他の人間の上に神として行為する大権を取ること、また、他の人間たちを犠牲にすることはでしゃばりと冒涜の極致(the height of presumption and blasphemy)である。さらに、神の認可なしに命を取ることは殺人である。それは再び神のかたちへの攻撃であり、また、こうして、神への攻撃なのである(創世紀9:6)。それゆえ、異教徒のこれらの忌まわしいことの最悪であり、また、この領域における罪の一覧表のトップに置かれる。


(2)3つの用語:占い(diviation)を使う者、ト占(augury)を行う者、魔術師(enchanter)


 すべて3つの用語は、時間と空間における遠い事柄を見分けることを企てる人々を描く。それは、こうして、通常の手段によっては見られ得ないところのものである。再び、ここに、人間の認識についての神が設定した限界を、自分自身の工夫によって、超えて見ようとする人間の企てに直目する。それは、人間の自律性の企てであり、でしゃばりである。エゼキエルは、それを「欺きの占いを行い」(lying diviation)(13:6-7)と呼び、それは、その真の性格を教えている。


 


(3)魔術師(sorcerers)と魔法使い(charmaers)への言及


 これは魔術(magic)の領域を導入する。魔術は真の宗教に対立する。真の宗教は生ける神と人間が共に歩くことに関係する。魔術は、他の超自然的な力を扱う人間の企てである あるいは、それが神の誉れであるか否かに関係なく、自然的力を使うことによって事柄を強いる企てである。


 


(4)使いの霊(familiar spirits)、魔法使い(wizards)、降霊術師(necromancers )に相談する人々 


これらの用語のすべては、今日、心霊主義(spiritism)と呼ばれるところのものである。この方法で知ることを得ることも定罪されている。


 神の民は啓示のゆえに神にのみ依拠する。神は御自分の御心を発見する適切な手段として預言者たちによる御自分の言葉を人々に約束した。如何なる他の近づき方も、神の目において忌まわしいものである。というのは、それは神御自身の啓示の拒否であり、また、それは神なしで人間の十分性について断言することである。


 啓示についての聖書的な理念を研究することにおいて特に関心があるのは、預言者たちへの啓示の形態である。わたしたちは、この件につき批評的な見解を扱わない。これらについての卓越した研究は、ヴォスの「聖書神学」(Biblical Theology)とヤングの「わたしの僕たち預言者」(My Servants the Prophets)である。わたしたちの関心は、聖書的なデータである。ヴォスは預言者たちへの啓示の形態は次のように分類されることを暗示している。聞くことによって伴われる主の語り(the speaking of the Lord following by the hearing)、そして、見ることによって伴われる主による見ることである(the seeing by the Lord following by the seeing)。


主の語りかけを描く最も頻繁な表現は、「主は言われた」(’amaryehowah:אמריהוה)、「主の言葉」(dabaryehowah: דבריהוה)、「主の託宣」(neumyehowah: נאםיהוה)である。最初の2つの言葉は、完了形で、「主は言われた」と訳せよう。第3の言葉は、受身の分詞で、「語れた事柄」を意味する。主のこの語りかけは客観的な啓示である。こては、人が、主は、聞くことができず、語ることもできない偶像と対照されていることを思い出すとき明らかである。この対照は、もし神が実際に語らなかったのであれば、意味を失うであろう(イザヤ41:22-26、43:9、エレミヤ10:5、ハバクク2:18)。ヤーウェは口を持つと言われている(イザヤ58:14)、また、こうして、実際に語ることが理解されている。時々、この直接的な言及が特別な預言者に語りかけているヤーウェになされている。彼はわたしに語った(イザヤ8:1.18:4)。さらに、ヤーウェの発言は限定された場所と時に関してなされている(イザヤ5:9、16:13-44、22:14、エレミヤ1:13、エゼキエル3:12)。また、サムエルは、それがエリの声と間違えたほど明白に声を聞いたことが思い出されるであろう(サムエル上3:8-9)。


 その声が外的なものであったかどうかの関しては、容易には決定されない。もしそれが内的であっても、その客観的な性格を取り去ることはできない。ちょうど幻が内的な目によって見られ、そして、見る者の産出ではなく、主によって彼にもたらされたように、聞くことにおいても同じである。ヴォスは、外的な声について、「神の民への神の外的接近は多かれ少なかれ礼典の性質を持っている」(Vos,op.cit.p.238)。外的な言葉の使用は、より低い霊的な状態においては彼ら対してより必要とされるのである。彼らは、自分たちが把握できる外的なものを必要とした。他方、より霊的な預言者は、外的な言葉なしで、言葉を内的に受けることできた。


 聞える言葉に並行して、見えるものがある。これらは幻(visions)と呼ばれる。幻は記述預言者たちに続いて見い出される(イザヤ6章、エレミヤ1:11-12、24:1、エゼキエル1章-3章、8章から11章、37:1-10、40章-48章、ダニエル2:19、7:8、10章、11:12、アモス7:1-9、8:1-3、9:1、ゼカリヤ1:9、6:1-8)。次の預言者たちは幻を受けなかった。ホセア、ヨエル、オバデヤ、ヨナ、ミカ、ナホム、ハバクク、ハガイ、マラキ。


 幻は、エリシャの僕の場合のように物理的な見ることも包含し得た(列王下6:17)。彼の目は彼らを守る天の万軍を見ることに開かれた。エルシャ自身はこれを必要としなかった。第3の可能性がある。すなわち、栄光を見るために人が天に引き上げられることである。これはイザヤ6章の場合であった。パウロもそのような経験を語っている(コリント二12:1-4)。


 「幻」(vision)という用語は、結果的には、伝達のその特別な形態に関することなしに、その専門的意味を失い、啓示現わすものとなった。イザヤ書は、「イザヤの幻」(The vision of Isaiah)という肩書を担っている。


 預言者たちが恍惚状態であったかどうかという疑問は、ヴォスによって非常に有益に論じられている。彼はその用語のギリシャ語の使用法は、精神異常(insanity)あるいは「熱狂」(mania)を含むことを指摘している。旧約聖書におけるその使用法は驚きと恐れ(astonishment or dread)に調子を弱められているが、なお「我を忘れること」の理念をなお担っている。フィロン(Philo)は、体からの理性あるいは精神の文字通りの不在(the literal absence of reason or mind:μους)を意味するものとして使用している。「神の霊が預言者に達すると、彼はμουςが出ていくのに気づく。なぜなら、不死なる者が死すべき者の宿るのに適しているからである」(Vos,op.cit.p.244)。換言すれば、預言者たちは、恍惚状態の間中、自分の精神がないのである(with out his mind)。ヴォスは、この概念を聖書の預言者たちにあてはめることを拒否している。「聖書のデータの表面においては プラトン的なあるいはモンタニスト的な(Montanist)意味における恍惚状態(ecstasy)は預言者主義(prophetism)において何に場所を持たないことは明白である。聖書の預言者たちは幻覚的な状態から出て、見られ、聞かれる事柄についての明白な記憶を持っているのである。聖書の預言は、神が人間の精神を追放する過程でないないのである。その真の概念は、それは人間の精神を神との交流の最も高い場所に引き上げることなのである。そして、それは、その行使が意識の領域にあるということが、聖書の宗教のまさに本質なのである」(Vos,op.cit.p.244-245)。


 わたしたちは、旧約聖書のモーセ後の期間に関する啓示をまとめましょう。


(1)啓示についての4つの様態が、特に預言により大きな強調を持って継続してく。


(2)預言者職(the prophetic institution)が王制(the monarchy)とともに同時に立された。


(3)預言者は本質的に神の代弁者(the spokesman of God)である。


(4)預言者たちは、神に選ばれた民から召された。


(5)彼らは、モーセを通してすでに始まっていた啓示を継続すべきであった。


(6)啓示の形態にかかわらず、預言者たちは主から客観的な啓示を受けた。


(7)預言者たちにおいて、強調は啓示の言葉形態にある。彼らは、言葉啓示を受けただけでなく、その啓示を説教と記述の両方において言葉で伝えた。


 


4. 中間期における啓示


 旧約聖書の終わりを示す聖書の研究は、紀元前4百年ごろ生じた。そのとき、沈黙の時代がある。預言者たちはいなし、新しい特別啓示もこの期間中はなかった。何故これが生じたのか。


 これに答えるため、人は贖罪史と啓示の密接な関係を知らなければならない。啓示史は、贖罪史の局面である。ここから、人は、多くの贖罪的活動があるところには、それに伴う多くの贖罪的啓示がある。そうであるので、エジプトからのイスラエルの贖いとともに、啓示の豊かな期間がある。また、王制の確立とともに、預言者たちの制度が来たのである。審判の時代においてさえも、それは神の贖罪的活動の部分であったが、啓示に強調があった。他方、王制の過ぎ去り、また、贖罪史における神の不活動(the inaction of God)とともに、啓示における沈黙が来る。これは、神が御自分の民を捨てたことを意味しない。かえって、それは、待望の期間と一般的摂理の時代であり、ギリシャ―ローマの世界(the Graeco-Roman world)を、福音が時満ちて、広がるための伝達手段(the vehicle)として仕えさせるのに育てた(raising up)のである。


 


5. キリストの地上の初期における啓示


 旧約聖書に関して考察されよう一つのことは、啓示のすべての様態の未完成である。旧約聖書の神現は一時的に過ぎない。神殿における栄光の雲でさえもそれ自身を続くものとして示していない。もちろん、バビロン捕囚(the Babylonian captivity)とともに、契約の箱(the Ark of the Covenant)は無くなった。このすべては、神の未完成の啓示の感情を残す。もっと来るべきものがあるはずである。預言もそうである。王国の傾きとともに預言者たちは、次第に、メシアとメシアの時代の到来に言及した。旧約時代の終わりともに、人はいつか預言における神の約束が実現することを期待したままにされる。旧約聖書の奇跡も未完成に残る。エジプトからの救出は、贖いと呼ばれ、また、しかし、それは、キリストにおける神の偉大な贖罪的行為を指し示すだけのものであった。他の奇跡は、それらはその時代に対して諸力(the forces)と自然法則に勝つものであるが無くなった。それゆえ、全被造物が贖いを待っている。もちろん、旧約聖書の象徴的なものと礼典的なものはすべて、実体を予表する(foreshadow the reality)。ヘブライ人への手紙は、これらの定め(these ordinances)は、それらが常に反復を必要としていることにおいてそれらの弱さを示している。それらは、身を清めるが良心を清めはしない(ヘブライ9:13-14)。


 わたしたちは、それゆえ、旧約聖書の全啓示が未完成に留まるのを見る。啓示のすべての標準は、それは唯一つの有機的な全体を構成するが、それ自身において未完成(incomplete)である。それらは、こうして、来るべき完成を前方に差し示す(ヘブライ11:39-40)。この完成あるいは実現(this completion or fulfillment)は主イエス・キリストにおいて見い出されるべきものである。彼は、自ら旧約聖書との結びつきにおいて それを破壊するものとしてでなく、実現する(完全に実現することを意味する強い言葉: a strong word,implying complete filling)ものとして来たことを語った(マタイ5:17)。わたしたちが、新約聖書において見い出される啓示を概観するとき、わたしたちは極めて選択的である。わたしたちは、最初にキリストにおいて見い出される啓示についての序論的な章句を吟味し、その後、彼に関する啓示の4つの形態について考察する。


 


a.  序論的章句


(1) ロゴスであるキリスト-ヨハネ1:1-14


 ヨハネの序言は、キリストを非常に暗示的な用語で描く。ヨハネは、キリスト名としてロゴス(Λόγος)という用語を用いる。これがロゴスの適切な同一視であることは、ロゴスは肉となり、恵みと真理に満ちという14節からも、また、恵みと真理はキリストと同一視されている17節からも明らかである。彼は神から区別されていて、また、神と同一視されている。次の節は彼について神の創造的な活動に関わっていたことを語る。ロゴスという用語は、彼の機能的活動においてと同様に彼の存在論的活動の両方において(in both his ontological as well as his functional activity)彼に言及している。彼は三位一体の第二人格としてのロゴスである。彼は常にロゴスであった。彼は、神を啓示する者として機能することにおいてロゴスになったのではない。それは、彼がロゴスの機能に仕えるため三位一体のふさわしい位格であるところのロゴスであるゆえである。


 ロゴスのこの二重の使用法は、ロゴスが永遠のロゴスから命への、また、それから光から光への前進によって生まれる。光は啓示を暗示する。これはロゴスの機能であるが、しかし、ロゴスの理念はまさに啓示よりも広い。ロゴスとして彼は神である。ロゴスとして彼は創造者である。ロゴスとして彼は命である。そのときだけ、ロゴスの啓示的な機能が光として現れる。この分析から、わたしたちは、彼は啓示においてゴスになったという如何なる理念を排除しなければならない。


 この章区に基づいて、キリストを神の人格的言葉(the Personal Word)、あるいは、受肉の神の言葉(the Word of God Incarnate)として語ることは極めて適切である。しかしながら、このことを言うために、聖書が人格的言葉と書かれた言葉(the Written Word)の区別を教えていることを如何なる仕方においても消し去るべきではない。また、わたしたちは、人格的な言葉は受肉のキリストとしてのみ存在すると語ることに警戒すべきである。人格的な言葉は三位一体の第二人格以外の何者でもない。神の永遠の言葉である。


 人格的な言葉と書かれた言葉を区別して、「言葉」と訳されるロゴスとレーマ(ρήμα)いう2つのギリシャ語に注目することは興味深い。ロゴスは明白に人格について用いられる。人格的か書かれたか、その使用法について幾らかの曖昧さがるかもしれないが、口頭の言葉へのどの言及も適用(an accomodation)だけであると主張する人々がいる。それが書かれた言葉に適用される場所においては、それはそのことを真に意味せず、間接的に理解されねばならない。書かれた言葉は、人格的な言葉についての証言(a witness to the personal Word)である。他方、レーマは、そのような人格的な言及はない。それは、書かれたにしろ、あるいは、語られたにしろ、口頭の言葉に特に言及する。たとえば、マタイ4:4、ルカ3:2、ペトロ一一:25を見よ。こうして、聖書は、人格的な言葉と書かれた言葉を区別すべきことを明らかに教えている。


 


(2)明白な神のかたちであるキリスト


 この章句において、わたしたちは、神は御自身を過去にいろいろな仕方で啓示したという事実の総括を持つ。特別な言及が、預言者たちによって語られた言葉啓示についてなされている。今や、神は御自身の御子により語られた。ここに、わたしたちは、彼において見い出される人格的な啓示と同様に、「彼の(父の)人格の明白なかたち」としての御子(as the express image of his (the Father’s image)person)についての言葉啓示への言及を持つのである。


 ヨハネ1章とヘブライ1章に両方から、わたしたちは、啓示についての聖書的概念に導入された新しい要素を見い出すのである。啓示は究極的には人格的なの(Personal)である。わたしたちに言葉啓示(the verbal revelation)を与えたのは人格的な言葉(the Personal Word)なのである。見解に入っている人格は、神的であり人的の両方である。これらの両方の章句において、わたしたちは、彼の存在のこれらの局面についての両方を見るのである。啓示者としてのキリストの同じ強調が、彼は神的でもあり人的でもあるが、次の章句にも見い出される。ヨハネ一1:1-2、ルカ2:27以下、ヨハネ14:9、テモテ一3:16、ヨハネ17:6。


 


b.  キリストと啓示の4つの形態


 エデンにおいて神はやって来て人間と共に歩いた。堕落とともに、人間は自己を神から隠したが、しかし、神は人間を探し出した。庭からの人間の追放後、神は人間と共に歩かなかった。しかし、神は、折々にやって来て、いろいろな形態で人間に現れた。今や、時が満ちるに及んで、神の第二人格が肉となり、わたしたちは、インマヌエルである究極的な神現を見る。キリストは世に来てわたしたちと共にいるお方となり、わたしたちと共に歩き、わたしたちの前を行き、エデンで失ったまじわりを回復してくださるお方となったのである。これを、彼は受肉において成し遂げた。彼はわたしたちの性質を取り、罪はないがわたしたちと同一視され、しかし、彼は罪、死、地獄、サタンを征服するめ、わたしたちのために苦しみを受けた。彼は、わたしたちも、彼との永遠のまじわりにおいて御座の前に立つにふさわしくなり得るためというわたしたちの希望である。インマヌエル―神わたしたちと共にいます―聖書の宗教の本質を表す。神はアブラハムとその子孫に彼らの神となると約束した(創世紀17:7)。黙示論においてヨハネは、神御自身が彼らと共にいて、彼らの神となること以上に高くは登ることができない(黙示録21:3)。神が、御自身についての究極的で最後的な神現、神現的啓示の冠を与えたのはキリスト・イエスにおいてである。


 


(2)預言


 キリストは、ちょうど彼が神現的な啓示の頂点であったように、預言者的啓示の頂点である。彼が預言関係しているところの2つの方法がある。最初に、彼は預言者である。旧約聖書に出てくるすべての預言は、彼によって与えられた。ペトロは、キリストの御霊が彼らに与えた昔の預言者たちが彼ら自身の書物を調べたことを語る(ペトロ一1:10-11)。また、モーセが申命記18章において預言者職(the prophetic office)を約束したとき、彼はただ一人の預言者(a single prophet)について語ったことが思い出されるべきである(18節)。ペトロは、使徒言行録3;26において、この章句を引用し、それから、神はその預言者を御自分の僕において与えたことを言うことに進む(26節)。預言者として、キリストは言葉啓示を彼が語るすべてにおいて与えた。福音書は彼の教えに驚いた。「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者として教えられたからである」(マタイ7:28)。ペトロは証言した。「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょう。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(ヨハネ6:68)。


 彼は預言者だけであったのではなく、彼が言葉(the Word)でもあった。このことにより、彼はまさに神の啓示であった。彼は、わたしたちへの人格的な言葉である。彼は真理(the Truth)とも呼ばれる(ヨハネ14:6)。人間は、真理に代えて偽りを選んだ。もし、人間が最初の状態に回復されるなら、真理が世に導入されねばならない。神は、彼が女のすえによって罪に対する勝利の約束を与えたとき、このことをエデンにおいてすぐに行い始めた。エデンから前方へ、すなわち、キリスト・イエス、真理(the Truth)、真理の究極的啓示を指し示す預言の継続的な線がある。真理として、彼は自己自身を超越して上からもあるいは自己自身の彼岸からも啓示を受けなかった(no revelation from above or beyond himself)。彼は彼自身が預言の源泉であった。聖霊は彼の上に来ず、あるいは、彼の上に落ちなかったが、しかし、聖霊は彼に限りなく宿ったのである(ヨハネ3:34)。その聖霊によって彼は洗礼を受け、また、その御霊により彼は語り、行為し、生き、そして死んだのである(マタイ3:16、12:28、ルカ1:17、2:27、4:1、14、18、ローマ1:4、ヘブライ9:14)。そして、彼は、啓示と照明の御霊として、御霊を彼の弟子たちに与えた(マルコ13:11、ルカ12:12、ヨハネ14:17、15:26、16:13、20:22、使徒言行録2:4、6:10、10:19、11:12、13:2、18:5、21:4、コリント一2:12以下、12:7-11)(Bavinck.GerformeerdeDogmatiek,op.cit.Vol.Ⅰ、p.306)。                                                           


 


(3)奇跡


 神は、エデンおよびその後、神現においてやって来て、人間と共に歩いただけでなく、彼は預言において人間と語りもしたが、しかし、これは人間の救いのために十分ではなかった。人間は、神が人間のために行動することを必要とした。人間は、神に対して罪を犯すことにより、サタンとの同盟に陥ったその不敬虔な同盟を誰かが覆すことを必要とした。彼は、これを自分自身で行うことにはまったく無力であった。換言すれば、彼は神の奇跡(God’ s  miracle)を必要とした。わたしたちは、神が贖罪史において恵み深く奇跡を導入したことを見てきた。奇跡の流れが、エジプトからの贖いとエリシャとエリヤの奉仕者たちと結びついた奇跡の特別な集まりをもって、旧約聖書を通して続いていく。


 神現と預言とともに、奇跡はキリストの人格において頂点に達する。彼が世に来るのは、処女降誕(the virgin birth)の奇跡によった。彼の生涯は多くの奇跡によってしるしづけられ、また、もちろん、それらは彼の死者からの復活において頂点に達する。彼の奇跡は、神的臨在のしるし(signs of the divine of the presence)であり、メシア時代の証拠(proof of the Messianic work)であった。奇跡を行うことは彼のみわざの周辺的な部分ではなかった。それは彼のみわざの中心的な局面であった。彼の受肉、贖罪(atonement)、復活、昇天は神の偉大な救済的行為(the great saving acts of God)である。これらは、アダムが失ったパラダイスの再獲得の主要な行為である。これらの救済行為はまさに何かを啓示する手段ではなく、それらが神御自身についての啓示であった。奇跡は歴史となり 歴史それ自体が奇跡であった(Ibid.,p.306)。


 啓示の有機的形態は、啓示の三つの原初的形態すべてがイエス・キリストにおいてその究極的な表れを見い出すのである。神現としてのキリストは奇跡によって来たのである―真理を啓示するため、預言者であるため、また、わたしたちの救いのために必要とされていた奇跡を行うために。


 


(4)礼典


 啓示の礼典的な様態は、実体(the reality)を表すので、啓示のこの局面は、キリストの人格においては現れてこない。彼はすべてのそれ以前の啓示が指し示していた実体なのである。


 しかしながら、イエス御自身が後の世代のため福音のさらなる礼典的な啓示(further sacramental revelation)を制定された。以前の啓示によって型化されてきたものすべてを実現するために到来し、すべての以前の象徴的で礼典的な形態は使用を通過する(pass)のである。イエスの新しい礼典は、新しい状況を反映する。すなわち、贖罪のみわざが彼により達成されたのである。割礼と過ぎ越しの以前の礼典の両方が旧約聖書の犠牲制度の全体とともに、血を流すことを含んでいたが、洗礼と主の晩餐の新しい礼典は、如何なる血も流すことなしにキリストの犠牲の最終性(the finality)を指し示すのである。これらの新しいしるしは、二重の目的に仕える。すなわち、キリストの死を後ろに見、彼の再臨を前に見る。それらは、わたしたちに福音の祝福を示し、また、そうして、キリストの救済的なみわざを証言する言葉を伴い続ける。


 


6. 使徒的時代の啓示


 贖罪史はキリストのみわざを通って動き、教会史の性格を取り始めるので、啓示を続けることに対する新しい同一視が見い出される。すなわち、使徒制(the Apostrate)である。使徒制の主な機能はキリスト証言である(使徒言行録1:8、ルカ24:48)。この証言は、彼によって使命を与えられ、また、彼によって聖霊を与えられて、彼らをこの職務に備えるため、キリストの十分な権威が与えられた(マルコ3:14以下、マタイ10:18-20、マルコ13:11、ルカ21:13以下、ヨハネ14:26、15:26-27、16:13)。


 キリストについての権威ある証人としての使徒たちは、御言葉(the Word)を説教しただけでなく、彼らのある者たちは、キリストの生涯とみわざについての記録を書き、また、これらを教会に解釈したのである。この期間において啓示の言葉の要素(the verbal element)は特に顕著であった。奇跡は、使徒的権威のしるしとして証明的なしるし(as authenticating sign of the apostolic authority)として続いた。それらは、著しくより少しであったが、なお、この期間においても神現の少ない場合があった。キリストは、ステファノに死のとき、また、ダマスコ途上においてサウロに現れた。パウロは、第三の天に引き上げられた(コリント二12:4)。ヨハネは、パトモス島において天と地についての幻を与えられた。


 使徒職(the apostolic office)は、復活したキリストによって直接、任命された。それは独特な権威を担った。それは、教会史において再び反復され得ない。新約聖書が、使徒たちの権威によっても、あるいは、使徒たちの権威の下によっても、書かれ、完結された(completed)。


 すべての使徒的な啓示が使徒的期間で終わったかどうかという疑問は、特別な関心がある。わたしたちは、特別啓示のいろいろな形態は有機的統一性(an organic unity)を構成していてること、また、この啓示はすべて神現(The Theophany)、預言者(The Prophet)、奇跡(The Miracle)としての主イエス・キリスト(the Lord Jesus Christ)を指し示していたことを、すでに見てきた。これがそうなら、人は地上における彼の生涯とみわざの完結、また、使徒的期間においてなされた権威ある解釈の完結とともに、すべての特別啓示は止むであろう(all special revelation would cease)。


 ウォフィールドは言う。「もちろん、ここに認められ得るより深い原理がある。使徒的な教会の超自然的な賜物(the charismata)の使徒たちへの実際の付与は、幻映(an illusion)である。このより深い原理は、より広く、そのしるしまた保証として、啓示と奇跡の不可分の結びつきについて、徹底的な認識によって到達される。あるいは、もっと狭く、すべての啓示を最後的に(finally)イエス・キリストにおいてまとめたのである(Benjamin B.Warfield,Miracles:Yesterdayand Today:Real and Counterfeit,GrandRapids:WilliamB.Eermdmans,1953 p.25)。


 彼は続ける。「(神は)、むしろ、人類をその全体において扱うこと、そして、この人類に御自身についての完全な啓示を、有機的全体において(in an organic whole)与えることを選択したのである。そして、有機的啓示の歴史的過程がその完成に到達したとき、また、世の救済的な癒しのために意図された神についての全知識が世の思想の生きた体に中に組み入れられたとき、―もちろん、なされるべきそれ以上の啓示はないし、また、それゆえ、それ以上の啓示もなかったのである」(Ibid.p.26)。


 ウォフィールドは、同じ趣旨でヘルマン・バーフィンクを引用する。「聖書によれば、特別啓示は歴史的形態に引き渡された。それは、キリストの人格とみわざにおいてその終着地点に達した。キリストが現れ、そして、再び、天に帰られたとき、特別啓示は、実際、すぐに終わりには来なかった。聖霊の注ぎが続き、また、力と賜物の非日常的な働きが使徒制の導きにより、また導きの下にあった。聖書は疑いなくこのすべてを特別啓示の領域に数えて、そして、この啓示の必要性は、世において留まり続ける存在を、キリストにおいて頂点に達したところの特別啓示に与えるのに必要であった―聖書の言葉においてと教会の命においての両方において留まり続ける存在として(abiding existence both in the word of Scripture and in the life of the Church)。真理と命、預言と奇跡、言葉と行為、霊感と再生は特別啓示の完成において手と手をつないで行くのである。しかし、キリストにおける神の啓示が生じたとき、そして、聖書と教会において、世界の構成要素となったとき(in Scripture and church a constituent part of the cosmos)、そのとき、別の時代が始まったのである。以前と同様に、ことごとくのものがキリストのための備えであったように、そのように後には、ことごとくのものがキリストの結果となるのである。そのとき、キリストは彼の民の頭として組み立てられ、今や、彼の民はキリストの体に組み立てられているのである。そのとき、聖書は生み出され、今や、聖書は適用される(applied)。この特別啓示の新いし構成要素は最早追加され得ない。というのは、キリストは到来し、かれのみわざはなされ、彼の言葉は完成している(complete)のである」(Bavinck,op.cit.Vol.Ⅰ.p.319)。


 


Ⅱ.まとめ


 これまでの概観の神学的な理解を引き出すために、わたしたちの発見をまとめてみよう。


 


一般啓示


 わたしたちの周囲の、また、わたしたちの中にある創造された世界において、すべての人に向けられた神の一般啓示がある。神の栄光、彼の知恵、力、義、神性がこの一般啓示において見られる。この啓示は、特別啓示の背景として仕え、また、そのようなものとしてそれは十分である。それは、善か悪かの自己意識的な選択に(to the self-conscious choice of good or evil)人間をもたらすのには十分ではない。堕落に伴い、自然の世界は罪の結果を示していて、贖罪的な特別啓示の背景として再び仕える。再度、それはこの目的に仕えるが、しかし、人々を救いには導かない。この一般啓示は、権威がある。というのは、神がいつでも、どこでも、権威を持って語るからであり、あるいは、しかしながら、神が語るからである。さらに、すべての人々が言い訳できなくするのに十分である。


特別啓示


 人々を自己意識的な選択にもたらすために、神は人間に追加的な特別啓示を与えた。人間のはじめの堕落前の状態は、人間にとり正常な状態であった。この期間において特別啓示が与えられ、また、それは罪によって必要とされなかった。そのようなものとして、それは贖罪前的特別啓示(preredemptive special revelation)と呼ばれる。この「正常な」(normal)期間中、聖書の他のところを通して見い出される啓示の四形態に出会う。神は人間と共に歩く(神現)。彼は人間と語る(預言)。彼は人間のためにみわざをする(奇跡)。彼は真理をつたえるために木と庭の象徴(symboles of the trees and garden)を用いた。


 堕落に続いて、啓示のこれらの4つの形態は聖書の歴史の各時代を通して継続する。贖罪的特別啓示の必要性が、罪の後の人間をまったく失われた状態において見られる。神の主権的な恵みによってのみ救いがあり、また、この贖罪的啓示はこの恵みの現れである。神は御自分の特別啓示において権威をもって常に語る。もし人間が神を拒否したのであれば、神は人々を言い訳できないままにしておくほど十分明らかに語ったのである。エデンから前方へ、どの時代においても、この特別啓示は人々を救いにもたらすのにまったく十分であった。古い経綸において、この信仰は到来するメシアについての約束であった。彼の到来とともに、わたしたちは、今や、主イエスを信頼すべきであり、また、十字架上の彼の贖罪的みわざは、わたしたちの救いのためであった。福音のこれらの基本的な教義は各時代において十分明白に啓示されてきた。


 わたしたちは、聖書における啓示の様態と局面のすべてはその究極の意味を主イエス・キリストにおいて見い出すことに、再度注目すべきである。異なった様態は、有機的全体(an organic whole)を構成する。キリストは、彼に向うすべての実現であり、また、後に続くすべては地上における彼の生涯とみわざの結果である。彼のみわざの完結とそれについての記録とともに、使徒の期間の間中に与えられた特別啓示は止んだ(has ceased)のである。わたしたちは、主の再臨までは、如何なるそれ以上の特別啓示を期待すべきではない。彼の現れのとき、わたしたちは、ロゴス(The Logos)、神の明白なかたち(The Express Image of God)、神現(The Theophany)、預言者(The Prophet)、祭司(The Priest)、王の王そして主の主(The King  of the kings and Lord of lords)である彼においてまとめられた以前のすべてを見るであろう。


 


 


解説


 


さて、「第4章:啓示(外的認識原理:Principium Cognoscendi Externum)」の紹介が終わったので、7点の解説をする。まず第1点は、スミスが「啓示」を「外的認識原理」と呼んでいることの意味についてである。すると、スミスは、バーフィンクに倣って、神学が成り立つ認識原理は、客観的な外的認識原理である神の啓示(およびその啓示が文書化された聖書)と聖霊によって起こされる主観的な内的認識原理である信仰(信仰的理性、新生理性、再生理性)の密接不可分の関係において成立すると考えているので、「啓示」を「外的認識原理」と呼んで扱い、その後、次の第5章で「聖書(内的認識原理:Principium  Cognoscendi Externum)を扱い、さらにその後、第6章で「内的認識原理:Principium Cognoscendi Internum)を扱う。また、啓示は、これは神学の大元でこれがなければ神学は成り立たない根本的重要性を持つので、スミスは30頁を費やし詳しく述べている。スミスの「組織神学」は、全部で60章あるが、この啓示論に最も多くの頁を使っている。


第2点は、聖書における啓示の理念についてである。スミスは、これを扱うにあたって、啓示のはじまりの創造から聖書のかたちにおける啓示の完結までを歴史的に論じていく。すなわち、特別啓示の歴史的進展という方法で丁寧に見ていくが、この方法はヴォスが「聖書神学」で行った手法であり、折々にヴォスを引用しながら進めていく。


第3点は、スミスは、すべての啓示のはじまり、また、同時に、その後の啓示がなされていく具体的な場所である創造と創造したものを保持、統治する摂理が啓示であることを述べる。


第4点は、堕落前のエデンの園における啓示から啓示の完結としての聖書の完成までの歴史の各期間に区別して、その期間における啓示の特色を丁寧に論じていくが、スミスは啓示の形態を神現、預言(言葉)、奇跡(行為)、象徴的な啓示あるは礼典的な啓示に分類し、各期間において、その4形態の啓示がどのようになされたかを中心に見ていく。


第5点は、各期間における啓示の具体的な特色についてである。堕落前のエデンの園における啓示は、アダムへの神の語りかけ、象徴的な啓示あるは礼典的な啓示の命の木の使用、堕落後の啓示は聖書の完結まで贖罪的啓示となった。そして、アダムの堕落からノアの洪水までは、神が人間の邪悪さを許す神の干渉のない期間、ノアの洪水と結びついた裁きと憐れみの啓示、アブラハム・イサク・ヤコブなどの族長たちの期間における神の現れの啓示、キリトによる救いの型を表わすモーセによる出エジプトと40年間の荒れ野の旅におけるモーセの期間における啓示、モーセの死から旧約聖書の終わりまでの多くの預言者たちがメシアの到来を予告する神の啓示を語ったマラキまでの期間、マラキ以後の約4百年間啓示の無い中間時代、啓示の頂点であるキリストの地上の歩みにおける期間の啓示、ペトロ・ヨハネ・パウロなどの使徒たちのキリストを証言する時代における期間の啓示に分けられ、各期間の啓示の特色が、神現、預言(言葉)、奇跡(行為)、象徴的な啓示あるは礼典的な啓示という4つの形態を中心に論じられ、啓示の完結としての聖書の完成へと結ぶ。なお、各期間の啓示の特色について聖書の個所を具体的に挙げながら詳しく論じられ、さらに、各期間の啓示の特色のまとめまで丁寧にされているので、わたしのさらなる解説はいらないであろう。


第6点は、この第4章を読むと旧約聖書と新約聖書における特別啓示・贖罪啓示の歴史的進展がとてもよく整理され、聖書の縦の流れが頭によく入ると思う。


第7点は、バルトの自然啓示の否定についてである。わたしたち日本キリスト改革派教会は、聖書とウェストミンスター信仰告白に従って、自然啓示と特別啓示の両方の存在と働きを認めているが、バルトが自然啓示を強く否定し、啓示は受肉した神であるイエス・キリストだけであることを主張したことはよく知られている。バルトにとって、啓示は聖書という状態であるものではなく、出来事である。それゆえ、受肉した神であるイエス・キリストだけであり、啓示は一つだけであり、それ以外のものは、啓示のしるしと考える。たとえば、キリストの言葉、キリストの行ったこと、処女降誕、預言者と使徒の証言、そして、聖書自身も、説教、礼典も啓示ではなく、キリストという一つの啓示のしるしにすぎないものと考える。また教会も啓示の第二次的しるしと考える。これらはすべで、啓示それ自身ではなく、啓示であるイエス・キリストを差し示すもの(Hinweis)で、啓示はあくまでも排他的にイエス・キリストだけと考えた。


では、イエス・キリストだけが啓示という理由は何か。すると、バルトは、神が受肉した人間になったことは神が人間と和解をしてくださることを意味するので、人間がキリスト知ることは、神の恵みを知ることである。それゆえ、神を知ることは、ただ単に、神の存在を知ることではなく、和解をもたらしてくださる恵みの神を知ることになる。それゆえ、和解の恵みをもたらすことのない啓示はあり得ないことなる。それゆえ、自然啓示(存在の類比)を通して、神を知ることができるというカトリックの自然神学を「反キリストの発明」と称して激しく攻撃した。また、キリスト以外に自然や人間の意識や歴史における神の一般啓示を通して神を知ることも否定した。これを認めると、ドイツ・キリスト者のように、ナチの出現に神の意志を認めるような誤りを犯すので一般啓示も否定した。


しかし、スミスは、聖書は、自然啓示と超自然啓示、特別啓示と一般啓示の両方を明白に教えていることを聖書の個所を具体的に挙げて論じて、啓示はキリストだけという啓示観を誤りとして排除している。キリスト以外に、自然啓示あるいは一般啓示があり、さらに、特別啓示もキリスト以外にも、神現・預言・奇跡・象徴的あるいは礼典的な4つの形態で啓示があったことを、スミスは実に丁寧に論じている。それゆえ、啓示はキリストだけというバルトの啓示観は聖書自身の啓示についての教えから外れている。


また、バルトの自然啓示の否定は聖書自身の教えに照らしてとても無理であることを、オランダの世界的改革派神学者のベルクーワも、彼の大著の「教義学的研究」の「一般啓示」において十分明らかにしている。拙著「ベルクーワ:教義学的研究-その紹介と解説-」の第5巻「一般啓示」を参照のこと。


また、ウェストミンスター信仰告白は、第1章「聖書にいて」の第1節で、聖書自身の教えを根拠にして、自然啓示と超自然啓示の両方を明白に告白している。拙著「ウェストミンスター信仰告白の解説」の当該個所を参照のこと。


それゆえ、わたしたちはバルトの啓示観には立たない。わたしたちは聖書の教え自身とウェストミンスター信仰告白に固く立つ。


http://minoru.la.coocan.jp/morton4.html