天使
天使の創造、性質、働き
序論
今日、近代神学において、天使についての理念は原始的な神話の部分として退けられている。聖書は、神は地をその最高の被造物としての人間と共に創造しただけでなく、他の知的で道徳的な被造物も創造した。それは天使たちとして知られている。このことは真実であるが、聖書は天使たちに関する多くの情報をわたしたちに与えていない。最初に、天使たちに与えられた名前を考察しよう。次に、この主題、
彼らの起源についての始まり(beginning with their origin)に関して聖書において教えられているところのことを吟味しよう。それから、わたしたちは、天使たちの性質と彼らの働きに関して聖書が教えているところのことを吟味しよう。
1. 聖書的用語
天使(angel)という用語は、ギリシャ語のάγγελος:aggelos:アンゲロスを英語化(an Anglicizing)したものであり、それはヘブライ語のמלאך:malak:マルアークを訳したものである。これらの言葉の両方が使者(messenger)を意味する。その用語は聖書において種々の仕方で使われている。
最初に、それは通常の使者を言及する(ヨブ1:14、ルカ7:24、11:52)。預言者たちはときどきこの言葉で呼ばれた(イザヤ43:19、マラキ3:1)。祭司たち(priests)も天使たちと呼ばれた(黙示録1:20)。雲の柱の非人格的な神現(the impersonal theophany)も主の天使と呼ばれた(出エジプト14:19)。他の非人格的な行為者(other impersonal agents)も天使と呼ばれた:疫病が(サムエル下24:16-17)、風が(詩編104:4)、そして伝染病が災いの天使として呼ばれている(詩編78:49)。パウロは肉におけるとげをサタンの使いと語った(コリント二12:7)。三位一体の第二人格が御前に仕える天使、契約の天使(イザヤ63:9、マラキ3:1)と呼ばれている。
最後に、もちろん、その用語は、霊的な存在に使われていて、わたしたちが天使として知っている。「善き天使たちは聖書において、彼らの性質、誉れ、霊としての力について示されている、ヘブライ1:14:支配、権威、勢力、主権、エフェソ1:21、コロサイ1:16、神の子ら、ルカ20:36、ヨブ1:6、天使たち、力強い天使たち、テサロニケ二1:7、詩編103:20、聖なる天使たち、選ばれた天使たち、ルカ9:26、テモテ一5:21、また、彼らが神と人間との関係において持つ務めについて、彼らは「天使たちあるいは使者たち」また「奉仕する霊たち」として示されている」(A.A.Hodge,Outlines of Theology,Grand rapids;William.B.Eerdmans Publishing Company,1949 p.249)。
聖書における文脈がその言葉が天使に言及しているか、あるいは、他の使者たちに言及しているかどうかを決定しなければならない。
Ⅱ.天使の創造
聖書は、創世紀の説明において、天使的な存在についての創造に関する何の詳細も与えていない。 天使たちが神の創造の一部であったことは、第4戒において明白に述べられている。そこでは、神が天と地とそれらにあるすべてのもの創造したことを言っている(出エジプト20:11)。 このことは、創世紀1:1においても意味されている、そこでは、叙述は、初めに、神は天地を造られたである。「彼(モーセ)の言葉は、天使たちは創世紀1:1においては特別には注目されていないが、天使的な創造は神が天上的な組織(the heavenly systems)を形成するときに生じたと考えられることを示唆している(Barton Payns,Theology of the Old Testament:Grand Rapids;Zondervan Pubkishing House 1962 p.285)。それは創世記第2章において確実に明白である。そこでは、堕落した天使であるサタンがすでに堕落していることが見い出され、それはこの堕落が起こった天使たちの創造後のある期間であったに違いない(there must have been some interval after the creation of angels in which this fall took place)。このことは、天使たちの創造が世界と人間の創造に先行していた(prior to the cration of the world and of man)ことを明らかに意味する。「そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い/神の子らは皆、喜びの声をあげた」(ヨブ38:7)。フクセマ(Hoeksema)は、「この章句から天使たちは最初の日に創造されたとの結論が引き出されてきた。テキストはこの論争に対する厳密な証拠を提出していないし、もしわたしたちが地の創造と天と天上的存在の創造の間に平行があると推測するならば、天使たちは6日目に創造されたと前提するのがより自然であろう」と警告している(Reformed Dogmatics,op.cit.p.249)。被造物のすべては善かったという宣言をもって、このことは天使的な創造も含んでいたに違いない。彼らの堕落は創造の週の終わりの後で起こったに違いない(their fall must have taken place after the end of the creation)。さらに、もしわたしたちが、アダムの堕落がすぐに起こったのでなければ、アダムの堕落に先行する天使たちの堕落のための期間があり得たであろう(thre could be an inerval of time for the fall of the angels prior to the fall of Adam)。
どれほど多くの天使たちが創造されたのかは特別に教えられていない。聖書は、彼らは万軍(a very great hosts)(列王上22:19)であると教えている。
Ⅲ.天使たちの性質
わたしたちが天使たちの性質を考察するとき、彼らは創造されたことにおいて神と区別されるべきであることが最初から認められねばならない。わたしたちは、彼らの創造についてはほとんど語られていないことをすでに考察してきたが、しかし、その事実は聖書において明らかに断定されている。詩編148:2と5は言う。「御使いらよ、こぞって主を賛美せよ。主の万軍よ、こぞって主を賛美せよ」。コロサイ1:16においても再び「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」と認められている。天使たちは天に住むと言われているし、また神の御座のまわりにいると言われている。それゆえ、彼らは、霊的な存在である(spiritual beings)。このことは、彼らに関する聖書の言語において意味されている。
天使たちの純粋に霊的な性質は、ユダヤ人においても異邦人においての両方においても論点であった。多くのユダヤ人たちと初期のキリスト教教父たちは、彼らに何か火のような体あるいは空気のような体(some fiery or airly bodies)を帰した。プロテスタント神学者たちのある者たちでさえも、この思想の線に沿ったのである。聖書は天使たちに関する多くの教えを与えていないが、それはまさに霊的な性質であることを教えている。マタイ8:16、12:45、ルカ7:21、8:2、11:26、使徒言行録19:12、エフェソ6:2、ヘブライ1:14を見よ。彼らには肉も骨もない、ルカ24:39、嫁ぎやめとりがない、マタイ22;30、非常に狭い空間に非常に多くの霊がいることができる、ルカ8:30、目に見えない、コロサイ1:16。これらの章句のすべては天使たちの霊的な性質を意味している。
天使たちが人間に種々の形態で現れるという事実は、彼らの本質的霊的性質を誤りとはしないのである。「これらの現れの目的は明らかで、憐れみのある特別な視野のために、神の僕の意味の視野の下で臨在と天使的訪問者(the angelic visitant)の働きをもたらすためである」(Dabney,Systematic Theology,op.cit.p.266)。現れは3つの異なった環境においてなされた。それらは夢において、あるいは、御霊の霊感の下で人物に、あるいは、通常の環境で人々にである。説明が求められるのはこれらの最後の場合である。創世紀18章と19章において、天使たちが実際の体をもって、しばらくの間、現れたのである。どこからこれらの体が来たのか。ダブネー(Dabney)は、種々の可能な場合を考える。
「ある者たちは言う。それらは生きた人間の実際の体である。それは、天使たちが、それに属するところの人間の霊魂の意識と人格性を抑えて、当分の間、体を占有した(the angels occupied ,suppresing,for the nonce ,the consciousness and personality of human soul to which the body belonged)のである。ある者たちは言う。それらは物質であるが(material)、しかし、栄光化された実体(the grolified substance)であり、天において保たれていて、彼らの任務における彼らの折々の占有のために備えられている。わたしたちが洋服ダンスにおいて日曜礼拝に着ていく晴れ着のようにである。ある者たちは言う。それらは空気の体である。圧縮された空気から成り、こうして、彼らの一時的な占有のために、神の力により形成されていて、また再び空気に解消されるのである。そして、なお他の人々は言う。アダムの体と同様に、それらは神により天使たちのために物質から創造され、備えて置かれたのである。どこからかは、神がわたしたちに知らせることが適切と見なかったのであるから、わたしは、この神秘的な主題については見解を持たないのが最善と思う。聖書は、天使たちが体を持つことは一時的であることをわたしたちに明らかに示している」(Ibid.,pp.266-267)。
わたしたちが、この主題について思弁の幅を広げるとき、わたしたちは、聖書それ自身がわたしたちに答えを与えていないところの堅固な立場を取ることに警告しているダブネー(Dabney)の知恵を見るのである。
彼らの霊的な性質に加えて、聖書は彼らが理性的で道徳的な被造物であることを教えている。サムエル下14:20、マタイ24:36、エフェソ3:10、ペトロ一1:12、ペトロ二2:11などの個所は、明らかに天使たちが理性的であることを教えている。しなしながら、彼らは人間の知識よりもまさる知識を持っていることが考察されるべきである。道徳的であることは、彼らは霊的な存在として神御自身の御前に仕えるために創造されたという事実から由来する。さらに、堕落していない天使たちは、人間が今やその下に生きている罪の認識論的影響を受けていないのである。チュレチニュス(turretin)は、彼らの知識を4つのクラスに分類する。自然的な知識、経験的な知識、超自然的な知識、そして啓示的な知識である。ダブネー(Dabney)は、彼らの知識のより良い整理は、三重で、創造と同時に与えられた知識、その後獲得された知識、そして啓示された知識である。
もちろん、知的な被造物、道徳的被造物として、自分たちの決断と行為に対して責任がある。彼らは、神への自分たちの従順によって報いを受け、不従順によって罰せられるのである。聖書は、従順に留まったところの天使たちに言及して、「聖なる天使たち」(holy angels)と語る、マタイ25:31、マルコ8:38、ルカ9:26、使徒言行録10:22、黙示録14:10)。対照的に、堕落した天使たちは、偽りを語り、罪を犯している者として語る、ヨハネ8:44、ヨハネ一3:8-10。
聖なる天使たちも堕落した天使たちも両方とも不死(immortal)である。聖なる天使たちは死に服さない。堕落した天使たちは、地獄に投げ込まれ、死に苦しみ、存在することを止めることができずに、永遠に苦しみ続ける。
天使たちは結婚することがない存在なので、自分自身たちを種(a race)に増やしていくことがない。聖書によれば、創造されたところの天使たちは非常に多い。「彼らは神の軍勢(the army of God)、力ある勇士たち(a host of mighty heroes)を構成し、主の命令を行うことに常に備えている、詩編103:20、コロサイ1:16、エフェソ1:21、ヘブライ1:14、また、邪悪な天使たちもサタンの軍勢を構成し、主のみわざを破壊しようとしている、ルカ11:21、テサロニケ二2:9、ペトロ一5:8」(Berkhof,Systematic Theology,op.cit.p.145)。
創造されたとき、天使たちのすべては善かったに違いない。このことは、創世紀2:1において意味されている。ヨハネ8:44、ペトロ二2:4、ユダ6のすべては天使たちの最初の善き状態を前提している。彼らの最初の状態に留まった天使たちは「選ばれた天使たち」(elect angels)と呼ばれている。このことは、彼らは恵みを受け、彼らの聖なる立場に留まることを得させ、そしてまた聖さにおいて固くされ、その結果、彼らは今や罪を犯すことがあり得ないのである。彼らは聖いと呼ばれることに加えて、光の天使たち(angels of light)と呼ばれるのである、コリント二11:14。彼らは常に神の御顔を仰いでいる、マタイ18:10、また神の御心を行うにおける模範と呼ばれる、マタイ6:10。
Ⅳ.天使たちの階級(The Orders of the Angels)
天使たちの万軍がいることは、聖書の明白な叙述から明らかである。申命記33:2は、主はシナイ山から「千よろずの聖なる者たち(the ten thousands of holy ones)を従えて来られる」。詩編68:18は、「神の戦車は「幾千、幾万」と語る。悪霊たちは彼らの数を「レギオン(6千人部隊)、大勢だから」と語った。イエスは、もし自分が望むなら、12軍団以上の天使たち(twelve legions of angels)を呼び下すことができることを語った、マタイ26:53。黙示録5:11は、「また、わたしは見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった」と読む。ベルコフ(Berkhof)は、「すべてこれらのデータを見解に入れると、天使たちは、数えきれない一団(an innumerable company)、力強い軍隊(a mighty host)を構成していると言うことは完全に安全である」(Berkhof,op.cit.p.146)。
彼らは人間のように種(a race)を構成していないが、彼らはある仕方で創s気化されていることの徴候が聖書にはある。わたしたちは、この証拠を彼らに帰せられた異なった名前において持つ。最初に、ケルビム(cherbium)がある。これらは最初に創世記3:24に言及されている。そこでは、人間が園から追放された後で、罪深い人間の侵入に対して警戒して、園を警護するために置かれたのである。 彼らは至聖所において贖いの座を見つめるものとして描かれている、出エジプト25:18、詩編80:1、99:1、イザヤ37:16、ヘブライ9:5。エゼキエルにおいては、彼らは神の戦車の玉座(the chariot throne of God)と結びついている。彼らはまた黙示録4章において神の玉座についての記述において現れる。 彼らは、神のまさに玉座に仕える特別な場所をもっているように思われる。
パトリック・エフェアビン(Patrick Fairbain)は言う。「彼らは被造物の生命の最高の特性(the higest properties of creature life)を象徴しているし、また、神の生命の発出と顕示として(as the outgoing and the manifestation of divine life)の特性を象徴しているのである。しかし、彼らは贖われ、栄光化された男らしさ(redeemed and glorified manhood)、あるいは、その預言者的な表現(prophetical representation)の典型なのである。その中にこれらの特性が結合され、示されるものとしてである。彼らは、堕落後、直ちに園における人間の最初の場所に、また、命の木との関連における人間の職務に任命されたのである。ケルビムが現れる他の、またもっと一般的な結びつきは、神の玉座あるいは神の特別な住まいの場所にある。出エジプト25:22の幕屋の至聖所において、神はケルビムの間に住む、また上に座すところの神と呼ばれている、サムエル上4:4、詩編80:1、エゼキエル1:26、28。神の栄光はケルビムの上にある。黙示録4:6において、わたしたちは、玉座の真中に、またその周囲にいますところの生き物について読む。これは何を表すのか。しかし、素晴らしい事実が贖罪の歴史においてもたらされ、人間の性質(man’s nature)が神の住む場所にまで高く挙げられるのだろうか。言わば、キリストにおいてそれは神性の懐に取り入れられる。また、それはキリストにおいて高く誉れを受け、それはキリストの肢体における天使的な栄光以上に達するであろう」(Patrick Fairbain,The Typology of Scripture:Grand Rapids
:Zondervan Publishing House,n.d.PartⅡ.Chapter,Ⅰ.Section3)。
ケルビムに加えて、一度使われる他の名前がある。すなわち、セラフィム(the seraphim)である。「彼らも人間の形態において象徴的に表現されているが、6つの翼を持っている」(Berkhof,op.cit.p.146)。ベルコフはケルビムとセラフィムを区別している。ケルビムと違って、彼らは天上的な王の玉座の周囲に僕として立つのであり、神を賛美する歌を歌い、神の命じることを行う備えがいつでもできている。ケルビムが力強い者たちであるのに、セラフィムは天使たちの間で高貴な者たち(the nobles)と呼ばれよう。前者は神の聖さを守り、和解の目的に仕え、そして、こうして、神への適切な近づきのために備えるのである(Idem.)
天使的な存在に言及していると思える他の名前がコロサイ1:16に見い出される。すなわち、王座、主権、支配、権威である。それらは天使たちの間の異った階級を指し示していると思われる。
2人の特別な天使たちが名前で述べられている。ガブリエル(Gabriel)とミカエル(Michael)である。ガブリエルはダニエル8:16、ルカ1:9、26に現れる、彼は、神の玉座の前に立つと言われるところの7人の天使たちの間にいるとのであろう。彼は特別な折りに、神の啓示を取り次ぎ、解釈する特別な任務を持っていると思われる。
ミカエルは第2に特に名前を挙げられる天使である。彼はダニエル10:13、21、ユダ9、黙示録12:7において言及されている。彼はユダ9において大天使(the archangel)と呼ばれている。それは、彼が天使たちの間でより高い場を占めていることを示している。彼は神の敵たちとの主の戦いを戦うものと思われる。これは聖書において明白に述べられていないが、大天使という肩書はガブリエルと他の天使たちにも属している。
Ⅴ.天使たちの奉仕
ベルコフは、天使たちの通常の奉仕と特別な奉仕を区別している。
A. 通常の奉仕
通常の奉仕は、日夜、神を賛美することにある、ヨブ38:7、イザヤ103:20、148:2、黙示録5:11。彼らは、キリストの誕生のとき、語るものとして、また、神へ賛美するものとして見られる。
彼らは罪人の回心を喜ぶ、ルカ15:10、また、信者たちを見守る、詩編34:7、9、11。小さな者たちを保護する、テモテ一5:21。
B. 特別な奉仕
人間の堕落以後、神は特別な仕方で天使たちを用いてきた。彼らは、しばしば神の啓示を取り次ぎ、祝福を民に伝え、また、神の敵たちに裁きを下す。彼らの働きは、救いの経綸の大きな転換点において最も顕著である。族長たちの日々において、律法の付与において、捕囚と回復において、主の誕生、復活、昇天においてのときのようにである。
わたしたちは、彼らの特別な奉仕が、主の再臨とともに再び始まることを期待する。
「では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです」(ガラテヤ3:19b、使徒言行録7:53、ヘブライ2:2も見よ。彼らは神の民へのいつくしみの器として仕える。「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」(ヘブライ1:14、使徒言行録12:7、詩編9:10-12も見よ)。他方においては、彼らは神の敵たちへの裁きを下すことにおいて用いられる。「するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた」(使徒言行録12:23、列王下19:35、歴代誌上21:16)。彼らは、善人と悪人を分け、選民を主に合わせるため、最後の審判において助力する(マタイ13:30、39、24:31、テサロニケ一4:17)。
C. 守護天使たち(the Guradian Angels)についての疑問
初期の教会教父たちは、特別な天使が各人に守護天使として指定されたと主張した(オリゲネスは「祈りについて: 11」(De Oratione:11)で言う。「しかしまた、各人の天使が、教会の中で小さな者であるところの者たちの各人の守護天使が、常に天におられる父の御顔を見ていて、また、わたしたちを創造したところの神を見つめて、そのためにわたしたちが祈るところのことに対して、できるかぎり、わたしたちと共に祈り、わたしたちと共に働くのである」。クリソストム(Chrysostom)は、「多くの説教:20:3」(Homilia in Numeros:20:3)において、このことを教えている。「すべてのクリスチャンは、洗礼のとき、各々神から天使を受ける」。彼らは、また2人の天使たちの理念を主張した。一人は善き天使、もう一人は悪い天使で、善か悪を行うのである(Hemas 11:6)。ユダヤ人は、とりわけサドカイ派は回教徒と同様にこの理念を主張した。ギリシャ人たちとローマ人たちは同様の理念を主張した。
守護天使たちについての教理は、ローマ・カトリックの教えの一部である。「わたしたちは、守護天使によって悪とのわたしたちの戦いにおいて助けられる・・・わたしたち各人は生涯を通してわたしたちを特別に引き受けるところの天使を持つ・・・わたしたちのこの天使は、彼らはわたしたちの守護天使たちと呼ばれ、わたしたちを霊魂と体の両方において守るのである。彼は神の意志と律法に導かれて、わたしたちが力強く忍耐深い生涯を送るように励ますのである。彼はわたしたちに危険を警戒するように自己保持のわたしたちの本能を用い、そして、彼はわたしたち自身が知恵がわたしたちを失敗させるとき、彼の知恵をわたしたちと共有するのである。彼は神と人間の間の使者でもあり、わたしたちの祈りを献げ、また、わたしたちのために要請するのである」(N.G.Van Doomik,S.Selsma,A van De Lisdonk,edited by John Greenwood,A Handbook of the Catholic Faith,A Triptych of the Kingdom,translated from Duch:Gardian City,New York:Image Books,A Division of Doubleday and Company,Inc.1956 p.173-174)。
改革派の思想家たちは守護天使たちの理念を拒否する。ウォフィールドは、守護天使たちの概念を教えているものとしてのマタイ18:10、使徒言行録12:15についての流行している解釈に反対して論じている。「これらの章句を守護天使たちの概念の助けで説明することの真の難しさは、少しもそれらの要求に適していないことである。彼の保護区を除いて(except with his ward)、彼はどこに『守護天使』がいるべきなのか。それが、『守護天使』の本質的な理念である。彼は、彼の責任に委ねられた聖徒たちに中断されずに付き添っていると思われている。しかし、マタイ18:10も使徒言行録12:15においても、天使たちは彼らの保護区を持って見い出されていない。はっきりと他のところである(but distintively elsewhere)」(Selected Shorter writings of Benjamin B.Warfield,edited by John E.Meeter,Nutely,New Jersey:Presbyterian and Reformed Publishing Company 1970、Vol.Ⅰ.p.235)。
これらの2つの章句の意味の種々の説明を再検討した後で、ウォフィールドは、これらの章句の各々における「天使」は、人格の霊か魂(the spirit or the soul of the person)に言及しているであろうという理念に有利であることを示している。彼は言う。「そのような概観から余りにも限定的な結論を引き出すことはおそらく賢明ではない。これらの2つのユニークな章句の何の説明も示唆していない・・・『これらの小さな者たちの天使たち』(the angels of these little ones)と『ペトロの天使』(Peter’s angel)・・・それはその仕方で難しさを持っていないのである(Ibid.,p.266)。肉体から離れた霊の理念は他の提案以上に直面する難しさをほとんど持っていない。「それはその章句自身のすべての条件を満たしている・・・それはその競争相手のどれについて(on any of its rivals)も言われ得ないのである。それは、用いられた用語の一般の意味の自然的な拡大に根ざしているのである。そして、それは、キリスト教が生じたところからの団体において存在していたことが証明され得ないところの何の概念も前提していないのである・・・それは再びその主な競争相手について言われ得ないのである(Idem.)。
Ⅵ.天使たちの最初の状態と試験(probation)
創造されたすべての天使たちが聖いことは、聖いものとしての神の性質において意味されている。神が創造したものはすべて聖い。聖書は、天使たちを聖いものとして語る。悪い天使たちを扱っている章句は、彼らが罪を犯し、投げ出され、彼らが最初の状態を守らなかったことを語る。
ダブネー(Dabney)は、天使たちの堕落を語る。すなわち、わたしたちは、聖書から多くを推論しなければならない。何故なら、多くのことが明らかに述べられていないからである。
「聖くて知的な被造物は、神との当然の関係によって、愛と礼拝をもって神への奉仕を負う。神は、そのような被造物に対して、その存在を保持し、幸いな不死を与える義務の下にはいないが、しかし、神御自身の義と慈悲深さは、外的な苦しみがその被造物に訪れることを禁ずる。被造物が聖いので。それゆえ、そのような被造物と神の間の当然の関係はこれであろう。被造物が完全な従順を帰し続けている限りは、神は完全な幸いを与えるであろう(Dabney,.Systematic Theology,p.269)。
B.選ばれていな天使たちの試験と堕落
聖書は天使たちの2つのグループがることを示す。最初に、選ばれた天使たちであり、彼らは彼らの聖さを確証されてきた。何故なら、彼らは救われた人々と共に天国にあずかるからである。他方、天使たちの他の組がいる。彼らは霊的な死に不可逆的に落ちたのである。エデンにおける試験の類比によって、天使たちは試験の下に置かれた。「選ばれた天使たちはそれを守った。選ばれていなかった天使たちはそれを破った。神がその作者である限り、神の効果的な聖定によってではなくて、神の許容的聖定によって彼らの間に違いが造られた。その中において、両方の組がまったく彼らの意志の自由に任されたのである」(Ibid.,p.269-270)。このことは、あたかも、ダブネーは、選ばれた天使たちへの聖定は、試験への天使たちの応答に条件づけられているかのように響く。確かに、もし神が主権的であるならば、そして、あらかじめ定めたのであれば、何事が起ろうが、そのとき、このことは人間の試験と同様に天使たちの試験の対しても真実であったに違いない。聖定の遂行が許容によることを認めても、神による選びと遺棄は天使たちの行為には左右されなかったに違いないが、しかし、神の主権的な行為であったに違いないのである。
前提は、天使たちの試験はアダムの堕落前になされたということである。何故なら、サタンはこのときまでには確かに堕落していたからである。サタンの堕落の性質は、聖書においては決定的な教えられていない。マルコ3:29に基づいて、ある者たちはそれは聖霊に対する冒涜であると前提する。他の者たちは、テモテ一3:6に基づいて、それを高慢(pride)と取ってきたのである。
ダブネーは言う。「罪が高慢(pride)であることはおそらくあり得るであろう。というのは、それへのサタンの霊的な性質と高められる状態はあり得るからである。大きな難しさは、一般的に聖い意志において、そして、罪のない体によって揺れることさえもないのに、如何にして望み、欲求するのか。また、全世界において罪を犯すように誘惑する、唯一の被造物もいないのに、どこに最初の悪い意志の働きが起こり得たのだろうか」(Dabney.,op.cit.p.270)。
D. サタンと堕落した天使たち
1.サタンは人格である
サタンが人格として表明されていることは聖書から明白である。彼は語り、推論し、憎み、偽るものとして見られている。サタンは神の裁きの対象である。イエスの誘惑においては、サタンは主に語りかける人格として現れている。また、イエスはサタンを信じない者たちの父を呼ぶ(マタイ4:1-11、ヨハネ8:44)。
2.堕落した霊たちと世とのサタンの関係
他の悪い霊たちは悪魔とその手下と呼ばれる、マタイ25:41。サタンは悪霊たちの頭と呼ばれる、マタイ9:34。支配と権威、暗闇の世界の支配者と呼ばれている(エフェソ6:12)。
サタンは、この世の神(コリント二4:4)、不従順な者たちの内に今も働く霊と呼ばれている(エフェソ2:2)。ベルコフは言う。「このことは、サタンが世界を支配していることを意味していない。というのは、神が支配しているからである。また、神はすべての権威をキリストに与えたが、しかし、それは、世は倫理的に神から分たれている限り、サタンがこの悪い世を支配しているという理念を伝える・・・サタンは人間を超えているが、しかし神ではない。大きな力を持っているが、全能ではない。影響力を大きく使うが、しかし、制限されている、マタイ12:29、黙示録20:2、そして、底なしの穴に投げ込まれることが定められている、黙示録20:10」(Berkof,Systematic Theology,p.149)。
解説
「第14章:天使 彼らの創造、性質、働き」の紹介が終わったので、?点の解説を記す。まず第1点は、スミスは、聖書が天使の存在について語っている事実を確認する。すなわち、今日、天使たちの存在を神話と考える近代神学もあるが、霊感された権威ある神の言葉である聖書は、天使たちの存在を明白に語っていることをスミスはまず確認する。確かに、聖書は、天使たちについて多くの情報を与えていないが、しかし、その存在の起源、名前と階級、性質、働き、ある天使たちが神に逆らい堕落して悪霊たちになり、その頭がサタン、悪魔であることを教えていることを語って、天使論を論じる。
第2点は、天使を表す聖書の用語についてである。天使は英語で、angelであるが、このangelを表すギリシャ語もヘブライ語も、もともとは「使者」(messenger)を表す言葉から来ていることをスミスは述べる。また、「天使」は、聖書において、いろいろなものを表すのに使われていることを述べる。たとえば、預言者、祭司、また、非人格的なもの(雲の柱、風、疫病、伝染病、パウロを打つとげ)。三位一体の第二人格が神の御前に仕える天使、契約の天使と呼ばれた。また、支配、権威、勢力、主権、神の子ら、力強い天使たち、聖なる天使たち、選ばれた天使たち、使者たち、奉仕する霊たちとして示されていることを挙げる。
第3点は、天使の創造についてである。天使がいつ創造されたのかについて聖書は語っていない。しかし、天使が神に創造されたことは出エジプト20:11で、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」に含まれていること、また、創世紀1:1で「初めに、神は天地を創造された」と言われている「天地」に含まれていることは疑いを入れない。しかし、では、天使たちのある者たちが神に逆らって堕落したのはいつか。すると、ある人々は、創造の第1日と考えてきたが、第1日とすると、第6日に、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である」と言われていることは矛盾するので、スミスはフクセマを引用した、第6日に、すべての創造が終わったときに堕落したのではないかを示唆する。でも、よく考えてみると、次の第7日を神が祝福したと言うとき、もうすでにある天使たちの堕落があったのに、神は祝福したと言うのも不自然な印象をわたし(佐々木稔)は持つので、第7日以降にある天使たちの堕落があったと考えた方がよいのかもしれない。
第4点は、天使の性質についてである。スミスはいろいろな性質を挙げている。
彼らには肉も骨もない、嫁ぎやめとりがない、非常に狭い空間に非常に多くの霊がいることができる、目に見えないなどから霊的存在であること、しかし、初期の教父たちは、天使には火のようなあるいは空気のような体があると考えたことをスミスが述べる。では、創世紀18章、19章で、天使が体をもって現れたことはどのように説明するのか。すると、ある者たちは、天使たちが、人間の霊魂の意識と人格性を取らずに、当分の間、体だけを占有したと考えた。ある者たちは、天使の体はもちろん物質であるが、でも栄光化された実体で、天において保たれていて、彼らの任務における彼らの折々の占有のために備えられていると考えた。ある者たちは、天使の体は、空気の体であり、圧縮された空気から成り、彼らの一時的な占有のために、神の力により形成されていて、また再び空気に解消されると考えた。ある者たちは、天使の体は、アダムの体と同じように、神により天使たちのために物質から創造され、備えて置かれた体と考えた。こうして種々の推測がなされてきたが、スミスはダブネーに基づいて、この件については聖書自身が何も教えていないので、詮索せず、天使は一時的に体を取って現れたことだけに留めるべきことを語る。
また天使たちは理性的で道徳的な被造物であり、自分たちの行為に責任があり、従順によって報いを受け、不従順によって罰せられる。従順に留まった天使たちは「聖なる天使たち」であり、堕落した天使たちは、偽りを語り、罪を犯している者として聖書は語る。天使たちは不死であるが、堕落した天使たちは、地獄に投げ込まれ永遠に苦しみ続ける。 天使の数は天の万軍と言われるほど多い。
なお、ヨハネ8:44、ペトロ二2:4、ユダ6は、すべては天使たちの最初の状態は善き状態であったことを前提している。彼らの最初の状態に留まった天使たちは「選ばれた天使たち」また「光の天使たち」と呼ばれ、常に神の御顔を仰ぎ、マタイ18:10の主の祈りにおいては、神の御心を行うにおける模範とされている。
第5点は、天使たちの階級、ランクについてである。天使たちには、階級、ランクがあるように思えることをスミスは述べる。ケルビム、セラフィム、コロサイ1:16の王座、主権、支配、権威は、天使たちの間の異った階級を指し示していると思われる。また、ガブリエルとミカエルがいる。ミカエルは大天使と呼ばれている。
第6点は、天使たちの奉仕についである。スミスは、ベルコフによる通常の奉仕と特別な奉仕の区分を使って説明する。通常の奉仕は、日夜、神を賛美すること、罪人の回心を喜ぶこと、信者たちを見守ること、小さな者たちを保護することなどである。
特別の奉仕は、しばしば神の啓示を取り次ぎ、祝福を民に伝え、神の敵たちに裁きを下す。また彼らの働きは、救いの経綸の大きな転換点の族長たちの日々において、律法の付与において、捕囚と回復において、主の誕生、復活、昇天において最も顕著である。
第6点は、守護天使たちについてである。初期の教父たちは、特別な天使が各人に守護天使として指定されたと主張した。クリソストムスは、「すべてのクリスチャンは、洗礼のとき、各々神から天使を受ける」と主張し、また2人の天使たちの理念を主張した。一人は善き天使、もう一人は悪い天使で、善か悪を行うのである。ユダヤ人は、とりわけサドカイ派は回教徒と同様にこの理念を主張した。ギリシャ人たちとローマ人たちも同様の理念を主張した。また、今日、守護天使たちは、ローマ・カトリックの教えであり、「わたしたちは、守護天使によって悪とのわたしたちの戦いにおいて助けられる・・・わたしたち各人は生涯を通してわたしたちを特別に引き受けるところの天使を持つ」と主張し、マタイ18:10、使徒言行録12:15を根拠とするが、ウォーフールドは、マタイ18:10、使徒言行録12:15において言及されている天使がそのとき自分の守護区に現れたとは言っていないと反駁し、守護天使の聖書的な根拠がないことをスミスは語る。カトリックの守護天使は完全な誤りである。
第7点は、天使たちの最初の状態とその状態から堕落して悪霊となったある天使たちについてである。ペトロ二2:4、ユダ6は、すべての天使たちの最初の状態が善き状態であったことを前提しているが、そこから自分の意志で、高慢にも神に逆らい堕落した天使たちがいたことを表し、彼らが悪い霊、すなわち、悪霊となったことをスミスは語る。また、悪霊たちはサタンの手下と呼ばれる。なお、サタンは「この世の支配者」(新共同訳聖書)、「この世の君」(口語訳聖書)と言われるが、それは罪が蔓延しているこの世の支配者・君という意味であるが、しかし、そうであっても、サタンの支配は、天と地の一切の権能を委ねられたキリストの下で制限され、限定された意味での支配であり、終末にサタンは底なしの穴に投げ込まれることが定められている(黙示録20:10)ことをスミスは語る。
第8点は、スミスは特に述べていないが、ブルトマンの悪霊観について述べておく。ブルトマンは、聖書が天、地、地下の3層の世界像を持ち、天は神の住まい、地は神とサタンおよび悪霊たちが戦う場として描いていることは神話として、近代人は非神話化して考えるべきことを主張しているが、これは神の権威ある神の言葉の教えに反する主張であり、誤りである。聖書は、堕落天使たちである悪霊たちの存在と働きと悪い影響を明白に語っている。テモテ一4:1で「しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます」。
第9点は、スミスは特に述べていないが、バルトの悪霊論についてである。バルトは、悪霊はカオス、すなわり、虚無的なものに属するし、カオスそのもの、虚無的なもので、人間に不安、恐れを与えるものであるが、しかし、悪霊もイエス・キリストにおいて敗北していると、バルトは考える。悪霊は、改革派神学においては、神に創造された御使い、天使の中で、神に逆らって堕落した天使たちが悪霊と呼ばれ、悪霊のかしらをサタンと理解してきたが、バルトにおいては、これまたまったく違う。
では、どのように違うのか。すると、天使は、神に造られたが、悪霊は、天使が堕落したものでなく、最初から神に拒否された存在であって、神の恵みを弱めたり、無にしたり、救いを妨げたりすることができるかのように振る舞うが、しかし、キリストは彼らにすでに勝利しており、あるいは、彼らを支配しており、彼らはキリストに完全に敗北している存在であると、バルトは考える。では、どうして、バルトは、改革派神学のように悪霊を堕落天使と考えないのか。すると、ユダの手紙において、6節で、「一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました」という御言葉、また、ペトロ二2:4で、「神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました」という御言葉を、天使の堕落と考えることには、あいまいすぎるとバルトは言う。それより、ヨハネ8:44で、「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」とあるが、ここは、悪魔、サタンのことを言っているが、サタンは、その本性から偽りを言うと記されているので、サタン、悪魔は、途中から、天使が堕落したものでなくて、最初からその本性に従う悪魔、サタンであると考えた方がよいと判断して、バルトは、悪霊は、堕落天使でなく、神に拒否されたカオスとして位置づけたのである。それゆえ、バルトの結論は、サタンは、もともと天使ではなかったということになる。 こうして、バルトは、カオスとしての悪霊を語り、カオスとしての悪霊はすでに創造において、イエス・キリストの勝利によって、敗北させられたものとして見ている。
しかし、バルトのこの悪霊論には多くの誤りがある。まず、悪霊は最初から悪霊として存在したのではないからである。悪霊は、最初は善い天使として創造されたが、高慢にも神に逆らい、創造の善き状態から堕落して悪い霊、すなわち、悪霊になり、最後の審判で裁かれることは、ユダ6とペトロ二2:4のこれらの表現で十分に明白であり、まったく疑いを入れない。また、創世紀1:1で、「初めに、神は天地を創造された」というとき、「天」に属するものとして天使たちが創造されたことも十分考えられる。
また、バルトは、ヨハネ8:44を挙げて、悪魔は最初から偽りを語る本性であったと言うが、悪魔が偽りを言うというのは、エデンの園で悪魔が蛇を使ってエバに最初に偽りを語ったこと言っており、罪の起源が悪魔、サタンにあることを明らかに教えていて、サタンの本性を教える個所ではない。釈義が明白に外れている。
また、バルトは、創造のときに、もうすでにキリストはカオス、虚無的なもの、悪霊に勝利していると言うが、悪魔と悪霊に対するキリストの勝利が完全に現れるは世の終わりの終末で、キリストが再臨して、キリストがすべての支配、すべての権威、勢力を滅ばし、父である神に国を引き渡されるときである(コリント一15:24)。確かに、キリストが出現してみわざを始めたとき、サタンは稲妻のように天から陥落し、すなわち、敗北し、さらに、キリストは十字架の死と復活によって、もろもろの支配と権威(悪霊たち)の武装を解除し、キリストの勝利に列に従えて、公然とさらしものにした。でも、だからと言って、キリストの完全勝利が現れたわけではない。なおも、サタンと悪霊は、神とキリストと信者たちに逆らい続けるのである。そのために、世の終わりまで、サタンと悪霊との戦いは続いていくのである。
サタンについては、主イエスは、種まきのたとえで「悪い者(サタン)が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る」ことを教えた。これは、今の時代もそうではないか。パウロは、テモテ一4:1で、「しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます」と語り、悪霊への警戒を呼びかけている。また、サタンを「不従順な者たちの内に今も働く霊」(エフェソ2:2)と言った。また、「サタンでさえも光の天使を装うのです」(コリント二11:14)と語って、サタンを警戒することを教えた。また、それゆえ、「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなので」(エフェソ6:10-12)と語り、悪魔(サタン)への信仰による対抗を訴えている。それゆえ、「なお、その上に、信仰を盾としなさい。それによって、悪い者(サタン)の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです」(エフェソ6:16)とも勧めている。
また、主イエスのそば近くに仕えたペトロは、「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。」(ペトロ一5:8、9)と語り、悪魔との戦いへの抵抗を呼びかけている。従って、聖書は、悪霊・サタンに対するキリストの勝利を単純には語っていない。ベルクーワによれば、バルトの悪霊論はわずか15頁で、聖書全体における悪霊・サタンに関する教えを見ていないと批判し、「バルトが、悪霊たちについて与える新約聖書のデータについて、ほとんど論じていないことは顕著である」と述べている。こうして、バルトの悪霊論・サタン論は信頼できない。わたしたちは、聖書自身の本来の教えである悪霊とサタンについての改革派の教理を確信をもって積極的に表明していく。
それゆえ、わたしたちクリスチャンは信仰を盾としてサタンの攻撃を防いで、罪の赦しと永遠の命より成る素晴らしい救いの完成を目指して日々力強く歩もう。この点については、拙著「G.C.ベルクーワ-カール・バルト神学における恩恵の勝利-その紹介と解説-」の「第3章 創造における恩恵の勝利」の「3.悪霊の問題」、「第13章 恩恵の勝利と神の国」の「6.バルト神学におけるカオスの問題」および「結びの第10点」を参照のこと。Berkhof,Systematic Theology,Ⅳ Creation of Angels, F.The Evil Angels, dr.J. van Genderen,dr.W.H.Velema,Beknopte Gereformeerde Dogmatiek,§19 De engelen als schepselen van God,19-1 Het bestaan van engelen,19-2 De dienst van de engelen。また、バルトのカオス理解については、本書の第13章「創造」についての「解説」の「第7点」を参照のこと。
http://minoru.la.coocan.jp/morton14tenhi.html