罪、その起源と性質
序論
神学におけるより大きな問題は、罪の起源の問題である。罪は、聖にして全能なる神によって創造された世界において、罪があることに対し、説明することが如何にして可能なのか。この疑問に答えるため、種々の異なった試みがなされてきた。
人間の性質についての疑問が、人間は自分自身を客観的に観ることができないので、まさに諸問題を生じさせたように、罪の起源の問題もそのユニークな問題を持っている。わたしたちが罪に対する何かの最初の原因を求めるとき、わたしたちはわたしたち自身を擁護することを試みることの危険にある。
「『罪の起源』(sin’s origin)の問題は、起源についての他のどの種類の疑問とは異なる質的な性格を持つ・・・しかし、明らかに、この疑問は単に理論的な討論のための課題ではない。そのことを言う人は、確かに、非常に危険な場に立っているに違いない。しかし、歴史を貫いて、人々は、罪の起源についての疑問への抽象的で原因的な解答を構築することを試み、そして、そうすることにおいて、自分たちは客観性のまさに限度を侵害してしまったことを理解することに失敗してきたのである。罪の起源を求めることと『自分自身の人格の無罪弁明と無実の罪を晴らすこと』(an exculpation and exoneration)の間には顕著な関係がある。罪の起源について考察する者は誰でも自分自身を単に理論的な討論に自分を参与させることができないのであり、むしろ、彼は親密にまた本人的に、『罪の罪責についての問題』(the problem of sin’s guilt)とのみ呼ばれ得るものに参与するのである」(G.C.Berkouwer,Sin,translated by Philipp C.Holtrop:GrandRapids:William
B.Eerdmans Publishing Company,1971 p.14)。
ベルクーワはさらに言う。「こうして、罪の原因性について関心を持つとき、わたしたちは先天的に(a priori)無罪の活動に巻き込まれている」(Ibid,p.15)。わたしたちは、わたしたちが、自分自身を罪人としてのわたしたちの罪責(our guilt as sinners)を避けようとしている自分自身を見い出さないように、このタイプの推論に陥らないように警戒しなければならない。アダムは、彼が責め(the blame)を自分自身から女へ、また、神にさえも、移行しようとしたとき、まさにこのことを行ったのである。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が・・・」。罪の傾向は、罪責を告白するよりも、何からの最初の原因に、わたしたちの罪に対する言い訳や説明をすること(to make excuse or seek an explanation)である。この強い好み(this penchant)が、彼らを出エジプトさせた神に対するイスラエルの不平において見られよう(民数記14:2)。再び、後の世代において、イスラエルは、先祖たちが酸っぱいぶどうを食べたので、子孫たちの歯が浮くと言うことによって、自分自身の言い訳をしたのである(エゼキエル18:2)。エゼキエルは、この考え方に対して次にように応答した。「罪を犯した者、その人が死ぬ」(エゼキエル18:4)。イスラエルは、自分の罪を先祖たちのせいにすることができかったのである。わたしたちは、罪に対する責めを自分自身から他の原因に移行してはならないのである。
1.罪の起源
A.問題
聖書は、神の御手から来たとき、「それは極めて良かった」(very good)と描かれ得る世界を創造した聖にして善なる神を提示している。しかしながら、非常に短期間の間に、この良き世界は罪と悪の影響下にもたらされた。世界は神からその純粋さと栄光において来たほとんどそのとき、世界は輝きを奪われ、神の目の前には汚れと不純が立っていた。罪は全被造物を興廃させた。その義は罪責に変り、その聖さは不純に変り、その栄光は不興に変り、その光は闇に変わったのである。どこからその悪は来たのか。罪の起源は何か。聖書は神を正当化し、如何なる意味においても、神は罪の作者でないことを主張する。彼は常に聖であり、義であり、決して罪と不敬虔ではない。「わたしは主の御名を唱える。御力をわたしたちの神に帰せよ。
主は岩、その御業は完全で/その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく/正しくてまっすぐな方」(申命記32:3-4)。「さて、分別ある者は、わたしの言葉を聞け。神には過ちなど、決してない。全能者には不正など、決してない」(ヨブ34:10)。「述べ伝えるでしょう/わたしの岩と頼む主は正しい方/御もとには不正がない、と」(詩編92;16、イザヤ6;3とハバクク1:13も見よ)。神は光であり、神には闇もなく回転の影もない(ヨハネ一1:5)。神は人を誘惑したりなさらない(ヤコブ1:13)。彼はすべての罪を御自身の律法において禁止している(ローマ2:14-15)。彼は罪を憎み、彼の裁きはすべての不義に現される(ローマ1:18)。彼はキリストにおいてすべての不義を裁き、定罪する(ローマ3:24-26)。聖書は常に罪責を被造物に置き、神には置かない。しかし、神が世界を創造し、その結果、罪が可能であったという事実がある。彼は善悪を知る木を園に置き、また、それにより人間をテスとするために置いたのである。「人間を罪と死の可能性以上にすぐに力ある行為によって持ち上げることよりも、自由の危険な道において人間と共に歩くことが神の御心であったのである」(Bavinck.
Gereformeerde Dogmateik,op.cit.Ⅲ.p.2)。
B.思想の歴史
悪の起源は、存在の起源の後の人生の最大の謎であり、理解するのが最も難しい神学的な疑問である。すべての偉大な思想家たちがこの疑問を説明することを試みてきた。多くの人が罪の起源を自然的なもの(natural)と説明しようとした。他の人たちは、この世においてか、あるいは、前世においてか、罪を何か人間の自由な選択によって自発的に始めた何か(something voluntary entered into)と見た。
教会の歴史において説明の種々の努力がなされてきた。グノーシス派は、デミウルゴス(造物主:Demiurge)の産物で、物質における悪について説明を求めた。物質とコンタクトした人間の霊魂は堕落するようになった。このことは、もちろん、人間における罪に対する責任性を締め出す。オリゲネス(Origen)は、その責任性は、霊魂の先在の状態(the pre-existent state of the soul)についての自分の理論に見い出そうとした。わたしたちは、近代の哲学者たちのある者たちも、霊魂についてのこの見解を主張したことに注目してきた。すなわち、ミューラー(Muller)、レッシング(Lessing)、シェリング(Shelling)、そして、J.H.フヒィテである。これらの人々以上に、霊魂の先在の見解(the view of the pre-existence of the soul)は、教会において広く主張された、エイレナイオス(Irenaeus)は、エデンの園におけるアダムの自発的な違反(a voluntary transgression)を主張した。教会が発展したとき、東方教会はアダムの罪と彼の子孫の罪の関係を割引きする(to discount)傾向にあった。他方、西方教会は両者の関係を主張した。「東方教会の教えは、最終的にはペラギウス主義(Pelagianism)に終わり、それは、両者の間には極めて大切な関係(any vital relation)があることを否定した。他方、西方教会のある者たちは、わたしたちはアダムも子孫もアダムにおいて両者に罪責があり、腐敗していることを強調するアウグスチヌス主義(Augustinianism)におい完成に到達したのである。セミ・ペラギウス主義(Semi-Pelagianism)は、アダム的な結びつきを認めたが、しかし、それは、罪の汚れに対してだけ(only for the pollution of sin) の説明をするものと主張した。改革者たちはアウグスチヌス主義を採った。ソシニウス派(the Socinians)は、ペラギウス主義を採り、アムミニウス主義(the Arminianism)は、セミ・ペラギウス主義を採った。合理主義の台頭と共に他の示唆が提出された。ベルコフはこれらの見解を次のようにまとめている。
「罪(sin)についての理念は、悪(evil)の理念にとって代わられ、悪は種々の方法で説明された。カントは、悪を超感覚的な領域に属する何か(something belonging to the supersensible sphere)として見なしたが、それは彼が説明できないものであった。ライプニッツにとっては、悪は宇宙の必然的な限界(the necessary limitation of the universe)のゆえとした。シュライエルマッハーは、悪の起源を人間の感覚的な性質(in the sensous nature)に見い出した。リッチュルは、人間の無知において見い出した。他方、進化論者たちは、悪を次第に発展していく道徳的な意識へのより低い傾向の対立(to the opposition of lower propensities to a gradually developing moral consciousness) に帰した。バルトは、罪の起源は予定の神秘(the mystery of predestination)として語る。罪は堕落に起源するが、しかし、堕落は歴史的な出来事ではない。それは、超歴史的(superhistory:Urgeschichte)なのである。アダムは実際に最初の罪人であるが、しかし、彼の不従順は、世界の罪の原因としては認められ得ないのである」(Berkhof,op.cit.pp.219-220)。
C.罪の起源に関する聖書のデータ
1.神の聖定は全包括的である
わたしたちは、神の聖定は全包括的であることをすでに考察してきた。わたしたちは、特に聖定は悪をも包含することに注目した。わたしたちは、神の聖定は世界への侵入を確実なこととしたと結論しなければならない。しかし、わたしたちは、聖書と共に、神は罪の作者ではないことを認めねばならない。彼は、生じるすべてのことを積極的に聖定すると言えようが、でも、聖定の遂行においては、彼は受動的である。そのようなものが罪の場合である。神は罪を犯すことができない(ヨブ34:10)。こうして、神は、罪が生じることを計画するが、彼は罪を積極的に遂行はしないのである。罪は、神の許容(the permission)によって被造物により行われるのである。
2.神は罪の作者ではない
聖書から絶対的に明らかな一つのことは、神は罪の作者ではないことである。旧約聖書は、このことについて明白である。「主は岩、その御業は完全で/その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく/正しくてまっすぐな方」(申命記32:4)。「あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし/わたしの神によって、城壁を越える。神の道は完全/主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に/主は盾となってくださる」(詩編18:30-31)。「イスラエルの栄光である神は、偽ったり気が変わったりすることのない方だ。この方は人間のように気が変わることはない」(サムエル上15:29)。「あなたの目は悪を見るにはあまりに清い」(ハバクク1:13a)。これらの明白な叙述に加えて、旧約聖書は罪が神に憎悪されること(an abomination)を教えている。罪は彼の怒り、裁き、憎悪(abhorrence)の対象である。神は、すべての善の源であり、罪の起源の完全な対応物(the complete counterpart)なのである。
ヨハネ一1:5は、「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」と認めている。ここでヨハネは、神は彼の性質において光であり、聖さであることを認めている。ヤコブ1:13は、特に、神は人を罪に誘うことができないことを認めている。「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです」。
十字架は罪に対する神の反定立(the antithesis)の最も明白な証明である。わたしたちの罪はひとたびキリストに転嫁されれば、神に愛される御子は、神の十分な怒りの対象となる。このことは、罪に対する神の対立の深さを示す。
このことについてすべてを語ったので、わたしたちは、問題に直面し続ける。とうのは、聖書は、全能で主権的であるところの神を示す。聖書は、起こるべきことは何事でも前もって定めたことを教える(エフェソ1:11)。罪は、使徒言行録2:23のような章句においても、神の主権的聖定の下に生じることを教えている。そこは、十字架は「神のお定めになった計画によりあらかじめご存じの上で」あったことを言っている。神は如何にしてすべての罪の中で最も凶悪なことをあらかじめ定めても、罪の作者ではないのか。
わたしたちは、神は罪を含めてすべてのことを聖定したことを認めねばならないし、また、彼は罪の行為における行為者でないことを認めねばならない。聖定それ自身は、神の積極的な行為であるが、しかし、聖定の遂行は許容によるのである。使徒言行録2:23は、十字架は邪悪な人々、不法の人々の手によって行われたことを認めている。換言すれば、十字架は神によりあらかじめ定められたが、罪深い人々がその罪に対して責任があるのである。
わたしたちは、これがその場合であることを認めるとこるでも、わたしたちには、何故、神は罪が生じることを最初に定めたのかについての疑問がなお残される。究極的にはわたしたちはこの疑問への解答を持たないのである。わたしたちが言えるすべてのことは、それは神の栄光のためであるが、しかし、なお何故そうなのかに答えはしないのである。
3.被造物の世界に起源したものとしての罪
a.天使たち
聖書は天使の世界において罪は起源したことを示す。神は天使たちを含めてすべてのものを善く創造した(創世紀1:31)。わたしたちは、天使の軍団の中に、多くの天使たちが罪に落ちたことが語られる。わたしたちは、この堕落が生じたそのときは語られない。イエスは、悪魔は最初から人殺しであったことを言う(ヨハネ8:44)。この最初がまさにいつかは、わたしたちは確かではない。おそらく、それは、少なくとも人間の歴史の始まりに言及している。わたしたちは、天使たちの堕落については多くを知らない。ユダ6はそれをこのように描く。「一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました」。わたしたちは、ルカ8:30の悪霊に憑かれた人からレギオンの悪霊たちを追い出すことについての説明から、それは非常に多くであることを知っている。テモテ一3:6は、サタンの罪は高慢の罪であったことを示唆している。「監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです」。バビロンの王たち(イザヤ14:12以下)とツロの王たち(エゼキエル28:3以下)の罪は、そのような有頂天の言葉において与えられていて、多くの人々は、これらがサタンの堕落の記述と感じている。それらが直接、サタンを言及しているかあるいはしていないかは疑問であるが、また、しかし、これらの人々の罪はサタンの罪と同じ性質であった。わたしたちは、黙示録12:7-9aにおいて、天のおける戦い、そして、サタンの追放についての記述を見るのである。
聖く善く造られ、また、神の臨在の中に住んでいたところの被造物が如何にして説明されないものである罪に変ったのか。わたしたちが知ることは、これがその場合であったことである。多分、罪がその始めを人間にでなくサタンに持つことを考えることに少し慰めがあるが、しかし、このことはわたしたちに対して罪を説明しないのである。
b.人間において、
聖書は、世界に最初に罪を導入したのはサタンであることを教える。神に造られて世界は善であった。罪は、世界の本来的な何かの限界あるいは罪を犯した人間によるのではない。罪は人間自身の自発的な行為である。罪の示唆は蛇の形態でのサタンによって与えられた。サタンによる試みは、機会(the occasion)であったが、しかし、人間の堕落の原因ではない(Not the cause of man’s fall)。外的な力、影響、提案、示唆は、それ自身が理性的な存在が罪を犯し得るものではない。わたしたちの最初の両親の罪は脊教の動きとして、人間自身の胸の内において実現したのである。罪は誘惑することではないが、しかし、彼らの自発的な仲間なのである(their voluntary aquiescence)。このことは、ヤコブ1:12-13によって確証される。
サタンによるエバの誘惑についての注意深い研究は、如何にして、サタンはしばしばわたしたちを罪に誘惑するかを示している。創世紀2:16-17において、わたしたちは、神が園の全体を恵み深く与えたかを見る、そして、園のすべての木を、一つを除いて、アダムとエバに与えた。そこでの強調は、神のいつくしみと恵み深さである。しかしながら、サタンの最初の言葉は、神は彼らに公平ではなかったことを示唆している。すなわち、神は彼らが受けるに値するところのものすべてを与えなかったのである。人間に自分の自律性を主張するように誘惑して、彼の創造者であり主である神を拒否するように誘惑している。エバの答えをもって、わたしたちは、その過程が彼女の考えに始まるのを見る。彼女は要求の理に合わないこと(the irrationality)を強調し、自分たちは木に触れることさえもできないことをつけ加える。サタンの次の動きは、神の誠実さ(the veracity)についての疑問視することであった。そのような攻撃によって、サタンは自分の真の脊教を示し、エバが耳を傾けたとき、彼女もまたあからさまな反逆(the open rebellion)に動いた。サタンは、戒めの固い部分(the hard part)を攻撃した。すなわち、死の威嚇である。そうすることにおいて、サタンは、神の言葉の誠実さを攻撃していた。このことは、サタンがなお人間を真理から誘惑する場所なのである。サタンは、人間は神と同等となり得ることを示唆することによって、神の主権性と神の神性にあからさまな攻撃をもって事柄(the matter)を証印するのである。ここに再び、それは訴えられるところの人格的な被造物の高慢(the pride)なのである。ここから、実を見たのは女であり、食べるによく見えたのであり、それを食べることは適切と理由づけをしたのである(ヨハネ一2:16-17と比較せよ)。キリストの誘惑においても平行がある。
どういうわけか人間の道徳的に正しい性格は変化し、その結果、彼はこの誘惑に屈したのである。違反のこの明白な行為は、人間の変化した性格によって決定された。この行為は、性質においてそのような変化を前提している。それは、神の言葉への不信仰を前提し、また、神の神的大権(God’s divine prerogatives)をむやみに欲しがること(a coveting)を前提している。「その罪の本質は、アダムが、神に自分の人生のコースを決定させるために、自分自身を神との対立に置いたこと、また、アダムは神の御手からその事柄(the matter)を取ること、また、自分自身のための将来を決めることを積極的に試みたのである」(Berkhof,op.cit.p.222)。換言すれば、それは、神に対する人間の自律性の断言(an assertion of man’s autonomy)であった。
Ⅱ.罪についての不適切な見解
1. 二元論
古典的な非聖書的なアプローチの一つは、二元論のそれである。「二元論は、善と悪のことごとくの形態が究極的に演繹されるところの二つの原初的な原理の間の根源的な対立を持つ(すなわち、光と闇)」(Berkouwer,op.cit.p.67)。アウグスチヌスでさえも、彼の初期の著作において、マニ教(Manicheanism)を採った。それは、そこに物の起源と一緒であったこと(it was there with the origin of things)を仮定することによって、悪の起源の疑問に答えることを求めたのである。表面的には、このことは理に適った方法で疑問を解決すると見えたのである。「教会は、悪の永遠化に反対し、悪に、神の善なる創造から離れた原リアリテー(an ur-reality)を帰す理念を廃棄したのである。教会は神の光に対立する原リアリテー(an ur-reality)のどの概念についても論争してきたのである」(Ibid,p.67)。
ギリシャの二元論から生じたグノーシスは、罪と悪は物質それ自身に内在すると仮定した。物質は神に永遠に対立して存在するものと仮定したのである。哲学的には、これはその理論の弱さの一つである。というのは、互いに並ぶ二つの永遠的な存在を仮定しているからである。悪は、こうして、神の支配下にはないのである。さらに、この見解は、悪を倫理的な領域から除き、悪を純粋に物質的としてしまう。実際に、これは、道徳的な悪としての罪についての理念を追い払うのである。
2. 欠如(privation)
ラニプニッツ(Leibnitz)は、「神義論」(Theodicy)において、神は最善に可能な世界を創造したことを主張した。罪は神に帰せられなかった。罪は単純に善の否定あるいは欠如(negation or privation of good)として定義される。そのような欠如に対して何の原因も必要とされない。世界は限界があり有限の世界で、必然的に悪を含む。ラニプニッツは、世界における悪があることにおける神を正当化しようとした。彼は神を悪に対して責任があることを避けなかった。というのは、神は限界がある世界を創造したからであり、その必然的な悪を伴う。再度、この見解は、悪を物(things)の性質の一部にする傾向があり、また、悪と罪の道徳的な性格を正当に扱うことに失敗している。
3. 幻想としての罪(sin as illusion)
スピノザ(Spinoza)は、もし人間が十分な認識を持っていたならば、彼は罪の感覚(a sense of sin)を持たなかったであろうと主張した。換言すれば、罪についてのわたしたちの感覚は、認識のわたしたちの限界の結果(the result of our limitation of knowledge)なのである。近代のクリスチャン・サイエンス(modern Christian Science)は、似た見解を主張する。悪はわたしたちの想像の結果と考えられる。問題と悪(matter and evil)は現実ではない。もしわたしたちが物質の上に精神を行使するならば(if we wouldexercice mind over matter)、わたしたちはすべての悪と罪を無くせるであろう(we could do away with all evil and sin)。そのような見解は、罪の結果を説明することに失敗する。それは、わたしたち人間の人生におけるすべての経験を幻想に減じるであろう。
4. 罪は人間の感覚的な性質(man’s sensuous nature)による
シュライエルマッハー(Schleiermacher)は、人間が神を意識(God-conscious)するように、人間は自分のより低い感覚的な性質において自分への自分自身の対立を意識する。このことは、古いギリシャ的見解に近い。というのは、体は性質において感覚的であり、また、霊魂は身体的なものとの結びつきにおいて感覚的になる。人間にのみ生じるところのものは欠けであるので(since it is the lack that occurs only in man)、神は罪の作者ではないことを主張するために試みがなされる。しかし、わたしたちは、神が人間を身体的なもの、そして、こうして、感覚的な被造物に造ったという事実を考えるとき、人間は自分の罪深さの作者(author of his sinfulness)なのである。
5. 罪は、無知ゆえの神への信頼の不足(a want of trust in God)
リッチュル(Ritschl)は、人間の罪を無知のゆえと見る。神を知らない人々は、神を信頼しないし、また、こうして、神の御国(his Kingdom)に対立する。それは、神の律法に向かう姿勢ではないが、しかし、御国を立てること(the establishment of the Kingdom)に向かう姿勢であり、それは最高善なのである。彼は神を、また、御国を立てる目的も知らないので、彼はそれに反逆する。リッチュルにとって、それゆえ、罪は本質的に無知であって、何の贖いも要求されることなしに赦されるであろう。
6. 罪は利己主義(selfishness)
二つの大きな戒めを基礎として取って、ジョナサン・エドワーズ(Jonathan Edwards)、ユリウス・ミューラー(Julius Muller)、A.H.ストロング(A.H.Strong)は、罪は本質的に利己主義と主張した。すなわち、わたしたちの愛の対象として、神以上に自己を選ぶのである。ベルコフはこのことをこれらの見解の中で最善と描いたが、しかし、満足できるものではない。「すべての利己主義は罪であるが、また、すべての罪には利己主義の要素があるが、利己主義が罪の本質であるとは言われ得ない。罪は神の律法へ関してのみ適切に定義され得る。考察下にある定義を完全に欠いている言及である」(Op.cit.p.230)。
B.罪についての聖書的な見解
1.罪を表す用語
旧約聖書における最も一般的な用語はחטא:chata:ハーターであり、それは新約聖書においては、άμαρτία:hamartia:ハマルティアと訳されている。元の意味は、「何かを失敗する」(to miss)である。その理念は、的を外すことである。これが、ローマ1:21において罪を描くところの方法である。「なぜなら、神を知りながら、神として崇めることも感謝することもせず」とある。また、ローマ3:23は言う。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが」とある。
第2の旧約聖書の用語は、語根のעוה:ava:アーワーから来ているעון:avon:アーウォーンである。この元の意味は、「曲げるあるいは曲がる」である。こうして、わたしたちは、歪めるあるいは捻じ曲げるの理念を持つ。箴言12:8はひねくれた心を語る。これに関して、עול:avel:アーウェルは、「それる、ねじ曲げる」を意味する元のעול:aval:アーワルから来た。この語は、「悪い、邪悪である」を意味するようになった。このピエル(強意形)は、「悪を行う、邪悪に行為する」と訳される。名詞のעול:avel: アーウェルは、「不義」を意味するαδικία:adikia:アデキアと訳され、また、「不法」を意味するανομία:anomia:アノミアと訳される。
他の言葉は、「何もない、無意味である」を意味するאון:un:ウウンから来たאון:aven:アーウェンがある。それは、偽りあるいは欺きを表すのにも用いられ得る。「粉々に砕く、破壊する」を意味するרע:raa:ラーアから来たרע:ra:ラアあるいはroa:ローアがある。κακον:kakon:カコンのように、その名詞は道徳的な悪を語る。פשע:pasha:パーシャーから来たפשע:pesha:ペシャは反逆を意味する。違反を意味するעבר:abar:アーバルは、律法あるいは契約と共に使われる。
ギリシャ語も罪を表す幾つかの用語を使う。άμαρτία:hamartia:ハマルティアあるいはπαράβασις:parabasis:パラバシスは、「違反」を意味し、οφείλημα:opheilema:オペイレマは「負債」を意味する。
2.罪に関する命題
a.罪は現実の悪である
罪を単なる欠如、否定、無知、限界、幻想と語るそれらの見解に反対して、罪は現実の悪(a real evil)である。罪は、何かの欠如ではなくて、積極的な現実である。
b.罪は特別な悪である
罪は、罪の結果であるところの他の悪と区別されるものとして特別な悪である。たとえば、罪の結果としての地における呪いは悪であるが、しかし、それは罪それ自身でなない。そのように、産みの苦しみも、あるいは、男の労働の汗も罪それ自身でなく、罪の結果である。
c.罪は特に道徳的な悪である
罪は、神の道徳的な至上命令(the imperative)に届かず、あるいは、的を外す。それは単にふさわしくないことではなく、あるいは、賢くないことでなく、非社会的なことでもない。それは悪いのである。
d.罪は律法違反である
罪は道徳的な悪である。何故なら、罪は律法違反であるからである。「何々すべき」(ought)という言葉は、正しさの規範、律法との関連においてだけ意味を持つのである。罪は律法への不従順の言葉よりもより低い言葉(to lower terms)に縮小され得ない。
e.罪は神の律法の違反である
罪が違反するのは神の律法である。神の権威の至上命令の権威である。この権威は、神御自身の完全性に依拠する。神の律法は人間の性質の表明でないし、あるいは、世界の性質の表明でもない。それは神の性質の表明なのである。それは、愛と律法の間には対立がないところのここで守られるべきものである。両方とも神の性質を反映している。愛は聖書における律法を置き換えたりしない。むしろ、愛は律法を完成させるものである(ローマ13:10)。
解説
「第20章:罪、その起源と性質」の紹介が終わったので、10点の解説を記す。第1点は、罪の起源を説明することには幾つかの難しさがあることをスミスは述べる。まず聖にして全能なる神によって創造された世界に、何故罪があるのかを説明することそれ自体が如何にして可能なのかという根本的な難しさがある。次いで、罪の起源は客観的に説明できない難しさがある。すなわち、罪の起源を説明する人間自身が、日々罪を犯している当時者で罪深い人間なので、客観的に説明できないのである。罪の起源や原因を客観的に説明しようとすると、自分の罪と罪深さを忘れたり、認めなかったりして、他人事のように説明する失敗に陥る。アダムは罪を犯して、神に問われたとき、自分に原因を認めず、すぐにエバのせいにしたし、エバはすぐに蛇のせいにした。そこで、スミスは、ベルクーワを引用しながら、罪の起源や原因を扱うときには、自分には罪がないかのように論じるのではなく、謙孫に自分も罪深い人間であることを自覚しながら論じることの姿勢を語る。べルクーワは「教義学的研究 罪」の「第1章 起源の問題」において、罪の起源を客観的に問うことの難しさ、罪の起源や原因を説明することはしばしば罪の釈明となり、人間の自己弁護になること、それゆえ、罪は自己弁護されてはならず、謙孫に告白して神の赦しを求めるべきことを述べているのをわたしは思い起こす。
第2点は、スミスは、罪の起源について聖書が語る2つのことについて述べる。一つは、罪は神が創造した完全な世界において現実に生じたことである。神が創造した世界には、まったく罪がなかったことは、創世紀1:31で「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」と強調されて言われているように、罪が一つもない完全な世界であった。しかし、それにもかかわらず、罪は現実に生じたことを聖書は語る。そして、罪の起源についての聖書が語るもう一つのことは、神は如何なる意味においても罪の作者ではないことである。
申命記32:3-4は、「主は岩、その御業は完全で/その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく/正しくてまっすぐな方」と述べている通りである。また、ヨハネ一1:5は、「神は光であり、神には闇もまったくない」と、ヤコブ1:13では「神は人を誘惑したりなさらない」と言われている通りである。それゆえ、神がアダムを誘惑して罪を犯させたのではない。
第3点は、罪と悪の起源や原因についての種々の説明が試みられてきたことである。紀元2世紀半ばが全盛期であったグノーシス派は、精神と物質の二元論を唱え、精神は善で、物質が悪であるとし、悪である物質を創造したのは神とは別にデミウルゴス(造物主)と考え、悪である物質と接した人間の霊魂が堕落したと主張した。オリゲネス(185?-254?)は、霊魂先在説を主張し、創造以前に存在していた霊魂が自発的に罪を犯したことに罪の起源を求めた。エイレナイオス(130?-200?)は、エデンの園におけるアダムの自発的な違反を主張した。その後、東方教会はアダムの罪と子孫のとの関係を弱める傾向にあったが、西方教会は、アダムの罪と子孫との関係を主張し、アダムも子孫もアダムにおいて罪責があり、腐敗していることを強調するアウグスチヌス主義に到達し、宗教改革者たちもアウグスチヌス主義に立ったことをスミスは述べる。
なお近代においては、罪の理念は、悪の理念にとって代わられ、悪は種々の方法で説明された。カント(1724-1804)は、悪を超感覚的な領域に属する何かとし、説明できないものとした。ライプニッツ(1646-1716)は、世界は無限でなく有限で、限界があるところから悪が必然的に生じると主張した。シュライエルマッハー(1768-1834)は、悪の起源を人間の感覚的な性質(in the sensous nature)に見い出した。リッチュル(1822-1889)は、罪の起源を人間の無知において見い出した。進化論者たちは、悪を次第に発展していく道徳的な意識へのより低い傾向の対立に帰した。バルト(1886-1968)については、スミスは、ベルコフを引用して「バルトは、罪の起源は予定の神秘として語り、罪は堕落に起源するが、しかし、堕落は歴史的な出来事ではなく、原歴史(ウルゲシヒテ)に属ずると語った」と述べている。
第4点は、罪の起源に関する聖書の教えについてである。すると、聖書は、何事でもこの世界に生じることは、神の永遠の聖定に包含されているので、この世界への罪の侵入も神の聖定に含まれていたことを認めなければならない。しかし、同時に、神は決して罪の作者ではないことも認めなければならない。ヨブ34:10で「全能者には不正などない」と断言されている通りである。それゆえ、罪が生じることは神の許容によって生じるのであり、実際に罪を犯し、悪を行うのは被造物であり、人間である。
第6点は、罪は天使において起源したことである。神は天使たちを含めてすべてのものを善く創造した(創世紀1:31)が、しかし、天使たちの中には、高慢になり創造された自分の立場を守らず、多くの天使たちが罪に落ちた。いつ罪に落ちたかを聖書は記していないが、アダムを堕落天使たちの頭のサタンが誘惑したので、それ以前に天使たちの堕落があったことは確かである。ユダ6はそれをこのように描く。「一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました」。
第7点は、聖書は、世界に最初に罪を導入したのはサタンであることを教えていることである。サタンが蛇を使って誘惑したのである。あるいは、蛇の形態におけるサタンが誘惑したのである。神が誘惑したのではない。ヤコブ1:14で「神は・・・人を誘惑したりなさらないからです」とはっきり断言されている。サタンの誘惑は実に巧妙であった。その巧妙さはスミスの本文を読んでもらえばよくわかるので、ここでは繰り返さない。いずれにしても、創造された人間アダムの、そしてエバの性質は悪がない正しい性質であったのにもかかわらず、どういうわけか人間の道徳的に正しい性格は変化し、その結果、彼はこの誘惑に屈した。アダムとエバの致命的な違反の行為は、神の言葉への不信仰を前提し、また、神と同等の神的大権を望んだことを意味する。このことは、アダムもエバも神に依存し、依拠して生きていくのではなく、神から独立し、自律して生きていくという無謀さを意味する。
第8点は、スミスは、罪についての不適切な見解について述べる。罪についての不適切な見解が次々と生じたことを述べる。善と悪との二元論をはじめ種々の二元論があった。ギリシャの二元論とグノーシスは、善なる精神と悪なる物質の二元論であった。ライプニッツは、罪は単純に善の否定あるいは欠如と定義した。スピノザ(Spinoza:1632-1677)は、人間の認識には限界があるので、悪であると思ってしまう。それゆえ、もし、人間の認識が完全であれば、悪は幻想であることがわかると考えた。また、クリスチャン・サイエンスの立場の人々も悪は現実ではなく、想像の結果と考える。シュライエルマッハーは、悪の起源を人間の感覚的な性質に見い出した。リッチュルは、罪を無知の人間に見い出した。アメリカの会衆派の神学者のジョナサン・エドワーズ(1703-1758)およびアメリカのバプテスト派の神学者のA.H.ストロング(1836-1921)は、罪は本質的に利己主義と主張した。
第9点は、罪についての聖書的な見解についてである。罪についての旧約聖書のヘブライ語の用語と新約聖書のギリシャ語の用語についての丁寧な説明はスミスの本文を読んでいただければと思う。罪について聖書が教えていることは、罪は現実の悪であること、罪は罪の結果と区別される特別な悪であり、神の律法の違反である。それに対して、地が呪われていること、産みの苦しみ、労働の汗は罪の結果であり、罪それ自体ではないことを、スミスは挙げる。
第10点は、スミスはごく少ししか述べていないが、バルトの罪の理解について記す。すると、バルトは、「罪の存在論的不可能性」を語る。その意味は、罪は不可能で、意味がなく、不合法で、価値がなく、根拠がなく、正当な存在と根拠を持たないものなのに、それにもかかわらず、現実に存在しているもの、すなわち、不可能なものという意味である。バルトにおいては、人間は、ナザレのイエスにおいて永遠から選ばれており、あらかじめ恵みにより罪に勝利して歩む者と定められているので、罪は人間の存在と性質を破壊することができないと考える。また、罪はやがて消えゆくものと言う。
わたしは、バルトのこの言葉、すなわち、「罪の存在論的不可能性」という言葉を知ったとき、正直、何か魔術のような言葉に聞こえた。そして、罪についてのバルトの考えを要約した「罪の存在論的不可能性」という概念は、おかしいと思った。何故なら、聖書は、罪が存在論的に不可能であるなどとは、どこにも教えていないからである。むしろ、逆に、罪は恐るべき破壊力として常に現実的存在として、旧約聖書はどこででも描いている。神は、罪に対する警告、怒り、裁き、滅びをあちこちで繰り返し語る。具体的には、創世記3:17で「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と語り、人間の代表のアダムが神の言葉に背いて罪を犯すことに対して死の威嚇をしている。アカンが罪を犯したとき、神はイスラエルの民がアイの町との戦いで惨敗するという裁きを与えた(ヨシュア記7:20)。ダビデは罪を犯したとき、柔らかな心で悔い改めをせず、告白して赦しを求めることもせず、心頑なに隠蔽し続けたので、神の裁きの御手がダビデに重くのしかかり、ダビデは苦悶し続け心身が衰弱した(詩編31:11、51:5)。
新約聖書においても、イエスは罪を犯すことへの警告、警戒、神の怒り、裁き、滅びを繰り返し語った。山上の説教において、「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」と語り、罪を犯すことの深刻さと恐ろしさを教えて、罪を犯さないように求めた(マタイ5:27-30)。パウロも信者たちに罪の深刻さを教え、ローマ6:12で「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません」と語り、信者たちが罪に支配された生き方を決してしないように勧めている。また、パウロは、コリト一5:2では、罪を犯してそのままに暮らしている信者を教会から直ちに除名するように命じているほどである。ヘブライ12:4は、「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」と述べ、血を流すほどの罪との激しい現実的な戦いがあることを教えている。
そえゆえ、罪に対する永遠からの安易な勝利はないのである。恐るべき破壊力である罪は世の終わりまで現実に存在するのである。罪が終わるのは、キリストが再論して信者の体が再臨のキリストと同じ二度と死ぬことのない栄光の体に復活させられるときなのである。そのとき、恵みが罪に完全に勝利し、死のとげである罪が完全に敗北し消えていくのである。そのときまで恐るべき破壊力である罪は現実に存在する。それゆえ、罪が存在するのは不可能であるが、それにもかかわらず存在するなどという考えは聖書があずかり知らないバルト自身の独創的な思想であり、とても信頼できない。オランダの世界的改革派神学者のベルウーワは、バルトの「罪の存在論的不可能性」は受け入れられないと明言している。
また、バルトが、ナザレのイエスにおいて人間は永遠から選ばれており、あらかじめ恵みにより罪に勝利した者として歩むことが定められているというのであれば、アダムは、神によって罪なく創造されたが、サタンに誘惑されて罪を犯し、そのアダムの罪において罪人の状態に落ちたアダムの子孫の人間が、今度は、キリストを信じて救われ、恵みの状態に置かれるという救いの歴史的な段階、すなわち、創造、堕落、救いという歴史的な段階が意味を持たなくなってしまう。換言すれば、キリストへの信仰によって罪の状態から恵みに状態への歴史的な移行の意味がなくされてしまう。聖書は、アダムの創造、アダムが堕落してアダムとその子孫が罪の状態に落ちたこと、しかし、キリストを信じて恵みの状態に移されるという歴史的な段階を明らかに教えている。すなわち、キリストを信じるこという決定的な契機によって、罪の状態から恵みの状態に移行されるという歴史的事実が、バルトにおいては無意味となる。それゆえ、バルトの罪論は信頼できない。バルトの罪論については拙著「G.C.ベルクーワ:教義学的研究」の「第7巻 罪」の「第8章 本質についての問い」、「G.C.ベルクーワ:カール・バルト神学における恩恵の勝利」の「第9章 勝利の性質 5.バルトの罪の存在論的不可能性」、「ウェストミスター信仰告白の解説」の「第6章 人間の堕落と罪、およびその罰について」を参照のこと。
http://minoru.la.coocan.jp/morton20.html