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序論
旧約聖書の終末論的思想のあるものについて概観したので、わたしたちは、今や、新約聖書に向かう。わたしたちは、如何にして、旧約聖書の期待(the Old Testament expectations)がキリストの最初の到来において実現したあるものを吟味し、また、キリストの第二の到来(the second coming)において啓示されているそれらのものを考察もしよう。これに加えて、わたしたちは、新約聖書において見い出される新しい終末論的主題も注目しよう。
1.キリストの到来とみわざにおける旧約聖書の預言の実現
新約聖書は、旧約聖書と世の終わりの中間に立つ。その中において、わたしたちは、旧約聖書の終末論的期待の多くの実現を見い出す。最初に、約束された贖い主(the redeemer)の到来は、キリストが世に来たことにおいて実現する。次の引用から見られるように、彼の誕生から昇天へと、旧約聖書の預言は実現した。
「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである』」。すべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である」(マタイ1:20-23)。 「彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである』」(マタイ2:5-6)。
これらの個所は、イエスの誕生と関連している複合的な出来事(the complex of events)は、旧約聖書の預言の実現であった。
旧約聖書のそのような実現の他の範例は、勝利の入城、十字架と関連した特別な出来事のあるものにおいて、見い出される。
「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる』、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」(マタイ21:4-5)。
「そこで、『これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた』という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである」(ヨハネ19:24)。「イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった」(ヨハネ19:33)。
「夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った」(マタイ27:57-60)。
ペテロは、復活と昇天も預言されていたことを示すため、旧約聖書を引用した。使徒言行録2:24-32。「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。0 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。このイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」。う話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(使徒言行録1:9)
十字架のキリストのみわざは、新約聖書において、一度限りの最終的な行為として見られる。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです」(ペトロ一3:18)。へブライ9:11-12も同じことを教えている。「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」。
彼は、再び、キリストのみわざの最終性について語るため、「永遠に」(for ever)という句を使用する。「しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き」(ヘブライ10:12)。こうして、旧約聖書において約束された勝利が、キリストにおいて完成したのである。
Ⅱ.神の国
洗礼者ヨハネもイエスも、キリストの到来と共に神の国の到来を宣べ伝えた。「『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った」(マタイ3:2)。イエスは、御国をすでに到来したものとして(as having already come)語った。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12:28)。
王の到来と共に、御国が存在するもの(as being present)として理解された。もちろん、ユダヤ人たちが予想した御国の類ではなかった。というのは、彼らは、政治的な実体として(as a political entity)、御国をダビデの王国の復帰(the return of the kingdom of David)であると、言葉や行動で表したからである。イエスは、御自身の御国を次のように定義した。「『この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない』。そこでピラトが、『それでは、やはり王なのか』と言うと、イエスはお答えになった。『わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く』」(ヨハネ18:36-37)。
現臨する御国(the present kingdom)に加えて、新約聖書は、御国の完成(the consummation)があることも教える。「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」(マタイ8:11)。「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」(ルカ22:16)。
Ⅲ.終わりの時(the last days)
新約聖書における御国の概念は、現在と将来の両方に存在する(both in present and in future)。この関連において、新約聖書は、次のように語る。使徒言行録2:16-17で「そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る」。
ペトロは、聖霊の注ぎをもって、最後の日が始まった(the last days had begun)ことを断言した。この期間は、偉大で、注目に値する日、すなわち、審判の日の到来をもって終わる。ヘブライ人への手紙は、イエスの到来を世の終わりとして語る。「もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(ヘブライ9:26)。再び、ヨハネは、わたしたちが世の終わりにいることを語る。「しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」(ヨハネ一2:8)。
「今見た類の表現は、新約聖書の信者が、最後の日に、最後の時に、世の終わりに生きていることを実際に意識していたことを示す。信者は、旧約聖書に予告されていた偉大な終末論的出来事が、イエス・キリストの到来と彼の御国の樹立において起こったことを知っていてのである」(Anthony Hoekema,The Bible and the Future:Grand Rapids:William B.Eerdmand Publihing Company,1972,p.108-109)。
C.H.ドット(C.H.Dodd)は、このことを、「実現した終末」(realized eschatology)として語った。旧約聖書の終末論的期待は、新約聖書において実現したというのが、ドットの立場であった。彼は、神の国は到来したし、また、神の国は、最早、期待の事柄ではなくなったことを主張した。彼は、ヨハネもパウロも、『実現した終末』(realized eschatology)を教えたことを主張した。ドットによれば、福音について重要なことは、現在の時に救いがあることである(the presence of salvation in the present time)。
ルドルフ・ブルトマン(Rudolf Bultmann)は、「実現した終末」(realized eschatology)のモチーフを取り入れた。彼は、ヨハネにおいては、将来の劇的な出来事(the future dramatic events)については、何もないことを主張した。他方、パウロは、それらが将来あることを教えた。ブルトマンは、ヨハネは、「徹底的に救いのこの現在の性質に従って、その急進的な結論に来たのである」(Berkouwer,The Return of Christ,translated by James Van Oosterom:Grand Rapids:William B.Eerdmans Publihing Company,1972,p.108-109)。
フッケマ(Hoekema)は、ドットもブルトマンも両方が誤ったと主張する。新約聖書において実現が始まった旧約聖書の終末論的な思想の局面がある。彼は、「実現した終末」(realized eschatology)を語る代わりに、「開始した終末論」(inaugurated eschatology)を語ることがよりよいと感じている。何故なら、未だに実現していない多くの終末論的出来事があるからである。彼は言う。「この用語の有利さは、歴史への偉大な終末論的切り込み(the great eschatological incision into history)がすでになされた事実を祷分正当に扱える。他方、それは、将来におけるさらなる終末論の展開を排除しないからである。「開始した終末論」(inaugurated eschatology)は、終末が実際に始まったが、しかし、決して終わったのではないことを意味するのである」(Hoekema,op.cit.,p.17-18)。
「終わりの時」(the last days)と「終わりの日」(the last day)の間になされる興味深い区別がある。「終わりの時」(the last days)は、現在の時代(the present age)に言及するのに使用される。ぺトロは、「終わりの時」(the last days)における聖霊の注ぎについて、ヨエルの預言そのように解釈している。他方、「終わりの日」(the last day)は、決して現在の時代について使用されず、審判の日あるいは復活の日に使用される。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(ヨハネ6:39)。「マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った」(ヨハネ11:24)。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」(ヨハネ12:48)。
Ⅳ.現在のメシア的時代と来るべき時代
新約聖書は、現在のメシア的時代と来るべき時代の両方とも語る。「この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」(ルカ18:30)。「こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです」(エフェソ2:7)。「神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら」(ヘブライ6:5)。
これらの2つの時代の対照は、次のようなものとして見られる。「イエスは言われた。『はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける』」(ルカ18:29-30)。「イエスは言われた。『この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない』」(ルカ20:34-35)。
これらの個所から、新約聖書は、イエスの最初の到来によって導き入れられた時代を、祝福の特別な時代と彼が再び戻って来る最終的な完成を期待して待つ時代として見ていることは明らかである。フッケマ(Hoekema)が、その時代を「現在の時代の祝福は、来るべきより大きな祝福の約束であり、保証である」(Op.cit.,p.20)。
このことが真実であることは、キリストの最初の到来に根ざしていることとして、キリストの再臨の約束と確かさにおいて見られる。御使いたちは、キリストの昇天のとき、弟子たちに言った。「言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる』」(使徒言行録1:11)。ヘブライ人への手紙の著者は、キリストの再臨についての自分の期待を、審判が死に続くことの確かせに基礎づけている。「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(ヘブライ9:27-28)。
わたしたちは、今や、新約聖書の直接的な教えの幾つかを吟味しよう。
A. 新約聖書の対照的な構造(the antithetic structure of the New Testament)
新約聖書において見い出される構造について3つの要素がある。最初に、この世と来るべき世の間に、対照的な構造がある。新約聖書の対照的な構造は、「この世」(ό αιων ουτος:ホウ アイオウン フウトウス:his age)と「あの世」(ό αιων εκεινος:ホウ アイオウン エケイノス:that age)の対照に置かれた比較において見い出される。同じ対照が、「ό νυν αιων:ホウ ニュン アイオウン:the present age)と「来たるべき世」(ό αιων ό ερχόμενος:ホウ アイオウン エルコメノス:the coming age)の句によって置かれている。
対照的な構造は、マタイ12:32のような個所においても見られる。「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世(in the world:age)でも赦されることがない」。
再び、対照は、ルカ20:34-35において見られる。「イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」。
B. 2つの世の相互の関係
1. 2つの世の包括性あるいは全包含性(Comprehensiveness or the all-inclusiveness of the two ages)
マタイ12:32において、聖霊に対する罪が赦されないこと最終的なものとして見られている。このことは、マルコ3:29によって確証さらいて、それは、永遠に赦しがないことを断言している。「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」。この世と後の世が、人間存在と経験の全期間(the whole span)を包含するものとして理解されている。もし、違うならば、「はざま」(a loophole)を与えるある期間がるであろうし、また、こうして、告げられた威嚇を打ち破るであろう。このことは、マルコ3:29によって確証され、それは、決して赦しがないことを言う。これらの個所は信者でない人々(unbelievers)に関心を持っている。それらの個所は、信者でない人と彼の経験と運命に関する2つの世の包括性(the comprehensiveness of the two ages)について語る。これらの2つの世は、信者でない人の存在と経験の全期間(the whole span)を覆うのである。
同じことが、信者についても言える。マルコ10:30とルカ18:30は、信者たちの報いについて語る。「今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。包括的な公式(the comprehensive formula)が、現在の時期と世あるいは来るべき世(the present season and the world or age to come)について語る。
エフェソ1:21は、キリストの高挙との関連で、この世と来るべき世(this age and the age to come)について語る。「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」。このことは、この世と来るべき世の両方の人間の歴史のすべてを含む。もし、このことがそうでないならば、そして、別の世(another age)があるならば、そのとき、議論のすべての力がくじかれるであろう。キリストは、すべての時代において高く挙げられているのである。
2. 2つの世は相互に連続している(consecutive)
このことは、最初の原則の必然的な結果である。もし、2つの世が連続していないならば、そのとき、それらの間に2つの重複(an overlap of the two)もないし、また割れ目(a gap)もないということになる。ルカ20:34-35において、めとりや嫁ぎはこの世を定義する特徴である。めとりや嫁ぎが終るならば、そのとき、この世も終わる。この世は、結婚によってしるしをつけられ、来るべき世はめとりのないことによってしるしづけられる。「イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」。報いとしての死者からの復活は、来るべき世と結びついていることに注目せよ。復活が主の到来のときであることは、また、復活に達する者たちは、結婚におけるめとりも嫁ぎもしない。結婚は、復活で終わるのであり、それはキリストの到来である。来るべき世は復活とキリストの到来と共に始まる。結婚は、キリストの到来まで続き、この世はそのときまで続く。復活は来たるべき世の特徴であるから、復活はこの世を終わらせるに違いなく、また、来るべき世を導入する。このことすべては、2つの世の連続性を指し示す。
C. キリストの到来は、世の区分点(the point of division)である
テトス2:12-13は言う。「その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています」。
パウロは、ここで、神の栄光の現われの祝福された希望のために、この世において信心深く生きるように、わたしたちに警告している。それゆえ、この世は、神の現われを待ち望む世である。ひとたび神が現れると、そのとき、警告は止み、この世は終わりとなる。マタイ13:39-49は、次のように語る。「毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け・・・」。
この個所において、イエスは、収穫は世の終わりにあるいは時代の終わりに(at the end of the world or end of the age)来ることを教えている。この収穫において、分離を行うために、キリストが再臨し、彼の御使いたちを遣わし、義人と悪人は分離されるとき、世のこの終わりが来る。
D. 結論
これらの3つの原則から、わたしたちは、新約聖書はわたしたちに終末論の出来事に対する基本的な構造を与える。この構造は、現在の時代は、キリストの再臨で終わるのであり、キリストは、来るべき世を導き入れるのである。それは単純な構造であるが、しかし、わたしたちが新約聖書の終末論を研究するとき、わたしたちが避けられない構造なのである。
パウロは、キリストの2つの到来の間においてたしたちが生きることを語る。「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています」(テトス2:11-13)。
ベルクーワ(Berkouwer)は考察する。「わたしたちは、未来主義者(a futurist orientation)の志向に陥ってはならないし、また、相関的に来るべきものについての未来主義者の期待に陥ってはならない。というのは、未来についての約束は、過去の出来事と密接に関連しているからである。クリスチャンの期待は、『未来の種が現在にある』(the seeds of the future lie in the present)ように、現在における世とははるかに異なっているからである。クリスチャンの期待は、来るべきものと過去にすでに起こったものとの間の完全に独特な関係によって決定されている。・・・期待はキリストに向けられており、彼はすでに来たし、また、時の終わりに来るが、それは未来主義者の性格を欠いているのである。・・・それゆえ、終末論は、すでに来たし、また2回目として現れるキリストに常に関心がある・・・彼を待ち望む者たちを、熱心をもって救うために来るのである(ヘブライ9:28)。この二重の出来事は、終末論の隅の親石(the cornerstone)であり、単なる未来から区別するのである」(Op.cit.,p.12-13)。
結論
この章において、わたしたちは、旧約聖書の期待と将来に関する新約聖書に、一般的な視野を与えることを求めた。わたしたちが、新約聖書の終末論的アプローチについての概観を結論するとき、わたしたちは、下記の点に注目する。
1. 旧約聖書の偉大な期待は、すなわち、約束されたメシアの到来が実現した。
2. 地上でのみわざの完成、天への帰還、再臨の約束をもって、わたしたちは、旧約聖書の終末論的期待は、実際に2つの段階に分けられたことを認める。
3. 現在の時の祝福(the blessing of the present age)は、「来たるべきより大きな祝福の約束であり、保証である」(Hoekema,op.cit.,p.22)。
解説
「第52章:新約聖書の終末論」の紹介が終ったので、5点の解説を記す。細かいことはミスの本文を読んでいただければと思うので、気がついたことを記す。第1点は、旧約聖書において終末の出来事として預言、予告されたいた事柄が、新約聖書において実現したことを明らかにする。すなわち、旧約聖書の終末論の構成する事柄として、スミスは、6つの事柄を挙げていた。それらは、来るべきメシアの期待、神の国、新しい契約、御霊の約束、主の日、新しい天と新しい地であったが、それらがすべて新約聖書において実現したことを、4の観点から語る。その4つは、メシアのキリストの到来とみわざにおいて旧約聖書の終末預言が実現したこと、神の国がキリストの出現において到来したこと、ペンテコステで聖霊が注がれることにより終わりの日が到来したこと、そして、これらの出来事により、旧約聖書が約束したいた終末は実現したこと、しかし、だからと言って、終末はもうすでに完成したのではなく、開始したのであり、今の時代はキリスト再臨による終末の完成を目指して進んでいる時代であり、キリストが実際に再臨したとき、終末は言葉の最も厳密な意味で完成することを、スミスは語る。
第2点は、では、メシアの到来とみわざにおいて旧約聖書の終末預言が実現したこととは、どのようなことか。すると、スミスは、イエスの誕生、エルサレム入城、一度限りの最終的な行為としての十字架の死による罪の贖いをした後、埋葬、復活、昇天、神の右に座すことを表す聖句を次々と具体的に引用し、メシアの到来とみわざにおいて旧約聖書の終末預言がことごとく実現成就したことを示す。
第3点は、では、神の国がキリストの出現において到来したこととは、どのようなことか。すると、スミスは、神の国の到来は、メシアの先駆けの洗礼者ヨハネもイエス御自身も自ら宣べ伝えて、証言したことを語る。すなわち、王であるキリストが到来したからには、王の国である神の国も同時に到来したことを語る。神の国は、通常、神の王的支配を意味するが、スミスは、キリストを神の国の王として理解し、王であるキリストが到来したからには、キリストの国である神の国も到来したことを語る。なお、ユダヤ人たちが、望んだ神の国は、政治的メシアによって、ローマ帝国の支配から独立した政治的な国家であり、ダビデ王国のようなこの世の強力な地上国家であったが、キリストはピラトに、「わたしの国はこの世には属していない」と答えたように、霊的な意味での王国であった。そして、この霊的な王国は、世の終わりのキリストの再臨において、栄光の尾国として完成することを、スミスは語る。
第4点は、では、ペンテコステで聖霊が注がれることにより終わりの時が到来したこととは、どのようなことか。すると、ペンテコステにおけるペトロの説教にあるように、聖霊の注ぎをもって、終わりの時が始まったことを意味する。なお、終わりの時と終わりの日は区別されねばならないことも、スミスは述べる。「終わりの時」とは、英語では、the last daysであり、期間を表すが、「終わりの日」は、英語で、the last dayで、キリストが再臨して、復活、最後の審判が行われる日を表す。それゆえ、両者の間には、期間がある。キリストの出現(第一の来臨・第一の到来)とキリストの再臨(第二の来臨・第二の到来)の間には、時間があり、期間がある。
第3点は、ドットの「実現した終末論」について、スミスは語る。ドットは旧約聖書の終末論的期待は、新約聖書において実現し、神の国は到来し、福音による救いの時代となったことを強く語った。しかし、それゆえ、神の国は、最早、それ以上に期待する事柄でなくなったと主張し、将来、キリストの再臨による神の国の完成について語らなかった。これは、誤りである。神の国については、二重のステージ、二つの面があり、キリストの出現によって、確かに開始したが、しかし、完成は将来のキリスト再臨のときであることを忘れてはならないのである。
ドット(1884年-1973年)は、英国の新約学者である。わたしも、彼の「使徒的宣教とその展開」読んだ。彼は、イエスが宣べ伝えた神の国は現在のリアリテーを意味し、今の時代はキリストによる救いの時代であることを強調し、キリストがもう一度来るという再臨は、ほとんど意味がないとした。彼は、イエスの将来の愛到来、すなわち、再臨に関するすべての言葉は、イエスの復活を示していたのに、教会は、それを復活と世の終わりの再臨の2つの別々の出来事として区別して誤ったと考える。そして、彼は、この自分の主張を特にヨハネ福音書に訴え、ヨハネ福音書の主要テーマの永遠の命は、今ここで教会において、キリストの聖霊によって実現されたと考える。なお、ドット自身も、「実現された終末論」という言い方は不十分であって、「開始された終末論」がよいと言っていた。こうして、ドットは、今の時代を救いの時だけして、世の終わりの終末やキリストの再臨、救いの完成を否定してしまうのは、聖書に立っていない一面的な観方であった。
第4点は、ブルトマンの終末理解について語る。ルドルフ・ブルトマン(Rudolf Bultmann)も「実現した終末」(realized eschatology)のモチーフを取り入れ、特にヨハネ福音書においては、将来の世の終わりの劇的な出来事は、何もないことを主張したことを、スミスは語る。
わたしも、ブルトマン(1884年-1976年)の「ヨハネ福音書」をドイツ語原書で読んだが、彼は、ヨハネ福音書において決定的に大切なのは、キリストによって今ここで現在生じることであって、将来起こることではないと考える。未来の次元は失われているとして、5:24、25、4:35を挙げる。では、ヨハネ福音書に出て来る将来、世の終わりを表す言葉をどのように考えるかと言えば、それらの言葉は、ヨハネ福音書のオリジナルな言葉ではなく、後代の追加、補足であり、しかも、それらは古代の神話的世界像から取ったもので、キリストの再臨、万人の復活、その他の宇宙的出来事などが起こる未来はないと主張する。そこで、大切なのは、キリストに対して、人が、今ここで、信仰的決断をして、神との関わりに生きたキリストの実存的な生き方を自分もすることを主張する。
しかし、ブルトマンのこの主張も誤りである。将来的な言葉は後代の追加、補足と自分勝手に決めつけている。また、パウロの手紙には、テサロニケ一4:14、1:10、ロ-マ8:18などで、将来の終末的出来事が断言されていて、世の終わりが来ることは極めて明らかで、まったく疑いを入れない。ブルトマンの終末論は実存主義的終末論と言われるが、聖書に立っていない。
ドットとブルトマンの終末論理解については、拙著(G.C,ベルクーワ:教義学研究-その紹介と解説-」の「第12巻 キリストの再臨」の「第4章 『間にある時間の意味』、オランダのアペルドールン(Apeldoorn)神学校のファン ヘンデレンとヘレーマ共著のオランダ語で書かれた「簡潔な教義学」(Beknopte Gereformeerde Dogmatiek)の742頁から743頁において、ドットの終末論は「実現された終末論」(De gerealiseerde eschatologie)として、ブルトマンの終末論は「実存主義的終末論」(De existentialistische eschatologie)として解説されている。また、南アフリカのプレトリア大学のすぐれた改革派神学者のハインスの「教義学」(Dogmatiek)の414頁から415頁において、ドットの終末論は「実現された終末論」(Gerealiseerde eskatologie)として、ブルトマンの終末論は「実存主義的終末論」(Existentialistiese eskatologie)として解説されている。
第5点は、キリストの第一の来臨(出現)によって開始した現在の世とキリストの再臨による来るべき時代の相互関係についてである。すると、スミスは、4つの特色を語る。1つ目は、今の世と来るべき世は、対照的な構造をもっていることを語る。このことは、イエス御自身が聖霊によってベルゼブル(サタン)を追い出したときに、「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」(マタイ12:32)と語って、「この世」と「後の世:来たるべき世」を対照させたことによって明らかである。2つ目は、「この世」と「来たるべき世」は、人間の存在と経験の全期間を表していることである。すなわち、「この世」と「来たるべき世」の他に人間存在の期間はないのである。もちろん、「この世」と「来たるべき世」の間に、「はざま」の期間はないのである。この2つの世で、人間存在の全包括性あるいは全包含性を表しているのである。3つ目は、「この世」と「来たるべき世」は連続していて、つながっている。キリストの再臨によって、「この世」は終わり、「来たるべき世」が始まる。この世の特色はめとりや嫁ぎがあるが、「来たるべき世」には、最早、めとりや嫁ぎはなくなり、信者は復活させられ、神の子らとされ、来るべき世が始まる。結くして、結婚は、キリストの再臨まで続くが、キリストは再臨したとき、結婚は最早終わり、信者は復活し、神の子らとされ、来るべき世が導入される。こうして、キリストの再臨を通して、2つの世の連続性が示される。4つ目は、この世は、キリストを信じて生きる人々とそうなでない人々が一緒に生きるが、キリストが再臨したときは、キリストは、義人と悪人を分離することによって、「この世」は終わるので、キリストの再臨は、2つの世の区分点となる。5つ目は、2つの世に対するわたしたちの関係についてである。すなわち、わたしたちは、キリストの2つの到来の間に生きているが、「この世」にあっては信心深く生きると共に、この世に埋没することなく、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望みながら生きていくことの大切さをスミスは語る。わたしたちは、根拠のない単なる未来主義者ではなく、歴史の中で十字架の死と復活で救いの道を開いてくださったイエス・キリストがわたしたちの救いを完成するために再臨してくさるという根拠の確かな希望をもって歩んでいくことを、ベルクーワを引用して語る。聖書の終末論、キリスト教信仰の終末論の隅の親石、中心は、あくまでもキリストの再臨である。それゆえ、ベルクーワも、自分の終末論の著作名を、単に「終末論」としないで、「キリストの再臨」(De Wederkomst van Christus:The Return of Christ)としたのである。
現代において、キリストの再臨を信仰しないで、あるいは、キリストの再臨を否定して、キリスト教の終末論を語る神学があるが、わたしたち改革派教会は、それには決して組しない。わたしたちは、神の言葉それ自身であり、特別啓示それ自身である聖書に基づき、また、ウェストミンスター信仰基準に立ち、大会60周年記念宣言「終末の希望についての信仰の宣言」に沿って、キリスト再臨ゆえの神の全御計画の完成、神の国の完成、わたしたちの救いの完成を真の希望として、今日も明日も力強く生きていこう。わたしたちの救いの完成については、拙著「ローマの信徒への手紙説教集」の「上巻 『栄光を受ける約束』(8:18-25)」、「神の救い御計画の完成については、「下巻 『イスラエルの回復』(11:11-24)、『神の救いの御計画の完成』(11:25-36)を参照のこと。
http://minoru.la.coocan.jp/morton52.html