ハイデルベルク信仰問答 [問75~91]
*Shalom Mission シャローム宣教会:http://shmission.com/xe/shalom_jp
問75 あなたは聖晩餐において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲とそのすべての益にあずかっていることを、どのように思い起こしまた確信させられるのですか。
答 次のようにです。キリストは御自身を記念するため、この裂かれたパンから食べ この杯から飲むようにと、わたしとすべての信徒にお命じになりましたが、その時こう約束なさいました。第一に、この方の体が確かにわたしのために十字架上でささげられ、また引き裂かれ、その血がわたしのために流された、ということ。それは、主のパンがわたしのために裂かれ、杯がわたしのために分けられるのを、わたしが目の当たりにしているのと同様に確実である、ということ。第二に、この方御自身が、その十字架につけられた体と流された血をもって、確かに永遠の命へとわたしの魂を養いまた潤してくださる、ということ。それは、キリストの体と血との確かなしるしとしてわたしに与えられた、主のパンと杯とをわたしが奉仕者の手から受けまた実際に食べるのと同様に確実である、ということです。
問76 十字架につけられたキリストの体を食べ、その流された血を飲むとはどういうことですか。
答 それは、キリストのすべての苦難と死とを、信仰の心をもって受け入れ、それによって罪の赦しと永遠の命とをいただく、ということ。それ以上にまた、キリストのうちにもわたしたちのうちにも住んでおられる聖霊によって、その祝福された御体といよいよ一つにされてゆく、ということです。それは、この方が天におられわたしたちは地にいるにもかかわらず、わたしたちがこの方の肉の肉、骨の骨となり、ちょうどわたしたちの体の諸部分が一つの魂によってそうされているように、わたしたちが一つの御霊によって永遠に生かされまた支配されるためなのです。
問77 信徒がこの裂かれたパンを食べ、この杯から飲むのと同様に確実に御自分の体と血とをもって彼らを養いまた潤してくださると、キリストはどこで約束なさいましたか。
答 聖晩餐の制定の箇所に、次のように記されています。わたしたちの「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『(取って食べなさい。)これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。この約束はまた聖パウロによってくりかえされており、そこで彼はこう述べております。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。
問78 それでは、パンとブドウ酒がキリストの体と血そのものになるのですか。
答 いいえ。洗礼の水は、キリストの血に変わるものでも罪の洗い清めそのものになるのでもなく、ただその神聖なしるしまた保証にすぎません。そのように、晩餐の聖なるパンもまたキリストの体そのものになるわけではなく、ただ礼典の性格と方法に従ってキリストの体と呼ばれているのです。
問79 それではなぜ、キリストは、パンを御自分の体、杯を御自分の血またその血による新しい契約とお呼びになり、聖パウロは、イエス・キリストの体と血にあずかる、と言うのですか。
答 キリストは何の理由もなくそう語っておられるのではありません。すなわち、ちょうどパンとブドウ酒がわたしたちのこの世の命を支えるように、十字架につけられたその体と流された血が、また飲み物になるということを、この方はわたしたちに教えようとしておられるのです。そればかりか、わたしたちが、これらの聖なるしるしをこの方の記念として肉の口をもって受けるのと同様に現実に、聖霊のお働きによって、そのまことの体と血とにあずかっているということ。そして、あたかもわたしたちが自分自身ですべてを苦しみまた十分成し遂げたかのように、この方のあらゆる苦難と従順とが確かにわたしたち自身のものとされているということを、この方は目に見えるしるしと保証を通して、わたしたちに確信出せようとしておられるのです。
問80 主の晩餐と教皇のミサとの違いは何ですか。
答 主の晩餐がわたしたちに証しすることは、イエス・キリスト御自身がただ一度十字架上で成就してくださったその唯一の犠牲によって、わたしたちが自分のすべての罪の完全な赦しをいただいているということ。〔また、わたしたちが聖霊によってキリストに接ぎ木されている、ということです。この方は、今そのまことの体と共に天の御父の右におられそこで礼拝されることを望んでおられます。〕しかし、ミサが教えることは、今日も日ごとに司祭たちによってキリストが彼らのために献げられなければ、生きている者も死んだ者もキリストの苦難による罪の赦しをいただいていない、ということ。〔また、キリストはパンとブドウ酒の形のもとに肉体的に臨在されるので、そこにおいて礼拝されなければならない、ということです。〕このようにミサは、根本的には、イエス・キリストの唯一の犠牲と苦難を否定しており、〔呪われるべき〕偶像礼拝に〔ほかなりません。〕
問81 どのような人が、主の食卓に来るべきですか。
答 自分の罪のために自己を嫌悪しながらも、キリストの苦難と死とによってそれらが赦され、残る弱さも覆われることをなおも信じ、さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ、自分の生活が正されることを切に求める人たちです。しかし、悔い改めない者や偽善者たちは、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
問82 それでは、その信仰告白と生活によって不信仰と背信とを示している人々でも、この晩餐にあずかれるのですか。
答 いいえ。なぜなら、それによって神の契約を侮辱し、御怒りを全会衆に招くことになるからです。それゆえ、キリストの教会は、キリストとその使徒たちの定めに従って、そのような人々をその生活が正されるまで、鍵の務めによって締め出す責任があります。
問83 鍵の務めとは何ですか。
答 聖なる福音の説教とキリスト教的戒規のことです。これら二つによって、天国は信仰者たちには開かれ不信仰者たちには閉ざされるのです。
問84 聖なる福音の説教によって、天国はどのように開かれ閉ざされるのですか。
答 次のようにです。すなわち、キリストの御命令によって、信仰者に対して誰にでも告知され明らかに証言されることは、彼らが福音の約束をまことの信仰をもって受け入れる度に、そのすべての罪が、キリストの功績のゆえに、神によって真実に赦されるということです。しかし、不信仰な者や偽善者たちすべてに告知され明らかに証言されることは、彼らが回心しない限り、神の御怒りと永遠の刑罰とが彼らに留まるということです。そのような福音の証言によって、神は両者をこの世と来るべき世において裁こうとなさるのです。
問85 キリスト教的戒規によって天国はどのように開かれまた閉ざされるのですか。
答 次のようにです。すなわち、キリストの御命令によって、キリスト者と言われながら非キリスト教的な教えまたは行いを為し、度重なる兄弟からの忠告の後にもその過ちまたは不道徳を離れない者は、教会または教会役員に通告されます。もしその訓戒にも従わない場合、教会役員によっては聖礼典の停止をもってキリスト者の会衆から、神御自身によってはキリストの御国から、彼らは締め出されます。しかし、彼らが真実な悔い改めを約束しまたそれを示す時には、再びキリストとその教会の一部として受け入れられるのです。
問86 わたしたちが自分の悲惨さから、自分のいかなる功績にもよらず、恵みによりキリストを通して救われているのならば、なぜわたしたちは善い行いをしなければならないのですか。
答 なぜなら、キリストは、その血によってわたしたちを贖われた後に、その聖霊によってわたしたちを御自身のかたちへと生まれ変わらせてもくださるからです。それは、わたしたちがその恵みに対して全生活にわたって神に感謝を表し、この方がわたしたちによって賛美されるためです。さらに、わたしたちが自分の信仰をその実によって自ら確かめ、わたしたちの敬虔な歩みによって、わたしたちの隣人をもキリストに導くためです。
問87 それでは、感謝も悔い改めもない歩みから神へと立ち返らない人々は、祝福されることができないのですか。
答 決してできません。なぜなら、聖書がこう語っているとおりだからです。「みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」
問88 人間のまことの悔い改めまたは回心は、いくつのことから成っていますか。
答 二つのことです。すなわち、古い人の死滅と新しい人の復活です。
問89 古い人の死滅とは何ですか。
答 心から罪を嘆き、またそれをますます憎み避けるようになる、ということです。
問90 新しい人の復活とは何ですか。
答 キリストによって心から神を喜び、また神の御旨に従ったあらゆる善き行いに心を打ちこんで生きる、ということです。
問91 しかし、善い行いとはどのようなものですか。
答 ただまことの信仰から、神の律法に従い、この方の栄光のために為されるものだけであって、わたしたちがよいと思うことや人間の定めに基づくものではありません。