神を捜し求め、渇き求める

神よ、あなたはわたしの神。
わたしはあなたを捜し求め
わたしの魂はあなたを渇き求めます。
あなたを待って、わたしのからだは
乾ききった大地のように衰え
水のない地のように渇き果てています。(詩編63:2)

 この詩は捕囚の歌、イスラエルの人びとが、捕囚としてバビロンの地へ曳かれ、その地で詠んだ歌と言われています。

 一言で「信仰」と言いますが、私たちは何を求めて信仰生活をしているのでしょうか。絶対的平安を求めて、また、豊かな愛の心と生活を求めてという方もおられるでしょう。しかし、心を静め、改めて考えてみますと、求めているものは、神ご自身ではないでしょうか。詩人が求めているのは、神ご自身なのです。

 これは捕囚の歌だと記しました。ところが、この詩人は捕囚からの解放、エルサレムへの帰還を願い出ず、捕囚のバビロンの地で神が共にいましたまうことを願い求めたのです。バビロンの地は、イスラエルの地と比較して、はるかに文化的に進んでおり、また豊かでした。しかし、如何にそうであろうとも、神が共にいましたまわなければ、そこは御国ではなく、長く安らぐ場所ではありません。そして反対に、苦しみや悲しみの捕囚の地であろうとも、そこに神が共にいましたまうならば、そこは御国となるのです。

 だからこの詩人は何よりも、神が共にいてくださることを切に願い求めたのです。


http://www.jesus-web.org/rejoice/lect19/lect_20190622.htm