わたしの平和
- ヨハネ14:27 -
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:27)
主が「あなたがたに残し」と約束した「わたし(イエス․キリスト)の平安」が我らに与えられたことを確信し、その平安に関して深く考えて見よう。その平安は世が与えるように与えるのではない(ヨハネ14:27)、その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。(ヨハネ16:22).
1. その平安はイエス․キリストが自ら成し遂げて下さったものである.
-「…あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
⑴ 十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。」(Ⅰペトロ2:24-25) <参照;エペソ2:16-17, コロサ1:20>
⑵ 全世界の罪を償ういけにえになった。
「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(Ⅰヨハネ2:2)
⑶ わたしたちは主がなさった救いの業を信じることによってその平安を得た.
「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス․キリストによって神との間に平和を得ており、」(ローマ5:1) <参照; ローマ5:10-11>
+ ヨハネ․バンヨン(John Bunyon)には自分の罪責のために落ち着いたことが2回あった。しかし彼はⅠヨハネ1:9の御言葉を思い起こして心の平安を得たと言った.
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)
2. その平安は主が共におられるから出來るものである。
-「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」(マタイ1:23)
⑴ 主に会った人は誰でもインマヌエルの平安を得た.
「イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(マルコ5:34)
「女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ8:11)
⑵ あなたは主が共におられることをいつも実感しながら生きているのですか。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。...」(ガラデ2:20) <参照; マタイ28:20, 讃頌歌465章>
3. その平安は復活に参与する者たちに約束さらた永遠なものである。
-「イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20:21)
⑴ イエス․キリストは十字架にかかって死んだ後、復活昇天された。また別の辯護者を遣わして、永遠にわたしたちと一緒にいるようにしてくださった。
「わたしは父にお願いしよう。父は別の辯護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネ14:16)
⑵ 主は辯護者聖霊を通してイエス․キリストの平安を与えて下さった.(ヨハネ14:27-本文)
⑶ 私たちは辯護者聖霊の賜物のよって平安の生活ができるのである。しかし完全な平安は我らの体が贖われるその時に天国にて体験するようになる。
「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、