十のことば(十戒)
- 出20:2-17(申5:6-21)-
神がイスラエルの民をエジプトから導いた後,シナイの山から語られたことば.十の戒めから成り(申10:4,出34:28), 後に十戒(Decalogue)と呼ばれるに至る.出20:2-17及び申5:6-21に記されている.それは神の指で2枚の石の上に書かれ(出31:18,申9:10),契約のことば(申4:13,9:11)とも呼ばれ得る.
1.基本的意味
⑴ 第1戒 - 主以外を神とすることの禁止
礼拝の対象として主の唯一性が主張されている.現実には,イスラエルの民をエジプトから導いた主以外のいかなる神的存在をも神としてはならないことを意味する
⑵ 第2戒 - 偶像礼拝の禁止
特に,出20:4,5では,偶像とそれが象徴するものとの区別がなされていないが,このことは偶像礼拝者の現実を反映するものである.5,6節には戒めに対する従順と不従順とがもたらす長期的影響について述べられているが,両節を一まとめに見ることが肝要である.6節はまた,神を愛することが,命令を守ることと類義であることを 示している.
⑶ 第3戒 - 主の御名の誤用の禁止
イスラエルにおいて,御名は単なる音声ではなく,主がそれにおいて御自身を啓示されるほど(出3:14)重要なものであったことを認識する必要がある(申12:5參照).御名を用いて,主の臨在と,そこにおける尊厳と威光とを損傷する行為が禁じられている.偽預言などはこの戒めに対する直接的な違反であろう.
* 第1-3戒は,主なる神が人間の自由にはならない方であることを教えている.
⑷ 第4戒 - 安息日規定
出エジプト記側の規定は,神が天地創造後7日目に休まれた(創世2:1-3)事実を根拠とする.これに対し申命記側では,同じ家に属する他のものがすべて休めるようにという現実的な益が述べられ,その後で,民がエジプトで奴隷であり,主が彼らをそこから導き出されたことを覚えるため,という根源的な理由が述べられている.
⑸ 第5戒 - 両親を敬うこと
この戒めは,神と人との関係を扱う1戒から4戒と,人と人との関係を扱う6戒から10戒との移行点に位置する.この種の文脈における「敬う」の原語カッベードゥには,単なる「従う」「尊敬する」ということ以上のものがあり,その意味は「恐れ る」に近い(レビ19:3參照).
⑹ 第6戒 - 不法な殺人の禁止
「殺す」の原語ラーツァハは,ほとんどの場合「不法な殺人」に関して用いられて いる.敵意がなく,誤って殺した場合もこれに含まれ得る(民35:11,27,30,申4:42).殺すことが無条件的に禁じられているとするならば,罪に対する刑罰としての死刑及び主の命じられた戦争における殺人行為と矛盾することになる.目的語がないので, この禁止命令の適用範囲には自殺も含まれてくるであろう.
⑺ 第7戒 - 姦淫の禁止
この戒めは,既婚者との性的関係だけではなく夫婦間以外のあらゆる性的関係をも含むものと理解される傾向があった.結婚の神聖性を守り,家庭生活の健全化․安定化を目的とするものである.
⑻ 第8戒 - 盗みの禁止
第10戒との関係の問題もあり,解釈史においては,誘拐行為(例:出21:16,申24:7) にのみ制限する見解もあった.しかし,今あるテキストにおいては,目的語がないので,このように制限するのは不自然であろう.隣人及び隣人に属するあらゆるものの盗みが禁じられていると解される.所有権の確保を目的とする.
⑼ 第9戒 - 偽証の禁止
この戒めも一般化され,偽りの言明の禁止と理解される傾向があった.しかし,用語自体が示唆するように,基本的には,法廷における偽証を禁ずるものであり,第 6,7,8戒を社会的に保証しようとするものである(申命19:15-19を參照).
⑽ 第10戒 - 隣人の所有物に対するむさぼりの禁止
この戒めの解釈上の中心問題は,「むさぼる」の原語ハーマドゥが内面的な衝動だけではなく,盗みという行為まで含み得るのか,それとも内面的な衝動のみを指すのかという点であった.少なくとも十戒の文脈では,ハーマドゥは内面的衝動にのみ言及する語と解することが妥当であろう.十戒の中で最も繊細な戒めであり,第9戒までに起り得る罪と悪を人間の内に働く衝動という点で禁じている.
2.配列․順序の特徴と意義
⑴ 1-4戒が人と神との関係を扱っているのに対し,6-10戒は人と人との関係を否定的な形で扱っている.第5戒が両親への畏敬を命じ,テーマの上で移行点となっている.
⑵ 1-5戒には「あなたの神,主」ということばが登場し,また戒めに対する理由も付され,これらの戒めがイスラエルに向けられていることを示している.これに対し,6-10戒はこれら二つのものに欠け普遍的である.
⑶ 十戒は具体的な刑罰に言及していないので,刑罰から解釈することは危険ではあるが,刑罰の重さという観点から(最初の6戒は死刑,第7戒は死刑があり得る,第8-9 戒の違反で死刑は例外的,第10戒の違反は法廷に持ち込めない),十の戒めは重要度の高いものから配列されていると言い得る.
⑷ 十戒全体の構造という視点から見た場合,第10戒の内面的な衝動に対する禁止命令は,それに先行する戒めの不履行に内面的な次元を加えることになり,広範囲な適用が暗示されることになる.
3.十戒の全体的性格
⑴ モーセ五書における他の諸規定と比較すると,十戒は,他の諸規定が様々な個人的․社会的状況に条件付けられているのに対し,イスラエルのすべての個人に対し無条件的な拘束力を持っている.しかし,十戒には違反行為に対する刑罰が記されていない.この事実は,律法授与者の意図が具体的な規定を定めることにはないことを示唆 する.
⑵ 十戒において,神は二人称(私→あなた)で語る.この語り方によって十の戒めは個人に向けられることになるが,十戒は個人的な次元での戒め遵守が同時に社会的意味を有することを示している.
⑶ 第4,5戒を除き,十戒は否定的な形で提示されている.解釈史においては,この否定的な命令から律法授与者の積極的な意図を読み取ろうとする傾向があった.
4.神学的意義
⑴ よく誤解されているように,旧約の民は救いを得るためにこの十戒を授けられたのではない.十戒は恵みを前提とし,さらに豊かな神の恵みを知るために与えられた.確かに,十戒における否定命令は,格別違反の場合,人の心に罪意識を植え付ける効果 を持つと考えられる.
⑵ 十戒は人格者から出ている.従って,十戒を守ることと,律法授与者を愛することとは切り離されてはならない(出20:6).後者は前者を包含する.
⑶ 十戒は二つの点で創世13章との関係を示唆する.一つは神の像(かたち)においてである.神以外のものに神性を付与することは,神の像に似せて,しかも被造物の頂点として人間を造られた神の御心に反することである(第2戒).また,人を不法な仕方で殺すこと,結婚の秩序を亂すこと,また他者のものを盗むことは(第6,7,8戒),神の像に似せて造られた人間への,ひいては,神への攻撃,暴力である.他方,安息日規定(第4戒)は,積極的な形で,人の行くべき方向を明示する.もう一つの接点は第10戒と創世3章の堕落の記事に求められる.当初エデンの園にあったいのちの木は「見るからに好ましい」ものであったが(創2:9),蛇の誘惑を通じて罪を 助長するものとなる(創3:6).以上のような創世記との関係から,十戒は失われた創造の秩序を回复するためのものと見ることもできる.
5。新約聖書に見られる十戒
⑴ 新約聖書においては,「十戒」という名称は登場しない.
しかし,以下に見るように幾つかの箇所で,十戒が律法を代表するものと見られているので,当時のユダヤ教におけるような十戒の重要性が,新約聖書においても前提されていると考え得る.ただ,新約における十戒の包括的な意義は,むしろ「律法」という椊の中で論じられるべき事柄であろう.
⑵ 新約聖書における十戒には,山上の垂訓に見られるように,より普遍的な理解,より高度な倫理基準が明示される反面,十戒のいわゆる″内面化されない″文字通りの意味も前提とされている.
十戒が引用される場合には,おもに人間間の倫理を取り扱う十戒の後半部からのみ引用されるが(マタイ19:16ー22,マルコ10:17ー22,ルカ18:18ー23參照),神と人との関係を扱った十戒の前半部に対する言及あるいは示唆も存在する(例:第1戒→マタイ4:10,Ⅰコリン8:4,第2戒→ローマ1:23,第4戒→マタイ12:11,12,マルコ2:23ー28,ルカ13:10ー17など安息日問題という形で,第5戒→マルコ7:9ー13)
⑶ 新約聖書は,十戒(=律法)が,すでにレビ19:18,申命6:5で言われている「隣人への愛」と「神への愛」によって要約されるとし(マタイ22:34ー40,マルコ12:28ー31,ルカ10:25ー28),特に律法が隣人愛によって成就されることを強調する(ローマ13:8ー10,ガラテ5:14,ヤコブ2:8以下,またⅠヨハネ4:20,21參照).隣人への愛はイエス․キリストが「新しい命 令」として強調されたものでもある(ヨハネ13:34,15:12,17).
⑷ 以下に挙げる箇所においては,新約の記者たちの次のような前提が暗示されていよう.
① 十戒が,人格神から由來したものであり,信仰者の神への関係は律法遵守と切り離され得ない.
② 十の戒めは,律法遵守という観点からは,相互に切り離して見ることができない,一つの全体を成す.
③ ローマ7:7.第10戒(むさぼりの禁止)があたかも「律法」を代表する戒めとして引用されている(コロサ3:5參照).すなわち,ここには,内面の衝動を禁ずる,最も繊細な戒めである第10戒を破れば律法を破ることになり得るという認識があるであろう.
④ このことは十戒の解釈史上に現れた一解釈というのではなく,十戒の意味に対する洞察として受け止めるべきであろう.
⑤ ヤコブ2:10,11.10節には,「律法全体を守っても,一つの点でつまずくなら,その人はすべてを犯した者となったのです」として,十戒のうちから7戒と6戒が引用されている.ここには,律法が人格を持つ神から発し,個々の戒めがその人格者の意思そのものであるということが前提とされている.従って,律法の部分的遵守ということはあり得ず,それ自体が罪とされる.しかし,その律法自体が隣人愛を命じている(ヤコブ2:8,4:11)のであれば,神が隣人において,律法の完全な遵守を求めておられるとも言い得る.この隣人愛への促しは,人は神の像に似せて造られているゆえに隣人に対する行為はある意味で神に向けられている(ヤコブ3:9.さらにマタイ25:40,45を參照)という創造の秩序という面からも基礎付けられているように思われる.
⑥ コロサ3:5(エペソ5:5参照)には「このむさぼりが,そのまま偶像礼拝なのです」とあり,むさぼり(第10戒)という人間の内面での罪が偶像礼拝(第2戒)という神に対する罪と同定されている.このことは,様々に説明され得るが,むさぼりの本質が偶像礼拝であるというように理解することが可能であろう.
⑸ 以上の概観からも明らかなように,新約聖書において,律法としての十戒は,十戒の本來の文脈においてもそうであったように,人間の救いを達成するものではないが,新生した信仰者に対しては,隣人愛の具体的表現として新たな生活の規範となる.