洗礼とは
洗礼とは
洗礼はキリスト教信者になるための入門儀礼です。しかしこれはある組織に入会することを自分で決めて、そのための儀礼を受ける、ということとは違います。
洗礼は、わたしたちの決意や決断に先立ってある神の決断の中に自分があることを受け入れていくことなのです。神の決断とは、「イエス・キリスト」を通してわたしたちにあらわされたものですが、どんな時もわたしたち愛し抜き、支え抜き、わたしたちを背負い抜く神の決断のことです。この神の決断がわたしたちの決断を生み出していくのです。
わたしが神を見つけ、わたしが「この神ならだいじょうぶ」といって選んだのではなく、神がこのあやふやなわたしを愛し、背負い続けてくださる。そこに信仰の根拠があり、わたしの決断が生まれていく源がある、ということを感謝して受けいれていく、そこで洗礼へのわたしたちの決意が生まれていくのです。
「洗礼」という言葉はbaptismaというギリシヤ語の訳語ですが、もともとの意味は(水に)浸す、沈める」というもので、水に沈めることは、死を意味するものでした。 「洗礼」はキリストと共に死ぬ、ということなのです。イエス・キリストは十字架において死んでいきました。キリストの十字架は、わたしたちの罪を背負った結果でした。人間は神との関係を自ら壊し、神を否定し、自らを神にして生きようとする罪の中にあります。十字架はこのようなわたしたちの存在そのものを担っていかれる、罪を担う死でした。
「洗礼」を受けるということは、このキリストの死に自分が結ばれ、罪の自分に「死ぬ」ことなのです。そしてさらに、「洗礼」は罪の自分に死んだわたしが復活のキリストに結び合わされ、新しいいのち(神との関係の中にあるわたし、神によって活かされていくわたし)に生きることなのです。洗礼は、つまり十字架と復活の主イエス・キリストに結ばれることなのです。
この「結び」はわたしの力で成しえるものではありません。この「結び」はわたしの罪によっても解きえないほどにしっかりと結ばれているのです。この「結び」はわたしの生と死の全体においてしっかり結び合わされているものであって、神による結びなのです。 「洗礼」は神によるキリストとわたしの結びなのです。洗礼を聖礼典(聖とは神が執り行われるという意味)と呼ぶのは、洗礼が神の決断による、神の結びによる礼典だからなのです。
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洗礼の意味
- ローマ6:3-5 -
洗礼は罪人の自分を救って下さるイエス・キリストが十字架に付けられ死んで下さったこと、復活したことを信じることのしるしである。それゆえにイエス・キリストを信じ、その名前によって洗礼を受ける者は、すべての罪が赦され復活の新しい命を受ける。つまりイエス・キリストと共に神の子となる。
一方、洗礼はキリストを信じる者が、キリストの体である教会の一員となるために、自分の信仰を言い表す儀式である。
1. 罪が洗われた証印である。
⑴ 罪を洗い清められる。(使22:16, ヘブラ10:22)
⑵ 清められる。(エゼキ36:25-26)
⑶ 悔い改めさせられる。(マルコ1:4-5, 使13:24)
2. 救いの証印である。
⑴ キリストの中で神の子になる。(ガラテ3:26-27)
⑵ キリストの中で聖霊によって新たに生まれる。
(ヨハネ3:5, テトス3:5-6, マルコ16:16)
⑶ 神の正しい良心を願い求める。(Ⅰペト3:20-21)
3. キリストと一つになる証印である。
⑴ 一つの聖霊を受け、キリストの中で一つの体となる。
(Ⅰコリ12:12-13, 使8:12)
⑵ キリストの死と復活にあずかり、キリストと結ばれる。
(ローマ6:3-4, ガラテ2:20)
⑶ キリストの体である教会の一員となる。(使2:41)