主と共に食事をする
わたしの座に着かせよう
- ヨハネの黙示録3:20~22 -
シャローム宣教会
[ヨハネの黙示録3:20~22]「20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。22 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」
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1.主と共に食事をする = 神の選択、新しく生まれる・インマヌエル
[使徒行伝Ⅰ:3~4]「3. イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。4. そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」
(1)「新しく生まれる」の意味は何ですか?
+「新しく生まれる」の原文は「ανωθεν(アノセン)」で、「上から生まれる」、「新しく生まれる」という意味である。つまり、「上から神の恵みによって霊的に新しく生まれる」と定義できるだろう。
(2) なぜ「新しく生まれなければならない」のか?
* 人が新しく生まれ変わらなければ、神の国を見ることができない。
[ヨハネの福音書3:3]「イエスが答えて言われた。」真に真にあなたに言う、人が新しく生まれ変わらなければ、神の国を見ることができない。」
+ 神の恵みのゆえに、信仰によって救われる。
[エペソ書2:8]「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」
+ 神の国に入る。すなわち、神の国の国民になり、神の家族になる。
[エペソ書2:19]「あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」
(3) 神の家族と共におられる神
* 教会の頭となり、暗闇の勢力からご自分の民を守られる。
+ キリストは教会の頭となり、聖徒はキリストの体の部分となる。(ローマ書7:4、エペソ書5:30)
+ 教会を真理の中に導き、キリストの栄光を現わす。(ヨハネ福音書16:13~15)
* 今日も助け主である聖霊がいつも私と共にいて教えてくださる。(ヨハネ福音書14:16)
+「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。(ヨハネ福音書14:16)
+「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ福音書14:26)
+ 聖霊は、イエス・キリストを信じて受け入れる者に宿っておられる。(ヨハネ福音書1:12)
+ イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪の赦しを受けると、賜物として聖霊を受ける。(使徒行伝2:36~39)
2.主と共に食事をする時、主がその食卓で神の家族になさる御業とは?
(1) 新しい事をする
[イザヤ書43:18~19]「18 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
* 神がその民に真の希望を持たせるための預言の御言葉である。特にこの御言葉には、この世を救うイエス・キリストの働きが預言されているようだ。「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころう。」 (イザヤ書43:19)
+ 先の事とは比較できないより大きくて驚くべき栄光を現すためにそう言われたようだ。
= 新しい事は、まるで太陽の光が天地に満ちているとき、その輝きで切り開かれ、星が光を失って消えるようなものである。(カルバンの注釈)
+ 新しい事によって、その民は神を賛美するようになる。
[イザヤ書43:21]「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」
+ 新しい事は、イエス・キリストを通して今もなお行われている。
[ヘブライ書13:8] 「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」
(2) 新しく力を得る。
[イザヤ書40:30~31]「30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
* 神は大きな苦難の中にいるイスラエルの民に向かって「主を待ち望む者は新しく力を得る」と言われた。今日、私たちも神が約束されたこの新しく力を得れば、鷲のように翼をかって上ることができるようになり、走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
+「私たちの神のことばは永遠に立つ」と呼ばわれ。(イザヤ書40:6~8)
+ 神の御言葉は、すべての信じる者に救いを与える神の力である。(ローマ書1:16)
+ すべての人が神の御言葉を聞くように宣べ伝えなさい。
*「見よ。あなたがたの神を。」と言え。(イザヤ書40:9~10)
+ 神である主は力をもって来られる。(イザヤ書7:14, ルカ福音書2:11)
+ 神である主はその御腕で統べ治める。(詩篇23:1~6)
+ その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。(ルカ福音書22:28~30、ヨハネ福音書21:15~17)
(3) 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。[本文、21節]
[ルカ福音書22:28~30]「28. あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。29. だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。30. あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」
[エペソ書6:10]「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。」
+「主にあって」は、「主に拠り頼み」「主に結びつき」「主を信じ」「主に結ばれ」ることによって、はじめてその主のもっておられる偉⼤な⼒にあずかることができる、主の「権能」にあずかることができる。
3.主の園、神のパラダイス
* 神は荒野のような世界をエデンの園のように造り、砂漠のような人間の心も主の園のようにされる。聖書には3つの園について書かれている。
第一は、人間が得て失ったエデンの園、第二は、救われた人間が入る永遠の神の国の楽園、第三は、人間がこの世に住んでいる間に住む潤う魂の園がある。[イザヤ書51:1~3]
(1) 神の国には救われた人が永遠に住む「神のパラダイス」がある。(黙示録2:7、22:1~2)
[黙示録2:7]「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」
+ イエスは十字架にかけられていた犯罪人のひとりに「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ福音書23:43)と言われた。
パウロが自分の神秘的な体験を「パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」(Ⅱコリント書12:4)と告白した。
+ ヨハネは黙示録に「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」(黙示録2:7)と預言した。
(2) 創世記から黙示録にあるすべての本は、罪によってエデンの園から追放された人間が再び永遠の神の国の園に入る道を示している。
[イザヤ書51:1~3]「1 義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。2 あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。3 まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。」
+だれでもイエスの前に出てきて、イエスを信じれば、彼の心とたましいが荒野のようで、砂漠のようであっても、主の園のように変化させて、真の幸せを味わうようにされる。私たちの主イエスを信じて頼れば、私たちの生活の中に喜びと楽しさ、感謝と歓喜の歌声があるだろう。