正義の胸当てをつける
- エペソ書6:11~18 -
シャローム宣教会
[エペソ書6:11~18]「11 悪魔の策略に対して⽴ち向かうことができるために、神のすべての武具を⾝に着けなさい。12 私たちの格闘は⾎⾁に対するものではなく、主権、⼒、この暗やみの世界の⽀配者たち、また、天にいるもろもろの 悪霊に対するものです。13 ですから、邪悪な⽇に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く⽴つことができるように、神の すべての武具をとりなさい。14 では、しっかりと⽴ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、15 ⾜には平和の福⾳の備えをはきなさい。16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」
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私たちがキリストにあって⽣きる上での戦いがあります。その戦いの相⼿は⼈間ではなく、「暗やみを⽀配する者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」。⽬には⾒えない霊的な存在、すなわちサタン(悪魔)との戦いです。この戦いにおいて、私たちにあるものは何の⼒もありません。ですから、悪魔の策略に対して⽴ち向かうことができるために、神が私たちに与えて下さっているすべての武具を⾝に着ける必要があるのです。
* 神の武具として挙げられているものは七つあります。
(1) 真理の帯を腰に締めなさい
(2) 義の胸当てを着けなさい
(3) 平和の福⾳を⾜にはきなさい
(4) 信仰の⼤盾を取りなさい
(5) 救いのかぶとをかぶりなさい
(6) 御霊の与える剣―神のことばーを受け取りなさい
(7) 御霊によって祈りなさい
+ 七つの神の武具、聖書で「七」という数字は完全を意味する数です。つまり、神の武装で完全武装するようにということが命じられています。これらの七つはすべて密接な関係をもっています。七つの武具を⾝に着けることによって、はじめて私たちは敵の悪魔の策略に対して打ち勝つことができるのです。その最初のリストに挙がっている「真理の帯」は神の武具の中でも全体を覆っているものです。真理について私たちがどうのこうのと語る前に、イエスが真理についてどのように語っているかが重要です。
① 「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、・・あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを⾃由にします。」(ヨハネの福⾳書 8:31〜32)
② 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」 (同、14:6)
③ 「わたしは真理のあかしをするため に⽣まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」 (同、18:37)
+ 敵であるサタン(悪魔)は「偽りの⽗」です。神のことばを疑わせ、キリストの語ったことばを⼈々が理解できないように覆いをかけます。そうした敵の策略に対して、真理の帯を腰に締めるということは、なにを隠そう、キリストご⾃⾝にとどまり、キリストのことばの中にとどまり、キリストの愛の中にとどまることなのです。それは「キリストを着る」ということもできます。この⼀⾔で神の武具は⼀括できるのですが、パウロはそのことをいろいろな武具を挙げることでより分かりやすくしようとしているのです。
1. 神の武具としての「義の胸当て」とは、⾃⼰像にかかわる武具
+ 「胸」と「胴体」とは同義。胴体の中で最も⼤切な部分は⼼臓。あるいは、⼼。そこを守るための神が備えて下さっている神の武具は、「義」(あるいは、「正義」)です。ギリシア語原典では「義」も「正義」も「ディカイオスネー」という同じことばです。「正義」というと、道徳的な意味での善と悪、あるいは不義、不法に対する正義という意味ですが、「義」というのは、本来、道徳的概念ではなく、関係概念を意味することばです。
神が私を義とされる、あるいは、私を義と認めてくださるということは、神が私を喜びの対象として受け⼊れ、愛をもってかかわって下さる関係(⽴場、状態)にあることを意味します。この「義を胸当て」としない限り、敵に打ち勝つことは到底できません。そのことをこれからお話ししようと思います。
+ 敵の策略は、神の語られたことばを疑わせたり、全くちがった知識を与えて否定したりします。しかしそれだけではありません。私たちの罪、⽋点、弱さ、失敗、不祥事などを取り上げて⾮難し、神に受け⼊れられるにふさわしい資格や価値がないことを継続的に訴えます。そのような訴えに私たちが⽿を貸しますと(もっとも、敵が⾃分を訴えているとは思わせないのが敵の巧妙な⼿⼝なのですが)、私たちの⾃⼰イメージは⾮常に低いものとなります。そのような低いセルフ・イメージからは良いものが私たちから出てくることが不可能になります。
+ 敵の策略の⽬的は、私たちをダメな⼈間だと思わせ、私たちの⾃⼰像を不健全にする(ゆがめる)ためなのです。こうした敵の策略に対して、私たちに与えている神の武具は「義」です。それもキリストにある義です。「義」とは関係概念です。つまり、神がこの私を喜びの対象として受け⼊れ、愛をもってかかわって下さる関係(⽴場、状態)にあることを意味します。この「義を胸当て」としない限り、敵に打ち勝つことは到底できません。
2. 義とは、神が私にくださる栄誉
+ ローマ⼈への⼿紙3:23にはこう記されています。「すべての⼈は、罪を犯したので、 神からの栄誉を受けることができない。」 ⼈からの栄誉(称賛)を⾃分の努⼒で勝ち取ることはできても、神からの栄誉(称賛)を⾃分の努⼒で勝ち取ることは決してできないという意味です。では、私たちは希望がないではないかとも思いますが、そうではありません。神からの栄誉を勝ち取るためには、キリストに与えられた栄誉を、信仰によって、⾃分のものとすることができます。それは、努⼒ではなく、信仰によってのみ与えられる神からの賜物です。
+ 「義」とはかかわりの概念であり、神とのすばらしい関係を持つことを「義とされる」「義と認められる」という⾔い⽅をします。聖書は「義⼈はいない、ひとりもいない」と⾔います。すべてが神にとって無益なもの。そんな中でただひとり、⼈として神とのすばらしいかかわりを保ち続けた方がいたのです。その名はイエスです。イエスはその⽣涯を通じて、御⽗を信頼した⽅です。⼗字架という苦しみの極限においても、槍で体を貫かれても、御⽗に対して信頼を貫いた⽅でした。それゆえ神は、御⼦イエスを死からよみがえらせ、彼を信じる者にも同じく「義」を与えて下さるのです。「義」とは神とのかかわりにおける⾦メダルです。最⾼の栄誉なのです。それを私たちは⾏いの努⼒ではなく、信仰によって得ることができるのです。あまりにも簡単に⾒えるため、⾺⿅にして信じてもらえないのですが、真実はそうなのです。むしろ、信じるということ⾃体、奇跡的なことなのです。
+ 有名なたとえ話に「放蕩息⼦のたとえ話」があります。イエスはそのたとえ話と同じテーマを持った他の⼆つのたとえ話もされました。その⼀つは、「いなくなった⼀匹の⽺を捜すために、残る99匹の⽺を置いて、⾒つけるまで捜すという⽺飼いの話です。その話のポイントは⾮常識にあります。「いなくなった⼀匹を⾒つけるまで捜し歩かないでしょうか。」(歩かない、歩かない)。さらに、「⾒つけたら、⼤喜びでその⽺をかついで、帰って来て、友だちや近所の⼈たちを呼び集め、『なくなった⽺を⾒つけましたから、いっしょに喜んで下さい。』と⾔うでしょう。」(⾔わない、⾔わない)。それと同様に、ひとりの罪⼈が悔い改めるなら、99⼈の正しい⼈に勝る喜びが天にあるのです。
+ 続くたとえ話は、銀貨10枚を持っている⼥の⼈が、そのうちの⼀枚をなくした話です。「あかりをつケて、家を掃いて、⾒つけるまで念⼊りに探さないでしょうか。」(そこまでして探さない) ⾒つけたら、また友だちや近所の⼈々を呼び集めて、「⼀緒に喜んで下さいというでしょう。」(⾔わない、⾔わない)と当然そうしてくれると思っているところが異常です。それと同様に、ひとりの罪⼈が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。
+ ひとりの罪⼈がキリストを信じ、悔い改めて、神に⽴ち返るとき、天においては御使いたちに称賛の喜びがわき起こる。その称賛の喜びは罪⼈を探した者だけでなく、⽴ち返った者にも与えられるのです。それは、神から与えられる称賛の冠と⾔えないでしょうか。
3. 健全な⾃⼰像の確⽴(キリストにあるアイデンティティの確⽴)
+ ⾃⼰像とは、⾃分が⾃分をどのように考えているかということです。その⼟台は⽣育史と関係があります。普通、5、6歳までにほぼ確⽴されると⾔われています。重要なことは、⼈はその⾃⼰像に合わせて⾏動する者だということです。帆船は⾵で動く船です。⾵をうまく利⽤して進んでいきます。私たちの⾃⼰像もしばしばこの帆船にたとえることができます。マストに張られた帆は、⾵によって⽅向や進む勢いが変わる。肯定的な強い⾵を受けると、勢いよく全速⼒で進みますが、それがないと前に進めなくなります。反対に、否定的な⾵や⾮難の嵐に会うと、帆は引き裂かれ、時には、マストも折れたりもします。⾵は、船みずからのものではありません。外からの⼒です。つまり、⼈からの評価によって形作られる⾃⼰像―そこに敵であるサタンの⾜場があります。そこにサタンは⾃らの要塞を築きます。ですから、私たちがそうした⾃⼰像を持っている限り、サタンに勝利することはできません。繰り返し、繰り返し、サタンの⾜場の中で私たちは⽣きているからです。そこから脱出しなければなりません。そうした⼈がいます。その⼈の名は使徒パウロです。彼はこう⾔っています。私は、⼈間的な標準(基準)によって⼈を(⾃分も含めて)評価しようとは思わない。(彼は⼈間的な標準でいうならば、だれもが認めるエリートであった)しかし、今やそうした⼈間的な標準によって⾃分を評価しようとは思わない。かつては、キリストに対しても⼈間的な標準を当てはめていたが、もはやそのようなことはしない。(なぜなら)、私には新しい標準を⾒つけたからである。その標準とは、キリストにあって⾃分がどういうものであるかということを知ったからである。「だれでもキリストのうちにあるなら、その⼈は新しく造られた者です。(Ⅱコリント5:16〜17)。
+ 神が、キリストにある私をどのように⾒ておられるか、神の視点から⾒た⾃分(⾃⼰像)を発⾒することです。これが、聖書の教える健全な⾃⼰像です。これは、⾃⼰像のコペルニクス的転換です。ちなみに、「コペルニクス的転換」とは、2世紀以来信じられてきた「天動説」(地球中⼼説)に対して、カトリックの司祭であったコペルニクスが16世紀「地動説」(太陽中⼼説)を唱えたことから、⽐喩的に、物事の⾒⽅が180度変わってしまうことを⾔います。近年では「パラダイム・シフト」とも⾔います。
+ キリストにある⾃⼰像を持つこと、これが「義の胸当てを着ける」ということなのです。
https://meigata-bokushin.secret.jp/swfu/d/auto_dkz8wD.pdf