伝道者の模範
- ヨハネ福音書15:16、使徒行伝8:26-31 -
[インマヌエル 下巻.8-25]
[ヨハネ福音書15:16]「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」
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+ 伝道は教会の中心的な使命である。主は弟子たちを選んで召され、彼らを世に送り出し、福音を伝えるようにされた(ヨハネ福音書15:16、マルコ福音書3:13-15、ヨハネ福音書20:21)。
+ピリポは初代教会の七人の執事の一人である(使徒行伝6:3-6)。彼は私たちに伝道の良い模範を示した(使徒行伝8:26-31)。
[使徒行伝8:26-31]「26 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)27 そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、28 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。30 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。31 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。」
1. 伝道者がまず知っておくべきこと
(1) 神は伝道のために人に会わせる。(使徒行伝8:27-29、16:13-35)
(2) 伝道は神がなさることであり、私たちは用いられるだけである。(使徒行伝8:26、29、1コリント3:6-7)
[1コリント3:6-7]「6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。7 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」
(3) 伝道は才能ではなく、祝福された神の御業である。(使徒行伝8:35-38、Ⅱコリント2:11)
[Ⅱコリント11:2]「私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。」
(4) 伝道は先入観を持ってはならない。
2. 伝道者の良い模範 - ピリポの伝道 (使徒行伝8:26-35)
(1) 神が遣わすところには行く。(使徒行伝8:26、8:5-8)
(2) 聖霊の声を聞くことができる恵みを受ける。(使徒行伝8:29、6:3-6)
(3) 福音に渇きを感じる人を探して機会を逃さない。(使徒行伝8:27-29、8:40)
(4) 聖書の全ての部分がイエス様を意味することを知って聖書を解釈する。(使徒行伝8:30-35、ヨハネ福音書5:39)
(5) 救いの確信についてはっきりと教える。(使徒行伝8:35-38, Ⅰヨハネ5:12-13)
[Ⅰヨハネ5:12-13]「12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」
(6) 聖書の聖句から始めて、イエスのことを宣べ伝える。(使徒行伝8:35、8:5-8、12-13)
(7) 一人でも福音の前に立つことができるように祈り続ける。(ルカ福音書22:31-32、エペソ書3:16-21)
[ルカ福音書22:31-32]「31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
(8) 聖書勉強と礼拝を捧げることができる場所に導いてくれる。(使徒行伝8:30-35)
(9) 他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねる。(Ⅱテモテ2:2)
[Ⅱテモテ2:2]「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」
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+ 伝道(Preaching)とは、福音を宣べ伝えること、福音を宣言することを意味する(マタイ福音書11:1、ルカ福音書4:44)。イエスの証人となって伝える」という意味を持つギリシャ語の「ユアンゲリゾ」(Ευαγγγελίζω)は、もともと結婚の知らせを伝えたり、あるいは戦争の勝利の知らせを伝えるときに使われた言葉だった。それが新約聖書の著者たちによって、イエス・キリストの良い知らせを伝える自分たちの活動を表す言葉として使われたのだ。