神のあわれみのゆえに
- ペトロ第一1:3-4 -
シャローム宣教会
[ペトロ第一1:3-4] 「3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」
*****
+ あわれみ:旧約聖書 81回+新約聖書 49回 =130回
*[創世記 19:16] しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。― 主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。
- 19:1.そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。
*ルカ福音書1:26~55
[ルカ福音書1:47~50, 54-55]「47.「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48.身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、49.力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊くtōtoku、50.その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。… 「54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。55 私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」
[ルカによる福音書 1:50] そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
[ルカによる福音書 1:54] 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
[ルカによる福音書 1:58] 近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜んだ。
[ルカによる福音書 1:72] 主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、
[ルカによる福音書 1:78] これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所から我らを訪れ、
*[マタイによる福音書 5:7] あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
*ルカは「あわれみ」と訳される「エレオス」ελεος[慈悲(jihi)/자비]という名詞をルカ福音書1章の中に、マリヤの賛歌に2回(1:50/1:54)とザカリヤの賛歌に3回も使っています。「エレオス」ελεοςは新約聖書では27回、ルカは6回使っています。ちなみに、動詞の「エレイオー」ελεέωは新約聖書で29回、ルカは4回(16:24/17:13/18:38, 39)使っています。
*もう1箇所のルカ福音書10:37では、イエスが良きサマリヤ人のたとえ話をした後に、イエスが「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」との質問に答えた律法の専門家が、「その人にあわれみをかけてやった人です。」と答えます。するとイエスは「あなたも行って同じようにしなさい。」と語ります。
ここでの「あわれみ」とは、強盗に襲われた人に対して実際に介抱することを意味しています。このように、あわれみとは、単に同情することではなく、行動が伴うことを意味しています。
1. 「あわれみ」と「恵み」(「カリス」χαρις)との違いは何か
*新約聖書では、「恵み」と「あわれみ」は密接な関係を持っています。英語では前者はgraceと訳され、後者は一般にmercyと訳されます。
その意味は、どのように違うのでしょうか。聖書の中にはその意味をはっきりと説明している箇所はありませんが、動詞で「あわれんでください」とイエスに嘆願しているところでは、必ず、具体的な神の行為が促されています。
*たとえば、ルカ17:11以降で、10人のツアラートがイエスに「あわれんでください」と声を張り上げて嘆願したとき、それがいやされる奇蹟が起きています。
次章の18:35に登場するある盲人がイエスに「私をあわれんでください」と大声で叫び立てた時、イエスは「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられ、「目が見えるようになることです」と言うと、そのとおりになります。つまり、主のあわれみがなされたのです。
*神の目に見える具体的なあわれみのわざによって現わされた神の好意、愛顧が「恵み」カリスχαριςと言われるものです。
「恵み」は神のあわれみの出所、あるいは本源とも言える神の動機を意味することばです。恵みがあって、あわれみがあるのですが、人間は、具体的な神のあわれみを経験することで、神の恵みを知ることができるのです。
*神のあわれみの究極はイエス・キリストを通して現わされた十字架と復活による救いの出来事です。それをもたらした背景には神の私たちに対する一方的な、見返りを求めない好意(愛顧)があるのです。「恵み」は、「愛」アガペーαγαπηとほとんど同義です。神の恵みも神の愛も交換可能な語彙と言えます。
[マタイ福音書4:10~11]「10.イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」 11.すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」
[ペテロの第一1:3]「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」
[ペテロの第一2:10]「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」
2. 「恵み」と「あわれみ」と「平安」のかかわり(パウロの挨拶から)
*パウロが手紙の挨拶として最も多く使っているのは、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように」というパターン(ローマ、コリント、ガラテヤ、エペソ、ピリピ、コロサイ、テサロニケ、テトス、ピレモン)です。ペテロもその手紙で同じくそのパターンを使っています。
ところが、テモテの手紙では、パウロは明確に意識しながら、愛弟子のテモテに対して「恵みとあわれみと平安がありますように」と記しています。それはテモテが牧会的な務めに対してある弱さを感じていたためで、パウロは自分のことを例に出しながら、自分も本来はそんな務めなど与えられるはずのない者、これ以上の罪人はいないと思われても仕方のない者であったにもかかわらず、神はそんな自分を赦してくださっただけでなく、期待して福音の務めをゆだてくださったことを証しています。主のあわれみのゆえに、今、自分がこのような務めをしていることを述べてテモテを励ましているのです。
*パウロは神の恵みだけでは足りずに、自分の身に実際になされた神のあわれみを深く思い起こしながら、愛弟子を励ましているのです。それゆえに「恵みとあわれみと平安がありますように」と挨拶しているのです。
*「恵みとあわれみと平安」とのかかわりを以下のように理解しています。
「恵みとあわれみと平安」との関係:「恵み」は神の私たちに対する一方的な好意、動機を表わすもの。「あわれみ」は、神の「恵み」が具体的、実際的な行動としてあらわされた出来事。そして「平安」はヘブル的色彩が強いシャロームから来ているもので、神の祝福の総称を意味するものと考えます。
これらの三つは常に循環しているものです。神の側では「恵み」から出発して、「あわれみ」の行為をなし、「平安」(「平和」も同じ原語)という神のすべての祝福を与えられるのですが、人間側から言うならば、「あわれみ」と「平安」を経験して、はじめて神の「恵み」をより深く知っていくという順になります。あるいは、神の「恵み」を信じることによって、神に大胆に「あわれみ」を乞うことができますし、その結果、神のあわれみと祝福を経験することもできるのです。
*使徒パウロは、自分の弱さを覚えて、自分の「とげ」が取り去られるように主に祈ったことがあります。盲人が主に「わたしをあわれんでください」と叫んだように、パウロも同じような心境だったと思います。ところが、その祈りは聞かれませんでした。そのときの主の答えはこうです。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」(コリント第二12:9)というものでした。
*****
*「恵み」は私たちに対する神の愛の根源ですが、その具体的な現われとしての「あわれみ」は、私たちが願っているような形ではなく、「弱さの中に現われる」ということです。このことを知ったパウロは次のように告白しました。
[コリント第二12:9]「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」